2022年12月31日土曜日

武者小路実篤の憲法草案

 武者小路実篤が「私の憲法草案――世界平和のために――」を書いている。世界平和のためには、個人の自由、生活の安定、人間の尊重を保障していくことが重要だと言っているわけだが、個人の自由や個人の尊重に対して、生活の安定というスローガンはあまり叫ばれなかったのではないか。最低生活の保障など言われてきたが、それではダメだ。「生活の安定」という言葉の響きがいい。
 ことわざに「衣食足りて他人の笑顔」というのがある。生活が安定し、生活が満ち足りていれば、戦争する気も起きてこないであろう。それでも戦争を求めるとしたら、軍事産業に関わる人くらいに違いない。
 日本の独立と平和の為にはどうしたらいいか、冷静に厳格に考えてものを言ってほしいと思うのである。
 僕は世界が本当に平和になる為には、個人の自由と、生活の安定が必要だと思う。何処の国も本当の意味で個人の自由を認め、それ等の人が正当に働けば生活が安定出来るようになれば、我等は何処へ行っても安心して生活が出来るわけだ。又強制されることがなければ何処の国に日本がとられても、結局同じことになり、とるだけ損になる。
 世界中の政府は人々の自由と幸福を助けるが、奪わない。結局何処の国の政治も同一で、国をとっても、とられても国民の生活には少しも変化がない。そう言う時になって始めてこの世から戦争はなくなるのだと思っている。
 国民は世界中何処へ行っても、同じように生活が出来る。同じく一日二三時間働けば、生活の安定が出来自由がたのしめる事になれば、戦争する必要はない。人間の方が主である。個人は何処に行っても自分の値打だけの生活は出来る。
 世界中の政府はあってもなきが如く、国民は政府の圧迫は少しも感じない。何処の政府も人民を同じように尊重し、生活の安定と自由を与えてくれ、いやなことはしないですむ。その代り、一人前の仕事をする。それも今に世界中の人は殆んど遊んでくらせる時がくる、労働はスポーツのようにだのしく果せる。そうなれば戦争の必要はなくなる。(武者小路実篤「私の憲法草案――世界平和のために――」『読本憲法の100年 第3巻 憲法の再生』、作品社編集部編、作品社)

2022年12月30日金曜日

地球の悲鳴が聞こえる

 日曜美術館アートシーン(2022年、12月25日放送)で、山梨県立美術館で開かれている「米倉壽仁展 透明ナ歳月 詩情(ポエジイ)のシュルレアリスム画家」の紹介があり、そこで、作品《ヨーロッパの危機》の存在を知った。アートシーンの解説は
 世界地図が描かれた物体にひびが入り様々なものが溢れ出しています。1936年、スペイン内戦が勃発、日本でも2・26事件が起きました、戦争への不安をにじませた作品です。
 だが、私に言わせると、「あの頃の芸術家たちが、言いたくても言えなかったことを込めた絵は、時を超えて私たちの心に届く(山梨県立美術館制作映像「画家・米倉壽仁の生涯と芸術をたどる」より)とあったように、まさに現在の、ウクライナでの悲劇を訴えているような印象を受けた。米倉壽仁さんの心が、「時を超えて私の心に届いた」のである。
 以前、「地球が発する悲鳴」という詩を書いた。そこに、「・・・・・戦禍のたびに、地球が発する悲鳴が聴こえる/痛ましい地球の傷口を、これ以上、増やさないで!」と書いた。「ヨーロッパの危機」を見ていると、地球が発する悲鳴が聞こえるようだ。

米倉壽仁《ヨーロッパの危機》・1936年・山梨県立美術館蔵


2022年12月29日木曜日

歴史の逆行を許してはならない

 朝日新聞(2022年12月29日)コラム「天声人語」で、特定秘密保護法違反で初めて摘発された件が取り上げられていた。特定秘密保護法について、「あなたは秘密を聞きましたか。何が秘密かは秘密ですけど――。まるでそんな法律である」と書き、ベールに包まれた不気味な側面を紹介してくれている。
 特定秘密保護法だけでなく有事法制もそうだが、まだ、その真価が発揮されていない。憲法がしっかりとガードしてくれているからだ。これらの悪法は、日本国憲法という重石に鎖でしっかりと繋がれている状態なのだ。もし、憲法が改悪されるようなことになったら、重石がなくなり、悪法は一気に本領を発揮するであろう。
 ここで、改めて「天声人語」に耳を傾けてみる。

「どの部分が特定秘密に当たるのかは分からなかった」。機密を教えられた元海将は警務隊の取り調べのときでさえ、黒塗りの文書を見せられたと共同通信に語っている。「真っ黒だから何か分からず、話が通じない状態だった」▼あなたは秘密を聞きましたか。何が秘密かは秘密ですけど――。まるでそんな法律である。国会の強行採決から9年。違反摘発は初めてだ。当時の不安な気持ちを思い出した。

 今回の摘発は、「小手調べの摘発」に違いない。このような摘発が続けば、どうなるか。戦前の歴史を紐解けば、その重苦しさがわかるに違いない。そのような歴史の逆行を許してはならないのだ。 

2022年12月28日水曜日

戦争などしている場合ですか!

 戦争を防ぐためにも、新しい思想、新しい哲学の構築が必要だと書いてきた。生命科学者の中村桂子さんや、哲学者の梅原猛さんの考え方でもある。その二方に加え、モデルで気象活動家の小野りりあんさんを加えたい。気象活動家と言われる人たちがどれくらいいるのかもわからないが、彼らにとっては常識的なことでも、一般には馴染みのない言葉がある。「地球エコシステム」という言葉である。
 小野さんの解説によると、人類も、地球エコシステムの一部なのに、「自分達人類は地球の一部ではない」という思想が生まれ「自然や他国の人々を搾取し続ける構造が長年行われて」(「自分と向き合い さあ来年」『赤旗日曜版』、2022年12月25日)きたという。その結果が、温暖化等の気候危機である。
 それゆえ、気候危機を乗り越え、人類の未来を約束するために「必要なのは、『人類が地球エコシステムの一部である』という思想にもとづく社会構造への作り直し」(上同)でないか、という。ここでいうところの「人類が地球エコシステムの一部である」という思想は、国境という壁を取り払った「人類は皆兄弟」という思想でもある。こうした思想は、地球エコシステムを破壊する戦争というものと相容れない。だからこそ、「戦争などしている場合ですか!」となるのだ。

2022年12月27日火曜日

閣議決定で終わりではない

 作家の中村文則さんが、「閣議決定 終わりではない」というインタビュー記事を赤旗日曜版(2022年12月25日号)を寄せていた。自衛隊が「このままでは、アメリカの対中政策の軍事的なコマとして使われる」というのだ。だから、岸田政権の今回の決断は、「国の滅亡に直結するトップクラスの愚かな決断」だと、次のように述べている。

 日本はこれまで、アメリカの軍事行動には憲法や世論をたてに直接は参加して来ませんでした。今回の岸田政権の「決断」は、アメリカの戦争に参加する道を開く亡国の決断です。歴代政権の決断の中でも、国の滅亡に直結するトップクラスの愚かな決断です。

 閣議決定で終わりではない、とすれば、どうすればいいのだろうか。それは、「本当にこれでいいのか、日本がアメリカの戦争に巻き込まれていいのかと問題にし続けることが必要」だという。
 確かにその通りで、諦めてしまったら、それで終わりになってしまう。諦めないで声を出し続けることである

2022年12月26日月曜日

地球生命の存続という使命

 日本は、エネルギー自給率が低いだけでなく、食料自給率も低い。「食料自給率が低いと何が問題なのか」わかりやすい事例が紹介されていた。
 それは、輸入できない状態になった時に、食べるものがなくなってしまう危険があるということです。  
 2022年のロシアとウクライナの戦争では、小麦の輸出大国である両国から小麦の輸入ができなくなってしまいました。さらに、日本が小麦を輸入している他の国、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどの小麦に世界中から注文が殺到したため、小麦の価格が急上昇し、パスタやラーメンなどの値段が上がってしまいました。
 また、コロナ禍の初期の2020年には、自国民の食料を優先し、他国への輸出を止めた国が何か国もありました。そうした事態が長引けば、日本は食べものを買いたくても買えない状況に陥ってしまいます。(『いちばん大切な食べものの話』、小泉武夫・井出留美著、筑摩書房、p12)
 結局、一度戦争に突入してしまえば、エネルギーの枯渇と相まって、国民は生命の危機に陥ってしまうことは目に見えている。いくら防衛費を倍増しようとも、とても、戦争の継続すら危ぶまれるであろう。
 だからこそ、軍隊では国民は絶対に守れないこと、日本は戦争を始めてはいけないこと、日本国憲法の普遍的な審理性に気づくこと、地球生命の存続という大きな使命に目覚めること、これらを実現していくことで初めて、平和が訪れる。

2022年12月25日日曜日

三分法的カテゴリー

 松岡正剛さんが、本を紹介していた著作で『バース著作集』は読んでおいた方がいい、と書いていた。その理由は忘れたが読んでみたい本のリストにあったので、どんな内容なのかを知りたくて借りてみた。そして、その内容が私も問題意識に合致するもので驚いた。というよりも嬉しかった。
 ほとんど一冊が、三分法的カテゴリーに関するもので、憲法の三原則を検討する際の哲学的バックボーンになるのではないか、と思えたのである。たとえば、哲学は、現象学、規範科学、形而上学の三つに、規範科学は、美学、倫理学、論理学の三つにという具合で、世界を三つの関係性のもとに捉えようとしたものではないか、と今のところ考えられる(そう理解した)。
 とにかく内容そのものは、役者が告白しているように難しいようで、解説から読んだ方が良いみたいなところがある。どちらにしても、日本文化の中にも、三昧、三すくみ、三拍子といった三分法的カテゴリーが存在しているので、焦らずゆっくり、読み解いていきたいと考えている。
(『バース著作集』、勁草書房、p202)

日本国憲法革命説

 日本国憲法の第一章は、天皇に関する条文で八条もある。それをもって、憲法で一番大切にされているのが天皇だ、そうした主張もあるようだ。だからだろうか。『今だから、日本国憲法』(盛泰寛編、地湧社)は、最高法規、平和主義、と解説が続き、天皇に関する条文は最後だった。
 しかし、天皇条項をよく見ると、それらは「全体として権力制限的」で、「否定的でありネガティブ」(『憲法九条は国際政治に無力か』、弓削達著、かもがわ出版 、1996年、p38)であるという解説を知って、目から鱗だった。解説は続いて、「大日本帝国憲法との国体
の連続を否定することに意味があった」。だから、「国体上のつながりはないということを示すもの」(上同)だ、と主張していた。これは、明らかな革命説にほかならない。
 ここでは簡単に述べられているが、もっと詳しく調べて、内容を膨らませてみる必要があるのではないだろうか。宮沢さんの「八月革命説」はどうだったのか。「八月革命説」とどこが違うのか。調べてみたいところである。(24日分)

2022年12月23日金曜日

渋沢栄一さんの金言

 齋藤孝さんの著書『小学校では学べない一生役立つお金の勉強』に、「偉人の金言から学ぶ」というのがあって、渋沢栄一さんの言葉と齋藤孝さんによるその解説があった。憲法の三原則の関係に興味を持っている関係で、「三拍子」という言葉に反応し、憲法の三原則も、”揃って正しくなければならない関係”ではなかろうか、と考えられることに気づいた。
 行為と動機と満足する点との三拍子が揃って正しくなければ、その人は徹頭徹尾、永遠までも正しい人であるとは申しかねるのである。

道徳的であるとは「正しい人」であるということだ。渋沢さんは、やっていることとやろうとした理由が正しく、しかもそのけっかに自分が満足していてはじめてほんとうに正しいとしている。とてもきびしい教えだね。
 とえば宿題がおわらずこまっている人を手つだってあげるのは正しいかな。助けたいという気もちは正しくても、手つだってあげるのはいいことじゃないよね。あとから「やっぱりほんにんのためにならなかったなあ」なんて思うかもしれない。渋沢さんのせいこうは、これくらい正しさにこだわったからかもしれないね。 (p 72)

 下腹部に力を籠める習慣を生ずれば、心寛く体胖かなる人となりて、沈着の風を生じ、勇気ある人となるのである。

わかりやすく言いかえると、おへそのしたあたり(丹田と言う)に力をいれる習慣があると、心やからだがおちつくというアドバイスだね。武道やスポー ツの話のように思うかもしれないけれど、渋沢さんは経営者にもこれが役立つと考えたんだ。なにかとつぜんのことでびっくりしたりこまったりすると、人はからだがブルブルふるえたりするからね。この習慣を身につけると、そんじょそこらのことでは動じなくなって、立派な人だと思われるようになるよ。 (p 73)

2022年12月22日木曜日

福沢の危険思想

 朝鮮人虐殺となど戦前から戦中にかけて、苦い経験があった。残念ながら、いまだにそうした思想が存在し、歴史的な和解の障害になっている。その源流が明治期の福沢諭吉の思想にあったことを知って驚いている。「福沢の脱亜論は単に脱亜にとどまらないで、蔑亜 —— アジアを蔑み、同時に、侵亜 —— を侵すことをめざすものとなった」(『憲法九条は国際政治に無力か』、弓削達著、かもがわ出版 、1996年、p9)というのだ。
 丸山眞男は、福沢諭吉の思想を評価していたが、福沢のマイナス面、恐ろしほどの危険思想を見抜けなかったのだろうか。諭吉の伝記は、こうした危険思想を伝えているのだろうか。やはり、日本のこれからは、明治の思想から書き直される必要があるのだろうか。今後の課題である。
 諭吉は、1885年頃、『時事新報』というのを発行していたようで、その社説に、「東洋諸国と縁を切る。西洋の文明国と仲間になろう」と書いていたという(上同)。諭吉の『時事新報』というものを読んでみたいものである。

2022年12月21日水曜日

完全非武装非交戦こそ”真の国防”

 私は、非武装、非交戦主義者で、ことあるごとに、その旨を発言してきた。しかし、なかなか理解されず、理想論に過ぎない。ロシアとウクライナの現実を見よ。どうしようもない国が存在している以上、そうした国から日本を守るためには、軍備も必要なのだ。そう言われ、そうした意見に効果的な反論も言えずにきた。
 しかし、一点だけはっきりしていることがある。軍備を持っている以上、先制攻撃をしなくても、攻撃されたと言って反撃(自衛権の行使)すれば、その時点で平和な状態は崩壊してしまう、ということである。ゆえに、真の国防は、「完全非武装、非交戦を定めた第九条を守り抜く」だけでなく、第九条を世界に宣伝し、普及していくことではないだろうか。
 それにしても、第九条には、「理想主義だけではなくて、現実的効用」があって、その現実を認識することが、一番大切という弓削達さんの指摘には気づかなかった。そう言えば、これまで、9条のおかげで、実際に戦闘に巻き込まれることがなかった意義は大きい。しかし、いつまでこの状態が続くかわからない。9条の解釈改憲が一層進んできているからだ。こんな時だからこそ、改めて日本国憲法の真価を学び直しないものである。

 一貫して第九条を、非現実的な理想主義として小馬鹿にする声高な議論に対して、完全非武装、非交戦を定めた第九条を守り抜くためには、この完全非武装、非交戦が、現代においてもっているところの現実的効用を認識すること。理想主義だけではなくて、現実的効用を認識することが必要です。それがいま一番大事ではないかと思います。
 まず、現代においては、戦争と、そのための準備としての軍備は、本来それが目的であったであろうこと、たとえば、自分の国を外国の侵略から守り、独立を維持し人権を守るという本来の目的を達成する手段としては、もはや武器による戦争はその意味を失い、反対に、人権、経済、財政を破壊する手段でしかなくなっていると理解することにほかならないのです。
 ということは、戦争も軍備も、その手段性を失っているということです。いま世界中にある核兵器の威力は、広島、長崎の揺籃期からは想像もできないほどになっています(広島投下原爆の四〇万個分ともいわれます)。人類を何十回も滅亡させるほどになっているわけです。非桜兵器の威力も放射能を出さないだけの違いで、その破壊力は核兵器に劣りません。一個五〇円から三〇〇〇円くらいでできるというブラスティック製の地雷は、この一〇年間に世界各地の民族粉争で一億個も使われ、いまだに週に五万個くらいは埋められていると言われているわけです。一般市民を殺傷し続けているということです。(『憲法九条は国際政治に無力か』、弓削達著、かもがわ出版 、1996年、p54〜55)

2022年12月20日火曜日

戦争はなぜ起こるのか?

 戦争については、いろんな考えがあって、議論もされている。しかし、戦争はなぜ起こるのか?について、これほど明快な考えは、初めて知った。同じ憲法でも、読み方一つでこのように明確に読めるということに感動してしまった。そうなのだ、「国家権力を握っている政府が戦争を起こす」のである。だからこそ、戦争を防ぐためにも、「立憲主義」が重要なのである。

 どうして平和はいつも破壊されるのか、そして戦争が起こされるのか。この点に関して日本国憲法は実に明快に答えています。日本国憲法のはじめにあるのは前文です。その最初の文章は、「日本国民は」とありまして、それを受けて「決意し」となっています。何を決意するのかと言いますと、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」となっています。日本国憲法の前文の最初の文章は、戦争の惨禍は、政府の行為によって起こるのだ、という明確な認識が表明されています。
この認識は、一九四五年に戦争が終わったときに、その敗戦までの日本の侵略戦争の中で生きてきたすべてのわれわれ日本人の共通の認識でした。つまり戦争は決してひとりでに起きるような自然現象ではない、政府の行為によって起こるのだ、つまり国家権力を握っている政府が戦争を起こすのだ、という認識です。ですから、戦争を起こそうとする国家権力を抑えなければ、平和を維持していくことができないということです。(『憲法九条は国際政治に無力か』、弓削達著、かもがわ出版 、1996年、p36)

2022年12月19日月曜日

感動は心の扉をひらく・2

 しばらくぶりに読んだ本『感動は心の扉をひらく』に、先生に見放されるほどの劣等生だったのに、一冊の本に感動し、その感動体験をきっかけにして優れた農業指導員にまでなった話が載っていた。
 その一冊の本はロマンロランの『ジャン・クリストフ』で、三回も読んだというのだ。その後、農業の専門書を、村役場の農業指導員の教えを受けながら、なんと十五冊を「暗記するくらい読んじゃった」(
『感動は心の扉をひらく』、 p76)というのだ。

そしたらね、あとはもう楽にスイスイ読めて、読んだり実験したりしていくうちに、人々は俺を農業の指導員と呼ぶようになったのよ(p76)

感動というやつは、人間を変えちまう。そして奥底に沈んでおる力をぎゅっと持ち上げて来てくれる、そういう性質を持っているんです。(p76)

我々は、何回も感動を受けては、心の中の日を大きくして、感動を受けるたびに、心を変えて、人間を変えていく。(p77)

 つくづく、「まだまだ感動が足りない」と思った。何よりも、何回も読んだ本が、どれだけあるだろうか。


2022年12月18日日曜日

感動は心の扉をひらく

 雑誌『MONOMASTER』など、初めて知ったが、「スナフキンに学ぶ心に染みる名セリフ集」に惹かれて手に取ってみた。そこで紹介されていた「自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもな」もよかったが、この言葉の解説にあった「心から素晴らしいと感じたものは必ず自分の血肉にとなる」(『MONOMASTER』、2023年1月号、p9)が一番心に沁みてきた。
 それは、これまで読書の過程で心から素晴らしいと感じてきた言葉たちは、たとえ忘れてはいても、きっと自分の血肉になっているに違いない、と思えたからだ。つまり、「どのような感動体験も、必ず自分の血肉になるようだ」と確信できたことである。
 そういえば『感動は心の扉をひらく』(椋鳩十著)という本を持っていた。さっと読んでみたら、感動について、「感動と言うやつは、人間の心を変えるんです」と、次のように語っていた。
 感動と言うやつは、人間の心を変えるんです。感動は、心の中に起こる地震ですよ。心のそこからぐーっとひっくり返していく。そして、どちらへ向けるかというと、感動の方向に向かって、人の心を変えていくんです。すばらしい方向に人の心を変えていくんです。すばららしい感動を受けなかったら、人の心は変わりませんよ。(p53)
 このように考えていくと、文学の力、芸術の力の大きさを考えてしまう。理詰めも必要だが、感動的な詩や絵画等の芸術の力をもっともっと活用して、新しい明るい未来を切り開いていくことが必要なのかもしれない。

2022年12月17日土曜日

国防をめぐる”論理の罠”

 最近、国防という言葉が大手を奮って闊歩するようになってきた。国防が正論として当然視されるようになってしまったからだ。しかし、ここに論理の罠があることに、誰も気づいていないような気がする。どういうことか。
 それは、「戦力(武力)を用いて国を守る」ことは、戦争を始めることを意味するのに、あたかも本当に戦争を防ぐことができるように考えられている。しかし、よく考えてほしい。戦力(武力)を用いて戦争を防ぐことができるには、一つの前提条件がある。抑止力によって、均衡が保たれているという条件である。
 だが、歴史が証明しているように、なんらかの条件が引き金になって、これまで、それこそ数え切れないほどの戦禍に見舞われてきたではないか。それなのに、前提条件を軽視し、あたかも、永遠に戦争を防ぐことができるように考えてしまっている。これこそ”論理の罠”ではないだろうか。それが現状である。

2022年12月16日金曜日

崇高な憲法の精神を守り抜く

 大幅な軍事費拡大に向けて、国をあげて取り組み始めている。かつては1%枠というのを守ってきていた。その枠を取り払ったと思っていたら、一気に2%に向かうというのだ。それに対し、反対する声が聞こえてこない。意識してマスコミが取り上げていない面もあろうが、それにしても、末恐ろしい。
 なぜ、こんなになってしまったのか。「憲法に対して、忠誠心が上の方で揺らいでいて、結局国会の議員も、内閣も、最高裁判所も、そして財界やその他の社会体制も、それを自らのものとして、社会の中に根づかせるということについて、徹底的に不熱心だった」(奥平康弘著「活かすことが護ること」『世界』1993年6月号、p26)。にもかかわらず、そうした傾向に対し、効果的な反撃ができなかった。真に憲法を” 活かす”ことができなかったからに違いない。
 だからと言って、このまま政府の言うままに任せていたら、日本の国はどうなってしまうか、とても心配だ。間違ってもウクライナのように戦禍に見舞われるようなことは避けたい。崇高な憲法の精神を守り、残していきたい。その思いが一層強くなってきた。決して諦めないつもりだ。これからなのだから。

2022年12月15日木曜日

ストレスや不安感の処方箋

 これまで、何度か不眠症になったことがある。その時の不安感は、本当に辛かった。胸が押しつぶされるような苦しさで、心と体が密接に繋がっていることを実感した瞬間だった。それだけに、心の処方箋を渇望していたといって良い。「あの時のようになったらどうしよう」という思いが心のどこかにあるからだ。
 でも、著書『わたしは99歳のアーティスト 古ぎれコラージュとひとりの暮らし』(三星静子著、NHK出版、2012年)の中に、その答えを見つけることができた。心から打ち込めるものを持つこと、食事の時間も忘れるほど熱中できるものを見つけることだったのである。
 三星静子さんは次男を亡くしている。その時は「本当につらくて悲しかった。コラージュに真剣に打ち込むようになったのは、その時から」(p15)と書き、コラージュにようになったのは、その時から」と書き、夢中になっていると「悲しみとか悩みとかストレスとか、みんな飛んでしまう」(p15、原文も太字で強調)とも言っている。
 何と、心のモヤモヤがスッキリするだけでなく、体の痛みまで忘れるようで、夢中になると「体の痛みも心の痛みも何もかも無に」(p16、原文も太字で強調)なるという。脊柱管狭窄省で「座ってても、寝てても腰が痛い」のに、「コラージュをしていると、痛みも全然わからないの。ほんと不思議なくらい」(p16)だというから本物だ。
 そういえば、私の耳鳴りも、何かをしている時は忘れている。夢中になることは、その時の不安などが和らぐだけでなく、神経や同細胞そのものの癒しにもなり、”心の抵抗力”というようなものがあって、その抵抗力も強くなるのかもしれない。

2022年12月14日水曜日

マルクスは決して古くない

 現代の世界は、アメリカの強大な軍事力を背景に、アメリカ中心に動いている。日本はその一翼を担っている。そうした現実は戦後一貫しているのである。つまり、「国連が、とりわけ安保理事国が世界の大国支配 —— すなわち、冷戦体制意識 —— を脱し得ない現実のままに、政府は国連追随の大国意識を明らかにしている」(『政治は途方に暮れている その理念と現実』、内山秀夫著、日本放送出版協会、1994年、p66)のだ。
 この事実を考えたとき、頭によぎったのが、レーニンの『帝国主義論』だ。ひょっとしたら、レーニンが描き出した世界像というものは、まさに今日の戦争も含まれた世界なのかもしれない。つまり世界は、マルクスやレーニンが心配した通りに進行しているのかもしれない。
 マルクスは古くなったとも言われているが、決してそんなことはなく、今でも光り輝いている部分があるに違いない。プラトンやカント、ヘーゲルといった哲学者の理論が色あせないように、パルクスやレーニンの理論も、決して色褪せるようなことはないのかもしれない。とりあえず、レーニンの『帝国主義論』を紐解いてみたいものである。

2022年12月13日火曜日

運動そのものが意欲を育てる

 昨夜、また夜中に覚醒してしまい、しばらく雑念の空回りで眠れなかった。そのため、起きたのが七時過ぎてしまった。そこで、改めて『運動脳』(アンデシュ・ハンセン著、御舩由美子訳、サンマーク出版、2022年)に書かれていたことを思い出し、継続的な運動の必要性を痛感している。読書メモの中で気に入ったのが、「運動は、副作用が一切ない薬だ。少しだけ気持ちが滅入っている人でも、深い苦悩抱えている人でも、たいていは運動をすれば晴れやかな気分になれる」(p169)というところだ。
 図書館の内容紹介によると、「脳は頭を働かせようとするより、身体を動かすことでこそ威力を発揮する器官。『歩く・走る』で、学力、集中力、記憶力、意欲、創造性、すべてがアップする」という。さらに魅力なのが、無理さえしなければ、体力も向上するらしいということだ。次の体験記に教えられてことである。うつ病の患者さんに運動を処方した結果の記録である。

 彼女の状態では週にランニングを3回というのは無理があったため、まずは定期的なウォーキングから開始した。最初の数日は10分ほどしか歩けなかったが徐々に歩く時間を長くして、ペースも上げていった。そして3週間後に再び病院にやって来たとき、まだ疲労感は抜けきっていなかったものの、1回につき15分のスロージョギングができるまでに体力は回復していた。
 数週間と続けるうちに、彼女は少しずつ運動の強度を上げていった。初めて救急外来を訪れてから4か月が過ぎるころには週に3回走れるようにいなり、ときには1時間近く走ることもできた。
 体調の変化には目を見張るものがあった。全般的に健康になり、夜もぐっすり眠れるようになっていた。また、短期記憶や集中力も改善した。職場でも家庭でも些細なことで不安を覚えなくなり、ストレスも減っていた。(p167)
 運動の成果で「全般的に健康になり、夜もぐっすり眠れるようになっていた」というのが何よりの励みであった。「運動が身体にいいことは知っていても、その効果がどの程度のものであるかや、運動そのものが意欲を育てることを知っている人はほとんどいない」(p169)素晴らしい、あとは自ら実践あるのみである。

2022年12月12日月曜日

研究の卵を育てる

 朝日新聞(2022年12月10日)のコラム「天声人語」で、「人類を冬眠させる」研究をしている研究者(小児科医である砂川玄志郎さん)の存在を知った。人工的に人間を冬眠させることができれば、患者の搬送や治療での「積極的な時間稼ぎ」につながるというのだ。しかし私は、研究そのものよりは、冬眠する猿もいるらしいという論文記事から浮かんだ疑問、「同じ霊長類の人間も冬眠ができないだろうか」を大切にし、それを膨らませて、「職を辞し、睡眠研究の道に転じた」という人生のドラマに興味を抱いた。
 そういえば、ニュートリノ研究でノーベル賞も受賞した小柴昌俊さんが、研究の卵を持って大切に育てることの重要性を語っていた。しかし私は、大切に育てているとは、とても思えない。いくつかも卵を抱えているのは良いとしても、時々卵を温めることを忘れてしまうことが多かったのだ。だからこそ、砂川玄志郎さんの人生ドラマに感動したのかもしれない。
 ちょうど今、”人権主体概念”という新しい卵を温めつつある。しかも、その卵は、前に温めてきた”日本国憲法の三原則概念”という卵の兄弟のようで、助け合うことで互いに成長していくような気がしている。今度こそ、それらの卵を、大切に、執拗に温め、育てていきたいものである。

2022年12月11日日曜日

歴史のバトンをしっかりと未来に

 日本国憲法の第九七条では、「憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と記し、基本的人権が長きにわたる歴史的な遺産であること示している。この条文の、「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ」てきたものであることを、より具体的に膨らませ、わかりやすくしたものがあった。
 それは、
「地球は丸く、自転している」というガリレオの主張が許されなかったのは三五〇年前のことです。しかもそれは、無知からというよりは、櫂威に逆らっているという理由からだったのです。
「この人とは結婚しません」と、女性が主張できるようになったのは、日本ではわずか四〇年たらず前のことにすぎません。それまでは「家」制度という秩序にもとづいて、婦人の権利・地位が低くおさえられていました。
 今日の私たちにとっては「あたりまえ」のことが、そうなるために、実に多くの人びとの努力があり、さらに多くの人びとがその「あたりまえ」のことが認められずに苦しみに耐えてきたことがわかるでしょう。
「人間が、自分の身体、心そして活動について、他から東縛されることなく、自分の意志で決定できる」ということを確立するためには、大きな犠牲を払いながらの人類の長期にわたる努力がありました。しかも、そうした努力の成果も、専制的な権力者によって何度も崩され、あともどりをしいられてきたのです。(『世界の憲法 人権思想のあゆみ』、一橋出版、1991年、まえがき)
 である。
 現在我々は、「人間が、自分の身体、心そして活動について、他から東縛されることなく、自分の意志で決定できる」自由がある。しかし、少し前までは、それこそ信じられないような不自由や不平等があった。空気のありがたさを普段は忘れているように、今では当たり前のことも、かつてはそうでなかったことを思い出し、歴史的発展というものが確かに存在することを確信し、未来をこの発展の方向に推し進めていくべきである。歴史のバトンをしっかりと受け取り、未来に引き渡すべきなのである。

2022年12月10日土曜日

森の思想が人類を救う

  梅原猛さんが「森の哲学」というものを提唱している。一言で言うと、西洋のように森を食い尽くす(上手く言えないが、大陸の砂漠化を招いた思想)思想ではなく、森の生物と人間が共生して生きていく思想のようである。この思想を、「 森の哲学はまだ生きている」という文章の中で、加藤登紀子さんが次のようにわかりやすく紹介している。

「文明は森のあるところに生まれ、森を食い尽くして滅び、また別の森を求めて旅をしてきた」
 人類の歴史とともに始まった環境破壊。四大文明の跡をことごとく草木のない砂漠に変えてきた歴史の悲劇。
 有史以来の都市文明を宿命のように引き受けてきた数千年、そしてせっせと上をコンクリートに変えてきたこの数十年、自然との対立構造は絶望的なまでに進んでしまった。
二十世紀前半、戦争と産業革命という破壊力にさらされた地球は、何とか平和を手に入れた後半紀も開発という名の破壊に打ちのめされた。どちらかといえば、後半の世紀のほうが圧倒的な破壊力だったともいえる。
 今、二十一世紀をむかえ、何とか新しい基軸を見つけたいと願う反面、後戻りはもうできないのだという投げやりな感情に苛まされていることも確かだ。
そんなゆきづまり感の中で、日本人はまだまだ森の哲学を失ってはいないというこの発見は、とても大きな希望を与えてくれる。
 国土の三分の二が森であり、そのうち四割が原生林、稲作中心の農業と海からの豊富な漁業に支えられてきたゆえに、日本は森の破壊をまぬがれた。
日本人の心にはまだまだ森が生きており、土の層が存在している!
「森の思想が人類を救う」
 二十一世紀の日本の役割をこう言い切った梅原さんの想いに、私たちはしっかりと応えていかなければいけないと強く思う。(『梅原猛著作集 17巻』月報)

 豊かな森に育まれてきた日本、「国土の三分の二が森であり、そのうち四割が原生林森」の萬の神に育まれてきた日本、だからこそ、日本の「森の思想が人類を救う」のかもしれない。大きな希望である。

2022年12月9日金曜日

永遠の命と命の輪廻

 映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』を観た後に流れた山下達郎さんの歌「REBORN」も、その歌詞に感動した。感動した部分の字幕をメモしたが、いろんなメッセージが込められているようで、いろんな人に励ましと勇気を与えてくれる歌詞ではないかと思った。
 行替えは私が勝手にしたものだが、一連目からは、感動した著作は、あなたからしっかりと受け取ったので、私から誰かへ想いを繋ぎたい、と思ったし、二連目からは、とにかく勇気をいただいた。そして三連以降は、永遠の命、命の輪廻というものを感じることができた気がする。そして、こうした想いの大切さを教わることができた。ありがとう。
あなたからわたしへと
 わたしは誰かへと
想いを繋ぐために

悲しまないで
 うなだれないで
振り向かないで
 怖がらないで
止まらないで
 あきらめないで
生きて行きたい
 あなたのように

あなたはいつの日か
 ふたたびよみがえり
永遠のどこかで
 わたしを待っている

たましいは決して
 滅びることはない、
いつかまた
 きっとまた
めぐり会う時まで
少しだけ さようなら
たくさんの ありがとう
少しだけの さようなら

2022年12月8日木曜日

人生を燃やし尽くそう

 映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』を観た。敦也、翔太、幸平の幼なじみ3人組が、30年以上むかしの人からのお悩み相談を手紙を通して受ける物語である。最後に敦也が、白紙の悩み相談を出し、ナミヤ雑貨店の店主からの返信を受け取る。その中身は、およそ次のようなもので、心に響く内容だった。
 手紙の要点は、
「未来は白紙→白紙だからどんな未来も描ける→すべては自分次第 → 何もかもが白由で可能性は無限 → 人生を悔いなく燃やし尽くそう」
 となる。
 子供や青年向きの言葉に思えるが、何歳になっても、「未来は白紙」と思えるし、だからこそ、何歳になっても、「人生を悔いなく燃やし尽くそう」と思える。だから、心に響いたのだ。
名無しの権兵様へ

 あなたが白紙の手紙をくださった意味を、じじいなりに考えてみました。
 思うにこれは、あなた自身の心を表しているのではないでしょうか。
 
 今のあなたには、自分の道が見えていない。
 でも、どうか絶望をしないでください。どうか あきらめないでください

 あなたの未来はまだ白紙です。白紙だからどんな未来も描けます。すべてが、あなた次第なのです。何もかもが白由で、可能性は無限に広がっています。その人生を悔いなく、燃やし尽くされることを心より祈って おります。

 悩み相談の回答を書くことは、もうないと思っておりました。
 最後に、素晴らしい難問を頂けたこと。感謝いたします。本当にありがとうございました。

2022年12月7日水曜日

”前提が曖昧”の議論の実例

 数学の世界と違って、社会における議論は”前提が曖昧”のまま進められることが多い。そのことが気になって数学に興味を抱いてきた。だが、”前提が曖昧”の議論を直接批判したことはなかった。
 ロシアとウクライナの戦闘状態が未だ止む気配はない中、さまざまな論評が飛び交っている。軍事アナリスト小泉悠氏による「『戦争論』が説くウクライナ前線の背景」(『週刊東洋経済』、2022年12月10日)も、その一つだ。初めは何の疑いもなく、読むことができた。しかし、前提を”真なるもの”と確信して議論が進められていることに気がつ具ことができた。
 例文を次に引用したが、下線部分が前提で、太字部分が結論になっている。下線部分が真実かどうかは疑わしい。だから、「人間性の発露としての戦争をトゥキュディデスは紀元前から直観的にわかっていたし、それは古代も今も変わらない」という結論もあやしいことになる。
 また、「クラウゼヴィッツは、 攻撃の相互作用によって、暴力が極限に達する」と言っているようだが、クラウゼヴィッツの言葉が真実ならば、とても恐ろしい事態が予想されることになる。それにしては、それほどの危機感を抱いていないように思われる。危機感を抱いていれば、とても、軍事力倍増の議論にうつつを抜かしていることなどできない。それよりは、全力で停戦合意を目指しているはずだからである。

 プーチンの語りを素直に聞けば、ウクライナが西側に取られてしまうという恐怖心や、本来ロシアの一部であるウクライナを自分が取り戻すという名誉心で戦争を始めたとしか思えない。そんなフィクション中の悪役のような理由で人間は戦争を始めることがあり、それはトゥキュディデスの時代から変わっていないのだ。
 戦争と人間性は対比して語られがちだが、むしろ悪い意味で非常に人間的な営みといえる悪い意味での人間性の発露としての戦争をトゥキュディデスは紀元前から直観的にわかっていたし、それは古代も今も変わらないのだと『戦史」は教えてくれる。
 もう1つ挙げたいのが、プロイセンの軍人だったクラウゼヴィッツの『戦争論』だ。彼は近代の戦争の普遍的なルールを見いだし、19世紀前半に本書を書いた。
 クラウゼヴィッツは『戦争論』の冒頭で、「戦争は暴力闘争である」と定義する。戦争は拡大された決闘であって、暴力によって敵を屈服させることがその本質にある。国家が政治目的を達成するための激しい暴力闘争。これがクラウゼヴィッツの戦争モデルだ。(『週刊東洋経済』、2022年12月10日、p42)

クラウゼヴィッツは、 攻撃の相互作用によって、暴力が極限に達すると説く。(上同、p43)

2022年12月6日火曜日

政治世界像の再構成ということ

 政治というものは、政治家の仕事だという認識だった。だが、我々一般市民にとって”もっと身近な存在”だった。それだけでなく、私が日頃考えていたこと、政治に倫理を持ってこなければという思いが、「政治とはつねに倫理と結びついた形で展開するべし」と、政治学者の言葉として聞かれ、大いに励まされた。
 さらに、「生活の質がどうしても問題にならざるをえなくなって、はじめて政治として発動された人間のいとなみとしての政治」が問題になり、「統治のための権力が、人間のための権力として始原的に考え直されるようになったいま、権力による政治世界像が再構成されようとしている」という。”政治世界像の再構成”なんて考えたこともなかったが、社会科学の中に、身近な政治の世界像というものを、倫理と結びついた政治というものを構築したいものである。探したいと言った方が良いかもしれない。
 アメリカでの六〇年安保は、丸山先生が政治の選択として『政治の世界』のなかで〈戦争か革命か〉と提示した状況を私に考えさせるよすがになったが、私に〈選択〉をもっとも痛烈に突きつけたのは、大学紛争だったというべきである。もちろん、そこでの選択は、体制か反体制か、というものではなく、政治とはつねに倫理と結びついた形で展開するべし、というポイントにかかわる、というぎりぎりの思い方である。それこそ、生活としての政治につながってゆくことがらである。
 この生活としての政治を、私は政治を事件につなげる発想を拒否することで考えねばならなかった。民主主義とは、まさしく、日常的に行なわれる人間のもっともありのままの表現だとすれば、民主主義とは、〈民主主義を支える私情〉といったものに拠るほかはない。この私情は、必ずしも意識とか認識とか、あるいは組織によってかき立てられるものでなく、まったくの日常生活の平和な維持への感覚に支えられている。
 丸山先生の政治世界には、民主主義が抽象的政治理念としては世界中でゆるぎない正当性を認められるようになった時代において、民主主義の当の担い手である一般民衆が、政治的無関心と冷淡さを増してゆく状況を、いたましいバラドックス〉とみる姿勢が一貫している。しかし、このパラドックスは、安定を重大とした豊かな民主主義ではいかにしても解決できないたぐいのものであった。
 人間が人間であろうとしなければならなくなったのは、豊かさそのものが問い直されねばならない環境の変化をもって契機としている。それは生活の質がどうしても問題にならざるをえなくなって、はじめて政治として発動された人間のいとなみとしての政治である。統治のための権力が、人間のための権力として始原的に考え直されるようになったいま、権力による政治世界像が再構成されようとしているのである。それは、丸山先生が考えられた、もう一つの政治の世界だったのではないか。(『いのちの民主主義を求めて』、内山秀夫著、影書房、2015年、p13)

2022年12月5日月曜日

「一汁一菜」思想の源流

 私も美術館の会員証(年間パスポート)を持ってはいるが、土井さんほど熱心に通ったことはない。「”溺読”という精読」で、土井さんの読書の徹底ぶりを紹介したが、美術品鑑賞の徹底ぶりも、見上げたものである。「美術館に通うようになって一年経ったとき、なんとなくいいなと感じるものが増え、一年前は見えていなかった美に気づく。それからまた一年して、一年前はわかっていなかったと気づく、その繰り返し」だという。料理の本で美術品鑑賞というものを学べるとは思いもしなかった。  
 何よりも、読書にせよ、美術品の鑑賞にせよ、その”徹底ぶり” に、「一汁一菜思想の源流を見た思いがする。彼の”徹底ぶり” は、私にとって、あるいは最も学ぶべき点なのかもしれない。あやかりたいものである。
 実際に「善いもの」とを、区別して見ないといけないこともわかってきました。とにかくいいものを見ないといけない。しかも、雑多なものよりも、一級品のいいものを見ないといけません。
 それからというもの、時間があれば、大阪中之島の東洋陶磁美術館、天王寺の大阪市立美術館、京都の国立博物館などに通い始めました。美術館の会員証を持って、少しでも時間があれば、とにかく見る。当時は今よりも美術館は空いていました。今では美術館も企画展が多くなりましたが、当時は、たとえば国立博物館には本当にたくさんのものが常設で並んでいたのです。美術館に通うようになって一年経ったとき、なんとなくいいなと感じるものが増え、一年前は見えていなかった美に気づく。それからまた一年して、一年前はわかっていなかったと気づく、その繰り返しです。京都や大阪の画廊や道具屋にも興味を持つようになって通いました。 ただの若いもんでも、どこに行っても親切にいろいろなことを教えてくれるものです。(『一汁一菜でよいと至るまで』、土井善晴著、新潮新書、新潮社、2022年、p167)

2022年12月4日日曜日

九条の福音

 新聞広告で『九条の大罪』というタイトルの漫画を知った。「法とモラルの極限ドラマ!」で、「厄介な案件ばかりを引き受ける弁護士・九条間人(くじょうたいざ)」の活躍が描かれているらしい。私は、ドラマの内容はともかく、タイトルが気になった。「日本国憲法九条の大罪」とも読めてしまうからだ。
 そこで考えた。『九条の福音』といタイトルの本を書いたらいいではないか、と。類書はないかを検索し、「聖書釈義から説き起こし、広大な思想史的考察を経て、憲法九条に基づく防衛戦略構想」に及んだ『山上の説教から憲法九条へ 平和構築のキリスト教倫理』(宮田光雄著、新教出版社)を見つけた。

 今まさに戦禍の真最中だけに、九条の福音に耳を傾けたいものである。
【目次より】
1 「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」
   ――《山上の説教》と平和構築の倫理
 1 論争の中の《山上の説教》
 2 《山上の説教》と責任倫理
 3 《山上の説教》と現代の平和構築
 4 《主の祈り》を生きる
2 兵役拒否のキリスト教精神史
 1 イエスと兵役拒否
 2 古代教会の兵役拒否
 3 中世教会と宗教改革の正戦論
 4 平和主義セクトの兵役拒否
 5 現代の世界教会と兵役拒否
3 近代日本のキリスト教非戦論
   ――内村鑑三の思想と系譜
 1 義戦論から非戦論へ
 2 非戦論の展開
 3 非戦論と再臨思想
 4 非戦論と兵役拒否
 5 非戦論の継承
4 非武装市民抵抗の構想
   ――日本国憲法九条の防衛戦略
 1 非武装による防衛構想
 2 市民的抵抗の諸形態
 3 市民的抵抗とデモクラシー
 4 《草の根》からの市民運動(出版社のサイトより)

2022年12月3日土曜日

梅原猛と二ーチェの思想

 最近、梅原猛の思想を追いかけ始めている。そんな彼が、丸山眞男や小林秀雄を批判していたことを知った。「ニーチェの論争の教訓に従って、小林秀雄を、丸山真男を、三島由紀夫をこてんぱんに叩いた。私からみれば、彼らは何ら普遍的価値をもたず、いたずらに時流に乗って驕りたかぶっている人間のように思われたから」というのである。小林秀雄や三島由紀夫はともかく、丸山真男の思想は、民主主義に対する考えなど、学ぶべきことが多かっただけに、意外だった。
 こうなると、梅原猛がどのような批判を書いたのかが気になる。梅原猛氏によれば、「二ーチェは、『実際は大きな価値をもたないのに、いま時流に乗って驕りたかぶっている人間にたいして批判の矢を放て。そしてその際、自らに真理以外に何の味方もないのを確かめて戦いを始めよ』といった。味方を博み、衆を持んで戦いをしかけるのは卑劣である。ニーチェは当時、評価の高まったダビッド・ストラウスやリヒャルト・ワグナーに単身戦いを挑み、それによって学界、マスコミ界から孤立した」という。やはり、二ーチェの思想もしっかりと学ぶ必要がありそうだ。
 まだ読み始めたばかりだが、「道徳の系譜学」は、3つの論文からなり、「いずれも、最後のところで、新しい真理が厚い雲間から顔を出す」と書かれているという。二ーチェにしては珍しい論文の形式と、「雲間から顔を出す」であろう真理というものに興味がある。どのような真理を描き出したのか、楽しみに読み進めていきたい。

2022年12月2日金曜日

「人生の方程式」で解く戦力

 ベクトルという物理の概念がある。力に向きを加えて矢印で表せせるものだ。「人生の方程式」というのを知って、人生にベクトルの概念を取り入れたものだと理解できた。そして、平和を守る方法に最適な方程式でもあることに気がついた。
 どういうことか。
 武力を、戦力を使用する考え方」か、使用しない考え方で”結果が逆になってしまう”ことを意味する、ということである。つまり、考え方が悪ければ、その”結果はマイナス”になってしまうということだ。
 この方程式で大切なこと、忘れてはならないことは、(戦力の)能力が高いほど、マイナスのダメージが大きいということである。防衛費倍増の恐ろしさがよくわかる方程式である。

「稲盛和夫著『PRESIDENT』、2022年12月2日、p34」より

2022年12月1日木曜日

エンタルピーこそが平和への道

 この世の中は、エントロピー増大の法則に支配されているという。人間の手を加えなければ、畑は荒地になり、古い家は朽ち果ててしまうのも、エントロピー増大の法則によるものだったのだ。このようなエントロピーには形を壊す効果があり、逆に、形を作る効果をエンタルピーという。このことを知って、「戦争こそ、エントロピーの最たるもの」ではないか、と思った。焦土と化した戦後の日本や現在のウクライナのことが雄弁に物語っている通りである。
 そこで考えた。軍事予算を倍増が計画されている。これらの武器を使用した結果はどうなるか? 被害は倍増で、想像すらできないほどの甚大な被害を被ることは目に見えている。軍事予算の倍増に比例してエントロピーも倍増するからだ。エントロピーにエントロピーで対抗しては、エントロピーが、つまり破壊が増加するだけなのだ。
 やはり、エントロピーに対抗するには、エンタルピーに限る。文化、芸術、科学の予算を倍増し、世界的な交流も活発にしていくことは、エンタルピーを増大させることになる。エンタルピーが増大すれば、それだけエントロピーは減少し、減少したぶんだけ戦争の危険がなくなっていくことになる。エンタルピーこそが平和への道なのかもしれない。

2022年11月30日水曜日

「構造的差別」という矮小化

 雑誌『世界』(12月号)を読んでいたら、辺野古の新米軍基地問題を「構造的差別」 の問題として取り上げていた。なぜか違和感を感じた。新米軍基地問題の本質が覆い被されてしまうような気がしたからだ。
 確かに、「構造的差別」が新米軍基地問題を長引かせているという側面もあるにはある。しかし、「構造的差別」があるのは沖縄だけではない。原子力発電所のある地域にも、「構造的差別」があると言われている。だから、新米軍基地問題を「構造的差別」 の問題に矮小化してはならないのだ。
「頭ごなしの閣議決定で基地建設が強行されている。構造的差別を行う側の当事者であるヤマトの人々の態度が問われている」(親川志奈子著「28・6万の『いいね』——ひろゆき氏ツイート現象が炙り出したもの」『世界』、22年12月号」と書いているが、これでは、「基地建設が強行」よりも、「ヤマトの人々の態度」の方が問題がある。あるいは、「ヤマトの人々の態度」に問題があるから「基地建設が強行されている」と読み取られても仕方がない。
 では、1番の問題は何か、ということになる。辺野古の新米軍基地問題は、原発再稼働問題の閣議決定、防衛予算倍増の閣議決定などの問題と本質的には同じであることである。つまり、万国の労働者ではないけれど、問題を抱えて苦しんでいる人たちが手を繋いでいけるようにすることではないだろうか。根っこは同じであることに気づき、手を繋いで声を上げていくことが大切、ということである。

2022年11月29日火曜日

仙崖の「民主的な思想」

 仙崖の思想に共鳴してきたが、「民が国の基本」といった正に「民主的な思想」を持っていたことに驚いている。どうして、仙崖の時代にこのような思想を持ち得たのか、新たな疑問が湧いてきた。
 一つの仮説は、仙崖が帰依した仏教、あるいは日本の仏教や禅の思想に、「民主的な思想」があったというものである。そうでなければ、仙崖が独自に到達したということも考えられる。いずれにせよ、仏教、あるいは禅の思想について、調べてみたい。

「『仙厓』、出光美術館編、平凡社、1988年」より

2022年11月28日月曜日

芸術における伝統と創造

 NHK日曜美術館(曜変天目 丸の内へ 静嘉堂 夢の新美術館オープン 2202.11.27)を見たが、伝統の継承と創造についての解説が印象的だった。「継承というのは、前にあった美しいもの、素晴らしいものを模倣して繰り返すだけでなく、自分の持っている才能を全てを出して新しいものを加えていき、発展的につないでいく」「発展的な継承なくして創造はなく、創造なくして発展的な継承もない」というような内容だった。
 一つの例として、尾形光琳作「住之江蒔絵硯箱」が紹介された。藤原敏行による「住之江の岸による波よるさえや/夢の通い路人目よくらむ」からイメージを得て制作されたものだが、自ら内箱蓋裏に「光悦造以写之」と書いている。解説によれば、「光悦のデザインを光琳はそのまま用いて、そこに自分の美意識を加えて新しい作品を造った。継承と新しい創造というのがうかがわれる」という。

尾形光琳作「住之江蒔絵硯箱」

 次に、酒井抱一作「波図屏風」も紹介された。抱一は依頼主への手紙の中で、「に触発されて描きました」と書いている。抱一は荒々しい波が金地に描かれた「波濤図屏風」に感銘し、「光琳の波の形を取り入れながら、金から銀へ、一層大きくうねる波へと変貌させた」のである。

尾形光琳作「波濤図屏風」

酒井抱一作「波図屏風」

 そういえば、2022年11月20日放送の日曜美術館「安藤忠雄 魂の建築」でも、伝統の継承に力を入れている安藤忠雄さんの建築が紹介されていた。メモによれば、彼は、「過去と現在が向き合、対話するダイナミックな空間の設計をする」。「古い建造物に新しい命を吹き込む」。だから、彼が設計建築したものは、「古い建造物と現代建築の調和バランスはが見事」だという。ここにも、伝統と創造が見事に実現されていると言える。

2022年11月27日日曜日

闘争より平和の哲学

 図書館でいろんな全集ものを物色していたら、『梅原猛著作集 17 人類哲学の創造』が目に飛びこんできた。「人類哲学の創造」に反応したようだ。何度か「梅原猛の思想」に注目しながらも、何冊かの本を積読して次なる関心に移ってしまっていたのだ。
 早速手元にあった『哲学する心』をパラパラと読み、今こそ彼の思想を学ぶべき時である、と確信した。そう思わせた文章がヴェトナム戦争に思いを馳せながら綴った次の一文である。ヴェトナム をウクライナに置き換えれば、立派に今に通用する内容で驚いたくらいである。

 ヴェトナムにおける人間相互の殺し合いを、私は見るにしのびない。あれが、世界の本質で、やがて世界全体があのようになるのだと思いたくはない。あれはまちがった世界で、ほんとうの世界は、別なのだと私はみたい。そのために、いったい人類はどうしたらいいのであろう。
 アラブにおいて起こったことが、私を憂えさせる。イスラエルの片目の国防相は、私には、旧約聖書に出てくる奇怪な英雄を思い起こさせる。民族と民族との間にある憎悪を静めるべき役割をもつ大国どもは、かえってその憎悪に火をつけようとする。暴力がここでも、平和への熱望より、はるかに確定的な役割を果たしたかにみえる。
 世界は、さまざまな種類のわからずやどもにより一触即発の危機にのぞんでいるかにみえる。闘争より平和が、人類ばかりか生物のほんとうのあり方であることを人類全体に説得する哲学が必要なのである。(『哲学する心』、梅原猛著、講談社、1968年、p47)

 もし今、「ウクライナの世界はまちがった世界だ」などと言ったら、馬鹿にされるだけかもしれない。しかし、世界から戦争は無くならない、などという考えは、確実に間違っているのは明らかだ。。無くす方向にもっていかなければ、「一触即発の危機」の確率が確実に増してくるからだ。そのことを分かっていながら、その危機を避けようとしないということは、未来社会の人々に対する裏切りに他ならない。

2022年11月26日土曜日

「能動的な読書」というスタイル

 新しい読書スタイルを見つけてきた。速読に対し、精読が一般的であった。それに加えて、「”溺読”という精読」のスタイルを知ったばかりではあるが、その上をいくもので、「能動的な読書」というものである。精読や溺読というのも、考えようによっては能動的という範疇に入るかもしれない。それに対して、「受動的な読解から、『筆者の主張や文章全体のテーマを考えながら読む』という能動的な読解へとステップアップ」できる(『英語長文の読み方流れが見える読解マッピング』、佐々木欣也著旺文社2013年)そんな読書スタイルである。つまり、しっかりとした読書の目的を持って、対象の書物としっかりと対峙して読む読書である。
 あえて特徴をあえるならば、特定の技術的な要素が加わると言えるかもしれない。『英語長文の読み方流れが見える読解マッピング』の場合は、読解のキーとなる単語に注目して読んでいく。そういう意味では、三色ボールペンを片手に読んでいく、という齋藤孝さんが提唱している読書も、能動的読書に入る。
 要は、意識的に脳の意識レベルを能動的な状態にして読書に臨むことのようである。だから、その人なりの方法で、脳の意識レベルを能動的な状態に持っていければいいということでもある。

2022年11月25日金曜日

「論理」が尊重される社会に

 私が数学に関心を抱いてきた大きな理由が、おかしな議論、まやかしの議論を見破りたい、ということだった。今回、同じ問題意識の主張を見つけ、嬉しかった。「論理」が尊重され、まともな議論が大切にされる国会になってもらいたいものである。
 いまの世の中は「論理」が蔑ろにされる場面が目立ちます。ネット上の論争の中には、大半が議論とは呼べない代物が見受けられます。ただひたすら攻撃的な罵倒語を投げ合っているだけ。テレビの討論番組を見ていても、声と態度の大きい人が強引な論法で相手を黙らせ、勝ったように見えることが少なくありません。
 国会の論戦や政府の記者会見はいわずもがな。「問題はない」「指摘は当たらない」といった根拠なしの強弁や、論理性のかけらもない言い訳などがまかり通っています。まっとうな理屈がなかなか通らない。議論の土台そのものが揺らいでいるのが、いまの大きな特徴であり、深刻な問題のひとつではないでしょうか。(『数学的思考ができる人に世界はこう見えている ガチ文系のための「読む数学」』、齋藤孝著、祥伝社、2020年、p248、強調は引用者による)

2022年11月24日木曜日

人間の愚かさの治療薬「謙虚さ」

 北朝鮮はかつてない頻度で弾道ミサイルの発射を繰り返している。中国は質量ともに軍事力を急速に強化し、力による一方的な現状変更が危惧されている。欧州では、ロシアがウクライナを一方的に侵略し、9カ月たつ今も戦火は病む気配すら見せていない。そんな状況に、国民の多くが不安に思うのも無理もない。
 こうした国民の不安を背景に、「防衛費の増額」が議論されている。果たして、このような軍事力による防衛戦略で、「この国のすべての人々が、安心して暮らせる社会と生活を守ること」(朝日新聞「主張」、2022年11月24日)ができるのだろうか。
 残念だが、それは難しい。なぜなら、これまでの歴史が教えてくれているだけでなく、次に示したように、軍拡競争に未来はないからだ。そして、”知の巨人”と言われているハラリ氏による処方箋「人間の愚かさの治療薬となりうるものの一つが謙虚さ」は、日本国憲法の精神でもある人間の尊厳に通じるとことがあって心強かった。
 ハラリ氏には、『漫画サピエンス全史 人類の誕生編』や『漫画サピエンス全史 文明の正体編』といった著書もあるだけに、戦争というものも、彼の視点には人類史の観点があるのかもしれない。大いに学ぶべきである。
 軍を増強し、果てしない軍拡競争に乗り出し、どんな争いにおいても譲歩を拒み、善意の意思表示は罠にすぎないのではないかと疑う。そうなれば、戦争の勃発は確実になる。
 その一方で、戦争は不可能だと決めつけるのは考えが甘い。たとえ戦争はどの国にとっても壊滅的な結果をもたらすとしても、人間の愚かさから私たちを守ってくれる神もいなければ、自然の法則もない。
 人間の愚かさの治療薬となりうるものの一つが謙虚さだろう。国家や宗教や文化の間の緊張は、誇大な感情によって悪化する。すなわち、私の国、私の宗教、私の文化は世界で最も重要だ、だから私の権益は他の誰の権益よりも、人類全体の権益よりも優先されるべきである、という思いだ。世界に占める真の位置について、国家や宗教や文化にもう少し現実的で控えめになってもらうには、どうしたらいいだろう?(『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』、ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房新社、2019年、p236〜237)
 それはできないと思います。なぜでしょうか。
 「新たな世界大戦が避けられないと決めてかかるのは、とりわけ危険」です。「各国は、戦争は避けられないと思い込めば、軍を増強し、果てしない軍拡競争に乗り出し、どんな争いにおいても譲歩を拒み、善意の意思表示は罠にすぎないのではないかと疑う。そうなれば、戦争の勃発は確実になる」(註2)からです。

人間が戦争へ向かっていくのは、「人間の愚かさ」だと言い。その「人間の愚かさの治療薬となりうるものの一つが謙虚さだろう。国家や宗教や文化の間の緊張は、誇大な感情によって悪化する。すなわち、私の国、私の宗教、私の文化は世界で最も重要だ、だから私の権益は他の誰の権益よりも、人類全体の権益よりも優先されるべきである、という思いだ。世界に占める真の位置について、国家や宗教や文化にもう少し現実的で控えめになってもらうには、どうしたらいいだろう?」(註2)

改めて、カントのへ
 SNSで発信した意見が拡散し、「#MeToo運動」のように一つの大きな力となって社会を変えていくことも可能になりました。
 国民の一人一人が自由に思考し、行動する能力を高めれば、やがて国の統治にも影響を及ぼせるとカントは述べています。
「統治者は、もはや機械ではなくなった人間を、その尊厳にふさわしく処過することこそが、みずからにも有益であることを理解するようになる」

2022年11月23日水曜日

脳年齢を改善する「速音読」

 高齢化社会と言われ、その過程でアンチエイジングが盛んに叫ばれるようになってきた。食事や運動など様々な観点からのアプローチがされている。それらの中で、アンチエイジングに対して脳の影響が大きなウエイトを占めているという仮説を抱いてきた。葛飾北斎、平櫛田中などの芸術家に長寿者が多いからだ。そういうわけで、芸術家の生命力について関心を持ち続け、「絶えざる脱皮を目指した北斎」や「なぜ芸術家に長寿者が多いのか」、「”若返り”などもったいない」といった文章を書いてきた。
 それでは、手軽に脳の活性化を促し、アンチエイジングになる方法はないものであろうか。実は齋藤孝さんが、次のように「速音読」による脳年齢の改善を提唱している。

 人の若さは、⋯⋯見た目以上に脳年齢が重要だと考えます。脳が若ければテンポよく話し、行動できる。すると、高齢者でも「シャキシャキして若々しいなぁ」と思われるはずです」(『PRESIDENT』より)

 そのために、「速音読」をすると良い。1分間にできるだけ早く音読するトレーニングで、会話もテンポ良く、ハキハキと喋れるようになる、という。そこで考えたことがある。できるだけテンポの早い音楽を選び、聴いたり、音楽に合わせて体を動かせば(リズム体操)、脳も体も活性化するのではないか、と。大極拳とは真逆だが、やってみる価値はありそうだ。

2022年11月22日火曜日

情報の断片を結びつける能力

 今、最も求められている能力がはっきりとわかってきた。なんとなくわかってはいても、言語化できずにいたことで、それは「情報の断片を結びつける能力」のことだった。その能力のことは、齋藤孝さんが、『21 Lessons21 世紀の人類のための21の思考』(ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房新社、2019年)を紹介していた文章の中にあった。
 この本は、「テクノロジーや政治をめぐる難題から、この世界における真実、そして人生の意味まで、人類が直面している21の重要テーマを厳選。正解の見えない今の時代に、どのように思考し行動すべきかを問うたものらしい。その中の情報との付き合い方が紹介されていて、その内容が私自身の課題でもあったのだ。
「教育」の世界では、今何が起こっているのか。著者は「教師が生徒にさらに情報を与えることほど無用な行為はない」と指摘します。すでに子どもたちは膨大な量の情報にさらされ、どんなテーマでもクリック一つで最新情報が手に入ります。ただし矛盾する情報も多いため、人々は何を信じていいか迷ってしまう。よって今の教育に必要なのは、情報そのものではなく、「情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力」、さらには「大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力」を育てることだと述べています。
(中略)
 この連続する世界においては、一見するとバラバラな情報をうまくつなぎ合わせて、全体を捉える能力が不可欠です。これはピータ―・M・センゲの著書『学習する組織」で紹介されたシステム思考にも通じます。システム思考とは、一つの要素だけで考えるのではなく、様々な要素を矢印でつないで全体を捉えようとする考え方です。情報を結びつける力を鍛えるには、紙に要素を書き出して矢印でつなぎ、図式化して考える習慣をつけるといいでしょう。私は本や文章を読みながら、内容を図にまとめるのが好きです。(「齋藤孝の人生がうまくいく[古典の名著]」『PRESIDENT、2022.7.15』、p86)

2022年11月21日月曜日

対立から対話へ、その前提は共通認識

 澤地久枝の言葉「みんなが生きていてよかったと思える世の中に変えていきたい。簡単には実現しないでしょう。でも、希望を持たないのは怠惰です」が、鷲田清一さんによる朝日新聞コラム「折々のことば」(2022年11月21日)で取り上げられていた。この中の「みんなが生きていてよかったと思える世の中」という理想の表現を知って、なんて分かりやすい理想だろう、と感心してしまった。
 どういうことかというと、理想を「戦力の放棄」などにしてしまうと、すべての人が納得できる共通認識にはなりにくいけれど、「みんなが生きていてよかったと思える世の中」という理想であれば、すべての人(例えば憲法9条を変えて方が良いと考えている人でも)が納得できる共通認識になるのではないか、そう思ったのである。
 なぜ共通認識か、だが、共通認識としての理想があれば、思想的な対立(9条の是非をめぐる対立など)があっても、同じ対話のテーブルにつくことができるようになるのではないか、そう思ったのだ。紛争を話しあいで、というなら、まずは国内において、対立から対話へ移行することが大切では無いか、と。その前提が、「みんなが生きていてよかったと思える世の中」という共通認識としての理想だと思う。

2022年11月20日日曜日

南米の一連の左傾化は希望

 ブラジル大統領選で労働者党のルラ氏が勝利し、これで南米12カ国中8カ国が左派政権になったという。赤旗日曜版コラム『風の色』を読んで初めて知ったことである。そのコラムによると、

 ルラ氏は森林破壊ゼロと3300万人の飢餓を無くすことを目指すと宣言してる。アマゾンの守り人である先住民の"虐殺"の流れは、ルラ大統領の就任で先住民の権利尊重へ変わるようだ。政治の二極化が激しさを増しているのは心配だが、全ての命のための政治を人々と共に実現していこうとする道。これほどに希望がある未来はないし、「ピンクの潮流」が世界中に広がる日が待ち遠しい。(「2022年11月20日、赤旗日曜版コラム『風の色』、小野りりあん〔モデル・気候活動家〕著」より)

「ピンクの潮流」という言葉も、今まで知らなかったが、2000年代初頭の左傾化のことを指していることがわかった。南米の一連の左傾化は、かつての「ピンクの潮流」の左傾化を思わせるため、南米の一連の左傾化を「ピンクの潮流」と呼んでいるらしい。
 コロナ禍、戦争と世界は暗いニュースばかりだったが、南米の一連の左傾化は希望の星である。これで南米の動きに目を離せなくなった。少しでもあやかりたいものである。
 

2022年11月19日土曜日

絵画における主題について

 「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」を鑑賞してきた。今回は、滝という主題の作品を150点も描いているということに強い印象を受けてきた。強い印象を受けてきた。主題といえば、自画像や宗教画、風景画などが一般的だが、滝といった滝といった絞られた対象を主題にこれほどの作品を描いたことに感銘を受け、自分の興味関心も、絞り込むべきではないかという気づきを受けてきた。

ヤーコブ・ファン・ライスダール「城山の前の滝」

 そういえば、日本経済新聞コラム「美の十選」で、雲を主題にした作品を紹介していた。その一回「空を見上げて(1)」は、コンスタブルの「雲の習作:木々の地平線」だった。「かれは描く、海辺で、森で、村落で。激しく動き、流れゆく雲を追いかけて、なかに溶け込んでしまうかのように」( 哲学者小林康夫著『日本経済新聞』、2022年11月7日)
 私は、何を追いかけたらいいだろう。憲法や民主主義という広い概念の中から、滝や雲に相当するしぽられた対象を見つけ、ヤーコブやコンスタブルのように追いかけてみたい。

コンスタブル「雲の習作:木々の地平線」


2022年11月18日金曜日

憲法の初心忘れるべからず

 日本国憲法では戦力を放棄したことになっている。憲法9条をまともに読めば、戦闘機も、戦艦も持てないし、自衛隊のような大量の武器を持った組織など持てない。どんな言葉を用いて説明しようとも詭弁でしかないし、はっきり言って嘘の塊であろう。だから、「日本人は嘘と真実との中間を精神的に彷徨して暮らせる国民だ」(『暗黒日記 1942‐1945』、清沢洌著、山本義彦編、岩波文庫、1990年)という言葉を知った時、兵器を防衛装備品などと言って誤魔化している戦後の日本の姿を予言していたではないか、と思った。
 そして、もう嘘をつき通すことはやめよう、と言いたい。「今、自らに問うべきは、『もう一度平和主義の仕切り直し、もう一度⋯⋯平和憲法の仕切り直しを積極的にやるような状況』(『アジアから日本を問う』、姜尚中著、岩波書店、1994年)に立たねばならないのである」(『政治は途方に暮れている その理念と現実』、内山秀夫著、日本放送出版協会、1994年、p12)改憲など、とんでも無いことなのだ。
 それでは、「平和憲法の仕切り直し」とは、何を意味しているのであろうか。原点に変えること、初心に帰って、初々しい新憲法の息吹を感じることでは無いだろうか。「初心忘れるべからず」という諺もある。憲法の初心というのも同じであろう。忘れてはいけないのだ。

2022年11月17日木曜日

国家百年の大計

 何度か、防衛費倍増計画について批判したが、国家百年の大計という観点からも問題である。つまり、百年の大計という観点は、将棋や囲碁でいうところの大局的観点に通じるところがあり、こうした観点を見失うと袋小路に迷い込んでしまいかねないのである。
 それでは、我が国における百年の大計というのは、どのようなものなのだろうか。それは明確である。憲法が指し示してくれている方向性こそが、国家百年の大計なのである。にもかかわらず、目先の利害等に囚われ、国家百年の大計を忘れるどころか、葬り去ろうとさえ目論んできたのだ。
 改めて、武藤山治の言葉「国策として最も重要なるものは、国家生命の永続性に鑑みて百年の大計を建て、着々之を実行してゆくこと」に耳を傾けて、「国家生命の永続性に鑑みて」、防衛費倍増計画なるものが、いかに危険な計画であることかを思い知るべきである。そして、憲法が指し示してくれている国家百年の大計を着実に実行していくことが求められていると言える。
 人生は短きも芸術は長し、というが、独り芸術のみでなく、一般の仕事の生命もまた、真理に叶っている限り、永遠不滅である。
 転々変化する 目先の事物や思想に囚われて所謂臨機応変の政治的、或いは経済的工作を為すことも国策の一つではあるが、国策として最も重要なるものは、国家生命の永続性に鑑みて百年の大計を建て、着々之を実行してゆくことである。(『武藤山治全集 6』、武藤山治著、新樹社、1965年、p464、新漢字にしたりして読みやすくしている)

2022年11月16日水曜日

日中韓3国共同歴史編纂委員会

 平和を望む時、歴史認識の差異などの原因による隣国同士の対立が障害になることは明らかである。慰安婦問題でギクシャクした事例がギクシャクした事例がそのことを物語っているといえよう。しかし、ドイッとフランスの間だけでなく、ドイツとポーランドも共同で歴史認識研究のテーブルにつき、その成果を上げていることは、大きな光である。
 そうした事例に学び、日本においても「日中韓3国の研究者、教育者の間で、国境を越えた歴史認識を構築するための有意義な試みと努力がすすめられてきている」ことを知り、大いに勇気付けられた。日中韓3国共同歴史編纂委員会によって、『新しい東アジアの近現代史 上・下』を「日中韓3国で一緒に刊行」していたのだ。
 日中韓3国による共同出版も、もちろん歴史的な快挙だが、”日中韓3国共同歴史編纂委員会”の存在そのものが、歴史的な快挙ではないだろうか。さらなる発展を期待したい。
 東アジアに平和共同体を建設するためには、国境を越えた歴史認識をつくりだす必要がある。2006年、ドイッとフランスは共同で編集した歴史教科書の現代史部分である『1945年以降のヨーロッバと世界(Europe and the World since 1945)』を出版した。これは、ドイッとフランスによる1930年代からの努力の結果である。ドイツとポーランドも1972年から同様な共同研究を開始し、その研究結果はすでに教科書編纂に影響し、2010年に歴史教科書編集への提言がなされた。いずれも国境を越えた歴史認識を構築した成功例として認められている。
 ヨーロッバの状況と比べて、アジア、とくに日本・中国・韓国などの国家の間では、歴史認識問題の面で差異が顕著にあらわれている。では、日中韓3国の間で歴史問題の対話をすすめることはできないのであろうか? さらに、国境を越えた歴史認識を構築することはできないのであろうか? こうしたなか近年、日中韓3国の研究者、教育者の間で、国境を越えた歴史認識を構築するための有意義な試みと努力がすすめられてきている。(『新しい東アジアの近現代史 下』、日中韓3国共同歴史編纂委員会編、日本評論社、2012年、p233)

2022年11月15日火曜日

「戦争が必要」という異常

 戦争の原因について、さまざまな議論がある。その中で、最も有力な原因は、経済問題であろう。つまり、国を守るためは単なる口実であって、その背後には経済的な力が大きく作用しているのである。そこのところまで掘り下げていかないと、戦争の悲劇から脱却することはできない。このことは、銃社会アメリカの悲劇が物語っている。
 アメリカにおいて、多くの市民が銃を所持している。それ故の悲劇が後を経たない。こうしたアメリカの銃社会を分析した『銃社会アメリカのディレンマ』では、次のように、銃器などの兵器の「恒常的需要のため、戦争が必要であり」とまで言い切っているのだ。
 資本主義社会においては、人間の上に資本が君臨している。資本に人間社会が支配されているということもできる。資本論で明らかにされた物神性というものを、私はそう理解している。だから、巨大な軍事産業資本が恒常的需要を必要として人間どもに働きかけ、戦争を引き起こしている。得意になって戦争が不可避である議論の先鋒になっている論者にも、巨大な軍事産業資本が背後霊のようになって取り憑いているといって良い。いずれにしても、「戦争が必要」といった現実は異常であり、正さなければならない。

 アメリカは武器を販売する国であり、それはアメリカの経済基盤になっているという現実があった。平和と家族を守るためという名目で兵器やけん銃が作られ、販売される。そして、皮肉なことに、その恒常的需要のため、戦争が必要であり、国内では、銃を使った犯罪が頻発しなければならない。(『銃社会アメリカのディレンマ』、丸山隆著、日本評論社、1996年、p189)

2022年11月14日月曜日

「一汁一菜」の思想

「一汁一菜」について、気になりながら、ためらって実践に踏み込めないできた。栄養は足りるのか、というのが一番気になっていたからだ。何せ、肉などのタンパク質の重要性が叫ばれている。
 栄養的に何の問題がないとあるが、多分、「一汁一菜」だけでないこと、気持ちや時間、お金にも余裕があるときはときはお菜があってもいいというのだから、栄養的に何の問題がないのである。何よりも、橋本麻里さんの解説にあった「時間的・金銭的・心理的コストをかけすぎて、自分自身を大事にできなくなったら本末転倒だ」という指摘を知って、「命を、自分自身を大切にする」という「一汁一菜」の思想の根源を理解することができた。
「一汁一菜」の思想
 土井は、料理が大事ではない、とは言わない。何よりまず、人間とその命を大事にすることが、優先されなければならない。命を大事にするのに、一番適しているのは料理。そこまではいい。ただし料理することに時間的・金銭的・心理的コストをかけすぎて、自分自身を大事にできなくなったら本末転倒だし、そこまでコストをかけなくても、命を大事にする料理はできる。なんと、できてしまう。その技術論が、「一汁一菜」なのだ。
(中略)
 そうそう、書名に必要なメッセージのほぼすべてが尽くされていた、という話が終わっていなかった。「でよい」の後を締め括る「提案」、これがまたよかった。わかりやすさや説得力を求める自己啓発書にありがちな、「〇〇したければ、〇〇しなさい(命令)」でも、「〇〇しなければ、〇〇になる(脅迫)」でもない。共感や納得を強制しない、柔らかな問いかけであり、誘いとしての「提案」。そこまで配慮の行き届いたメッセージだったからこそ、料理のプレッシャーに押し潰されそうな人たちの琴線に触れる、どころか、その柔らかい部分をかき鳴らしたのだ。(橋本麻里著、『別冊太陽:土井善晴』、平凡社、2022年、p11)
「一汁一菜」の技術
 料理することです。一人暮らしであっても、自分で料理すれば、生き生きと生きていけます。きれいに整えればいいですね。
「一汁一菜」というのは、「料理して食べる」を実現する方法です。誰にでもできるし、誰かに相談しなくても、いいと思えば、一人ですぐにだって始められる。
 味噌汁を具だくさんにすれば、おかずの一品を兼ねるんですね。ごはんを炊いて、具だくさんの味噌汁を作ればそれでいいわけです。栄養的に何の問題もありません。和食には、メインディッシュなんてありませんが、西洋や栄養学の影響を受けて、メインディッシュから献立を考えるようになったのです。それは西洋で生まれた栄養学を、戦後日本人の栄養改善に取り入れたことにもよります。季節を取り入れた日本型の栄養学が必要です。
 日常は一汁一菜で何も考えないでいいわけです。そうすれば、私たちの忙しさに追われた暮らしでも自分の時間を持てるでしょう。気持ちに、時間に、お金にも余裕があるときに、おかずを作ればいいのです。
 肉を食べたい⋯⋯おいしいものを食べたいというのが現代人の欲求ですが、それを楽しみにすればいいですね。
 AIと共存するデジタル社会、若い人が担う「未来」にも、「一汁一菜」のスタイルを、暮らしをつくる秩序の要にしてください。(『別冊太陽:土井善晴』、平凡社、2022年、p68)

2022年11月13日日曜日

”溺読”という精読

 速読に対し、精読という言葉がある。ところが、”溺読”という精読に勝る言葉を見つけた。「愛読書を持っていて、これを溺読するという事は、なかなか馬鹿にならないことで、広く浅く読書していられないものが深く狭い読書から得られる」(『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』、小林秀雄著、新潮社、2007年、p52〜53)というのだ。その実践例を土井善晴の読書に見ることができた。要は、自らの「血肉になる」ほどに読み込むこと、読んでは考え、考えては読むことである。
 前に、座右の書というものもあるが、「溺読できた」と言えるような本に出会いたいものである。そのためにも、書き込みを入れながらも、丁寧に読み込む読書というものも、続けていきたい。まず初めに何を選ぶか、だが・・・。

「目に留まった文章は、流すのではなく、必ずそのページに自らの気づきや疑問、
新たな着想などを書き込む。読み込みが深まっていくほどに、ベージは細かな
メモ書きでびっしりと埋め尽くされ、ぽろぽろの状態に。読書から得たものを
考え尽くすことが、『一汁一菜でよいという提案」に代表される、土井の料理
哲学をつくり出している」(『別冊太陽:土井善晴』より)。
『魯山人著 作集』を手に入れ、料理や美術、物の見方まで、魯山人に師事したと言えるほど、読み込んできました。後で読み返した時、『魯山人が自分と同じことを考えている!』と驚くことがあるのですが、よく考えたら 『かつてこの本を読み、自分の中に残ったものを、まるで自分自身が考え出したことのように感じてしまっているんだな』と我に返ります。それくらい、血肉になってしまっている(『別冊太陽:土井善晴』、平凡社、2022年、p124)


2022年11月12日土曜日

「相互互恵」を旗印にした外交

 1998年に『文明の衝突』(サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳、集英社)が出版され、続いて2000年に、『文明の衝突と21世紀の日本』(サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳、集英社新書)が出版された。これだけの情報量でありながら、結論は簡単なもので、日米共同路線を補強するものでしかなかった。つまり、中国という「未成熟で『粗野』な『覇権』よりも、アメリカの成熟し経験済みの『覇権』の方が、誰が見ても相対的には好ましいはず」だというのだ。
 中国とアメリカを「未成熟で『粗野』な『覇権』」とか「成熟し経験済みの『覇権』」といった曖昧な言葉で比較しているのも問題だが、例え「成熟し経験済みの『覇権』」というものがあったとしても、所詮、覇権主義は覇権主義である。故に、覇権主義の仲間になるということは、自らも覇権主義国家になることを意味する。しかも、その傘下に入ることで、早い話が子分になること、下部になることでもある。それでいいのだろうか。
 決していい選択ではない。国家間の真のあり方は「相互互恵」の関係であろう。日本国憲法の精神は、そういうものである。したがって、「文明の衝突」を避けられない現実として捉えるのではなく、国家の意思として、「相互互恵」を旗印にした<「文明の衝突」を避ける外交>を展開していくべきなのである。
 とりわけ近年の中国が、経済の発展が減速し始める中で突出した軍事増強路線を続けており、共産党の独裁体制が続く限り、どうしても性急なナショナリズムやアジアの覇権に手を伸ばそうとする志向はなくならないことがはっきりしてきた。日本にとっては、同じ”覇権主義"であっても、このような未成熟で「粗野」な「覇権」よりも、アメリカの成熟し経験済みの「覇権」の方が、誰が見ても相対的には好ましいはずである。しかし、そのとき、「日本はアジアの友を見捨て、西欧の味方をするのか」という、元来誤ってはいるが、どうしても"直き心"あるいは「実直なる日本人」(司馬遼太郎氏の表現)の心の琴線に触れる問いかけが起るかもしれない。しかしこれに対しても、日本人が自信をもって返答でき、文明のアイデンティティと大きな国益が両立する「日本の選択」のあり方を示唆している点で、ハンチントンの示す道は、二十一世紀に入っても当面、日本人にとり大きな意義をもつものであることは間違いないであろう。『文明の衝突と21世紀の日本』、サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳、集英社新書、2000年、p205)

2022年11月11日金曜日

ムンクの「太陽」とその習作

 ムンクの作品といえば「叫び」が有名だが、「太陽」のような、わかりやすく素敵な作品も描いていた。その作品「太陽」に向けて、彼は「驚異的な数の習作は描き上げられた。Drawing 250枚、絵画や習作、スケッチはおよそ140枚」(2022年9月11日 日本経済新聞)。この事実を知って、何よりも、並々ならぬ「この集中力」に驚いた。
 話は変わって、日本国憲法の三原則について、その憲法三原則相互不可分律という概念を作り、そのことについて、何度か文章にして発表したが、それらは、考えようによっては習作と言える内容かもしれない。もっともっといろんな角度から検討し作品に仕上げていく必要がある。ムンクの多くの習作のことを知って考えたことである。
 そういえば、ピカソも、多くの習作を経て描いている。文学で言えば、推敲をしてしまって、元の作品がなくなってしまったものが多かったに違いない。しかし、推敲前の作品も残っていれば、それらも習作として立派な作品だったに違いない。


2022年11月10日木曜日

世界連邦のミニュチュア版

 コラム「ASEAN共同体形成への道」を読んだ。「ASEANが結成された目的は、このような東南アジアの歴史や軍事環境からの脱却をはかるために、地域経済協力体制を強化して自由貿易地域(AFTA)を設定して経済発展をはかるとともに、戦争を回避する国家グルーフを形成すること」だという。夢のような世界連邦のミニュチュア版のようで、実績があるだけに、希望の持てる話である。
 これまで、「加盟国の領有権抗争が発生するなど ASEAN内部での対立や衝突も何度か経験したが、外相会議を着実に積み重ね信頼関係を築く努力をつづけ、地域各国の協力機構の形成をすすめた」。素晴らしいことである。その上、1995年に東南アジア非核地帯条約を締結し、「ASEAN加盟国は、国連などで核兵器廃絶に向けた積極的役割を果たしている」のだから、日本も積極的に関与し、世界平和に貢献できるようになって欲しいものである。

コラム-ASEAN共同体形成への道
 東南アジア諸国連合(ASEAN)は、「東南アシア諸国の豊で平和な共同体がつくられる基盤を強化する」(結成宣言)ことを目的に1967年に結成された。現在は東南アジアの全10ヵ国が加盟している。
 第2次世界大戦以前の東南アジアは、タイを除く全部の国が欧米列強の植民地統治を受け、アジア太平洋戦争ではタイを除くすべての国が日本軍の侵略に晒され、軍事占領下におかれた。また第2次世界大戦後も植民地宗主国にたいする独立戦争やアメリカのベトナム戦争、さらには国家間の領有権をめぐる紛争や国家内での内戦、さまざまな戦争の惨禍を経験した。一方では、アメリカの主導により、東アジアにおける共産主義勢力の拡大を防くことを目的に、軍事防衛協力機構として東南アジア条約機構(SEATO)(1954年マニラにて締結)が存在していた(1975年ペトナム戦争の終結により段階的解体を決定、77年に解散)。
 ASEANが結成された目的は、このような東南アジアの歴史や軍事環境からの脱却をはかるために、地域経済協力体制を強化して自由貿易地域(AFTA)を設定して経済発展をはかるとともに、戦争を回避する国家グルーフを形成することにあった。ASEAN諸国にとって、グアム・ドクトリンの実施と米中和解によるアメリカの撤退は、各国内に共産主義勢力の抵抗を抱えていただけに大きな衝撃であったが、その空白を埋めるために、各国は政治協力を強めざるを得なくなった。加盟国の領有権抗争が発生するなど ASEAN内部での対立や衝突も何度か経験したが、外相会議を着実に積み重ね信頼関係を築く努力をつづけ、地域各国の協力機構の形成をすすめた。
 SEANは1976年には初の首脳会議を開催し、東南アジア友好協力条約(TAC)を締結、1994年からASEAN地域フォーラム(ARF)を開催、1995年に東南アジア非核地帯条約を締結した。同条約の実現は核戦力をもつアメリカが妨害してきたが、核兵器を配備していたとみられるフィリピンの米軍基地撤去により、締結の機運が一気にもり上がった。核保有5国は現在まで同条約議定書に署名していないが.ASEAN加盟国は、国連などで核兵器廃絶に向けた積極的役割を果たしている。
 2008年11月には前年の首脳会議において署名されたASEAN憲章が、全加盟国の批准を経て発効した。ASEANは2015年に安全保障共同体、経済共同体、社会・文化共同体を3本柱とする共同体創設を目指しており、同憲章の発効は統合に向け、基礎が築かれたことを意味する。(『新しい東アジアの近現代史 上』、日中韓3国共同歴史編纂委員会編、日本評論社、2012年、p213)

2022年11月9日水曜日

震度6強で原子炉倒壊の恐れ

 朝日新聞の福島地方版(2022年11月9日)に恐ろしい記事と写真が掲載されていた。東京電力福島第一原発1号機の原子炉を支える土台が損傷し、鉄筋がむき出しになっていて、「震度6強で原子炉が倒れる恐れ」があるというのだ。
 原子炉土台の4分の1が損傷していても「耐震性に問題はない」とする試算もあるようだが、耐震性に問題があると指摘している専門家がいることは見逃せない。その指摘というのは

「耐震上、重要な欠陥がある。緊急対策を考える必要がある」。1号機の原子炉内部の写真からこう指摘するのは、福島第一原発事故の研究を手がける森重晴雄さんだ。三菱重工で原発の耐震構造を研究し、現場責任者として四国電力伊方原発3号機の建設などに携わった経歴をもつ。(「朝日新聞、2022年11月9日」より
 このような事実が明らかになると、それでは、他の原子炉の損傷具合は大丈夫なのか、という新たな不安も生じてきた。やはり、東電に任せておいて大丈夫なのだろうか。国が率先して、廃炉というより、廃炉も含めた事後処理として、最優先課題として取り組むべき課題ではないだろうか。

「本来はコンクリートで覆われているが、鉄筋がむき出しになった原子炉の土台[ペデスタル]。鉄筋の上に燃料デブリの可能性がある堆積物がある=国際廃炉研究開発機構、日立GEニュークリア・エナジー提供」(「朝日新聞、2022119日」より)


2022年11月8日火曜日

「恕」という老子思想の核心

 正月の鏡餅をネズミのカップルが盗んでいくところを描いた仙崖の作品『鏡餅と鼠図』がある。仙厓は、ネズミが盗んで行くことこそめでたいのだと賛文に書いている。この意味すするところは、親鸞の有名な言葉「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」に通じるところのある、と「仙崖の傑作『鏡餅と鼠図』」に感想を書いたが、老子の思想にも通じることがわかってきた。
 老子は、「生涯行うべきことを一文字で表せましょうか」という弟子の問いに対し、「それは恕(じょ)だよ」と答えたという。その恕とは、「相手の身になってものを考える優しさや思いやりのこと」である。(『90歳を生きること 生涯現役の人生学』、童門冬二著、東洋経済新報社、2018年、p17からの要約)だとすれば、『鏡餅と鼠図』は鏡餅を飾った人に対する相手(ネズミのカップル)の身になってものを考えているから、「ネズミが盗んで行くことこそめでたい」ということになるのだと思う。
 このような仙崖の思想や老子の思想が行き渡れば、平和の問題も解決するのではないか、そんな希望も生まれてきた。自国第一主義になってしまい、相手の身に立って考えられなくなるからこそ、戦争といった悲しい選択に走ってしまうに違いないのだ。核弾頭を保有している権力者たちには、核弾頭を落とされる相手の身のことなど念頭にないに違いない。仙崖の思想や老子の思想のさらなる展開発展が望まれる所以であろう。

2022年11月7日月曜日

人生の幸福は美術品のようなもの

 ユニークな幸福論を、しかも簡潔な文章で展開された幸福論を見つけた。この「幸福の原則」という文章の要点は、”仲良し”である。仲間がいて仲良く生きる、これに尽きるような気がした。武者小路実篤の言葉に、同じような仲間を賛美したものがあったような気がしたので、今度探してみるが、国家間であれ、幸福の原則は同じだ。だからであろう。「幸福の原則」は、「幸福なる国家の創造」という章の中の一節だった。
幸福の原則
 万人が幸福を追求して、然もその実現に困難を感じ、それを求むるに失敗がちな訳は何であるかといへば、多くの人は幸福と云ふものを自己本位のものとのみ考へ、従って自分のためにのみそれを見出そうと焦って居る所にる。
 私は人生の幸福といふものは、丁度、美術品のようなものだと常に考へて居る。美術品が美しく人に愛好される訳は、その形成する種々な物体や色彩が各々其所を得て正しく配合され、調和されたところの微妙な表現と、其表現が人間の心に與へる快感と感化の力を持って居るからである。そして調子はづれした点があっては、美を欠いてしまふものである。人生の幸福も人間の社会生活に調和せぬ孤独の生活からは得らるものではない。
 幸福は人間が社会的動物である以上、人間相互間の正しい調和があって、初めて存在するもので、彼幸福の方便である所の富も、社会の人々が各々その職分を忠実に守り、協同一致して働き合ふ所から生じて来るものである。つまり幸福は相対的のものである。そしてこの相対関係が益々正しく調和して行くに連れて、その愉快の度も増すのである。
 卑近な例を舉げると、幸福はテニスをする愉快の如きもので、相手無くしては得られぬものである。テニスの競技から得られる最大なる愉快は、相手同志の腕前が可成り調和し且つ常に公正なる仕合、即ちフェアプレーをお互いがすることによって、初めて求められるものである。余り力に隔りがあったり、或はダーテイ・プレー(不正な仕合)をすると、その競技から、自他共に愉快を感ずる訳には行かない。(『武藤山治全集 6』、武藤山治著、新樹社、1965年、p126〜127、新漢字にしたりや改行を加えたりして読みやすくして紹介する)

2022年11月6日日曜日

戦争は「ツマラナイカラヤメロ」と!

 ウクライナにおいて展開されている戦闘は、収まる気配すら見えないのが現状であろう。日本人の間でも、そうした現状に不安を感じているのか、防衛費倍増と言った掛け声に対する批判も、あまり聞かれない。「軍隊では国民は絶対に守れない」という真実の声もかき消されてしまっているのかもしれない。
 あるいは、本当のところは「どうしていいのかがわからない」のかもしれない。でも、私にとっての出口とでも言葉を見つけることができた。今から35年前の冷戦時代に言われて言葉だが、「アメリカとソ連」を「ロシアとウクライナ」に置き換えれば、今に通じる真実を語っているのではないだろうか。つまり、「私たちや私たちの政府は、そう、ロシアとウクライナに対し、『ツマラナイカラヤメロ』とだけ言えばよい」と。
 また、防衛費倍増と言った掛け声が大きくなっているだけに、「私たちの存在が他の人たちの脅威になる、そのことだけはしてはならないのではないか」という声にも、真摯に耳を傾けたいものである。

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は素直に読んでゆけば、私たちが憲法で別の表現をしたものかもしれない。「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」、私たちや私たちの政府は、そう、アメリカとソ連に「ツマラナイカラヤメロ」とだけ言えばよい。イランとイラクの人たちにもそう言うのだ。今を現在を悪くし、私たちの存在が他の人たちの脅威になる、そのことだけはしてはならないのではないか。そうした想いを夢だ、と言うのなら、私たちは日本国民をやめねばなるまい。(『いのちの民主主義を求めて』、内山秀夫遺稿集刊行委員会編、影書房、2015年、p428~429)

2022年11月5日土曜日

軍隊では国民は絶対に守れない

 政府が防衛費倍増と言い出し、一部野党までもが政府に呼応する形で、防衛費増額を主張し始めてきている。まるで翼賛政治を彷彿させる内容だ。しかし、自衛隊という名の実質軍隊組織であるのだから、軍隊の本質を抜きに防衛費のみ議論するのは問題がある。
 防衛費の増額は、当然自衛隊の本質を理解し、自衛隊の強化が不可欠という認識が前提だ。つまり、軍事力を倍増することで、本当に日本を守れるのか。日本国民を守れるのか。まず、こうした議論が前提になければならない。
 沖縄戦では、日本軍に殺された沖縄県人がいた。日本軍は、国民を守るどころか、国民に銃口を向けてしまったことで知られているのだ。太平洋戦争で「私たちが確信したことは、軍隊では私たち国民は絶対に守れないという真実だった。いや、軍隊を守るために使ってはならない、といった方が妥当かもしれない。そして、戦争は死と破壊しかもたらさない、という事実がそれに加わる。戦争末期の私たちの生活は常に死を引きずっていた」(『いのちの民主主義を求めて』、内山秀夫遺稿集刊行委員会編、影書房、2015年、p451)。
 内山さんの言葉は、この度のウクライナにおける防衛戦でも実証されてきていると言って良い。おびただしい「死と破壊」がもたらされているからだ。さらには、
「これが戦争。ロシア軍が逃亡兵を射殺する督戦隊を展開か。英国防省の分析に戦慄」(朝日新聞夕刊コラム「素粒子」2022年11月5日 )である。建物は、建て直すことができても、亡くなった命は、決して戻らないのだ。だからこそ、軍隊で国や国民を守る、というのは、時代錯誤だし、間違っている。今こそ、「軍隊では国民は絶対に守れない」という真実に目を向けるべきであろう。

2022年11月4日金曜日

法を守らぬ現実への違和感

 表現をするということは……「社会を変える方法」を手にするということです。(山田創平)
     ◇
 「表現」を英語でエクスプレッションという。エクス(外へ)とプレス(押す)を合成して、内なるものを表出することを意味する。だが、表現とは、個人の内に秘された何かを書いたり描いたりすることでないと、都市社会学者は言う。表現とは社会への違和を形にすること。社会は変わりうると信じて動きだすこと。みずみずしい定義だ。京都精華大学のホームページから。(朝日新聞、2016年3月14日、折々のことば:339、鷲田清一)
 これを読んで、初めはなるほど、と思った。しかし、「表現とは、個人の内に秘された何かを書いたり描いたりすること」もあるし、そうした目的で表現することも多い。だから、「表現とは、個人の内に秘された何かを書いたり描いたりすること<だけ>でない」というべきだと思う。
 それにしても、「表現とは社会への違和を形にすること社会は変わりうると信じて動きだすこと」というみずみずしい定義は、時代にマッチした定義である。「社会への違和」ということで真っ先に浮かぶことは、国会議員自らが法を守らぬ現実への違和感に鈍感になってしまっていることだ。
 だから、「小心で法に逆らうこと出来ず(千葉県 安延春彦)」(朝日新聞、2022年11月4日)という朝日川柳と、「法犯す者多き世に我は」という選者西木空人の言葉は嬉しかった。法を守らぬ現実に違和感を抱いているのは私だけではなかった、と思えたからだ。

2022年11月3日木曜日

被曝絵画「お母ちゃんを探して!」

 広島市内にある市立基町高校の生徒たちは、2007年から被爆者と一緒に原爆の絵を描き続けている。体験の詳細を聞き出し、必死になって被爆者の想いに近づき描いた絵は15年間で合計182点になったという。このことをアウシュビッツ平和博物館のニュースレターで初めて知った。あるいは、何度か見たような気もするが、すっかり忘れている。
 早速ネットで他の絵も探してみた。やはり、紹介されていた。核兵器の恐ろしさ、戦争の恐ろしさは、決して忘れてはいけないことであり、伝え合わなければならないことだと思う。「二度と同じ過ちを繰り返さない」ためにも。
 絵を描いた高校生は、被曝の記憶(たとえ他者の記憶でも)を絵にする過程で、被曝を追体験してきたのかもしれない。だとすれば、被曝体験を文学の形で表現した詩を朗読することも、被曝を追体験したことになるのではないだろうか。



「お母ちゃんを探して!」 切明千枝子。はぐれた母親を必死で探す女の子に出会った(制作・福本悠那)(photo 写真映像部・東川哲也):(「被爆者の体験を聞き高校生が絵に」より)


「おびただしい遺体」 飯田國彦。被爆翌日、住吉橋の袂は被爆者で凄絶な状況(制作・サンガー梨里)(photo 写真映像部・東川哲也):被爆者の体験を聞き高校生が絵に」より)


2022年11月2日水曜日

気に入らぬ風もあろふに柳哉

 仙厓の「堪忍柳画賛」は、出光の店内に掲げられていたらしく、「佐三が事業に邁進する上での原動力となった」(『出光佐三と仙厓』、出光佐千子著、國民會館、2019、p41)作品だという。それでも、自分にはあまり関係のない作品だと思ってきた。しかし、夫婦の関係にも言える真理が含まれているかもしれない、そう思ったら、途端にこの絵が身近なものに見えるようになってきた。
 どういうことか。夫婦喧嘩は、「夫婦喧嘩は犬でも食わぬ」と言われる如く一般的なものであろう。我が家でも、時々言い争いになることがある。なぜか。と書いて初めてわかったことがある。気に入らぬものと思って風に反発してしまう。だから喧嘩になってしまう。
 柳は、黙って風を受け入れてしまっている。決してはね返そうとはしない。相手の言うこと(風)が気に入らぬこともあろう。それでも、黙って受け入れて仕舞えばいいのだ。これが夫婦円満の秘訣かもしれない。難しそうだが、実験してみる価値がありそうだ。

  仙厓は大上段に振りかぶった説法がしたいわけではない。むしろあらゆる人びとと苦楽を共有する立場で草木に語らせているのである。だから《堪忍柳画賛》にいう「気に入らぬ風もあろふに柳哉」は、決して長いものに巻かれろとか、我慢しましょうという意味ではない。世の中にある理不尽や、人の力ではどうすることもできない厄災なども、そのままに受け止めながらなお幸せに生きることへの願いが込められていると理解できるのである。(中山喜一朗著、『仙厓 ユーモアあふれる禅のこころ』、中山喜一朗監修、別冊太陽、日本のこころ[243]、平凡社、2016年、p66)
仙厓「堪忍柳画賛」(出光美術館蔵)

 



2022年11月1日火曜日

仙崖の傑作『鏡餅と鼠図』

 仙崖の『鏡餅と鼠図』の意味するところがわからなかった。しかし、中山さんの解説を読み、親鸞の有名な言葉「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」に通じるところのある傑作ではないか、と思えるようになってきた。
 同時に、人間中心に陥ることのない優しい命への眼差しが溢れた傑作でもある。そういう意味では、西洋の画題にはない、日本独特のものなのかもしれない。

 正月の鏡餅をネズミのカップルが盗んでいくところを描いた作品だ。鏡餅を盗むネズミはに憎いだろう。しかし仙厓は、ネズミが盗んで行くことこそめでたいのだと賛文に書く。善と悪、苦と楽、幸と不幸。二元論で考えがちだが、そもそも生きる喜びとは何かといった頭で考えると、なかなか答えの見つからない命題に対して、相対的な価値にとらわれてはいけないとほほえましい戯画に託して民衆の心に訴えかけているのだ。この作品は類似の図柄のない傑作である。(中山喜一郎著、『永青文庫』、2016年、No.96、p 11〜12)
『鏡餅と鼠図』十九世紀、70代前半

2022年10月31日月曜日

もっと「明るいニュース」を

 このところ、コロナ禍ニュースに加えて、戦争のニュースと、暗いニュースが続いている。このような傾向に対し、「気が滅入る情報ばかりを延々と流すニュース番組」には、脳の神経細胞を破壊してしまうほどの威力がある、と、警告とも言える記事があった。
 「コロナ禍や戦争など気が滅入る情報ばかりを延々と流すニュース番組を見続けると、精神に大きなストレスがかかり、脳の神経細胞が破壊される」(医師で作家の米山公啓氏)
 夕方の情報番組も、同じ話の繰り返しで毎日見ると着実に脳が衰える。
「思想的に右寄りの人ばかりが出演し、ワーワーと持論をがなり立てる特定のバラエティ番組や、反対に年配のコメンテーターたちが世間への不平不満ばかりをグチグチ垂れている休日朝の番組は、最初から結論を決めつける思考パターンで脳の機能を低下させる」(精神科医の和田秀樹氏)(『おとなの週刊現代』、2022年、VOL.3、p31)
 というものだ。
 コロナ禍や戦争がなくても、もともとニュースには刺激的で暗いものが多かった。世の中、あるいは世界は広く、明るい話題も多くあるはずなのに、そうした話題は少なかったのだ。だから、もっと明るいニュースを取り上げるべきだ、と、常々思ってきた。それだけに、今回の警告とも言える記事に、「我が意を得たり」の心境だった。
 と同時に、一部で「日本人の劣化」が叫ばれている。その原因の一端にマスコミの報道がある。脳細胞に気質的な変化をきたしてきた可能性が大きい番組が放送されてきたからだ。となれば、テレビ報道姿勢の責任は大きいと言わなければならない。もっと「明るいニュース」を増やして欲しいものである

「『おとなの週刊現代』、2022年、VOL.3」より

2022年10月30日日曜日

トマホーク購入米に打診は国会軽視

  朝日新聞一面記事、「トマホーク購入、米に打診 巡航ミサイル 敵基地攻撃能力、念頭に」(2022年10月29日)を知り、国会を通り越して(議論もなしに)、政府が先走っている問題行動ではないか、と思った。

 政府が米国製巡航ミサイル「トマホーク」の購入を米政府に打診していることがわかった。敵のミサイル発射拠点などをたたく「敵基地攻撃能力」の装備として配備することが念頭にある。政府は、敵基地攻撃に転用できる国産ミサイルの長射程化を進めているが、運用開始は2026年度の見通しで、実績のあるトマホーク導入をめざす。(2022年10月29日)

 という。
 記事の中に、「トマホークは艦艇や潜水艦などから発射できる。米海軍のホームページによると、1991年の湾岸戦争における『砂漠の嵐作戦』で米軍が初めて実戦投入。以降、2千発以上を戦闘で使用した」とあった。「2千発以上を戦闘で使用した」と何気なく書かれているが、どれだけの血を流し、命を奪ってきたかと考えて胸が苦しくなってきた。
 そんなことを考えていたら、今度は、「対ミサイル、衛星50基 敵基地攻撃に利用視野 防衛省検討」(2022年10月30日)という記事が載った。

 ミサイル防衛のため、多数の小型人工衛星を一体的に運用して情報収集する「衛星コンステレーション」について、防衛省が約50基の打ち上げを検討していることがわかった。迎撃が難しい「極超音速ミサイル」の探知や追尾の研究実証に生かし、「敵基地攻撃能力」を保有した際、攻撃対象の情報収集に利用することも視野に入れる。(2022年10月30日)
 というのだ。
 ますます、国会軽視が明らかになってきている。改憲の議論よりも、防衛論議こそ、ミサイルの是非をこそ議論すべきであろうに。そうした議論もなしに、「トマホーク」の購入が、どんどん前のめりになってきているのは異常である。さらに言えば、この「異常が問題にもならない”異常”」を危惧している。 




2022年10月29日土曜日

助け合い共感する能力

 運動が、特に散歩が身体的健康にいいだけでなく、精神的な健康にもいいことは、よく言われることである。『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』(ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳、文藝春秋、2022年)でも、同様な結論について言及していた。
 たとえば十四章は「歩けば脳が動き出す」で、最初に「散歩好きの偉人が多い理由は、歩くとマイオカインが運ばれて脳が動き出すのだ」ということがが紹介されていた。ダーウィン、ディケンズ、ニーチェ、ジョブス⋯⋯などが散歩好きだったようで、「ダーウィンはサンドウォークを周回しながら、自然淘汰による進化という独自の理論を発展させていった」(p305)という。
 さまざまな統計を駆使し、運動ががんを抑制することを説明している。その原因は、「運動には、傷ついたDNA自力修復を助ける働きがあるようだ。一日に少なくとも二〇分間運動する被験者は、DNAのコピーミスを修復する能力がやや高かった」(p294)らしい。
 しかし、二足歩行の最大の収穫は、「助け合い共感する能力」の獲得であろう。「大怪我を負いながら生き続けたと思われる化石は多い。二足歩行は脆弱ゆえに助け合い共感する能力が生まれたのだ」(p343)。だとすれば、人類に戦争は似合わないし、助け合い平和な暮しこそ人間の本来の姿のなだ。
『2001年宇宙の旅』の棍棒を振りかざす類人猿にしろ、「大型動物の肉を食べたいという欲望こそ、人類進化の駆動力の一つだった」という、誤りであるにもかかわらずいまだにはびこっている「人類=ハンター」説にしろ、人類の過去に関してこれまで構築されてきた物語においては、人間の否定しがたい暴力的・攻撃的傾向が支配的だった。だが、進化の旅は人類にたぐいまれな共感能力をも与えた。往々にして、われわれは人間の善なる本性に目を向けることなく、(呉が発見した、頭に重傷を負っても他人の援助のおかげで生き延びられた四十体のホミニンが物語るように)対立と共感はつながっているという事実を無視してきた。
(中略)
 三百六十六万年前のラエトリの足跡を思い出してみよう。いちばん小さな個体はひどく足を引きずって歩いていたようだ。彼女の片足は進行方向から三十度近く曲がっていた。だが、一人ではなかった。助けてくれる仲間と一緒に歩いていた。(p354)

2022年10月28日金曜日

初期人類の主食は何か?

 果たして初期人類の主食は肉食だったのだろうか。なんと、この問題に取り組んだ人類学者が見つかった。『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』(中公新書、島泰三著、2003年)の目次に「初期人類の主食は何か?」という章があったのだ。
 島泰三さんの仮説は、意外だったが、骨食というものだった。「初期人類の主食についてのこれまでのあらゆる仮説は、肉食を重視するか、骨という骨髄の中の脂肪を食べると考えていた」(上同、p201) 島泰三さんは、付着肉を含んだ骨の栄養分析結果が栄養的にも優れていることをを調べ上げている。それだけでなく、牛の肋骨を食べられるか実験したというから、その研究意欲に関心してしまった。
 豚骨ラーメンがいつから食べるようになったかは知らないが、経験的に発見したのであろうか。うまさと栄養を兼ね備えられていたことが、科学的に明らかになったのではないだろうか。改めて、食べてみたいし、骨付き鶏肉の骨も捨てずに、しゃぶり尽くす方法を考えてみたいものである。
 ところで、書名にもなっている「親指はなぜ太いのか」は、骨を砕く石を持つためである。そうして片手に石を持ち、もう一方の手に骨を持って移動するには、どうしても二足歩行でなくてはならなかった。つまり、骨を主食にすることが、直立二足歩行の起原にもなったのではないかというのだ。なるほど。

2022年10月27日木曜日

為政者はいつの時代もウソをつく

 アウシュヴィッツ強制収容所には、「働けば自由になる」という標語が掲げられていたことを石井俊郎さんのコラム<「人、生き物や自然のいのちを守る」こと>(アウシュヴィッツ平和博物館ニュースレター、2022年10月1日)で初めて知った。そこに、双葉町の入口にあった標語「原子力明るい未来のエネルギー」も紹介しながら、「為政者たちは、いつの時代もわかりやすい言葉でウソをつきます」と書いてあった。
 それでは、今の為政者は、どんなウソをついているか。その最たるものが、核抑止論であり、安保条約によって日本は守られているという言葉であろう。これらの言葉は、「原子力明るい未来のエネルギー」という言葉がそうであったように、知らず知らずのうちに、真実の言葉として信じられるようになってしまうのだ。それが恐ろしい。
 写真が示しているような歴史から「為政者たちは、いつの時代もウソをつく」ということに気付いたなら、それなら、「安保条約によって日本は守られている」ということもウソではないか、ということになる。そのことに、どうして気づかないのだろうか。

「働けば自由になる」と掲げられたアウシュヴィッツ強制収容所のアーチ門

撤去前、双葉町にあった当時の看板(2013年5月撮影)

2022年10月26日水曜日

軍事産業の餌食にされてたまるか

 今日の朝日新聞に、税金の浪費の極みともいうべき驚く記事があった。「装備品、購入費超す維持費 見積もり甘く、最大5倍 防衛省」という記事と、その解説でもある「予算足りず、部品の使い回しも F35維持費、30年で4.4兆円に 防衛装備品、甘い見積もり」という見出しの記事だ。要点は以下の通り。

 米国製のグローバルホークの場合、3機の購入費は613億円である一方、維持費は20年間で、2951億円かかる見通しだ。予備部品のほか、米国企業から技術支援を受けるのに816億円かかる。
 2027年に運用開始予定のスタンド・オフ電子戦機は、4機の取得に1849億円を想定する。それに対し、30年間で予備部品だけでも5380億円かかる。まだ開発中のため、修理などの費用は未定となっており、コストはさらに増える可能性がある。
 この二つは、当初の見積もりに比べ、維持費は膨らんでいる。スタンド・オフ電子戦機は今年8月の見積もりで当初計画から約2割、グローバルホーク無人偵察機は1割弱、増えた。
 このような現実を目の当たりにすると、絶えず敵の存在が必要なわけも理解できるし、防衛という名のまやかしにも気づくというものである。戦争は経済問題だという人もいたと記憶しているが、全くその通りだ。軍事産業の餌食にされてたまるか、改めて、強く、そう思った。

(「朝日新聞デジタル、2022年10月26日」より)

 

2022年10月25日火曜日

生まれよ”人類を救う哲学”

 いつの時代も、多くの困難を抱え混迷を深めている、と言われてきたのかもしれない。「今、まさに混迷を深めている」と書こうとして、思ったことである。これから先だって、これで万々歳と思いる時代は、望めないのであって、絶えず、何らかの問題が発生しているのが社会の生きた姿なのだ。そう思うと、不思議と幾らか気持ちが楽になってきた。
 とは言え、一気に”戦争へ突入”といった事態になっては困る。自然災害なら諦めもつこうが、人災を招いてしまっては、未来社会の人々に、何とお詫びをしていいかわからない。だからこそ、問題解決の優先順位の先頭に、「戦争を未然に防ぐ」課題を持ってきたい。その課題が、難問なのだ。
 ここで、”急がば回れ”という先人の知恵を借りれば、直球勝負で防衛論議に臨むよりは、社会学や哲学といった広い概念の議論が求められていると言えよう。今、「新しい哲学が求められている」のである。どのような哲学かといえば、『人類を救う哲学』(梅原猛・稲盛和夫著、PHP研究所、2009年)である。梅原猛さんの本を読んでいると、新しい哲学の構築は日本人に課せられた使命ではないか、とさえ思えてしまう。次に引用した仏教とキリスト教の対比には説得力がある。仏教と日本国憲法を持った日本にこそ、”人類を救う哲学”が誕生するのかもしれない。
 仏教の戒律では第一に、「殺すなかれ」と説いています。その対象は「有情」、つまり人間だけでなく動物まで含みます。それらを「殺すなかれ」というわけで、だからお釈迦さんは菜食生活で、肉食をしないのです。
 一方のキリスト教では、「殺すなかれ」は十戒のうち六番目です。モーセの十戒には、一番目から五番目までは「ヤハウェの神以外を信じるな」という戒めと考えてよい。「殺すなかれ」にしても「同じ神を信じている人間を殺すなかれ」で、これは逆にいえば「他の神を信じる人間は殺してもいい」ということです。実際、そのほうが現実的で、国家同士の戦争が起きたとき、「他の国民を殺してかまわない」という論理を生み出します。(『人類を救う哲学』、p 122)

2022年10月24日月曜日

途中下車読書法の楽しみ

 最近、速読について語られることが多い。早く読める上、脳の活性化にもなるから、ということらしい。しかし、速読もよさそうだが、遅読の楽しみや効能というのもある。『本の読み方 スロー・リーディングの実践』や『遅読のすすめ 』という本もあるのだ。昔からある「精読」も範疇としては遅読である。
 遅読を勧めている著書には、「助詞、助動詞に注意する」「辞書癖をつける」といった技術が紹介されているが、私が命名した遅読というものは、そうしたニュアンスのものではなく、途中下車(本を読むのを一時やめて考える)をしながら読むので、結果的に遅読になってしまう途中下車読書法である。
 トルストイも、そうした読書をしていたのか、彼の著書『愛のあるところに神あり』(あすなろ書房)の主人公マルティン・アウジェーイチが、「途中下車読書法」を実践していた。彼は、聖書を読むとき、じっくりと考えながら読むことを実践していたのである。たとえば、
「この言葉を読んだアウジェーイチは、心に喜びがあふれました。眼鏡をはずして本の上に置くと、テーブルに頬杖をついて考えこみました」(p10)
「アウジェーイチはまた眼鏡をはずして本の上に置き、もう一度考えこみました」(p12)   
 という具合である。 
 そういえば散歩にも、わき目も振らず早足に歩く方法と、周りの草花などを見ながらゆっくりと歩く方法がある。そして、早足では見落としてしまうような美しさを発見できるのが、脇見をしたり、途中で立ち止まったりしながら歩く、ゆっくり歩きである。
 読書も同じようなもので、速読では味わうことができないような読書の感動が、「途中下車読書法」などの遅読には存在するのである。

2022年10月23日日曜日

どんなことがあっても戦争はしちゃいけない

 前に、テレビで「おしん」の再放送をやっていた。その時の感想と、お母さんがおしんに語った言葉を書き取ったメモがあった。その時の感想は、
 おしんは、「今もうだれにも逆らえない強大な権力が日本の運命を握っていることをしみじみと感じるのであった」。このように、テレビを通じて流れてきた言葉が、何故か、生々しく聞こえてきた。憲法が改悪され、ものがいえなかった時代へ、今まさに暗転されようとしているからである。
 だった。
 いまだに憲法は無事だが、逆風の嵐は一向に止む気配はない。それどころかますます強まってきている。だからこそ、おしんのお母さんの言葉に真摯に耳を傾けたいものである。
 覚えておくんだぞ。
 どんなことがあっても戦争はしちゃいけない。たとえ日本が戦争をするようなことになってもおしんだけは反対するんだ。
 たった1人の力は小さいけれど、そういう人たちが力を合わせれば国家を動かすことだってできる。
 戦争というものは相手の物たくさん壊し、人をよけい殺した方が勝ちなんだ。物を壊したり、人と人とが殺しあったり傷つけあったりすることが立派なことだと思うか。
 人を傷つけたり殺したりすることは許されないことだ。人を殺せば殺すほど手柄になるのが戦争。それでも戦争は名誉なことだと思うか。

2022年10月22日土曜日

フッサールへの興味

  フッサールという名前だけは聞いたことがある。その程度の理解だった。しかし、『歴史と哲学の対話』(西研・竹田青嗣・本郷和人著、講談社、2013年)の中でフッサールの言葉を見つけ、一気にフッサールへの興味が湧いてきた。次のような言葉である。

 僕らはたえず他者と言葉をかわし、ふるまいあいながら、この他者も自分も同じ世界を生きている、と確かめあって生きています。(中略)
 このように、ふるまいによって、さらに人間どうしの場合には言葉の交換によっても、「ほかの人と同じ世界に生きているという信憑」をたえず僕らは再生産しているわけです。この信憑を〈世界信憑〉とフッサールは呼んでいますが、この世界信憑が実証科学の一番根っこにある。(『歴史と哲学の対話』、p 22〜23)

 ここで語っているのは、実証科学の根底にある思想だが、実証科学のみならず、これから益々求められている”共生の哲学”にとっても欠かせない思想的な基盤になるのではないだろうか。
 さらに言えば、次のフッサール言葉は、「大抵の人はそんなことはなく生きてこれた」と言って、注目されないようだが、私から言わせると、今のウクライナの現実を考えると、まさにフッサールの予言通りに思えてくる。だからこそ、フッサールの言葉にもっと注目してみたいものである。
 今のところ、『厳密な学としての哲学』(エドモンド・フッサール著、岩波書店、1976年)や、『現象学と人間性の危機』(E.フッサ-ル・A.ティミエニエツカ著 、御茶の水書房、1983年)に目を通してみたい。

 フッサールは、これまでつくりあげてきた「共有された世界の信憑」が三〇秒後に全部崩れてしまう――すべての現象がバラバラになってしまう―ーということも「論理的には」考えられる、と言っていますが、幸いなことに(笑)大抵の人はそんなことはなく生きてこれたわけですね。(『歴史と哲学の対話』、p 22)

2022年10月21日金曜日

七福を一服にして飲めば大福茶

 禅僧の船外に興味を抱くようになり、「禅僧仙厓(せんがい)の『布袋画讃』」でも、気に入った彼の絵を紹介したが、今回は、「七福神図」を紹介する。
 楽しい絵も素敵だが、「七福を一服にして飲めば大福茶になる」という発想も、また素晴らしい。こうした縁起物は、いつから描かれるようになったのか、このような縁起物は日本独特のものなのか、新しい疑問が生まれてきた。
 また、縄を蛇と間違えて遊んでいる子供たちの絵「朧月夜図」を見て、縄を蛇と間違えて驚いている子供の絵もあったことを思い出した。これらの絵のように、結構似たような絵を描いているので、自分なりに分類してみるのも面白いと思った。今後の一つの楽しみになりそうである。

(「『永青文庫』、2018年、No.104、p15」より)

(「『永青文庫』、2018年、No.104、p15」より)

2022年10月20日木曜日

人間味が溢れているプラトンの『饗宴』

 本の魅力を、これほどまで見事に紹介した書評は初めてだった。「我々をある高きものへ引きつける強烈な魅力」や、「文芸復興期の人々が聖書と共にブラトンを至宝と考えたのはあまりにも当然」、そして極め付けは「人間味が溢れている」という。このような素晴らしい本なら、是非とも読んでみたいと思った。
 そして、この紹介文で、初めて「ブラトンの饗宴」という絵の存在を知ったし、この絵の雰囲気から滲み出てくる哲学のイメージを感じることができた。哲学は、一応名詞だが、「哲学する」という動詞に近いのではないか、と、そんな感想も抱くことができた。
 ブラトンのこの書(『饗宴』のこと)は我々をある高きものへ引きつける強烈な魅力をもっている。道徳と芸術と宗教と哲学との中核を端的に掴んでみせている。文芸復興期の人々が聖書と共にブラトンを至宝と考えたのはあまりにも当然である。人間を永遠に悩ませ喜ばせる憧憬とか恋愛とかいう気分が秀抜無比な把握力によって解明されている。のみならず、その場面にも、その取扱い方にも、人間味が溢れている。(「書斎漫筆」『九鬼周造随筆集』、菅野昭正編、岩波書店 、1991年、p50)

 私は力ールスルーエとベルリンとで見たフォイエルバッハの「ブラトンの饗宴」という、画因の同じな、二つの美しい絵を思い出さずにはいられない。夜は深更である。ソクラテスは燈火のかげに高選な横顔を見せて下を向きながら静かに語っている。弟子達は立ったり坐ったり寝ころんだりして聞いている。月桂冠を戴いた主は盃をって新来の客を迎えている。酔っぱらって半裸体になったアルが数人の美しい白拍子に取巻かれて戸口から入ってくる。子供が笛を吹いたり花を撒いたりしている。ソクラテスは愛と美と真と善とを語りながら酒盃を交わして夜を明かしたのである。あんな自由な気もちで何ものにも囚われず、絢爛にしかも重厚に、哲学することが今日は何故に跡を絶ったのか。たまたまそれをする者があれば何故世人は異端視するのであろうか。(同上、p50~51)
「ブラトンの饗宴」

2022年10月19日水曜日

全方位外交を目指そう

 九鬼周造の言葉「我々の心には深い憧憬と広きへの念願とがある」(「書斎漫筆」『九鬼周造随筆集』、菅野昭正編、岩波書店 、1991年、p44)を紹介しながら「深い憧憬と広きへの念願」を書いたが、同じような、ギュヨーという人の言葉「汝の生をすべての方向へ発展させよ。内包的にも外延的にも出来るだけ豊かな個体であれ」(「藍碧の岸の思い出」『九鬼周造随筆集』、菅野昭正編、岩波書店 、1991年、p21)が紹介されていた。
 また、同じようなことが「伝統と新取」という随筆で論じられていた。ひたすら伝統を重んじて、外国より新規なものを取り入れることを軽視しているような批判に応えたものであった。すなわち、伝統も大切だし、外国の優れたものを取り入れることも大切である、ということであった。どちらに偏ってもいけないということであろう。
 そういう意味でも、外交と言ってアメリカ一辺倒では片手落ちというもので、九鬼周造なら、偏りのない、あらゆる国と対等に、全方位外交を目指すのではないだろうか。それは日本国憲法の目指す道であり、言うなれば、内包的にも外延的にも出来るだけ豊かな日本への道こそ、戦争を防ぐ道である。

2022年10月18日火曜日

朝鮮人虐殺事件の実態

 関東大震災の時に、朝鮮人虐殺事件があったことは知っていたが。その実態は知らなかった。ところが、新発見された関東大震災の絵巻の中に、朝鮮人虐殺事件の実態が生々しく描かれていたことを、赤旗日曜版の報道で初めて知った。
 このような事実はあってはならないことであり、だからこそ、忘れてはならないことでもある。そこで切り抜きの一部を紹介する。