2024年12月18日水曜日

「今、ここ」を生きること

 こうして、<「今、ここ」を生きること。食べるときは食べる、寝るときは寝る。禅の日常とは、そういうものです>(注)。そして、<「今、ここ」のなかに自分を放り込んで、今やるべきことをやっていれば、気持ちが落ち着くし、力が湧いてきます>()。全くその通りです。

(注)ああだこうだと思い悩まず、「今、ここ」を生きること。食べるときは食べる、寝るときは寝る。禅の日常とは、そういうものです明日のことを心配して寝付けなかったりするけれど。でも、「今、ここ」のなかに自分を放り込んで、今やるべきことをやっていれば、気持ちが落ち着くし、力が湧いてきます。

2024年12月17日火曜日

日本国家再興の第一歩

 日本国再興の第一歩は、「どうしても、この民主戦線派が勝利を得なければならない。そして、議会において多数を占め政権を握らなければならない。そうしなければ日本は救われない。国民は幸福になれない。全国民はこの民主戦線に参加し、民主戦線の勝利のために闘う義務がある」(注)。この輝かしい第一歩を歩み出すことはかないませんでした。 残念です。

 (注)今度の衆議院議員の総選挙には、どうしても、この民主戦線派が勝利を得なければならない。そして、議会において多数を占め政権を握らなければならない。そうしなければ日本は救われない。国民は幸福になれない。全国民はこの民主戦線に参加し、民主戦線の勝利のために闘う義務がある。 民主戦線の実現 ―― これこそが新日本建設、日本国家再興の第一歩である。(『日本はどうなるか』、伴野文三郎著、海洋社、1946年、p7 、「現代かな」に変換」)

2024年12月16日月曜日

健康への道

 運動が健康体にとって欠かせないことは、「健康への道」に、その答えの一つが示されています。残念ながら、竹井さんのような腹筋運動は、まだできません。難しいのは「呼吸法を組み合わせ、上体を起こしたときに一呼吸し、あお向けになったときに呼吸をとめ、とめたままで上体を起こ」(注)す動作がなかなかできないのです。どうも、呼吸と筋力をセットで行うのが味噌のようです。

(注)私はどうしているかというと、あお向けに寝て、足に一枚ざぶとんをのせ、それから上体を起とすという腹筋の運動を、毎日五十回ぐらいやっています。これに呼吸法を組み合わせ、上体を起こしたときに一呼吸し、あお向けになったときに呼吸をとめ、とめたままで上体を起こします。これをやると腹筋は強くなるので、いつでも便が出て、便秘の不快さを感ずることはありません。
 腕立て伏せも欠かしません。十回やって三分休むというかたちで、十五分くらいやります。腕立て伏せをやると、見る見る胸の筋肉がついてきます。休日には必ずトレーニングウェアを着て、2キロはジョギングをやっています。(『大本と私の宗教観』、竹井博友著、竹井出版、1984年、p105)

2024年12月15日日曜日

図解抜き理解は一面的!

 脳には右脳と左脳が存在しています。しかし、その両者をバランスよく使用することは、脳全体を活用することになり、脳の健全な発達を促すことになります。 しかし、文学にしろ、科学の世界にしろ、文字情報が多くなってしまいます。
 ここで気づいたことがあります。文字情報にも、単なる文字情報(左脳)だけでなく、文字情報を通してイメージを形成していたことです。こうしてできたイメージは、左脳によるものなのか、右脳によるものなのか、ハッキリしません。
 ここで、図解のパターンを加わえることで明らかに新たなメッセージが加わりました。例えば、憲法の三原則を文字だけで表現した場合と、それらを図解した場合を考えてみると、両者にハッキリした違いが見られます。それは、図解による構造が明確になることです。やはり、図解思考は、新たな地平線を生み出すようです。

2024年12月14日土曜日

国が亡べば国体も、また亡びる

 日本の戦後改革は革命だったのか、それとも、「国体は護持」されたのか、諸説があって定説はありません。しかし、国体護持されるわけがない、と明確に否定した考えを初めて知りました。戦後は、<まったくの「無条件降伏」>(注)から始まりました。つまり、<無条件降伏して、国が亡んだのに、「国体」が「護持」されるわけはないではないか。国が亡べば、国体もまた亡びるわけである>(注)

(注)天皇陛下も、官僚政府も、自分の権威を失うまいとして、必死になっているために、降伏するに際して、「国体護持」ということが、条件になっていたかのように宣伝しているのであるが、それもデマである。そんな条件などはありはしなかった。まったくの「無条件降伏」である。無条件降伏して、国が亡んだのに、「国体」が「護持」されるわけはないではないか。国が亡べば、国体もまた亡びるわけである。(『日本はどうなるか』、伴野文三郎著、海洋社、1946年、p3、「現代かな」に変換」)

2024年12月13日金曜日

大きな安らぎがもたらされる生活

 不眠に悩まされることが多くなって来ました。だからでしょうか。「日々、あらゆる生き物に対する深い思いやりの中で生活すれば、その人には大きな安らぎがもたらされるでしょう」(『原因と結果の法則 新訳』、角川文庫、ジェームズ・アレン著、山川紘矢・山川亜希子訳、KADOKAWA、2016年、p60)という言葉に癒されました。
 同じような言葉「あなたの家を明るく快適な場所とするためには、あなたの部屋に清浄な空気と太陽の光を自由に入れる必要があります。同様に、強い肉体と明るく穏やかで幸せな顔つきは、喜びと善意と穏やかな思いを心に十分に満たすことによってのみ、作ることができるのです」(上同、p58〜59)が、今の私には必要なようです。この中でも、「清浄な空気と太陽の光」が心に突き刺さって来ました。今まで無意識の中で避けていたことがハッキリと見えてきてしまったのです。

2024年12月12日木曜日

国民を戦争で殺さない国家をつくる

 憲法について、こんなわかりやすい解説を初めて知りました。「現実と憲法は大きくかけ離れます。でも、ズレが生じるのはむしろノーマルなことです。なぜなら、憲法は公権力の現実を理想に近づけるための道具だからです。だから、自衛隊は違憲だからコツコツ縮小する努力をして無くそう、戦争しなくてすむだけの外交力を身につけよう、世界に向けて殺し合いの準備はお互いやめようと言える日本にしよう、と粘り強く主張するしかありません」(注)。そうなのです。「政府の行為によって国民を戦争で殺さない国家をつくるのだと憲法は命じてい」(注)ます。こうした憲法に背を向けて、その上、隣国に武力を突きつけて平和を訴えても説得力がなかったのです。
 立憲主義とは、憲法が政府に対する命令書だったのです。そう思い直して憲法を読み直すと、カントの命題も、すんなりと入ってくることがわかりました。

(注)隣国に武力を突きつけて、「さあ、みんな戦争はやめましょう!」と説いても説得力がありません。だから、言葉通りに九条を解釈し、自衛戦争であろうと国際紛争を解決する手段として戦争をしてはいけない(第一項)、自衛隊は立派な陸海空軍であり、第二項に違反すると考えます。そうすることで、政府の行為によって国民を戦争で殺さない国家をつくるのだと憲法は命じています。
 国民の命を守るためには、政府は卓抜した外交力が求められるでしょう。しかし、現実にはそんな能力はありません。現実に自衛隊は存在しています。現実と憲法は大きくかけ離れます。でも、ズレが生じるのはむしろノーマルなことです。なぜなら、憲法は公権力の現実を理想に近づけるための道具だからです。だから、自衛隊は違憲だからコツコツ縮小する努力をして無くそう、戦争しなくてすむだけの外交力を身につけよう、世界に向けて殺し合いの準備はお互いやめようと言える日本にしよう、と粘り強く主張するしかありません。『僕らの憲法学 「使い方」教えます』、田村理著、ちくまプリマー新書、2008年、p138~139人

2024年12月11日水曜日

未知の高い存在に/栄光あれ

 ゲーテの詩「神性」(注2)を再発見し、そこに日本国憲法の未来を読み取ることができました。「人間よ けだかくあれ/慈悲ぶかく 善良であれ/われらが予感する/未知の高い存在に/栄光(さかえ)あれ/ただ人間のみが/不可能を可能にする/人間は 瞬間に/永遠を付与することができる・・・」。ゲーテは、ここに「独力で人間を創造するプロメーテウスを、力強く歌いあげたのであった。人間の創造的本性にしたがって、在来の神と対決し、自己の能力を無限に発展させる巨大な人間エネルギーが、ここで称えられているのである」(注1)まさにその通りです。

(注1)重荷をせおう人間の苦しみを軽くしてくれたことのない既存の神など、どうして崇められよう。若いゲーテがたよるのは、ただおのれ自身の力のみである。人間のゆるぎない独立を保証しうるものを求め、そのもっとも確実な基礎として、ゲーテは創造的才能を確認した。したがって、独力で人間を創造するプロメーテウスを、力強く歌いあげたのであった。人間の創造的本性にしたがって、在来の神と対決し、自己の能力を無限に発展させる巨大な人間エネルギーが、ここで称えられているのである。(井上正蔵著「ゲーテの詩と生活」『ゲーテ詩集』、井上正蔵訳、白凰社、1979年、p174)

(注2)神性

このことだけが
人間を
ほかのいっさいの
生物から区別する

われらが予感する
未知の高い存在に
栄光(さかえ)あれ
人間よ その存在にならえ
自分の実際のふるまいで
神の教えを証せ

永遠の峻厳な
大いなる法則にしたがい
われらはすべて
われらの存在の
環を完成しなければならぬ

ただ人間のみが
不可能を可能にする
人間は 識別し
選択し 判定する
人間は 瞬間に
永遠を付与することができる

けだかい人間よ
慈悲ぶかく 善良であれ
有益なもの 正しいものを
倦むことなく つくれ
あの  予感される存在の
生きうつしとなれ(『ゲーテ詩集』井上正蔵訳、白凰社、1979年、p66〜68からの抜粋)

重力波望遠鏡(KAGRA)への期待

 重力波はアインシュタインがその存在を予言しながら、その存在を実証するのは不可能であろうと発言していた、超難問の課題でした。しかし、その存在を実証した科学者がノーベル賞を受賞するなど、着実に成果を上げてきました。
 四番目の重力波望遠鏡として名乗りをあげ、その成果が期待されているKAGRAは、神岡鉱山に建設されて、世界からも注目されています。このような科学の最先端の成果を目の当たりにすると、戦争などによって破壊されては決してあってはならない、と心新たに願わずにはおれませんでした。


2024年12月10日火曜日

アジア近隣各国との友好こそ

 隣近所は仲良くしよう、この当たり前のことを外交路線の中心にしていけば間違いありません。そのことを後藤田正晴さんは20年も前に言及していました。「アメリカ一辺倒も結構だけれど、近くを忘れてしまって、敵にまわして本当にいいのだろうか。少し配慮が足りないのではないか。アジア近隣各国との友好こそが大事なことだ」(注)と。
 何よりも、ヨーロッパを見習えば、自ずと答えも明らかでした。違いは脇に置き、一致点を探って手を結ぶことを第一に考えていけばいいのです。この当たり前のことを目指せばいいのです。

(注)外交を計算のうえにも計算するというときには、地政学も大事な要素になる。地政学の面から見て、いったい今の近隣国外交というものでいいのかどうか。大事な地政学的な配慮を忘れて、近隣国外交に強硬策で対するばかりで、それで日本の外交は間違いがないのか。いま国民全体が保守化しつつあるが、それを背景に政治家がナショナリズムをあおり、強硬な態度をとれば間違いない、という空気がある。大変な間違いを犯している気がしてならない。
 地政学的に考えた場合、一番大事なのは中国、そして韓国、朝鮮半島との関係だ。アメリカ一辺倒も結構だけれど、近くを忘れてしまって、敵にまわして本当にいいのだろうか。少し配慮が足りないのではないか。アジア近隣各国との友好こそが大事なことだ。(後藤田正晴著、『リベラルからの反撃』、『論座』編集部編、朝日新聞社、2006年、p30)

2024年12月9日月曜日

”自分自身が兵隊になるという可能性”がはっきりする憲法9条改憲

 これまでも、”目から鱗”と思わされたことが何度かありました。「憲法9条を変える、自衛隊をはっきり軍隊として認めるということは、ある意味で、国民全員が兵隊になる可能性をはっきり認識するということ」(注)、「憲法9条が改正されたら自分自身が兵隊になるという可能性がはっきりするんだよと言いたい」(注)ということも、まさに”目から鱗”でした。「憲法9条の改正」に賛成の方でも、"自分自身が兵隊になるという可能性"を指摘されたら、「憲法9条の改正」に多くの人が反対するのではないでしょうか。

(注)憲法9条を変える、自衛隊をはっきり軍隊として認めるということは、ある意味で、国民全員が兵隊になる可能性をはっきり認識するということです。もし憲法9条を変えるなら、その前にそうした認識が広く共有されないといけない。しかし、人々は自衛官というのはほとんど警察官と同じある種の職業だと思っていて、あの24万人か何かの自衛官だけが兵隊になるのだと考えている。彼らが自衛隊だと言われているのはかわいそうだ、軍隊と呼んでやろうよなんて言っているが、憲法9条が改正されたら自分自身が兵隊になるという可能性がはっきりするんだよと言いたいのです。僕は、今の解釈ですら自衛を認めるんだったら当然、潜在的には全員が「自衛」することになるんだと思っています。(船曳建夫著、『リベラルからの反撃』、『論座』編集部編、朝日新聞社、2006年、p103)

2024年12月8日日曜日

自らの生活基盤を確立

 また眠れなかったことを友人に話したら、腹筋をしたり、庭の手入れをしたり、と結構体を使った生活をしてきたことを教えてくれませた。家庭内平和も大切ですが、まず自らの生活基盤を確立していくことの重要性を痛感しました。

2024年12月7日土曜日

先ずは”家庭内平和”を

 国家の安寧を願うならば、まずはその基礎に家庭の安寧がなければなりません、家庭における平和がなくて、どうして世界の平和を語れるでしょうか。自分の健康をまともに建設できないで、どうして世界の平和を建設できるというのでしょう。
 

2024年12月6日金曜日

日本国憲法の先見性について

 家永三郎さんの著書『歴史のなかの憲法 下』(東京大学出版会、1977年)に「日本国憲法の運命は日本国民と人類の運命につながる」という論文を見つけました。直感的に、素晴らしい論文で、優先的に読みたい論文に選んでしまいました。
 なぜか、日本国憲法は、国際的に最も先進的な文献であることに、いまだに変わりないからです。戦後80年近く経っているにもかかわらず、日本国憲法の先をいく憲法は現れていないからです。
 それでは、最も新しい点はなんでしょうか。徹底的な平和主義によって自衛権による戦争も否定され、そのことによって初めて成立した人権の発展、すなわち「平和的生存圏」の確立が挙げられます。しかも、一カ国の平和だけでなく、国際的な平和も追求されて、そうして初めて自国の平和も成立することを宣言していることです。
 家永三郎さんの論文が、以上に述べたことがどの程度反映されているか、読んでみなければわかりません。

2024年12月5日木曜日

深く長い呼吸を重視

 食事や水分は、多少は我慢できます。意識的に絶食することもあるくらいです。しかし、呼吸だけは、生きている限り休むわけにはいきません。その呼吸は、ほとんど無意識に行われており、普段は忘れています。その呼吸を意識化し。深い呼吸をするようにすることが、健康を維持していく上で、とても重要だったのです。その要点がコンパクトにまとめられていた(注)ので紹介します。

 (注)呼吸はいたずらに回数を増やせばいいというものでありません。やり方が大事です。その基不は、吸う息よりも吐く息が大事だということです。吐く息を強く、長くすることです。吐く息を強くすると丹田、下腹におのずから力が入り、そうすると元気や勇気が出、気持ちも落ち着いてきます
 泣いている時や悲しい時は、吸う息ばかり強くなって、しゃくりあげます。これでは丹田に力が入りません。反対に笑っている時には、吐く息が強くなっています。この点を意識して呼吸をすることが、健康の秘訣です
 呼吸は肺だけでやっているのではありません。胸、腹、背中、腰など六十からの呼吸筋全体が、伸びたり縮んだりして呼吸が行なわれるのです。だから深呼吸は、連鎖的に他の自律神経に刺激を与え、内臓全体を丈夫にする結果にもなるのです。歌を歌ったり、謡曲をうなったりすることが健康にいいのは、吐く息が長くなるからです。坊さんに長命が多いのは、お経を読むことで吐く息が長くなっているからです。
 深呼吸は精神神面にも有効です。禅が深く長い呼吸を重視しているのは精神統一のためです。呼吸を変えれば心の状態も変わります。静かに長い呼吸をすれば、自信がわいて積極的になります。だからこれから仕事をするという時には、深呼吸をやってみることです。
 1日のうちでいちぽん深い呼吸をするのは寝ているときです。快眠が健康の要素にあげられる理由です。寝ている時は無意識に深い呼吸になっていますから、その引き金になるように、寝入りばなに、意識的に深い呼吸をする習慣をつけることです。また起きている間、全精力を集中して仕事に打ち込んでいれば、いやでも深い呼吸の睡眠になります。鶏と卵の関係ということです。
 深呼吸法の要領は、鼻から吸って、二十秒ぐらい呼吸をとめ、つぎにゆっくり口から吐くことです。これを三回ほど繰り返すと、野生動物が走り回って餌を追い求めるのと同じほど効果があります。(『大本と私の宗教観』、竹井博友著、竹井出版、1984年、p102~103、強調は引用者)

2024年12月4日水曜日

戦争は絶対したらあかん

 大河ドラマアンコール『篤姫』の最終回を見ていて、<西郷さん初め多くの人が亡くなったけれど、「多くの人たちの”志”というものは無くならない。それらの”志”というものをものを後世に伝えていきたい」>という言葉が心に残りました。私も、不戦という”志”というものを伝えていきたいと思いました。今朝の新聞で紹介されていた「戦争の悲しさはずっと続く。戦争は絶対したらあかん」(注)も、その一つです。
 そして、米軍基地というもの、「若い女性が、進駐軍のジープで連れて行かれた」といった米軍の本質をしっかりと記憶にとどめてくれてありがとう、と思いました。こうした事例も忘れることなく、平和な日常が取り戻すまで、伝えていかなければならないと思います。

(注)小学1年生の時に見た光景は、今でも目に焼き付いて消せない。ある日、学校前の八百屋で買い物をしていた若い女性が、進駐軍のジープで連れて行かれた。「きゃーっ」と叫んでいるのに、誰も助けに行かへん。当時は何が起きたのかわからなかったけれど……何か恐ろしいことが起きているという雰囲気は子ども心に感じました。
 6月の雨の日には、担任だった男の先生が京阪電車に飛び込んで自殺されました。隣のクラスの先生が教室に入ってきて、わんわん泣きながら「亡くなった」と言わはる。戦前と戦後の思想のギャップに悩み、過去に自分が教えてきたことは間違っていたという罪の意識で苦しまれていたと後から聞きました。今も忘れられない二つの思い出です。戦争の悲しさはずっと続く。戦争は絶対したらあかん。(「(語る 人生の贈りもの)森口邦彦:3 戦争はあかん、消えぬ小1の悲しみ」『朝日新聞』、2024年12月4日)

2024年12月3日火曜日

アメリカのyes-manは卒業を

 今朝のニュース記事「トランプ氏、親族の起用次々 次女の義父→中東担当顧問 長女の義父→フランス大使」(『朝日新聞』、2024年12月3日)によれば、「トランプ次期米大統領は1日、中東担当の上級顧問に、レバノン系米国人の実業家、マサド・ブーロス氏を起用すると発表した。同氏はトランプ氏の次女ティファニー氏の義父。トランプ氏は長女イバンカ氏の義父をフランス大使に指名したばかりで、要職への親族の起用が相次いでいる」と報じています。これほど、あからさまな人事があるでしょうか。
 そんなことを考えていたら、池上彰さんが6年も前に、トランプ氏のトランプファーストを見抜き、「トランプ大統領は国益を考えているわけじゃなく、考えているのは、トランプ益(笑)。アメリカファーストではなくトランプファーストなんです」(池上彰著、「池上彰×増田ユリヤの白熱教室」『プレジデント』、2018年6月18日、p21)と発言していました。それでも、日本はアメリカのイエスマンに成り下がり続けるのでしょうか。もうアメリカのイエスマンは卒業し、そろそろ自主外交を貫ける力を持ってほしいです。未来社会に軍事基地は必要ないからです。

2024年12月2日月曜日

副作用が一切ない薬

 インフルエンザはバカにできない。こんなにも苦しかったのなら、やはり予防接種を受けておきべきだったと思ってしまいました。しかし、発熱外来で初めて受診拒否され、二箇所目で次の日の予約となりました。しかも、受診日は院内に入れず、車中で待機、スマホで医師からの説明があり、会計も、薬の処方も車中で済ませることができました。これが進んだ医療の現実か、と心寂しく感じてしまいました。
 運動が良いという『運動脳』のことを思い出した。「運動は、副作用が一切ない薬だ。少しだけ気持ちが滅入っている人でも、深い苦悩抱えている人でも、たいていは運動をすれば晴れやかな気分になれるのである」(『運動脳』、p169)を読み返したら「これだ。これが救いだ」というメモが添えられていました。インフルエンザの苦しみから抜け出せたら、この苦しみを薬に、継続的な運動に励みたいです。

2024年12月1日日曜日

歪められた生活

 インフルエンザAに感染してしまいました。辛いです。改めて「利用して日常の生活を少しでも豊かに楽しくなるような工夫」(注)の大切さを痛感しました。戦前の生活を”歪められた生活”(注)と一言で言い表していたことも、感心してしまいました。ところで、今の日本は、”歪められた生活”から脱却したと言えるでしょうか。どんどん生活が歪めれれてきていると思うのは、私だけでしょうか。

 (注)歪められた生活から、私達はお互い自己の生活を取りもどして生きる事の出來る時代が来ました。私達の周囲には未だ荒凉とした焼け跡が取り巻いてるます。然し、希望を胸一杯にたたえて明日への生活設計を以て此の荒野を愛情におおわれた町にしたいものです。さしあたって手近に、私達は私達の周囲から出発しましょう。どんな小さなものでも、私達の周囲にあるものを見なおして、それを工夫し、利用して日常の生活を少しでも豊かに楽しくなるような工夫を絶えず続けて行きましょう。高井貞二著「生活を楽しく」『令女界』、宝文館、1946年5月

2024年11月30日土曜日

面白みを見出すまでやってみる

 武者小路が書いていた「思うようにやすやすとかけたら、努力も勉強もする必要がなく、反って面白くないと思う。なかなか思うようにかけないところに反って面白味を見出す」(注)という言葉は、全てに言えることです。しかし、なかなか思うように行かないと、努力は勉強をして面白味を見出す前に、諦めてしまう人が多いように思います。かくゆう私も、そういう傾向にあるようです。ピアノも何度か挑戦しても、途中で辞めてしまったし、英語も続きません。これというのも、努力も勉強も足りなかっただけだったのです。面白みを見出すまでやってみたいと思った次第です。

(注)目に見えるものは熱心に勉強すればかけるものと思う。しかしそれがなかなか思うようにかけない。思うようにかけないので、なおかきたくなる。思うようにやすやすとかけたら、努力も勉強もする必要がなく、反って面白くないと思う。なかなか思うようにかけないところに反って面白味を見出す。
 無論、いくらかいてもかける望みがなかったら、それは面白いとはゆかないだろう。進歩する望みがあるので楽しみがあるわけである。(武者小路実篤著「画をかく楽しみ」『令女界』、宝文館、1946年5月、p6~7)

2024年11月29日金曜日

80路の坂

 妻が寝込んで3日になります。初めはマスクをしたものの、油断してマスクをしなかったし、感染を受ける注意も怠ってしまいましたそして、感染して自分も発熱してしまいました。こうなると、他のことは関心が薄れていまい、自分の体とどう向き合いけばいいか、ばかりが気になってしまいます。80路の坂を意識してしまうこの頃です。

2024年11月28日木曜日

戦争の愚を語り続けよう

 中国の戦国時代に、「武力征覇の無駄を説き、・・・武器を捨てよう、さもないと中国そのものが滅びることになる、と」 (注)訴えて歩いた思想家”墨子”がいました。日本国憲法の精神そのものですが、ますます、”墨子”思想の意義が増すばかりです。なぜなら、<「歪んだ従属関係であるサンフランシスコ・システムから脱却すること」を目指しながら「極端な不平等条約だけは、さすがに改正させてほしい」と、「アメリカの大統領や国務長官に対して」交渉すること> (注2)で止まっているからです。米軍基地の存在そのものに言及しておらず、矢部宏治氏の思想は”墨子”の足元にも及ばないのです。(『知ってはいけない 2』で、軍事力そのものに言及している可能性もあるので、その時は訂正します。でも予想では期待うすしです)

(注1)その時代に「武力征覇の無駄を説き、戦争の空しさを強調し、平和の尊さをたたえ、その実現のために一所懸命の努力をする。走り回る。武器を捨てよう、さもないと中国そのものが滅びることになる、と」訴えて歩いたというのである。半藤さんはこの書の中で、単に墨子を紹介するのではなく、墨子を語ることによって、近代日本史を語り、戦争の愚を語り続けている。(『週刊文春』、2021年5月6・13日号、p180)

 (注2)あとは、いつになるかわかりませんが、きちんとした政権をつくって日本国内の既得権益層(いわゆる「安保村」の面々)を退場させ、アメリカの大統領や国務長官に対して、
 「現在の日米関係は、朝鮮戦争の混乱のなかでできた、あきらかに違法な条約や協定にもとづくものです。こうした極端な不平等条約だけは、さすがに改正させてほしい」
 といって交渉すればいいだけです。
 なにしろ日本人の人権は、アメリカのコウモリや遺跡よりも、米軍から圧倒的に低く扱われているのです(第六章)。真正面からその事実を示して堂々と交渉すれば、
「いや、それは今後も続ける」
 といえる大統領も国務長官も、さすがにいないでししょう
 日本人が、この歪んだ従属関係であるサンフランシスコ・システムから脱却することは、日本はもちろん世界の歴史にとっても、非常に大きなプラスをもたらすととになるのです。(『知ってはいけない 1』、矢部宏治著、講談社、2017年、p253)

2024年11月27日水曜日

身につける学び

 新聞の連載小説を読んでいて、これこそ”真理的な飢え”そのもの!と感心した少年の姿に出会いました。読んでいて、少年の渇望と向学心が痛いほど伝わってきたのです。それは、次のような隼人のことです。

 またも声を潤ませた信乃を瞬きをせずに見つめ、「わたしは何があろうとも、傷つきはいたしません。人を怨みもいたしません」と、隼人はひと言ひと言噛み締めるように告げた。
「学べることがどれだけわずかであろうとも、誰かからどれほど手厳しい裏切りを受けようとも、何も得られず、誰とも関わらぬことに比れば、よっぽどましです。姉上が世のお人をお嫌いになるのであれば、わたしがその分、人と交わり、学べる限りを学んでまいります。(澤田瞳子著、連載小説「春かずら」『福島民報』、2024年11月27日)

 私は、隼人の心意気を知って、自らの勉強ぶりを恥じました。学びの環境に恵まれているからこそ、飽食気味になってしまっていたことに気づいたからです。もっと身につける学びというものを意識すべきであることに気づいたのです。隼人に負けるな!です。

2024年11月26日火曜日

幸福になるための確実な手段

 だいぶ前に「幸福の条件」(注1)という文章を書いていて、「善を行うこと、ただそれだけが、幸福になるための唯一の確実な手段である」とか「われわれは、隣人への奉仕のなかにのみ幸福を発見する」というトルストイの言葉を紹介していました。しかし、「実戦を通して、この真理を体感」したいと思ったのに、体感するまでには行きませんでした。そして、本田健さんの言葉(注2)に出あいました。「今与えたものは、いつかあなたが受け取るものです。さて、あなたは、人に何を与えられるでしょう」といって、与えることを勧めていたのです。トルストイの言葉に通じることだと思い、トルストイの言葉の真理性を再認識することができました

 (注2)相手の役に立ちそうな情報や人脈があれば、喜んでシェアしましょう。また、相手の話や悩みをじっくり聞く、手があいたときは仕事を手伝うなど、自分の時間や労力を惜しまず差し出しましょう。「与える」ことがあなたの人間力を磨き、味方を増やしていくのです。反対に、嫉妬やグチ、「どうせできっこない」などの否定的な言動が多いのは、相手のやる気を「奪う」人。やがて孤立していくのも仕方ないかもしれません。
「自分はまだ経験も浅く、与えるものは何もない」と考える若い人もいるでしょう。しかし、上司や先輩のなかには、新人を育てることを喜びとする人もいます。素直に「教えてください」と相手を頼るのもまた、与えることになるのです。今与えたものは、いつかあなたが受け取るものです。さて、あなたは、人に何を与えられるでしょう? (本田健著:「周囲から応援される人」になるには:『プレジデント』、2018.5.14)

幸福の条件
 (注1)本当の幸せは何か、それは、愛されることではなく、愛する人が身近にいるということではないだろうか。同じように、庭とか家などの愛すべき対象があってもいい。庭に草が生い茂っていたり、家の中が乱雑になっているということは、考えようによっては、庭や家に対する愛情が足りないからといってよいのである。
 同じことをやるにしても、やらなければならないよりも、やりたい、やりたいよりも、やってあげたい、その方が気持ちよくやれる。トルストイ名言集に「善を行うこと、ただそれだけが、幸福になるための唯一の確実な手段である」とか「われわれは、隣人への奉仕のなかにのみ幸福を発見する」という言葉がある。この真理に、ようやく気づいたのかもしれない。後は、実戦を通して、この真理を体感することである。2009年05月12日火曜日

2024年11月25日月曜日

非人間的労働の最たるもの

 資本主義のなにが問題なのかについて、これまで、<「商品の”物象化”」こそが、資本論の核心部分であり、資本主義社会の、そして現代社会の問題の核心である>(「100分de名著 マルクス“資本論”」より)と思ってきました。しかし、資本主義社会における”価値増殖”という言葉にであって、”価値増殖”という運動法則の結果として、「商品の”物象化”」をもたらすのではないか、と思うようになりました。
 それだけではありません。”価値増殖”というものは、本来なら「創造性や自己実現の契機」となるはずの労働が、労働の疎外といういう概念を通してとなってしまうのです。ひょっとすると、”価値増殖”がもたらす「非人間的労働の最たるもの」こそ、兵士なのかも知れません。だとしたら、資本論の解明抜きに戦争問題の解明はできないことになってしまいます。
 労働の疎外について考える際は、マルクスの『
ゴータ綱領批判 (岩波文庫) が欠かせません。そこに「労働そのものが第一の生命欲求」になると書かれているらしいからです。魅力的な言葉です。資本論については、まずはマルクスやエンゲルスのよる『資本論』紹介論文を読むことから始めてみたいです。斎藤幸平による資本論解説も参照したいです。果たして私の仮説は、どうなっているのでしょうか?

2024年11月24日日曜日

日常の幸せの第一歩

 失って、初めて知る、ありがたさかな、不眠の苦しみを味わって痛感した日常のありふれたことのありがたさです。「人間を豊かに(注1)」も、「何事も人生修行(注2)」も大事ですが、その基礎に「日常の幸せ(注3)」があるということに気づきました。日常の幸せをないがしろにしてきたから、不眠になんかなってしまったのです。こうして書いている机の上も、乱雑に物が置いてあって、これでは心も休まらなかったに違いありません。良い薬になりました。

(注1)人間を豊かに
 人生の目的は何だろう。良く言われることに、夢(目標)を持ち、その夢に向かって、その実現を目指すことがある。宝地図を作る、手帳を使う、マインドマップを使う、など、ちまたに氾濫している成功法則なるものは、その形こそ違うにせよ、夢の実現を目指すことに関しては、皆同じである。しかし、これだけでは片手落ちであることに気づいた。いずれの場合も、人間を磨くという観点が抜けているのである。
 もしかしたら、人間を磨き、心を豊かにすること、このことは、夢を実現すること以前の問題で、人生の大目的ではないだろうか。つまり、夢の実現などは、人間を豊かにする手段でしかないのではないだろうか。そんな気がしてきた。戦争はなぜなくならないか、この問題も、一人一人の心の問題に行き着くような気がする。自殺者が減らない、社会不安をかかえている人が多い、病気も減らない、こうした社会問題も、心豊かな人が増えることで解決するに違いない。
 それでは、どうすればいいのか。先ずは良書を読むことである。「若さを失わないためにも、また、自己というものをどこまでも伸ばしていくためにも、自己の人生というものを豊かにする、深くするためにも、これは最も必要なことで、絶えず読書をする」(『運命を創る』、安岡正篤著、プレジデント社、p197~8)のである。
 また、身の回りの掃除をする、整理整頓をするのも大切ではないだろうか。確か、「掃除力」という言葉を作って、掃除の持つ力の大きさを説いた本もあった。確かに、掃除をすると気持ちが良くなる。夢や理想を持って、その実現を目指すことも大切である。人間は、絶えず進歩する動物だからである。2009年06月12日金曜日 

(注2)何事も人生修行
 吉川英治の『宮本武蔵』を再読している。そして、宮本武蔵の「人間を磨くという志」に魅かれていたことを再認識できた。しおりが挟まれていたメージの次のような言葉が教えてくれた。
「生まれ出たこの世において、どこまで自分というものを磨き上げられるか、それを完成してみないうちには、この生命をむざと落としてしまいたくないのである」(p101)。
<孤剣!
 たのむはただこの一腰。
 武蔵は手をやった。
「これに生きよう! これを魂と見て、常に磨き、どこまで人間として高めうるかやってみよう。 沢庵は禅で行っている。自分は剣を道とし、彼の上にまで超えねばならぬ」
 と、そう思った。>(p110)。
 今の自分には、武蔵にとっての剣に相当するものはない。しかし、「人生においてはすべてが師なり」というような言葉があるように、民生の仕事も、町内会長の仕事も、日々の読書も、武蔵にとっての剣にすることができる。そう思っただけで身が引き締まる。何事も人生修行だ。これからは、人間を磨くことを目標に生きていこう。2011年05月24日

(注3)日常の幸せ
 久しぶりに、家を出るときに部屋を整理して見た。こたつの上もきちんと整理されて、畳の上には余計なものが置かれていない。そんな部屋から出るとき、それだけで気持ちが良かった。何度か、そんな状態を維持しようとしながら、いつの間にか、こたつの上も、畳の上も、乱雑になってしまっていたのである。そう言えば、流し台も、最近乱雑になってきた。玄関と一緒に、ここもきちんとしようとしていたはずなのに。
 今日帰ったら、流しもちゃんと掃除をしよう。玄関の掃除もしよう。身の回りを掃除することで、心の掃除もできるという。このことを思い出しながら、流し台も、玄関も、きれいに掃除をしよう。今まで、出かけるときだけ、きちんと見直そうとしたが、寝る前にも見直して、身の回りをきれいにしてから寝るようにしよう。 
 どこに幸せがあるのか。旅行や、何かの行事といった非日常にあるのか、それとも、ささやかな日常にあるのか、そのどちらかである。子供たちにとっては、運動会とか、修学旅行といった非日常が楽しみである。大人だって同じである。それはそれでいい。しかし、日常に幸せがなかったら、つまらない人生かも知れない。人生のほとんどが日常だからである。身の回りをきれいにし、気持ちの良い状態に維持して行くことは、日常の幸せの第一歩かも知れない。(2017年6月11日)

2024年11月23日土曜日

日本の選択すべき道

 日曜美術館「柚木沙弥郎101年の旅」(2024年11月17日放送)で紹介された言葉「発見のかけらを集めて75年、アイデアが記されたスクラップブックは80冊」に触発されて、これはと思って書き抜いた(切り取った)文章も”発見のかけら”ではないか、という思いが湧きました。
 例えば、「日本の選択すべき道」(注)という文章も”発見のかけら”です。だいぶ前の文章ですが、決して古くなっていません。それどころか、「憲法の理念にたった独自の立場を強め、回復し、豊かな経済力と高級技術をバックに、世界中と、なかんずく第三世界と「共栄共苦、平等互恵」の立場にたって、経済・技術援助と交流、学術・文化援助と交流を強めることであり、核軍縮への努力の先頭にたつとともに、世界の全民族が政治的、経済的にも対等視される新国際秩序の建設であるべき」という主張は、ますます重要性が増していると言えるでしょう。
 そして「日本が、非同盟・中立への道を選択するならば、"日本から世界はかわる"といっても過言ではないほど、世界の流れは大きく転換するだろう」という主張も、胸襟を開いて耳を傾けるべきです。この方向こそ、日本国憲法のめざす道です。

 (注)三六年前には「崇高な理想と目的」とされたことが、いまでは全世界の民衆によって、いや非同盟諸国をはじめ世界の大多数の国ぐにによって、いかに力強く主張されていることか。しかも、その目的達成のために、先進国優位の現在の国際秩序にかわって、新しい国際秩序をつくりだそうとする努力が、国連その他の場で、ねばり強くなされつつあるのが現在の世界の状況である。
 この世界の現実をふまえて、日本が選択すべき道は、軍事力増強、軍事分担拡大による、米ソの世界管理体制のアメリカ部分の一部を補強するようなものであってはならないのである。
 日本のとるべき道は、憲法の理念にたった独自の立場を強め、回復し、豊かな経済力と高級技術をバックに、世界中と、なかんずく第三世界と「共栄共苦、平等互恵」の立場にたって、経済・技術援助と交流、学術・文化援助と交流を強めることであり、核軍縮への努力の先頭にたつとともに、世界の全民族が政治的、経済的にも対等視される新国際秩序の建設であるべきである。
 これこそが自由と民主主義の世界づくりへの道であり、このような日本は、米ソにも独自の大きな影響力を発揮しうるのである。
 さらに日本が、非同盟・中立への道を選択するならば、"日本から世界はかわる"といっても過言ではないほど、世界の流れは大きく転換するだろう。(『自衛隊 : その実態と軍事大国化とは 増補版 』、林茂夫・松尾高志著、東研出版、1987年、p202~203

2024年11月22日金曜日

勉強とは何か

 高校までの学習は基本的な知識を取得するための「お勉強」であって、その中身は「各学問分野でこれまでに解明されてきたことです。それに対して、「大学での学び、学問で大切なことは、未知の事柄、まだされていないことを探究することなのです。学問では、明確な問題意識を持ち、自らの問いをたて、それを解明することが求められます」(『大学での学び方』、東谷護著、勁草書房、2007年、p4)。
 このような考えに対し、「私たちは、研究室や学校や机の前での勉強ももちろん大切なものであることを忘れてはなりませんが、同時にそれ以外のあらゆる場所での勉強心というものをもっと強めなければならないと言うことを私は考えるのです。道を歩いていても、人にあっても娯楽にふけっているとこでも人生に対して、ほんとうにつよい関心を、たえず胸に燃やしているならば、私たちは自然に心に動いてくる興味に刺激されて、あらゆるものの中から自分の問題を発見することができます。そしてその発見した問題に対して、決して無精せず、ほんとうに忠実である、それが勉強ということであります」(古谷綱武著「勉強の魅力」『令女界』、1946年、宝文館、p16)。その一つの例として、文字を書いていて、ちょっとあやふやな言葉に出会ったら、不精して、よく調べもしないでごまかしてしまうこと取り上げて、「たとえいかに小さなことであっても、自分のめぐりあった疑問を、決してそまつに扱わないこと」が大切で、「心にわいた疑問と問題とに、常に忠実であること、それが勉強のこころです」(上同、p17)と結んでいました。
 そういえば、博物館にあった「白亜紀の巨大アンモナイト」は何度か目にしていたのに、今回に限って、”白亜紀”って地球の歴史のどの辺のこと? 巨大な恐竜の生きた時代も、”白亜紀”だったの?といった疑問だ生じました。早速調べて、巨大アンモナイトと恐竜が同時代に生きていたことがわかりました。巨大アンモナイトが生きていた白亜紀は、中生代最後の紀で、今から約一億四三〇〇万年前から約六五〇〇万年前までのおよそ七八〇〇万年間のことでした。それに対して恐竜は、約二億年前から約六六〇〇万年前まで繁栄したそうです。白亜紀の末期には世界的に海退があり,動物界は激変した」そうです。この辺に恐竜を絶滅させるほどの激変があったのでしょう。これが”勉強”なのか、と実感した次第です。

2024年11月21日木曜日

安保は諸悪の根源

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題は混迷を深めています。これというのも、その根底に、日米安全保障条約と日米地位協定が存在しているからです。首都圏に米軍の膨大な軍事基地」が存在していることも、問題にされることもありません。どうして、これだけ屈辱的なことが問題にもならないのはどうしてか、ずっと疑問のままでした。その疑問だ解けました。 
 同じ情報に繰り返し接していると、それがだんだんと真実に思えてくる「真理の錯誤効果」と呼ばれる脳の働きがあるそうです(注)。ですから、日本には日米安全保障条約がなくてはならないもの、と繰り返し報道されてきた結果、そういうものと、思わされてきてしまったわけです。「情報が実際はウソであっても関係ない。頭の中で無意識に進む、やっかいな現象」(注)だということが気になります。
 私は常々「安保は諸悪の根源」と思ってきました。どうすれば、このことが分かってもらえるか、それがわかりません。今のところ、機会あるごとに、真の独立の必要性を語っていくだけです。

(注)同じ情報に繰り返し接していると、それがだんだんと真実に思えてくる。「真理の錯誤効果」と呼ばれる脳の働きだ。人間が抱えているさまざまな認知バイアス(偏り)の一つで、情報が実際はウソであっても関係ない。頭の中で無意識に進む、やっかいな現象である。(「春秋」『日本経済新聞』、2024年11月21日)

2024年11月20日水曜日

心をこめて筆を運ぶ

 習字の練習は、単に上手な字を書く技法を身につけることだけが目的でなく、「精神力の抑制」を鍛えることも目的だったのです。だから、書道とも言われ、華道、茶道、柔道、剣道といった日本文化の一端でもあったのです。
 雑誌『プレジデント』連載「齋藤孝の人生がうまくいく『古典の名言』」(2024年3月15日)の中で、杉本鉞子の言葉「一点、一劃にも心を落ち着けて正確に筆をはこば負ければなりません。このように心をこめて筆を運ぶことを通して、私共、子供は心を制御することを学ぶのでございます」(『武士の娘』より)を紹介しています。この言葉を受けて、「心の乱れや不注意は、すぐ筆先に現れるので、丁寧に文字を書く練習を積むことが、おのずと心を安定させる練習になるわけです」(『プレジデント』、p87)と解説されていました。
 ここまで書きながら、音読でも、丁寧に音読する練習を重ねていけば、習字と同じような心を安定させる練習になるかも知れない。ピアノの練習だって、心を安定させる練習になるかも知れない。そう思いました。とりあえず、音読はすぐできるので、今日から始めてみたいと思います。

2024年11月19日火曜日

気づきの喜び

 昔、「気づきの喜び」(注)という短文を書いていました。それを読み返し、この「気づき(発見)の喜び」が、これまでの読書生活を支えていたことを改めて確認することができました。しかも、文章の発見だけでなく、素晴らしい著書や著者の発見も、読書の楽しみになってきました。例えば、「フランクルのことを調べていて、フランクルと同い年で、病弱で悩みがちで、フランクルを読み込んでいたという正木正さんのことを知り、その関係で、『心の糧 (角川文庫)』(ヒルテイ編、正木正訳、角川書店、1956年)の存在を知りました」(「人は言葉を求め言葉に救われる」より)
 ヒルテイには『悩みと愛と幸福 : ヒルティの言葉 (角川文庫)』(ヒルティ著、正木正訳、角川書店、1954年)という本もあって、そこに、「眠られぬ夜は、もし人がそれを正しく利用するなら、しばしば極めて大きな祝福であり、神の正しき恩龍である。自分自身についての反省に達し、日頃の喧噪の下では認めることの出来なかった神の御声をきくために、眠られぬ夜は烈しい動揺錯乱の多くの生活に於ける唯一の方法である。(幸福論・第三卷)」という言葉を発見し、不安が少し和らいだことを思い出しました。これからも、いろんな気づきを求めて、読書を続けていきたいものです。

(注)「岡先生が数学的思索にふけっていると」(「磯田道史の この人、その言葉」、朝日新聞、2009年10月10日土曜日)という言葉が、なぜか心に残った。哲学者が思索にふけるというイメージはすぐに抱けるように、思索は哲学者の専売特許と思っていた。だから、思索が哲学者の専売特許でないことが分かって、新鮮さを感じたのも事実である。そう言えば、発明の過程でいろいろと思索を巡らすということもある。
 思索にふけるとか、思索を巡らすという状態は、一種の禅の境地に似ている。だから、学問の世界に魅力を感じ、思索にふける自分の姿をイメージしてしまうのかも知れない。
「なぜ人間が数学上の発見ができるのか。それを岡(潔)は考えた」。そして、「<発見の鋭い喜び>に導かれて、学問的な発見はなされることに気づいた(「磯田道史の この人、その言葉」、朝日新聞、2009年10月10日土曜日)」ともいう。しかし、そう易々と学問的な発見が続くことはない。ではどうする?
 日ごろの小さな気づきの喜びを拾い上げるようにすれば良い。本を読んでいるとき、あるいはテレビを見ているときなど、小さな思いつき(気づき)がある。これらをメモという形で拾い上げれば、そこには「気づきの喜び」というものがある。そうした喜びが積み重なって初めて、学問的な発見の喜びにつながるのではないだろうか。学問を目指すものにとってメモは書かせないということである。2009年10月10日土曜日

2024年11月18日月曜日

自分の外に精神の独立を!

 ブログ「死の準備と練習をする」の中で、モンテーニュの言葉「キケロは、哲学をきわめるとは死の準備をすることにほかならない、と言った。これはつまり、研究や瞑想が、ある意味で、われわれの精神をわれわれの外に引き出し、肉体と離して働かせるからで、いわば、死の練習、模倣のようなものだからである。あるいは、世のあらゆる知恵と理論が、結局は、われわれに死を少しも恐れないように教えるという一点に帰着するから」(注1)を紹介しました。
 ここの「研究や瞑想が、ある意味で、われわれの精神をわれわれの外に引き出し、肉体と離して働かせる」というところの「われわれの外に引き出された精神」のことがずっと気になっていました。なぜなのかを考えてみました。この精神がしっかりと自分から独立して存在し始めると、不眠といったこともなくるんじゃないか、そんなことが頭の中に渦巻いていて、気になっていたようです。つまり、不眠で不安にとらわれるようでは、まだまだ勉強が足りない、ということのようです。

2024年11月17日日曜日

人は言葉を求め言葉に救われる

 忘れていた言葉「人は、言葉を求め、その言葉に支えられる」(注1)を自分が書いたファイルの中に見つけました。その言葉をアップデートするような体験をしました。何度か眠れない日が続き、不眠不安に陥ったときに言葉を求め、そして、その言葉(注2)に救われたのです。だから、「人は、言葉を求め、その言葉に救われ、支えられる」とアップデートすることにしました。
 フランクルのことを調べていて、「フランクルと同い年。病弱で悩み、フランクルを読み込んでいた」(注3)京大教育学部教授の正木正(まさきまさし)さんのことを知り、その関係で、『心の糧 (角川文庫)』(ヒルテイ編、正木正訳、角川書店、1956年)の存在を知りました。「この一編はヒルティが自分の心に触れた言葉を長い年月にわたって集めたものからなっています。ヒルティによって収録された東西古今の箴言集ともいってよいでしょう(まえがき)」とあるように、ヒルティも「言葉を求め、その言葉に救われ、支えられた」ようです。

(注1)『死と愛』(フランクル著、みすず書房)の書評の中に「究極において、人は言葉を求め言葉に支えられるのではないだろうか」(石丸晶子、1997/9/15、朝日新聞)という言葉があった。続けて、キリストの弟子であるペテロの次のような言葉を紹介していた。「主よ、あなた以外の誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」偶然見つけた切り抜きで知ったわけだが、初めて読んで心に残ったから切り抜いて、それで安心してしまったのかも知れない。切り抜いた当時、どうして自分にとっての命の言葉を見つけなかったのだろうと悔やまれる。
 さらに驚いたことがある。1981年頃に、書く、まとめるものの筆頭に、私のバイブル「私のアンソロジー」というのがあったのである。この当時から言葉の重要性は分かっていたのである。だから、『死と愛』の書評に心が動いたのである。その上、学習日誌や買った本まで書いてあった。どうして続けてこなかったのだろう。多分移り気身の性かも知れない。移り気身で継続性がなかった。これが俺の弱点なのか。
 今こそ、念願の「私のアンソロジー」をまとめ、学習日誌も再び付けるときである。ここで、螺旋状の発展という言葉を思い出した。また振り出しに戻ったように思えるけれど、成長しながら1981年頃の課題に戻ったのである。回り道をしただけで、その回り道も必要な勉強だったのである。だから、何も悔やむことはない。そう考えると、弱点に思えた「移り気もまたよし」という心境になってきた。個人史に学び、胸を張って前に進もう。2009年08月28日金曜日

(注2)深い睡眠の量自体、年を重ねるごとにだんだんんと減っていくものですが、寝過ぎるとなおさら深い睡眠が得にくくなります。そうすると、若返りホルモンの分泌も減ってしまう。この項目の冒頭でお伝えしたように、睡眠時間を削ることがいちばん手っ取り早い睡眠の量を増やす方法であり、若返りホルモンを増やす方法なのです。(『不眠症の9割は歩くだけで治る 歩いて、紫外線を浴びれば自然に眠れる』、長尾 和宏著、山と溪谷社)

(注3)「(ニッポン人脈記)生きること:9 とらわれず、人間みつめ」『朝日新聞』、2011年04月28日

2024年11月16日土曜日

健康的な生活の基本

 だいぶ前に、最も健康的な生活(仮説)についての文章(注)を書いていました。それは、<「食事時間を忘れるくらいに一生懸命にやれることがある生活」である。そうすることで自律神経の働きが正常に働くようになる。自律神経が正常であれば、体の働きを最適な状態に調整してくれる。食べる量さえも調整してくれるのではないか、だから、最低限のことさえ押さえておけば、体はうまくやってくれる>というものでした。
 そういえば、彫刻家の平櫛田中氏や画家の葛飾北斎など、芸術家に長寿者が多いということを何度か書いていますが、この点からも、私の仮説が頷けます。あとは、まだまだ「食事時間を忘れるくらいには至っていない自らの生活」で仮説を証明するだけです。

(注)基礎代謝と活動時の燃焼によってブドウ糖が燃焼され、酸素とブドウ糖が消費される。そうなれば、当然酸素とブドウ糖が必要になり、血液を要求することになる。その時、十分なブドウ糖が供給されなければどうなるか、活動レベルを下げて省エネスタイルになるだろう。それで基礎代謝を含め、問題なく活動できればよい。しかし、蓄積された脂肪とか老廃物などのエネルギー源があれば、それらがエネルギーになってくれるからいいものの、そうした貯えがなければ、生命現象にかかわりが薄い順に機能障害を起こすことになってしまうに違いない。
 いつも気になっていたのだが、低カロリーを実践して調子いい人たちは、元々肥満気味で蓄積された脂肪とか老廃物などがあった人たちではないか、つまり、ダイエットなどでカロリー制限をして、そのままそうした低カロリーの生活が定着している人だから、低カロリー食があっているのではないか、と思っていたのである。
 ここで、「果たして、人間などの動物で、省エネ体質なるものが存在するのだろうか」という、一つの疑問が残る。省エネ体質では、その実、何らかの無理を体に強いていないだろうか、という疑問である。脳とか、心臓など、最も必要としているところにのみエネルギーが集中して、その他の部分は、どうしてもエネルギー不足になりがちになってしまうと考えられるのである。
 しかし、一生のうちで、心臓の細胞などの働ける時間が決まっていると仮定すれば、省エネ体質で十分な機能を維持できれば、働ける時間が長くなる。それだけ延命効果があることになる。どちらが真実なのかは分からない。ただ、何かに熱中して体のことを忘れているときは、自律神経がうまく働き、体の働きを最適な状態に調整してくれる。食べる量さえも調整してくれるのではないか、そんなきがする。だから、最低限のことさえ押さえておけば、体はうまくやってくれる。毎日、食事時間を忘れるくらいに一生懸命にやれることがある生活が、最も健康的な生活といえるゆえんである。(2009年08月21日金曜日)
 また、どれだけ能動的に生きられるかが、健康問題では大きな要素になっている。西式健康法では、四大原則というのがあって、皮膚と栄養、そして足の3つを精神が頂点から支配している構造である。つまり、精神的健康を維持増大させることを最も重視していることになる。
 その精神的健康に欠かせないのが前頭葉の働きでもある能動的な、冒険的な生き方である。年々平均寿命が伸びている、しかも、日本だけでなく多くの先進国と言われる国で伸びているのは、初めは経済的な豊かさが関係していると思っていた。しかし、「能動的な人が増えてきているのが大きな要因ではないか」と思うようになった。
 能動的に生きるためには、計画性やセルフマネジメントなどが必要になる。物事をやり遂げる意志力も重要である。これらは全て、経済の成長にも欠かせないことでもあるのだ。能動的に生きていれば、何を食べてもいいというわけではない。能動的に生きることを重視して、程よい栄養の摂取と、程よい運動をしていれば(最低限のことさえ押さえておけば)、前にも書いたように、体はうまくやってくれるので、毎日、能動的に、食事時間を忘れるくらい一生懸命にやれることがある生活が、最も健康的な生活といえるのである。2012年07月22日

2024年11月15日金曜日

教育立国を目指そう

 国の政策は多方面にわたっています。その中でも、中心的な施策が存在します。戦中が典型的で分かりやすいです。軍が中心的になって、国をあげて戦争を遂行して、敗戦を迎えてしまったからです。そこで、これからの日本は、何を国策の目玉にすればいいのでしょうか。
 私は、教育を国策の目玉にすべきだと思うようになりました。北海道旭山動物園元園長小菅正夫さんの言葉「子育てを楽しいと思えない種族は絶滅します」(内田美智子著「食卓で育む生きるの力」『心揺るがす講演を読む』、水谷もりひと監修、ごま書房新社、p201)を知ったからです。教育は子育てそのものですから、「教育を大切にしない国は滅びる」ことになります。このことは、学徒動員までして国を滅ぼしてしまった日本の現代史が証明しています。
 だらこそ、日本国憲法の理想を旗印に教育立国を目指すべきです。

2024年11月14日木曜日

がんばらないということ

 今はどうか知りませんが、”自己実現”という言葉が流行ったことがあります。なりたい自分になる、目標達成等々、早々、”努力は実る”と言って、努力、頑張ることがもてはやされたこともあります。それは、程度の差はあるものの現在も存在しています。だからこそ、「がんばらないということ」が強調され出したのかも知れません。
 ここで大切だと思うことは、「がんばらないということ」が強調されたからと言っても、「頑張ること」を否定しているわけではないことです。つまり、どちらか一方に偏ってしまってはいけないのです。何事も、バランス、調和が大切ということでしょうか。

  「がんばらないということ」 宇宙塵
がんばらないは、楽しい。
がんばらないは、愉快だ。
がんばらないは、自分の時を刻むこと。
がんばらないは、幸せだ。
がんばらないは、身体に良い。
がんばらないは、心にも良い。
がんばらないは、自分を知ること。
がんばらないは、元気だ。
がんばらないは、争わない。
がんばらないは、自然に優しい。
がんばらないは、人を傷つけない。
がんばらないは、ほんとうの「平和」。
がんばらないは、地球を愛し続けること。
がんばらないは、宇宙。
がんばらないは、私だ。(『「ゆっくり」でいいんだよ』、辻,信一、筑摩書房、2006年、p166〜167)

2024年11月13日水曜日

法秩序全体の腐食・危機の日本

 日本の最大の問題として日本国憲法の上位に存在する「日米地位協定」という法体系があること、その法体系から決別しない限り、日本の真の独立はありえないことを「米国属国路線からの決別を」に書きました。日本国憲法の上位に存在する法体系「日米地位協定」があるからこそ、戦後半世紀以上にわたって米軍基地が存在し続けていられるのです。その関係で、「明らかに憲法で軍事力を否定しているのに軍隊を事実上持っているというような憲法違反状態を長年続けて、それが当たり前になってしまっている」(注)のです。
 こうした現状を国際法学者の大沼保昭は、「法秩序全体の腐食であり、危機であるし、社会の歪みにもつながっていく」(注)と言っています。首都圏に強大な米軍基地が存在していることや「法秩序全体の腐食」に対して、鈍感というか、麻痺してしまっていること、それが、やはり問題の核心です。そういう意味でも、大沼さんや白井さんのような学者の存在はありがたいです。

(注)ぼくがすごく嫌だなと思うのは、国際法学者の大沼保昭が指摘しているように、明らかに憲法で軍事力を否定しているのに軍隊を事実上持っているというような憲法違反状態を長年続けて、それが当たり前になってしまっていることで、国民の憲法に対する感覚がおかしくなっているという問題です。それは法秩序全体の腐食であり、危機であるし、社会の歪みにもつながっていくと大沼さんは述べていて、ぼくもその通りだと思うのです。
 実際、ここ数年特に、違感という言葉がものすごく軽くなったような気がします。当然のことですが違憲は重大なことであり、違憲立法は許されないことです。(白井聡著『憂国論 戦後日本の欺瞞を撃つ』、鈴木邦男・白井聡著、祥伝社2017年、p188)

2024年11月12日火曜日

米国属国路線からの決別を

 日本は米国の傀儡政権であることは「日米地位協定」の存在が何よりの証明です。その実態を説明している文章を読み、これこそ、日本の最大の問題ではないかと思いました。これほど卑屈な政府に怒りさえ覚えてしまいます。前田哲男さんに言わせると、愚かな政府、「かくも無慈悲な政府がどこにあるだろうか?」となります。全くその通りです。
 この辺で、日本国憲法の足枷になっている米国属国路線からの決別を果たし、名実ともに真の独立国になろうではありませんか。そして、日本国憲法の理念を高く掲げていきたいものです。

 いったい、どこの国に、首都圏まっただ中に外国軍隊のため二カ所もの大航空(東京都・田空軍飛行場、神奈川県・厚木海軍飛行場)を提供し、くわえて空母艦隊の母港となる海軍基地(神奈川県・横須賀港)まで与えている国があるだろうか?
 地上の航空基地や港湾施設にとどまらない。横田飛行場の滑走路上空に広がる見えない軍事領域は、「横田空域」だけでも関東〜信越〜東海の一都八県にまたがり、羽田と成田に通じる民間空路を狭めて、乗客に時間の不経済とニアミスの危険を日常的にしいているのである。
 また、世界中いったいどこに、一三五施設もの駐留外国軍基地に「日米地位協定」にもとづく「全土基地化容認」と「自由使用権付与」、すなわら事実上の治外法権を認め、それらの無償提供のうえに、施設整備費から人件費・光熱水費にいたる経費すべてを、”思いやり予算”などと称し負担している愚かな政府を見いだせるだろうか? 駐留米軍への"思いやり負担分"だけで、〇七年度は二〇一七億円に達する。
 さらに、沖縄本局の二割の面積にもおよぶ広大な土地を六〇年以上にもわたって米軍用地に差し出し、あまつさえ「辺野古の海」を埋め立てて新たなヘリ基地建設計画を準備しつつ、なお県民に「基地との共存」継続を強要する――かくも無慈悲な政府がどこにあるだろうか?(前田哲男著「米国属国路線からの決別を —— 米軍と一体化する自衛隊」『日本はどうなる 2008』、『週刊金曜日』編集部編、金曜日、2007年、p212〜213)

2024年11月11日月曜日

死の準備と練習をする

 ポジティブ心理学というのを知りました。「自分自身が持っている心の強みを発見して、前向きに幸福と人生の幸福を目指すのが、ポジティブ心理学」で、「一時的でもポジティブな感情を重ねていくことで、死の恐れを乗り越え、人生を豊かにすることができる」(注1)というのです。心強い限りです。それでは、モンテーニュは『エセー』の中で、「哲学をきわめるとは死ぬことを学ぶこと」と書いていますが、そこまでしなくてもいいではないか、と思ってしまいかした。
 そこで、モンテーニュが言いたいことはどんなことだろうと、読み直して、なるほどと、その内容に感心してしまいました。ポジティブ心理学も包含されて見事にまとめられていたからです。それは次の通りです。
「キケロは、哲学をきわめるとは死の準備をすることにほかならない、と言った。これはつまり、研究や瞑想が、ある意味で、われわれの精神をわれわれの外に引き出し、肉体と離して働かせるからで、いわば、死の練習、模倣のようなものだからである。あるいは、世のあらゆる知恵と理論が、結局は、われわれに死を少しも恐れないように教えるという一点に帰着するから」(注2)です。
 続いて、「また、その努力は聖書にもあるように、結局、われわれをよく、しかも楽しく、暮らさせることを目指しているにちがいない。世のあらゆる意見は、たとえ方法はまちまちでも、快楽こそわれの目的であるという、この一点に帰着する。そうでなければ、そんな意見などははじめから追い払われるであろう。実際、われわれの苦労や不幸を目的とする人の言説などを誰が聞くだろうか」(注2)とまで言っています。


(注1)島井哲志著「いくつになっても死ぬのが怖い。どうしたらいいか」『プレジデント』、2018年3月5日、p105
(注2)『世界古典文学全集 第37巻 (モンテーニュ1)』、筑摩書房、1984年、p55

2024年11月10日日曜日

思索体系が与える喜び

 トマス・マンのショーペンハウアー論を見つけたので読んでみました。文体が古くて読みにくくかったにもかかわらず、なぜか、書かれていることに惹かれました。ショーペンハウアーの仕事(著作)を評価を通して、哲学的思索についての一般論を論じているように受け取りました。元の文章(注)の分かりにくいところを”和文翻訳”したところ、すんなりと頭に入ってきました。しかし、いくつかの「高い、つねに楽しい満足は、同一の源泉から流れて出る」ということだと思うのですが、その”同一の源泉”は、まだわかりません。これからの展開の中で明らかになることではないか、そう思いました。今後の展開が楽しみです。同時に、新しい訳があれば、まずそれを参照したい。以下は、”和文翻訳”した内容です。
「哲学的思索の成果としての体系が与える喜び、世界のあり方に思索をめぐらせ、完璧な均衡を得た思想へ組織された知的体系が与える満足、それは、つねにすぐれて美的な種類の喜びである。これは素材に秩序を与え、人生の多様な乱れをふるいにかけて、明確な、普遍的な眺めを与える力をもった芸術から得られるところの満足、これらの高い、つねに楽しい満足は、同一の源泉から流れて出る。
 真と美とは、つねに関わり合わなくてはならぬ。真と美とが、各自他からの支持を受けず孤立しているならば、かかるものの価値は、動揺的なものに過ぎない。真を味方とせず、真にかかわりをもたず、真のうちに、真をとおして生きていないような美とは空しい妄念の怪物であろう」。

(注)形而上学の体系が与える喜び、世界が、緊密に推理され、完璧な均衡を得た思想へ組織された知的体系が与える満足、それは、つねにすぐれて美的な種類の喜びである。これは素材を形成して秩序を与え、人生の多様な紛乱をふるいにかけて、明確な、普遍的な眺めを与える力をもった芸術からえられるところの満足、高い、つねに楽しい満足と同一の源泉から流れて出る。
 真と美とは、つねに関わり合わなくてはならぬ。真と美とが、各自他からの支持を受けず孤立しているならば、かかるものの価値は、動揺的なものに過ぎない。真を味方とせず、真にかかわりをもたず、真のうちに、真をとおして生きていないような美とは空しい妄念の怪物であろう。『ショペンハウエル (永遠の言葉叢書)』、ショペンハウエル著、トーマス・マン編,、坂田徳男訳、創元社、1953年、p7)

2024年11月9日土曜日

希望の光があればこそ

 前までは、自宅の新聞で連載小説を楽しんでいましたが、最新のものは興味が薄れて頓挫してしまいました。それで、図書館で、他の新聞二紙の連載小説を読むようになりました。理想の国づくりを目指した大名の言葉「だれもが好きな神を好きなように拝む国だ。だれからも余計な口出しをされず、だれにも監視されぬ。どんな強国からも不当に侵略をされぬ国だ」(注1)が光ります。そして、理想とする国を目指すという希望があったからこそ「希望の光があればこそ、人は苦難をのりこえられる」(注2)という言葉が語られたののだと思います。
 日本国憲法も、理想であり、希望の光です。しかし、残念なことですが、改憲論が後をたちません。それだけに、日本国憲法が、理想であり、希望の光であることに確信を持ち、そのことを語り続ける必要を感じました。憲法の前文で言う「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」たことが理想であることが、どうして理解できないのかが、理解に苦しむところです。
 
 (注1)曽祖父清秀の従弟で、切支丹大名として知られた高山石近は、摂津に神の国パライソをつくろうとしていた。志は傾挫してしまったものの、祖父はその話に大いに触発されて、転封先にあえて江戸から遠い岡を選んだと聞いている。
「だがの、余のパライツは、だれもが好きな神を好きなように拝む国だ。だれからも余計な口出しをされず、だれにも監視されぬ。どんな強国からも不当に侵略をされぬ国だ」
 それがわたしの理想とする国である。(諸田玲子著「登山大名」日本経済新聞、2024年8月8日)

 (注2)無理もない。祖父のパードレが谷に隠れ棲んでいる。父の蛇之助は仲間と山中を放浪している。岡にはいまだ切支丹が潜伏、肥前国からも迫害された切支丹が逃げこんでくる。そんなときに、皆のためとはいえ岡城へ避難して不自由のない日々を送るだけでもうしろめたかったにちがいない。江戸へ逃れるなど、敬虔な切支丹であるらんには卑怯な行いとしかおもえなかったのだ。
「腹の子のためだ。無事に子を産むことが皆の力となる。希望の光があればこそ、人は苦難をのりこえられるのだぞ」
 ありふれたことしかいえぬもどかしさを感じつつも、目を伏せて考えこんでいたらんがようやく同意してくれたときは、うれしさのあまり小おどりしそうになった。子を産むことが希望の光だとらんもわかっているのだ。(上同、2024年8月9日

2024年11月8日金曜日

睡眠レッスン

 また、不眠症に陥ってしまいました。しばらく調子良かったのに、三度ほど1日だけの不眠を繰り返しましたが、今度ばかり2日続いてしまったのです。水曜日になかなか寝付けなかったけれど、木曜日の午前中に1時間くらい眠れ、調子良かったのに、木曜日も寝付けず、朝方少し寝ただけでした。にもかかわらず、今日は昼寝もできなかったので、公園に散歩に出かけたり、図書館に行ってきたりで眠気もなかったのです。
 一時は、心療内科を受診することも考えましたが、失眠という不眠症に効くツボを思い出し、よし、自分で治そうとお灸をしていたら、少し元気になってきました。だから散歩にも行けたのです。
 図書館に予約していた雑誌を借りてきたばかりですが、その雑誌に、偶然にも「最高の集中力を生み出す睡眠レッスン」という記事があって、一番知りたいこと(注1)が掲載されていたのです。今までは、風呂から上がってから、深部体温が下がるのを待たないで寝てしまうことがあったことを反省しました。
 気をよくして、すぐ読める図書館の睡眠に関する電子書籍を検索し、何冊かを読みました。そして、一番の不安の元がわかりました「どうしても眠れないときは、朝まで眠らなくてもかません。私たちの体は、必要最低限の睡眠は必ずとれるようにできています」(注2)ということです。気が楽になりました。(追記:これを書いた金曜日から、金、土と二日間は眠れました。不安がずっと少なくなりました。)

(注1)「深部体温は上がった分、大きく下がろうとする性質があります。40度のお湯に15分つかると深部体温は約0・5度上がり、90分かけて元の体温に戻った後、そこからさらに下がります。すると皮膚温度との差が縮まり、入眠・熟睡しやすくなる。寝る時間の90分前までに入浴を済まることが重要です」(西野精治著「最高の集中力を生み出す睡眠レッスン」『プレジデント』、2018年1月29日号、p63)

(注2)不眠に悩む方は、「眠れないときは寝床から出る」→ 「眠れそうになるまで寝床に戻らない」→「寝床に戻った後、10分経っても眠れなかったらほかの部屋に移る」というサイクルを、眠れるまで何回でも繰り返してみましょう。
 どうしても眠れないときは、朝まで眠らなくてもかません。私たちの体は、必要最低限の睡眠は必ずとれるようにできています。不眠症の方でも、何日か眠れない日が続いた後に思いがけず眠れる日があることに気づいている方が多いと思います。不眠の問題を本気で改善したい方は、それくらいの割り切った気持ちで取り組んでみてください。『不眠の悩みを解消する本 満足のいく眠りのための正しい方法』、三島和夫著、法研、2015年、p119〜120)

2024年11月7日木曜日

”無気力”からの覚醒・2

 人間力が「動き出して、初めてわれわれは有意義な生活を営むことが出来」る用になり、「この活動が、進むに従って、人生の真価が増し、その幸福が益々純粋」となることは、「”無気力”からの覚醒」で、述べました。この「普遍的な人間力は、必ず個人的は創作力となって表現されるものであり」、「この創作力は、不可抗な人間の自然の勢力に一つの統一と調和とを与えます。つまり無形の人間力をして、有形な活動形式をとらしめる力である。無形の精神力を具体化して行く力、あらゆる材料を打って一丸とした有機的関係を表現する力」(『上代たの文集 : 女性教育者の先達』、上代たの文集編集委員会編、上代たの文集編集委員会、1984年p59〜60、旧漢字、旧仮名使いを改めて引用しました)なのです。
 ここで、一つの問題意識が生じました。創作活動といえば、芸術や科学のように、新しいものを創り出す活動と思ってきました、一般にもそう思われていると思います。それに対して、音楽を聴いたり、読書をしたりと言った受動的な活動は、創作的とは言われません(確信はありませんが)。しかし、創作力が「無形の人間力をして、有形な活動形式をとらしめる力」だとすれば、芸術鑑賞、文学鑑賞等も、りっぱな創作力になります。そうして考えてみると、確かに、新しいイメージや、意識を生み出し、生活の活力の源泉になったりします。、「”無気力”からの覚醒」で紹介した「創作力と言えば、一寸芸術家の専有に属するものの様に考へられますけれども、人間は皆その質の差と量の程度はあっても、ことごとくその芽を持って居ります」ということは、こういうことでもあったのです。

2024年11月6日水曜日

理性の眠りは怪物を生む

 戦後平和を保ってきた日本にとって、ロシアやイスラエルが行っていることは、まさに狂気であり、そこに理性はありません。その意味で、ゴヤの言葉「理性の眠りは怪物を生む」は真実の言葉です。すてきな言葉です。大高保二郎は最後に「かくして、ゴヤは近代への扉を叩く」と結んでいますが、「理性の眠りは怪物を生む」という言葉は、近代のみならず、未来社会にも立派に通用する言葉だと思います。

 (注)ゴヤの諷刺はいかなる言葉よりも鋭く、深い。息絶えようとする十八世紀に、「理性の眠りは怪物を生む」と警鐘を打ち鳴らしつつ、新時代への期待と不安が入り混じる。それが一種の陽気さと楽天性を留め、"黒い絵"で到達するあの絶望感、暗鬱さはまだない。(大高保二郎著「人間の根源をつかんだ巨人の野望」『アサヒグラフ別冊 第14巻第3号|ゴヤ|美術特集 西洋編 3』、朝日新聞社、1988年、p79)

2024年11月5日火曜日

”無気力”からの覚醒

 前に、「書物は無限の精神の鉱脈」という文章を書きました。そして、すでに『上代たの文集 : 女性教育者の先達』という精神の鉱脈を発見し、この鉱脈には新たな鉱石があるかもしれないと思っていました。やはり「婦人と創作的活動」という文章の中にありました。
 「無気力、無活動は、いうまでもなく、わが国婦人が未だ内に潜める人間力に醒めないためで」あり、「この力が凡ての活動の根源であって、これを離れて真の活動は」ない、と言っている(注)のです。
 ”無気力”は、今持って現実的な問題です。この問題を”人間力”という概念で説明し、「万人に潜んで居るこの力が各自に体験された時、初めて真の覚醒」、すなわち、無気力からの人間的な覚醒になるというのです。
 そして、「人間は皆その質の差と量の程度はあっても、ことごとくその芽を持って居ります。われわれの内にあるこの力が動き出して、初めてわれわれは有意義な生活を営むことが出来ます。そしてこの活動が、進むに従って、人生の真価が増し、その幸福が益々純粋」になるというのです。素晴らしいことです。カントが「啓蒙について」の中で言いたかったことは、このようなことだったのかもしれません。

 (注)無気力、無活動は、いうまでもなく、わが国婦人が未だ内に潜める人間力に醒めないためであります。この力が凡ての活動の根源であって、これを離れて真の活動はありません。この力と活動とは不即不離の関係にあるものであって、力の在る所に活動が在り、活動の背後には必ず力が流れて居る。そして万人に潜んで居るこの力が各自に体験された時、初めて真の覚醒となります。しかもこの覚醒は必ずやその個人特種の表現を伴います。即ち普遍的な人間力は、必ず個人的は創作力となって表現されるものであります。
 ここにいう創作力というのは、人間力が個人の内に最も鮮明に強烈に躍動して居る場合いをいうのであります。創作力と言えば、一寸芸術家の専有に属するものの様に考へられますけれども、人間は皆その質の差と量の程度はあっても、ことごとくその芽を持って居ります。われわれの内にあるこの力が動き出して、初めてわれわれは有意義な生活を営むことが出来ます。そしてこの活動が、進むに従って、人生の真価が増し、その幸福が益々純粋となります。(『上代たの文集 : 女性教育者の先達』、上代たの文集編集委員会編、上代たの文集編集委員会、1984年、p59〜60、旧漢字、旧仮名使いを改めて引用しました)

2024年11月4日月曜日

妻に対する愛おしさ発見

 妻が旅行に出かけ、一人で二日間過ごさなければなりません。いつもは、注意されることも多くてうるさいくらいだったのに、一人になるとやたらと寂しいのです。一人の時間がたくさんあってよさそうなのに、どうしたものなのでしょう。
 今朝早く飛行場まで送ってきましたが、背中が少し曲がった後ろ姿を見送りながら、なぜか、今までにない愛おしさを感じてしまいました。そういえば、だいぶ言いたいことも言ってきたし、迷惑もかけてきました。改めて、申し訳なかったと思ってしまいました。
 今回は一人で寂しい思いをすることになってしまいましたが、妻に対する愛おしさを発見することができました。最大の収穫です。旅行から帰ってきても、この感情を忘れうことなく、妻を大切にしていきたいと思いました。そのためにも、まずは妻に対する感謝の気持ちを伝えることに心がけたいです。

2024年11月3日日曜日

食料自給という安全保障

 食料自給率の問題については、これまで何度も書いてきました。例えば、「この国はものすごく貧しいよ」「世界的食料不足を警告」「餓死者が続出する悪夢が現実に?」「地球生命の存続という使命」「未来を食い尽くさない」「農業を育成し土地の劣化防ぐ」などです。今年は、米不足が問題になって、余計に食料自給率の低さをそのままにしておいて良いのか、と思っていました。そんなとき、手にした本の目次の中に「第一次産業を守ことが国民を守る」という項目が目に飛び込んできました。「第一次産業を守ることが、危機に強くなること —— これこそ、大事な安全保障」(注)だというのです。食料自給という安全保障を真剣に考えていきたいものです。

 (注)日本の食料自給率は、カロリーベースで38%(2021年度)。ちなみに海外に目を向けると、カナダは233%、オーストラリア169%、フランス131%、アメリカ121%(いずれも2019年度)。いかに日本の食料自給率が低いかがわかります。
 ロシアによるウクライナへの侵略が始まってからは、小麦の輸入が滞り、あたふたしています。日本でもパン食が一般的になったからには、この危機を転じて国内における小麦の生産量を上げたほうがいいのではないでしょうか。
 全国を回っているうちに実感したのは、農業や漁業、林業など、第一次産業に相当予算と力を入れないとダメだ、ということでした。そんなさなか、政府は防衛費を倍増すると言い出した。でも、いくら防衛装備品を買っても、自分の国で食べるものを自分たちでつくれない国が、危機に対して強いはずがありません。安全保障が大事だというのなら、自分の国で食べるものを自国でつくれるようにしなくてはダメだと思います。第一次産業を守ることが、危機に強くなること —— これこそ、大事な安全保障なのです。(『声をつなぐ 崖っぷちで見つけた「希望のデモクラシー」』、辻元清美著、中央公論新社、2022年、p37)

2024年11月2日土曜日

政府は戦争を欲しているか?

 国民レベルで考えるならば、どうしたら戦争を防げるか、どうしたら戦争をやめられるか、が問題になるはずです。しかし、二十一世紀になっても、一向に戦争がなくなりません。やめさせることもできず、戦禍の犠牲者が増えるばかりです。なぜでしょうか、ラッセルによると、政府が戦争を欲しているかのような態度を示しているからです。「政府は戦争を欲しているか?」という小論の中で「自分らは戦争の危険を多少とも減少し軽微なものにする努力を何一つ傾ける意志がない」し、「世界各国の政府は戦争を積極的に欲しないけれども、依然として一九一四年以前と同様、戦争抑止に役立つ一切の方策を妨害しようと心に決めているらしい」(注)からです。だからこそ、日本国憲法の平和主義の意義を再確認し、戦争抑止に役立つあらゆるの方策を検討し、実践していく必要があります。つまり、「今こそ普通の市民は、彼ら自身や子孫を無益な恐るべき死から救うために必要な良識を、まだそれが間に合う今のうちに身につけることが」(注)必要なのです。

(注)信じ難いように見えるが、諸国の政府は戦争抑止のあらゆる真剣な企図に対して、根強い反対態度を示している。軍縮会議は長い審議の果てに、単にある種の無益な合意、――万人が知るように戦争が勃発すれば、その日のうちに破棄されるにちがいない合意――の更新を決議しただけで終った。つまり集まった諸国の政府は文明世界の知性を嘲弄し、自分らは戦争の危険を多少とも減少し軽微なものにする努力を何一つ傾ける意志がないことを明らかにした。
 これらの事実から引き出される結論は、世界各国の政府は戦争を積極的に欲しないけれども、依然として一九一四年以前と同様、戦争抑止に役立つ一切の方策を妨害しようと心に決めているらしい事実である。それゆえ今こそ普通の市民は、彼ら自身や子孫を無益な恐るべき死から救うために必要な良識を、まだそれが間に合う今のうちに身につけることが望ましい。そのための第一の階梯は、全世界的規模の強制的かつ完全な軍備全廃であり、第二の階梯は国際的政府の樹立である。陸海軍はけっして安全に役立たない。現代世界における唯一の安p157全保証は、戦争の手段を持たぬことである。(『人生についての断章』、ラッセル著、みすず書房、1979年、p157〜158)
 

2024年11月1日金曜日

哲学的認識の変遷の一端

 昨日、「真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる」(「カント哲学の批判」『ショーペンハウアー全集 4』、茅野良男訳、白水社、1996年、p9)ことは述べました。しかし、と続きます。
 カントなどの「真に偉大な精神の持主によって完成された傑作」である認識は、「すぐさま人類の所有物とはなりえない。天才というものは与える力をもっているが、通常の人類というものは、これと同じだけの受け取る力すらもっていないから」(注)というのです。だから、紆余曲折を経て、「その源泉の内容を徐々に部分的に受けとり、しだいに同意の度合いを増してゆき、このようにして、あの偉大な精神の持主から発して人類に注ぎこむことになる恩恵の分け前にあずかるようになるので」(注)す。何という名文でしょう。

 (注)人生と世界からじかに汲みとり獲得し、獲得され準備されたものとして他の人びとにさしだした認識は、そういう事情にもかかわらず、すぐさま人類の所有物とはなりえない。天才というものは与える力をもっているが、通常の人類というものは、これと同じだけの受け取る力すらもっていないからである。(中略)
 その認識はさらにまた、無数のまちがった解釈やひずんだ応用というもろもろの迂路をまずたどらねばならない。古いもろもろの誤謬と合体するというかずかずの誘惑を切り抜けながら、新しい公平な種族が成長しておのれを迎え入れてくれるようになるまで、その認識は闘いを生き抜かねばならない。この種族は若いころからいちはやく、千々に分かれた水路にのっとり、その源泉の内容を徐々に部分的に受けとり、しだいに同意の度合いを増してゆき、このようにして、あの偉大な精神の持主から発して人類に注ぎこむことになる恩恵の分け前にあずかるようになるのである。(「カント哲学の批判」『ショーペンハウアー全集 4』、茅野良男訳、白水社、1996年、p10〜11)

2024年10月31日木曜日

書物は無限の精神の鉱脈

 また、何と”うまい例え話だろう”と感心してしまった文章(注1)に出会いました。「一冊の書物は無限の精神の鉱脈」で、「読者は生命にも理解力にも限度のある鉱夫」に例えられるというのです。だから、前に「掘り出した鉱石と今日掘りあてた鉱石とが質も量も違うのは当然だ」となるのです。私も「パスカル遠望」の中に”精神の鉱脈”をの中に発見したことになります。
 はじめに” また”とかいたように、カントについて書かれた著書の中に”精神の鉱脈”をの中に発見していました。カントなどの「著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる」(注2)まったくそのとおりです。パスカルの『パンセ』は渡辺一夫や私にまで影響を及ぼし、カントの著作は、ショーペンハウアーや私にまで深く影響を及ぼしてきたのですから。

 (注1)ふとしたことでパスカルの『パンセ』を読み返してみましたが、昔読んだ本を読み返す場合にいつもそうであるように、今度も、昔はずいぶんよい加減な読方をしたものだなと、つくづく思いました。恐らく、一冊の書物は無限の精神の鉱脈にもたとえられましょうし、読者は生命にも理解力にも限度のある鉱夫と考えられるかもしれません。昨日僕が掘り出した鉱石と今日掘りあてた鉱石とが質も量も違うのは当然だとしますと、来年僕が再び読むかもしれない『パンセ』は、今年とはまた別な感銘を僕に与えるかもしれず、楽しいような恐ろしいような気もします。その上、僕の判る範囲は限られていると考えますと、ちょっと寂しくもなりますが、現在僕には、まだまだ判ってしかるべきものが残されていると思えば、楽しみにもなります。(「パスカル遠望」『渡辺一夫著作集 6 フランス文学雑考 上巻』、筑摩書房、1971年、p361) 

 (注2)偉大な精神の持主の著作の場合、その価値をすみずみまではっきりと説き明かすよりも、もろもろの欠点や誤謬を指摘することのほうがはるかにたやすい。なぜかといえば、それらの欠点はひとつひとつ限りのあるものであり、したがって完全に見渡しのきくものであるからである。これに対し、天才のもろもろの著作がもつこういう卓抜さというものは、究明することも、汲みつくすこともできない。それこそ、天才がおのれのもろもろの著作に刷りこむ印なのである。それゆえ事実またこれらの著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる。ただその度合いを測り知ることができないまでである。(「カント哲学の批判」『ショーペンハウアー全集 4』、茅野良男訳、白水社、1996年、p9)

2024年10月30日水曜日

アメリカを理解するために

 日本の要は、本来日本国憲法です。しかし現実は、日米安全保障条約が要になっています。何よりの証拠は、世界有数の自衛隊の存在と在日米軍の存在です。日本国憲法は、平和憲法といわれるごとく戦力によらないで平和国家を建設していくことになっています。そのような憲法を軽視し、あるいは無視しているのが日米安全保障条約なのです。
 ここで考えてほしいのが、アメリカを信用していいのか、ということです。そのためには、真実のアメリカというものを理解する必要があります。その材料は、戦後のアメリカ氏における戦争史で事足りますが、多民族を虫けらのように扱ってきた度重なる核実験の歴史(注1、注2)も、決して消えることのないアメリカの汚点です。
 さらには、「一人のジャーナリストが、ソヴィエトに予告なしに原子爆弾を投下するべきであると主張」(注3)したのを聞いたフォ-スタ-の生々しい体験も、考えてみれば恐ろしい話です。だからこそ、日米安全保障条約は破棄し、真の友好条約を結ぶべきです。この方向性こそ、日本国憲法を生かす道なのです。

 (注1)エニウェトク環礁でも、一九四八年から一九五八年までのあいだに四三回の核爆発実験がおこなわれ、三つの島が完全に消えてなくなった。エニウェトク島の住民一三六人も、一九四七年十二月から一九六九年までの二二年間、べつの島に移住させられていた。 『核兵器 その廃絶をめざして』、服部学著、東研出版、1982年
 ミクロネシアばかりでなく、ジョンストン島、クリスマス島、ムルロア環礁などの太平洋の島じまでも、イギリスやフランスもくわわって数多くの核爆発実験がおこなわれた。一九八二年のはじめには、ボリネシアのムルロア環礁が、たびたびのフランスの核爆発実験でひびがはいり、環礁にのこっていた放射能がまわりの海にもれだしたことが報じられた。(『核兵器 その廃絶をめざして』、服部学著、東研出版、1982年、p33)

 (注2)棄民の群島 : ミクロネシア被爆民の記録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 (注3)彼らにとっての外交問題とはロシアを意味するということである。中国もある程度含まれるが、ほとんどロシアである。ロシアが常に彼らの意識にのしかかっている。彼らは戦争を恐れ、自分たちの生活水準が低下するかもしれないことを恐れている。たぶん私のために開かれたある晩餐会での出来ごとを私は忘れないだろう。客のなかの一人のジャーナリストが、ソヴィエトに予告なしに原子爆弾を投下するべきであると主張し、一座の賛同を受けて「死んでしまえば仲間はいない」という言葉を不正確にもオリヴァー・クロムウェルの言葉だとして引用した。
 「うまい言葉だろ?。トム」
 彼はもう一人のジャーナリストに呼びかけた。「死んでしまえば仲間はいない」
 トムはそれがうまい言葉だと同意した。「死んでしまえば仲間はいない」彼らは晩餐会のあいだじゅう声を合わせ、あるいはかわるがわるその言葉を唱えていた。
 彼らは教養ある人間だったが、ことロシアとなると彼らの顔には血がのぼり、人間味が消えた。私の他には誰もそのような言動に愕然とした者はなかったようだった。誰も驚いたりしなかったし、主催者の女性はあとで、その晩餐会が大成功だったと喜んでいた。アメリカを理解しようと思うすべての人びとは、ロシアにかんするこの強迫観念を知らなければいけない。それがいくぶんかは、われわれにたいする関心の欠如の説明となる。(「アメリカ合衆国」『E.M.フォ-スタ-著作集 12』、みすず書房、1994年、p250~251、改行を加え読みやすく編集しました)

2024年10月29日火曜日

米軍基地と核兵器の貯蔵施設

 図書館に展示してあった本に気になる記述を見つけてきました。「『左記の核貯蔵地をいつでも使用できる状態に維持し』と書かれた基地は、次のとおり」(『沖縄返還の代償 核と基地』、「NHKスペシャル」取材班著、光文社、2012年、p174)として、嘉手納基地、辺野古基地、那覇空軍基地、那覇空軍施設などが挙げられていたのです。
 気になった、耳慣れない言葉「核貯蔵地」をネットで検索してみました。ほとんどが放射性物質廃棄物のサイトが示されて、「核貯蔵地」という言葉そのものが使われておりませんでした。AIによる概要によれば、

 核貯蔵地には、使用済み核燃料を一時的に保管する「中間貯蔵施設」と、使用済み核燃料を再処理した後に残る高レベル放射性廃棄物を地層に埋設する「地層処分場」があります。

 という具合で、核兵器の貯蔵地、ないし貯蔵施設に関することはシークレットになっているようです。しかし、考えてみれば米軍基地に核兵器の貯蔵施設があっても不思議ではありません。ない方がおかしいのかもしれません。もう少し調べてみる必要がありそうです。

2024年10月28日月曜日

人類、人(ヒト)という種の一員として

 いうまでもなく、核兵器は世界に対する最大の脅威です。核兵器は抑止力となって戦争を抑止しているなど、とんでもないことです。 改めて、ストックホルム・アピール(注1)とラッセル=アインシュタイン宣言(注2)に立ち帰ってみました。
 ストックホルム・アピールにおける「諸国民にたいする威嘛と大量殺りくの兵器である原子兵器の絶対禁止」は、核兵器禁止条約として実現していますが、日本政府は批准していません。また、「原子兵器を使用する政府は、人類に対して犯罪をおかすものであり、戦争犯罪人としてとりあつかわれるべき」という主張は、核兵器が存在する限り日々新しい主張として存在し続けます。
 ラッセル=アインシュタイン宣言は、「あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員」としての宣言であることの重みを噛み締める必要があります。そして、「核兵器が人類の存続をおびやかしている」現実の危機が増してきているのですから、「世界の諸政府があらゆる紛争問題解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する」という決議は、ますますその重みが増してきているのです。

 (注1)なんといっても、全世界的な原子兵器禁止運動を広げる発端となったのは、一九五〇年三月、平和擁護世界大会委員会第三回総会で提唱された署名運動であった。開催地にちなんで名づけられたストックホルム・アピールはつぎのようによびかけている。
・・・・・・・・・
ストックホルム・アピール
・わたくしたちは、諸国民にたいする威嘛と大量殺りくの兵器である原子兵器の絶対禁止を要求します。
・わたくしたちは、この禁止を保証するため厳重な国際管理の確立を要求します。
・わたくしたちは、どのような国にたいしてであろうと、最初に原子兵器を使用する政府は、人類に対して犯罪をおかすものであり、戦争犯罪人としてとりあつかわれるべきであると考えます。
・わたくしたちは、全世界のすべての善意の人びとにたいし、この訴えに著名されんことを訴えます。
一九五〇年三月一九日、ストックホルム
・・・・・・・・・
 やがてこの署名運動は全世界で七億の署名を集めることとなる。そしてこの署名に示された全世界の世論こそが、朝鮮戦争での原子兵器の使用を許さなかった大きな力であった。(『核兵器と核戦争 科学全書』、服部学著、大月書店、1982年、p202)

 (注2)湯川秀樹博士ら一一名の科学者の署名をそえて、一九五五年七月九日、ラッセル=アインシュタイン宣言がロンドンで発表されたのであった。宣言は長文のものであるが、
「あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員として」の立場に立って
「水素爆弾による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあること」を指摘し、世界の科学者と一般大衆に
「核兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて」「世界の諸政府があらゆる紛争問題解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する」という決議に署名することをよびかけたものであった。(上同、p204〜205)

2024年10月27日日曜日

最大の「日本の課題」は?

 今日において最大の「日本の課題」は何でしょうか。日本国憲法の平和主義に反して世界に肩を並べるほどのの軍事量を持ち、その上、さらなる大幅な防衛(軍事)予算を掲げていることです。にもかかわらず、衆議院選挙でももっぱら与党が過半数を維持できるかどうかが注目されているだけで、防衛予算が争点にされることなどなかったのです。
 ところがです。すでに1952年頃に、次のように日本いおける再軍備問題が、”最大の「日本の課題」”であると捉えられていたのです。

 今日において最大の「日本の課題」は、世界の平和のためにさきがけて戦争を放棄し、を全廃した日本が、ふたたび武器をとつて自国を防衛するという問題でありましよう。しかしてかくのごとき重大な国策の変更を、主権者国民の承認をえることなく、すでに国策の変更が決定したかのごとく再軍備していることであります。(「憲法の尊重と教育」『常識憲法学』、関口泰著、朝日新聞社、1952年、p8)

 この一文は、「日本いおける再軍備問題が、”最大の「日本の課題」”である」ことを示しているだけではありません。この頃から、主権者国民の承認をえることなく、重要な国策が変更されていたことを示しています。憲法軽視の姿勢が日本の政治の最大の問題なのかもしれません。

目的を実現していく意志力(26日分)

 大江健三郎さんが憲法を守る集会で、「想像力とは、人間の生きる力をビジョンとして表すものだと思います。この点で、憲法とは、武力亡き平和を実現しようという想像力を表現しています」(赤旗日曜版、2004年 10月 3日)と言っています。確かに日本国憲法の第9条は、未来社会のあるべき姿を想像力の力で描き出しています。そのビジョンが、今まで、われわれ日本人の生きる力になってきました。
 会社の組織にも、家族にも、想像力を駆使して作った、生きる力になるようなビジョンが必要です。人間一人ひとりのビジョンも必要です。こうしたビジョンは、馬の前にぶら下げられたニンジンのような働きをするのかも知れません。
 しかし、必要性は分かっても、すぐにビジョンを描けるとは限りません。走ったことがない人にマラソンが無理なのと同じことです。
 でも大丈夫です。走る練習を続ければマラソンだって走れるようになるように、毎日、小さなビジョンを描き続ければ、将来の大きなビジョンも描けるようになるものです。そういう意味からも、どんな些細なことも、To-Do メモとして、始めにビジョンとして紙なりパソコンに描いてから実現するようにすることが大切なのです。(2006年07月13日)
 そう言えば、フォイェルバッハ『キリスト教の本質』からの引用として紹介されていた「人間は目的なしでは無である」という言葉を思い出しました。それほど人間には目的が重要ということなのでしょう。しかし、目的を持っているだけでは不十分なのです。目的を実現していく意思の力、意志力も必要なのです。目的を書き、それを忘れないように読み返すことで、意志力が高められ、目的が実現されるのです。
 車はハンドルで目的に向かうことができますが、ガソリンが無ければ車は走りません。ガソリンに相当するのが意思力なのかもしれません。(2024年10月26日第二稿)

2024年10月25日金曜日

世界に誇れる平和憲法

 日本国憲法は、主権在民、基本的人権、平和主義という三つの原理の上に構築されています。その中で、主権在民と基本的人権はある意味で世界共通ですが、平和主義は世界に誇れる内容です。「憲法第九条を第1項、第2項を読むと、ここまで鮮明に戦争放棄を含めた平和理念を堂々とうたったものは、あまり例がない。世界の中でもユニークなもの」(「憲法9条と私 元内閣官房長官 武村正義さんに聞く」、赤旗日曜版、2004年12月19日)だからです。
 私は、このことを最近知りました。日本国憲法が平和憲法とも言われるのは、このような世界に誇れる憲法第九条を持っているからです。このようなことを考えると、改憲の動きが盛んになっている中、これを阻止し、世界に誇れる平和の理念を守ることは、日本だけでなく、世界の平和のためにも大切な課題であることが分かります。
 アインシュタインが平和主義者であり、日本びいきであることは知っていました。しかし、それが、どれほどのものかは知りませんでした。そのことを知ったのも最近です。アインシュタインは、次のような言葉を残していたのです。

 世界は進むだけ進んでその間、幾度も闘争が繰り返され、最後に闘争に疲れるときが来るだろう。その時、世界の人類は必ず真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならぬ時が来るに違いない。その世界の盟主は武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、且つ、尊い家柄でなければならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰り、それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならぬ。我等は神に感謝する。天が我等人類に日本という国を造っておいてくれたことを。『世界に誇る日本の道徳力』、石川佐智子著、コスモトゥーワン 、2006年、p22-23)
 このような文章を読むと、日本人としての誇りを感じてしまいます。と同時に、アインシュタインの期待に応えるためにも、平和憲法を守らなければと思います。

2024年10月24日木曜日

平和の創造を

 久しぶりに戦争映画を見ました。一人の部下を救出するために、ヘリコプターからの機銃操作で次々と敵兵を殺戮して行くシーンが印象的でした。あたかも虫けらを蹴散らすように敵兵が殺戮されて行くのです。殺戮された敵兵一人一人にも家族があり、その家族も敵兵の無事を願っていることを思いやる余裕など、みじんもないのです。
 このような戦争映画見たり、戦争もののゲームしたりすることは、多くの人間を殺戮する仮想体験をしていることになります。するとどうなるでしょうか。
 戦争で人間が殺されることに関して鈍感になってしまいます。それだけでなく、戦争そのものについて肯定的になってしまうに違いありません。戦争につきものの「人間が戦死すること」について鈍感になってしまうのですから当然です。
 どれだけの戦争映画や戦争もののゲームが出回っているかは知りません。しかし、相当出回っていることは確かです。それだけ、戦争そのものについて肯定的にとらえている人が多いと思われます。戦争したい勢力に対抗して平和を守っていくことが一筋縄で行かないわけです。
 このような状況では、いつまでも「平和を守る」というような受け身な姿勢では「戦争したい勢力」に太刀打ちできません。これからは積極的に平和を創造して行くことが必要だと思います。平和を願う人みんなが知恵を働かせ、平和を築いていくことが大切になっていると思うのです。
 その例として考えられるのは、戦争映画を見て批判的に評論すること、とか、反戦文学の創作などです。ユニークな反戦運動の創造も考えられます。また、『アサヒグラフ』(1958年8月6日号)に、「貴方の戦争防止策は?」というアンケート結果が掲載されていました。なかなか良い”問い”です。同じ
”問い”を発し続けることです。要は、知恵を集め、平和を創造していきたいものです。2005年05月29日(2024年10月24日第二稿)

2024年10月23日水曜日

差し迫った核戦争の危機

 今、憲法を変えようとする人たちの力が強くなってきています。最近の自衛隊の動きを見ても分かるように、自衛隊の存在そのものが、憲法の精神から大きく逸脱してしまっているからです。つまり、「自衛隊のイラク派遣」などの現実が憲法九条にそぐわないから、憲法を変える必要があるというのです。自民党議員に言わせると、「法解釈の変更による安全保障政策の整備は、もはや限界に達して」(自民党議員の外交・安全保障政策)いるので憲法改正が必要、となります。
 こうした主張は、「世界の紛争は武力によって解決しなければならない」という前提の元に成立する議論です。しかし、世界の紛争を話し合いによって平和的に解決する方法もあるのです。驚くことに、マッカーサ・ノート(46/2/3)にも「日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる」(『憲法講話』、長谷川正安著、法律文化社、p170)と書かれているのです。
 日本国憲法は、前文に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とあるように、崇高な理想そのものです。その気になれば、崇高な理想に従って国際紛争を解決することは可能なのです。
 そもそも、法律(法治主義)の存在そのものが、「武力による紛争の解決」に対峙する概念です。ことあるごとに武力を持ち出すのであれば、そこには法律などいらないのです。
 少なくとも現代の社会では、法律があり、法律の専門家もいますから、紛争は平和的に解決できます。日本の国内紛争に限っては、鉄砲を持ち出してやり合うようなことはないのです。同じように、国際紛争も、武力に頼らず、平和的に解決することは可能なのです。
 事実、特許紛争など、経済紛争は平和的に解決しています。さらには、政治的国際紛争を平和的に解決した実績もあります。1989年には、軍隊のない国として有名なコスタリカのアリアス大統領が、国際紛争を平和的に解決したということでノーベル平和賞を受賞しているのです。
 日本は被爆国です。当然、被爆国として、核戦争の危機を回避する先頭に立たなければなりません。しかし、国際紛争を武力によって解決しようとしている限り、それは無理です。核兵器が、強力な最終兵器として君臨してやまないからです。国際紛争の解決手段として武力を用いようとしている限り、核戦争の危機はなくならないのです。

「核戦争の危機など大げさな」と言う人もいるでしょう。しかし、ケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めことがあるマクナマラ氏も、「依然として大量の兵器が一触即発の警戒体制にある以上、冷戦の最悪期と同様、ちょっとした手違いや誤った判断で世界規模の大虐殺が起こりうる」と言っているのです、核戦争の危機などないどころか、核戦争が起きる「可能性は、子供がマッチと火種を一緒に手にしているのと同じくらい現実的で差し迫ったもの」(2005年06月20日、朝日新聞、カレン・ヴァン・ウォルフレン著「核の怪物 差し迫った脅威」)なのです。今こそ、崇高な理想に輝く日本国憲法を守り、核戦争の危機を回避する先頭に立ちたいものです。
 今年のノーベル平和賞受賞は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に決まりました。この事実は、日本に”核戦争の危機を回避する先頭に立ってほしい”と期待していることを示しているのではないでしょうか。 2005年06月24日(2024年10月23日第二稿)

2024年10月22日火曜日

なぜ人を殺してはいけないのか

 あるとき青年が、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発したことがあります。ところが、その問いに大人がきちんと答えられず、話題になったことがあるそうです。そのことを知って、「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」と考えこんでしまいました。確かに、当たり前な問いだけに難しい問題です。
 しかし、植物を例に考えるとよく分かります。つまり、その辺の雑草などは、刈り取られても踏みにじられていても、悲しむ人は誰もいません。それに対して、大切に育てた盆栽などは、変に切られたり、棄てられたりしたら大変です。盆栽を育てた人は、とても怒り、悲しむことでしょう。
 ほとんどの人間は盆栽と同じです。多くの人々に大切に育てられ大きくなるからです。従って、人が殺されれば、必ず悲しむ人が存在することになります。だから、人を殺してはいけないのです。しかし、よく考えると、人が殺されれても必ず悲しむ人が存在するわけではないことも事実です。身よりの無い一人暮らしの人などがよい例です。
 そうすると、もっと根源的な根拠が必要になってきます。
 そこで登場するのが、憲法の、基本的人権であり、「二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権です。「生活を営む権利」は「生きる権利」でもあるのです。この権利を認めることで、「何人も人の生きる権利を奪ってはならない」という言葉が導き出されます。
 つまり、何人にも、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するので、何人も、そんな人の生きる権利を奪ってはならない(人を殺してはいけない)のです。

2024年10月21日月曜日

今こそ軍事費を削り教育立国を

 著書『時代に生きる思想』(真下信一著、新日本出版社信一著、新日本出版社、1971年)に、マルクスの言葉「人間の最高の天分である理知と学問を軽蔑するならするがよい。そうすりゃ、悪魔に身をまかせたのも同然で、滅びていくに決まっている。——『ヘーゲル法哲学』助言——」が引用されていました。同じようなことを日本を例に言及していた論文があります。渡辺一夫氏の「進歩について」です。次のように言及されていました。
 「第二次大戦開始の時から、日本の周囲では、様々な事件が起り様々な努力が払われ、様々なことが考えられていたにも拘らず、我々は、それを知り理解し消化することを、或る時はやむを得ぬ管理方針により返る時は偏狭な圧迫によって禁ぜられてきたし、禁ぜられたままの井中蛙(傍点部分)的生活を常態と考えやすくなって」(注)いました。「特に戦前の日本においては、新知識を輸入することは国賊非国民となることであり」(注)ました。その結果日本は、滅びたも同然の敗戦を迎えてしまったわけです。
 だからこそ、「国民がどんな新しい知識でも平気で我物とすることを、国民全体が志し、国民全体がこれを望むならば、どんなに日本は生々とした国になるか判らぬし、それでこそ、日本固有の文化も新しい道に甦ることになるのであろう。高度の資本主義の上に立つアメリカの民主主義も進行中の共産主義の上に立つロシヤの民主主義も、皆、我々が平然として研究し論考すべき対象でなければならず、日本という国の実情に一番合致した方針を樹てるように考えるべきであると思う」(注)というのです。
 しかし現実は、軍事予算は大幅増としながら、教育予算は年々削られ、大学の授業料値上げが検討されているのです。このままでは、マルクスが指摘しているように「悪魔に身をまかせたのも同然で、滅びていくに決まって」います。大学の授業料値上げなど、もっての外です。今こそ軍事費を削り、教育立国を目指すべきです。

(注)「進歩について」『渡辺一夫著作集 10・偶感集 上巻 』、筑摩書房、1970年、p402~403)

2024年10月20日日曜日

生きる力を育てる

 力持ちとは、筋肉の力のことです。では、生きる力とは何の力でしょうか。私は、脳の力、特に、前頭葉の力(機能)が生きる力になっていると思っています。ちなみに、脳の力でも、旧皮質の力は生命力のことである。このように考えると、前頭葉を絶えず使って鍛えることが生きる力を育てることになります。
 作家の藤原審爾さんによると、「生きる力は毎日の生活のなかで育つ。たとえば、おいしい料理を作ること。苦労して生活をより快適にする工夫のなかから、それは生まれる」(1977年9月11日、赤旗日曜版)と書いています。また藤原審爾さんは、「快い芸術とのふれあいの積み重ね」も生きる力をつけるとも言っています。よく考えると、これらはすべて、前頭葉に関係するものばかりです。
 問題は、意識してこれらのことをやるかどうかです。何の気もなく生きていれば、ただ時間が過ぎていくだけであり、生きる力が育つことはありません。意識しておいしい料理を作ったり、生活を快適に工夫したりすることが必要なのです。野球を観戦するときだって、なんとなしに観戦するのではなく、なぜ投手が打たれているか考えたり、打者の心理を予想したり、と能動的に観戦すれば、前頭葉が働き生きる力を育てることになるのです。
 しかし、何事もバランスが大事であり、片一方に偏ってはいけなません。生きる力が大切と言っても、前頭葉を働かせるようなことばかりの生活も良くないような気がします。生きる力を育てることを忘れなければ、十分に頭を使ったら、のんびりと受動的に野球を観戦したり、ドラマを見たりするのも必要だと思います。これが、生活におけるO N ,OFFというものではないでしょうか。
 そういえば、O N ,OFFの生活の一例を思い出しました。それは、「私は七十五歳の現在も、どうやら毎日、原稿用紙に向っているし、その間は精神の戯れに喜びを覚え、仕事が終ると、教室から解放された中学生のように、やはり愉快な気分のなかで、好きな本をとりあげるのである」(「老年の生き方について」『人生を愛するには 仙渓草堂閑談』、中村真一郎著、文芸春秋、1995年、p51)というものです。一仕事を終えて、が”O N”で、ホッとして好き本をとりあげる、が”OFF”です。このような快適な生活を工夫することで、生きる力をが育てられるのだと思います。

2024年10月19日土曜日

死を忘れられる生き方

 どのように死を迎えたいか、ずっと関心を持ち続けてきました。そして、カントの「これでよし!」と満足して死を迎えたという話に憧れてきました。そんなこともあり、『私の大往生』(文春新書)に目を通しましたが、心惹かれる大往生は見当たりませんでした。
 しかし、見つけました。「死について哲学的考察などする余裕はない」と生きることに専心していた素敵な先輩がいたのです。

 近世後期の流行文筆家、頼山陽は死の床にあって、自分は残された著作の完成に専心しているので、、昂然と公言したそうだし、今世紀最大の小説『失われた時を求めて』の校正中に死を迎えたブルーストも、「自分にとって死はこの世から別の世に通過する一瞬に過ぎず、考察にあたいしない」と呟いて、脇目もふらずに原稿に書き込みをつづけていたという。(「老年の生き方について」『人生を愛するには 仙渓草堂閑談』、中村真一郎著、文芸春秋、1995年、p45)
 この二人の生き様を、死の迎え方をどう表現すべきかを考えてみました。そして、死に頓着しない、死を忘れられる生き方になりました。物事に熱中していると、食べるのも忘れることがあります。同じように、死が近づいてきていても、それに気づかないほど熱中できるものがあればいいのです。

2024年10月18日金曜日

夕べの死を間近にひかえて

 著書『読書のよろこび』(中村真一郎著、新潮社、1991年)を再読し、老齢を自覚した著者の”生きている数少ない愉しみのひとつ”を知りました。「夕べの死を間近にひかえて、老年の朝(あした)に新しい道を聞き知るのも、生きている数少ない愉しみのひとつと言うべきだろうか」(p99)というのです。
 その例として、「新しい翻訳や、それに附せられた注釈のたぐいは、旧来の私の知識からの類推を持ってしては、想像もつかないほど遠くまで進んでいる」(p98)ので、そうした新しいものに触れると「時々、今まで自分が何を読んでいたのか、と驚かされることになる」そうです。そうした新鮮な驚きが、著者にとっての愉しみのひとつなのでしょう。
 ここで大切なことは、驚きや感動を記録しておくことです。そうして、驚きや感動といった愉しみを一回きりのものに終わらせないことです。こうして書いていて気づいたことですが、驚きや感動を記録する過程は、驚きや感動をじっくりと味わえる過程でもあったのです。
 著者の「数少ない愉しみのひとつ」を知ったとき、咄嗟に思えたことは、「愉しむだけでもいいんだ(そこから新たに創造をしなくても)」ということでした。それで心が一瞬軽くなったのです。その辺の心の動きをどう考えたらいいのかは、今後の課題になりそうです。

2024年10月17日木曜日

生はいつでも未完成

 悟りというものは、宗教を通していられるもののようなニュアンスがあります。しかし、言葉の力のみで悟ることもできるという言葉を見つけました。「個人の生はいつでも未完成なのです。こんな当たりまえのことも、私には一つの悟り」(『カントの散歩』、玉井茂著、勁草書房、p69)だというのです。なるほどと思いました。なぜなら、自分のことを振り返ってみると、未完成のものばかりと言って良いくらいでした。それゆえ、そん状態に焦りのようなものを感じていました。しかし、どんなに成長できたとしても「生はいつでも未完成」であることが分かって、「それでいいんだ」と心が軽くなりました。これって、一種の悟りではないでしょうか。 
 また、玉井茂氏にとっては、スピノザの言葉「嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、ただ認識すべし」が、「今でも私にとっての悟りの境地であり、最高の心術と思って」(p69)いると書いています。この言葉は、前の言葉と対になっているように思えます。「生はいつでも未完成」であることを自覚して「焦りもせず、ただ認識すべし」とも言えるからです。
 そこで、二つの言葉を合体させて、新しい言葉を作ってみました。「嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、焦りもせず、ただ認識すべし。生はいつでも未完成だからです」あるいは、「生はいつでも未完成です。それゆえ、嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、焦りもせず、ただ認識すべし」です。

2024年10月16日水曜日

時間感覚を伸ばす

 昨日、「ゆっくリズム」で豊かな人生を送ることで「時間感覚を伸ばす」ことができると書きました。ところが、『源氏物語』などの古典を読むことで、「一世紀に及ばない時間の感覚を想像力によって、人は過去に向かって延長することが可能」(注)だというのです。「つまり、大昔に書かれた小説や、近代の作家が遠い過去を再現してくれる作品を通して、私たちは自分の短い生命を内面的に延長できる」のです。
 このことに関して、「人間は考える葦である」と言ったパスカルが感動的な言葉を残しています。
 「私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。(『パンセ』、No.348)です。「考えることによって、私が宇宙をつつむ」とは、なんという壮大な言葉でしょう。これこそ、「時間感覚を伸ばす」究極の方法論です。「無限なる時間と空間を生きる」秘訣です。

 (注)私たちの人生は過ぎてしまえば、あっと思うほど短いものである。七十歳の老翁となった私などには、特にその感が深い。しかし、その一世紀に及ばない時間の感覚を想像力によって、人は過去に向かって延長することが可能である。
 たとえば『源氏物語』を読むことによって、私たちは藤原道長の頃の宮廷人の日常生活を、あたかも自分自身の過去の記憶であるかのように甦らすことができる。あるいはまた、ウォルター・ペイターの『快楽主義者マリウス』を飜すことで、ローマ末期を生き直すことができる。
 つまり、大昔に書かれた小説や、近代の作家が遠い過去を再現してくれる作品を通して、私たちは自分の短い生命を内面的に延長できるわけである。
 が、勿論、そうしたことを可能とするのは、フィクションには限らない。平安朝盛期を生きるためには、『源氏物語』の他に、その時代の支配者だった道長の日記『御堂関白記』や、挿話のスケッチ集である『枕草子』や回想記『かげろふの日記』などの事実を記したものが、大いに有意義である。(『読書のよろこび』、中村真一郎著、新潮社、1991年、p88〜89)

2024年10月15日火曜日

「ゆっくリズム」で豊かな人生

 だいぶ前に、「ゆっくリズム」(注)という文章を書いていました。そこで、“ユックリズム”をネット検索し、「“ユックリズムの精神”で生活する。そこに余裕のある人生、豊かな人生が生まれる」(「ストレスのない“ユックリズムの精神”で生きる ~スロー・ライフでこころ豊かな人生を~」、黒岩徹)という言葉を見つけました。ゆっくりと生活していると、”余裕のある人生”だけでなく、”豊かな人生”も待っているというのです。
 自分の文章の中にも、光るものを見つけることができました。「人生は短いのだ。それなのに、焦ってスピードを出せば、あっという間に人生が終わってしまう」ということです。前からの課題に、時間を長く感じる方法というのがありました。その答えは、ゆっくり生きることだったのです。しかも、ただゆっくり生きるにではなく、生活を味わうことが大切なようです。
 例えば、「ゆっくりと味わって食べる」と題して「目で見て、香りをかぎ、口に運び、ゆっくりかんで味わう。五感を研ぎ澄ませながら食べる朝食は、瞑想と同じ効果があります(マインドフル・イーティング)。また、口腔粘膜に食べ物が接触すると、それが脳に届いてオキシトシンが分泌。満腹感はもちろん、幸福感を感じやすくなり、自己肯定感を高めてくれます」(カーショップで読んだ雑誌)とありました。豊かな人生とは、食べ物をゆっくりと味わうように、生活も味わえる人生のことではないでしょうか。

(注)菜根譚に「自分を鍛えるときには、金を精錬するときのように、じっくり時間をかけなければならない。速成では、どうしても底が浅くなる」(『中国古典 一日一言』、守屋洋著、PHP研究所、p352)という意味の言葉がある。朝の連続テレビ小説『ゲゲゲ』でも、新人賞に応募しようとして焦っているアシスタントが、「焦らないで、じっくりと構えていかないと行き詰まるようになってしまうよ」と諭される場面があった。
 本を早く読みたい、本をできるだけ多く読みたい、ということは、すでに、そこには焦りが存在している。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という言葉もあるが、人生そのものも、焦りは禁物である。それでなくとも、人生は短いのだ。それなのに、焦ってスピードを出せば、あっという間に人生が終わってしまうではないか。
 短い人生を、できるだけ長く感じるためにも、人生はゆっくりと歩きたいものである。そのためには、常日頃から急ぐということをできるだけ少なくしたほうが良い。読書も、例外ではないのだ。ということは、ドライブも焦りは禁物なのかもしれない。ドライブは、どうしても急ぐ傾向がある。この癖もなくし、ゆっくり走る楽しみ、心に余裕を持って走る楽しみを身につける必要がありそうである。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」である。 2010年08月05日

2024年10月14日月曜日

自分を活かす人生

 最近、昔書いた文章を読み返しています。描いたものの、すっかり忘れてしまっていることに気づいたからです。「勉強の対象について」(注)も、すっかり忘れていました。しかし、「胃にしろ、体全体にしろ、その存在を忘れるほどに熱中するものがあり、そうした熱中時間が多くなるほど健康度は増進する」といった内容については、すっかりとその思想が身についていたことがわかりました。よく考えてみると、すかり忘れていたわけでなかったのです。

(注)『自分を活かす人生』(本田静六著、三笠書房)を当面の座右の書として、しばらく何度も読み直して見たい。最も学びたいことは、「仕事の面白さは努力の質と量に正比例する」(p54)という勉強に対する姿勢である。「努力は始めは多少苦しくとも、これを続ければ、必ずや面白く、道楽になる」というのである。
 このところを読んで、これからの人生、何を対象に努力したいだろう、と考えてしまった。そして、文章を書く努力をして見ようと思った。「文章もまた、少し辛抱して書き続けると、面白く道楽になる」(p55)というからだ。初めは医学関係の文章に集中して、それが一段落したら、思想関係に集中し、その頃は、数学などの自然科学系にも食指を伸ばして見たい。それはなぜか。
 体のことを忘れるほどに、体以外の分野に目を向けて勉強して見たいからである。胃などが正常であれば、普段は胃の存在など忘れているものである。しかし、胃の調子がおかしくなると、胃の存在が気になり始める。胃にしろ、体全体にしろ、その存在を忘れるほどに熱中するものがあり、そうした熱中時間が多くなるほど健康度は増進する、そう思うから、思想関係に、あるいは、数学など自然科学系にも関心を向けて、それらの勉強(努力)をして見たいのである。2009年08月14日

2024年10月13日日曜日

リーマン予想について

 だいぶ前に「リーマン予想について」(注)を書いていました。そのときの「単なる素数に関する難問が、原子論や宇宙論にも影響を与え、さらには、<「リーマン予想」自体に宇宙に潜む未知の法則が隠されているかもしれない>(明治大学教授、砂田利一)」という予想がみごに的中していました。「素数の規則性の発展史」(2022年7月16日)で解説されているように、素数の規則性に関するゼータ関数によって導き出された数式と、原子核のエネルギーに関する数式が見事に一致していたのです。全く凄いことです。

 (注)世界の数学者を悩ませ、魅了してきた「リーマン予想」という数学の難問があります。このような問題があることだけは知っていました。そして、多くの数学者を悩ませてきた難問だけあって、どんな問題なのかさえも、知ることはできないと思っていました。しかし、朝日新聞(2010年02月01付け)に、<未征服の最高峰「リーマン予想」裾野を歩いてみませんか>という見出しを見つけ、「新聞に数学の記事?」と思いましたが、見出しに魅かれて読んでしまいました。
 するとどうでしょう。よほど優れた解説文だったのでしょう。遥か昔に高校数学を学んだ程度の私にも分かったのです。それだけでなく、「リーマン予想」の裾野を歩かせていただいただけですが、新鮮な発見があって驚いています。その一つが、「リーマン予想に多くの数学者が挑む中で、すでに様々な発見が生まれている」ということです。
 さらに驚いたのは、単なる素数に関する難問が、原子論や宇宙論にも影響を与え、さらには、<「リーマン予想」自体に宇宙に潜む未知の法則が隠されているかもしれない>(明治大学教授、砂田利一)ということです。何か、広大な世界を散策した気分です。2010年02月01日月曜日

2024年10月12日土曜日

輝かしい70歳代

 前に、「輝かしい60歳代」という文章(注)を書いていました。今ではすでに70代に入っていますが「輝かしい70歳代」でも、立派に通用する内容です。特に後半部分については、「その気になったら、勉強できることは山ほどある」(NHKテレビドラマ『カーネーション』の主人公糸子のセリフ)という言葉で言い表すこともできます。幾つになっても、「その気になったら、勉強できることは山ほどある」のです。年齢に応じて、できることに違いはあっても、勉強できることは山ほどある」のですから、老いのマイナスイメージなど吹き飛ばしてしまいば良い、そう思います。

(注)とうとう60歳になった。還暦を迎え、新しい人生が始まったことになる。ある意味嬉しいことなのだ。そうだ、ピカピカの一年生のような、輝かしい人生のスタート地点に立ったのである。何といっても、50年の歳月をかけて積み上げたきたものがある。それを踏み台にして新しい人生を始めることができる。そう考えただけで、これから始まる人生の楽しみが増えてくる。
 やりたいことが山ほどある。やらなければならないことも山ほどある。これほど素晴らしいことがあるだろうか。人生において何が辛いかといったら、意味のないことを強制されることらしい。だからこそ、自分の意志で、やりたいこと、やらなければならないことをやれることが素晴らしいのである。
 一見すると、「やっていくのは辛いこと」に見える。確かに、追い込まれるように、強制されるような気持ちで「やらなければならないこと」をやるなら、それは辛いことになる。しかし、意識を切り替え、やらなければならないことも、自分の意志で自らの課題としてやることもできる。だからこそ、やらなければならないことでも、山ほどあるのは素晴らしいことと言えるのである。輝かしい60年代に乾杯。2008年03月19日

2024年10月11日金曜日

死の恐怖対策

 震災のあった頃、「死の恐怖対策」という文章(注)を書いていました。前頭葉を発達させる、鍛えることが長寿を支えているらしいことは感じていましたが、前頭葉を鍛えることは、同時に死の恐怖も和らげてくれそうです。

(注)3月の大震災後、都内の売り場からトイレットぺーバーが消える事件が起きた。東京に住む多くの人がトイレットぺーバーがなくなると信じ買いに走ったことが原因らしい。もっとも抽象度が低い大脳辺縁系あたりで発生した恐怖の情動がそうさせたもので、情動が優位になった時点では物事を冷静に判断できなくなるのである。
 ところで、死の恐怖も、抽象度が低い大脳辺縁系あたりで発生した情動であることに変りがない。ということは、同じような環境にありながら物事を冷静に判断できた人がいたように、抽象脳を鍛えることで、死を冷静に受け止められるようになるのではないだろうか。哲学者のカントや物理学者のアインシュタインが、その良い例である。
 たとえば、カントは「これでよし」と言って世を去ったというし、アインシュタインも、「自分の地上での仕事はおわった」と,まるで近づく自然現象でも待っているかのように,死をおそれず,静かに、感傷もなく,悔いもなく,この世を去っていったそうです。(『40代からの脳と体のバランス健康法』,久保田競著,築地書館,1994年,p176~177)どちらも、抽象脳の天才と言っても良いような人である。カントやアインシュタインに少しでも近づくことで、死の恐怖を乗り越えたいものである。2011年12月12日月曜日

2024年10月10日木曜日

時間と仕事のルーチン化

 人間の行動のほとんどは、無意識に行われています。三日坊主になりやすかったり、時間に流されやすかったりするのは、そのためです。だからこそ、やること、やりたいことを決めて行動するだけでなく、それらが無意識にできるように、ルーチン化することが大切です。
 例えば、朝起きたらすることを、起床時の体操、洗顔、新聞をさっと読む、散歩、などときめることが時間のルーチン化です。一郎選手がやっていたというバッターに立つ前にするルーチンは、イメージトレーニング、素振り、深呼吸などでした。料理の献立も一つのルーチン化です。このような、ルーチン化された行動が増えるほど、流されることのない密度の濃い人生を送ることができるようになります。
 千日回峰行を2度満行した稀代の行者酒井雄哉さんは、”健康の秘訣は?”と聞かれて、「朝早く起きて夕方早く寝て、よく食べてゆっくり寝る。毎日、ぐるぐるぐる、同じことを繰り返すことじゃないですか」(『幸せはすべて脳の中にある』、酒井雄哉著、朝日新聞出版、2010年、p13)と答えています。ここでいうところの繰り返しも、ルーチン化です。
 同じことの繰り返しでも、”日々新た”であること自覚することが大切のようです。「また新しい一日が来て、また新しい気持ちで歩いて、『今日も終わったなあ』と思う。また新しい一日が来る。〜〜」(上同、p16)と。

2024年10月9日水曜日

世界平和実現の使命

 著書『情報との出合い 語り下ろし』、縫田曄子著、ドメス出版、1999年縫田曄子さんは、留学中に会えたノーベル平和賞受賞者エミリー・パルチさんから、日本女子大学教授の上代たのさんを紹介されました。「エミリー・パルチさんは国際平和自由連盟の名誉会長で、上代たのさんは 日本の支部の代表をされていた」(『情報との出合い』、p65)のです。
 それでは、と、上代たのさんの著書を調べて、『上代たの文集』(上代たの文集編集委員会編、日本女子大学英文学科、1984年)を見つけることができました。ちょっと読んで、すっかり魅了されてしまいました。「百歳への希望」で紹介した「エドナ・ミレーの詩「新生」が素晴らしかっただけでなく、著書の<「期待される人間像」中間草案をよんで>という一文中で、「われわれは目前のナショナル・インタレストに眼を奪われて、世界平和実現への日本の役割ないし使命を忘れてはならない。日本が戦後とろうと決意した平和国家実現の姿勢は世界平和実現の使命達成という仕方で維持するのでない限り、この事案にもられているような現(うたが)実主義的平和論が国家主義と猜われるのもやむを得ないと思われる」(p44)とあったからです。
 この中の「世界平和実現への日本の役割ないし使命を忘れ」「日本が戦後とろうと決意した平和国家実現の姿勢は世界平和実現の使命達成という仕方で維持するのでない限り・・・・」ということは、あまり正面切って語られることはなかったように思えました。だから余計に、この言葉が心に染み入ったのかもしれません。
 改めて日本国憲法前文を読んでみました。
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
 とあります。これこそまさに「世界平和実現への日本の役割ないし使命」です。しかし現実は、そうした使命を忘れ、国防という一点、つまり、”中国や北朝鮮の脅威から日本を守る”という一点に集中してきました。それでは国防もままならないのです。今こそ、上代たのさんの声に耳を傾ける時なのかもしれません。

2024年10月8日火曜日

百歳への希望

 2009年に、「百歳への希望」(注)という文章を書いていました。多くの100歳を迎えた高齢者に共通するのは、幾つになっても人生を楽しんでいることです。それだけ脳が若いということであります。特に前頭葉が活発のようです。北斎など、著名な芸術家がそれを証明しています。
 最近見つけたエドナ・ミレーの詩「新生」を読むと、心の力強さ、魂の力、偉大さに驚きます。老いというモヤモヤも吹き飛ばしてくれそうな、この力強い魂の正体はなんでしょう。前頭葉の持つ力に違いありません。

世界も吾が心より宏くない
大空も魂より高くない
心は海をも陸をも意の如く押しやり
魂はみ空を真二つにさいて、
神のみかほを照らしだす
けれども、世界を意の如く出来ない心は
やがて世界におしつぶされる
低くいやしい魂には、
やがて大空さえ
おしかぶつてくるであらう。(「エドナ・ミレーの詩「新生」の最後の十二行」『上代たの文集』、上代たの文集編集委員会編、日本女子大学英文学科、1984年、p383〜384)

(注)「100歳超えても現役」(朝日新聞、2008年9月10日)という新聞の切り抜きがある。
 書道歴50年で月に4回の書道教室を開き、90歳で初めて海外旅行に行ったという100歳の菅谷藍さん。「定年後の暮らしに潤いを」と53歳の時に茶道を習い始め、弟子を持つまでになり、その上ノートに栽培記録を書きながらイチゴを育ている101歳の間宮廣さんが紹介されている。このような100歳老人に、できることならあやかりたい、そう思って、このような記事は必ず読むようにしている。だから、「100歳万歳」というテレビ番組もよく見るようにしている。
 また、「100歳老人」というファイルには、朝から晩まで新薬作りに励む佐藤茂蔵さんと、囲碁や菊作りと趣味豊かな川瀬直治郎さんなど数人の「100歳老人」が紹介されていた。皆、目標をもって生きているのが印象的だ。しかし今回は、「百歳への希望」をもてる発見があった。川瀬直治郎さんは、六十になるまではほんとうに体が弱く、医者にも「長生きできん」と言われていたという。それなのに、その後は医者にかかなくてもよくなったというのである。つまり、60歳まで病弱であっても、100歳まで生きられるという事実を発見できたのである。
 働き者、被爆にめげずという広島の西久保健次郎さんの存在にも勇気づけられたが、川瀬直治郎さんには、もう一つ、大切なことを教えられた。普通、医者に「長生きできん」と言われていたら、それがマイナス暗示となり、とても長生きできるとは思えない。しかし、マイナス暗示をはねのけて、長生きできるという事実である。その大きな要素は、20歳のころから囲碁を続けており、「相手がいないときは、ひとりで新聞の並べて楽しんでます」というくらいに毎日頭を使っていることではないだろうか。
 つまり、囲碁の楽しみが「マイナス暗示」を受け付けず、逆に、跳ね返してしまったとしか言えようがない。それだけ、日々、没入できる仕事や趣味を持つことが、とりわけ、100歳を目指すものにとっては、重要なことといえよう。2009年08月07日

2024年10月7日月曜日

マルクスの再評価を

 斎藤幸平さんの「資本主義批判に向かった理由」(注)を知って、勉強の対象を大きく変える必要があるのではないか、と思ってしまいました。「今の社会は、搾取や環境破壊を前提として成り立っているから」、「啓蒙だけではどうにもならないので」あり、それゆえ、「根底にある社会システムを変えなければならない」というのです。つまり、「格差だけでなく、環境危機に関しても、資本主義の枠組みでは解決できない」(『天才たちの未来予想図』、斎藤幸平他著、マガジンハウス、p80)のです。
 ということは、戦争そのものも、軍事産業が大きく関与していることを考えれば「資本主義の枠組みでは解決できない」ことになります。戦争反対という意識が先行しても、資本主義の枠組みを変革しない限り解決できないことになります。だからこそ、マルクスの再評価が必要なのであり、マルクスが明らかにした”この社会を根底から突き動かしている正体”を明らかにしていきたいと思ったのです。

 (注)世界一の経済大国として大きく発展しているアメリカに日本よりも貧しい人が大勢いるということは、もっと抜本的に社会の仕組みそのものを変えなければいけないのではないかと考えるに至ったのです。きっかけとなったのが、マルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』の一節です。
意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する
 この言葉に触れ、自分の考えが大きく変わりました。いくらみんなで「格差をなくそう」「環境を大切に」と啓蒙したところで、社会は変わらないというのです。なぜ変わらないかといえば、今の社会は、搾取や環境破壊を前提として成り立っているから。コンビニやファストフードのような低賃金・長時間労働かつ環境負荷の高いものが、金儲けのために溢れている以上、啓蒙だけではどうにもならないのです。だから、根底にある社会システムを変えなければならない。それが、資本主義批判に向かった理由です。(上同、p78〜79)

2024年10月6日日曜日

禅的な生き方

 前に見たテレビで、娘と夫を亡くして一人暮らしをしているおばあさんのことを放送していました。一時は何もする意欲を無くしたおばあさんですが、お地蔵さんの前掛けを作るようになってから元気を取り戻したました。以来毎日毎日お地蔵さんの前掛けを作る生活を続けたというのです。そんなおばあさんの生き方を知って、「お地蔵さんの前掛けを作りながら、毎日毎日亡くなった夫や娘さんと対話している」ように思えました。
 なぜ、このような人生に興味を覚えたのか、考えてみました。そして思ったのが、宗教的な無心な境地です。信じる心を持って、ただひたすら「お地蔵さんの前掛けを作る」という行為が禅の行そのものに思えたのです。ということは、私の心の中では、このような禅の行になるような生き方を求めているのかも知れません。
 そういえば、高校生のときに”作りに夢中”になったときがあり
ました。そのときも、考えてみれば禅の行のようなものでした。ただ、そのときは数日続いただけです。しかし、禅の行のような生き方となると、”夢中な行為”、あるいは、”無心な行為”を毎日続けることが必要です。
 そのためには、無心になれることを探すことです。しかし、すぐにでもできることは、どんなことにも一生懸命取り組むようにすることです。今まで嫌だなと思っていたようなことも、心を入れ替えて、一生懸命やってみるのです。そうすれば、すぐにでも「禅の行に似た生き方」ができそうです。さあ、明日から、いや、今から実践してみましょう。ひょっとしたら、これこそが”現在に生きる”ことなのかもしれません。

2024年10月5日土曜日

「国連憲章を守れ」こそ、戦争終結への道

 ウクライナから中東へと戦禍が拡大して、その勢いが止まりません。最近は、連日空爆のニュースが報じられているのが現状です。このような状態を座視するしかできないことにもどかしさを感じていました。
 そんな時、石破首相の所信表明で”戦争終結へのビジョンが示されていない”という日本共産党田村委員長の批判を知りました。「いま現実に起きているロシアによるウクライナ侵略や、イスラエルによるガザでのジェノサイド(集団殺害)をどうやって終わらせるのか」(注1)、そのビジョンが示されていないと発言していたのです。
 それでは、日本共産党は、どのような”戦争終結へのビジョン”を示しているのかを調べてみました。ありました。「軍事同盟・軍事ブロックでは平和はつくれない」ことを確認し、「憲法9条をもつ日本が、ASEAN(東南アジア諸国連合)と協力して、東アジアサミット(EAS)という地域のすべての国を包摂した平和の枠組みを発展させることにこそ、東アジアに平和をつくる道である」(注2)ことが日本共産党の”戦争終結へのビジョン”だったのです。
 国連でも、ロシアのウクライナ侵略開始1年にあたって開催された国連総会緊急特別会合(2023年2月23日)において、「国連憲章の原則に従ったウクライナの包括的、公正かつ永続的な和平」を求め、そのための「外交努力への支援の倍加」を国際社会に要請する決議案を、141か国の賛成多数で採択していました。

(注1)安全保障の問題では、石破首相が「ウクライナは明日の東アジア」などと脅しつけた一方で、「いま現実に起きているロシアによるウクライナ侵略や、イスラエルによるガザでのジェノサイド(集団殺害)をどうやって終わらせるのか、日本はどういう立場をとるのか、戦争の心配のない日本と東アジアをどうやってつくるのかというビジョンをまったく示していない」と批判しました。(「石破首相所信表明/自民党政治の劣化示す中身のなさ/田村委員長が批判」より)

(注2)軍事同盟・軍事ブロックでは平和はつくれない。これこそヨーロッパの教訓である。日本共産党が「外交ビジョン」で呼びかけてきたように、憲法9条をもつ日本が、ASEAN(東南アジア諸国連合)と協力して、東アジアサミット(EAS)という地域のすべての国を包摂した平和の枠組みを発展させることにこそ、東アジアに平和をつくる道であることを、強く訴えたい。(「『国連憲章を守れ』の一点での団結強化こそ戦争終結の道――軍事対軍事でなく、包摂的な平和の枠組みを」より)

2024年10月4日金曜日

死を選択する

 「賢人の考え必ずしも真にあらず」そう感じた言葉があります。「人間は、死を克服することができなかったので、自分を幸福にするために、それをあえて考えないようにくふうした・・・・」(パスカル)と「自由な人間は、何よりも死について考えることがない。彼の知恵は、死についての省察ではなく、生についての省察である」(スピノザ)です。
 ちょっと読むと、確かに、いつかはやってくる死です。それをあれこれ考え込んでもしようがない面もあります。しかし、死に様というものにいろいろあることを考えると、どのような死を選択すべきかを考えたくなるのも自然です。つまり、人間は、死を避けることはできないけれど、死を選択することはできるのです。もちろん、自分では選ぶことができない「不慮の死」というものもありますが。
 先ほどの言葉は、「考える」でなく「思い悩む」とか「気に病む」にすれば、いくらかは真実に近くなります。どちらも生産的な言葉でないからです。どちらにせよ、よりよい”死を選択できる”ためにも、死について「思い悩むのではなく考えること」は重要なことなのです。

2024年10月3日木曜日

一輪の花

 玄関に一輪のコスモスがあります。それだけで玄関に潤いが出たから不思議であす。そう言えば、朝日新聞(2009年09月09日)の『街のエジソンたち』という記事の中に「戦後も、野菜を買いにくる客は花を分けてほしがった。石炭重視のエネルギー政策の中で、炭鉱町の人々に花を飾る心の余裕があったのだろう」という文章がありました。一輪の花を飾れたということは、心に余裕ができたからに違いありません。
 花を飾る前には、気になっていた玄関のクモの巣を取り除き、玄関周りをきれいにしました。二日ほど玄関の掃き掃除もしました。風水によると、それだけ、玄関からの気の流れが良くなったことになります。そうした目に見えない気の流れが、心の余裕を生み出してくれているのかもしれません。
 物事が良い方向に動き始めると、相乗作用で好循環が進み、どんどん良い方向に物事が進んでいくようになる、そんな気がしてきました。「逆もまた真」です。悪循環の歯車に加速がつく前に良い方向に舵取りできて本当に良かったです。一輪の花を絶やさず、好循環の羽車を回し続けたいものです。
 次の日、一輪の花に仲間を加えてみました。コスモスに猫じゃらしと水草の花を添えてみたのです。その結果、玄関がいっそう華やいだ感じになり、それだけで嬉しくなってしまいました。記念に写真を撮ってしまったほどです。花でさえ、仲間がいるとこれだけ違うのです。人間も仲間が大切なわけです。

2024年10月2日水曜日

限りなき成長を目指して

 目標は大きい方がいい、しかも、到達できそうもない目標にするといいそうです。その例としてイチロー選手を上げていますが、「イチローは10割打つことを目標にしているから3割打者になってもモチベーションを保ち続けることができる」(生涯学習開発財団認定コーチ 大谷由里)と言うのです。
 そういえば、芸術家も科学者も、飽くなき探求心を持っている場合が多いものです。浮世絵画家の葛飾北斎もそうですが、宇野千代 さんが「人形師天狗屋久吉」に描いた人形師の天狗屋久吉も、死ぬまでより良い作品を追求したようです。科学者も同じです。そもそも、宇宙が無限であるように科学者の研究対象は無限です。そういう意味でも、科学の研究には終りがないのです。
 脳科学も日々進歩していますが、その脳科学は、脳には無限の可能性が秘められていることを明らかにしています。誰でも、人は死ぬまで成長することが可能なのです。ということは、芸術家や科学者だけでなく、誰でも飽くなき探求心を持って生きて行くことが可能なのです。しかし、それだけの目標がなければ、それも無理です。到達できそうもない目標が大切なゆえんです。

2024年10月1日火曜日

幸福感度を発達させる

  同じ出来事に遭遇しても、人によって捉え方はさまざまです。毎日目覚めること、三食食事が食べられることなど、何も感じない人がほとんでしょう。そうした何気ない日常のできごとにも、感謝を抱いたり、幸福感を感じたりする人もいるようです。ブックデザイナーの名久井直子さんもその一人で、彼女は、「日常の細部に喜ぶ」(『PHP』、2023年10月、p27)というエッセーで日常的なさまざまな楽しみを紹介しています。
 斉藤一人さんによると「どんな些細なことにも感謝できる人は幸せ。結局何があっても幸せと思う人を誰も不幸にすることは出来ない」そうです。同じようなことを宇野千代さんも言っていたことを思いだしました。ご飯を食べられて幸せ、朝目を覚まして幸せ、と日常の些細なことにも幸せを感じることができる才能について言及していたのです。確かに、同じご飯を食べても、当たり前に感じている人と、ご飯を食べられただけで幸せと感謝できる人とでは、どちらの人が幸せか、それは言わずと知れたことです。
 このように、些細なことに感謝できるようになることはできても、「何があっても幸せ」と思えるようになるのは難しいかもしれません。特に、大きな災難があったとき、大きな失敗をしたときは、誰でも落ち込むものだからです。エジソンは、実験室が丸焼けになってしまったとき、これで、また一から始められるというようなことを言って、平然としていたそうですが、よほどできた人でない限り、エジソンのようなわけには行かないからです。
 しかし、「何が幸いするか分からない」と言われることがあるように、一時的に落ち込むことがあっても、諦めない限り、災い転じて福(吉)にすることも可能です。考えようによては、前に進む過程そのものも、幸せそのものだからです。

2024年9月30日月曜日

”現在に生きる”実例

 著書『94歳セツの新聞ちぎり絵日記』(木村セツ著、里山社、2023年)の書評(注)に、「セツさんのように、大切な人や好きなことを自分の中に抱き続けていたい」とあり、そうした生き方に、老後の生き方の実例を見せてもらったような気になりました。
 老後の不安と言ったら、健康に関する不安と孤独感に対する不安が主要なものだと思います。ですから、セツさんのように心の中の住人と対話ができれば、孤独感を抱くようなこともなくなるのではないでしょうか。
 いや、そうとばかり言えません。好きなことをやり、その成果でもある”ちぎり絵”という作品があります。その過程そのものが”現在に生きる”ことになります。つまり、セツさんの”ちぎり絵制作の過程”は、仏教でいうところの”空の実践”そのものであり、それゆえ、救いにもなってきたに違いありません。
 
(注)セツさんの中には、亡き人たちも一緒に生きていて、いつも大切にされているのだ。当店ではこれまでセッさんの個展を4回開催したが「回を重ねるごとにクオリティーがあがっている」という声を聞く。ちぎり絵に添えられた文章にも、チャーミングなセツさんの人柄がにじみでている。
 セツさんのように、大切な人や好きなことを自分の中に抱き続けていたい。年を重ねるのは面白い。若い頃に戻りたいとも思わない。でも、やっぱり、祖母が心を寄せていた人の話を聞いてみたかった。(山陽堂書店、遠山秀子著『暮しの手帖』、2024年10−11月号、p151)

2024年9月29日日曜日

九条の旗を高く掲げて

 常備軍の存在が平和を脅かしていることは、カントをはじめ、さまざまな論客によって論じられてきました。このたびは、常備軍の存在が軍拡競争を生み、その「軍拡競争そのものが各国に反射しあう不安と恐怖を通じて、戦争の原因そのものになるという、かなりたしかな法則」(注)と言い切っています。
 さらに現実にある常備軍の存在ゆえの悲劇に言及して、「われわれ世界の諸国民は、めいめいが軍備で針ねずみになった状態を当然として、なかばあきらめながらくらしている」(注)と書き記しています。戦闘機の騒音に怯え、米兵による度重なる暴行事件に怯えて暮らしている沖縄の状態は、まさに「軍備で針ねずみになった状態」そのものです。これからも、あきらめて暮らしていかなければならないのでしょうか。
 否です。声を上げ、1日も早く、常備軍のない日本を実現しなければなりません。そのためにも、憲法第九条の旗を高く掲げて、「軍備による平和と安全の保障をやめて、非武装的方法、非軍国主義的方法によって、平和と安全」(注)を実現していくことです。

 (注)憲法第九条は平和の理念と戦争の手段とがどうしても両立しない現実認識から出発している。この現実認識は、すでにたとえば、第一次大戦からイギリスの外相エドワード・グレイが、第二次大戦から日本の外相幣原喜重郎が引きだした結論であった。彼らが指摘したのは、軍備は安全を保障するどころか、すこし時間のはばをながくとれば、軍拡競争そのものが各国に反射しあう不安と恐怖を通じて、戦争の原因そのものになるという、かなりたしかな法則であった。戦争準備である以上、それは自明の理であるかもしれない。実際、ノエルーベーカーも指摘しているとおり、現在でこそ、われわれ世界の諸国民は、めいめいが軍備で針ねずみになった状態を当然として、なかばあきらめながらくらしているが、このような針ねずみ的武装におちこんだのは、近々七十年来のみじかい歴史にすぎない。それ以前、われわれの祖父たちはもっとちがった空気と状態のもとでくらしていたのだった。この状態は、軍備が軍備をうんだおかげである。
 憲法第九条の論理的意味は、軍備による平和と安全の保障をやめて、非武装的方法、非軍国主義的方法によって、平和と安全をはかれと命じているところにある。(久野収著「第九条と非武装防衛力の原理」『世界』、1964年6月、p130)

2024年9月28日土曜日

いじればいじるほど増大する放射能

 雑誌『朝日ジャーナル』に、槌田敦著<現代文明の鬼っ子 —— 「核廃棄物」>という記事があり、その中で核物質は”いじればいじるほど”放射能が増大することが書かれていました。(注)
 政府と電力会社は、使用済み核燃料を再処理してブルトニウムを回収し、それを燃料にして発電しようとしています。その過程で、使用済み核燃料は一度液体にされることを初めて知りました。そうして、「死の灰汁」と呼ばれている高放射能の残液が残るようです。だから、核物質は”いじればいじるほど”放射能が増大するというのです。(注)
 しかし、再処理事業の概要によれば、放射性廃棄物の量を半分以下に減らすことができると宣伝されています。さて、実際は具体的にどうなっているのでしょうか。残念ながらネットでは「死の灰汁」で検索しても、ヒットしたのは一件だけでした。死語になっているのでしょうか。


 (注)ところで、海洋投棄が話題になっているのは、原子力発電所などの雑物の核廃物だけである。これに対し、原子力発電所から生ずる放射能の九九%以上は、使用済み核燃料の中に入っている。これを再処理して液体とし、ここからブルトニウムを回収すると、高放射能の残液が残る。これがいわゆる死の灰汁と呼ばれているものである。これは放射能が高い。全世界の海水で均一に希釈したとしても、許容濃度を超えてしまう。海水の量は、原子力発電の放射能にくらべ思ったほど大量ではないのである。これを海に棄てるなどということはとうてい考えられない。
 そこで、陸地処分ということになるが、液体では扱いが不便だし、危険が大きすぎるので、なんとかして固化したい。たとえば、ガラス状にすればよいと誰もが考えるだろう。事実、一九五九年、モナコで開かれた放射能処理国際会議で、すでにソ連代表団はガラス固化を提案している。
 一般にガラスは水に溶けにくい。したがって安全と短絡しがちである。しかし、放射能を大量に含んだガラスは、放射線と発熱効果でひび割れし、最終的には粉体の塊になる。これは事実上の表面積が大きいから放射能が水に溶けだすことを防げない。
 海洋投棄でなく陸地処分にしても、このようなガラス固化体の場合、水と隔された地層を探さなければならない。そのような場所は日本にはない。アメリカでも、水から完全に隔離された土地など存在しない。
(中略)
 結局、放射能はいじればいじるほど、放射能を増大させ、取り扱い困難になってしまうので、放射能消滅のアイデアは露と消えてしまった。
 ここで、原子力事故と他の巨大技術事故の違いは何かを考えてみたい。それは、放射能に対する恐怖である。ではなぜ人間は放射能に恐怖するのだろうか。放射能による被害は、ラジウム夜光塗料の職業病で顕在化した。そして広島・長崎での大量虐殺とその後の経過から、放射能の恐ろしさは世界中に伝えられた。さらにアメリカなどによる太平洋核実験で、日本の漁民が被曝死亡し、また、アメリカ政府の安全宣言にかかわらず実験城の島民は高線量披曝し、強制移住させられた。
 そのうえ、核兵器開発に参加した者が放射能症害で苦しんでいる事実や、ウラン鉱山労働者、特にインディアンが、肺癌などで廃人になっていく様子が世界に報道され、ソ連での原子力事故のうわさも耳にするようになった。(「いじればいじるほど増大する放射能」『朝日ジャーナル』、1980年10月31日、p12)

2024年9月27日金曜日

仏さまのようなお顔

 元厚生労働事務次官の村木厚子さんが、瀬戸内寂聴さんと酒天台宗の僧侶井雄哉(ゆうさい)さんのことを「仏さまのような、お顔のお二人」と語っていました。「仏さまみたいなお顔だなあと思ったのは、寂聴さんと酒井さんのお二人です。修行なのか、悟りなのか、お顔に出るんでしょうね。お顔を見ているだけで幸せになれます」(「村木厚子さんに聞く:2 仏さまのような、お顔のお二人」『朝日新聞』、2024年9月27日)と。
 私はこのことを知って、仏師の仕事や仏像崇拝のことがわかったような気になりました。仏像や仏画にも「みる人、拝む人たちを幸せにする力がある」のかもしれません。いや、あるような気がしてきたのです。
 もう一つ、気がついたことがあります。私も仏さまのような顔になりたい、と新たな目標ができました。外に向かっては「永遠平和」、そして、内に向かって「仏さま」、これが私の人生の二大目標になりました。

2024年9月26日木曜日

中国とは仲良くすればいい

 「中国とは2000年にわたる外交の歴史に基づいて仲良くすればいい」、「日本が米中対立の矢面に立つ必要はない」 (注)。そうです、そうです、よくぞ言ってくれました。ありがとう大前さん、という心境です。
 たまたま図書館で『PRESIDENT』のバックナンバーを調べていて、目次に「日米関係を見直す」という言葉を見つけました。そして、その本文の中に私が考えていた日本外交のあり方を発見することができました。その通りなのです。地球環境のこと一つとっても、国同士が争っている場合ではないのです。間違いなくやってくる地球環境の危機に対して、世界が力を合わせて対処していかなければならないのです。それゆえ日本は、憲法九条を高々と掲げ、平和外交に邁進すべきなのです。その道こそ、ウクライナやガザ地区、レバノンなどの和平への一番の近道ではないでしょうか。

 (注)ロシアのブーチン大統領は国際的に孤立して四面楚歌の状態だ。日本とロシアはいまだに平和条約を結んでいないが、今話を持ちかければロシアは高い確率で乗ってくるだろう。平和条約が締結できれば、ロシアの軍事的な脅威は減る。さらに、ロシアに急接近している北朝鮮も日本に手を出しにくくなるだろう。
 また、中国とは2000年にわたる外交の歴史に基づいて仲良くすればいい。アメリカの子分として、日本が米中対立の矢面に立つ必要はない。
 もちろんアメリカとも引き続き仲良くすればいい。しかしベッタリしすぎた結果、アメリカの敵まで自動的に日本の敵になる愚は避けたい。
 世界は着実に第3次世界大戦へと進みつつあるが、危機だからこそ、はじめて現実感を持って考えられるという面もある。新しい地政学の中で、どのように振る舞うべきか。日本の外交関係を見直す契機としてもらいたい。(大前研一著「第3次世界大戦の危機を前に日米関係を見直すべき理由」『PRESIDENT』、2024年3月29日、p93)

2024年9月25日水曜日

光をもたらし続けるカント

 今、ショーペンハウアーの名文に感嘆し、その余韻に浸っています。
 実は、ショーペンハウアーの三分冊もある『意志と表象としての世界』とは、どんなことが書かれているのだろう、と、目次だけでも手に取ってみました。さすがに、目次を見ただけで難しそうでしたが、三分冊目は、付録としての「カント哲学の批判」だけだったのです。それで、初めだけでも、と読み始めたわけです。
 まず、感嘆したところは、カント哲学について論述した次の三点です。

 1、天才のもろもろの著作がもつこういう卓抜さというものは、究明することも、汲みつくすこともできない。それこそ、天才がおのれのもろもろの著作に刷りこむ印なのである。(注1)
 2、これらの著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。(注1)
 3、真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる。(注1)

 続いて感嘆したのが「天才というものは与える力をもっているが、通常の人類というものは、これと同じだけの受け取る力すらもっていない」(注2)、です。それゆえ、「その認識はさらにまた、無数のまちがった解釈やひずんだ応用というもろもろの迂路をまずたどらねばならない」(『意志と表象としての世界 正編 3』、p10)のです。
 そうして、ついに「その源泉の内容を徐々に部分的に受けとり、しだいに同意の度合いを増してゆき、このようにして、あの偉大な精神の持主から発して人類に注ぎこむことになる恩恵の分け前にあそびずかるようになるの」(上同、p10〜11)です。
 そして、やがて、”時を介して”、カント哲学が現実的な力を発揮するようになると言います。つまり、やがて「カントの教説の力と重要さが全体として顕わとなるのも、まず時を介してのことであろう。それは、時代精神それ自身がいつかその教説の影響によっておもむろに形を改められ、最も重要な点でも最も内面的な点でも変化をこうむり、あの巨大な精神の力をいきいきと証するときのことなのである」と。

(注1)天才のもろもろの著作がもつこういう卓抜さというものは、究明することも、汲みつくすこともできない。それこそ、天才がおのれのもろもろの著作に刷りこむ印なのである。それゆえ事実またこれらの著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる。ただその度合いを測り知ることができないまでである。(『意志と表象としての世界 正編 3』、ショーペンハウアー著、茅野良男訳、白水社、1975年、p9)

(注2)一個の天才が一回きり(傍点部分)の盛りの時代に人生と世界からじかに汲みとり獲得し、獲得され準備されたものとして他の人びとにさしだした認識は、そういう事情にもかかわらず、すぐさま人類の所有物とはなりえない。天才というものは与える力をもっているが、通常の人類というものは、これと同じだけの受け取る力すらもっていないからである。(『意志と表象としての世界 正編 3』、ショーペンハウアー著、茅野良男訳、白水社、1975年、p10)

2024年9月24日火曜日

若い人たちへの助言

 それこそ、何十年ぶりに、それこそ何気なく書棚から取り出して再読していたら、昔気に入ってノートの扉に書き写していた言葉に出会いました。それは、「成功裡に実行できる一つの小さな企画は、実行できない数百の大きな企画よりも価値があります」という言葉でした。このような助言を身につければ、(残念ながら、忘れていたくらいで面目ない)これからでも、いろんなことが実現できそうに思ってしまいます。
 まずは一つの小さな企画から、どうぞ!!
 もしも皆さんが、やる意志をもっているならば、必らず何かの仕事を見つけだし、それを成功裡になしとげることができるものです。
 ほかの助言を一つのぺましょう。余りに大きすぎて、きこえはよいが実行不可能なプランを計画してはなりません。
 すべて物ごとは実際的でなければなりません。他人にやってもらおうと頼むことは、皆さんがやってもできることでなければなりません。何ごとにおいても、皆さんは小さなことからしだいに大きなことに、やさしいことからしだいに難しいことに、水準の低いことからしだいに高いことに、すすまなければなりません。成功裡に実行できる一つの小さな企画は、実行できない数百の大きな企画よりも価値があります。(「若い友だちへの助言」『解放の思想』、ホー・チ・ミン著、大和書房、1966年、p164)

2024年9月23日月曜日

”命あっての物種”故に正戦なし

 日本においては、空襲で逃げ惑うことは昔のことです。ドラマや映画の世界の話です。しかし、ウクライナやレバノン、イスラエル、ガザ地区などでは、二十一世紀の今日なのに、空爆やロケット砲弾による戦闘状態が止みません。私たちは、見守るしか、方法がないのでしょうか?どこに解決の糸口があるのでしょうか?
 心配なことは、戦闘が拡大して核弾頭に触手が伸びてしまうことです。そうなる前に、せめて休戦状態に、できれば終戦になってもらいたいものです。そのためにも、戦闘が長引いている原因を考えてみる必要があります。
 実は、戦争を忌み嫌い、早く平和になってほしいと思っている人ばかりではないのです。つまり、を終結させないように奔走する人たちが昔から存在していたのです。エラスムスによれば、

 現にごく最近も、敵に対してよりも友に対してより強い敵対感情をいだいているある種の人びとが、ありとあらゆる手段を余すところなく講じて、戦争を集結させないようにと奔走したことをわれわれは目前に見て参りました。(『平和の訴え』、エラスムス著、箕輪三郎訳、二宮敬訳註・解説、岩波文庫、1977年、p12)

 そうでなくても、武器の供給がなければ、戦争は続けられません。つまり、戦争当時国に武器を供給するルートの存在が、戦闘長期化の大きな原因なのです。多くの国がウクライナを支援し武器を供与していることも事実ですし、それが正義とさえ言われてきました。それでは、戦争の長期化は避けられません。
 それでは、侵略されたら、やられっぱなしでいいのかという理由で防戦、正戦を主張すれば、その結果戦争が始まってしまいます。確かに侵略は許せません。かといって防戦して命を盾にして良いものでしょうか。”命あっての物種”だからです。真の独立はゆっくり取り返せばいいのです。無血開城の理論というものがあるのかどうか知りませんが、日本史ににおける徳川幕府の
無血開城は快挙でした。世界は学ぶべきではないでしょうか。

2024年9月22日日曜日

人間は”ヒト”として皆兄弟

 ショーペンハウアーの言葉「普遍的なものに向かう精神の方向こそが、哲学や詩において、いや、一般に芸術や学問において真正なる業績を生む不可欠の条件なのである」(「哲学とその方法について」『ショーペンハウアー全集・12』、白水社、1996年、p12)を読んでいたら、前に読んでいた「汚染される郷土」という次の文章中にあった「国防のためには止むを得ない」も普遍的なものではないか、という思いが強くなりました。「国防のためには止むを得ない」という意味で繋がっている「米軍基地周辺における騒音被害や辺野古への新米軍基地建設問題」を想起したからです。こうして普遍的なものに向かってみると、軍事基地の本質的な側面が見えてきました。
 つまり、軍事基地というものは、戦時には暴力の本性が敵対国の人民に発揮される。しかし、平時には、その暴力性が国内の人民に発揮されるということです。国防のためという一言で、軍の暴力性が免罪されてしまうのです。それでも、常備軍の存在を許してしまっていいのでしょうか。同胞の泣き寝入りを黙り続けていいのでしょうか。やはり、常備軍廃止の方向に舵を切り替えるべきです。「人間は”ヒト”として皆兄弟」なのですから。
 さて、コロンビア川流域、つまりはその身体の静脈に流され、人新世の地理に織り込まれてきたのが、強い毒性をもつ化学物質や、放射性物質だ。上流で展開する農業や鉱業、とりわけ製紙工場などからはダイオキシンや水銀が、ハンフォード・サイトからは放射性物質までもが放流され、大気、土壌、地下水を汚染し、コロンビア川に流入した。とくに戦時中から冷戦期にかけては、国防のためには止むを得ないと情報制限がされ、杜撰な管理のもとに、凄まじい量の放射性物質が周辺地域に放たれた。(石山德子著「沈黙の廃墟 人新世に宿る植民地主義」『世界、2024年10月』p158)

2024年9月21日土曜日

米国内”沈黙に包まれる廃墟”

 雑誌『世界、2024年10月』の第二特集は「核危機の人新世」でした。その中の石山德子著「沈黙の廃墟 人新世に宿る植民地主義」を読んで、プルトニウム生産の現場に定められた軍事関係者以外の地域住民が強制退去させられていたことを知りました。そうして「強奪した土地につくられた、入植者のための教育施設、かつては、若人たちの元気な声がこだましていたはずの校舎は、いまや鉄条網に囲まれている」だけでなく、「沈黙に包まれる廃墟の四方に広がるのは、茫漠とした風景」だと次のように訴えています。
 入植者たち、いや、侵略者たちは、やがてこの地に定住した。先述の史跡ツアーの目玉であるハンフォード高校は、一九一六年に創設された。ちいさな農村で、同校は重要な役割を果たしていたというが、マンハッタン計画の始動とともに、廃校に追い込まれた。入植者国家であるアメリカが、この場所をプルトニウム生産の現場に定め、軍事関係者以外は、強制退去の対象としたからだ。
 強奪した土地につくられた、入植者のための教育施設、かつては、若人たちの元気な声がこだましていたはずの校舎は、いまや鉄条網に囲まれている。沈黙に包まれる廃墟の四方に広がるのは、茫漠とした風景だ。わたしが参加したツアーの当日は、近年多発している山火事の影響で、あたり一面に煙霧が立ち込めていた。
(中略)
 煙のなかで、静けさに包まれた砂漠に、ぽつりと佇む廃墟は、人新世の現れである。それは時空を超えて、長崎、そして広島の惨禍、さらには損壊した福島第一原子力発電所、それらをとりまく葛藤と、幾重もの抑圧的な実状につながっているようにみえた。(『世界、2024年10月』p155)
 この記事を読んで、国家の暴力性について考えさせられました。アメリカ軍が日本に対してとってきた態度も、差別意識だけでは説明できないのであって、そこには国家の暴力性が深く関与してきたということです。なぜなら、同胞のアメリカ国民に対しても、国家の暴力性が深く関与してきたからです。国家とは何なのか、新たな問いが誕生しました。暴力性がどのように解明されているのかを知りたいです。

2024年9月20日金曜日

隠蔽されてきた“第四の被曝”

 NHKスペシャル「封じられた“第四の被曝(ひばく)”-なぜ夫は死んだのか-」(2024年9月14日)で、日本人がアメリカの水爆実験「ポプラ」(1958年7月12日)のモルモットにされた可能性のある被ばく事件のことを知りました。映像に示されているように、水爆実験のあった2日後には危険区域の近くを航行し、隊員が測定した放射線量も急上昇しています。水爆実験の危険海域近くに行かされたわけですから、何も知らずに被曝したビキニ事件と質が違うと思います。


 1958年、海上保安庁の船「拓洋」と「さつま」の乗員113人が被ばくしていて、その1年後、乗員の永野博吉さんが急性骨髄性白血病で命を落としていたのです。妻の澄子さんは事件の実態を知らされず、したがって公務で被曝していたにも関わらず補償もなく、その後の人生を過ごしてきたのです。
 なお、以下は友人メール内容です。
 番組の紹介ありがとうございました。
 初め、“第四の被曝”とは、福島原発事故のことかと思ってしまいました。しかし、間違っていました。海上保安庁の船「拓洋」と「さつま」の乗員113人が被ばくしていたんですね。全く知りませんでした。
 「私たちの社会が、その存在すら忘却してきた被ばく事件」と番組紹介がありました。しかし、真実は知らされていなかっただけでした。知らなくて当然だったのです。
 一番驚いたことは、多くの核実験に日本も加担していたらしいということです。それも、水爆実験の影響が及ぶ海域に向かって放射線の測定器など積んで出かけて被曝したわけですから、水爆実験の影響を調べるモルモットにされた(このことは、番組を見ていた時は気づかず、今書いていて気づいたことです。)と言っても過言ではないと思います。
 被曝の実情を知ったアメリカは「核実験反対運動が発展、アメリカはそれを恐れた。被ばくの『許容線量基準』を設けることで核への抵抗感を薄めようとしてきた」のです。


 そうした動きに呼応したかのように、東京大学農学部放射線による海洋汚染を研究檜山義夫教授は、「許容線量という概念は、核実験のために作った」とアメリカに手紙を送っていました。さらに、「人類が核エネルギーを享受していくためには一定のリスクを受け入れる」と言った発言が残されていました。
 このような核をめぐる大きな流れを知って、日本における第五の被曝を体験したにもかかわらず、その大きな流れが奔流となって流れていることを痛感しました。それゆえ、自然エネルギーへの転換にブレーキがかけられているのではなか、と。
 それにしても、都合悪いことは隠蔽しまえということが綿々と続けられてきたことに呆れてしまいます。このような体質の官僚と政党を、どうしてこれまで日本人は許してしまったのでしょうか。

2024年9月19日木曜日

「今」を生きる

  人生「いかに生きるべきか」は、宗教家や思想家にとって避けては通れない課題ですが、「今」を生きる価値については、共通して重要視しているようです。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの場合も例外ではなく”「今」を生きる”ことの大切さを説き、それができれば「もっとも長い生、もっとも短い生も同じことだ。 今はすべての人に等しく、したがって失われるものも等しい」(注1)と述べています。「もっとも長い生、もっとも短い生も同じ」というところが素敵です。
 またアウレリウスは、「各人は東の間のこの今だけを生きている。それ以外はすでに生き終えてしまったか、不確かなものだ」(注2)と言っています。岸見一郎さんの解説によれば、

 過去は「すでに生き終えて」しまって、もはやどこにもありません。未来も、誰にもわからないという意味で「不確かなもの」です。明日のことでも、想像している通りになることは決してありません。人は「東の間のこの今一だけを生きているとアウレリウスはいいます。(注2)

 だから、「すべての行為を生の最後の行為のように行う」(注2)と良いようです。
 最後に、「今日、この時間を最大有意義にすごすことが、人生というもの」(注3)という宗教家の言にも耳を傾けてみましょう

(注1)『自省録 マルクス・アウレリウス NHK「100分de名著」』、岸見一郎著、NHK出版、2023年、p107
(注2)上同、p108
(注3)人生どう転んだって同じことです。金があろうとなかろうと、どれだけの違いがありましょう。今日を最高に有意義に楽しく暮らせばいいのです。過ぎ去った昨日までのことは一場の夢です。明日からの生活は幻のようなもので、台風が来るか、地震があるか、わかりはしません。過ぎた夢は今さらどうにもならず、一寸先はどうかわからぬ世の中です。
 としたら、今日、この時間を最大有意義にすごすことが、人生というものです。人間生きている限り問題はつぎからつぎと起こります。われわれは毎日いろいろ大小さまざまの事件の中で生きているのです。解決をいそぐこともなく、あせることもありません。気ままに暮らすことです。
 人間、死ねば、いやでも応でもすべてが解決するのです。
 しかし、私のいおうとすることは、せつな的デカダン的に暮らせばよいということではありません。間違わないでください。今日を有意義に送ろう、精いっぱい生きようということです。精いっぱい生きたら、自己のベストで今日を暮らしたら、あとはケセラセラだということなの です。(『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p202~203)

2024年9月18日水曜日

老いることの美しさ

 老いることには、どうしても負のイメージがつきまといます。心身的に弱ってくるところに、社会的な圧力も加わってくるからです。長老として大切にされた時期もあったようですが、社会のお荷物になっているかのような肩身の狭い心理状態が加わってくるのです。
 しかし、そうした負のイメージを覆すようなとらえかた(注)を見つけ、意を強くすることができました。心の美しさを磨くことで、老いの美しさを見出すことができるというのです。
 そう言えば、「春よし、夏よし、秋よし、冬なおよし」といった詩を思い出しました。この詩も、紹介されていたユゴーの言葉に通じるものだと思います。要は、心がけ次第で老いることをプラスイメージに変換できるということではないでしょうか。(現在に生きる、がキーワードのような気がしています)

(注)老について、ある本にこう書いてありました。
 —— 女あり、ふたり行く。若きはうるわし、老いたるはなおうるわし。
 これは年輪ということです。若い人が美しいことは感覚的にわかります。しかし年寄りにはもっと次元の高い美しさがあります。肉体は衰えても、心の美しさが、顔や表情、しぐさのはしばしにも現われるのです。男の場合でも、人生経験の積み重ねが現われます。
「人間四十を過ぎたら、顔に責任がある」という有名なことばも、同じ意味でしょう。すべて「現在」のもつ美しさです。 さいきん新聞で読んだのですが、フランスの文豪ビクトル・ユゴーも、老年を評価して次のように歌っているといいます。

 青年はうるわし
 されど老年は偉大なるかな
 青年の眼には炎がかがやく
 されど老人の眼には光ただよう(『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p195〜196)

2024年9月17日火曜日

子どもの発見

 昔の子どもは、労働力の対象であって、保護されるべき人間とみなされるようになって初めて、いわゆる子供が発見されたと言われてきたようです。この話を知ってからしばらく経って、<もし「人間」という概念でくくるなら、黒人も白人も障害者もすべて、人は平等に「人権」をもつ存在だということになります>(注)という言葉に出会いました。その時、黒人も、女性も、はじめは人間でなかったことに気づきました。黒人自身、女性自身が人間としての諸権利を獲得してきたのです。これらの歴史を振り返っただけでも、社会が進歩してきたという進歩史観の正しさを示しています。
 もう一つ気づいたことがあります。純粋に概念の歴史、一つのお概念が豊かになってきた歴史に絞ることで、社会の民主化の方向を明確に示すことができるのではないか、という仮説がひらめいたのです。これからの課題です。
 
(注)人間が豊かで複雑な言語をもっているのは、概念でくくることができるからだと言われます。子どもに教えられて、私は概念というものがなぜ人間にはあるのかと考えるようになりました。そういう能力を人間はなぜ先天的に与えられているのか⋯⋯。もし「人間」という概念でくくるなら、黒人も白人も障害者もすべて、人は平等に「人権」をもつ存在だということになりますね。その人権にとって平和ほど大事なものはないでしょう。それならば私たちは、戦争でなく平和を生きる人間としてつながり合うのが当たり前ですね。(暉峻淑子・経済学者著『100歳で夢を叶える』、木村美幸、晶文社、2023年、p199)

2024年9月16日月曜日

充実であり健全である“空”

 宗教とは、「人間とは何か?」「人生とは何か?」「どうしたら死の不安を克服できるのか?」この三つに要約されます。そして、「この三つの疑問に対し”空”という言葉」と答えたのが、お釈迦さまです。(注1)仏教の”空”を体得できれば、死の不安を克服できそうだというのが魅力です。その上“空”は、「充実であり健全である」というのです。ますます興味が増してきました。
 そして結論です。

 空の境地というのは、対象と一体になるということです。
 椿の花の絵を描くときは、"椿になれ"、船を描くときは"船と一体になれ"ということです。将棋では「王将」の坂田三吉がボカをやって銀を死なせたとき、思わず「銀が泣きよる」というせりふを吐いたのは、まさに将棋の駒と坂田三吉とは一体になっていたからです。また専門 棋士が駒や基石を並べないでも指せるのも一体となっているということでしょう。柔道の投げ、 剣道の打ち込みも、空の境地のときに成功します。
(中略)
 空というのは、むなしいとか、からっぽとかいうことではありません。反対に充実しており、健全だということです。胃や歯が痛いときは、われわれは胃や歯のことを意識します。痛くない時は、胃や歯の存在を忘れています。これが空です。決して存在しないのでなく、充実して存在しているのです。(注2)

 なんて分かりやすい解説でしょう。続けて、空を体得するには修行という段階、つまり、技から術の段階を経て、芸の境地にまで達することが必要だそうです。(では、私にとって、どんな芸の境地が待っているのでしょうか。これからの課題です。)
 そうして、

 これが芸の段階にまでいくと、若乃花(現二子山親力)と栃錦(現春日野親方)の相撲のように、勝つとか負けるとかにこだわらず、ただ無念無想、全力を尽くして戦うのみです。勝ち、負けはあくまでもその結果にすぎません。その過程、いわば相撲の醍醐味わっているところに、この両横綱の真髄があったと思います。(注3)

(注1)『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p26からの要約
(注2)上同、p72~73
(注3)上同、p74

2024年9月15日日曜日

読書から得られる宝庫

  人生いかに生きるべきか、について考えたばかりですが、「人生”いかに生きる”べきか」は、「人生”いかに学ぶ”べきか」を抜きにしては語れないことを、思想家「エラスムス」に教わりました。エラスムスには、「学習計画」という小論もあって、その中で記憶の重要性と、その方法について次のように述べています。

 記憶もないがしろにはできません。これは読書から得られる宝庫であります。もちろん暗唱句や図表によって記憶しておくという方法もありますが、最上の記憶はやはり理解・整理・注意力という三要素に依存するものです。実際、記憶の本質とは対象を根底から理解することなのです。そして整理とは、一度に消え去ってしまったことを、あたかも正当な権利を行使して亡命先から帰国するように、再び心に呼び戻すことができるということなのです。最後の注意力ですが、何も記憶に限らず、あらゆる分野において大切なことですね。覚えておきたい箇所があったら、注意深く繰り返して読み、その後もつねに自分から思い出しては暗唱し、忘れてしまうかも知れぬ細かい点を確認しておかねばなりません。(「学習計画」『人類の知的遺産 23 エラスムス』、二宮敬著、講談社、1984年、p205)

 これまでの読書の方法が間違っていたのではないか、そう反省してしまいました。「記憶の本質とは対象を根底から理解すること」だったのに、どうも、わかったつもりで、多くのことを脈略も乏しく記憶の底にしまい込んで、記憶の手入れ(整理)もせず、次々を新しいトピックに手をつけてきていたようです。これからでも遅くないので、記憶の手入れを怠らないようにしていきたいと思います。そうして、読書から得られる”真の宝庫”というものを手にしてみたいです。


2024年9月14日土曜日

人生いかに生きるべきか

  月並みで、今更、という感じもしますが、人生のラストスパートに際し、「人生いかに生きるべきか」その、なんとなくのアウトラインが見えてきました。下記のように「フランス文学者河盛好蔵さんのインタビュー記事」で語られたことですが、これからの指針としたい内容でした。蔵書の整理は是非とも実現したいし、井上靖さんの『孔子』も読んでみたいです。

―読み方についてはいかがでしょう?
「フランスの哲学者アランは、読書の名人といっていいと思いますが、彼はつまらない本を100冊読むよりは、すぐれた本を1000回読むほうが、はるかにためになると考えていました。彼がバルザックの『谷園の百合』と、スタンダールの『バルムの僧院』を毎年読み返したというのは有名な話です。アランはその度ごとに新しい美しさをそこから発見したといっています」
(中略)
―本との関わり方の理想とは、どういうものでしょう?
 「私の場合は、本当に気に入った本を100冊、せいぜい200冊だけを手元に置いて、心ゆくまで繰り返し読むこと。そして、その蔵書すら整理していって死の枕許には一冊もない、というのが理想です。現実にはとても不可能で、死の前日まで買い漁りそうです。
 私の至福の時とは、寝転びながら、好きな本を取っかえ引っかえ乱読することです。誰にとっても仕事上、必要に迫られて読まなくてはいけない本もありますがね、必要以外の本は読まないというのはつまらないですね。時には、読んでも読まなくてもいいような本を読むことも大事です。よく、くだらない本とか悪書とかいいますが、私はこの世にそんなものはないと思います。どんな本にも取り柄はある。要は読み方ですよ」
(中略)
―テーマはどうやって探せばいいのでしょう。
 「どんなことにも興味がないという人はいないでしょう。まず、初めは無理にでも自分が興味を惹かれるものとか、自分にとって一番大事なことを探し、それを掘り下げていくことです。日本語でも、政治でも、ソ連の社会主義の行く末についてでも、分野は何でもいいのです。それに関する本を読み、資料を集め、そのことについてはいつもビンとアンテナを張っておく。それを積み重ねていければ、たいしたものです。
 そのうち、"これについては誰に聞かれても、自分なりの考えをいうことがで切るぞ”という自信がついてきます。そうなると、生きることが楽しくなります。問題意識を持っているということは、人生いかに生きるべきか、ということをつかむことでもあります。これから激動の時代を生きていく日本人にとって、自分自身の独自の考えを持つことは、とても大事なことです。この間亡くなった井上靖さんも、これからの日本人はどういうふうに生きていったらいいか、死ぬまで考えていた人でしたね。それで井上さんは晩年に『孔子』を書かれたのだと思います」(『上手な老い方 藍の巻 サライ・インタビュー集』、サライ編集部編、小学館、1997年、p46〜51)

2024年9月13日金曜日

資本の力を侮ってはならない

 これまで、梅原猛氏の思想に共感してきました。しかし、「あれ、おかしいぞ!」というところが出てきてしまいました。資本主義だけでなく、マルクス主義にまで原因を求め、宗教的な解決策に救いをもてめていることについてです。
 例えば、「マルクス主義においては、そのユダヤ教的一神論の性格が過酷なまでに徹底されるのです。そこには信仰を共有する者への同志愛はありますが、信仰の異なる者、マルクス主義に反対する者にたいしては愛も寛容もなく、ただ憎悪のみがあるだけです」(「人類哲学の創造」『梅原猛著作集・17』、p173)と決めつけて、切り捨ててしまっています。しかし、一神教による対立があったにせよ、そうした宗教的な対立による力よりも、はるかに大きな資本の力(産軍複合体のような)を免罪しては、真の解決に至ることは。到底望めないと思うからです。
 また、仏教が目指す人間像について「人間を欲望のとらわれから解放し、そして、欲望を超えた自由人」(注1)を考えていますが、欲望を超えられない人も肯定されるのが真の寛容社会で、梅原猛氏の思想には、一神教を批判しながら、一神教に陥ってしまっているところがあるのではないか、そんな疑問を持ってしまったのです。資本論が明らかにした資本の力を侮ってはならない、そう痛感した次第です。
 さらに言えば、人間を欲望人と精神人に分け、「その欲望を空の思想によって反省させ、人間を欲望人としてではなく精神人として再生させ、人間に利他の徳を教える」 (注2)などいうことは、思い上がりも甚だしい、と思うのですが、どうでしょうか。

 (注1)大乗仏教は「空」をその思想の根底におきます。空の思想を説くのは般若経典ですが、その説くところは結局、人間を欲望の執着から解放することだと思います。有にわれず、無にもとらわれず、肯定にもとらわれず、否定にもとらわれないということは、人間を欲望のとらわれから解放し、そして、その欲望を超えた自由人として積極的に世間で活動させるという意味をもっているのです。(上同、p180) 
 (注2)現代文明は、まさに人間を宗教や道徳の束縛から解放し、人間の欲望を最大限に満足させようとするものでしょうが、その欲望を空の思想によって反省させ、人間を欲望人としてではなく精神人として再生させ、人間に利他の徳を教えることは、現代文明にとって真に重要なことであると思います。

2024年9月12日木曜日

21世紀哲学の原理

 21世紀哲学が求められている、と書いたことがあります。梅原猛氏の思想に共感してのことです。その21世紀哲学の原理と、具体的な方向性を語ったところを見つけました。
 21世紀哲学の原理は、一言で”循環の思想”というものです。
 すなわち、
 

 人間もものもすべて永劫に循環してまたかえってくるという、そういう思想が二十一世紀哲学の原理にならなくてはならないと思う。そのためにはまず、ソクラテスをどうみるか、キリスト教をどうみるか、デカルト、マルクスをどうみるか、あるいは釈迦をどうみるか、孔子をどうみるか、というような問いに答えていかなくてはならないと思います。そういう新しい二十一世紀の哲学をつくりたい。(「人類哲学の創造」『梅原猛著作集・17』、p46)
 そうして、「近代文明の危機を救う道」という小論にまとめています。まず、資本主義と、資本主義を批判して誕生したマルクス主義の両者を、近代主義としては同類と見做し、近代主義では「近代文明の危機」を救うことはできないと結論しています。その上で「この近代文明がもたらした環境破壊、精神の崩壊という危機から、人類はいかにして救われるか」という問いを立て、「進歩と欲望という友人を捨てて、共存と循環という新しい友人と親しくしなければならない。・・・・それをしないかぎり、人類の未来はありえないと私は思う」と、次のように答えています。
 私は、現代科学によってすでにこの問題の解決の方向を暗示する警示を与えられていると思う。それは、ワトソンらによるDNAの二重螺旋構造の発見である。それは相対性理論と量子力学とならんで現代科学の三天発見であるといわれるが、生きとし生けるものはDNAの配列によってその運命が決定されるという。どこかデモクリトスの原子論を思わせる理論であるが、ここで重要なものは植物であり、動物であり、アメーバであり、カビであり、すべて同質なものであることが示されたことである。
 まさに環境破壊の時代が始まるときに発見されたこの法則は、仏教の「山川草木悉皆成仏」という言葉にも通じ、いまさらながら人間の生命が自然から孤立したものでなく、人間は自然と共生しなければならないことを教える。そして生きとし生けるものは、すべて生死の循環を繰り返しているのである。生あるものは、個としては必ず死なねばならぬ。しかし、種としては循環を繰り返し、生きつづけるのである。
 この共存と循環の原理こそ、人類のもっとも古い文明の原理であるが、人類が農耕牧畜生活を始めるや、人類は、自分は神によって理性を授けられた特別なものと思いこみ、自然の支配征服を始めるのである。この自然支配は近代科学技術文明の発展によってますます倍加され、人類はそれにより。かつて思いもよらなかったような富を手に入れたが、それと同時に、人類の未来を脅かすような環境破壊という傷をも負ったのである。
 もう科学と技術は、長い間、彼らが親友としていた進歩と欲望という友人を捨てて、共存と循環という新しい友人と親しくしなければならない。そうすることによって、欲望を超えた人間の倫理性、宗教性が目覚めるのである。 古い友と別れるのは容易なことではないが、それをしないかぎり、人類の未来はありえないと私は思う。(上同、p243〜244)

2024年9月11日水曜日

アメリカ、この暴力的体質

  アメリカについての「この暴力的体質」は、著書『生活の世界歴史 9新大陸に生きる』(猿谷要、河出書房新社、1980年)の第一部「アメリカ的生活文化の形成」の章立て項目名の一つです。その初めに、「われわれはまた、今までずっと暴力的な国民でもあった」と、こんな言葉が添えられていました。

 われわれはとかく自分自身を、平和で寛容であり、穏やかな国民であって、人間の政府ではなくて法律の政府のもとでいつも暮してきたのだ、と考えたがる。そして事実、人間を尊重し法律を尊重することは、アメリカの伝統の一つの特徴となってきた。たいていのアメリカ人たちは、生涯の大部分を通じてこの尊重の念をもち続けるだろう。しかしこのことは、われわれの伝統の唯一の特徴では決してない。なぜなら、われわれはまた、今までずっと暴力的な国民でもあったからである。このもう一つの特徴があることを認めないとするとアメリカ国民をありのまま見ることにはならないのだ。 ――A・シュレジンジャー・ジュニア――(p211)

 そして、暴力的な国民でもあった例として、「銃砲殺人は日本の八〇倍」と題する一文が綴られています。暴力の対象が「平和愛好的でラディカル」な人々というのが驚きでした。そして、これこそ銃社会アメリカの一面であると思いました。

「ヒューストンは暴力都市である。アメリカの上位一二都市のなかで、殺人発生率がいちばん高い。ボストンに比べて四倍も多い。暴力の主要発生源は、キュー・クラックス・クランやミニットマンのような極右グループで、彼らは、平和愛好的でラディカルとみなしている連中を、片っ端から爆死させたり焼死させようとしている。ヒューストン大学でビジネスの講座を担当しているある教授は、自宅を焼き払われてしまったが、それというのもこの教授が、アメリカ市民の合法的権利の擁護を求めるアメリカ・シビル・リバティーズ・ユニオンに所属していたためである。
 ヒューストンでは、立派なみなりをした住民が、大きなリア・ウィンドーのついた小型トラックを運転しているのをみかけるのは、そう珍しいことではない。窓越しには、ライフルや、ショット・ガンや、カービンを架けたガン・ラックが見える。なかには、職業上の理由で、そのようなガンを積み込んだトラックを持っているものもいるが、一部の住民にとってはそれが一種の身分の誇示になっているといわれる。住民たちは、ヒューストンでは自動車事故で死ぬ人間よりも、銃弾に当たって死ぬ人間のほうが多いと平然と語っている」
 これは数多くの著作を発表している自称社会観察者バッカードの『見知らぬ人々の国』(風間禎三郎訳)のなかの一節である。原著が発表されたのは一九七二年のことだから、これは過去のことではなく、まぎれもない現在のアメリカの姿として描かれているのだ。(p215)