失って、初めて知る、ありがたさかな、不眠の苦しみを味わって痛感した日常のありふれたことのありがたさです。「人間を豊かに(注1)」も、「何事も人生修行(注2)」も大事ですが、その基礎に「日常の幸せ(注3)」があるということに気づきました。日常の幸せをないがしろにしてきたから、不眠になんかなってしまったのです。こうして書いている机の上も、乱雑に物が置いてあって、これでは心も休まらなかったに違いありません。良い薬になりました。(注1)人間を豊かに
人生の目的は何だろう。良く言われることに、夢(目標)を持ち、その夢に向かって、その実現を目指すことがある。宝地図を作る、手帳を使う、マインドマップを使う、など、ちまたに氾濫している成功法則なるものは、その形こそ違うにせよ、夢の実現を目指すことに関しては、皆同じである。しかし、これだけでは片手落ちであることに気づいた。いずれの場合も、人間を磨くという観点が抜けているのである。
もしかしたら、人間を磨き、心を豊かにすること、このことは、夢を実現すること以前の問題で、人生の大目的ではないだろうか。つまり、夢の実現などは、人間を豊かにする手段でしかないのではないだろうか。そんな気がしてきた。戦争はなぜなくならないか、この問題も、一人一人の心の問題に行き着くような気がする。自殺者が減らない、社会不安をかかえている人が多い、病気も減らない、こうした社会問題も、心豊かな人が増えることで解決するに違いない。
それでは、どうすればいいのか。先ずは良書を読むことである。「若さを失わないためにも、また、自己というものをどこまでも伸ばしていくためにも、自己の人生というものを豊かにする、深くするためにも、これは最も必要なことで、絶えず読書をする」(『運命を創る』、安岡正篤著、プレジデント社、p197~8)のである。
また、身の回りの掃除をする、整理整頓をするのも大切ではないだろうか。確か、「掃除力」という言葉を作って、掃除の持つ力の大きさを説いた本もあった。確かに、掃除をすると気持ちが良くなる。夢や理想を持って、その実現を目指すことも大切である。人間は、絶えず進歩する動物だからである。2009年06月12日金曜日
(注2)何事も人生修行
吉川英治の『宮本武蔵』を再読している。そして、宮本武蔵の「人間を磨くという志」に魅かれていたことを再認識できた。しおりが挟まれていたメージの次のような言葉が教えてくれた。
「生まれ出たこの世において、どこまで自分というものを磨き上げられるか、それを完成してみないうちには、この生命をむざと落としてしまいたくないのである」(p101)。
<孤剣!
たのむはただこの一腰。
武蔵は手をやった。
「これに生きよう! これを魂と見て、常に磨き、どこまで人間として高めうるかやってみよう。 沢庵は禅で行っている。自分は剣を道とし、彼の上にまで超えねばならぬ」
と、そう思った。>(p110)。
今の自分には、武蔵にとっての剣に相当するものはない。しかし、「人生においてはすべてが師なり」というような言葉があるように、民生の仕事も、町内会長の仕事も、日々の読書も、武蔵にとっての剣にすることができる。そう思っただけで身が引き締まる。何事も人生修行だ。これからは、人間を磨くことを目標に生きていこう。2011年05月24日
(注3)日常の幸せ
久しぶりに、家を出るときに部屋を整理して見た。こたつの上もきちんと整理されて、畳の上には余計なものが置かれていない。そんな部屋から出るとき、それだけで気持ちが良かった。何度か、そんな状態を維持しようとしながら、いつの間にか、こたつの上も、畳の上も、乱雑になってしまっていたのである。そう言えば、流し台も、最近乱雑になってきた。玄関と一緒に、ここもきちんとしようとしていたはずなのに。
今日帰ったら、流しもちゃんと掃除をしよう。玄関の掃除もしよう。身の回りを掃除することで、心の掃除もできるという。このことを思い出しながら、流し台も、玄関も、きれいに掃除をしよう。今まで、出かけるときだけ、きちんと見直そうとしたが、寝る前にも見直して、身の回りをきれいにしてから寝るようにしよう。
どこに幸せがあるのか。旅行や、何かの行事といった非日常にあるのか、それとも、ささやかな日常にあるのか、そのどちらかである。子供たちにとっては、運動会とか、修学旅行といった非日常が楽しみである。大人だって同じである。それはそれでいい。しかし、日常に幸せがなかったら、つまらない人生かも知れない。人生のほとんどが日常だからである。身の回りをきれいにし、気持ちの良い状態に維持して行くことは、日常の幸せの第一歩かも知れない。(2017年6月11日)