2021年4月30日金曜日

半藤一利の歴史観

 保阪正康さんが、半藤一利の歴史観の特徴三つを紹介していた。その中でも、平和に生きる権利を政治は保障すべき、という考えが根底にあって、半藤さんの歴史観、そして思想を支えていた。彼の戦争体験がこうした思想を生み、さらに、戦争体験と、こうした思想が、反戦思想へと繋がっていくのであろう。
①ヒューマニズム
 半藤さんの歴史を見る目は、人間が平和な時代に生まれ、そして人生を過ごし、安らかに死んでいくといった人生のサイクルを政治は保障すぺきだ、というのが考え方の根幹にあった。
②インテリジェンス
 インテリジェンスの意味は、高踏的というのではない。歴史を俯轍する時には、知的な営為という姿勢がなければ、本質がわからないという意味になるのだが、この姿勢を失っている歴史観は、歴史を欲求不満のはけ口に使っているということになる。
③ポピュリズム
 あえてポピュリズムを挙げるのは、半藤さんは、誰にでもわかるように書かなければ意味はないと考えていたからだ。ポピュリズムといっても大衆迎合とか大衆煽動との意味ではまったくなく、誰にでもわかる言葉で、誰もが理解できる内容を、そして読み終わった後に何がしかの糧を得てくれるのであれば、という庶民目線の精神である。下町育ちの半藤さんの江戸っ子口調が文章にも時に顔を出すのだ。(保阪正康『サンデー毎日』、2021年1月24日号、要約)
  ②インテリジェンスで重要だと思うのが、歴史を俯轍する目を持つことである。半藤一利著『漱石先生お久しぶりです』で、歴史を「百年単位で考える」ことの重要性を指摘していたからだ。「目先のことばかりにとらわれずに、長いレンジで物事を見る」ことが重要だ、と。
 もともと日本には、「百花繚乱」「百味百珍」「百鬼夜行」といった百を使った熟語があっても、ここでの百は、数字の100ではなく、沢山という意味だった。百年を一世紀として考えるようになったのは、西洋文化は入ってきてから。だから、長いレンジで物事を考えるのが苦手なのかもしれない。そんなことが書かれていた。

 辺野古の米軍基地建設問題を考えるときは、特にこの百年単位で考えることが重要だ。百年後も軍用機の騒音で苦しまなければならない人たちがいるというようなことは、何としても避けなければならない。基地の縮小こそが歴史の進歩であり、間違っても基地の拡大は阻止しなkれればならないのだ。

2021年4月29日木曜日

言葉の軽視は社会そのものを破壊する

 ありのままの自然を意味するピュシスというギリシャ語と、その対義語、ロゴスを知った。そのロゴスは、「言葉、論理、あるいは人間を人間たらしめた思考そのもののこと」を意味するという。だから、
 星をつないで星座を作るのはロゴスの作用です。世界を構造化する力です。人間はロゴスによって社会、都市、文明を作りました。ロゴスの力で世界のすべてを制御下におきたいと希求する一方、人間は、本来的なピュシス、つまり、生、性、病、死の恣意(しい)性から逃れることはできません。(「福岡伸一のドリトル的平衡」『朝日新聞』、2021年4月29日)
 という。福岡さんのコラムを読んで、特に、「言葉や論理」が人間社会にとっていかに大切な存在であるかを思い知らされた。そして逆に、平気で嘘を重ねたり、質問をはぐらかしたり、実態にそぐわない言葉を使い続けたり、と言葉を軽視する現政権は、文明に逆行し、社会そのものを破壊する政権でもあることを痛感した。
 よく、法治国家と言われるが、法治国家は、ある意味で言葉や論理によって成立している。言葉や論理は、まさに社会の土台であり、基礎である。その言葉や論理を軽視して、どうして健全な社会を築くことができようか。

2021年4月28日水曜日

もう軍備はいらない(坂口安吾)

 坂口安吾の著作に『もう軍備はいらない』がある。読み直してみたが、本質をついていて読み甲斐がある。その中でも、「国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印(気狂い)がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限る」という部分に拍手を送りたい。軍備がいらない国づくりのためには、責められない国作りが大切だと思ってきたからだ。
 また、次のようにも書いている。

 人を殺すのが戦争じゃないか。戦争とは人を殺すことなんだ。
 こんな戦争をさせるヤツは何ヤツなのだろう?
 冷い戦争という地球をおおう妖雲をとりのぞけば、軍備を背負った日本の姿は殺人強盗的であろう。
 このところを読んで、「もう軍備はいらない」ということは、日本は、「もう人殺しはしない」ということなんだ、と改めて思った。そして、次のような言葉も、よく噛み締め、よく味わいたい。

人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっている。

戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない。

2021年4月27日火曜日

世界の軍事費がコロナ禍でも最多!!

  今朝の注目記事は、何と言っても、世界の軍事費がコロナ禍でも最多の約2兆ドル(約213兆円)だったという記事である。本来なら、一面トップで報道されるべき内容だと思うのだが、9面の下方にあった。

 2020年の世界の軍事支出の推計額が前年比2・6%増の1兆9810億ドル(約213兆円)に達したと、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が26日、発表した。新型コロナウイルスで世界経済が打撃を受けたが、統計を始めた1988年以降で最高となった。米国と中国で世界の半分を占めており、米中の軍拡競争の影響も出ている。(朝日新聞、2021年4月27日)

 2020年の世界の軍事費上位10カ国の軍事費も紹介されていたので、グラフにしてみた。なお、パーセントは、10カ国合計中のもので、世界の軍事費に占める割合は、「トップの米国は前年比4・4%増の7780億ドルで世界の39%、2位の中国は同1・9%増の2520億ドルで約13%を占めたと推計される」という。それにしても、多すぎる。

2021年4月26日月曜日

野党共闘の快挙で鬱憤が晴れた

 この度の野党共闘の快挙は久しぶりの明るいニュースである。朝日新聞は社説で <有権者の判断材料は「政治とカネ」の問題に限るまい。3度目の緊急事態宣言に追い込まれたコロナ対策をはじめ、これまでの政権運営に対する総合評価の表れとみるべきだ>と書いているが、全くその通りで、おかげで鬱憤が少し晴れた。
 しかし、立憲民主党の評価はいただけない。保守地盤の厚い広島で競り勝てれば、「立憲が政権批判の受け皿となることを証明できる」というが、証明できるのは、「野党共闘が政権批判の受け皿となること」である。立憲民主党は、何か勘違いしているようだ。

(朝日新聞、2021年4月26日)


2021年4月25日日曜日

あの人に会いたい「半藤一利(作家)」

 NHK映像ファイル『あの人に会いたい「半藤一利(作家)」』(2021年4月24日放送)を見た。いざ、戦争になったら、「この国は守れないのだ」という認識の重要性は説得力があった。かつての大戦の時とは、装備の点、国内環境(原発に囲まれた)等々、雲泥の差がある。だから、いくら強大な軍備を持っていても、この国は守れない。ではどうすればいいのか?
 外交力や文化力をを発揮して、何としても「戦争に持って行かないように」努力を重ねるしかない。真のリアリズムというものを追求していきたいものである。そして、半藤さんの意志を引き継いでいきたい、と思いを新たにすることができた。
















2021年4月24日土曜日

北斎「凱風快晴」新解釈

 引き続き、NHK番組<歴史探偵 「葛飾北斎 天才絵師の秘密」、2021421日放送>の話だが、この放送で、通称「赤富士」の新解釈を知った。
 これまでの解釈は、「ごくわずかな色数と簡素な構図のうちに、自然の一瞬の表情を余すところなく表現された北斎風景画の傑作の一つである」(『ポーランドクラクフ国立博物館・浮世絵名品展』、永田生慈監修)とか、「陽を浴びて富士の山腹が赤く染まる一瞬を描いたもの」(『永田生慈北斎コレクション100選』)と、時間的には「一瞬を描いたもの」というのが主流だった。しかしこの番組では、富士に降り注ぐ朝日の「刻々と移りゆく様」を描いたというのだ。北斎の『神奈川沖浪裏』と同様、時間も浮世絵の対象になっていて興味深かった。




 


2021年4月23日金曜日

北斎『神奈川沖浪裏』の魅力

 NHK番組<歴史探偵 「葛飾北斎 天才絵師の秘密」、2021年4月21日放送>を見た。そして、有名な北斎の絵『神奈川沖浪裏』は、実はアニメーション的な時間の推移を描いたものではないか、という仮説的解説があって驚いた。番組では、科学者の協力を得て絵に描かれた波を再現したのだが、模型の船を浮かべた実験で、その仮説が発見されたようである。
 しかし、「この有名な浮世絵は、神奈川県沖で3隻の船に押し寄せる巨大な波が描かれています」(「“巨大波”の謎解明近づく ― 偶然再現できた北斎『神奈川沖浪裏』がヒント」より)という説が一般的なようだ。それでも、アニメーション説の方が、時間というものも描いているという意味で夢があり、説得力がある。そう思う。『神奈川沖浪裏』の魅力を再発見した思いである。

『神奈川沖浪裏』


実験で再現された波

模型の船を浮かべた実験



2021年4月22日木曜日

菅政権の専門家軽視は問題だ

 今朝の朝日新聞記事<「専門家軽視、コロナ対策と同じ」 学術会議、任命拒否された松宮教授>は、今日の混迷した社会の問題点をわかりやすく示してくれていた。こらまでも、有識者会議等で諮問する機会は多々あった。これからも、あるだろう。しかし、専門家を軽視していては、諮問自体が単なるパホーマンスでしかないということになる。それでは、専門家に失礼だし、何よりも国民軽視になる。学術会議の任命拒否問題は、根が深い、重要な問題を含んでいる。いろんな角度から、これからも追求していく必要がある。そう感じた。

 「政府がコロナ対策で後手に回っていることと、日本学術会議の任命拒否問題は、実は同じ問題だ」。菅義偉首相に任命を拒まれた6人の学者の一人、立命館大学大学院の松宮孝明教授(刑事法学)はそう話す。
 通底するのは「専門家軽視の姿勢」だという。象徴的なのが観光支援策「Go To トラベル」をめぐる対応だ。感染症の専門家らでつくる政府の分科会が昨年11月から再三見直しを提言したが、首相が全国一斉停止を表明したのは12月中旬だった。
 「菅政権は専門家の意見を正面から聞かない。きちんと聞いて考えて、有効な政策を打てていたら、状況は違ったはずだ」。新型コロナの感染拡大が続くなか、五輪の開催に固執し、「耳の痛い話は聞く気がないのだろう」と感じる。
 こうした姿勢はコロナ対策にとどまらないと、松宮教授は言う。今国会で審議中の少年法改正案は、18、19歳の厳罰化を進めて成人の扱いに近づける内容だ。更生を重視してきた現行法からの大きな転換になるため、刑法学者や弁護士に反対の声がある。だが、菅政権が耳を傾ける様子はない、と指摘する。(「『朝日新聞』、2021年4月22日」より)

2021年4月21日水曜日

「個」を大切にした共存(共闘)へ

 <「個」を大切にした共存へ>という投書を読んだ時、立憲民主党衆議院議員・小川淳也さんの発言「共闘で大事なのは、お互いへのリスペクト」を思い出した。<「個々の組織」を大切にした共存(共闘)へ>と言い替えても立派に通用すると思ったからである。
 小川淳也さんは、「お互いの違いを認め合い、お互いをリスペクト(敬意を持つ)する」と書いているが、<「個の尊厳」を認め合ってこその共存>であるように、「個々(組織)の尊厳」を認め合うからこそ、お互いをリスペクト(敬意を持つ)できる。そこに、真の野党共闘の発展がある。ぜひ、更なる発展を期待したい。


(「『赤旗日曜版』2021年4月11日号」より)

2021年4月20日火曜日

抑止力信仰は地球資源の最大浪費

 朝日新聞で、『福岡伸一の新・ドリトル先生物語』が連載されている。そこで、産業革命の話が出てきた。産業革命で生産性が上がれば、どんどん商品を作ることができる。そこまでは良い。問題は、原料も燃料も有限であることと、作った商品は売りさばく必要がることである。
 その辺りを読んだ時、平和の問題、戦争をなくすという課題は、地球資源の浪費を防ぐ課題でもあることに気がついた。世界中で膨大な軍事費が使われているということは、それだけ、地球資源を浪費していることでもあるからだ。
 実際の戦闘はもちろんのこと、軍事物資の生産でも、演習という名目でも、膨大な地球資源の浪費が続けられている。軍事基地の建設などは最たる浪費対象であろう。
 今度の日米共同宣言では、中国を念頭に、相手を刺激するような発言をしているが、膨大な軍事力を背景にした発言だけに、軍事力の正当性が声高になることが心配だ。軍事力(抑止力)に頼ることは、地球環境の観点からも問題であることを再考すべきである。

2021年4月19日月曜日

結局、東山魁夷が好きなのだ

風景は人間の心の祈りである」で、作者の解説文によって絵の素晴らしさが引き立つことを書いた。初期に描いた東山魁夷の風景も、なんとも味わい深いものがある。それも、東山魁夷の文章を読んだからのような気がする。それとも、単なる郷愁を感じるだけなのだろうか。
 前の文章と同様、今回紹介した文章も、どちらかといえば、「好きな文章」である。特に、「一つ一つ骨折って積み上げてゆく意志的な努力」とか、「厳しい冬が長い山国、それにしっかりと耐えている人や樹木」といった言葉が好きだ。どうして?と考えてみた。そしてわかった。この文章には、東山魁夷が描かれているからで、つまり、結局「私は東山魁夷が好きなのだ」ということに気がついた。

(『東山魁夷画文集・1』より)
 私が絵に志してスタートしたその頃の緊張した気持、一つ一つ骨折って積み上げてゆく意志的な努力といったもの、その象徴が山国の姿であったのです。厳しい冬が長い山国、それにしっかりと耐えている人や樹木、その内奥に豊富なものを深くたたえながら、なんと山々は孤独であることか。
 少年時代に接していた神戸をめぐる自然は親しみ易く、明るく、楽しいものでありましたが、甲信の山々に感じる荘厳なもの、深いものは無かったことを痛切に感じたのです。これは少年を過ぎて今になったばかりの私には一つの人生の開眼であり、自然の発見であったわけです。私はとりつかれたように、ハヶ岳、上高地と山々を旅し、それを描きました。(『東山魁夷画文集・1』より)

2021年4月18日日曜日

一人で最期も悪くない

 文藝春秋で、有働由美子さんの対談記事が連載されているが、5月号の対談相手は上野千鶴子さんだった。最近出版された『在宅ひとり死のススメ』(上野千鶴子著、文春新書、文藝春秋、2021年)が人気のようで、図書館でも、十六人待ちだった。
 当然、「在宅ひとり死」というのも話題になっていて、これまでの「孤独死」という暗い、不安を醸し出すような言葉を「在宅ひとり死」という言葉にしてくれ、それだけでも、一人で最期を迎えるのも悪くない、と新たな選択肢を示してくれた意義は大きいと思った。
先ずは、予約がなかった『おひとりさまの老後』(上野千鶴子著、法研、2007年)という本を読んでみることにした。
 もう一つ、目を開かされた言葉があった。「社会変革というのは、本音の変化じゃなくて、建前の変化なんです」という上野千鶴子さんの言葉だ。続いて言う。

 例えば、身分制社会では忠義とか義とかがあって、主君のために腹を切るのが、その時代の建前です。その時代だって建前通りに動く人間は少数派です。多くの人は肚の中はずるかったり逃げようとしたりします。その忠や孝が、国家に対する愛国心に変わり、やがて個人の人権に変わってきました。そうやって建前が変わっていけばいいんですよ。(p366)

 これをメモしたときは、なるほど、と思ったが、こうして書いてみると、なぜか、違和感を抱くようになってしまった。<喩え建前という共通項でも、愛国心と人権を同列に置いていいものか?>といった疑問が湧いてしまったのだ。愛国心が叫ばれていたとき、人権という概念もあったからだ。「社会変革というのは、人権といった普遍的な価値の拡大である」といった方がいい。スッキリする。そう思えてきた。

2021年4月17日土曜日

ネットで原爆ドーム見学

 広島の原爆ドームを、一度は見てきたが、内部までは、当然入ることができず、どんな状態なのかを知ることができなかった。ところが、Googleマップのストリートビュー機能を使って内部を見ることができることがわかった。写真は、Googleマップを使って撮影したものである。ちょっとしたコツが必要だったが、慣れるとよく見えるようになる。その方法は、
1、Googleマップで、「原爆ドーム」を検索する。
2、検索窓の左側の選択メニューから、ストリートビューを選択する。
3、ドーム内に続く青い線をクリックする。一度ですぐにトリートビューにならないこともあるが、何度か繰り返しているとできるようになる。
4、クリックしたまま前後左右に動かすことで視点を変えられる。これもこつがいる。
5、練習のため、今話題の福島原子力発電所の汚染水タンク群を見てみた。よく見えた。






2021年4月16日金曜日

恐怖の均衡から均衡の恐怖へ

 核兵器禁止条約に、日本政府は署名していないし、する意思もない。今までは、漠然と、「米国の核の傘に守られているからだろう」というくらいの認識だった。しかし、産経新聞の「【主張】核兵器禁止条約「署名せず」が日本を守る」を知って、核兵器禁止条約に背を向ける人たちの根深さを知った。「核抑止の備えを一方的に解けば、放棄しない国の前で丸裸になる」というのだ。

 今の科学技術の水準では、外国からの核攻撃を防ぐ確実な方法は見つかっていない。核兵器による反撃力を自国または同盟国が持つことにより、核攻撃やその脅しを抑止することが必要だ。
 戦後の日本は冷戦期から今にいたるまで、核の脅威にさらされてきた。歴代政権は、国防に核抑止力が不可欠との立場をとってきた。それを自国では用意せず、日米安全保障条約に基づく米国の核戦力に依存してきた。
 核抑止の備えを一方的に解けば、放棄しない国の前で丸裸になる。もし全核保有国が放棄しても、その後に核武装する国やテロ組織が現れる恐れがある。
 核禁条約に加わることは結果的に、日本国民を核の脅威から守る核抑止力の効果を減じさせることになってしまう。【主張】核兵器禁止条約「署名せず」が日本を守る - 産経ニュース」より)
 本当にこれでいいのだろうか。日本国民は核の脅威から守れるのだろうか。守れる訳がない。そうした現実を知るべきである。「恐怖の均衡から均衡の恐怖へ」という主張は、1961年のものだが、現在でも立派に通用する。
 現在は、今までの「恐怖の均衡」という認識から、核兵器を持っていること自体が恐怖になっているという認識、「均衡の恐怖」という認識へ変えるべき、というのだ。こうした主張こそ、日本を守る道である。
 最近の数ヵ月の中に絶対に明瞭になったことは、「均衡」と「恐怖」という言葉が正しく理解され処理されないかぎり、世界の平和は非常に危険な状態にあるということである。
 ここ数年にわたって、われわれは正統派的な軍事分析の専門家から、世界は「恐怖の均衡」のおかげで大きな核戦争に至らないように保障されているのだ、と聞かされて来た。「核兵器保有国群」(nuclear club)に属する大国は、核戦争が口火を切るということは、それだけで、少くとも北半球が一掃されてなくなることにほかならない、という理由から、どの国もあえて他の大国を攻撃しようとはしない。
「だが」これまでほとんど、十分真剣に考慮されずに来たことは、正にこの「恐怖の均衡」そのものが、大国間の核戦争に関連して「均衡の恐怖」を強めて来た、ということである。いいかえれば、それが、世界の勢力均衡における一切の不利な変化 ―― もしくは予め諒承され割引されてなかったような諸変化 
―― に対する、恐慌的な反応を強めてきたということである。そのことは、朝鮮で、ラオスで、エジプトで、また一九六一年にはキューバで、繰返し証明された。(アンドルー・ロス「恐怖の均衡から均衡の恐怖へ」『世界』1961年7月号、p125〜126)

2021年4月15日木曜日

ユークリッド『原論』とアーレント『人間の条件』

 放送大学で、数学の歴史:「第03回 エウクレイデス『原論』と論証数学」を視聴した。何よりも驚き、感動したのは、古代ギリシャで誕生した数学が、そして、そうした学問の誕生を制度的に保障した古代ギリシャの民主制というものが、脈々と受け継がれ発展して、現在まで影響を与え続けてきたことである。
 例えば、『原論』が優れたものであっても不完全な面も多々あって、やがて『原論』そのものが研究対象になり、追加、注釈、翻訳、教科書の編纂といった手段で発展してきた。平行線公準の記述も、もっと簡単にできないか等々と研究され、やがてそれらが実を結び、「非ユークリッド幾何学」生み出されたという。
 『全体主義の起原』で有名なアーレントは、『人間の条件』という著書も書いていて、そこで、古代ギリシアのポリスなどで行われていた〈公的領域〉(「公共広場」のことだと思う)における〈活動〉を「人間は他者と対等に意見を交換し、自分が唯一無二の存在であることを示していた」と評価し、そこを出発点にして社会を論じている。
 国会における議論を見ていると、情けない話だが、古代ギリシャの〈公的領域〉には程遠い。アーレントの『人間の条件』では、どのような解決策と提示しているか、そのうちに読んでみたい。

 初期のソフィストは例外的にその数学上の業が知られており(月形図形の求積)、そこに今のところ最古の論証数学の形跡が見られるからである。こうして彼の活躍した前440年頃に論証数学が成立した可能性が高いと言えそうである。

 論証数学は古代ギリシャにおいてソフィスト達の活躍した時代に、対話と弁論の中で鍛え上げられ成立したものと言えるであろう。これは数学とは異質とみられてきた法律や弁証法の領域からの影響ということになる。すなわち論証数学は、対話と弁証が制度的に保証されたギリシャ民主制のたまものであると言いえるであろう。(放送大学教科書『数学の歴史』より)


2021年4月14日水曜日

「青い山脈」に描かれた民主主義

 映画の「青い山脈」は観たが、小説は読んでいなかった。図書館に朗読CDがあったので、聞いてみた。そして、そこに民主主義の話が出てきて驚いた。映画では気づかなかったので、もう一度て、民主主義の話がどのように描かれているかを確かめたいと思った。
 小説では確かめた。「本質的なことは何一つ分からず、民主主義という言葉を、万能薬のようにふりまわしているのが、今の世の中だと思った」と、今の社会でも立派に通用することが、しっかりと書かれていていた。
 それでは、民主主義という言葉の本質的なことって、どんなことだろうか。作者の石坂洋次郎は、どのように考えていたのだろうか。それは、「個人の尊厳を大切にすること」ではないかと思う。生徒に向かって「いいですか。日本人のこれまでの暮らしの中で、一 番間違っていた事は、全体のために個人の自由な意思や人格を犠牲にしておったということです」と語っていたからだ。
 「青い山脈」が書かれた時期を知って、このような作品がかれたわけも理解できた。終戦後の1947年6月から10月にかけて朝日新聞に連載されたものだという。この時期は、新憲法による高揚感というものがあった時期なのかも知れない。ひょっとしたら、この時期は、「青い山脈」ような時代を反映した優れた小説が、他の小説家も発表しているのだろうか。ちょっと気になってしまった。

2021年4月13日火曜日

人の一生は毎日が初体験

 東山魁夷の文章を読んでから、画家の書いた文章にも興味を抱くようになった。『堀文子画文集 命というもの』(小学館、2007年)も、そうして手にした一冊だ。ほのぼのとした味わいある絵もいいが、文章にも味わいがある。

 人の一生は毎日が初体験で、喜びも嘆きも時の流れに消え、同じ日は戻らず、同じ自分も居ない。(『堀文子画文集 命というもの』、小学館、2007年)

 89歳を目前にした私の毎日の歩みは、その1日1日が初体験、新しい発見の連続なのです。この先一体どんなことに驚き、熱中するのでしょうか。私の中の未知の何かが芽を吹くかもしれぬ期待に胸を膨らませております。(『堀文子画文集 命というもの』、小学館、2007年)

大磯のアトリエの庭に毎年、花を咲かせる紅梅を描いた作品。88歳の時のものだ。
堀さんにとって大磯の庭は、創作意欲を搔き立てる素材の宝庫だった。
『紅梅』2007年、19×36㎝。「堀文子、『サライ』公式サイト」より

2021年4月12日月曜日

風景は人間の心の祈りである

 今回、作者の解説文によって、絵の素晴らしさが引き立つ体験をした。逆に、絵を見ながら、あるいは絵を見てから解説文を読むと、解説文も名文として文章を味わうことができることがわかった。絵と解説文が相乗効果をなして、絵の魅力が迫ってくるのだ。
 東山魁夷は 『東山魁夷画文集・1』で、「風景は、いわば人間の心の祈りである」と書き、「心を深めるということは到達点のないことで、私たちの一生をかける問題であろう」とも書いている。何年か前に唐招提寺御影堂障壁画を観てきたが、こうした大作にたどりついたのは、東山魁夷にとって必然だったのかもしれない。そう思って、たまたま借りていた『東山魁夷全集・8』読んでみたら、「戦後、『残照』の作品で出発した私の道は、ここへ辿り着くことが自然であったのかも知れない。私は、この巡り逢いを感謝すると同時に、この仕事を完成するのは容易なことではないと思わないではいれなかった」と書いてあって驚いた。

(『残照』、1947年「独立行政法人国立美術館」より)
風景開眼
 山並みは幾重もの襞を見せて、遥か遠くへ続いていた。冬枯れの山肌は、沈鬱な茶褐色の、それ自体は捉え難い色であるが、折からのタ陽に彩られて、明るい部分は淡紅色に、影は青紫色にと、明暗の微妙な諧調を織りまぜて静かに深く息づいていた。その上には雲一つ無い夕空が、地表に近づくにつれて淡い明るさを溶かし込み、無限のひろがりを見せていた。
 人影の無い山頂の草原に腰をおろして、刻々と変ってゆく光と影の綾を私は見ていた。
 この広𤄃な眺望。海原の波の起伏を見るように、心に響いてくる山と谷の重なり。つかの間の夕映えであるにせよ、休らいと救いを約束するかのような静かな空。谷間の夕影の中に、一筋の道が見える。(『東山魁夷画文集・1』より)


唐招提寺御影堂障壁画に注目。生誕110年、東山魁夷の大回顧展美術手帖」より

唐招提寺御影堂障壁画に注目。生誕110年、東山魁夷の大回顧展美術手帖」より

2021年4月11日日曜日

学びを生涯の友とすべし!!

 AmazonPrimeの会員は、「Prime Reading」というタイトルの付いたの電子書籍は十冊まで無料で読める。このサービスで、だいぶ電子書籍を読んできたが、今回の『60歳からを楽しむ生き方』も昨日の『勝間式 超コントロール思考』も、 Prime Readingサービスの無料で読んだものだ
 この書籍で出会った老いの定義 人は学ぶ能力を失ったときに老いが始まる」を知っての感想が「学びを生涯の友とすべし!!」だった。そのために、図書館だけでなく、「Prime Reading」も、大いに活用していきたいと思った。

 本当の老いとは「学ばない」こと
 イタリア移民の三代目だというフランス人ボランティアが私に教えてくれたイタリアの詩人の言葉があります。
人は学ぶ能力を失ったときに老いが始まる」(La vieillesse commence au moment où une personne a perdu sa capacité d'apprendre)(アルトゥロ・グラフ、1848-1913)。人生100年の時代。 60 歳で「老後」と考えると残り 40 年、 70 歳で「老後」と考えても残りは 30 年あります。 30 年あれば、何かをはじめて習得するのに十分な年月です。( 『60歳からを楽しむ生き方 フランス人は「老い」を愛する』、賀来弓月著、Kindle版、Amazon Services International, Inc.2018年、強調は引用者による)

2021年4月10日土曜日

加齢は「老化」ではなく「進化」

 桜の開花と新年度を迎え、祝福ムードに満ち溢れる季節である。やはり、入学時は4月に限ると思うこの頃である。子供の成長、つまり子供にとっての加齢は、成長のスピードが目覚ましく、喜びそのものである。(とは言え、思春期そのものの悩みや苦難が待ち構えている場合もあるが)
 それに比べて老人の域に達すると、そういうわけにはいかない。病院に行くと”老化だから”で済まされることも多くなる。当然、”老化だから”と「ネガティブなことと捉えられがち」になってくる。
 しかし『勝間式 超コントロール思考』によれば、条件次第では、つまり、「超コントロール思考において」は、老人の域に達しても、肉体的な「老化」は避けられないが、加齢による心の「進化」は可能だという。
 なかなか希望のある話である。コントロール思考というものを身につけて、心豊かに年老いていきたいものである。
 現代の日本では、加齢は老化と同一視され、ネガティブなことと捉えられがちですが、情報を収集して知識を獲得し、選択肢を広げていくことによって、わたしたちは年々「コントロールできることがどんどん積み上がっていく」という、超ポジティブな面があります。
  超コントロール思考においては、加齢は「老化」ではなく「進化」です。
  20 代のころにできなかったことが 30 代でできるようになり、そして 30 代ではできなかったことが 40 代で、 40 代でできなかったことが 50 代で、といった形でどんどんコントロールできる範囲を積み上げていけば、年を取ることが怖くなくなります。(『勝間式 超コントロール思考』、勝間和代著、アチーブメント出版)

2021年4月9日金曜日

恐怖政治は”合法的”に進む

  赤旗日曜版に、『アンブレイカブル』(柳広司著、KADOKAWA、2021年)の紹介記事「恐怖政治は”合法的”に進む」があった。その中で、例え悪法でも、法に「基づいているという合法意識」があって、弾圧なども「正義に基づいている」という意識が働いているという。そうした意識は、今の「香港やロシア、日本にもつながる」というから驚く。

 本書では、治安維持法を体現するような冷酷な″内務省のクロサキ″が続けて登場し、不気味な存在感を放ちます。
「権力の側には、治安維持法に基づいているという合法意識があります。自分たちが合法であり正義だと。それはいまの香港やロシア、日本でもそうでしょう。この小説で書いたような状況は、弾圧を正当化する法律と官僚組織があれば、いつでも発生しうることです。特高警察も憲兵も、自分たちの仕事を遂行することで権力によるテロリズムとなり恐怖政治につながりました。では、どうするのか。そこで立ち止まって考えるための、普遍的な問いかけになればと思ってこれを書きました」(赤旗日曜版、2021年4月4日号)
 実は、この記事で初めて作家の柳広司さんの存在を知った。図書館にも、柳広司さんの著書がだいぶ入っていた。読んでみたいと思った本は次の通り。
『アンブレイカブル』、柳広司著、KADOKAWA、2021年、内容紹介:1925年、治安維持法成立。太平洋戦争の軍靴の響きが迫るなか、罪状捏造に走る官憲と信念を貫く男たちとの闘いが始まった-。小林多喜二、三木清…。法の贄となった、敗れざる者たちの矜持を描く。

『象は忘れない』、柳広司著、文藝春秋、2016年、内容紹介:原発事故で失われた命、電力会社と政府の欺瞞、福島から避難した母子が受けた差別…。福島第一原発を題材に紡がれた連作短編集。

『最初の哲学者』、柳広司著、幻冬舎、2010年、「ソクラテスの妻」(文春文庫 2014年刊)に改題、内容紹介:この世には、解いてはならぬ謎がある-。ギリシアをモチーフにした13の掌編から解き明かされる、歴史を超えた人間哲学。すべての物語の原点がここにある。

『二度読んだ本を三度読む』、柳広司著、岩波新書 新赤版、2019年、内容紹介:繰り返し読んだ名作は、やはり特別な作品だった! 小説家が名作を再読し「本は自分自身を写し出し、遠くの世界と自分をつないでくれていた」ことに気づき…。全ての人に贈る読書案内。

2021年4月8日木曜日

自分の周囲をイメージ通りデザインする

 ギヤなどには、必ず「遊び」という緩みが必要である。「遊び」を辞書で調べても、「④ 気持ちのゆとり。⑤ 機械の連結部分が,ぴったりと付かないで少しゆとりがあること。『ハンドルの―』」とあった。自分の意思をコントロール不能に招かないためにも、この「遊び(気持ちのゆとり)」が重要なようである。ここでは、気持ち、時間、お金の適度な余裕について触れていたが、そう言えば、部屋などの空間的な余裕というのも考えられる。あまりにも余裕のない部屋にいるだけに、身につまされる話だ。何とかしなくちゃ!

 コントロールを不能にする意外な伏兵が「余裕のなさ」です。
 それを裏付けるのがハーバード大学の行動経済学専門家、センディル・ムッライナタン教授の研究の中から見いだされた「スラック(余裕)の重要性」です。
  適度な余裕が気持ちにも時間にもお金にもないとさまざまなことについてコントロールがうまくいかなくなる上、頭も悪くなるという衝撃の成果がまとまっています。
 つまり、 わたしたちはスラックがあることで、さまざまな見込み違いや、新しく起きた出来事に対して、コントロールする力をある程度持ち続けることができるのです。
 何もかもがパンパンの状態というのは、余裕のない状態そのものより、そのことによってさまざまなコントロール権を失ってしまうことが、より大きなリスクになるということです。(『勝間式 超コントロール思考』、勝間和代著、アチーブメント出版)

 それでは、「超コントロール思考」とは?

── まず、「超コントロール思考」とは何かをお教えいただけますか。

 不要な我慢や努力をしなくても、主体的に自分の周囲をイメージ通りになるようデザインし、望む結果を得るという思考です。自分も他者も大切にしながら、時間やお金を効率よく使っていくという発想でもあります。たとえば、音声入力などアップデートしていく技術を活用して文章作成の生産性を上げるとか、家事の大変な部分を家電製品で短縮させるというように。
 日常生活で、1、2回面倒だと思うことがあっても、やり過ごせばいいでしょう。ですが同じ面倒なことが3回起きれば対応したほうがいい。3回もあれば、その面倒なことに再び出くわす可能性が高いからです。だから、不便や面倒を感じたときにやり過ごさないこと。より良い方法がないか試したり、周囲に要望を伝えたりすることが大事になります。(「「勝間式超コントロール思考」で人生が変わる! 」より)

2021年4月7日水曜日

若手研究者の未来社会論

 日本社会、あるいは世界の未来社会というのは、どういうものなのか。それを、われわれが目指すべき未来社会、といってもいい。そこを見据えて生きること、そこを目指して生きることが、コロナ禍という一見すると混迷の渦中にいるからこそ必要なのではないか。斉藤さんが言いたいことを一言で言うと、そうなると思う。
 未来社会のエッセンスは動画の中で説明に用いられた下記のリストの通り。詳しくは動画、あるいは著書で、どうぞ。




 

2021年4月6日火曜日

著者と対話する読書法

 呼吸は、いうまでもなく「吐くこと」と「吸うこと」がセットになっている。この呼吸に対応させた読書論を読んだ。「読む」と「書く」は呼吸のような関係にあるから、読むだけでも、書くだけでも、あまりうまくいかない。大切なのは、「読む」と「書く」を呼吸のようにセットで行うことだというのである。
 書くといっても、改まって文章を書かなくても、読書しながら本に感想を書き込みをしたり、メモ帳にメモしたりすることでもいいことに気がついた。要は、読書の際に、著者と対話するように読書すればいいのかもしれない。デカルトも「すべての良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもの」(デカルト『方法序説』谷川多佳子訳、岩波文庫)と書いている。
「読む」と「書く」はまさに、呼吸のような関係にある。「読む」は言葉を吸うこと、そして「書く」は吐くことに似ている。「読む」あるいは「書く」という営みは、世に言われているよりもずっと身体を使う。「あたま」だけでなく、心身の両面を含んだ「からだ」の仕事なのである。
 さらにいえば、深く読むために多く本を読んでもあまりうまくいかない。それでは吸ってばかりいることになる。
 書くことにおいても同じで、深く書きたいと思って、多く書いてもあまり功を奏さない。深く「読む」ためには深く「書く」必要がある。
「読む」を鍛錬するのは「書く」で、「書く」を鍛えるのは「読む」なのである。「読む」と「書く」を有機的につなぐことができれば言葉の経験はまったく変わる。それを実現する、もっとも簡単な行為は、心動かされた文章を書き写すことなのであ
 本に線を引くだけでなく、その一節をノートなどに書き記す。じつに素朴な行為だが手応えは驚くほど確かだ。105
「十読は一写に如かず」ということわざもある。一度書き写す、それは十回の読書に勝る経験によい のである。(『読書のちから』、若松英輔著、亜紀書房、2020年)

2021年4月5日月曜日

難解な「εーN論法」が分かった

 分厚い『独学』という本が人気で、図書館で予約してもすぐには借りられなかった。ようやく借りることができ、数学や英語の独習にまで解説してあり、その幅の広さに驚いた。実は、 放送大学で『入門微分積分』を受講したが、「εーN論法」でつまずき、一度投げ出し、次年度に再挑戦したが、それでも歯が立たず、しばらく諦めていた。しかし、『独学』を読み、懲りずに、また挑戦し始めた。何故わからないか、どうすればいいか、が分かったからである。
 何故わからないか?

 数学の難しさの一部はおそらく、学んでいる数学自体にあるというより、学ぶ者の日常の感覚や想像力に拘泥する頭の硬さにある。言い換えれば、自分の思い込みや外から持ち込んだイメージでもって解釈することで何とか「わかったつもり」になれていたが、学習が進むと、そうした思い込みやイメージでは追いつけなくなり「わからなくなる」のである。
 では、どうすればいいのか?
 自分の持つ思い込みやイメージでは理解できなくなったら、拘泥せず、一旦そこから離れること。
「これは日常に出会うことで言うと何だろう」といちいち日常に引きずり下ろすことを停止すること。
 それから数学書の中に明記してある定義や定理に戻り、(頭の中だけでは論理の詳細が追えなくなるので)推論のルールに虚心に従うために手を動かす。そして、まずはそれらが導いた結果を尊重し、観察する。

 つまり、深く考えず、手を動かすことが大切だという。そこで、教科書に書かれていることをなぞるように自分でも書き、計算してみるようにしてみた。あら不思議、あれほど拒絶反応を示した「εーN論法」の定義を受け入れられただけでなく、初めの例題、極限値の数式の「εーN論法」による説明まで理解できたのだ。

 さらに不思議な体験をした。「εーN論法」の定義のところで疑問だったところが、例題を解く過程で理解できたことである。嬉しかった。

2021年4月4日日曜日

一日一日が目標なのだ

 何かを成し遂げようとする時、あるいは成功を目指して何かを始めた時、その成功が重要であることは間違いない。しかし、その過程も、それと同じくらい大切であり重要であることを教えてくれる名言があった。 同じような言葉を『ゲーテとの対話』(エッカーマン 、岩波書店)にあった。

 いつかは目標に通じる歩みを
 一歩一歩と運んでいくのでは足りない。
 その一歩一歩が目標なのだし、
 一歩そのものが価値あるものでなければならない。
 こうした考えは、目標を達成する過程は、多少苦しくても、辛くても仕方がない、という考えに対するものであろう。しかし、「その一歩一歩が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならない」のはわかったとしても、すぐにそうできるわけでもない。意識を変えるだけで、「一歩そのものが価値あるもの」になるものだろうか。
 戦闘機の騒音に悩み、基地の撤去を目標に運動を始めたとする。目標そのものがあまりにも大きくて容易には実現しないのは目に見えている。その過程は、困難を極め、その間騒音はなくならない。このことは、何を意味するか。「一歩そのものが価値あるもの」には違いないが、すべての一歩が同じ価値ではない、ということだ。
 こうして考えてみて、この言葉の印象が、初めとだいぶ変わってしまった。とは言え、一歩一歩を「一日一日」と置き換えてみたら、「一日一生」という言葉とリンクして素晴らしいものになった。

   

2021年4月3日土曜日

アートには人を癒す働きがある

 現在私は、二つの美術館の年間パスポートを持っている。多い時は、県内の三つになることもある。企画展の場合、一回見て終わりにしたくないし、何度も見て初めてその良さがわかる絵もあるからだ。
 特に私は、解説記事を読んで、いろんな思いを触発されることが多い。だから、解説は丁寧に読むようにしているが、それでも、2回目で気付かなかったことを発見することもある。こうした美術鑑賞は、一面的で、いろんな鑑賞のあり方があることを『美術は魂に語りかける』は教えてくれる。「道具としてのアート」という発想自体が素晴らしかった。
道具としてのアート
 道具は、私たちが本来持っている力をさらに伸ばしてくれる。アートも同様で、いわゆる「心の弱さ」、つまり身体的というよりも精神的な弱点を補ってくれる。本書は、デザイン、建築、工芸を含むアートには人を癒す働きがあり、鑑賞者を導き、刺激し、なぐさめ、よりよい自分にしてくれると考える。
 道具は身体の延長であり、 目的達成を助けてくれる。身体能力が不足しているから、人は道具を必要とする。私たちは、モノを「切る」必要があるが自分の体ではできないので、ナイフに頼る。水を運ぶには瓶を使う。
 ではアートは何のためにあるのか?
 それを探るには、 自分の心や感情の満たされない欲求に目を向けてみよう。
  すると心の七つの弱さ、すなわち七つのアートの働きが浮かび上がってくる。もちろんこのほかにもあるが、多くの人に共通し説得力を持っているのが、この七つなのだ(『美術は魂に語りかける』(アラン・ド・ボトン ジョン・アームストロング著 ダコスタ吉村花子訳、河出書房新社、2019年、p11)

アートの七つの働き
一、愛しい思い出を記憶にとどめる。
三、つらい人生に希望を与える。
三、悲しみを受け入れる。
四、欠けている感情を補いバランスを取る。
五、混沌とした自分自身を理解する。
六、よりよい人生を探求する。
七、欲望や不満を感謝の気持ちへと変える。

2021年4月2日金曜日

地頭力の鍛える思考法

 『週刊文春』(2021年4月8日号)に、『地頭力の鍛える』(細谷功著、東洋経済新報社、2007年)という本の書評が掲載されていた。そこで紹介された抽象化思考と仮説思考に興味を持った。いずれは本書を読んでみたいが、要約だけでも、なるほど使える、と思った。その要約は次の通り。
1、抽象化できるようになれば、「同一の原理を多数のものに適用して解くことが可能」になる。
2、まず仮説の結論を設定(考えて)して、それを検証しながら結論を出す思考。
 前に、憲法三原則相互不可分性について述べられていたいくつかの言説を抽象化して、「憲法三原則相互不可分律(説)」という新しい概念を考えたことがある。その概念は、
 憲法三原則は、それぞれの原則が相互に不可分の関係にある。したがって、この概念は、憲法三原則の”それぞれの原則”が、他の二つの原則によって保障されてはじめて”より完全な原則”になることを指し示す概念でもある。
 ここのところの<「憲法三原則相互不可分律(説)」という新しい概念>が同一の原理にあたり、その適用が、
1、概念の重みは、憲法9条の平和主義が徹底して初めて、基本的人権も、国民主権もしっかりと保障されることを示してくれることである。
2、「日本国憲法が世界に類のない憲法である」と言われる所以は、武力も、交戦権も放棄している九条があるからだけでなく、そのことによって初めて、基本的人権も、国民主権もより完全に保障されることを明らかにしたことである。
 以上の二つだ。しかし、抽象化思考によると、「同一の原理を多数のものに適用して解く」過程が弱いのではないか、と思えた。今後の宿題である。

2021年4月1日木曜日

安全保障関連法は正に「戦争法」

 戦後、戦争になるような事態には至らなかった。切実さを持った危機感を抱くようなこともなかった。北朝鮮からのミサイルに対する危険を知らせるアラームが話題になった時さえ、そんなことはあり得ない、と危機感を抱くことはなかった。
 しかし、新聞に「”戦争”、という文字が絵空事ではない」という次の一文を見つけてから、急に、切実さを持った危機感を伴って戦争というものを認識するようになってしまった。
 絵空事ではない「巻き込まれ戦争」の可能性。米中「新冷戦」の渦中、自衛隊の米軍防護が増加。安保法制5年。(2021年3月30日、朝日新聞夕刊コラム「素粒子」)
 このコラム記事は、同日朝刊の記事「自衛隊の軍艦防護、増加 安保法制5年、広がる任務」を受けたものである。この記事で、
 集団的自衛権の行使を一部容認する安全保障関連法が施行され、29日で5年を迎えた。自衛隊が平時から米軍の艦船や航空機を守る「武器等防護」の件数が伸びるなど、日米間の防衛協力が進む。一方、東シナ海や南シナ海をめぐる米中の摩擦が強まるなか、自衛隊が偶発的な戦闘に巻き込まれるリスクもはらむ。(2021年3月30日、朝日新聞)
 と報道されていたのだ。この報道で、安全保障関連法の「駆けつけ警護」というものの実態も、初めて知った。

「武器等防護」に加え、16年には南スーダンの平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊部隊に対し、離れた場所にいる他国軍や民間人が武装勢力から襲撃された場合に助けに行く「駆けつけ警護」の任務も付与された。(2021年3月30日、朝日新聞)

 「駆けつけ警護」とは、に戦禍の中に飛び込んでいくことであり、戦争そのものではないか。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」(日本国憲法前文)した、その決意はどこに行ってしまったのか。このような自衛隊の任務を、このまま放置していて良いのだろうか。
 そんなことはない。危険は未然に防ぐに限る。だからこそ、野党共闘は、差し迫った課題として、
安保法制を撤回を挙げるべきだ。そして、とりあえずの”戦争の危機”を取り払ってほしい。安全保障関連法は「戦争法」と言われることもあるようだが、安全保障関連法は、正に「戦争法」そのものである。情けない話だが、今頃になって、その危険性を認識するに至った。