2021年8月31日火曜日

世襲を怒れ!世襲を断ち切れ!

 今日は、まさに今日の問題を先取りした詩「最上河岸」を紹介する。以前も民主主義の理念、平等原則に反する世襲制」で政界における世襲制を取り上げた。今回のこの詩は、政界も含めた家父長制の問題として「人間の仕事は一代かぎりのもの」なんだ、と訴えている。
 最後の一行「一 人の象徴の男さえ立っている」は、世襲制の代表格のことを言っていることは明らかだ。天皇のことまで容赦をしない態度が清々しい。
子孫のために美田を買わず

こんないい 一行を持っていながら
男たちは美田を買うことに夢中だ
血統書つきの息子たちに
そっくりに残こしてやるために
他人の息子なんか犬に食われろ!

黒い血糊のこびりつく重たい鎖
家父長制も 思えば長い

(中略)

人間の仕事は一代かぎりのもの
伝統を受けつぎ 拡げる者は
   その息子とは限らない
   その娘とは限らない

世襲を怒れ
あまたの村々
世襲を断ち切れ
あらたに発ってゆく者たち
無数の村々の頂点には
一 人の象徴の男さえ立っている(『おんなのことば』、茨木のり子著、童話屋)

2021年8月30日月曜日

強盗犯と繋がれて

  河上肇といったら、経済学者で『貧乏物語』の著者であるくらいの認識だった。それが詩集も出版していたのである。『詩のこころを読む』(茨木のり子著、岩波ジュニア新書、1980年)で河上肇の詩が紹介されていて知った。

(旧い友人が新たに大臣になったと言う知らせを読みながら) 

私は牢の中で便器に
腰かけて麦飯を食ふ。
別にひとを羨むでもなく
また自分をかなしむでもなしに。
勿論ここからは一日も早く出たいが、
しかし私の生涯は
外にゐる旧友の誰とも
取り替えたいとは思わない。(『河上肇詩集』)
 以上の凛としたような詩が紹介されていた。早速、詩集を探し、政治犯としての実態を知らされた。「強盗犯と繋がれて」というフレーズの詩を見つけた。
十年まへのけふは
身に囚衣を纏ひ
手錠をはめ
強盗犯と繋がれて(『旅人 : 河上肇詩集』、興風館、1946年)
 このような歴史があったことは決して忘れてはいけない。強くそう思った。

2021年8月29日日曜日

資本主義のいう怪物の正体

 テレビで、斉藤幸平さんと柴咲コウさんの対談をやっていた。「私たちの手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わる」という結論が説得力を持って迫ってきた。友人と話し合いがあったとき、「悪筆で有名なマルクスのノートを斉藤さんが自分で読んだのか」ということが話題になった。そのとき、大方の人は、すでに解読されていて、それらを研究したに違いない」ということだった。
 しかし、今回の放送で、斉藤さん自身が直接解読して研究を進めたことがわかった。これは全くの偉業である。直接戦争には言及していないが、戦争も、資本主義ときってもきれない関係にあることは、防衛産業の存在があることからして自明なことである。資本主義のいう怪物は、いろんな手を使って人類を破滅に導こうとしているのだ。だからこそ、怪物の正体をもっともっと鮮明にして行かなかればならない。「私たちの手で資本主義を止め」ることである。

 気候変動などの環境危機が深刻することさえも資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。例えば山火事が増えれば、火災保険が売れる。、バッタが増えれば、農薬が売れる。私たちの手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わる。







悪筆の解読で、実際に苦労したことを説明しているところ

2021年8月28日土曜日

隣の国の言葉ですもの

  詩人茨木のり子は、五十歳から韓国語を学び始める。その経緯を次のように語っている。そして、「日本がかつて蹴ちらかそうとした隣国語/ゆるしてください/汗水たらたら今度はこちらが習得する番です」(「隣国語の森」より)という言葉を残している。「隣国語の森」の全体を読んでみたいと思っているが、まだ見つかっていない。「日本がかつて蹴ちらかそうとした隣国語」も、私には宝石のような宝物に見える。

 若き日から日韓にまたがる古代史に興味を持ち、「朝鮮民謡選」は愛読書の一つだった。 日本が朝鮮半島を植民地化した30数年、民族の根幹をなす言葉も奪った。いつかこちらが学ばなければいけない・・・いずれも動機となっている。ただ面倒になるとこう答えたとある。
「隣の国の言葉ですもの」(『別冊太陽・茨木のり子』、p128)
 「隣の国の言葉ですもの」から、「隣の国ですもの」という言葉になり、さらに思考が発展し、次のように実が結んだ。
 私は、<日本は「韓国と北朝鮮の統一に向けて」一肌も二肌も脱ぐべきだ>と考えます。
「隣の国ですもの」

2021年8月27日金曜日

硬直した政府なんか置き去りにして

  最近、いろんな茨木のり子詩集を読んでいるが、宝探しをしているようで楽しい。今日も、一つ宝物を探し出せた。「地球のあちらこちらでこういうことはで起こっているだろう/それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして/一人と一人のつきあいが/小さなつむじ風となって」という「あのひとの棲む国 —— F ・Uに —— 」からの言葉である。

雪崩のような報道も ありきたりの統計も
鵜呑みにしない
じぶんなりの調整が必要である
地球のあちらこちらでこういうことはで起こっているだろう
それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして
一人と一人のつきあいが
小さなつむじ風となって

電波は自由に飛びかっている
電波はすばやく飛びかっている
電波よりのろくはあるが
なにかがキャッチされ
なにかが投げ返され
外国人を見たらスパイと思え
そんなふうに教えられた
私の少女時代には
考えられもしなかったもの(詩「あのひとの棲む国 —— F ・Uに —— 」より、『別冊太陽・茨木のり子』、p140)
 すでに科学者の世界では、あちらこちらで世界の科学者が力を合わせて研究を進めている。宇宙ステーションなどその典型である。「それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして/一人と一人のつきあいが」実を結んでいる成果であろう。

2021年8月26日木曜日

奴隷根性が抜けきれない日本人

 また、衝撃的な詩に出会った。金子光晴の詩集『人間の悲劇』のなかにあるという「答辞に代えて奴隷根性の唄」だ。茨木のり子著「いちど視たもの」『女性と天皇制』(加納実紀代編、思想の科学社、1979年)で紹介されていた。この詩を紹介しながら茨木のり子は、「この詩は強烈に私の心に突きささる。祖母の血をひく者として、日常の暮らしのなかで、天皇制に対してばかりではなく、形を代えての奴隷根性は伺かの折にひょいと出てしまうのでは? という怖れ」「民衆が‐――民衆のなかのゲスな精神が作り出し存続させてゆくものとしての天皇制に、こんなにかっきり形を与えたものを他に知らないのである」(p240)と書いている。
 この評論を読んで、なぜ、こうも長く米軍基地があり続け、地位協定の改定すらできないのかがわかってきた。天皇と在日米軍が結びついたからだ。つまり、天皇を中心とした支配の構造と、在日米軍による支配の構造が相似形である、ということに気付いたのである。マッカーサーが天皇の戦争責任を追及しなかったわけ、形を替えた天皇制を温存させたわけが、ようやく真から納得できた。
奴隷というものには、
ちょいと気のしれない心理がある。
じぶんはたえず空腹でゐて
主人の豪華な猷立のじまんをする。

奴隷たちの子孫は代々
背骨がまがってうまれてくる。
やつらはいふ。
『四足で生れてもしかたがなかった』と

といふのもやつらの祖先と神さまとの
約束ごとと信じこんでるからだ。
主人は、神様の後商で
奴隷は、狩犬の子や孫なのだ。

だから鎖でつながれても
靴で蹴られても当然なのだ。
口笛をきけば、ころころし
鞭の風には、目をつなって待つ。

どんな性悪でも、飲んべえでも
蔭口たたくわるものでも
はらの底では、主人がこはい。
土下座した根性は立ちあがれぬ

くさった根につく
白い蛆。
倒れるばかりの
大木のしたで。

いまや森のなかを雷鳴が走り
いなづまが沼地をあかるくするとき
『鎖を切るんだ。
自由になるんだ』と叫んでも、

やつらは、浮かない韻でためらって
『御主人のそばをはなれて
あすからどうして生きてゆくべ。
第一、申訳のねえこんだ』といふ。

2021年8月25日水曜日

戦争を防ぐ根源的な思想

  前に、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と決意した日本国憲法こそが世界壊滅を阻止する力」だと書いた。しかし、戦争を防ぐための、もっと根源的な思想というものの存在があることに気がついた。この思想が人間平等の思想であり、人間の尊厳という思想である。このことを教わったのが次の言葉だ。

 戦争というものをなくすために、人間平等である、地球の全人類は平等である、命を守ることが文化である、地球を文化的存在にしなくちゃいけないと、もう尻に火がつくようなおもいで、わたしは毎日それをかんがえているのです。(『人間みな平等』、住井すゑ著、岩波ブックレット、1994年、p31〜32)

 憲法十三条では、「すべての国民は、個人として尊重される。・・・」とあり、十四条で、「すべての国民は、法の下に平等であり、・・・」と差別が禁止されている。人間は、人として等しく尊重されるから、平等なのである。憲法十三条と十四条を見る限り、国民に限られるように受け取れるが、前文で全世界の国民に言及していることを考えると、日本国憲法は、全人類の平等も、視野に入っていると考えていい。ということは、世界の人々は、人類として平等であり、個人として尊重される。すべての人類は、人間としての尊厳が存在しているという思想が普遍的なものとして確立されたとき、戦争というものも一掃されるということであろう。

2021年8月24日火曜日

天皇制に批判的だった尾崎行雄

 尾崎行雄の思想と行動に共感し、何度かその一端を紹介した(理想に燃えた憲政の神様・尾崎行雄世界永遠の平和と帝國の主張(尾崎行雄)世界から泥棒国を無くなす」)。この度、天皇制にも批判的で、新憲法を知らされたとき、「憲法に【天皇]とか【国体]とか、そういう文字が出ている以上は、つぎの原爆はまた日本に落ちるぜ」と言っていたということを知り、その眼力に驚いてしまった。なぜなら、核兵器禁止条約に背を向け、軍拡という危険な道をまっしぐらに進んできており、尾崎の予言通りになりかねないからだ。尾崎行雄の思想をもっと勉強してみたい。

 敗戦から二年目にこの新憲法が制定されて、そのとき、金森徳次郎というのはなんの大臣だっ たのか、憲法のほうの係だったんです。金森徳次郎がこの新憲法施行のときに、その施行の祝典が終わったその足で尾崎咢堂(行雄)を訪ねまして、「先生、こんどの憲法はいいでしょう」と、「もとの憲法とちがって、こんどの憲法はひじょうに民主的であり文化的である。憲法としては落度がない」とほめてもらおうとおもって、金森徳次郎は尾崎号堂の別荘を訪ねるのです。
 そうしたら、尾崎咢堂が「憲法に【天皇]とか【国体]とか、そういう文字が出ている以上は、つぎの原爆はまた日本に落ちるぜ」と言ったんです。それで金森徳次郎はその一語に震えあがるのです。(『人間みな平等』、住井すゑ著、岩波ブックレット、1994年、p31〜32)

普天間基地の速やかな運用停止を

 また、MV22オスプレイが部品落下事故を起こした。それに対し、新聞「赤旗」は、2021820日の主張で、「事故原因究明までのオスプレイの飛行中止はもちろん、配備の撤回、普天間基地の速やかな運用停止、閉鎖・返還が何より必要」と、普天間基地の即時閉鎖と返還にまで言及している。基地周辺が住宅密集地であることを考えれば、当然なことだ。

「朝日新聞デジタル、2021820日」より

 沖縄県の米海兵隊普天間基地(宜野湾市)に所属する航空機の事故が相次いでいます。12日には、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが飛行中に長さ1メートル超のパネルとフェアリングと呼ばれる覆いの一部を落下させました。一歩間違えば県民の命や財産に関わる重大事故です。海兵隊は事故原因も部品の落下場所も明らかにしないままオスプレイの飛行を続けています。玉城デニー知事は19日、日本政府に抗議文を提出しました。そこで、オスプレイの飛行継続を「言語道断」と強く非難し、度重なる海兵隊機の事故に「激しい怒り」を表明したのは当然です。
(中略)
 デニー知事が日本政府に要請したように、事故原因究明までのオスプレイの飛行中止はもちろん、配備の撤回、普天間基地の速やかな運用停止、閉鎖・返還が何より必要です。同時に、普天間基地の危険性や負担を移し替えるだけの名護市辺野古への新基地建設を断念させることが重要です。(『赤旗・2021年8月20日』)
 朝日新聞の主張はどうだったか。残念ながら、次のような、根本的な対策には程遠い内容であった。
 抗議の声を何度あげたら耳を傾けるのか。深刻なコロナ禍に見舞われ、対応に忙殺される沖縄に、さらに重荷を負わせるかのように、米軍が絡んだ事件や事故が相次ぐ。
 本土で同じことが起きても、日米両政府は沖縄に対するのと同様の態度をとるのだろうか。県民の不安と怒りに誠実に向き合うよう、改めて求める。
(中略)
 菅首相は6月の沖縄慰霊の日にも、基地負担軽減のために「できることは全て行う」と述べた。県議会の決議は「即応性のある実務者協議の場」の設置を求めている。自らの言葉に忠実に、速やかに応じるべきだ。(「(社説)沖縄の米軍 県民脅かす事件の続発」『朝日新聞デジタル・2021820日』)

2021年8月23日月曜日

2千年来の大変革、日本国憲法

 日本国憲法が制定されたことについて、8月革命説があってもさほど力はなく、押しつけ憲法といった批判ばかりが目についてきた。だからでもあろう、憲法そのものは変わらねど、解釈改憲によって憲法の理念が大きく後退されてしまっている。しかし、数十万年に及ぶ日本の歴史において、三度目の大きな変革が戦後の新憲法制定だという説があったのだ。「三番目の大変革は、欧米の人が日本にやってきまして、長い二千年からの日本の伝統を完全に崩壊させてしまい、新たに生まれたのが主権在民、つまり天皇中心の憲法が国民主体の憲法に切りかえられた、きわめて大きな変革」だというのである。
 まだまだ天皇の力は大きい。しかし、天皇自身が憲法遵守の姿勢は変わっていない。だからこそ、戦後の変革は日本における大きな変革(革命)であったという認識の意義は大きい。改めて主権在民、国民主体の憲法であることの意義の大きさを噛み締めたいものである。
 もう一つ、小野さんは重要な問題を提起している。「もしこれ(自衛隊)が戦力としたならば、はたして今のボタン戦争下においてどれだけの効果があるのか、またそういうものをもつことがほんとうの平和をもたらす要因なのか」という指摘である。全国に原子力発電所を抱えているのだから、一度戦火の火がついてしまったら、日本は地獄とかしてしまうであろう。戦力は、その戦火の呼び水になってしまうことを肝に銘じるべきなのだ。

 最近、数万年前の日本に人がいたということが明らかになりました。数万年前にネアンデルタール人から、ホモサピエンスヘの交代の時期がある。これはきわめて重大な第一回の変革である。二回目の変革は弥生人が日本に新しい国づくりをはじめた時期です。ところが三番目の大変革は、欧米の人が日本にやってきまして、長い二千年からの日本の伝統を完全に崩壊させてしまい、新たに生まれたのが主権在民、つまり天皇中心の憲法が国民主体の憲法に切りかえられた、きわめて大きな変革であります。つまり数十万年という長い歴史のなかで三回あった政治体制、文化の大きな変革の一つであるという認識をすることが知的な見方である。こういう前提に立って現実論を申しますと、李ラインの問題もありましょうし、アメリカが撤退したらどうなるという不安もありましょう。しかし、その場合でも、もし戦力をもったならばどうなるのかということが問題なのです。日本の自衛隊の実体はよく知りませんけれども、もしこれが戦力としたならば、はたして今のボタン戦争下においてどれだけの効果があるのか、またそういうものをもつことがほんとうの平和をもたらす要因なのかをもっともっと冷静に考えてみなければならない。<小野忠煕著、「<公聴会>第九条と日本の安全保障」『世界』、1965年6月号、p84〜85)

2021年8月22日日曜日

世界壊滅を阻止する力

 「日々に失格し/日々に脱落する悪たれによって/世界は/壊滅の夢にさらされてやまない」何というストレートな、見事な表現でしょう。”悪たれ”による「世界壊滅の夢」を実現させてはいけない。”悪たれ”による「世界壊滅の夢」は阻止しなけらばならない。つくづくそう思う。
 湯川秀樹などの科学者は、科学の力で核兵器による世界壊滅の危機を警告してきたが、茨木のり子は、文学の力、詩的眼力によって、世界壊滅の危機を予感したのかもしれない。
世界壊滅を阻止する力

ひとびとは
怒りの火薬をしめらせてはならない
まことに自己の名において立つ日のために

ひとびとは盗まなければならない
恒星と恒星の間に光る友情の秘伝を

ひとびとは探索しなければならない
山師のように 執拗に
<埋没されてあるもの>を
ひとりにだけふさわしく用意された
<生の意味>を

内部からいつもくさってくる桃、平和

日々に失格し
日々に脱落する悪たれによって
世界は
壊滅の夢にさらされてやまない。(ここまで「内部からくさる桃」『対話』、茨木のり子著、童話屋、2001年」から)

”悪たれ”による「世界壊滅の夢」を
   実現させてはいけない
”悪たれ”による「世界壊滅の夢」は
   阻止しなけらばならない

「世界壊滅」は戦争から始まり
「戦争」は、兵器から、戦力から始まる

 だって
 兵器が、戦力がなかったら
 戦争にならないよ

 アメリカ社会では
 銃乱射事件が絶えない
 銃の所持が認められているからだ 
 でも日本では
 銃乱射事件など、皆無に等しい
 銃の所持が禁止されているからだ

「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」
 そう決意した日本国憲法こそが 
「世界壊滅」を阻止する 
 大きな力なのだ

2021年8月21日土曜日

洞窟(がま)の奥に座っている魂

 茨木のり子の詩に「あなたはエジプトの王妃のように/たくましく/洞窟の奥に座っている」で始まる「魂」という詩がある。私はこの詩から、沖縄戦で八十四人の集団自決があった「チビリがま」(ここから沖縄の悲劇が始まった)という洞窟のことを想像し、逆に、この洞窟のことを想像しながら、この詩を読んだ。

あなたはエジプトの王妃のように
たくましく
洞窟の奥に座っている

あなたへの奉仕のために
私の足は休むことをしらない

けれど私は一度も見ない
暗く蒼いあなたの瞳が
湖のように 微笑むのを
睡蓮のように花開くのを

あなたはいつも瞳をあげぬ

いまなお<私>を生きることのない
この国の若者のひとつの顔が
そこに
火をはらんだまま凍っている(「『対話』、茨木のり子著、童話屋、2001年」より短く編集して紹介した)
 最後の「いまなお<私>を生きることのない/この国の若者のひとつの顔が」「火をはらんだまま凍っている」という表現が、なんとも強烈だった。「凍」とは矛盾した「火」という言葉で、作者は何を表現したかったのだろう? 私には、強烈な死者の怨念のようなものに思えた。

2021年8月20日金曜日

原子論的人間観

  昨日、『藤原保信著作集 9』に収録されている論文を見て、藤原保信さんへの興味が深まったことを書いたが、『藤原保信著作集 8』にも、興味ある論文があった。この間の内容紹介に「80年代初頭いちはやく『環境政治学』を先見した双璧的作品を収録。われわれが直面する『人類史的危機』の克服に向けて、近代の機械論的自然観・原子論的人間観を根底から問い直す」とあった。『環境政治学』にも興味を持てたが、特に、「原子論的人間観」が気になった。アメリカの詩人ホイットマンの詩に、「原子論的人間観」と想像できる詩があったからである。

わたし自身のうた・1

わたしは わたし自身を讃え わたし自身をうたう
わたしの身につけるものを あなたにも身につけさせよう
だって わたしに属する原子は みな やはり あなたに属するから

わたしは ぶらつき わたしの魂を招く
わたしは 寄り掛かり ぶらぶら歩き 気ままに 夏草の先を見つめる

わたしの舌や わたしの血に流れる原子すべては この土地 この空気から形作られ
ここに生まれた両親 同じくここに生まれたその両親 そのまた両親から生まれ さらに両親がいる
わたしは 今や37歳 完璧な健康のなかで 始めよう
けっして 死ぬまでは止めまいと望みつつ

教義や学派は 棚上げにし
それらのあるがままで満足して しばし退き しかし けっして 忘れることなく
わたしが 良かれあしかれ 保護し どんな危険を冒してもしゃべることを許すから
自然は 止めどなく 原始のエネルギーで語り始める(『アメリカ名詩選』、渡辺信二訳、本の友社、1977年、p152〜153)
 この詩を読むと、みんな原子でできているんだから、歪みあったりしないで仲良くしよう、と聞こえる。藤原さんのいう「原子論的人間観」とはどんなものなのか、興味がある。

2021年8月19日木曜日

政治が経済の奴隷になってはダメ

 妾尚中著「未来を予見していた真の理想主義者」『婦人公論』(2008年8月7日号)を読んで、妾尚中の心の師だという政治学者藤原保信さんの存在を初めて知った。「未来への三つの提言」をしているが、全く今日的な課題であることに驚いた。

 先生は未来社会への深い洞察力をお持ちで、今日的な諸問題について、はるか以前から見通していました。
 まず第一に、「環境政治哲学」を提唱されました。大量生産、大量消費、大量廃棄へと流れてゆく人間活動には限りがなく、それを助長するような政治ではいつかは限界が来る。自然の生態系を守りながらより良い世界を築いていくためには、環境適合型の社会をデザインしていかなければならない、と考えられたのです。
 第二に、自由な経済活動のもとで、人間の欲望が肥大化するにまかせている政治のあり方そのものを変えるべきだ、という強い意志をお持ちでした。政治が経済の奴隷になってはならない。この現状を変えるためには、過去の科学史、技術史からもっと学ぱなければならない、と.
 第三には、常に強者が弱者をしのいで富を独占するという現実社会のありように対しての批判--。

 「政治が経済の奴隷になってはならない」という主張は初めて知ったが、政府による「東京五輪開催の強行」こそ、「政治が経済の奴隷になっている」見本であろう。藤原さんは五九歳で亡くなったようだが、著作集が出版されるほどの仕事ぶりに驚いた。そして、『藤原保信著作集 9』に収録されている論文を見て、藤原保信さんへの興味が一層深まった。「競争の論理から共生の論理へ」など、全くの今日的課題でだからである。どんな論文なのか、今から興味津々である。

9巻のタイトル
 自由主義の再検討
 競争の論理から共生の論理へ
 政治理論と実践哲学の復権
 政治哲学のパラダイム転換のために
 初期ロックの政治理論
 経験論と自由主義
 ロック経験論と道徳
 自由主義と道徳的秩序

2021年8月18日水曜日

天皇発言への憤りを込めた作品

 天皇を批判した茨木のり子さん詩「四海波静」の一部を 昭和天皇の[戦争責任]記者会見で、紹介したが、「四海波静」の全貌を知りたいと検索し、『婦人公論』(2008年8月7日号)を見つけた。そこに「四海波静」の詳しい解説があった。
 昭和天皇の在位が半世紀に達した一九七五(昭和五十)年十月、天皇ははじめて――また唯一ともなった――公式の記者会見を皇居内で行っている。日本記者クラブ理事長が質問に立ち、前月の訪米に際しての印象などの問答が済んだのち、ロンドン・タイムズの中村浩二記者が関連質問をした。
《天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします。
 天皇 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます》(一九七五年十一月一日付 朝日新聞)
 茨木のり子の「四海波静」は、この天皇発言への直截な憤りを込めた作品となっている。(後藤正治著、「詩人茨木のり子の肖像」『婦人公論』2008年8月7日、p188)

 この詩を書いたさいの気持ちについて、後日、茨木はこのように述べている。
《かつての戦争で私は近親の誰をも失わなかった。けれど、もし、仮に私が戦争未亡人で遺骨さえ手にしておらぬ身であったとしたら、この記者会見をテレビでみて、天皇に対してどんな激烈なことでもやってのけられそうな気がした。少女時代にはよくわからなかった戦争未亡人の思いというものが、ひしひしとわかる年代に私も達した。しかし、ジャーナリズムの反応も、民衆の反応も、びっくりするぐらい生ぬるいもので、「大天狗め!」という頼朝級の、記憶に残る野次一つ飛ばないのだった。私も長く詩を書き続けてきたものだが、この天皇の言葉(それが側近の作製になるものであったとしても)を見逃すことができず、野暮は承知で「四海波静」という詩を書かずにはいられなかった》(「いちど視たもの」/共著『女性と天皇制』収録 思想の科学、一九七九年)(同上p189)

 茨木はここで、「ジャーナリズムの反応も、民衆の反応も、びっくりするぐらい生ぬるいもの」と書いているが、その部分を詩「四海波静」では次のように表現されている。なんと手厳しい。しかし、いまだにそうした風潮に変わりはない。ただ、こうして批判できる自由があることはありがたい。『女性と天皇制』も、手に取って読んでみたいと思っている。

頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘

2021年8月17日火曜日

戦争は人を二度殺す

 戦争中に新聞が果たした役割は大きい。あまり聞いたことがないが、新聞に対する戦争責任を問うてもいいのではないか、いや、問うべきである。大本営発表をそのまま、戦果の報道をして、国民の戦意高揚を図ってきたからだ。軍に牛耳られて、どうしようもなかったという理由もあろう。しかし、仕方なく、渋々やられたのであれば別だが、率先して実行されたのであれば、やはり責任は免れない。
 最近知った川柳に「特攻へ新聞記者の美辞麗句」(『特攻隊員の命の声が聞こえる 戦争、人生、そしてわが祖国』、神坂次郎著、PHP研究所、1995年)というのがある。この川柳を知って、ここまでなるのが戦争の実態なのかもしれない、と思った。
 同じ『特攻隊員の命の声が聞こえる』に、「特攻と散りゆく桜 花吹雪/晴れの初陣生還を期せず」や「明日死ぬと覚悟の上で飯を食い」というのも紹介されていた。なんともやりきれない思いがする。これだけの覚悟を決めていても、「雨降って今日一日を生き延びる」「俺の顔 青い色かと戦友(とも)が聞き」と本音が垣間見える。あえて覚悟を口にすることで、不安な心を押し殺そうとしたに違いない、そう思えてきた。
 若い学徒の日記に「 俺たちの苦しみと死が、俺たちの父や母や弟妹たち、愛する人たちの幸福のために、たとえわずかでも役立つものなら…」(同、p37)と記されていたという。そうでも思わなければ、私だったら死を前にした苦しみのため、気が狂ってしまいそうだ。と、ここまで書いてきて、「戦争は人を二度殺す」ということに気づいた。まず精神(心)を殺し、やがて、肉体が殺される、と。殺す主体は、天皇であり、軍であり、国体であろう。「何が国防だ」と言いたい。



2021年8月16日月曜日

感極まった読書体験

 2016年6月26日の鷲田清一さんによる朝日新聞コラム「折々のことば」は、中野重治さんの「その人びとは心から息子娘を愛していた子供たちは正しいのだということを理論とは別の手段で信じていた」だった。「戦前、共産主義者たちは官憲から惨たらしい迫害を受けた。そして戦後しばらくして開かれた日本共産党創立5周年の夕べにあたり、当時党員だった詩人・作家は、党員よりもその親たちに、遠く思いをはせた。『その信頼と愛とについて 報いはおろかそれの認められることさえ求めなかった親』たちに」(詩「その人たち」から)。
 この切り抜きを読み直した時、過去の「感極まって泣いてしまった読書体験」を思い出した。故郷を離れ、東京のアパートで一人暮らしをしていた時の話である。小林多喜二の『党生活者』を読んでいたら、官憲に追われている息子の後ろ姿を見送る年老いた母の心情を書き綴ったページを読んでいたら、小説の中の母と故郷に残してきた母がダブってしまい、一人アパートの中で泣けてしまった。詳しいことは忘れてしまっても、泣いてしまったことだけは鮮明に覚えている。
 今にして思えば、学生時代までは本とは無縁だった”のに”、気がつけば本が欠かせなくなっていた。でも本当は、本とは無縁だった”から”、乾いたスポンジに水が染み渡るように、本の世界が体に染み渡ってきたのかもしれない。今でも、三度の食事と同じくらい、本が欠かせない。しかし、メモはしつつも、書きぱなしで見返すことはほとんどなかった。これからは、新しい本と同じくらい、あるいはそれ以上に、自分のメモ帳など、自分の記録を読み直すようにしてみたい、そう思うようになった。

2021年8月15日日曜日

平和へのはじめの一歩

 敗戦の日に、どうして戦争がなくならないか、を考えてみた。いつも疑問に思っていたことに、「軍事力による平和」というもののおかしさがある。防衛のためというが、軍事力を使用した時点で、平和ではなくなってしまうからだ。
 それでは、「軍事力による平和」というものが叫ばれる前提は何か、と問えば、それは「攻めてくる国がある」という敵国の存在である。いわば、守りの姿勢であり、同時に、その守りの方法論が一つという固定観念に貫かれている。
 ここで明らかなことは、敵国の存在がある限り、戦争も、軍事力もなくなるはずがない、ということである。だから、「国境線の意味が、憎悪と対立から、融和と尊敬に変わらなければ……。その時やっと平和が始まる」(「加藤登紀子のひらり一言」『朝日新聞』、2021年8月15日)のである。ジョンレノンも、イマジンで「国なんてないと想像してごらん/国や宗教のために殺しあったり、死ぬことないよ」声だかに歌っていたではないか。
 そもそも日本政府には、アメリカ一辺倒で「近隣諸国と友好関係を築こう」という意思がない。初めから平和を築こうという意思がないのと同じであろう。つまり平和へのはじめの一歩は、日本国憲法の「平和な世界に向かっての決意」の実践であり、「平和を築こうという意思」なのだ。

2021年8月14日土曜日

圧倒的にアンフェアな東京五輪

 東京五輪が終わり、新型コロナウイルスが猛威をふるっている。東京五輪が原因の一端であることは明らかだ。それでも、マスコミの五輪報道は異常としか言えなかった。その異常ぶりの実態がわかった。国ごとのメダル数が報道され、日本のメダル数を自慢げに報道されてきたが、そのことになんの違和感も感じなかった。
 しかし、五輪憲章に「国ごとの世界ランキングを作成してはならない」(第5章の57)と定められているのを知って、報道の異常さを思い知った。そう言えば、五輪参加人数は国によって違う。国によって選手の人数が違うのだから、「国ごとの世界ランキング」は意味をなさない。あえて作成すれば、全くフェアではない。参加人数が少なければメダル数も少ないことは当たり前だからだ。錯乱五輪とはよく言ったものだが、マスコミに、そうした視点が欠けている。だから、国ごとの世界ランキングを作成して得意になっているではないか。
 もともと、新型コロナウイルスが猛威をふるっている最中では、フェアな競技が保障されない。その上、人の出が多くなる。だからこそ、初めから五輪開催に反対の声が多かった。そうした声には耳をかさずの強行だった。こうした差別がまかり通っている五輪は、是非、その実態を明らかにして欲しいものである。
 五輪憲章はあらゆる競技について「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(第1章の6) と定め、IOCや組織委員会に対しては「国ごとの世界ランキングを作成してはならない」(第5章の57)とされていたはずではないか。そんな理想はいつも通りに軽々と蹴散らし、圧倒的にアンフェアな環境下での五輪でも自国のメダル獲得に狂喜し、そして閉幕後には「五輪史上最高のメダル数」などと自賛するつもりか。それもまた、今般の錯乱五輪に付記される無恥の記録として後世に記憶されるのではないか。(青木理著「抵抗の拠点」『サンデー毎日』2021.8.15-22 12-18号)

2021年8月13日金曜日

文学は読んだ人の心を豊かに

 5年前のメモ帳に貼り付けてあった謹訳平家物語の紹介記事を読んでいたら、「多くの日本人は古典のおもしろさを知らない。間違った細切れの受験勉強のせいです。本来、文学は読んだ人の心を豊かにするもの。生徒を文学の味読から遠ざける教育は罪深い」(赤旗日曜版、2016年5月29日号)という部分が心に響いた。「古典から日本人のアイデンティティーを認識してほしい。日本人とは何か。その答えのひとつは古典の中にあります」とも。
 正直、私も細切れに読み知っている程度で、古典のおもしろさを知らない。しかし、「日本人とは何か。その答えのひとつは古典の中にある」となれば、それだけでも興味が湧く。それに、「文学の味読」にも、興味が湧いた。詩や現代小説の味読は進行中だが、日本の古典文学にも挑戦してみたいと思った。

2021年8月12日木曜日

憲法は一条[嘘をつくな]でいい

  鷲田清一さんによる朝日新聞連載コラム「折々のことば」、202189日は「貧しい言葉で豊かな明日を語るくらい、人びとをシラケさせるものはない。(天野祐吉)」だった。この言葉を受けて鷲田清一さんは、

 昨今の政治家や官僚はほとんどが書き言葉で語る。用意した原稿を読み上げて終わり。伝えたいという熱がこもらない。たまに芝居っけたっぷりに熱く語る例外があっても、「改革」や「安心」という語が呪文のようにまき散らされるだけ。こういう空虚や熱狂を介さずに〈声〉が聞ける政治家の言葉を編集者・コラムニストは求めた。『天野祐吉のCM天気図 傑作選』から。

 と、解説している。ところが、この国の総理大臣は”その上”を行った。広島平和記念式典の式辞で、原稿の読み飛ばしを演じてくれたのだ。しかも、その読み飛ばした部分というのが「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くします」という就任直後の国連総会で菅首相が世界へ発信したとしてスピーチに盛り込んだ部分が含まれていた。ありがたいことに、読み飛ばした部分を丁寧に調べてくれた人がいた。ミュージシャンの後藤正文さんである。後藤さんは続けて、

 読み間違いは誰にでもある。日本の立場を世界に示す重要な式典とあれば、緊張しない人は少ないだろう。しかし、自身が国連で発した大事なメッセージの読み飛ばしは重い。
 別のニュース配信で観た名古屋市の河村たかし市長の謝罪文の読み上げは、次元の違う酷(ひど)さだった。原稿を読み上げることだけでなく、謝罪すら不本意であるような読み方には絶句するしかない。
 失言や放言に続いて、形式だけの謝罪が行われる。国会では、用意された原稿を読み上げるだけの答弁が続く。そうした風景に慣れてしまったことが恐ろしい。厳しく追及するメディアもなく、政治家たちは自身の発言や言葉づかいに緊張する様子もない。(2021811日、朝日新聞コラム「言葉を軽んじているのは」)
 と、言葉の軽視を嘆いている。なぜなのか? 私は、政治家に誠実さが欠けているからに違いないと思う。
 ここで、最近読んだ『人間みな平等』(住井すゑ著、岩波ブックレット、1994年)のことを思い出した。「憲法は一条でいい」という項目があって、英文学者の寿岳文章さんとの対談の中で「[うそをつくな]とこの一条ですべていい」と発言していたことである。言葉が軽いということは、嘘だ、ということなのだ。やはり、嘘はいけない。

2021年8月11日水曜日

排他や不寛容という獣性

 排他や不寛容は、個人の尊厳というものを理解していないとしか思えない。民主主義社会にも相応しくない。その程度の理解だったが、排他や不寛容に対する手厳しい説明を発見し、紙片にメモしてあった。それが、「過去を現在に受け止め、未来へ手渡すためにはどうすべきか。その歴史をどう血肉化し、排他や不寛容の獣性をどう押さえ込むか」(青木理著「抵抗の拠点」『サンデー毎日』2020年12月2日号)
 獣性と言ったら、人間性の対極にある概念と言って良い。国家間の対応も、軍事力を前提にしているのなら、そこには獣性が付き纏っていることになる。不寛容ゆえの衝突だからである。真に人間的な外交を目指すならば、軍事力はいらない。そこをしっかりと考えていくことが必要だ。
 改めて軍事力を前提にした外交について考えてみた。そして、そこには人命が担保されていることに気づき唖然としてしまった。そもそも兵器というものは、殺人を目的にしている。国を守ると言いながら、多くの人命が担保されている。しかも、今は、無垢の命も対象にされているのだ。ここで小田実の「難死の思想」というものを思い出した。空襲によって殺された「死」を 「難死」と命名し、深い思索を重ねている。じっくりと学びたい思想である。

2021年8月10日火曜日

日本にも難民問題はあった

 難民問題といったら「ヨーロッパなど外国でのこと」と思っていたら、日本にも難民問題はあった。赤旗日曜版(2021年8月8・15日号)コラム「(風の色)入管法が縛る若者の未来」を読んで初めて知ったことである。それは、「東京クルド」というドキュメンタリー映画の紹介記事だが、難民申請をしても「仮放免」しかもらえないクルド人たちが、東京周辺だけで1500人もいるという。このコラムを読んで、難民と「仮放免」は何が違うのか、なぜ難民申請が認められないのか、なぜ「仮放免」の者は労働を禁じられているのか、分からないことだらけであることに気づいた。(こういうのを「無知の知」というのかもしれない)そういうわけで、『クルドの夢ペルーの家 日本に暮らす難民・移民と入管制度』(乾英理子編著、論創社、2021年)、『クルド人もうひとつの中東問題』、川上洋一著、集英社新書、2002 年という図書館で見つけた本を読んでみたいと思った。

「東京クルド」で描かれるのは、難民申請をしても「仮放免」しかもらえないクルド人たちです。トルコで身の危険を感じたクルド人たちは亡命し、東京周辺だけで1500人もいるといいます。一番の理不尽は「仮放免」の者が労働を禁じられていることです。どうやって生きていけというのでしょう。
 入管が目をつぶるのは工事や解体の現場のみ。私はこれまで工事現場に外国人労働者が多い理由は、言葉ができないからだろうと漠然と思っていました。
 しかし「東京クルド」の主人公は、来日時にはこどもで日本の公教育を受けて日本語に不自由しない若者たちです。本来バイリンガルを活かした仕事につける彼らの可能性が、「労働禁止」という決まりのために大きく制限されているのです。故郷に帰ることもできず、夢を諦めたり妥協しなければならない若者の現実を、ぜひ多くの方に見て感じてもらいたいです。(音楽家・文筆家・寺尾紗穂著)

2021年8月9日月曜日

国会議員の憲法擁護義務

 日本国憲法99条で、国会議員等は「この憲法を尊重し、擁護する義務を負ふ」と謳われている。そんな国会議員が、どうして憲法改正をしようとしても大丈夫なのかが不思議でならなかった。その辺のことをどう考えたらいいのか、ようやく納得できるような考えを見つけることができた。

 国民はいまの憲法が時代に合わないから変えたほうがいいと言う自由はあります。しかし、現行の憲法の下で選ばれている政治家、国会議員は憲法に定められた身分にしたがって活動するわけですから、その活動のなかで現行の憲法を変えようという活動をするのは間違っています。つまり、国会議員としての活動をする上では憲法を遵守する義務があるからです。しかし選挙に際して国会議員でない身分、立候補者として、たとえば「私は憲法を変えます」と主張して有権者に選択を仰いだ結果、そういう立場の国会議員が三分の二を越えたとしたら、国会でそういう議論をするのは結構ですが、そうでなく、国会議員の立場で改憲を主張するのはおかしな話です。もっとおかしいのは選挙でそのことを主張せず、有権者に選択を問わず、選ばれたから「白紙委任」されたといって勝手なことをすることです。そういう意味で国会議員がどこまで「自分は代議員だ」という自覚を持っているのか疑問です。本来、政治は直接民主主義が理想です。しかし時間的、物理的にそれを行うことは不可能なので、代議員に付託するという間接民主制をとっているのです。その趣旨からいえば、もし、違う考えがあれば、選挙のとき に主張し、選択を求めるべきです。それが政治家に求められる姿勢です。

 しかし、いまの政治家、国会議員のほとんどは私人という立場と、公人として憲法の規定に基づいて担っていくべき立場が何であるかという区別がきていません。このことが、いまの憲 法の求める国会議員のあり方からみて、一番の問題ではないでしょうか。小林良彰著「憲法は政治家に何を課しているか」『法学セミナー』2000年8月号、p59)

 ここで言っている「私人という立場と、公人として憲法の規定に基づいて担っていくべき立場が何であるかという区別がきて」いないということ、こうした議員モラルが常態化しているから、森友問題といった国有財産の私物化問題など、お金に関する疑惑が絶えないのかもしれない。

2021年8月8日日曜日

昭和天皇の[戦争責任]記者会見

 日本経済新聞で連載されている梯久美子さんのコラム「この父ありて」で詩人茨木のり子さんのことが取り上げられているのを読んで、詩人茨木のり子さんの存在を知った。このことはほんとうの死と生と共感のために」にも書いたが、202187のコラムで、茨木のり子さんが天皇を批判するような詩を書いていたのを知って驚いた。

 戦後30年がたった1975年10月31日、昭和天皇が記者会見で質問に答え、戦争責任について初めて語った。
〈戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます〉
 これは、直後に茨木が『ユリイカ』に発表した詩「四海波静」の冒頭である。
〈思わず笑いが込みあげて/どす黒い笑い吐血のように/噴きあげては 止り また噴きあげる〉
 あのとき、こんなにもあからさまな怒りを同時代の誰が作品にしただろうか。詩はこう続く。
〈三歳の童子だって笑い出すだろう/文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら〉
 この詩について、茨木がのちに書いた文章がある。
〈もし、仮に私が戦争未亡人で遺骨さえ手にしておらぬ身であったとしたら、この記者会見をテレビでみて、天皇に対してどんな激烈なことでもやってのけられそうな気がした。少女時代にはよくわからなかった戦争未亡人の思いというものが、ひしひしとわかる年代に私も達した〉(「いちど視たもの」)(「この父ありて 詩人 茨木のり子(6)」、日本経済新聞、202187日)

 天皇が戦争責任を問われて、「お答えできかねます」と答えたニュースを、当時の新聞はどう報じたか、どう解説したか、知りたくなった。それにしても、「お答えできかねます」という返答は、国会でもよく聞かれるようになった。天皇に学んでの返答だったのだろうか。

2021年8月7日土曜日

日本における道州制について

 日本に道州制を取り入れてはどうか、そういう考えがあることはわかっていた。しかし、あまりニュースになることもなく、その内容についてはわからなかった。
 勝間和代さんの著書『会社に人生を預けるな~リスク・リテラシーを磨く~』 (光文社新書) を読んでいたら、具体的な、わかりやすい説明があった。しかも諮問機関もあって、だいぶ議論も進んでいるようである。
 過疎化の現状を見ても、東京一極集中の管理体制に無理があることは明らかなのだから、もっと開かれた議論があって良いのではないだろうか。
 私たちのリスク管理の観点から日本が導入すべきものとして考えているのが、道州制です。現在のシステム、すなわち東京一極集中の管理体制では、さまざまなリスクを考えれば考えるほど、日本という国を管理する単位としては大きすぎ、リスクが高いといえると思います。
 たとえば、アメリカの人口は日本の約2・5倍、約3億人ですが、そのアメリカは 50 もの州に分かれ、州ごとに法律も税金制度も教育制度もお金の使い方もみな違います。人口最多の州であるカリフォルニア州でさえ、3500万人です。一方、現在、日本は1億2000万人強が暮らしていますが、これは1億2000万もの人が一つの州に暮らしていると考えることができます。
 これでは、リスク管理もしづらくなります。最近は地方分権も進めようとしていますが、それでも、課税制度一つとってみてもほぼ一つで運用しているため、アメリカのように州ごとに切磋琢磨をするような競争意識は日本の県では芽生えません。また、各地域の特色も無視されやすい傾向にあります。  

 アメリカの場合、たとえばカリフォルニア州がイヤだったらオクラホマ州に行く、アイダホ州に行く、あるいはワシントン州に行くといったような選択肢があり、州同士を比較して自分の目で確かめることができます。実際、分かりやすい例でいえば、同性愛についてかなりの程度で認めている州と認めていない州、あるいは中絶を認めている州と認めていない州とはっきり分かれている場合、自分の求めるライフスタイルに合わせて移住するというケースはよくみられます。

 道州制を導入し、国会議員の数をできるだけ減らすことができれば、逆に国会議員は外交や国防、大きな戦略など、より全体でのリスクマネジメントが必要な部分だけに意識を集中することができます。現に、アメリカは上院議員が100人、下院議員が435人しかいません。これに対して日本は、衆議院議員が480人、参議院議員が242人と、人口比でみるとずいぶん多くなっているのが現状です。道州制を導入できれば、一院制にするとしても二院制にするとしても、もっと大胆に人数を減らせるはずです。また、県を州に統合することで、県会議員も地方公務員も数を減らすことができます。  
 そして、州議会にもっと多くの権限や責任を持たせる必要があるのではないかと思います。そのことで、より早いPDCAサイクル(マネジメントサイクルの一つ)による、素早い行動を促すことができます。そのような私たちの目に見える範囲、あるいは手に届く範囲において、リスクマネジメントを行っていく必要も考えられるのではないでしょうか。

2021年8月6日金曜日

野党共闘の共通目標を明確に

 何をするにも、目標が重要なことは自明なことである。そのことのわかりやすい説明を見つけた。次のような駅伝を取り上げた話で、何事も「明快な目的」が大切であることが納得できる話だった。
 このところを読みながら、野党共闘も、共通の目標を明確にするところで足踏みしているのではないか、と思った。足踏みの原因は連合の日本共産党とは同じテーブルにつきたくない、という内部事情である。日本共産党を含めた野党共闘の実績は既にあり、この路線でこそ「現政権に代わる政権を取る」という大きな目標の実現が見通せる。にもかかわらず、「日本共産党とは同じテーブルにつきたくない」ということは、結局野党分断路線でしかなく、それはまた、現政権を利する結果になる。
 野党共闘の現状に悶々していたが、こうして文章にすることで、問題が明確になってきた。連合の果たしているのは野党分断であることを明確に批判するべきなのかもしれない。
 正月の大学駅伝があったので、なんとなく「駅伝」というキーワードが出る。私は「チームワーク」の円の横に、「=駅伝」という文字を、書き込む。
 そこから連想して、一つのキーワードが頭に浮かぶ。 「駅伝の選手たちにはなぜチームワークがあるのか。それは『全員で完走し切り、高い順位をめざす』という明快な目的があるからではありませんか?」
「目的、ですか……?」
 「御社の社員たちに、共通の目的意識というのはありますか?」
 こうして 侃々諤々 の話し合いが続く。(『仕事が速い人の「手帳・メモ・ノート」超活用術』、中島孝志、Kindle版)

「『仕事が速い人の「手帳・メモ・ノート」超活用術』、中島孝志、Kindle版」より

2021年8月5日木曜日

人が人として生きられる時代

 朝の連続テレビ小説「あぐり」の再放送を観ている。主人公の「あぐり」は、あぐり美容院を経営している。そんなあぐりが、「ぜいたくは敵だ」ということで、パーマネントの自粛を求められる時代、「勝ってくるぞと勇ましく」と若者が戦地に送られる時代に、あぐりの夫「エイスケ」が子供達の前で、未来社会について話す場面があった。その中で言った言葉「人が人として生きられる時代」がきっとくる、という言葉が、ずっしりと心に残り、今は、 「人が人として生きられる時代」だろうか、と自問してしまった。
 そこで心に浮かんだことは、新型コロナウイルス患者について、政府が感染者の急増地域で「入院制限」を打ち出したことである。これだけ科学も、医学も進歩した社会で、伝染性疾患であるにもかかわらず、自宅療養を政府の方針で進めるとは、なんたる政治的貧困であろうか。
 重症化への不安を抱えながら自宅療養せざるを得ない人の心境を考えると、なんともやるせない気持ちだ。自由に、望む医療を受けられないというのは、まさに基本的人権の侵害そのものではないか、と、そこまで考えてしまった。望む医療も受けられないようでは、とても、「人が人として生きられる時代」とは言えない。
 一方で、東京五輪の強行が進んでいる。やはり、どう考えてもおかしい。スポーツも大切だが、命あってのスポーツである。それゆえ、優先順位としては、新型コロナ対策であり、そのためにの医療体制の整備であろう。

2021年8月4日水曜日

日本軍による主要な戦争犯罪

 一時、天皇が諸外国を歴訪したことがあった。概ね、好意的に受け止められていたと思ってきた。そう感じたのは、マスコミの報道によるものだったのかもしれない。というのは、『日本の戦争責任 下』(若槻泰雄著、原書房、1995年)に、『外国人の見た天皇』(海老坪勇・神谷尚佳訳、原書房、1971年)が紹介していたので読んでみた。なんと「侮辱」という項目があって、「私見ではあるが、彼の訪問こそ、彼が指揮し、統率した国家によってさんざんなめにあわされた人たち、また、死んでいった人たちに対する侮辱行為であると思う」(p67)と書いてあった。
 またそこには、あまり聞いたことがない名前の日本軍捕虜収容所とそこでの捕虜への過酷な扱いも紹介されていた。そして「日本軍が犯した主要な戦争犯罪は、捕虜の待遇に関してである」(p61)と書かれていた。こうした戦争犯罪には、しっかりと向き合ったいかなければならないと思った。

2021年8月3日火曜日

米国は民主主義国と言えるのか!

 かつての日本軍は、朝鮮人や中国人を蔑視してきた。同じように、米軍にも、ベトナム戦争帰還兵のジョン・ラトリフさんが証言しているように、有色人種に対する蔑視が存在している。在日米軍による度重なる事故や犯罪も、差別意識を抜きには考えられない。そういう意味でも、人間の尊厳とは何かを問い直さないといけない。
 中国は専制国家だが、アメリカは民主主義の国だという。それなら、人間の尊厳も大切にしなければならない。人間の尊厳と他民族への蔑視は相容れないではないか。アメリカが民主主義の国だというならば、在日米軍は即刻撤退しなければならない。それができなければ、アメリカは民主主義の国だとは言えない。

 

2021年8月2日月曜日

21世紀に新軍事基地など必要ない

 辺野古への米軍新基地建設問題はちられるようになったが、米軍の新基地建設予定地はここだけではない。鹿児島県の馬毛島と、なんと、沖縄県浦添市でも、米軍の新基地建設問題が市長選の争点になっていたのだ。残念ながら、新基地建設容認派が勝利してしまった。
 当時のニュースを調べ、米軍の新基地建設問題が「西海岸開発と那覇軍港移設問題」に、ある意味ではすり替えれれていた。飴と鞭が一緒くたにされて、反対し難い巧妙な構図になっていたといっても良い。だからであろう。「軍港の浦添移設を巡って県と那覇市、浦添市の3者は昨年夏「北側案」で合意して」(沖縄タイムス社説(202128日)「[浦添市長 松本氏3選]コロナ禍 地域再生託す」より)いたのだ。
 しかし、三者の根は同じなのだから、一緒に闘う必要がある。そして、これは全国民の問題でもある。21世紀に向けて、新しい軍事基地など必要ないのだ。ましてや、憲法九条のある国なのだから。こうして書いていて気づいたことだが、これまでの論法は、「この海は世界の宝」だから、或いは、「ジュゴンが生息している」だから、米軍基地は作らせない、が主流だった。それでは、「この海は世界の宝」でなかったら、或いは、「ジュゴンが生息していなかったら」建設していいのか、という議論も成り立つ。
 実際は、そうではないはずだ。そこが宝の海であろうが、なかろうが、21世紀にこそ、米軍基地は縮小、撤退すべきなのである。この正論を忘れてもらっては困る(忘れてはいないにしても、隠れちゃっている気がする)。
  


2021年8月1日日曜日

まずは「共通の目標・課題」を

 宇宙ステーションなど科学者が活躍している組織は、国際的な協力なしには進められないようになっている。科学者の組織には国による対立は存在しないのだ。それよりも、科学者の間には国境などない。それだけではないこと、徹底した民主主義(民主主義の典型)も科学者の組織にあることを、石原安野さんのコラム「実は人間が一番不思議」を読んで知った。
「日本や世界各国12カ国の共同研究者で作り上げた」という研究所では、

 研究でも300人が好き勝手に自分のやりたいことをやっています。
 ただ、ルールはあって、何をするにしても共同研究者を100%納得させないといけないというものです。思いついたことは自由に好きにやっていいけど、それが研究の進展になるということを、周りの人に納得してもらわないといけせん。その条件さえ満たせば何をやってもよし。
 なんと素晴らしい。これらは、「はっきりとした共通の目標・課題」が明確だから実現したとも言える。目標と手段を明確に区別することの重要性を学んだ。野党共闘が揉めている原因も、その辺にあるような気がした。まずは「共通の目標・課題」を明確にすべきなのに、そこでモタモタしている。