2月下旬に始まったロシア軍のウクライナ侵攻に対し、論壇でも様々な議論が重ねられています。刻々と情勢が変化する中で、世界大戦勃発や核兵器使用の危機も指摘され、国際的な平和と秩序が根底から揺らぐ思いです。民族自決や反戦平和といった言葉が、古くて新しい問題として再び論議の対象になっています。
多くの人命が危機にさらされ続ける事態に、日本の私たちは何をどう論じればいいか。(以下略)(大内悟史著「論壇委員会から」『朝日新聞』、2022年3月31日)
(1)ASEANの基礎となる諸原則の再確認(注:なお、その中には民主主義、法の支配、人権尊重、グッドガバナンス等も盛り込まれている)。国内問題への不干渉原則は維持。(「ASEAN憲章 | 国際機関日本アセアンセンター」より)
人類家族全員が本来もっている尊厳と、平等で譲り渡すことのできない権利を認めることが、自由と正義そして世界平和の基礎である。
人権の無視と軽蔑が、人類の良心を踏みにじる野蛮な行為を引き起こしてきた。また、人間が言論と信仰の自由と恐怖と欠乏からの自由を保障される世界の到来が、当たり前の人々の最高の願いであると宣言された。(世界人権宣言前文前半 萩原重夫訳『<世界人権宣言>のめざすもの』、明石書店、1998年、p62)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。(「日本国憲法前文」より)
「行動の先に希望がある。行動を続けることで未来は切り開かれる」(サルトル) 「人間は進化する存在。今の自分を超えて、創造的であり続ける『超人』を目指せ!」(ニーチェ) こうして社会に発信するというささやかな行動を通じて、一歩でも二歩でも、未来を切り開いていける存在でありたいです。
2022年3月31日木曜日
今こそ和平原則を掲げよう
2022年3月30日水曜日
『資本論』再読への刺激・2
今まさに戦闘が行われ、武器によって人命が奪われている。プーチンも、ゼレンスキーも、「結局、武器という商品に制御されているに過ぎない」(「100分de名著 マルクス“資本論”」より)ならば、なんという悲しいことであろうか。そして、そこから、武器を持つことの、常備軍の怖さを導き出すことができるに違いない。
国防とかなんとか言っても、武器という商品の使用価値は、人命を断つことであり、文明・文化の破壊である。このような使用価値の存在を認めて良いのであろうか。つまり、使用価値についての分析は、資本論で言及しているのだろうか、という疑問が生まれた。そして、新たな「『資本論』再読への刺激」が一つ加わった。
2022年3月29日火曜日
『資本論』再読への刺激
『資本論』は「人生の書」とあったが、このことに関し、詳しい説明があった。「『資本論』はむずかしい本であるに違いない。 しかし、資本主義とその歴史的発展の運動法則を明らかにする行間に、彼の痛烈な皮肉や比喩や罵倒がとめどなく出てくる。古今の哲学者、自然科学者を始め、ダンテ、セルバンテス、シェイクスピア、ゲーテ、ハイネ、バルザック、それにバイブル等々からの意味深い引用。そこで読者はいきぬきができ広い視野で、人生を考えることができる」(『読書は喜び』、p 46)。こんな読み方もあるのか、と感心し、このことも、『資本論』再読への刺激になった。
『資本論』再読への刺激と言えば、もう一つあった。『資本論』は、マルクスが、それこそ「心血を注いで書き上げたもの」ということだ。芸術作品も、心血を注いだ作品は「作品に作者の魂」がのり移っていると言われることがある。『資本論』も、芸術作品を鑑賞するような読み方があってもいい、と思う。『資本論』がどのように書かれたか、その一端を紹介すると、次のようだったという。やはり、何年かかっても、じっくり読んでみたい本である。
彼が『資本論』を書くために読んだ本の数は大変なものである。また、彼がこのために費やした思索の時間はきわめて長い。彼は毎日八時間位大英博物館で費やした時代もある。彼の書斎のじゅうたんには、彼が考えながら歩くために、兎の路のように足あとがついてしまったといわれている。マルクスの女婿ラファルグのいう所によると、若い頃の彼は昼の他に夜を徹して仕事をすることもまれでなかった。・・・・・。(上同、p 37)
2022年3月28日月曜日
古典を読むべし
蔵書に、遠山啓著『古典との再会』があることを思い出し、パラパラめくってみた。ゲーテの『ファウスト』に言及しているところで、『ファウスト』は「有名な本だけあって、ほかの多くの本に引用されている。その断片的な引用箇所を読んでいくとひじょうにすばらしい、こんな箇所があったのかと驚いて原本を読みな返してみる」(p 53)とあって、同じような読書体験をしているものだ、と、改めて、すぐれた本は「書物の断片だけ」でも価値があることを再認識できた。
古典は、つねに進歩的なものである。それは、つねに歴史の進歩的な局面に進歩の役割をはたしたものであるからである。だから、その古典を人類の進歩の他の局面で、形をかえて進歩の役割を演じさせることができる。そのために、古典を読むことの意味が生じる。このように、古典はつねにわれわれの進歩のための努力を鼓舞するように読むことのできるものである。古典は、だから、われわれの社会の進歩のための活動の精神的エネルギーになるだけでなく、われわれ個人の進歩の心の糧でもある。社会なり、その中に生きている個人なりを向上させてやまぬものが、古典である。古典は、つねに、激しく社会が進歩する時代に、その場面を表現して生まれてくるものであるからである。だから、古典を読むのは、 もう古びてしまって過去のよさや思い出を語るものとしてではなく、われわれの「明日」のためにするのである。われわれ今日や明日の生活の中に生きないものは、古典ではない。(「古典を読むべし」『読書は喜び』、向坂逸郎著、新潮社、1977年、p29〜30)
2022年3月27日日曜日
大腸内視鏡検査体験記(心構え)
実は、去年は肺がん検診で要精検の結果が出て、精密検査を受けた。その時、3種類くらいの腫瘍マーカーの検査を受け、陰性だったのだ。だから、大腸がんなどではないはず、という思いがある。もう一つは、体が無理して、その悲鳴が「がんの発病」である、という信念のような思いがあった。自分としては体調もいいし、無理をかけていない、という思いがある。だから、がんではないはず、という思い込みがある。だから不思議と心が落ち着いている。
とは言え、もしかしたら、ひょっとしたら、という一抹の不安はある。しかし、こればかりは、検査を受けてみないことにはなんとも言えない。心配しても始まらない。それよりは、検査の辛さそのものを冷静に記録してみたらどうだろうという思いに至った。前々日の夕飯を軽めにすることから、検査が始まる。
検査前日は、3食軽食で、キノコや野菜など食べてはいけないものが指定された。3食うどんを少し食べてもいいという話があったが、未だどうするかは決めていない。そして夜に下剤を飲む。当日は、午前中いっぱい下剤を飲むように指示された。これがどの程度辛いのか皆目見当がつかない。そして、午後から内視鏡の検査を受ける。
2022年3月26日土曜日
うつくしい光輝を放っている憲法九条
憲法九条に関しては、「戦争放棄に関する第九条の規定は、あたらしい政治的感覚を表現しつつサンとしてうつくしい光輝を放っている」と表現していた。憲法九条は、今日のような現実を前にして現実に合わなくなったという批判もあるがその逆で、「うつくしい光輝を放っている」からこそ、闇にも見える現実を照らし出し、出口を指し示してくれていると言えるだろう。
終戦の時に締結された降伏文書に基づいて一切の軍隊を解散し、一切の軍事的施設を撤去した日本は、あたかも凶悪な猛獣がキバを抜かれ、ツメをもぎ取られてしまった姿に似ている。しかしながら平和的文化国家として再生すべく、新憲法の中に戦争の放棄を宣言した現在および将来の日本は、そのような無力化せしめられた猛獣のみじめな姿を連想せしめるものではなくて、真に自発的な立場から、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する国家にならねばならぬであろう。
百三条から成る新憲法の全規定の中で、戦争放棄に関する第九条の規定は、あたらしい政治的感覚を表現しつつサンとしてうつくしい光輝を放っている。今後における国際政治の局面がどのように目まぐるしく変化し、どのような暗たんたる光景を展開する場合があるにもせよ、新憲法が要請するところの徹底した平和的態度を堅持することこそは、わが国のとるべき唯一の正しい態度であり、多年にわたって侵略的軍国主義の国策を実行することによって犯した至大の罪悪を何ほどか償うゆえんであるだろう。新憲法実施の第二年がまさに開始しようとする現在における世界情勢を展望するときわれわれ日本国民がこのような事理を明察する必要があることが痛感される。(恒藤恭著「世界平和と新憲法」『田中耕太郎,恒藤恭,向坂逸郎集』田中耕太郎他著、東京創元社 、1955年p189)
2022年3月25日金曜日
無症状の感染者を探して!
それは、郡山市の事例で、中学生以下の子供を対象に重点的なPCR検査を実施したら、驚いたことに、51施設、792人の内に45人もの無症状の陽性者を確認したという事実である。無症状の陽性者がこれだけあるのだから、感染が拡大するのは目に見えている。
子供は体力があるから無症状で、そうした子供を介して家族の大人が感染して発病するのかもしれない。全国的に、どのくらいのPCR検査を実施ししているのかわからないけれど、無症状の感染者を探すことを最優先にすべきではないだろうか。
2022年3月24日木曜日
非独立国日本の存在を意識して!
講話条約と安全保障条約とは、アメリカの力を借りる代わりに、アメリカからは独立と自由とを要求しないという約束をしたことになっている。アメリカの軍事力の直接の支配下にあって、アメリカから独立し自由となるということはありえない。かくして、今日われわれは非独立国になったのであって、国民は、このことをよく考えてみなければならない。今日ほど日本国民が、国民としてみじめな地位におかれたことは、日本の歴史の上でまれであろう。そして、国民が、このことを十分に意識していないだけに、ますますみじめな思いがある。そしてさらに一般新聞紙は、このみじめさをごまかしているだけに、ますます救い難い思いがある。今日ほど、我々に深い内省が要求されている時代はあるまい。p 314
われわれは、はっきりと非独立国日本の存在を意識しなければならない。独立は充分な姿では、誰がなんといおうと存在しないことを知らなければならない。ごまかす癖をやめよう。真実の前に目をつぶることをしないで、堂々と目を開いて、当面する事態に立ち向かう覚悟をしなければならない。そこから出なければ、新しい日本は生まれない。p 316
2022年3月23日水曜日
人権教育まで義務付けた「世界人権宣言」
人類家族全員が本来もっている尊厳と、平等で譲り渡すことのできない権利を認めることが、自由と正義そして世界平和の基礎である。
人権の無視と軽蔑が、人類の良心を踏みにじる野蛮な行為を引き起こしてきた。また、人間が言論と信仰の自由と恐怖と欠乏からの自由を保障される世界の到来が、当たり前の人々の最高の願いであると宣言された。
人が最後の手段として、専制と抑圧への反逆に訴えることを強いられなくなるためには、人権が法の支配によって保護されることが不可欠である。
国家間の友好関係の発展を促進することが必要不可欠である。(世界人権宣言前文前半 萩原重夫訳『<世界人権宣言>のめざすもの』、明石書店、1998年、p62)人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、
人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、
人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要であるので、
諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、(世界人権宣言前文前半 外務省訳)
詩人・谷川俊太郎さんの「世界人権宣言条文」も、ネットで紹介されていた。外務省訳と一緒に一部紹介する。なんと外務省訳は、30条もある中、13条までしか翻訳紹介していない。しかも、26条などは教育に関する条文で、「人権と基本的自由を高める方向で行われなければならない」と、人権教育まで義務付けていたのだ。この意義は大きい。
第1条 みんな仲間だ
わたしたちはみな、生まれながらにして自由です。ひとりひとりがかけがえのない人間であり、その値打ちも同じです。だからたがいによく考え、助けあわねばなりません。
第2条 差別はいやだ
わたしたちはみな、意見の違いや、生まれ、男、女、宗教、人種、ことば、皮膚の色の違いによって差別されるべきではありません。 また、どんな国に生きていようと、その権利にかわりはありません。
第3条 安心して暮らす
ちいさな子どもから、おじいちゃん、おばあちゃんまで、わたしたちはみな自由に、安心して生きていける権利をもっています。
第4条 奴隷はいやだ
人はみな、奴隷のように働かされるべきではありません。人を物のように売り買いしてはいけません。
第5条 拷問はやめろ
人はみな、ひどい仕打ちによって、はずかしめられるべきではありません。
第6条 みんな人権をもっている
わたしたちはみな、だれでも、どこでも、法律に守られて、人として生きることができます
第7条 法律は平等だ
法律はすべての人に平等でなければなりません。法律は差別をみとめてはなりません。
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第二条
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
2 さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。
第三条
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。
第四条
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。
第五条
何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。
第六条
すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。
第七条
すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。
2022年3月22日火曜日
好きだけでない美術館の楽しみ方
美術館に行くと、好きな作品、気に入った作品を探すこと、それらの作品を感覚的に味わうことをメインにしてきたところがある。しかし、『芸術がわからなくても美術館がすごく楽しくなる本 知識がなくてもできる教養の磨き方』(藤田令伊著、秀和システム、2015年)を読んで、美術鑑賞には多様な見方があることを知った。本当に「目から鱗」て感じで、次に美術館に行くことが楽しみになった。以下、要点を自分の感想を織り交ぜながら列記してみた。
美術館を早足で歩くと好きな作品が見つける。 気になった作品を中心に後でゆっくりと見るようにする。
作品と自分の間に「個人的な物語」を見出し、その物語をどれだけたくさん見いだすことができるかが美術鑑賞の肝。 それはプライベートな要素をどれだけ見いだすことができるか、だけど、「内在的なもの」(ヤマザキマリさんがラジオで言っていた言葉)に気づくことでもある。
既存のタイトルにとらわれず、自分で作品の名前を考える。ネーミングすることで作品を見直す。これは面白い考えで、やってみたい。
鑑賞したものを反芻し、体験を血肉化する
近くだけでなく音や肌触り味匂いなど五感をフルに活用して作品を見るようにするとより豊かな開始鑑賞体験ができる。 寒々とした海の風景を描いた絵を思い出した。そういえば、何度も見た常設館にあった「朝もやの立ち込めた静かな朝の時間」を描いた絵も思い出した。
シャーロックホームズのように細かい部分を丁寧に見てみると、それまで気づかなかったことを発見できることもある。これとの関係で、「作品を言葉で表現してみる」「意味を考えてみる」という方法もある。
別の作品と比べてみる。このことに関して、ゴッホは四〇点近い自画像を描いている。それらの違いに注目して、ゴッホの自画像を鑑賞してみたいと思っている。
一つの見方に固執せず、他の見方に「ゆれる」ことも大切。 それは、「物事を多様な観点から見ようとすることであり、すぐれたものの見方・考え方」である。(『芸術がわからなくても美術館がすごく楽しくなる本 知識がなくてもできる教養の磨き方』からの要点)
2022年3月21日月曜日
どんどん激しくなったゴッホ
2022年3月20日日曜日
将来の日本のあるべき姿は
今は、世界で反戦運動が広がってきているが、忘れてはならないのは、日本もロシアと同じ道を歩んできたことだ。学術会議問題(少数派の声を抑圧)や、辺野古米軍基地建設問題(強権政治)がその証拠であろう。敵基地攻撃能力を保有しようとすることも、軍事力という力の政策という意味で、ロシアと同根なのである。当面は戦争終結に向けて全力を傾ける必要があるけれど、力の政策の結果がどのようなものであるかをしっかりと認識することも絶対に欠かせない。毎日のニュースが何よりの教科書になっているからだ。
そのような状況の中で今必要なのは、繰り返して書いているように、ロシアによる侵略戦争との関係で日本国憲法の精神を見直すことである。日米安保条約の正体を見抜き、将来の日本のあるべき姿を描くことである。軍事力に頼らない日本、各国の主権を尊重し、各国と等しく相互互恵の精神で交流していく日本を目指すのだ。そうした相互互恵の精神で結ばれた関係国を徐々に増やしていけば、平和な世界になっていくに違いない。
2022年3月19日土曜日
彼らは好んで憲法を蹂躙し、・・・
わかりやすい憲法の解説文を発見した。戒能通孝氏の「彼らは好んで憲法を蹂躙し、むしろそれを自己の誇りにすらする」という予想は、全くその通りであり、彼らにとって反省のかけらもない理由が、これでようやく理解できた。「憲法を蹂躙し、むしろそれを自己の誇りにすらする」者にとっては、反省など無縁だったのだ。
新しい視点もあった。「憲法を守らぬものは単なる乱用者たるだけでなく、日本国民と世界全人類に対する犯罪者である」だという言葉だ。ただ、こうした表現に納得できない人もあろう。しかし、純粋に考えてみれば、刑法に抵触すれば犯罪者であるのは間違いない。まずは警察に取り調べを受けることになる。憲法も法である。「憲法は抵触しても許される」というのは通らない。しかし、憲法擁護義務も守らないし、法に基づく国会開催要求も無視するのも許されている。おかしいのはおかしい。やはり、法に基づく国会開催要求を無視するような人は「日本国民と世界全人類に対する犯罪者」なのである。
日本国憲法はまだ紙に書かれた文章の過ぎない。
憲法の執行者連中は、憲法の精神から縁遠い人たちだけである。彼らは憲法だけでなく、もっと強力な枠により、でたらめな行動をとることができないように、しっかりと抑えられていなければならない。そうしなければ彼らは好んで憲法を蹂躙し、むしろそれを自己の誇りにすらするだろう。
憲法は支持を要する。
憲法は 太平洋戦争敗北後の日本という特殊地域にだけ通用する原則ではなくて、
1、およそ近代国家の一つとして国際社会の一員たるための前提要件を構成すること。
2、憲法を守らぬものは単なる乱用者たるだけでなく、日本国民と世界全人類に対する犯罪者であることを明らかにすること。
これらの原則の明瞭な、疑いのない言葉で表明されるのでなかったら、憲法はますます紙の上の言葉になるであろう。(戒能通孝著「人権と暴力」『世界』1949年8月号、p 59から、わかりやすく編集)
日本国憲法はまだ紙に書かれた文章の過ぎない。憲法の執行者連中は、憲法の精神から縁遠い人たちだけである。彼らは憲法だけでなく、もっと強力な枠により、でたらめな行動をとることができないように、しっかりと抑えられていなければならない。そうしなければ彼らは好んで憲法を蹂躙し、むしろそれを自己の誇りにすらするだろう。憲法は支持を要する。憲法は 太平洋戦争敗北後の日本という特殊地域にだけ通用する原則ではなくて、およそ近代国家の一つとして国際社会の一員たるための前提要件を構成すること、憲法を守らぬものは単なる乱用者たるだけでなく日本国民と世界全人類に対する犯罪者であることを明らかにすること——これらの原則の明瞭な、疑いのない言葉で表明されるのでなかったら、憲法はますます紙の上の言葉になるであろう。(戒能通孝著「人権と暴力」『世界』1949年8月号、p 59)
2022年3月18日金曜日
芳野連合会長発言の違和感
その一つは、芳野会長の発言は、日本共産党という「特定の属性を持った人々や集団について人間の尊厳を否定する考え方」ではないか、ということだ。正当な批判なら、具体的にど批判すべきであって、党そのものを否定するような発言は、所属党員(人間)の尊厳を否定する考えと言われても仕方がない。
昨年の衆院選前に新会長に就任した芳野氏は、立憲が進めた野党共闘の批判を繰り返した。自民党に「連合会長が共産党ダメよと、そんな話をしていたこともあって勝たせていただいた」(遠藤利明選挙対策委員長)と言われたほどだ。(『朝日新聞デジタル』、2022年2月12日)最近の民主主義の混迷状況の中で注意すべき兆候は、政治の前提そのものを否定する論者が政治の世界に乱入していることである。人間の多様性を否定し、特定の生き方や考え方を押し付ける議論や、特定の属性を持った人々や集団について人間の尊厳を否定する考え方をまき散らす議論、さらには特定の宗教の信者やハンディキャップを抱える人に対する暴力がいわゆる先進国の中でも広がっている。資源配分をめぐる議論については様々な主張があるのが当たり前である。しかし、異なった者どうしの共存という政治の前提条件を否定する者の主張まで、「言論の自由」という理念で許容すれば、自由そのものが脅かされる。(『民主主義は終わるのか 瀬戸際に立つ日本』、山口二郎著、岩波書店、2019年、p 211)
2022年3月17日木曜日
どうか廃炉の道を選んでほしい
昨夜の地震は怖かった。正気を装っても体は正直で、眠ろうとしてもわずかに動悸をして、なかなか眠れなかったのが怖さを物語っていた。本棚から本が落ちて床が見えなくなってしまった。朝食を済ませた後、片付けようとしたが、本の山の前にしてもしばらくは手をつけることができなかった。
やっと片付け始めたら、本棚に立てかけておいた写真立てが、床に飛び散ったガラスの破片と一緒に、姿を現した。とても1日では片づきそうもないと、早々に諦めながら、やれるところまで片付けようとガラスの破片を片付け始めた。
朝起きて、昨夜の地震を思い出しながら考えたことが一つある。このような「地震大国で原子力発電所を再稼働させるのは狂気の沙汰だ」ということである。地震の恐怖を体験した人ならば、決して再稼働に「ゴーサイン」は出せないはずで、こうした決断は理性によるものではない。本能的な直感によるものだ。
しかし、地震を体験していないドイツでは、理性的な判断で原子力発電所の廃炉を決めてしまった。豊かな想像力を働かせて、倫理観に照らし合わせて、廃炉の道を選択でたいのだ。翻って日本は、身近に原子力発電所の事故を目撃していながら、部分的にせよ再稼働に「ゴーサイン」を出して、今でも現役で稼働している。「想像力が欠如」して「倫理観が貧弱」であるとしか言いようがない。世界の未来のため、どうか廃炉の道を選んでほしい。
2022年3月16日水曜日
元始、女性は太陽であった
いろんな本を読んでいると、いろんな発見がある。それがまた、読書の楽しみの一つになっている。今日の発見の一つは、言葉そのものに男女差別の名残が残っている、というものだ。英語では、man=男で、woman=女で何の疑いも持たなかった。しかし、man=(男or人間)で、woman=女だった。辞書にもそう書かれており、All men are born equal(人は全て生まれながにして平等である)という例文もあった。このことについて、
womanは「女」しか意味せず、「人間」を意味しないことはきわめて重要です。というのは、「女」は人間ではないことを意味しているからです。(『憲法を考える』、星野安三郎著、ポプラ社、1972年、p91)
と解説があった。 日本語の場合は、そうした例がたくさんある。主人、や婦人がその典型である。「『婦 』という字は、女プラス箒、という会意文字であり、掃除婦のことを意味し」、要するに、「女は男の所有物、従属物、奴隷だということ」(上同、p100)だという。
しかし、女性は、新しい生命をみごもり、生命を生みそだてる。このように「男にはできないことを女はもつもので、たいせつにされ、尊重されねばならないと思うのに、母系性社会をのぞいて、人類の歴史は、女性を差別し、従属させてきた歴史であり、それは現在もつづいている」(上同 、p102)といい、男の節句が国民の祝日であるにも関わらず、女の節句は国民の祝日になっていないことを例に示していた。目から鱗とはこのことかもしれない。 改めて「元始、女性は太陽であった」。女性解放運動の先駆者として知られる作家、平塚らいてうさんの言葉を噛みしめたいものである。
もう一つの発見は、『市川房枝集1〜6巻・別巻』が出版されていることを知ったことである。『憲法を考える』は、「ポプラ・ブックス」の一冊で、巻末に五十三冊の「ポプラ・ブックス」の紹介もあった。その中に『私の言いたいこと』という市川房枝さん(日本の婦人参政権運動を主導した婦人運動家、政治家)の本も入っていて、彼女の著書を調べて『市川房枝集』を発見したのだ。どんなことが書かれているのか、今から楽しみである。
2022年3月15日火曜日
原発も攻撃されれば「核兵器」
『アエラ』には、もっと恐ろしいことが書かれていた。このような現実を目の当たりにすると、「世界の平和を願った日本国憲法」の真価を「世界の果て」まで知らしめることの重要性を痛感する。改憲など、とんでもない愚行であることを思い知るべきなのだ。
テロや軍事攻撃の標的になる核施設は、原発だけではない。東京駅から約110キロの茨城県東海村に日本原子力研究開発機構の東海再処理施設がある。ここに、使用済み核燃料を処理した残留物である高レベル放射性廃液が336立方メートル貯蔵されている。含まれる放射性物質の量は、東電の事故で大気中に放出された量より多い。この廃液も、常時冷却しておかなければならない。停電すれば約3日で沸騰し、放射性物質が放出される恐れがある。多重化された安全装置を備えているが、兵器による破壊に耐えられるかどうかは不明だ。東芝の元原子力プラント設計技術者の後藤政志さんは言う。「原発は攻撃してくる相手に核兵器を与えるようなもの。それどころか、核兵器より、放出する放射性物質の量が桁違いに多く、被害は広範囲、長期間続く場合がある」(『アエラ』、2022年3月21日号、p63、強調は筆者による)
2022年3月14日月曜日
世界の平和を願った日本国憲法
日本人は自然に対する感性が豊かだと言われている。日本列島の地形そのものが、降雨量も多くて自然が豊かであったことと、豊かな自然を表現できる「漢字とひらがな混じりの日本語」が誕生したことが関係しているのではないかと思っている。そう思うようになったのは、 『やさしい「唯脳論」』(養老孟司・楳図かずお著、メディアファクトリー、1996年)で、解剖学者の養老孟司さんが言っていたことだが、日本語だけで反応する脳の分野があるということを知ったからだ。同じ漢字でも、音訓で読み方が違うのが影響しているらしい。日本語は、多くの脳を活用できるので、それだけ豊かな表現が可能なのかもしれないし、和歌や俳句を創作できたのも、日本語あってのことなのかもしれない。だから、次のような日本に対する評価も生まれる。
日本人のように桜を見て喜ぶ、紅葉を見て喜ぶ、雪を見て喜ぶというように自然を愛でる国民はあまりません。そんな感受性を持つ民族は世界でも案外少ない。日本人は自然とよく対話をします。俳句の季語がたくさんあって、自然を語る美しい日本語もたくさんあります。その意味ではすごい国です。それで自然環境のことも考えている。(『歩きながら考えよう 建築も、人生も』、安藤忠雄著、PHP研究所 2010年、p92)
続いて安藤さんは、「その昔、日本民族のレベルの高さを称賛したフランス人」の詩人・ポール・クローデルさんを紹介し、「日本人は、もっと自分の民族に対する誇りを持ってもいいと思いますね」と書いている。そうかもしれないと思うと同時に、今まさに地球上で戦争が戦われているからこそ、世界の平和を願った日本国憲法の先見性、先進性についての理解を深め、「憲法の観点からの日本人の誇り」というものにも光を当てていきたい。そう痛感した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。(「日本国憲法前文」より)
2022年3月13日日曜日
侵略行為を許してしまった
立花隆さんによれば「世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能」だという。もし、世界の変革が不十分で、そのため戦争になってしまった、という解釈に立てば、世界の解釈、世界に対する認識が不十分だった、それゆえに、望む変革を成し遂げることができず、絶えず防戦であった。だから、戦争を許してしまった。世界に対する認識が正確でなかったから、戦争を許してしまったと考えることもできるのだ。このような反省もあっていいのではないだろうか。立花さんの文章を読んで考えたことである。
哲学者は世界をただいろいろに解釈しただけだ。しかし、だいじなことは、それを変革することだ」というんです。これと似てるでしょう。ぼくらが大学に入ったころ、学生運動をやっている連中は、何かというとこのテーゼを引用して、学生をデモに引っぱり出そうとしたものです。ぼくにいわせると、世界を解釈することも世界を変革するのと同様に大切です。世界の観照、世界の解釈がまず正しくなされないことには、世界の変革は不可能です。それなしの変革は、盲目的になり、エントロピー増大の方向に向かうだけです。それは進化ではなく、退化です。(『サピエンスの未来 伝説の東大講義』、立花隆著、講談社現代新書、講談社、p396)
2022年3月12日土曜日
心の扉が一つ開いた
何時ごろからか、新聞の連載小説が「新聞を読む楽しみ」の一つになっている。今朝日新聞で連載されているのは、多和田葉子さんによる「白鶴亮翅(はっかくしょうし)」である。「白鶴亮翅」というのは、太極拳の動作の一つのようだが、どうしてそうした小説の題名なのかは、今の所謎である。この小説で、続けて私の心のアンテナにとらえれれた言葉がある。「脳味噌の中にもドイツと南米をつなぐ航路はまだ開拓されていなかった」と「わたしの心の扉が一つ開いた」だ。
ドイツ文学入門のゼミならばゲーテとかカフカとかを読みたいのに、このゼミで扱われる作家たちの名前には聞いたことがないものが多く、わたしの脳味噌(のうみそ)の中にもドイツと南米をつなぐ航路はまだ開拓されていなかった。2022年3月11日
このゼミに参加したことでわたしの心の扉が一つ開いた。教授の「大学というのは冒険するところです。目的地が存在するのかさえ不明のまま航海に出ることです」という言葉を耳にした時には、なるほどそれならドイツの船に乗り込んで、行くつもりもなかった南米に出かけるのも一種の幸福なのだと納得した。2022年3月12日
なぜ、これらの言葉が気になったのか、なんとなくはわかっても、ぼんやりとしてその対象の姿がはっきりしない。それで、こうして書いてみた。そして、次第にはっきりしてきたのが、サルバドール・ダリの作品に見られる「心の引き出し」への「航路の開拓」であり、心の扉ではなかったか、と思えてきた。そして、新しいことにチャレンジするたびに、新しい航路が開拓され、引き出しが造られていく、と。
最近は和辻哲郎さんの著書を読むようにしているが、カントの『実践理性批判』『道徳形而上学の基礎づけ』(和辻哲郎全集・9)を彼の視点で書いていることを知った。彼の倫理学に興味があるので、その前提として、これらを読んでみたいという気持ちが芽生えてきている。これこそ、わたしの「カントの世界への心の扉が一つ開いた」状態ではないだろうか。
|
「引き出しのあるミロのヴィーナス」 |
2022年3月11日金曜日
『力には力』という中世的価値への逆行
相変わらず、ウクライナ情勢は見通せない状態が続いている。こんな情勢の中、米国の核を国内配備して共同運用しよう、などと、とんでもない馬鹿げたことを言い出した御仁がいる。「しかしいま私たちが目撃しているのは、むしろ「核抑止」なる幻想の根本的な危うさではないか」。「核の脅しさえ躊躇わない大統領は果たして正気か。核のボタンに手をかける恐れはないか。少なくとも私は嫌な予感が拭えない」(青木理著、『サンデー毎日』2022年3月20日、p40)
このような情勢の中、何が求められているか、青木理氏の説を編集し、四つにまとめてみた。
2、「核抑止力」の強化などではなく、核という絶対悪を放逐する努力に向けた心ある国々の結集。
3、「敵基地攻撃」などではなく、むしろ私たちが真摯に取り組むべきは東アジア地域にどう平和と安定を構築するか、の検討。
4、価値観を共有する隣国との関係を改善し、多元的で多角的な安全保障体制を作りあげる努力。
以上のことを一言で言えば、「『力には力』という中世的価値への逆行」(上同)を許さず、憲法9条の精神を実行しようということになるであろう。
2022年3月10日木曜日
芸術鑑賞の見本『古寺巡礼』
名文と思えた文章、芸術鑑賞の一つの見本と思えた文章に出会えた。『古寺巡礼 ワイド版岩波文庫』(和辻哲郎著、岩波書店)からの文章で、アジャンター壁画の模写した絵から受けた印象を綴ったものである。
最も忘られないものの一つは、あの一種独特な色調である。色の明るさや濃淡の工合が我々の見なれているものとはひどく違う。恐らくそこに熱国の風物の反映があるのであろう。気温が高くて、しかも極度に乾燥した透明な空気、湿いのない鮮明な色、――それがあの色調を造り出したに相違ない。あれは濡れた感じのまるでない色調である。(p 15〜16)
まず、色調の感想だけでも、このような文章で綴り、さらに詳細な感想を綴っていく。
アジャンター壁画の模写はもう一つ興味のある問題を提出した。あのような画がどうして宗教画として必要であったのであろうか。文芸復興期の宗教画はキリスト教の内部に古代の芸術が復活したものとして説くこともできるし、中世に反抗する人間性の解放として説くこともできるが、アジャンター壁画はどう説明していいであろうか。ことに問題となるのは天人や菩薩として現わされた女の顔や体の描き方、あるいは恋愛の場面などに描かれた蠱惑(こわく)的な女の描き方である。文芸復興期のマドンナは豊かな肉体と優美な顔とをもって描かれているが、しかしそこには、美の権化としてのアフロディテの表現の上に、さらに永遠の処女としての侵し難い清らかさ、救世主の母としての無限の慈愛を現わそうとする努力があり、またあるものはそれを現わし得ている。しかしアジャンター壁画の菩薩には、この清らかさや慈愛を現わそうとする努力がない。また女体に現われた若々しい生の緊張や豊かな生の充溢に注目して、それを――アフロディテの彫刻におけるごとく――理想の姿に描き上げようとする心持ちも認められない。むしろ男性に対して存在する女性を、誘惑の原理としての女性を、――ただそれだけを女体に認める人が、自分の美しいと感ずる部分を強調して描き出したように思われる。(p 19)
下線を引きながら読んでいくと、美術史の素養と語彙の豊かさがあって、これだけの文章になっていることがよくわかる。同時に、感想は、文章にして初めて、しっかりと脳裏に刻まれるのかもしれない、と思えた。これから、どのような作品が紹介されるのか楽しみになってきた。
2022年3月9日水曜日
こんな時だからこそ、9条
日本国憲法の三原則と言えば、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つである。これと同じか、似たものとして、 「新憲法誕生の産婆役として百余日不眠の努力を続けた傾けた」という金森徳次郎氏は、憲法の支えている三つの根本思想を次のように述べている。
憲法着想の根本として、一は平和の提唱ということであり、一は民主政治の徹底ということであり、他の一は国民の人間性の尊重ということである。 この三つの考え方が前文と本文とに種々の角度からもりこまれてある。(『憲法を愛していますか』、金森徳次郎著、農山漁村文化協会、1997年、p23)このところを読んで、日本国憲法は建築物のような構造体を成しているように感じた。しっかりとした土台の上にバランス良い柱もある構造体である。それゆえに、枝葉末節の修正は可能でも、土台や柱に相当する部分を変えようとすると、途端にバランスを崩してしまうような構造体である。実は、これまでの改憲勢力がやろうとしていることは、憲法の柱に相当する平和主義を変えようとしているのだ。
新型コロナ禍が治まらぬうちに、身近な国ソ連が侵略戦争を始めてしまった。あるいは、これを機会に憲法9条の批判が強くなってくるかもしれない。現実的な脅威を身近に感じてきているからだ。しかし、ここで学んでほしいことは、どんな理由があろうとも、軍事的な実力行使は悪なのだ。現実にことが起きてしまったら、とんでもない損失を、人的にも、物的にも被ってしまうことである。だからこそ、どうすれば世界の国々の間で軍事的な衝突を避けることができるか、を解明して、その実現に力を合わせていくことであろう。憲法9条改憲など、とんでもない暴挙なのであって、こんな時だからこそ、9条が光り輝くのだ。
とりあえず今考えられることは、グローバル化はますます発展してきているのだから、平和共存の実例を広げていけばいい。そして、「文化力、科学力で尊敬される日本に」や「あくまで頑張る軍隊は全滅する」でも書いたように、世界から尊敬される日本を目指すことである。
これからの日本の進むべき道は明らかです。いかに戦争を避けていくか。日本は資源もないし、武力もない、文明力もないし、財力もないわけだから、これから生きていくためには”外交力”が大切です。外交力で戦争しないでいくこと。それにはまず尊敬されていなければいけないでしょう。(美輪明宏著「 文化を回復して尊敬される日本に」『中央公論』1915年9月号、p107)
2022年3月8日火曜日
認識のフレームワークが変ること
いろんな本を読んでいると、よく「お!こんな考えがあった」という発見がある。それが、読書の一つの楽しみでもある。今回の発見は立花隆さんの文章で、この文章に出会い、歴史の見方が変わった気がする。そして、こうした視点に立って「世界の歴史を見直してみたい」とまで考えてしまった。
みんな歴史というと、すぐに政治史や経済史を考えてしまいますが、ぼくは何より大事な歴史は、知の歴史だと思っています。人間の知というのは、歴史的に驚くほどダイナミックな変貌をとげてきました。そしてその変貌が、何よりも大きくその時代を規定してきました。知が変貌するというととは、人間の認識のフレームワークが変るということです。認識のフレームワークが変れば、あらゆるものがそれまでとはちがって見えてくる。そして、そこが変れば、その影響は社会のあらゆる様相に及びます。政治も、経済も、社会も、文化も、みんな変らざるをえない。 (『東大講義人間の現在 1』、立花隆著新潮社、2000年、p 51)
改めて考えたことは、「知の歴史」と言っても、「哲学史」や「美術史」「科学史」と広い範疇があって、その上、それらが連動しているかどうかさえわからない。とは言え、美術史や科学史は大まかな歴史の流れを押さえることが可能かもしれない。
それだけでない。「知の歴史」の重要性を理解していれば、わざわざ「知の歴史」の勉強をしている時でなくても、「お!これが認識のフレームワークが変るということか」と言った発見につながる。それだけ読書の幅が広がるというものである。「知の歴史」に関する読書が楽しみになってきた。
2022年3月7日月曜日
小さな一歩から道は開ける
人間の歴史を学ぶのは、過去の教訓を現在に生かせるから、過去は大事だ。とは言え、人間が夢を見ることをやめてしまったらどうだろう。きっと、人間の進歩は止まってしまうに違いない。人間は、空を飛ぶ夢を見たから飛行機が発明されたし、芸術家は、自らの納得できる表現を夢見ることによって多くの優れた作品を創造している。こうして夢を追って生きることは未来に生きることでもある。このように考えてくると、未来の方が重要な気がしてくる。
しかし、よくよく考えると、心はいつも未来にあり、時折過去にさかのぼって現在や未来に生かすのがよさそうだ。 重要なのは、「これからどうするか」「これから先をいかに充実させるか」なのだ。このことが、『切れ味のいい頭に面白いほど変わる本』(さとう秀徳著、中経出版)に次のように書かれていた。
業務日誌をつける人は多い。多くはその日実施したことを書いている。いわば過去帳である。しかし、重要なのは明日のことやこれから先のことである。(『切れ味のいい頭に面白いほど変わる本』、P243)
2022年3月6日日曜日
光り輝く日本国憲法前文
高橋さんは、SNSの真価を知り尽くし、活用して、国連で仕事をしているようで心強い限りだ。最後にこれからの指針を「圧倒的な暴力を前に、自分に何ができるのか悩むこともある。それでも、ずっと向き合って考えていきたい」と話しているが、その心構えが素晴らしい。
暴力をめぐる問題を解決することは途方もなく難しい。資源をめぐる争い、女性への暴力、テロリズム……、さまざまなかたちの暴力があり、異なる恐怖のかたちがあることを現場で感じてきた。「圧倒的な暴力を前に、自分に何ができるのか悩むこともある。それでも、ずっと向き合って考えていきたい。必ずどこかに解決手段はある。それを探し続けていきます」(p 19)
と、こうして書いていても、ウクライナでの戦況が気になる。ある日突然殺されてしまった人たち、わずかな手荷物を抱え、難民として国境を越えざるを得なかった百数十万という人たちの無念さを思うと、日本国憲法前文の一節「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」を思い出す。こういう時だからこそ、この一節が光り輝くのがわかる。そして、70年も前に、こうしたやさしい一節を盛り込んだ日本国憲法の先見性に感心すると同時に、このような素晴らしい憲法の改悪を許さず、後世にバトンタッチしていきたいと痛感する。
2022年3月5日土曜日
机や床のゼロ化作戦
昼食前に、散歩を兼ねて図書館に行って「日本経済新聞」(2022年3月5日 )を手に取ってみたら、丁度片付けの特集記事があった。そして、机の上に置く物をパソコンのモニターなど最低限に抑え、ゼロ化することを勧めていた。「机や床をゼロ化すると、掃除のハードルも大きく下がる」と。それができれば、「『無』の思想が自宅で再現できる」というのだ。なるほど。難しそうな「善」よりは、ハードルが低いかもしれない。
もう一つ、「片付ける行為は副交感神経を刺激する効果がある」という言葉があった。逆を言えば、乱雑にしておけば交感神経を刺激し、ストレスの元になるかもしれない。その上、「先延ばしは自尊心を傷つけ、想像のエネルギーを奪う」(リンダ・サバディン)という耳の痛い言葉もあって、「机や床のゼロ化作戦」実行の意欲に油を注いでくれた。
2022年3月4日金曜日
最悪の結末を迎えかねない不安
現在の世界中の関心事はロシアにおける侵略戦争であろう。そうであったとしても、なぜ、「ソ連軍によるウクライナ侵攻」と表現し、「侵略戦争」と表現しないのだろうか。それにしても、「戦争はやめて!」という声が世界中に広がってきているのは心強いことである。そうは言っても、戦火の広がりがいつ止むのかが心配だ。なんと言っても、原子力発電所があるからだ。そう考えるのは誰もが同じのようで、原発付近でのロシアの軍事行動が気になるところである。最新ニュース「米エネルギー省、原子力事故対応チームを始動」が入ってきた。
ウクライナ南東部のザポロジエ原発での出火を受け、米エネルギー省は3日、原子力事故対応チームを始動させた。現地情勢のモニターを続けており、原発付近における放射線量の上昇は確認できていないとう。
同省のグランホルム長官はウクライナのエネルギー相と協議。「原発付近でのロシアの軍事行動は無謀であり、やめるべきだ」と訴えた。また「原子炉は堅牢な格納容器に守られ、原子炉は安全に停止している」との見解を示した。(朝日新聞デジタル、2022年3月4日)
2022年3月3日木曜日
ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ!」
初めに、ニーチェ思想の核心がわかりやすく書かれていたのに驚いた。こんな具合だ。
「ニーチェが書いたことで一番、大切なことは、私たちひとりひとりの人間の人生は、自分の生活を楽しんで、喜んで、ときに歌って踊って、おいしいものを食べて、男女が愛し合って、人それぞれの快楽を追求するためにこそある」(p 22)。
「ニーチェこそは、『奴隷をやめて、強い人間(超人になれ』と言った思想家だ」(p 23)
こんなに簡単に言ってしまっていいのだろうか、と思うくらいである。しかし、在日米軍の存在に何も言えないだけでなく、在日米軍の存在をありがたがる人の存在まで考えると、心底「奴隷をやめて!」と叫びたくなってくる。平和な世界創造のためにも、今こそニーチェの思想が求められているのかもしれない。
2022年3月2日水曜日
安保条約は諸悪の根源・2
日本が経済大国となっても、日米安保条約のもとで、相対的に小さな軍事力しかもたず、自衛隊を海外派遣しないという政策をとり得たのは、中国をはじめとするアジア諸国の大半がそうした政策を支持してきたからであった。思惑はそれぞれ異なっていたものの、アジアの諸国は日本の防衛費の増加に対して常に敏感であった。
その意味では、日米安保条約は対日警戒心を和らげる役割を明らかに果たしてきたし、今後もその基調は変わらないであろう。中国の軍事大国化は、他のアジア諸国にとって、米軍のプレゼンスの意義を改めて確認させ、その観点から、日米安保条約の役割は見直されていると言ってもよい。(『日米安保とは何か その成立から新ガイドラインまで』、草野厚著、PHP研究所、1999年、p 165〜166)
2022年3月1日火曜日
軍備は結局戦争を呼び込む
文は人なり、という言葉があるように、淡々とした味のない文もあれば、格調高い文もある。この度、その格調高い文章に出合った。1949年に書かれた「平和宣言」という 小論の中の一節で、日本が進むべき道を人類史の中に位置づけた次のような文である。
敗戦後の日本の進むべき道は、新憲法の根本精神たる平和と自由の道より外にはない。新憲法の内容については、法文としての不完全や、西洋直訳的なところがあり、欠点はいくらでも指摘できるであろうが、しかし断固たる平和の宣言と徹底した自由の力說とは、何人も何国人もけちをつけることのできぬものであり、ここに新憲法の奪ふべからざる精神の存することは明かであって、よし今後章の部分的訂正が行はれるとしても、この精神を少しでも沒却(もっきゃく)するようなことがあっては、日本の前途はおぼつかなく、この精神に反対するような政治や政党や運動は断じて排斥されなければならない。
平和と自由とを宣言する憲法が、よし敗戦を機線として成立したとしても、我々がこの憲法の精神を育成し発展させたいと願ふのは、それが実に人類の理想であり、歴史の進歩の標的であるからである。敗戦は屈辱であり禍害であつても、この理想を追求しこの進歩に隨順することは光栄であ り、幸福である。もし人があって、敗戦後に於ける日本国民の道徳的立びに政治的目標はと問うならば、私は躊躇することなく平和と自由との二語を掲げよう。(「平和宣言」『平和への念願』、安倍能成著、岩波書店、1951年、p12〜13、なお、原文には改行はない)