2021年6月30日水曜日

イスラエル・パレスチナ問題の構図

 イスラエル・パレスチナ問題は、複雑でわからない、でも、ガザ地区などにおける不条理を目の当たりにし、知りたい、という思いは抱いてきた。
 スクラップを読み直し、大まかな構図がわかりかけてきた。<バイデン政権ーイスラエル>対<国際社会>という対立の構図が見えてきたのである。
 国連総会は1947年、パレスチナをユダヤ人国家、アラブ人国家、エルサレム国際管理都市に3分割することを決議しました。
 ところが48年にユダヤ人国家=イスラエルが建国される一方、パレスチナ・アラブ人の民族自決、国家樹立は実現しないままです。
 93年にはノルウェーや米国などの仲介でオスロ合意が成立。イスラエルとパレスチナの2国家共存をめざし、ガザとヨルダン川西岸にパレスチナ暫定自治政府が設置されました。
 一方イスラエルは67年の第3次中東戦争以降、西岸地区の占領地で国際違反の入植を拡大。60万人以上のユダヤ人が住んでいます。
(中略)  
 バイデン政権はイスラエルの「自衛権行使」を擁護。国連安全保障理事会でも国際社会の一致した対応に反対しています。(「『赤旗日曜版』、2021年5月23日」より)
 結局は、日本政府の対応も当然アメリカ寄りとなり、われわれも「ガザ地区住民に対する不条理の数々に手を貸している」ことになる。アメリカにも、ものが言える野党政権になってもらいたいものである。




2021年6月29日火曜日

人類はつまずきながらも前進する

 人間について述べたメモに「 人間は、ときには誤謬を犯しながらも、足を伸ばして、つまずきながらも前進する」というスタインベックの言葉があった。だいぶ前のメモなので、スタインベックがどういう人かさえ忘れていたが、有名な『怒りのぶどう』の著者だった。
 他に、『ハツカネズミと人間』(スタインベック著、大浦暁生訳、新潮文庫、2016年)といった著書もあり、図書館の内容紹介には、「からだも知恵も対照的なのっぽのレニーとちびのジョージ。カリフォルニアの農場を転々として働く男たちの友情、たくましい生命力、そして苛酷な現実と悲劇を、温かいヒューマニズムの眼差しで描く」とあった。これだけでも、なんとなくスタインベックの人柄がわかる。
 ここでスタインベックの言葉を取り上げたのは、個としての人間だけでなく、種としての人間(人類)としても通用する言葉であることに気づいたからだ。考えようによっては、人類はいまだに戦争をやめられず、少しも進歩していない、同じような過ちを繰り返している、と言えなくもない。しかし、冷静に現実社会を見てみると、社会は確実にし前進してきているといえよう。
 何よりの証拠は、核兵器が現実に存在しているにせよ、核兵器の存在が違法になったことであろう。その法的力はまだまだ弱いにせよ、徐々に力を増してくることは間違いない。さらに言えば、内実はともかく、政府も口にせざるを得ないほど、民主主義や憲法三原則の価値が普遍性化してきたことも、大きな前進である。だからこそ、

 人類は、ときには誤謬を犯しながらも、足を伸ばして、つまずきながらも前進する、

 のである。

2021年6月28日月曜日

アメリカ民主主義の伝統

 バイデン氏は、アメリカとその同盟国を「民主主義国」、中国を「専制主義国」と位置づけ、両者の対立を演出してきている。果たして、そのように世界を二分してしまっていいのだろうか。アメリカにも、中国にも、「民主的」側面と「専制的」側面が存在しているからだ。特に、次に紹介するような「アメリカにおける強固な民主主義の伝統」の流れは、日本国憲法にも入ってきているだけに、色あせることのないアメリカ民主主義をしっかりと見つめ、手を組んでいく必要がある。

 アメリカ政府および軍部には、核兵器による軍事覇権を目指すうえでのあまりに非人道的な姿勢と行動が存在する一方、アメリカ人およびアメリカ社会には、それに真正面から「NO」を突きつける強固な民主主義の伝統があるということです。
 後者を代表する人物のひとりが、本文中でも少し触れた、元アメリカ海軍の提督、ジーン・ラロック氏です。
 もう半世紀近く前の一九七四年、退役後まもないラロック元提督は、アメリカ議会で核兵器を積んだアメリカ軍艦船の頻繁な日本への寄港について証言し、日本では大きな反響を呼びました。
 ラロック氏は一九一八年生まれでしたが、一九七二年に海軍を退役すると、仲間の何人もの元米軍高級将校たちとともに、
「巨額の軍事費は、大幅に削減すべきだ」
「核戦争の危険をはらむ大規模な軍拡は、やめるべきだ」
と広く米国の一般市民に呼びかける活動をおこなっていました。そして国民にアメリカの軍事の実態を知ってもらおうと、軍事情報をわかりやすく伝える小さな月刊誌も刊行していました。(『密約の戦後史 日本は「アメリカの核戦争基地」である』、新原昭治著、創元社、2021年、p251)
 沖縄に住んでいる政治学者C.ダグラス・ラミスも、ジーン・ラロック氏と同じ退役軍人だった。かつて海兵隊員として沖縄に駐留し、いまふたたびそこで暮らしながら、憲法9条、日米安全保障条約、米軍基地、911以後のアメリカの対テロ戦争など多方面にわたって発言し、たとえば次のような著書も出しており、勇気付けられる。
『ラディカルな日本国憲法』、C・ダグラス・ラミス著、晶文社、1987年
『要石:沖縄と憲法9条』、 C.ダグラス・ラミス著、晶文社、2010年
『やさしいことばで日本国憲法 新訳条文+英文憲法+憲法全文』、池田香代子訳、C.ダグラス・ラミス監修・解説、マガジンハウス、2017年

2021年6月27日日曜日

人間の戦闘性や攻撃性は本来的か?

 欧米人は本来的に戦闘的であり、攻撃的である、という考えがある。それに対して日本人は、人生を調和のうちに生きようとする、という考えである。その場合、その原因を宗教に求めており、一神教のキリスト教圏の文化と、日本のような場合の多神教の文化の違いに原因があるというのだ。
 確かに、宗教を考えれば、日本の場合は寛容である。とはいえ、嫌韓論に見られるような不寛容な面もある。逆に、欧米人の中にも、リベラル派の、寛容な人々も、当然存在している。それは、当たり前であり、当然なことである。それゆえ、国柄を持って、攻撃的だとか、調和的だ、と結論してしまうのはどうかと思う。大切なことは、戦闘性や攻撃性を本来的で、避けられないもの、という考えは間違いだということであろう。
 もしも、戦闘性や攻撃性を本来的で、避けられないもの、であるならば、永遠に平和な世界は望めないことを認めることになってしまう。それゆえに、人間の尊厳という価値の普遍性という概念が重要になってくる。人間の戦闘性や攻撃性は、人間の尊厳という価値の普遍性に対立する概念である。人間の戦闘性や攻撃性は、人間の尊厳という価値の普遍性を否定するからだ。
 考えてみれば、日本国憲法の戦争放棄の概念は、人間の戦闘性や攻撃性を否定し、人間の尊厳という価値の普遍性を守り、発展させる素晴らしいものであった。つまり、日本国憲法9条は、個人の尊厳を規定した13条とセットで理解されなければならない。

2021年6月26日土曜日

悪政の原因は野党にあり!

 同じことを考えている人がいた。政治学者、思想史家の白井聡さんだ。。何でこんなことが許されるの、これだけのことをしても何で真実が明らかにされないの、という思いは、多くの人が抱いていることに違いない。原因は単純明快、「政権交代が起きないから」で、政府に、「政権交代の危機感が」ないからである。
 よくよく考えてみると、そのまた原因が、つまり、日本に「政権交代が起きない」原因があった。野党に、本気に政権をとってこの国をなんとかしたい、という覚悟がないことだ。野党が一本化して自民党に対決すれば勝てるという見込みがありながら、うじうじしてなかなか同じテーブルに着こうとしないのがないよりの証拠であろう。野党間の統一政策を掲げ、本気度を示してもらいたいものである。
 政治の「私物化」もひどい。アペノミクスとか北方領土問題とか、すべて自分たちが権力を握り続けていくための「やってる感」を出すための道具として使ってきた。
 モリ、カケ、サクラに河井克行・案里夫妻の大規模買収事件…。政治腐敗も続いています。
 なぜこんなにひどいのか。政権交代が起きないからです。政権交代の危機感があれば、このような政治を続けることはできないはずです。(政治学者、思想史家・白井聡著『赤旗日曜版』、2021年6月20日号)

2021年6月25日金曜日

われわれが亡びたくなければ

 今まで、ヨーロッパにおける植民地政策の負の側面ばかり見ていたが、未開発国に対する文明開花という側面の実態を知って驚いた。いわゆる宗主国には、植民地政策を通して文明開花をしてやるという名目があったことは知っていた。しかし、それは、名ばかりであろう、と深く考えもしないで、過酷な搾取といった負の側面にばかり目がいっていたのである。(「古い時代の、単純な領土拡張の意欲や多民族征服の願望による侵略は別として、近代における植民地支配」に限る)
 インドの詩人タゴールやアルジェリアの独立運動家フェルハト・アバスの言葉が、未開発国に対する文明開花の実態を証明していた。

 インドの生んだ世界的な詩人タゴールは、その八〇歳の誕生日(一九四一年五月)に寄せたメッセージの中で、次のように”憎むべきインドの侵略者 —— イギリスへの思い”を綴っている。(『韓国・朝鮮と日本人 韓国・朝鮮人の嫌いな日本人 日本人の嫌いな韓国・朝鮮人』、若槻泰雄著、原書房、1989年、p303)
 ………われわれは(インド伝来の)固定した掟に代わるものとして、英語で表現されているがままの「文明」という理想を受け入れたのである。われわれ自身の家庭においても、この精神上の変化は、その全く合理的な、かつ道徳的な力の故に進んで受け入れられ、その影響はわれわれの生活のあらゆる分野において感じられた………私は自然とイギリス的なるものを心の王座に据えていた。
 ………当時、イギリスは、迫害されて祖国から亡命しなければならなかったあらゆる人々に隠れ場を提供していた。祖国の人民の名誉のために苦しんできた政治的殉教者たちが、イギリス人からは隔意のない歓迎をうけていた。イギリス人にみるこの自由な人間性の確証に私は感動した。そしてそのゆえに彼らを、私は最高の敬意に値するものと考えるようになった………。
 ちょうどこの頃、一少年としてイギリスにいた私は、あるいは議会の内であるいは院外で、かのジョン・ブライトの演説に耳をかたむける機会をもった。それらの演説の、一切の狭隘な民族的限界をのりこえた、闊達な、しかも徹底した自由主義は深く私の肺腑をつらぬいて、今日このおはなしにならぬ幻滅の日々においてさえ、いまだに忘れがたいほどの感銘を残している。[辻直四郎等訳、J・ネルー「インドの発見』](同上、p304) 
 タゴールの、このイギリスヘの賛美は、改めて世界史上、人類の発展史上においてイギリスが果たした偉大な役割を思い出さずにはおかない。そしてこのタゴールの言葉を、イギリスの官憲に捕われたネルーが獄中の手記で引用していることに、われわれも深い感銘を受けずにはおられない。イギリスはその暴政とともに、インドに近代精神をもちこんだ。それゆえにこそインド人は、血にあえぎながらもこれを評価するのである。これに対し日本は朝鮮に、人類が克服しなければならない前近代的な非合理な精神を強制しようとしたのである。
 朝鮮の公立学校においては一九三八年から、これまでわずかながら教えられていた朝鮮語の授業がなくなり、日本語の強制が一段ときびしくなった。教師はその理由を次のように説明したという。
 天皇陛下は日本語でお話しになる。われわれは天皇陛下のお言葉がわからないと、大御心どおりの生活ができない。だから朝鮮人は一日も早く日本語がわかるようにしなければいけない。
 タゴールが、パークの演説を誦し、マコーレーの文章を読み、シェイクスピア、バイロンを理解するために、そして何よりも、「英語で表現されている『文明』を学びとるために」、みずから進んで英語の世界に没入したのと比較すると、日本支配下の朝鮮で、日本語を強制された朝鮮人は何と惨めなことであろうか。(同上、p305)

 フランスの支配下にあったアルジェリアでも、フランスの文明が、イギリスと同じような影響をアルジェリアに与えていた。

 フランス官憲によるコソスタソチーヌの虐殺事件に際し捕えられていた独立運動家フェルハト・アバスは、一年近い監禁の後、釈放されて間もなく、アルジェリアのフランス人およびアラブ人青年に向かって次のような寛容かつヒューマニズムの香気たかい訴えを行なった。
 同化でもない、新しい主人を迎えるのでもない。分離主義でもない、自由な大国(フランスのこと)と連合して、民主的、社会的教育を受け、産業、技術の設備をととのえ、知的、道徳的更正の道を進んでゆく若い国民。、生まれたばかりの若い民主主義。これがわれわれアルジェリア刷新運動の理想像であり、表現である………
 宇宙は絶望を知らない。それは挫折した事実を何度でもくりかえしてゆく。どんな失敗も、夢に満ちたその若さ、機敏さを失わせない。私はルナン(フランス人)のこの言葉をわが国のアラブ人とフランス人の青年に捧げる………
 われわれに必要なものは社会的義務と人間的使命感につらぬかれた市民である………われわれが亡びたくなければ、学び、理解し、近代社会の考え方に即応することが必要である。(淡徳三郎『アルジェリア革命』)
 これが一三〇年間に及ぶフランス植民地体制の圧政に苦しみ、つい一年足らず前、四万人が虐殺されたばかりの独立の闘士の発言かと、その目を疑うばかりである。ことに注目すべきはフェルハト・アバスの次の言葉であろう。
 「………自由な大国と連合して、民主的、社会的教育を受け、………偉大なフラソス民主主義にみちびかれる………」
 ここに見られるものは、投獄され虐殺されたものでさえ、なおその尊敬と憧憬を失なうことのできないフランス文化の存在であり、その担い手の良識あるフランス人とその体制への被害者たちの信頼である。アルジェリア人のこの寛容かつ建設的な態度と比べ、朝鮮人の執拗な反感を批判することはやさしい。しかしながら、朝鮮の人々がその圧紋下にもかかわらず、尊敬と憧憬と、そして虐殺の中にも失なうことのない信頼に値する日本の文化や体制、そして人間がいたのか、あるいはいるのであろうか、ということが反問されねばなるまい。(同上、p306〜307)

 タゴールや フェルハトの宗主国に対する態度を知って、われわれも、日本国憲法を押し付けられたのではなく、日本国憲法を通して、たとえばアメリカの<「文明」という理想を受け入れた>のであり、<偉大なフランスないしアメリカ民主主義に導かれた>のだ、と思いを新たにすることができた。そして、「われわれが亡びたくなければ、学び、理解し、日本国憲法に具現されている近代社会の考え方」を身につけていかなければならない。そう思った。




2021年6月24日木曜日

ひじ掛け椅子で眠る女

 最近、ラジオ深夜便を聞くようになった。「らじるらじる」で番組終了後も聞けるようになったからだ。特に、各界の人へのインタビュー番組が好きでよく聞いている。
 今朝は、横浜美術館・館長蔵屋美香(くらや・みか)さんの話だった。最後におすすめの絵は、と聞かれ、ピカソの「ひじ掛け椅子で眠る女」を勧めていた。
 この絵は、一見すると、「ひじ掛け椅子で眠る女」には見えない。しかし、じっくりと時間をかけて見ていると、これが髪の毛か、これが目か、というふうに、少しずつわかってくるようになる。こうした少しずつわかってくる長い時間は、ピカソと話しているようなものだ、というのだ。こうして、作者と対話をするような感じで作品とじっくり向き合いうという一つの鑑賞法を紹介してくれていたのが印象的だった。
 こうした鑑賞法でじっくりと見て欲しい作品として、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」も紹介説明してくれた。「遠近法」の透視図法を使って描かれていることは知っていたが、イエスが「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」言ってからの、時間の移り変わり、つまり、時間までもが描かれている、という説明は知らなかった。
 今度美術館に行ったら、いつもより長く、じっくりと作品と向き合って見たい、と思った。

ピカソ「ひじ掛け椅子で眠る女」

レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」

2021年6月23日水曜日

人生は自分で作り上げるもの

 NHKの日曜美術館アートシーンでは、全国で行われている展覧会情報を放映している。また、美術館によっては、全国の展覧会のチラシが置いてある。それらを観て気に入った展覧会を見つけても、遠かったりしていけそうにない時は、図録を買って楽しんでいる。交通費をかけて観に行ったと思えば安いもの、だからである。
 今回手に入れた「グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生」も、アートシーンで知り、取り寄せたものである。
NHK放送「アートシーン」より

NHK放送「アートシーン」より

 絵はもちろんのこと、「人生は自分で作り上げるもの。これまでも、これからも」というモーゼスさんの言葉が示しているように、彼女の人生そのものも、ドラマチックで魅力だった。画家の人生にじっくりと思いを巡らせて味わえるのも、図録の楽しみである。
 とにかく、後期高齢者になってからの<この偉業>は、後期高齢者にとって大きな励みであろう。
 また、展示品の一つとして紹介された、モーゼスさんに贈られた「丸木スマ画集」を通して、画家、丸木スマの存在も初めて知った。丸木スマも70歳を過ぎてから、<長男で「原爆の図」シリーズを描いた丸木位里の妻・俊子の勧めで絵筆を>とったという。このような細かい発見ができるのも、図録の楽しみなのだ。
 早速、丸木スマの画集も、図書館で探し見つけた。『花と人と生きものたち』(丸木スマ画、小学館1984)や、『遠くて近いものたち・山中利子詩集』(山中利子著、丸木スマ装挿画)だ。


2021年6月22日火曜日

ここから沖縄の悲劇が始まった

 NHK日曜美術館「丸木位里・俊『沖縄戦の図』戦争を描いてここまで来た・佐喜眞美術館(6月20日放送) を見た。最後のナレーションで「平和は与えられるものではない。絶えざる人の営みによってによって成し遂げるものである」という言葉が印象的だった。

米軍の上陸、ここから沖縄の悲劇が始まった。

「沖縄戦の図」には、ガマでの集団自決の悲劇が描かれている。

お互いに縄で首を締めあっている

仲間の首にナイフみたいなものを!

命が助かったシムクガマは、集団自決したチビリガマと対照的な存在として描かれた
 
「シムクガマ」に添えられた丸木さんの言葉

 この絵には、丸木さんの次のような言葉が添えられている。
よみたん村には、チビリがまとシムクがまがありました。
 チビリがまでは、八十四人の集団自決がありました。
 シムクがまでは、千人近い人が込っていました。自決の前に日の目を見てからにしようと、そのまま出て捕虜になりました。
 酷かった戦争のことは、いつまでも、きえることなくつづいています。(丸木)

2021年6月21日月曜日

起こりうることならいずれは起こる

 ゆっくり、少しずつ読んでいる本、『人生の短さについて』は、まだ読み終えていない。今日は、「だれかに起こりうることは、だれにも起こりうる」という言葉を、「起こりうることならいずれは起こるだろうと備えていないなら、きみは逆境の力に屈してしまう」という言葉と一緒に紹介する。ここれらの言葉を、沖縄やガザ地区での不条理に引き寄せて、考えてしまったからだ。
 遠く離れて所での不条理は、所詮よそ様のこと、関係ないで済まされることが多い。自然災害だってそうだ。多くの人たちにとって、大津波なんて関係ない、起こりっこない、チェルノブイリ原発事故の際も、日本は大丈夫と思い、必要な対策を講じることがなかった。「「どこかに起こりうることは、どこにでも起こりうる」ことを、証明してしまった。だからこそ、沖縄やガザ地区での不条理を我が事のように考えて、その解決に力を尽くすべきなのだ。そう感じた。

 わたしは、評判の悪い作家から引用しても、それが優れたものであれば、決して恥ずかしいとは思わない。プブリリウスもそのひとりだ。彼が、滑稽劇のばかばかしさや、観客におもねる台詞を捨て去るとき、その迫力は、優れた悲劇詩人や喜劇詩人をしのいでいる。
 彼は、喜劇はもとより、悲劇の台詞よりも力強い言葉をたくさん残しているが、その中に、「だれかに起こりうることは、だれにも起こりうる」という言葉がある。この言葉を深く肝に銘じて、毎日たくさん目にしている他人の災いは、みな自分にも容赦なく襲いかかってくるものなのだと用心するなら、そのひとは、襲われるはるか以前に、武装を整えることだろう。危険がやってきてから、心が危険に耐える準備をはじめても、手遅れなのだ。(「心の平静について」『人生の短さについて』、中澤務訳、光文社古典新訳文庫)

 ものごとは、上へ下へと変転している。それなのに、起こりうることならいずれは起こるだろうと備えていないなら、きみは逆境の力に屈してしまう。しかし、その姿を先んじて捉えるなら、だれでも逆境を打ち砕くことができるのだ。(上同)

 ここを読んだときは、核戦争のことを「起こりうること」として考えてしまった。間違っているだろうか。多くの科学者がこれまで警鐘を発してきているのだから、ここは謙虚に耳を傾けて、どうすればいいかを考えていくことが重要であろう。

2021年6月20日日曜日

ぐにゃぐにゃとした太陽がのぼる

 これまで、「個としての人間を全否定する旧日本軍隊」と「戦争の背後にあるもの」で、版画家・浜田知明のことを取り上げたが、「初年兵袁歌・歩哨、1951年」は、シリーズもので、「初年兵袁歌」の別の作品があることはわかっていたが、それが、どういう作品かはわからなかった。
 図書館で、『浜田知明よみがえる風景』(浜田知明著、求竜堂、2007年)という作品集を見つけ、「初年兵袁歌・戦いのあと」「初年兵袁歌・便所の伝説」「初年兵袁歌・歩哨、1954年」「初年兵袁歌・ぐにゃぐにゃとした太陽がのぼる」「初年兵袁歌・風景」「初年兵袁歌・風景(一隅)」と、これだけの作品があることがわかった。

初年兵袁歌(ぐにゃぐにゃとした太陽がのぼる)
  例えば、初年兵袁歌(ぐにゃぐにゃとした太陽がのぼる)には、次のような言葉が添えられていた。
炎天下の下、あるいは雨に濡れ、
汗にまみれ、埃にまみれ、
何処へ行くかを知らず、
ただ上官の命令のままに、
黙々と歩き続けた。(『浜田知明よみがえる風景』、浜田知明著、求竜堂、2007年、p26)

 これでは、栄養失調で済んでしまった人が多くなったのもよくわかる。 太陽がぐにゃぐにゃに見えてしまうほどに、なってしまうということか!

2021年6月19日土曜日

ガザ地区と日本国憲法

 イスラエル軍は16日、17日と二日間、パレスチナ自治区ガザ地区でイスラム組織ハマスの軍事拠点を空爆した、との報道があった。改めて、ガザ地区の問題を考えてみた。

上條陽子さん作成のガザ地区模型

 ガザ地区の模型を見ながら「ガザ市民に希望はない。どうすることも出来ない。海にも軍がいる。見張られて出て行く先もない。明日の見通しがひとつもないんだよ。私たちは助けが欲しいというのに」(ガザ、西岸地区、アンマン 「国境なき医師団」を見に行く』、いとう せいこう著講談社、2021年、p94)というガザ地区の市民の声を聞き、ここには、私たちには当たり前になっている移動の自由もないことに改めて気がついた。それに、実弾が飛んでくるのだからたまらない。そう考えただけでも息が詰まりそうだ。そして、憲法前文の一節を思い出した。
 われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 である。ガザ地区を通して、この一節の重要性に気がついた。そして、日本国憲法の実践ということは、とういうことなのかを考えた。まずは、政府声明で、空爆を非難すべきであろう。

2021年6月18日金曜日

ある学術会議攻撃の不思議

 この著者は”いいこと”を言うな、と思うと、その著者の他の本なり論文を読んでみることにしている。大概は、他の著書でも”いいこと”を言っている場合が多い。しかし、「保健所を半減した日本」で取り上げた大石久和さんについては、読みが外れた。天皇は賛美するし、学術会議の攻撃までしていた。しかも、まるで論理がなっていないのだ。
 例えば『「国土学」が解き明かす日本の再興 紛争死史観と災害死史観の視点から』(大石久和著、海竜社、2021年)では、学術会議は、「先の大戦の敗戦時の価値観をそのまま引きずっている」と書いていながら、その価値の説明はない。さらには、学術会議所属の憲法学者は、改憲を阻止する態度を取り続け、「怠慢を決め込んでいる」とまで言い切っている。
 学術会議はその典型なのだが、文系の中でも法律系の学者たちは、あの国土が焦土と化した先の大戦の敗戦時の価値観をそのまま引きずっている感がある。
 その典型が憲法をめぐる議論である。制定時からこれだけの時間が経ち、国民の価値観も大きく変化してきたというのに、憲法学の学者たちはほとんど指一本触れさせないとの態度をとり続け、つまりは怠慢を決め込んでいる。
 極め付けは、『「危機感のない日本」の危機』(大石久和著、海竜社、2017年)であろう。「深まらない安全保障と憲法」という章を設け、「現在の『平和憲法』を守れと叫ぶことは日米同盟に依存せよとする主張でもある」というのだ。どうしても、このような議論の展開ができるのか、理解に苦しむ。

 現在の憲法を「平和憲法」と規定し、これを守れと叫ぶことは、結局、日本の安全保障について、日米安全保障条約、つまり日米同盟に依存せよとする主張でもある。そのことは、最近のトランプ大統領による対日強硬姿勢のそぶりであわてたように、日本政府に、「アメリカの顔色をみて判断せよ、アメリカの反応をみて行動せよ、アメリカを怒らせるな」と言っていることに等しいと言わなければならない。(p87)

2021年6月17日木曜日

原子論的な歴史の見方考え方

 次男の名前に、板倉聖宣さんの「宣」の一字をもらってつけたほど、彼の思想と、彼の発明による仮説実験授業に心酔した時期がある。今はそれほどではないにしても、彼の思想をしっかり学びたいという気持ちには変わりない。そう思い出させてくれた文章が、『歴史の見方考え方』(板倉聖宣著、仮設社、1986年)について書かれた次のような文章である。

 考えてみれば、「原子論的な考え方」とか「数量的な考え方」とか「仮説実験の論理」というものは、古代の原子論やアルキメデスの静力学以来、コペルニクスの地動説、ギルバートの磁石・電気論、ガリレオの天文学と動力学、フックの分子運動論やニュートンの力学や光学、ラボアジェやドールトンの化学、ファラデーやマックスウェルの電磁気学などに適用されて、ずっとその有効性を発揮してきた方法です。しかも、たいていの場合は、それまでその分野の専門家だったという人びとはそういう方法を導入することに抵抗を示したのに、むしろそういう問題に素人だった人びとが強引にその方法を他の分野に持ち込んで成功したといったほうがいいのです。コペルニクスは牧師で、ギルバートは医者です。ガリレオはもともと数学者です。ドールトンは気象学者で、ラボアジェだって税務官吏で物理学者だといったほうがいいのかも知れません。私のような人間が、「原子論的な考え方で数量的な考え方を歴史学に導入するのはきわめて自然なことだ」とも言えるのです。(板倉聖宣著「私の研究の原則と特色」『たのしい授業』、2018年7月号、p53:1986年に行われた「『歴史の見方考え方』出版記念会」の講演草稿の抄録)

 早速手元にあった『歴史の見方考え方』を開いてみたら、12話のうち、2話まで赤線が引かれていて、読んだ形跡があった。これほどの本だったのに、読みこなしていなかったのだ。改めて、読み直してみることにした。

2021年6月16日水曜日

パレスチナの悲劇を描く画家上條陽子

 NHK放送日曜美術館で、パレスチナの悲劇を描く画家・上條陽子さんのことを知った。それから、現に今存在している不条理のことを時折思い出すようになった。
 上條陽子さんは、パレスチナで目撃した不条理を目撃してから、パレスチナの悲劇から目を背けることができなくなり、パレスチナの悲劇を描く画家になったという。パレスチナの画家との交流も続け、彼らを日本に招待したり、彼らの作品を日本で展示(パレスチナ・ガザの画家たち展)したり、といった活動までしている。
 日本における不条理の代表格は、やはり沖縄の米軍基地問題であろう。騒音被害一つとっても、爆音が常態化した状態が何十年と続いている。日本人の半数でもいいから、我が身に置き換えて考えたら、なんとかしなければ、と動き出すかもしれない。しかし、多くの日本人にとって、所詮他人事で済ませてしまっている。果たしてそれでいいのだろうか。上条さんのように、もっとこの世の不条理に目を向けて欲しいものである。
日曜美術館「壁を越える〜パレスチナ・ガザの画家と上條陽子の挑戦〜」より

(「パレスチナ・ガザの画家たち展」より)
日曜美術館「壁を越える〜パレスチナ・ガザの画家と上條陽子の挑戦〜」より
塀の白い部分が出入り口で、そこには武装兵がいるという。

2021年6月15日火曜日

過去に目を閉ざす者は

 最近の中国への対応などをみていると、日本の戦争責任など、どこかへ吹き飛んでしまったかのようである。何よりも、象徴天皇制の安泰ぶりが、その証拠であろう。しかし、天皇の名の下に推し進めてきた侵略戦争は、決して消し去ることなどできない事実である。この事実を真摯に受け止めることなくしては、一歩も前に進めない。逆に言えば、日本が前に前進するための初めの一歩が天皇の名の下に推し進めてきた侵略戦争への反省でなければならない。
 ドイツのワイツゼッカー大統領過去が述べた「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」は、あまりにも有名だが、日本は、いまだに過去に目を閉ざしている。だからこそ、米国と一緒になって、中国を敵視してまで、軍備拡大を推し進めてきている。
 忘れていた資料の中に、象徴天皇制を批判した、驚くようなことが書かれていた。

 日本の現状は、戦争被害国の国民からしてみれば、ヒトラーの子供が権力はなくなったとはいえ、国民の象徴とかいう地位に留まり、国民の尊敬を受けているのと同じような印象であろう。これでは彼らが、日本は戦争についてなんら反省していないと思うのは当然のことである。(『日本の戦争責任・下』、若槻泰雄著、原書房、1995年)

 なんとわかりやすい例え話だろう。

 日本人は自分のしたことも、されたこともすぐ忘れてしまう健忘症の国民である。たとえば、日ソ中立条約を公然と侵犯し、国際法に違反して日本兵捕虜六O万に戦後数年間、長きは一一年にわたり奴隷労働を強要し、さらには満州、北朝鮮などで百数十万の一般在留民を殺害、暴行、略奪、餓死、婦女暴行の地獄におとしいれ、その二十数万人を死にいたらしめた国を、日本の進歩的文化人なるものは「人道と平和の砦」などと何十年間にわたり賛美しつづけたわけだが、それを黙って聞いていたほど、日本人というのは人のよい、あるいはまのぬけた国民なのである。(上同)

 こうした意見は、最もな話だ。革新陣営には、耳が痛い話だろうが、真摯に受け止める必要があろう。

 だが、よその国民も日本人のように忘れっぽいと考えてはならない。イスラエルをめぐる問題では七〇〇年から九〇〇年も昔の十字軍のうらみが登場するし、ユダヤ教徒とローマ法王庁が正式に和解したのはじつに、キリストが殺されてから二〇〇〇年近くたった昨年のことなのである。日本が天皇制をそのまま維持していたなら、被害各国のうらみは今後すくなくとも数百年は続くであろう。場合によっては、発展途上国がもはや日本の援助を必要としなくなったら、すなわち、日本の機嫌を取る理由がなくなれば、それは余計ひどくなるかもしれない。

 知らなかった。”戦争責任” は、忘れてはならない必須の課題であることに変わりはない。

2021年6月14日月曜日

安保条約は本当に必要なのか

 本を読んでいて、『世界』などの雑誌からの引用があると、なるべくその雑誌を図書館から取り寄せて読むようにしている。目的の論文以外に、興味のある意外な論文を発見することがあるからだ。
 そうして発見できたお宝論文が、山内徳信著「すべての国民に訴える 普天間移設 名護市受け入れについて」(『世界』、2000年3月号)である。その論文の「武器を持つ者は武器にて滅ぶ」という最後の章で、「これから当然問題となる事柄のいくつかを提起し、国民的な論議を期待したい」(p54)として、4つの事案を提起している。そのうちの二つが、これまであまり聞かれなかった論点だった。辺野古の巨大米軍基地建設は、普天間基地の危険性除去のためだというが、危険性が辺野古へ移るだけで根本的な解決にはならない、辺野古住民の人権無視だ、という主張と、賛成派と反対派の新たな対立を生み出し、「地域共同体の崩壊」をもたらす、という主張だ。

 第一に、現在の普天間飛行場は宜野湾市内にあって危険度が高く、爆音被害等から住民生活を守るためというのが、返還の大義名分である。それでは「危険性」と「爆音被害」等を、候補地とされる名護市民に押しつけることは、人権無視に等しいのではないのか。(p54)

 第三に、降って湧いたような基地の押しつけによって生じる地域社会の対立抗争、地域共同体の崩壊等に対し、行政関係者は自らが住んでいる地域に置きかえて考えたことがあるのだろうか。その責任についての認識を問いたい。(p54)

 第一については、返還の大義名分が真実ならば、辺野古に移っても基地被害は無くならないのだから、基地の建設などできないはずだ。結局、老朽化した基地をバージョンアップして強化することが、真の目的なのだ。そこまで考えを推し進めて考える必要がある。
 第三については、前から、福島と沖縄の構図は同じと言われてきた。その理由の一つがここにある。原発立地の自治体でも、同じような対立が生じてきたからだ。今こそ、既定路線となりつつある安保条約は、本当に必要なのかという根本的に問いに立ち返り、そこかから辺野古の米軍基地建設問題を考えていく必要がある。 

2021年6月13日日曜日

エネルギーに満ちた表現者

 以前、「幸せな人生のつくり方」で、「今していることに15分心を込めて取り組む。(お茶の先生だったか、書の先生だったか忘れたけれど、丁寧な所作が大切だ、と書いてあったものを思い出した。書も、筆の運びを心を込めて、丁寧にするが重要と、そんなことが書かれていた」と書いたが、ここで思い出した先生は、書道家の武田双雲先生だった。「所作を丁寧にするだけで人生は豊かに」で、その人に興味を抱き、先生の著書を読んでみたい、と書いた。
 早速、『「書」を書く愉しみ』(光文社新書、2004年)を読んでみた。この書を読んで、今まで疑問に思っていた、画家などの芸術家に長寿者が多い理由がわかった。表現者には、「明らかに意志があり、情熱があり、個性があり、人間味があり、エネルギー」がある、というのだ。この、強い意志と情熱のエネルギーこそが、長寿をもたらしてきたのであろう。北斎の人生を思い起こしてみると、そのことがよくわかる。
 この運転手はタクシーという道具を使って、私は筆という道具を使って自分を表現しています。このタクシー空間には明らかに意志があり、情熱があり、個性があり、人間味があり、エネルギーがあります。私は他にもたくさんの貴重な出逢いがあります。それは職業は様々で、その仕事内容に関係なく表現者と呼びたい人とたくさん出逢います。こういう人達には大きな魅力があります。自然と人が集まり、共感を増やしエネルギーが高まっています。自分の意志を貫きつつも社会に放っている人々、そういう人種を表現者と呼ぶことにしています。先ほど、書くことやおしゃべり、ジェスチャーも表現として挙げましたが、これらもそこに個としての意志があれば、それは立派な表現だと思います。(『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年、 p181)
葛飾北斎、90歳の正月に描かれた「藤子紫龍図」

2021年6月12日土曜日

豊かな読書人

  前に、「多くを読み通せなくても、一つでも気に入った作品を見出せれば、全集の価値はあるんだ、ということがわかった」(日本のエネルギー技術の中心問題)と書いた。読書ノートを読み直していたら、同じようなことを書いていた人がいた。

 三十冊の文学全集のうちで、一冊でもいいから、感動、あるいは興奮といいますか、そういう感銘を受けた本に出会えれば、あと残りの二十九冊がほとんど読みもしなかったということになっても、けっこう損ではないのです。(『知的人生の生き方』、渡部昇一他著、講談社、1980年)

 タイトルを「豊かな読書人」にしていた同書からの書き抜きメモもあった。

 りっぱな読書人というのは、冊でも多く再読、あるいは読、繰り返し読むことができる本を自分で持っている。そういう本を自分で発見するということです。

 繰り返し読むことができる本といったら、やはり古典になるのだろうけれど、今のところ、セネカの『人生の短さについて』が、自分が持っていて、最近発見した本である。繰り返し読みたい哲学書も、見出したいが当面は、これまで書き留めてきた書き抜きを読み直してみたい。

2021年6月11日金曜日

恐怖の循環構造から脱却を

 昨日に続き、国土学アナリスト・大石久和氏の警告を聞く。
 スイスにあるIMDという機関が、いろんな指標から各国の競争力ランクを計算して発表している。この機関によるランク付けで、かつては、日本が2位とか、3位になっていた時期がある。ところが、2019年5月の日本経済新聞には、「日本の競争力が30位に落ちた」との報道されるようになってしまった。このような「世界における日本の凋落ぶりは、いろんな指標に表れていて『日本よ、なんとかしろ』と警告しているのに、この国は愚かにも、財政再建至上主義を謳い続けて、強化されて来なかった堤防の破堤に加え、増税によるデフレの促進、デフレによる勤労者の貧困化、その貧困化による消費の低迷、その低迷による経済の非成長、その非成長による税収の低迷という恐怖の循環構造から脱却できないでいる」(『道21世紀新聞』、2020年1月号、人と道研究会)というのだ。
 近年、雨量強度が非常に強くなり、気象の凶暴化ともいうべき現象が生じているのに、防災インフラ整備のための事業費年々削減され続け、「25年前に比して半減してしまった」(上同、2020年8月号)。異常気象は、温暖化による影響もあると言われ、世界の趨勢は、再生可能エネルギーに重点を移しつつある。しかし、日本は、世界から取り残されつつある。国別の浮力発電導入量を見ると、一目瞭然にわかる。
 道路標識だったかに、「そんなに急いで、どこに行く」というのがあった。今の日本にこそ、「そんなに急いで、どこに行く」と問いたい。今こそ、目先ではなく、人類史的観点に立って、国民目線の施策に変換してほしい、と。そうでなければ、恐怖の循環構造から脱却できない。それが心配だ。

(「『朝日新聞グローブ』、2021年6月6日号」より)
 追記
  大石久和氏は、こんな興味あることも書いていた。
 アインシュタインとタイピストという有名な命題があります。あの大物理学者のアインシュタインがトップ級の腕を持つタイピストだったとしても、やはり彼にはタイプを打たせるよりは研究に没頭させた方が世のためになるという話です。
 日本はアインシュタインにせっせとタイプを打たせ、わずかな人員削減効果だけを祝っています。日本の競争力が30位となったのは、財政再建至上主義の必然なのでした。(『道21世紀新聞』、2020年1月号、人と道研究会)

2021年6月10日木曜日

保健所を半減した日本

 ドライブに行って道の駅に寄った。そこで、人と道研究会発行の『道21世紀新聞』をもらってきて、うちに帰って読んだ。これまで、いろんな道の駅に寄ってきたが、こんな新聞が発行されていたことなど知らなかった。
 これまた初めて「国土学」というものの存在を知った。国土学アナリスト・大石久和著「国土学事始め」という記事が連載されていたのだ。2020年8月号では、「保健所を半減した日本」という記事を書き、1995年以来、保健所を閉鎖し続けてきたことを憂いている。同年747あった保健所が、2019年には、385に激減してしまったというのだ。だから、「感染症対策の中心であるべき保健所のエリアが広くなりすぎて保健所職員が大変だと嘆いたその時に、コロナがやってきたのである」
 人口10万あたりの集中治療室(ICU)のベット数にも言及していた。ドイツが30床、イタリア12 床に対し、日本は5 床程度であることを取り上げ、「ごく最近までベッド数や医師の多さが日本の医療費を押し上げていると主張してきた経済学者たちは、コロナ騒動のいま、再度、自身の見解を表明しなければならない」と主張していた。そんな経済学者たちの存在も知らなかった。コロナ対策を問うことも重要だが、これまでの人命軽視の施策とその思想こそが問われなければならない。そう思った。

2021年6月9日水曜日

「人類」と「徳」の概念の重要性

 最近は、防水のKindle端末で風呂場でも本を読むようになった。風呂場では、まだ、これまでも三度取り上げた『人生の短さについて』(中澤務訳、光文社古典新訳文庫)を読んでいる。


 今は、「心の平静について」を読んでいるが、紀元前に、すでに人類の概念があったことに驚いている。それに比べて、いまだに自国にこだわり、軍事的な防衛に血眼になっているのが滑稽にさえ見えてくる。例えば、こうだ。
 隠居するときには、気をつけるべきことがある。すなわち、どこに隠れて自分の閑暇を過ごすにせよ、知性と言葉と助言を使って、個々人はおろか、人類全体の役に立ちたいという思いを持つことだ。(「心の平静について」『人生の短さについて』、中澤務訳、光文社古典新訳文庫)
 徳にも言及していて、思わず、「素晴らしい」とメモしたところもあった。
 あなたが学問に専心するなら、あなたは、人生のあらゆる退屈から逃れることができるだろう。昼の光に飽きて、夜が来るのを待ち望むこともなくなるだろう。自分が重荷でなくなるだろう。そして、だれかの役に立てるようになるだろう。
 あなたは、たくさんの人々を引きつけて、友人にできるだろう。最良の人たちが、あなたのもとに集まってくるだろう。じっさい、徳というものは、いかに微弱であっても、見えなくなることはなく、その信号を外に発している。だから、徳の名に値する人はだれでも、徳の足跡を追って、やってくることになるのだ。 (上に同じ)
 徳といえば、どちらかといえば、東洋文化圏の概念と思っていたが、そうでもなかったようだ。これから、もっとこうした概念が重要になってくるような気がする。

2021年6月8日火曜日

所作を丁寧にするだけで人生は豊かに

 数ヶ月だったか、数年だったか、職場の仲間と「書」を習ったことがある。だからでもないが、味のある「書」は好きで、いまだに、かつての先生が書いてくれた「養神」という書が部屋に飾ってある。
 最近、また「書」に関心を持ち始めた。「所作を丁寧にするだけで、人生は豊かになる」という書道家・ 武田双雲さんの言葉に心を動かされたからだ。
 図書館で武田双雲さんの本を検索したら、いろんな本を書かれていて驚いた。「書」を書く愉しみ』(光文社新書2004年)ならわかるが、上機嫌のすすめ』(平凡社新書2010年)というような本まであった。本の紹介記事には、「大企業のサラリーマンを経て、路上アーティストになったという異色の経歴を持つ書家・武田双雲。自身の歩んできた人生から、上機嫌で生きることの素晴らしさと大切さを提唱する」とあった。そのうちに読んでみたい。

 僕は書道教室の生徒さんに「丁寧」に書くように伝えています。丁寧と言っても、ただゆっくり書けばよいということではありません。丁寧とは漢字のとおり、寧の心。安らかな心でないと丁寧とは言えません。上手いとか下手とかにとらわれていは、心は安らかではありません。比較や評価の心はどこかに置いて、墨の美しさや香り、筆の毛の動きのこまやかさ、紙から返ってくる感触、それらをしっかりと感じること。それが、 心が整っていることなのです。

 しかし、人は早く上手くなりたいとか、失敗するのがやだ、褒められたいという気持ちもあって、「今」を味わうことなく、未来への不安 や対策にとらわれがちです。これが忙しくなる原因となります。 

 丁寧にやると遅くなるイメージがありますが、実は速い。心が安定しているので動きに無駄が生まれにくく、ミスも起こりにくい。ノイズがないので、問題になるようなことを引き寄せないため、速いのです。結果として所作も美しくなるので、それに呼応するように筆や墨も共鳴してくれます。 

 これは書道の世界だけでなく日常のあらゆることすべてに応用できます。起きる、着替える、顔を洗う、食べるなどの所作が丁寧になると、生活が豊かになり、体も心も円滑になっていき、人間関係も円滑になります。ひとつひとつの所作を丁寧にするだけで人生は豊かになっていくのだと実感しています。(『NHKきょうの健康』、1916年2月号)

2021年6月7日月曜日

戦争の背後にあるもの

 県立美術館で、「個としての人間を全否定する旧日本軍隊」で紹介した浜田知明の作品「初年兵袁歌・歩哨」に出会ってきた。解説目録に彼の手記も紹介されていて、そこで初めて、「戦場で考えたことを絵にしてみたい」という浜田知明の絵心が、彼を頭から離れなかった自殺から救ってくれたことを知った。

 僕はもう昼間は命令のままに、投げやりに適当に動き廻っている一個の人形に過ぎなかった。絶えず死と対峙して何時自分の咽喉に銃口を当てがうかを考えて生きていた。僕を死から救ったものは夜である。太古の色を湛えて果てしなくひろがる黄土地帯の上、あくまで深く澄んだ夜のとばりの中に、煌々と輝く満天の星であった。ただ一人歩哨に立って星と語った。 (中略)自分がこの野蛮な日本の軍隊の一員であることが淋しかった。いつの日かこの社会から解放されてアトリエに戻ることがあったら、戦場で考えたことを絵にして見たい。ただこのことだけが、自分を自殺ら救った。

 そして、図録の中に、「取引」(1979年)という戦争の本質を見事に描き出した作品を見つけた。戦争の口実を、安全保障とか、国を守るためにという美名でもって語っているが、「取引」は、戦争の背後にあるもの、見事に描き出している、といえよう。

2021年6月6日日曜日

『無人の兵団』の問題点

 自律型兵器については、「殺人兵器の製造開発はもう止めて」で、すでに述べたが、自律型兵器を紹介した『無人の兵団 AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』(ポール・シャーレ著、早川書房、2019年)を借りてさっと読んでみた。すでに、多くに地域で実用化されている実情が報告されている。
 しかし、「法律や国際的な善意など意に介さない輩」の存在を絶対視し、「人類の未来を占う必読書」とうたわれているように、将来にわたってこうした兵器が使われていくのを前提にしている点が、やはり1番の問題点であろう。「自衛のための手段を放棄するよう国に求めるのは、重大な賭けをしろというようなものだ」と、読み方によっては、日本の9条をも敵視しているようにとれる。本当に、そうであろうか。

 戦争が回避でき、武力ではなく条約で各国が平和を打ち立てることができるようなら、とっくにそうなっていただろう。軍隊は、法律や国際的な善意など意に介さない輩から人々を護る手段として存在している。自衛のための手段を放棄するよう国に求めるのは、重大な賭けをしろというようなものだ。 (p475)

 国と非国家組織合わせて九〇以上が、すでにドローンを保有している。ほとんどは非武装の偵察ドローンだが、武装ドローンも増加している。一七カ国以上が、すでに武装ドローンを保有し、さらに一二カ国以上が、ドローンの武装に取り組んでいる。何カ国かは、係争地域で運用するためのステルス戦闘ドローンを開発しようとしている。現在ドローンは伝統的な戦闘ネットワークに組み込まれて使われている。意思決定は人間のコントローラーが握っている。通信リンクに問題がなければ、人間がループの中枢にいてターゲットを承認する仕組みが使える。しかし、通信リンクがジャミングを受けたとき、ドローンはなにをやるようプログラミングされているだろうか? (p93)



2021年6月5日土曜日

かくしてストレスと癌が結びつく

 過剰なストレスが体を蝕むことは、常識と言えるほどに知られていることではないだろうか。がんといえども例外ではなく、その発生原因としてストレスが関わっていることが知られている。
 とはいえ、そうした認識は漠然としたもので、その仕組み、発症の過程などまでは知られていない、常識的認識にまでは至っていないと思う。そこで、わかりやすい解説を見つけたので紹介する。アップル創業者のスティーブ・ジョブズなど、働き盛りのさなかに、がんに侵されて惜しまれて亡くなった人たちに共通する背景として、「極度のストレスにさらされつつ、そこから逃げることが決して許されなかった」ことを挙げ、次のように解説している。
 生命の緊急時、ストレスホルモンは免疫システムが使っていたエネルギーや栄養を、ストレスと戦うための他の緊急システム(心臓、筋肉、呼吸、知覚など)に振り向けるようなスイッチとなる。つまりストレスホルモンは免疫抑制剤なのである。免疫システムは身体全体の防衛網。 国家にとって防衛費が膨大なものになるように、平時、免疫システムには、かなり多くの生命リソース(つまり酸素や栄養)がその維持管理のために振り向けられている。
 しつこい皮膚のかゆみやアレルギーにしばしばステロイド軟膏が使われる。これは、かゆみやアレルギー反応を引き起こす過剰な免疫反応を抑制するためである。交感神経系の活性化も同時に、免疫システムを抑制する方向に働く。
 さて、問題はこのあとだ。ストレス応答は本来、一過性の防御反応である。敵からなんとか逃げおおせるか、危険な状況から脱することができれば、ストレスホルモンのレベルは下がり、交感神経系の活性化もおさまり、身体はもとに戻る。生命リソースは再び免疫システムにふりむられ、防衛網は再活性化される。これが進化の長い歴史で生命が結験してきたストレスとの付き合い方だ。あくまでストレスは一時的なものだった。 
 ところが、現代人はさまざまな社会的・人間的なストレス環境に置かれる。しかもこれは一過性とはいかない。むしろ恒常的だ。逃げられない。ゆえに、慢性的なストレス反応が、免疫、システムをたえずいためつけてしまう。免疫システムの抑制は、がんに対する警戒網を弱める。かくしてストレスとがんが結びつく。 
 ゆえに、がんになりたくなければ、できるだけストレスホルモンの上昇を避け、交感神経系を刺激しないようにするのがよい。それがハカセの推奨する迷走生活である。(『迷走生活の方法』、福岡伸一著、文藝春秋、2021年、p116〜117、下線は引用者による)

2021年6月4日金曜日

世界全体を認識できたハイデガー

 筒井康隆さんのハイデガーについての講義録テープを聞いてから、ハイデガーに拘っている。テープを二回ほど聞き、最近は講義内容を書籍化した『誰にもわかるハイデガー』を見つけて読み始めた。「現存在」とか、「道具的存在者」と言った独特な概念が出てきて、難しいところもある。しかし、講義を聞き、本も読み始めたら、不思議と分かってきた。
 その中で、最も感銘を受けたことは、人間存在と、そうした人間存在を取り巻く世界を単純化して捉えてしまったことである。この世界は、あまりにも複雑で、かつ大き過ぎて、その全体を認識することなでできない、これで全体を把握できたと思っても、気がつけば、お釈迦様の掌にいた孫悟空のようなものだ、そう思ってきた。宇宙に存在していると言われている暗黒物質の存在を考えても、当然のことであろう。
 しかしハイデガーは、こうした未知の物質も含めた概念を創出し、世界全体を認識してしまった。つまり、ハイデガーは、人間存在と人間存在を取り巻いている世界を我が物にしてしまった。それこそが、ハイデガーの凄さであり、感動したところである。もっと先に読み進めば、人間の可能性にも言及しているようだが、そこがまた、楽しみである。

2021年6月3日木曜日

衣食足りて他人の笑顔

 昔、学校で習った「最大多数の最大幸福」という言葉だけは知っていたが、それがどういうものであったか、それは全く忘れてしまっていた。今回、J・S・ミル著『自由論』の木村健康氏による解説を読んで、それがよくわかった。
 実は、木村健康氏の民主主義の解説が素晴らしかったので、彼の著書を探して、この本も読んでみようと思ったのだ。ここでいうところの「真の利己心は、すべての人の調和を求めるような利己心である」を読んで、これは、板倉聖宣著『発想法かるた』にある「衣食足りて他人の笑顔」のことではないか、と思った。ここには利己心の衝突がないからである。
 経済的自由および政治的自由の獲得の問題が、このようにして、時代の問題となったのであるが、このような運動の思想的根拠は何であったか。アダム・スミスの「自然的自由の体制」も、その一つであったが、それよりも有力に働いたのは、ジュレミ・ベンサム(Jeremy Bentham 1748―1832)の功利主義の哲学であった。ペンサムの思想は、きわめて論理的で、たとえば自然法の思想のように、自然状態というような一種の神話を背景としたものではなかった。
 ベンサムによれば、人間の行動はすべて利己心の発動であり、快楽を求め苦痛をさけようとするのが、人間の行為の動機である。しかし、すべての人間が利己心で動くならば、各人の利己心が衝突して、社会の成立を妨げるのではないか。ベンサムはこれに対して、互いに衝突するような利己心は、真の利己心とは考えない。真の利己心は、すべての人の調和を求めるような利己心である。もし利己心が互いに衝突すれば、それは結局各人の利益を害することとなり、到達されるべき利益は失われてしまうからである。
 ペンサムの考えによれば、人間は必ずしも真の利己心にもとづいて行動せず、社会の調和を破る目先の利己心によって動かされることが少なくない。そのような利己心の衝突を防ぐためには、 国家や法律の働きが必要である。元来、人間は自己の利益が何であるかを、自分自らが最もよく知っているのであり、従って各人の行動を自由に働かせることが最善の策であるが、各人が自己 の真の利益を忘れ、目先の利益に動かされることが少なくないために、社会の調和をはかる必要上、国家や法律が欠くべからざるものとなる。国家や法律はそれ自体は自由を侵害するものであるから、悪である。しかし国家や法律によって、誤った利己心によって行動する個人を抑圧するのでなければ、社会の調和は得られない。したがって国家や法律は、悪ではあるが、やむを得ない悪であるといわねばならない。これがあることによって、最大多数の最大幸福が達成されるのである。(p276〜277)

2021年6月2日水曜日

民主主義=自由な理性を基礎とする政治原理

 民主主義についての定義は、種々あって、人によってその捉え方に大きな差があるようだ。だから、日本における民主主義の現在に対する認識にも、大きなズレが生じている。戦後、一定の民主主義の発展があり、それゆえ、平和憲法が守られてきている、といった認識から、極端な話は、戦後民主主義は終わったという認識すらある。「戦後民主主義は終わったのか」という問いに対して、「若い世代は、はっきりと明言にすることはなくても、心の中でイエスと答えるのではないだろうか」(『戦後民主主義』、山本昭宏著、中公新書、2021年、p281〜282)と書かれている。
 しかし、この場合の認識のズレは、民主主義そのものついての”認識のズレ”から生じている可能性が大きい、そう私は考えている。だからこそ、民主主義の定義についての共通認識が重要になってくるし、その努力が求められているといえよう。そもそも、前提が違っていたら、議論は成り立たないからである。
 ここに、最近見つけた民主主義についての定義らしき素晴らしい文章を紹介する。

 民主主義の本質は、自由な理性を基礎とする政治原理である点にあり、これを妨害し束縛する権威があるときには、反抗勢力としてあらわれるのである。民主主義は一般に、人民の支配による政治と考えられているが、国民が直接に政治を行うことではなくて、政府の意志形成に進んで参与する政治体制のことである。したがって民主主義のもとでは、国民が特定の政府をつくる機会を与えられ、政府の公布する法律が等しくすべての人々を拘束する。
 民主主義はさらに、反対するものに対しても、政府を支持するものに対すると同じ市民的権利を与える。すなわち、社会における利害の相剋と意見の対立とを前提し、いかなる個人も一切の権威によって強制されることなく、論議によって行われる集団的行動の体制である。したがって、しばしば多数による政治であるといわれる。しかし多数といっても、それはあくまで個人を基礎とするのであって一部の集団的大衆に依頼するのではない。後者が集団特有の心理によって、理性を欠いた横暴の行動におちいりやすいことは、述べるまでもないであろう。多数の支配は、多数の横暴ではない。一切の人間を、権力の束縛から解放することである。そこに民主主義における市民的自由の基盤がある。(『社会思想読本』、木村健康編、東洋経済新報社、1975年、p230〜231)

2021年6月1日火曜日

アイヒマンも決まり文句を繰り返した

 安倍元首相や菅首相が、国会答弁で”まとも”に答えず、決まり文句を繰り返す答弁が目立った。全く質問者、強いては国民を愚弄する答弁だが、一向に無くならない。実は、ナチズムを裁いたアイヒマンの裁判で、アイヒマンも決まり文句の答弁を繰り返していたことを知って驚き、そして納得した。ヒトラーに学べというようなことを閣僚が言ったことを思い出したが、決まり文句の答弁を繰り返すことは、アイヒマンに学んだのかもしれない。
 アイヒマンの裁判は1961年4月に始まり、1962年5月に死刑判決が出て、アイヒマンは校首刑になった。アーレントはこの裁判を傍聴していて、その報告は雑誌「ニューヨーカー」に5回にわたって掲載され、その後、『エイェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(ハンナ・アーレント著、みすず書房、1994年)として出版されている。
 アイヒマンは、

 「権力のある地位にいた連中」が自分の「服従」を悪用したと訴えた。だが、アーレントは彼の罪を軽視してはいなかった、と矢野さんは指摘する。
 「アイヒマンは裁判中、重要な事柄に言及するたびに同じ決まり文句を繰り返した。紋切り型の言葉に逃げ込んで、現実を見ないようにしていたんです。自己欺瞞に満ちていて、何よりも他の人の立場にたって物事を見る想像力が圧倒的に欠けていた」。(石井千湖著『週刊文春』、2021年4月8日、p102)

 全く、今の政局を批判されているようである。続けて、思考放棄の恐ろしさを次のように書かれていた。

 「悪は、誰かを虐げたいというサディスティックな欲望 や、憎悪から生まれるものとはかぎらない。一人ひとりが思考を放棄して官僚機構のような画一化・自動化したシステムに順応することによって、巨大な悪を意図せず行ってしまうことがあることをアーレントは痛感していたのでしょう」(上同)