2023年5月31日水曜日

現代の奴隷

 奴隷制度が廃止されて、どのくらい経つのだろうか。今では、さまざまな差別があったとしても、奴隷など、ほとんどなくなっていると思ってきた。しかし、れっきとした「現代の奴隷」が存在しているという。『現代の奴隷』(モニーク・ヴィラ著、山岡万里子訳、英治出版)の書評で初めて知った。
 書評によると「 借金のかたちに子どもを売買する。家事奴隷となった子どもは毎日10時間以上酷使され、家事労働をこなす。夜は主人の性的玩具にされ、それが終わると夜の街に立たされて主人の小銭を稼ぐ」。
 そして、「現在の奴隷は、東南アジアに多いが、アメリカ、イギリス、フランスなどにも存在し、一部は日本にもいてヤクザの支配を受けている」。そうして、人身売買が実行されている。そこには人権も、人間の尊厳もない。あり得ない、と言ったらいいのかもしれない。
(『赤旗日曜版』、2023年5月28日号」より)


2023年5月30日火曜日

今、中国とどう向き合うべきか

 今、「中国とどう向き合うべきか」という課題は、極めて今日的なものである。これから紹介する文章は、2008年に書かれたものだが、決して古びてはいない。それどころか、中国と向き合おうとするときの前提として、「先の大戦について、日本はしっかり反省して問題を処理すべきである。東アジアとしての歴史認識の共通化を目的に、期限を切り徹底的に歴史認識の統一を進める作業も必要である」という指摘は、ますます重要な課題になってきているといえよう。なぜなら、政府の対応が20年前よりも、中国や北朝鮮との対決姿勢を鮮明にしてきているからである。
 もちろん、朝鮮にどう向き合うべきか、も、中国の場合と同じで、「歴史認識の共通化」を進めることを抜きにしては、東アジアの平和は決して望めない。今こそ、「文化の根底から発想」した「東アジア共同体構想」を作り上げる必要がある。
 中国語(漢字文明)は宗教からは自由だが、あまりにも政治的な言語であり、それは現実の中国のありようと重なって見える。その中国を一つの極として世界が動くとき、日本の独自な役割とは何か。
 思えばあまりにも苛烈な中国の政治的抗争に破れ、それを嫌った者たちが集まって作ったとも考えられるのが日本である。もう政治は嫌だ、政治の延長たる戦争も嫌だと集まった者たちが作った国なのだ。そういう歴史から言えば、戦争はしない、軍備は持たない、国の交戦権は認めないとする日本国憲法の前文と第九条とは極めてこの国にふさわしい
 この憲法を押しつけ憲法だという論もあるが、人類史的に見れば、日本国憲法の前文と第九条は、もっとも良質な西欧思想の日本への「亡命」である第二次大戦敗戦後、世界と人類の一つの希望を我々日本人は歴史から託されているといってもよい。
 ただし、日本がこのような役割を果たすには、東アジアの諸国民の間に横たわる感情的齟齬を克服しなければならない。先の大戦について、日本はしっかり反省して問題を処理すべきである。東アジアとしての歴史認識の共通化を目的に、期限を切り徹底的に歴史認識の統一を進める作業も必要である。もちろん、認識が違う部分も残ろうが、そのような共同作業の先に、漢字文明を共通の基盤としつつも、異なった文化を有する国(地方)からなる和解した一つの東アジア地域が出現するだろう。主に経済的観点からばかり語られる東アジア共同体構想は、文化の根底から発想することが必要なのだ。(「いま、中国とどう向き合うか —— 新著を脱稿して」『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p463-464。下線は引用者による)

2023年5月29日月曜日

書くという一つの世界

 書家石川九楊さんの「書くことのすすめ」に、紙に字を書くという作業は農耕に似ている。だから、書くことは「農夫が鋤や鉄を持って耕すのと同じこと」だとあった。書かれる、あるいは書きたい対象とその対象を書き込む対象が揃って初めて、書くことが成立し、そこに、一つの世界が出来上がる、というのだ。一枚の画布に一つの世界が描かれるのと同じである。
 そこで考えたことは、A4用紙一枚の世界に、一つの思い、書きたい対象をメモして行き、そのメモをもとに文章を書いていく実験をしてみたい、ということである。
 そういえば、”日本語で書く”という場合、文章や詩などを綴る場合と、文字そのものを芸術的な対象として書く場合がある。後者の場合は筆を使って習字をするともいう。この場合、心の癒しになる。つまり、「筆は柔らかな獣毛でできていまして、筆が広がれば柔らかなタッチが自分のほうに戻ってきますから、今風に言えば、自らの魂安かれと癒や」しになるというのだ。新しい発見である。それなら、いつかは迎えるであろう寂しさ、不安の心の準備として、癒しを求めた”書”もいいかもしれない、と思った。

 紙というのは、自分に先立ってあるところの一つの世界です。自分に先立ってあるところの力の集合体が今、皆さんの目の前にある。字を書こうとした時には力の集合体が既に前もってある。それに作者は筆記具で字を書いていくわけです。それは農夫が鋤や鉄を持って耕すのと同じことです。その証拠に筆記具というのは、すべて先に向かって、円錐状をしています。例外はありません。何のためにとがっているか。紙に対して切り込んでいくために、とがっているわけです。(『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p348)

 一つのエピソードをお話しします。かつて、オウム事件で殺害された坂本弁護士一家のうち夫妻の遺体が新潟、富山県で発掘された日がありました。その時に坂本弁護士のお母さんが何をしてその日を過ごしたか。これが絶妙だと僕は思うのです。
 このお母さんは一日、良寛の書の習字をしていたというのです。それはどういうことか。筆というのは刃物ですから、一方では麻原憎しという思いを紙に刻んでいくことができるわけです。他方、筆は柔らかな獣毛でできていまして、筆が広がれば柔らかなタッチが自分のほうに戻ってきますから、今風に言えば、自らの魂安かれと癒やすことができます。
要するに自分の子どもと、その奥さんと一家が死体となって現われてくる耐え難い日に、どうしようもない身もだえするような時に、一方では麻原憎しという思いを習字する。もう一方では、筆は柔らかく、無数の毛がうごめいています。その筆蝕、手応えを通じて、わが心安かれ、私の魂よ鎮まりなさい、もう取り返しはつかないのだーー。憎しという思いと、自らの魂を安らげる効果と両方を、習字を通してやっていたのです。
 これ以外にはあり得ないというほど、恐らく最も見事な一日の過ごし方であったと、僕は考えます。それは今言ったように、筆記具というものが刃物であって、そして刃物と同質のものを隠しているというところに、根本的のところが隠れています。(『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p350~351)

2023年5月28日日曜日

ルオーの優しい眼差し

 美術館の常設展示にルオーの作品があった。今回は、予備知識として美術館にあった『世界の巨匠シリーズ ルオー』を読んでからルオーの作品を鑑賞してきた。そして、ルオーの素晴らしさを発見することができた。
 ルオーの才能について「人間の苦難への迸るような共感、無意味な細部を無視してしまう才能」(『世界の巨匠シリーズ ルオー』、P・クールディコン解説、中山公男訳、美術出版社、p7)と書かれていた。
 さらに、「彼はまた書くことによって、『死ぬまで休みなく労働しつづける』人びとのことや『雄々しく苦痛に耐える負傷者。一言も語らず(彼らは知らないのだ)、書かない人たち……彼らは高貴の生まれではなく、汗の匂いがし、しばしば同じ顔立ちではあるが、彼らは美しく、彼らは祈り……彼らは祈っているのだ、その身ぶりで知っていただきたい』人びとのことに想いをいたしている」(上同、p12)という。
 人びとのこと、と言っても書く対象については書かれていない。が、それは、人間の心の内面を指している。ルオーは、 「彼ら(仲間の画家)は人間の心の奥底のことには全く無関心のようだ。だが、私にとってはそれこそが全生命だ」(
『20世紀美術』、高階秀爾著、ちくま学芸文庫、1993年、p169)と語っているように、「死ぬまで休みなく労働しつづける人」や「雄々しく苦痛に耐える負傷者」などの心の奥底のことを描いたのである。このような予備知識を持って改めて作品を見ると、作品の素晴らしさがよくわかる。

「『出光美術館蔵品図録・ルオー 』、出光美術館編集、平凡社、1991年」より

「『出光美術館蔵品図録・ルオー 』、出光美術館編集、平凡社、1991年」より

2023年5月27日土曜日

書物に対する”最高の賛辞”

 書物に対する”最高の賛辞”ではないか、そう思える言葉に出会った。それは、

 書物は人類が生み出したもっともすばらしいものである。そこにはもっとも高貴な人間精神が秘められ、すべての文化、学問、思想がもっとも純粋なかたちでそこに凝縮されている。書物は、私たちがおかれている小さな世界を超えて、遠い過去にさかのぼり、広い世界に足をふみ入れること可能にする。また、人間の精神の奥深くまで入って、人類がこれまで蓄積してきた膨大な知識、思想、技術を私たちの前に提示する。(宇沢弘文著「岩波文庫のブック・フェア・リストをみて」『読書のすすめ第3集』、岩波文庫編集部編、岩波書店、1994年)。
 である。
 全くその通りで、だからこそ、読書が素晴らしいのである。どんなに素晴らしい本でも、読まなければ、「遠い過去にさかのぼり、広い世界に足をふみ入れること」もできなければ、「人間の精神の奥深くまで入って、人類がこれまで蓄積してきた膨大な知識、思想、技術を」わがものにすることも出来ないからである。
 考えてみたら、”放送大学と図書館通い”が私の生きがいになっていた。これも、書物の力かもしれない。つまり、書物が私を捉えて呼び寄せている。図書館が私を呼んでいるに違いない。

2023年5月26日金曜日

「戦争にならない環境づくり」を

 努力には、努力の量と同じくらい大切な尺度として「努力の方向性」がある。社会の運動にも、同じことが言えるのに、あまり注目されることはなかった。そのことに気づいていながら、しばらく忘れていた。が、「目標に対する結果は、努力の方向性とかけた時間の量で決まる」ということを示した図を見た瞬間、「社会の運動にも同じことが言える」ということを思い出した。
 社会の運動に「努力の方向性」を用いるとどうなるか。常に矢印の先を意識するようになる。つまり、まず考えることが「目指す方向」であり、それは、戦争のない状態、戦争にならないような環境づくりである。それに対し抑止論思考の矢印は、侵略されたら、攻撃されたら、という前提に向かっている。つまり、戦争状態を想定し、それに備えよ、という論理である。だから、日本国憲法と抑止論の矢印は、反対方向を向いていることになる。

 勉強は「どれくらい頑張ったか」と「どの方向に向かって頑張ったか」のかけ算で結果が変わります。(『東大医学部在学中に司法試験も一発合格した僕のやっているシンプルな勉強法』、河野玄斗著、KADOKAWA、2018年、p84)

「目標に対する結果は、努力の方向性とかけた時間の量で決まる」(上同、p 84)

2023年5月25日木曜日

敵をつくらない外交に転換を!

  テレビのスイッチを入れたら、ちょうど維新の国会議員が質問に立ち、総理に憲法改正を迫っているところだった。正に「火事場泥棒の改憲論」(『ウクライナ危機から問う日本と世界の平和 戦場ジャーナリストの提言』、志葉玲著、あけび書房、2022年、p179)そのものであった。しかし、防衛費を増大させ、憲法九条の改憲まで進んだら、近隣諸国への大きな脅威となることは目に見えている。脅威が増大すれば、それだけ戦争リスクが増大することも、また、同じである。この度のロシアによるウクライナ侵略の口実が、そのことを証明している。ウクライナ侵略の口実としてプーチン大統領が挙げたのが、「NATOの東方拡大」だったからだだ。
 それでは、今、何が求められているのだろうか。
 上智大学教授中野晃一さんが言っているように、「敵をつくらない外交」に転換し、「”互いに脅威とならない”原則」を確認することである。「新しい戦前」に似てきたという声もある。それなら、一気に戦争突入状態になって、気がついたら敗戦という塗炭の苦しみを味わった経験に学び、何が何でも戦争を阻止しなければならない。そうした覚悟こそ、求められているといえよう。

(「『赤旗日曜版』、2023年4月9日号」より) 

2023年5月24日水曜日

反独立国(従属国家)日本

 日本に日米安保条約と米軍基地がある限り、日本は独立国家とは言えない。日本は、米国の従属国家である。そう思ってきたし、現在もそう思っている。独立国とは、主権国家と同意義である。したがって、主権が制約された状態で特立国家とは言えない。日本は反独立国、もしくわ従属国家というべきであろ。名称こそ言っていないが、日本は、「主権の一部」が制限された国家であると書いてある本を見つけた。他の本では、国家主権について「どのように表現しているか」が気になってきた。果たして、どうであろうか。
 日本も当然、主権が確立している国家ではあるのですが、米国との関係では日米安保条約や、そのもとでの日米地位協定が存在し、主権の一部を制限しているがために、領空が大きく制限され通常の旅客機が自由に飛べないほか、米軍が事件や事故を起こしても日本の法律や司法では裁けないばかりか現場にも近づけないなど、大きな制約を受けています。(『「くうき」が僕らを呑みこむ前に 脱サイレント・マジョリティー』、山田健太・たまむらさちこ作、理論社、2023年、p87)

2023年5月23日火曜日

情報整理を第一義的な課題に!

 片付けができない。机の上を片付けても、いつも間にか、又いろんなものが乱雑に置かれて、その中に窮屈にキーボードが置かれている有様なのだ。メモも、パソコンやノート、紙切れなどに書かれ一貫性がない。
 ブログ記事だって、日々、思いつくことを書き綴っているだけで、まとまりがない。このような状態が続いているのは、情報の整理(片付け)を常に後回しにしてきたからなのかもしれない。なぜなら、「 仕事がスムーズに不安なくすすむための情報整理を第一義」『一生賢くなる50歳からのタクティクス勉強法』、和田秀樹著青志社、2009年、p210)として成果を上げている著者の存在を知ったからである。
 では、情報整理を第一義的な課題にしたとき、重要な点はどのようなことだろうか。ただ単にストックしておくだけではダメで、とのような情報か、つまり、情報の一つひとつに対し、賛成、議論の余地あり、理解できない、それらの理由などを書くなどして、「目的を持って情報を活かしていくところまでいかないと、宝の持ち腐れになてしまう」(上同、p223)。だからこそ、情報整理を第一義的な課題にして情報整理に習熟していくことが重要なのである。

2023年5月22日月曜日

永久平和の道を

 短い文章でも、「これだけのことを言える」という見本のような文章を見つけた。梅原猛さんの「永久平和の道を」という文章である。日本国憲法には「人類の未来の理想が含まれて」いること。「環境破壊や核戦争による人類滅亡の危機」があるからこそ、「永久平和の道を真剣に考えるべき」であること。「永久平和の道」の対極にあるのが「一九世紀の国家主義思想に戻そうとする」道であること、これらが自らの課題として書かれている。逆向きの力が、かつてよりもますます強まってきているだけに、「永久平和の道を」という声を大にして叫ぶ続ける必要があるのかもしれない。
 私は戦後一貫して「平和憲法を守れ」という態度をとっています。それは平和憲法、特に九条には人類の未来の理想が含まれているからです。カントの永久平和論にも通じる思想です。今、環境破壊や核戦争による人類滅亡の危機が叫ばれるとき、やはり、人類は戦争によって運命を決めるという業の愚かさを知り、永久平和の道を真剣に考えるべきだと思います。
 憲法改正論者の多くは、日本をもう一度、一九世紀の国家主義思想に戻そうとするものです。そうである限り、私は一生、憲法改正の動きに反対を続けていこうと思っています。(梅原猛著「永久平和の道を」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P3)

2023年5月21日日曜日

誇らしい日本国憲法

 日本国憲法は、戦争放棄条項である九条を持つことからも、理想論と批判されたり、われわれ国民の行手を照らす理想として大切にされたりしている。つまり、日本国憲法が理想と言われても、その理想そのものに曖昧さがある。その曖昧さを取り除くために、憲法の理想そのものの歴史を明らかにし、科学史や数学史のように、歴史的に形成し、発展してきたことを明らかにすべきである。
 なぜなら、「イギリスの名誉革命直後の権利章典から始まって、アメリカ独立宣言やアメリカ合衆国憲法を経て、フランス人権宣言に至る百年間に形成された」(『二つの憲法 大日本帝国憲法と日本国憲法』、井上ひさし著、岩波ブックレット、2011年、p55)のが、憲法という「宝物」だからである。
 ここからは仮説に過ぎないが、これまでの「憲法の歴史」を振り返ると、遅い早いは別として、ほとんどが反革命によって覆されてしまっている。しかし、日本国憲法だけは、満身創痍ではあるにせよ、原文は変えられることなく今に至っている。ということは、世界にはなく、誇らしいことと言って良いのではないだろうか。いずれにせよ、反革命の実態を調べてみるのも、面白そうである。宿題である。

2023年5月20日土曜日

絵のある生活と人生

 郡山市立美術館において「大川美術館コレクションによる『20世紀アート120』展」が開催されている。それに合わせた田中淳大川美術館長さんの記念講演「大川美術館と20世紀アートコレクション」があった。
 キュビスムについて、いろんなものをそぎ落とし、色や形、線のみの美しさに単純化(純粋化)したもの、という説明が新鮮だった。そんな中でも、特に、紹介してくれた「絵画入門 絵のある生活と人生」からの引用文が素晴らしかった。
 「自然を見る鑑賞力も人を見る判断力も豊か」になるというのは、思いもよらなかったことである。そうなると、「くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウインドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずる」ようになるというのだから素晴らしい。
 よい作品をできるだけ多く、又、何度も見ることが大事です。
 いい絵は、眼にも心にとっても無限の教育者となり、それにより自然を見る鑑賞力も人を見る判断力も豊かとなり、街並みを見ることも、くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウインドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずるでしょう。そして、そんな価値観が自然と周囲の人間関係を大切にし、他人の痛みが判り、真の教養も生まれ、素晴らしい地方文化が生き続きられるのです。(『絵画入門 絵のある生活と人生』、大川栄二著、大川美術館)

2023年5月19日金曜日

領土よりも、市民の命を!

 日本国憲法第九条に対する、これほど分かりやすい説明(解説)があるだろうか、と思えた説明にであった。「日本が文化国家と言われるのは、憲法九条で、戦争の放棄を明記しているから」だ、と言って、憲法九条で「人殺しの戦争は絶対に起さない。人間を大切にする。生命をまもる。そう誓ったから」(『住井すゑ作品集 第8巻』、住井すゑ著、新潮社、1999年、P406)だという。つまり、憲法九条で誓っているのは「人殺しの戦争は絶対に起さない。人間を大切にする。生命をまもる」ことで、国を守るとは一言も言っていない。ここに国防という概念はない。
 もう一つ大切なことに気づいた。「生命」をまもることであって、国民でもないし、人間だけでもない。動物も、植物もまもる。そこに普遍的な平等思想が貫かれているのだ。それに対し、ウクライナの現状を考えてみると、そこにあるのは「国を守る戦い」であって、多くの人間だけでなく、動植物も被害にあっている。はっきり言って、人間を盾にして国を守ろうとしている。人間も被害にあって当然だし、「やむを得ない犠牲」だというであろう。本当だろうか。
 犠牲にあった人たちのことを考えてみよう。と、ここで小田実の『「難死」の思想』を思い出した。そこに「ただもう死にたくない死にたくないと逃げまわっているうちに黒焦げになってしまった、いわば、虫ケラどもの死であった」(「現代日本文学体系・84』、筑摩書房、p328)とあるが、このような「難死」がウクライナでも繰り返されている。こんなことが許されていいいのか。確かに、ロシアは悪い。だからと言って、防戦を繰り返していいのだろうか。負けてもいい、領土を一部取られても、命には代えられないのではないだろうか。「領土よりも、市民の命を!」である。

2023年5月18日木曜日

「人類の宝」日本国憲法

 元社会党党首土井たか子さんの講演記録「人類の共存と日本国憲法」を読んだ。戦後の闘いを振り返って、「戦後の日本人の反省をさらに深め、民主化と非軍事化をさらに発展させるか、それともあのような反省は不要であったとして、戦前的なものに逆行し、後戻りするのか――それが戦後日本の政治史を貫く政治闘争の変わらぬ主題(『月刊社会党』1988年7月、P29-30)だった、と語っていたのが印象的である。「戦後日本の政治史を貫く政治闘争の変わらぬ主題」というものが、今に至っても変らないからだ。
 しかし、「新しい戦前」なる言葉まで現れ、話題になるほど、歴史の逆行現象が進んできていると言える。それにもかかわらず、「歴史の逆行現象」に対する危機感のなさというもの目立つ。大幅な軍事費増が現実味を帯びてきているのが何よりの証拠であろう。
 では、歯止めをかけるにはどうすればいいのだろう。そのヒントが、一九八六年一一月にインドのガンジー首相とゴルバチョフ書記長とともに発表された「核兵器と暴力のない世界の諸原則に関するデリー宣言」にあるような気がしている。土井たか子さんによれば、

「人命を至高の価値と認めなければならない」
「非暴力が人類共同体の生活の基礎とならねばならない」
「相互理解と信頼が、恐怖と疑心暗鬼にとって代わらねばならない」
 このデリー宣言は、その精神において日本国憲法と合致しているのです。(上同、p33)

 この「デリー宣言」が意味することが重要なのだ。つまり、「デリー宣言」は、日本国憲法は、世界に誇るだけでなく、「日本国憲法が普遍性のある憲法である」ことを示している。だからこそ、それだけ重要な、文字通り「人類の宝」なのである。そのことを再確認していくことが、歴史の逆光を押しとどめる力になるに違いない。

2023年5月17日水曜日

書の魅力

 福島県立美術館で、『美をつくし 大阪市立美術館コレクション展』が開かれており、珍しく、写真OKだった。一回目は、上村松園の『晩秋』という美人画に心を奪われて、名の作品は、あまり心に残らなかった。
 それでも、上村松園の『晩秋』をもう一度、とまた美術館に行ってきた。そして、一回目は気づかなかった「書の魅力」というものを発見することができた。写経の原本は、これまでも目にしたことはあったのに、今までになく心を動かされた。縦横とも、綺麗に並べられた漢字群全てに、作者のたたずまいが滲み出ているように感じられたのである。
 別な言葉で表現すると、一字一句の漢字に、作者の精神的なエネルギーが溢れているように感じられるのである。相当の集中力がないと、相当の心ができていないと、こうは書けない。ちょっとでも心に迷いが生じれば、きっと書きっぷりに表れるに違いないからだ。





2023年5月16日火曜日

民主主義(デモクラシー)とは何か

 民主主義、デモクラシーとは何か、この”答え”ほど多様性に富んでいるものはないかもしれない。そのため、各人の受け取り方、持っているイメージも一様ではない。民主主義は戦争とは相容れない、そう考える人がいると思えば、民主主義の旗を掲げて戦争する場合さえある。民主主義の捉え方に多様性がある証拠である。
 だからといって、このような状態がいいわけではない。話し合いにならないからだ。ではどうすればいいのか。はっきりしていることは、いろんな定義、説明を集めることであろう。そして、民主主義の全体像を、自分なりの観点で明らかにするのである。
 次の引用にあるように、アリストテレスも民主主義について言及しているらしい。ということは、民主主義の歴史的な発展はどうなっているか、という観点も、大切な視点になる。こうした観点に立ってこそ、民主主義の全体像を明らかにできるのかもしれない。日本国憲法における民主主義を、最高に発展したものと考えられるからだ。
 アリストテレスも言っているように、民衆による政治、デモクラシーというのは力のないもの、権威をもたざるもの、もてる力のない小さな人間が力をもつことをいいます。大きな人間によって押し潰されそうなとき、あるいは振り回されたり、巻き込まれたりするときに、小さな人々が力を合わせ、知恵を振り絞って集めることによって力をもつこと、また、その力を信じること、それがデモクラシーの原点だと。
 その古代ギリシャのデモクラシーには、女性と奴隷は参加できませんでした。彼らはピープルの中に入っていなかったわけです。それがいまや入っています。そして入っているだけではなく、注目をあびています。(玄順恵著「人々の力は、捨てたものではない」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P29)

2023年5月15日月曜日

人生、楽しいことばかり

 人生は楽しいことばかり、と思えたら素晴らしい。実際は、「イヤなこと」や「悲しいこと」がたくさんあるからだ。
 実は妻に、戸棚を占め忘れては注意され、ゴミを落としっぱなしにしては怒られ、毎日イヤな思いをしている。それでも、「楽しい」と思えるのだろうか。
「生きることは、楽しいことばかり」と書いているのは田中和雄さんで、「”楽しいこと"は何も豪華なことや贅沢なことに限らなくて、生きているそのものの中に山ほどある」(『暮らしの手帖』、2021年4-5月、p11)というのだ。
 そうか、楽しさの感度を上げ、朝起きられたら幸せで楽しい、ご飯も美味しく食べれて楽しい、幸せだ、という具合に、生きているそのものの中に山ほどの楽しみを”見つければ”
いいのだ。そうすれば、多少のイヤなことも気にならなくなり、ひょっとしたら、これまでイヤなことだったことさえ、楽しめるようになるかもしれない。

2023年5月14日日曜日

発展性ある人生を生きる

『この魂ひとすじに(上)』を読んで、自分で読んだものをまとめる、分析し、さらに、自分の頭(考え)で組み立てる、創造することの大切さと、自分にとって欠けているものがそれであることを痛感した。
 科学論にしろ技術論にしろ、それをまとめ上げることによって、そのことによって自分の明確な課題を見出せなくてはならない。つまり、そこに問題を見いだすことができることは、新しい芽を見出すことであり、 新たな出発のスタートラインに立つことができたことでもある。
 このように絶えずスタートラインに立つことなくして、どうして発展性ある人生を生きられるよう。絶えず殻を破り、新しいスタートラインに立つことによってのみ、絶えず成長することができるであろう。

 以上の文章は、何十年も前に武谷三男著『弁証法の諸問題』の余白に書かれていたものだ。武谷三男の『特権と人権』に関心を抱き、武谷三男の蔵書を調べていて見つけた。今読んでも、こうした視点の大切さに変わりがない。これからでも遅くないので、「絶えず殻を破り、新しいスタートラインに立つ」よう、心がけたいものである。
 ここで気づいたことだが、ピカソは「絶えず殻を破離」ながら、新しい画風をを模索した画家だった。北斎だってそうだった。ひまわりのように太陽に向かって成長を続けたゴッホ、苦しみという逆風を受けながらも、前に進んで行ったゴッホも、そうだった。ゴッホにとっての苦しみは、殻を破る苦しみだったのかもしれない、が。

2023年5月13日土曜日

尾崎行雄の先見性

 尾崎行雄の思想に共鳴し、全集まで変えたこともあった。しかしどのような特徴があったか、など、すっかり忘れてしまった。
 住井すゑさんの本を読んでいたら、尾崎さんの名前が出てきて、「え、こんなことまで言っていたの?」、と尾崎さんの先見性に驚いてしまった。「『国家』とか、『天皇』とか、こういう言葉のある憲法のうちは、三発目の原爆は免れないだろう」(『九十歳の人間宣言』、住井すゑ著、岩波ブックレット、p9)と言っていたのだ。三発目の原爆はともかく、今日の軍拡路線を見透かしていたことになる。  
 今日の情勢を考えると、戦後70年経っても『国家』や『天皇』の存在を疑う人などほとんどないに違いない。だからこそ余計に、
『国家』や『天皇』の存在を疑った彼の先見性に驚かされる。
 彼の全集はあるが、全集に収録されていない雑誌記事もあるんじゃないか。そう思って、まずは雑誌記事を探して読んでみたい。つくづくとそう感じた。

2023年5月12日金曜日

日本は官僚に牛耳られているのか

 日本は、日米安保条約によって米国の従属国になり下がっている。その大元は、日米合同委員会という組織だと言われている。この委員会の日本側メンバーは官僚である。ということは、日本そのものが官僚に牛耳られていると言えるのではないだろうか.
 実は、これらのことを裏づける資料が見つかったのである。戦後、「陸海軍は解体され、高級軍人は政治的影響力を失った。けれども、官僚勢力は、占領によっても大した打撃は受けず、そのまま温存されていた」(有山鐡雄著「占領は日本に何を齎らしたか:政治」『中央公論』、1951年10月、P63)というのだ。官僚が強いわけだ。
 日本は政党政治が行われている。しかし、どうも、そのバックに存在しているらしい官僚の実態については、あまり知られていない。だからこそ、今後は官僚の動向に注視していきたいものである。

2023年5月11日木曜日

横書きが日本人を壊す?

 雑誌『ラジオ深夜便』(2019年12月)に「奥深い書の世界」という投書があり、書家の石川九揚さんの言葉「書は文字ではなく言葉を書くもので筆蝕がドラマを生み出す」が招介されていた。
 なるほど手の筋肉を使って言葉を書くことで、言葉そのものを体に刺むことが、つまり、記憶に刻むことができるのかも知れない。
 石川九楊さんと言えば、日本語は縦書き文字なのだから、縦書きにすべきと主張されている方で、以前縦書きに共鳴し、少し試したことがあった。投書を読んで、このことを思い出し、早速『縦に書け 横書きが日本人を壊している』という本を借りての続み初めた。そして、こうして従書きで文章を書いている。この手書き文章をパソコンに続みとり、ブログに載せよう、と目論んでいるのだ。
 とにかく今度は、しばらく縦書きにこだわってみよう。石川九楊さ人の全集も手にして、興味のあるところを読んでみようと思う。

2023年5月10日水曜日

自分の眼で判断する真の合理的精神

 花森安治さんが、「武器をすてよう」と「十回でも百回でも千回でも、世界中がその気になるまで、くり返し、くり返し、呼びかけ、説き訴えなさい」と書いていることを「武器(殺人凶器)を捨てよう」に書いた。このような思想の大元とも言える考え方を知った。

 花森精神の中心となる考え方の一つに、いわれなき権威のぶちこわしということがある。日本人は今まで、なにかの権威のようなものに盲従したり、畏怖の念を持ってきた。その号令によって動かされてきたのである。
 それらの権威から解放されて、自由に自分の眼で判断すること、それこそ真の合理的精神である、と花森氏は説いている。三枝佐枝子著「花森安治——暮し」民主主義の守本尊」『中央公論』、1973年5月号

 ここで述べられている「花森精神の中心となる考え方」は、日本国憲法における国民主権そのもので、これを優しく言い換えたものである。国会議員を「先生」と呼び、権威を感じているようでは、主権者とは言えないことを、教わった気がする。
 朝日新聞コラム「天声人語」(2023年5月10日)によれば、「ナチスに傾倒する愛国少年だったアルフレートさんは後に、自分が幼い頃にポーランドから連れてこられたと知って驚愕(きょうがく)する。本当の名はアロイズィ・トヴァルデツキ。二つの国に心と家族を引き裂かれた半生は、著書『ぼくはナチにさらわれた』に詳しい」。アロイズィさんが、その本に「人間性は何よりも他人を、他の状態を、他の意見を、他の民族をどう扱うかに現われる」と書いているという。このような人間性も、権威に盲従している限り、開花するようなことはない。人間の尊厳というものを理解できないからだ。逆に見れば、権威から解放され、自らの尊厳を知るようになって初めて、他の尊厳というものも理解できるようになるのではないだろうか。

2023年5月9日火曜日

国で定められたことを信じて

 子どものころ、家の庭に防空壕があったという高木ブーさんの当時の体験記を読んだ。「戦争を語れる最後の世代だよね」と言って、次のように語ってくれたのである。
 お袋の実家の千葉へ移ったんだけど、近くに陸軍の飛行場があって。戦闘機を見ながら、将来は飛行機に乗って将校さんになりたいって思うようになった。
 楽に早くえらくなりたかった。小学校の時、作文に書いてたもんな。今じゃ考えられないよね。
 今みたいに自由じゃない時代を生きてきた。
 おかしなもんだな。人間というのは。
 国で定められたことを信じて、それでいいと思ってた。戦争してたわけだから。勝ってるうちは万歳万歳で。当時はそれが当たり前。(「語る 人生の贈りもの」、朝日新聞記事、2023年5月9日)
 この中の、「国で定められたことを信じて、それでいいと思ってた」というところ読んだとき、(朝日・東大谷口研究室共同調査)で、”防衛力強化「賛成」が6割”という記事を思い出した。6割という数字は、「閣議決定」という国で定められたこと信じて(深く考えることもなく)、それでいいと思った結果なのであろう、と思えたのだ。
 昭和の歴史を考えれば、防衛力強化という名で軍事力を強化すれば、庶民、市民の生活が苦しくなるであろうことは目に見えている。アンケートも、軍事力の強化と問えば、多分結果も違ったのではないと想像したが、いずれにしても、大新聞さえ、政府の軍事力強化路線を追認しているとしか思えないのが残念だ。今こそ、初心に帰り、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」たことを思い出すべきである。そのためにどうすべきか、真剣になって考える必要がある。歴史が証明しているように、「国で定められたことを信じて」いては、決して良い結果にはならないのだ。

2023年5月8日月曜日

「お助け国家」日本を目指そう

 朝日新聞(2023年5月7日)記事の見出し「(朝日・東大谷口研究室共同調査)防衛力強化『賛成』6割」には驚き、かつ、本当だろうか、という疑問も生じた。どちらにしても、防衛力、つまり、戦費の活用は戦争状態を意味する。「防衛」という名が曲者なのだ。それだけで、なんとなく大切なものというイメージが作られてしまうからだ。
 攻められないための防衛には、軍事力だけでないことを忘れているか、意識的に、「防衛=軍事力」という等式が作られてしまっている。しかし、井上ひさしさんがよく言っていることに、世界の有力者も羨むような高度な医療技術を持った日本になって、世界中の人命を作ったり、世界中の災害救助に駆け付けたりして、「お助け国家」になれば、日本を攻めようなどと考える国はなくなる、という話がある。もっともな話で、これこそ真の防衛といえよう。
 そう考えれば、福祉予算や文化予算を削ってでも軍事費を増やしてもいい、などという人もなくなるに違いない。安保条約は日本にとって有害であるという認識も浸透するに違いない。だからこそ、次の紹介する「日米安保条約は日本人の『安らかな生活』のためには邪魔」だという安保否定論を、ことあるごとに語り合う必要があるのかもしれない。騒音被害だけでなく、米軍基地由来の水質汚染(“有害” PFOS PFOAとは? 米軍基地周辺でも検出 水質の目標値は | NHK)などを考えただけでも、現地住民の立場に立てば日米安保条約など、なくなって欲しいと思う。 
 今現在において、日米安保条約は日本人の「安らかな生活」のためには邪魔です。沖縄の事件もそうですが、基地周辺では問題ばかり起こっています。もう冷戦も終わったのですから、冷戦に合わせてつくられた安保条約は不要ですね。そして、(事故とはいえ)日本人を殺すよう自衛隊もなくなってもらいたい。いきなりゼロにはできないから、まずは、国外に出て行かないこと。そして、集団的自衛権などというとんでもないものも、認めないこと。そうやって、じょじょに縮小していけばいいのです。(澤地久枝著「今こそ市民の時代の底力を」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P63)

2023年5月7日日曜日

白人による狂気の連続「アモク」

 住井すゑさんが、「狂気」という小論で南アフリカ共和国の「アパルトヘイト」を訴えた映画「アモク」を紹介していた。その中の一節を紹介する。

 まことに全巻、 白人による狂気の連続である。その狂気の第一は、日本の三・三倍もの広大な国土の八七パーセントが、総人口の二〇パーセントに過ぎない白人の地域であり、残り一三パーセントの地域に人口の八〇%を占める非白人が”隔離”されている事実だ。 (「狂気」『住井すゑ作品集第8巻』、新潮社、1999年、p309)

 このところを読んだとき、イスラエル問題の焦点にもなっているガザ地区のことを思い出した。長さ50km、幅5~8kmの狭く細長い種子島ほどの面積に200万人の人が住むガザ地区は、 世界で最も人口密度が高い場所の一つである。そして、「このような負の歴史」を集めてみたらどうだろう、というアイデアが閃いた。早速、「負の歴史」に関する本を調べたが、その過程で、佐々木基一という(私にとって)全く新しい興味のある人に出会った。以下、彼の全集の興味ある項目である。
『佐々木基一全集 3』、佐々木 基一 著、佐々木基一全集刊行会編纂 、河出書房新社、2013
 戦後の決算 216-225
 プロレタリア独裁と民主化は両立しえないか 226-229
 文学運動と党員文学者の除名237-246
 トンカと共産主義 246-251
 おお日本共産党 252-259
 毒ガスと原発 465-468
 世紀末に向って468-478

佐々木基一全集 5
 青春の負の歴史13-17
 反骨の文学 56-61
 原民喜とわたし 201-202
 原民喜と大田洋子さんのこと 203-205
 原民喜の二十一回忌に思う 206-207
 鎮魂の文学「原民喜」208-209

佐々木基一全集 6
 批評精神の探求 157-166
 国境の感想 360-362

佐々木基一全集 7
 戦争と革命 155-158
 アメリカ戦争映画雑感 163-166
 今日における戦争の受けとめ方 281-284

佐々木基一全集 8
 永遠なるユートピア-老子 407-422
 無名の仙人 321-329

2023年5月6日土曜日

武器(殺人凶器)を捨てよう

  住井すゑさんの言葉は、読んでいて清々しいのはなぜだろうか。「歯に衣を着せぬ」からかと思ったが、どうも、それだけではない。清々しさの大元は、「本質に迫る」迫力を持っているからに違いない。「武器という名の殺人凶器を捨てること、それなくして、人間の尊厳は成立しない」と訴えた次の文章も、迫力を持って迫ってくる。

 人類は他の生物とともに、地球に生きることで、地球存在の調和に役立つ。そのように調和に役立っている人類を、人為的に殺戮することは、そのまま地球破壊の大罪ではないのか。
「国を守る」という美名の下、人類を犠牲にする大罪から、人間は目覚めねばならない。武器という名の殺人凶器を捨てることが、いかに差し迫った必要かをさとらねばならない。それなくして、人間の尊厳は成立しない。(「志の人花森安治」『住井すゑ作品集第8巻』、新潮社、1999年、p304)
 この文章の元になった花森安治さんは、「武器をすてよう」という長編詩を書いている。そこに、世界に向かって、武器を捨てよう、と「十回でも百回でも千回でも、世界中がその気になるまで、くり返し、くり返し、呼びかけ、説き訴えなさい」と書いている。「いつかは、その日がくる。/辛抱づよく、がまんをして、説き、訴え、呼びかけよう」と。
 こうして読んでみると、こうした努力が足りなかったのではないか、と痛感する。なんとかしたいものである。

2023年5月5日金曜日

憲法9条は決して死んでいない

 政府は、次々と憲法9条に抵触するような悪法を成立させてきた。最近に至っては、集団的自衛権まで認めるような法律まで成立させてしまった。昨年12月、岸田文雄内閣は安全保障の基本方針「国家安全保障戦略」を9年ぶりに改定し、日本が弾道ミサイルなどで攻撃を受けたとき、相手国のミサイル基地を攻撃できる能力を自衛隊が保有することを決めたのである。このような決定を受けて、元内閣法制局長官の阪田雅裕さんが「憲法9条は死んだ」と発言して注目を集めた。そうした発言に違和感を持ちながら、明確な反論もできないもどかしさを感じていた。
 法律によって、どれだけ憲法を蝕もうとも、憲法である9条はが死ぬようなことはありえない。なぜなら、憲法第九八条に「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」とあるからだ。
 さらに、何よりも憲法9条が現実的な力を持って、その力を発揮してきたし、現に今も力を発揮し続けている。加藤周一氏によれば、「九条は、それ以上踏み出すことを抑えている」。「つまり、特措法をつくらないと海外派兵をできなくしている」し、「その特措法に期限を設けているのも九条による圧力」だと、次のように説明している。

 憲法九条は、戦争と武力の行使を否定していますから、憲法を侵さずに軍隊を海外に派遣することはできない。あえてそれを行うために、特措法、期限を設定した特別措置法をつくっているわけです。しかし、それでもそれは違憲ではないかという問いが、当然、出てくる。いま、その事象そのものの合憲・違憲には立ち入らずに、九条がどこに効いているかということだけを考えると、この「違憲ではないか」というところに効いているのだと思う。違憲であるにしろないにしろ、九条は、それ以上踏み出すことを抑えているのです。つまり、特措法をつくらないと海外派兵をできなくしている。その特措法に期限を設けているのも九条による圧力です。
 改憲運動がねらっているのは、これらの活動、つまり国際社会の要請――すなわちアメリカの要請――であるといわれるこれらの活動を行うために、手枷足枷である九条を変えることです。給油の期限延長だけではなく、心おきなくアフガニスタンの戦争にも、イラクの戦争にも参加できるようにすることです。(加藤周一著「実効性ある行動力を受け継ぐ」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P26)

2023年5月4日木曜日

真の民主主義とは何ぞや

  戦後に再刊された雑誌『改造』を読み始めたが、編集者の意識の高さに驚いている。1946年3月号「巻頭言」では、「真の民主主義とは何ぞや」と問い、「それは民主主義の文字が示す通り、個々の人民が自分の信念を守り抜くということである。その代り他人の信念と他人の自由を尊重しなければならない」と答えている。そして驚いたのが先の戦争を招いてしまった一因に「日本国民が真の民主主義になり切っていなかった」と、民主主義の未成熟を挙げていたことである。その部分を引用すると

 終戦後日本旅は猫も杓子も民主主義を唱える。あたかも全国が民主主義化したの観がある。しかし、民主主義は即成されるものでない。明治の初年五ヶ条の御誓文が布されて以来、昭和七年の五・一五事件迄六十五年間、日本国民は封建政治から民主主義政治に移行する戦いを戦って来た。民権運動、藩閥政治打破から、軍閥排撃、政党内閣樹立に到る迄、日本の民間政治家は悪戦苦闘をした。生命と財産をなげうったものも多かった。ところが、そうして築き上げた民主主義の政治は、軍人のクーデターに会って一溜りもなく消え去った。日本国民が真の民主主義になり切っていなかったからである。(「巻頭言」『改造』1946年3月号)

 この後、

 真の民主主義とは何ぞや。それは民主主義の文字が示す通り、個々の人民が自分の信念を守り抜くということである。その代り他人の信念と他人の自由を尊重しなければならない。(上同)

 と続くのである。

2023年5月3日水曜日

世界連邦主義を知る

 尾崎行雄の思想に惚れ込んで、彼の全集をちょっと読んだこともある。その彼の思想を、平塚らいてう氏が「『一つの世界』 —— 世界連邦主義を知る」で紹介していた。次に紹介したように、廃藩置県の例に、日本における中央政府のような世界連邦をつくる以外に戦争をなくすことはできない、というのである。

 イデオロギーは対立していてもいい。どちらの体制も傷つけず、両方そのままにしておいて、世界から人民の代表を出して世界連邦をつくって、世界憲法でやっていく⋯⋯。
 尾崎行雄氏はこれを廃藩置県の例をとって、よく説明されました。日本の封建時代には、大名の支配する藩というものがあって、軍備を別にもち、経済も教育もなにもかも別個にやっていた。各藩はまったくの独立国として対立していたが、廃藩置県で中央政府ができて、法治国家になるとともに、藩同士の対立というものはなくなった。それと同じで、世界に一つの国をつくりあげれば、各国間の戦争もなくなり、軍備の撤退も可能となる⋯⋯。(「『一つの世界』 —— 世界連邦主義を知る」『元始、女性は太陽であった・4』、平塚らいてう著、大月書店、1992年、p72)

 昨夜このことを知ったばかりだが、今日古い雑誌『改造』を借りていたが、偶然に、尾崎行雄の論文が掲載されており、その中に廃藩置県の例が載っていた。「国家を対立させようということは、ちょうど昔の藩を立てて戰をさせようとするのと同じ思想系統である。今や第二の廃藩置県をしなければ生きていけない段階に来ている」(『改造』、1946年5月、p67)と書き、「人類の生きる道は第二の廃藩置県以外にない」(上同)とまで言い切っている。偶然が引き寄せられたこの思想は、今や忘れられていると言って良い。だからこそ、現代に甦らせる必要がある。

2023年5月2日火曜日

島国日本に戦争を継続する力などない

 東アジアで、戦争・侵略を許さない国際環境づくりを進めることの重要性を説いた本に出会った。次のように「東アジア諸国との間で、日常的な外交努力と経済、文化、市民交流を通じて相互信頼を醸成すること」を訴えていたのだ。
 日本政府と国民は、この東アジアにおいて、国連と連携する地域的集団的安全保障体制をつくりあげることに力を尽くさなければなりません。
 しかし、それにはいくつかの準備段階が必要です。まず一番にやられなければならないのは東アジア諸国との間で、日常的な外交努力と経済、文化、市民交流を通じて相互信頼を醸成することです。そして、その上に立って、わが国は東アジア諸国との友好協力条約締結をめざす。(『9条とウクライナ問題 試練に立つ護憲派の混迷を乗り超えるために』、深草徹著、あけび書房、2022年、p39)
 ここまでは、私も納得したが、その後に、「そうは言っても、ロシアのような国に攻めてこられたらどうする」という問いがあり、そうした前提の議論が展開されていて、そうした議論に違和感を持った。そこには、”日本でもウクライナのような戦闘が可能”ということが、暗黙の前提としてある。
 だが、エネルギーも、食料も他国に頼っている日本に、ウクライナのような余裕はない。そうした現実認識に欠けていると言って良い。一度戦禍に見舞われれれば、この国は、到底持たない。紙不足に陥った時のこと、東日本のあの災害時の物不足のことを想像しただけでも、島国日本に戦争を継続する力などないことを肝に銘じるべきであろう。

2023年5月1日月曜日

「戦争の放棄」は最高理性の誓い

 言葉の一つひとつが、グサリと心に響いてくる。言葉に、住井すゑさんの魂がのり移っているかのような力を持っている。
「敗戦、無条件降伏という苦い気つけグスリで、やっと人間にめざめ、以後は理性ある生きものとして行動しようと、民主憲法を受け入れた」のであり、
「憲法第二章『戦争の放棄』は、人間の人間に対する最高理性の誓いであり、それは究極的に“国防"を否定するもの」である。
「“国防"とは、外敵の侵略に対して国家を防衛すること――と辞書にある。人間不信もいい加減にしてくれ、と言いたくなる。こんな人間不信の語が堂々と生きている限り、この世に平和はな」い
 国防の思想が人間不信に貫かれているとすれば、その対極にあるのが日本国憲法ということになるであろう。前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるように、「人間の信頼」というものを基礎に日本国憲法というものがある。人間の、人間に対する暴力を否定し、その対極にある理性と人間の尊厳に基礎付けられて人間の信頼関係によって成立する社会を建設して行こう、というのが日本国憲法なのである。
 食にせよ、性にせよ、動物的本能の充足が快いものなのは何人も否定しまい。だが、問題は、人間が動物的本能――衝動でことに処していいのか?という点だ。それも人類の興亡にかかわる国防という大問題において。
 かつて日本は愛国心という名で本能を刺戟し、幾多の人間を戦場にかり立てた。かり立てる側も、かり立てられる側も、理性を欠いた本能人間――動物だった。それが敗戦、無条件降伏という苦い気つけグスリで、やっと人間にめざめ、以後は理性ある生きものとして行動しようと、民主憲法を受け入れた。誰もが思う通り、言う通り、憲法第二章「戦争の放棄」は、人間の人間に対する最高理性の誓いであり、それは究極的に“国防"を否定するものである。
 “国防"とは、外敵の侵略に対して国家を防衛すること――と辞書にある。人間不信もいい加減にしてくれ、と言いたくなる。こんな人間不信の語が堂々と生きている限り、この世に平和はなく、せっかくの憲第二章も宙に浮く。(「国防か、地球防衛か」『住井すゑ作品集第7巻』、新潮社、1999年、p276)