書評によると「 借金のかたちに子どもを売買する。家事奴隷となった子どもは毎日10時間以上酷使され、家事労働をこなす。夜は主人の性的玩具にされ、それが終わると夜の街に立たされて主人の小銭を稼ぐ」。
そして、「現在の奴隷は、東南アジアに多いが、アメリカ、イギリス、フランスなどにも存在し、一部は日本にもいてヤクザの支配を受けている」。そうして、人身売買が実行されている。そこには人権も、人間の尊厳もない。あり得ない、と言ったらいいのかもしれない。
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| (『赤旗日曜版』、2023年5月28日号」より) |
「行動の先に希望がある。行動を続けることで未来は切り開かれる」(サルトル) 「人間は進化する存在。今の自分を超えて、創造的であり続ける『超人』を目指せ!」(ニーチェ) こうして社会に発信するというささやかな行動を通じて、一歩でも二歩でも、未来を切り開いていける存在でありたいです。
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| (『赤旗日曜版』、2023年5月28日号」より) |
中国語(漢字文明)は宗教からは自由だが、あまりにも政治的な言語であり、それは現実の中国のありようと重なって見える。その中国を一つの極として世界が動くとき、日本の独自な役割とは何か。
思えばあまりにも苛烈な中国の政治的抗争に破れ、それを嫌った者たちが集まって作ったとも考えられるのが日本である。もう政治は嫌だ、政治の延長たる戦争も嫌だと集まった者たちが作った国なのだ。そういう歴史から言えば、戦争はしない、軍備は持たない、国の交戦権は認めないとする日本国憲法の前文と第九条とは極めてこの国にふさわしい。
この憲法を押しつけ憲法だという論もあるが、人類史的に見れば、日本国憲法の前文と第九条は、もっとも良質な西欧思想の日本への「亡命」である。第二次大戦敗戦後、世界と人類の一つの希望を我々日本人は歴史から託されているといってもよい。
ただし、日本がこのような役割を果たすには、東アジアの諸国民の間に横たわる感情的齟齬を克服しなければならない。先の大戦について、日本はしっかり反省して問題を処理すべきである。東アジアとしての歴史認識の共通化を目的に、期限を切り徹底的に歴史認識の統一を進める作業も必要である。もちろん、認識が違う部分も残ろうが、そのような共同作業の先に、漢字文明を共通の基盤としつつも、異なった文化を有する国(地方)からなる和解した一つの東アジア地域が出現するだろう。主に経済的観点からばかり語られる東アジア共同体構想は、文化の根底から発想することが必要なのだ。(「いま、中国とどう向き合うか —— 新著を脱稿して」『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p463-464。下線は引用者による)
紙というのは、自分に先立ってあるところの一つの世界です。自分に先立ってあるところの力の集合体が今、皆さんの目の前にある。字を書こうとした時には力の集合体が既に前もってある。それに作者は筆記具で字を書いていくわけです。それは農夫が鋤や鉄を持って耕すのと同じことです。その証拠に筆記具というのは、すべて先に向かって、円錐状をしています。例外はありません。何のためにとがっているか。紙に対して切り込んでいくために、とがっているわけです。(『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p348)
一つのエピソードをお話しします。かつて、オウム事件で殺害された坂本弁護士一家のうち夫妻の遺体が新潟、富山県で発掘された日がありました。その時に坂本弁護士のお母さんが何をしてその日を過ごしたか。これが絶妙だと僕は思うのです。
このお母さんは一日、良寛の書の習字をしていたというのです。それはどういうことか。筆というのは刃物ですから、一方では麻原憎しという思いを紙に刻んでいくことができるわけです。他方、筆は柔らかな獣毛でできていまして、筆が広がれば柔らかなタッチが自分のほうに戻ってきますから、今風に言えば、自らの魂安かれと癒やすことができます。
要するに自分の子どもと、その奥さんと一家が死体となって現われてくる耐え難い日に、どうしようもない身もだえするような時に、一方では麻原憎しという思いを習字する。もう一方では、筆は柔らかく、無数の毛がうごめいています。その筆蝕、手応えを通じて、わが心安かれ、私の魂よ鎮まりなさい、もう取り返しはつかないのだーー。憎しという思いと、自らの魂を安らげる効果と両方を、習字を通してやっていたのです。
これ以外にはあり得ないというほど、恐らく最も見事な一日の過ごし方であったと、僕は考えます。それは今言ったように、筆記具というものが刃物であって、そして刃物と同質のものを隠しているというところに、根本的のところが隠れています。(『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p350~351)
美術館の常設展示にルオーの作品があった。今回は、予備知識として美術館にあった『世界の巨匠シリーズ ルオー』を読んでからルオーの作品を鑑賞してきた。そして、ルオーの素晴らしさを発見することができた。
ルオーの才能について「人間の苦難への迸るような共感、無意味な細部を無視してしまう才能」(『世界の巨匠シリーズ ルオー』、P・クールディコン解説、中山公男訳、美術出版社、p7)と書かれていた。
さらに、「彼はまた書くことによって、『死ぬまで休みなく労働しつづける』人びとのことや『雄々しく苦痛に耐える負傷者。一言も語らず(彼らは知らないのだ)、書かない人たち……彼らは高貴の生まれではなく、汗の匂いがし、しばしば同じ顔立ちではあるが、彼らは美しく、彼らは祈り……彼らは祈っているのだ、その身ぶりで知っていただきたい』人びとのことに想いをいたしている」(上同、p12)という。
人びとのこと、と言っても書く対象については書かれていない。が、それは、人間の心の内面を指している。ルオーは、 「彼ら(仲間の画家)は人間の心の奥底のことには全く無関心のようだ。だが、私にとってはそれこそが全生命だ」(『20世紀美術』、高階秀爾著、ちくま学芸文庫、1993年、p169)と語っているように、「死ぬまで休みなく労働しつづける人」や「雄々しく苦痛に耐える負傷者」などの心の奥底のことを描いたのである。このような予備知識を持って改めて作品を見ると、作品の素晴らしさがよくわかる。
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「『出光美術館蔵品図録・ルオー 』、出光美術館編集、平凡社、1991年」より |
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書物に対する”最高の賛辞”ではないか、そう思える言葉に出会った。それは、
書物は人類が生み出したもっともすばらしいものである。そこにはもっとも高貴な人間精神が秘められ、すべての文化、学問、思想がもっとも純粋なかたちでそこに凝縮されている。書物は、私たちがおかれている小さな世界を超えて、遠い過去にさかのぼり、広い世界に足をふみ入れること可能にする。また、人間の精神の奥深くまで入って、人類がこれまで蓄積してきた膨大な知識、思想、技術を私たちの前に提示する。(宇沢弘文著「岩波文庫のブック・フェア・リストをみて」『読書のすすめ第3集』、岩波文庫編集部編、岩波書店、1994年)。である。
勉強は「どれくらい頑張ったか」と「どの方向に向かって頑張ったか」のかけ算で結果が変わります。(『東大医学部在学中に司法試験も一発合格した僕のやっているシンプルな勉強法』、河野玄斗著、KADOKAWA、2018年、p84)
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| 「目標に対する結果は、努力の方向性とかけた時間の量で決まる」(上同、p 84) |
テレビのスイッチを入れたら、ちょうど維新の国会議員が質問に立ち、総理に憲法改正を迫っているところだった。正に「火事場泥棒の改憲論」(『ウクライナ危機から問う日本と世界の平和 戦場ジャーナリストの提言』、志葉玲著、あけび書房、2022年、p179)そのものであった。しかし、防衛費を増大させ、憲法九条の改憲まで進んだら、近隣諸国への大きな脅威となることは目に見えている。脅威が増大すれば、それだけ戦争リスクが増大することも、また、同じである。この度のロシアによるウクライナ侵略の口実が、そのことを証明している。ウクライナ侵略の口実としてプーチン大統領が挙げたのが、「NATOの東方拡大」だったからだだ。
それでは、今、何が求められているのだろうか。
上智大学教授中野晃一さんが言っているように、「敵をつくらない外交」に転換し、「”互いに脅威とならない”原則」を確認することである。「新しい戦前」に似てきたという声もある。それなら、一気に戦争突入状態になって、気がついたら敗戦という塗炭の苦しみを味わった経験に学び、何が何でも戦争を阻止しなければならない。そうした覚悟こそ、求められているといえよう。
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| (「『赤旗日曜版』、2023年4月9日号」より) |
日本も当然、主権が確立している国家ではあるのですが、米国との関係では日米安保条約や、そのもとでの日米地位協定が存在し、主権の一部を制限しているがために、領空が大きく制限され通常の旅客機が自由に飛べないほか、米軍が事件や事故を起こしても日本の法律や司法では裁けないばかりか現場にも近づけないなど、大きな制約を受けています。(『「くうき」が僕らを呑みこむ前に 脱サイレント・マジョリティー』、山田健太・たまむらさちこ作、理論社、2023年、p87)
私は戦後一貫して「平和憲法を守れ」という態度をとっています。それは平和憲法、特に九条には人類の未来の理想が含まれているからです。カントの永久平和論にも通じる思想です。今、環境破壊や核戦争による人類滅亡の危機が叫ばれるとき、やはり、人類は戦争によって運命を決めるという業の愚かさを知り、永久平和の道を真剣に考えるべきだと思います。
憲法改正論者の多くは、日本をもう一度、一九世紀の国家主義思想に戻そうとするものです。そうである限り、私は一生、憲法改正の動きに反対を続けていこうと思っています。(梅原猛著「永久平和の道を」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P3)
よい作品をできるだけ多く、又、何度も見ることが大事です。
いい絵は、眼にも心にとっても無限の教育者となり、それにより自然を見る鑑賞力も人を見る判断力も豊かとなり、街並みを見ることも、くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウインドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずるでしょう。そして、そんな価値観が自然と周囲の人間関係を大切にし、他人の痛みが判り、真の教養も生まれ、素晴らしい地方文化が生き続きられるのです。(『絵画入門 絵のある生活と人生』、大川栄二著、大川美術館)
日本国憲法第九条に対する、これほど分かりやすい説明(解説)があるだろうか、と思えた説明にであった。「日本が文化国家と言われるのは、憲法九条で、戦争の放棄を明記しているから」だ、と言って、憲法九条で「人殺しの戦争は絶対に起さない。人間を大切にする。生命をまもる。そう誓ったから」(『住井すゑ作品集 第8巻』、住井すゑ著、新潮社、1999年、P406)だという。つまり、憲法九条で誓っているのは「人殺しの戦争は絶対に起さない。人間を大切にする。生命をまもる」ことで、国を守るとは一言も言っていない。ここに国防という概念はない。
もう一つ大切なことに気づいた。「生命」をまもることであって、国民でもないし、人間だけでもない。動物も、植物もまもる。そこに普遍的な平等思想が貫かれているのだ。それに対し、ウクライナの現状を考えてみると、そこにあるのは「国を守る戦い」であって、多くの人間だけでなく、動植物も被害にあっている。はっきり言って、人間を盾にして国を守ろうとしている。人間も被害にあって当然だし、「やむを得ない犠牲」だというであろう。本当だろうか。
犠牲にあった人たちのことを考えてみよう。と、ここで小田実の『「難死」の思想』を思い出した。そこに「ただもう死にたくない死にたくないと逃げまわっているうちに黒焦げになってしまった、いわば、虫ケラどもの死であった」(「現代日本文学体系・84』、筑摩書房、p328)とあるが、このような「難死」がウクライナでも繰り返されている。こんなことが許されていいいのか。確かに、ロシアは悪い。だからと言って、防戦を繰り返していいのだろうか。負けてもいい、領土を一部取られても、命には代えられないのではないだろうか。「領土よりも、市民の命を!」である。
「人命を至高の価値と認めなければならない」
「非暴力が人類共同体の生活の基礎とならねばならない」
「相互理解と信頼が、恐怖と疑心暗鬼にとって代わらねばならない」
このデリー宣言は、その精神において日本国憲法と合致しているのです。(上同、p33)
この「デリー宣言」が意味することが重要なのだ。つまり、「デリー宣言」は、日本国憲法は、世界に誇るだけでなく、「日本国憲法が普遍性のある憲法である」ことを示している。だからこそ、それだけ重要な、文字通り「人類の宝」なのである。そのことを再確認していくことが、歴史の逆光を押しとどめる力になるに違いない。
アリストテレスも言っているように、民衆による政治、デモクラシーというのは力のないもの、権威をもたざるもの、もてる力のない小さな人間が力をもつことをいいます。大きな人間によって押し潰されそうなとき、あるいは振り回されたり、巻き込まれたりするときに、小さな人々が力を合わせ、知恵を振り絞って集めることによって力をもつこと、また、その力を信じること、それがデモクラシーの原点だと。
その古代ギリシャのデモクラシーには、女性と奴隷は参加できませんでした。彼らはピープルの中に入っていなかったわけです。それがいまや入っています。そして入っているだけではなく、注目をあびています。(玄順恵著「人々の力は、捨てたものではない」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P29)
花森安治さんが、「武器をすてよう」と「十回でも百回でも千回でも、世界中がその気になるまで、くり返し、くり返し、呼びかけ、説き訴えなさい」と書いていることを「武器(殺人凶器)を捨てよう」に書いた。このような思想の大元とも言える考え方を知った。
花森精神の中心となる考え方の一つに、いわれなき権威のぶちこわしということがある。日本人は今まで、なにかの権威のようなものに盲従したり、畏怖の念を持ってきた。その号令によって動かされてきたのである。ここで述べられている「花森精神の中心となる考え方」は、日本国憲法における国民主権そのもので、これを優しく言い換えたものである。国会議員を「先生」と呼び、権威を感じているようでは、主権者とは言えないことを、教わった気がする。
それらの権威から解放されて、自由に自分の眼で判断すること、それこそ真の合理的精神である、と花森氏は説いている。三枝佐枝子著「花森安治——暮し」民主主義の守本尊」『中央公論』、1973年5月号
お袋の実家の千葉へ移ったんだけど、近くに陸軍の飛行場があって。戦闘機を見ながら、将来は飛行機に乗って将校さんになりたいって思うようになった。この中の、「国で定められたことを信じて、それでいいと思ってた」というところ読んだとき、(朝日・東大谷口研究室共同調査)で、”防衛力強化「賛成」が6割”という記事を思い出した。6割という数字は、「閣議決定」という国で定められたこと信じて(深く考えることもなく)、それでいいと思った結果なのであろう、と思えたのだ。
楽に早くえらくなりたかった。小学校の時、作文に書いてたもんな。今じゃ考えられないよね。
今みたいに自由じゃない時代を生きてきた。
おかしなもんだな。人間というのは。
国で定められたことを信じて、それでいいと思ってた。戦争してたわけだから。勝ってるうちは万歳万歳で。当時はそれが当たり前。(「語る 人生の贈りもの」、朝日新聞記事、2023年5月9日)
今現在において、日米安保条約は日本人の「安らかな生活」のためには邪魔です。沖縄の事件もそうですが、基地周辺では問題ばかり起こっています。もう冷戦も終わったのですから、冷戦に合わせてつくられた安保条約は不要ですね。そして、(事故とはいえ)日本人を殺すよう自衛隊もなくなってもらいたい。いきなりゼロにはできないから、まずは、国外に出て行かないこと。そして、集団的自衛権などというとんでもないものも、認めないこと。そうやって、じょじょに縮小していけばいいのです。(澤地久枝著「今こそ市民の時代の底力を」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P63)
住井すゑさんが、「狂気」という小論で南アフリカ共和国の「アパルトヘイト」を訴えた映画「アモク」を紹介していた。その中の一節を紹介する。
まことに全巻、 白人による狂気の連続である。その狂気の第一は、日本の三・三倍もの広大な国土の八七パーセントが、総人口の二〇パーセントに過ぎない白人の地域であり、残り一三パーセントの地域に人口の八〇%を占める非白人が”隔離”されている事実だ。 (「狂気」『住井すゑ作品集第8巻』、新潮社、1999年、p309)このところを読んだとき、イスラエル問題の焦点にもなっているガザ地区のことを思い出した。長さ50km、幅5~8kmの狭く細長い種子島ほどの面積に200万人の人が住むガザ地区は、 世界で最も人口密度が高い場所の一つである。そして、「このような負の歴史」を集めてみたらどうだろう、というアイデアが閃いた。早速、「負の歴史」に関する本を調べたが、その過程で、佐々木基一という(私にとって)全く新しい興味のある人に出会った。以下、彼の全集の興味ある項目である。
『佐々木基一全集 3』、佐々木 基一 著、佐々木基一全集刊行会編纂 、河出書房新社、2013
戦後の決算 216-225
プロレタリア独裁と民主化は両立しえないか 226-229
文学運動と党員文学者の除名237-246
トンカと共産主義 246-251
おお日本共産党 252-259
毒ガスと原発 465-468
世紀末に向って468-478
佐々木基一全集 5
青春の負の歴史13-17
反骨の文学 56-61
原民喜とわたし 201-202
原民喜と大田洋子さんのこと 203-205
原民喜の二十一回忌に思う 206-207
鎮魂の文学「原民喜」208-209
佐々木基一全集 6
批評精神の探求 157-166
国境の感想 360-362
佐々木基一全集 7
戦争と革命 155-158
アメリカ戦争映画雑感 163-166
今日における戦争の受けとめ方 281-284
佐々木基一全集 8
永遠なるユートピア-老子 407-422
無名の仙人 321-329
住井すゑさんの言葉は、読んでいて清々しいのはなぜだろうか。「歯に衣を着せぬ」からかと思ったが、どうも、それだけではない。清々しさの大元は、「本質に迫る」迫力を持っているからに違いない。「武器という名の殺人凶器を捨てること、それなくして、人間の尊厳は成立しない」と訴えた次の文章も、迫力を持って迫ってくる。
人類は他の生物とともに、地球に生きることで、地球存在の調和に役立つ。そのように調和に役立っている人類を、人為的に殺戮することは、そのまま地球破壊の大罪ではないのか。
「国を守る」という美名の下、人類を犠牲にする大罪から、人間は目覚めねばならない。武器という名の殺人凶器を捨てることが、いかに差し迫った必要かをさとらねばならない。それなくして、人間の尊厳は成立しない。(「志の人花森安治」『住井すゑ作品集第8巻』、新潮社、1999年、p304)
憲法九条は、戦争と武力の行使を否定していますから、憲法を侵さずに軍隊を海外に派遣することはできない。あえてそれを行うために、特措法、期限を設定した特別措置法をつくっているわけです。しかし、それでもそれは違憲ではないかという問いが、当然、出てくる。いま、その事象そのものの合憲・違憲には立ち入らずに、九条がどこに効いているかということだけを考えると、この「違憲ではないか」というところに効いているのだと思う。違憲であるにしろないにしろ、九条は、それ以上踏み出すことを抑えているのです。つまり、特措法をつくらないと海外派兵をできなくしている。その特措法に期限を設けているのも九条による圧力です。
改憲運動がねらっているのは、これらの活動、つまり国際社会の要請――すなわちアメリカの要請――であるといわれるこれらの活動を行うために、手枷足枷である九条を変えることです。給油の期限延長だけではなく、心おきなくアフガニスタンの戦争にも、イラクの戦争にも参加できるようにすることです。(加藤周一著「実効性ある行動力を受け継ぐ」『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』、井上ひさし他著、岩波書店、2008年、P26)
戦後に再刊された雑誌『改造』を読み始めたが、編集者の意識の高さに驚いている。1946年3月号「巻頭言」では、「真の民主主義とは何ぞや」と問い、「それは民主主義の文字が示す通り、個々の人民が自分の信念を守り抜くということである。その代り他人の信念と他人の自由を尊重しなければならない」と答えている。そして驚いたのが先の戦争を招いてしまった一因に「日本国民が真の民主主義になり切っていなかった」と、民主主義の未成熟を挙げていたことである。その部分を引用すると
終戦後日本旅は猫も杓子も民主主義を唱える。あたかも全国が民主主義化したの観がある。しかし、民主主義は即成されるものでない。明治の初年五ヶ条の御誓文が布されて以来、昭和七年の五・一五事件迄六十五年間、日本国民は封建政治から民主主義政治に移行する戦いを戦って来た。民権運動、藩閥政治打破から、軍閥排撃、政党内閣樹立に到る迄、日本の民間政治家は悪戦苦闘をした。生命と財産をなげうったものも多かった。ところが、そうして築き上げた民主主義の政治は、軍人のクーデターに会って一溜りもなく消え去った。日本国民が真の民主主義になり切っていなかったからである。(「巻頭言」『改造』1946年3月号)
この後、
真の民主主義とは何ぞや。それは民主主義の文字が示す通り、個々の人民が自分の信念を守り抜くということである。その代り他人の信念と他人の自由を尊重しなければならない。(上同)
と続くのである。
尾崎行雄の思想に惚れ込んで、彼の全集をちょっと読んだこともある。その彼の思想を、平塚らいてう氏が「『一つの世界』 —— 世界連邦主義を知る」で紹介していた。次に紹介したように、廃藩置県の例に、日本における中央政府のような世界連邦をつくる以外に戦争をなくすことはできない、というのである。
イデオロギーは対立していてもいい。どちらの体制も傷つけず、両方そのままにしておいて、世界から人民の代表を出して世界連邦をつくって、世界憲法でやっていく⋯⋯。
尾崎行雄氏はこれを廃藩置県の例をとって、よく説明されました。日本の封建時代には、大名の支配する藩というものがあって、軍備を別にもち、経済も教育もなにもかも別個にやっていた。各藩はまったくの独立国として対立していたが、廃藩置県で中央政府ができて、法治国家になるとともに、藩同士の対立というものはなくなった。それと同じで、世界に一つの国をつくりあげれば、各国間の戦争もなくなり、軍備の撤退も可能となる⋯⋯。(「『一つの世界』 —— 世界連邦主義を知る」『元始、女性は太陽であった・4』、平塚らいてう著、大月書店、1992年、p72)
昨夜このことを知ったばかりだが、今日古い雑誌『改造』を借りていたが、偶然に、尾崎行雄の論文が掲載されており、その中に廃藩置県の例が載っていた。「国家を対立させようということは、ちょうど昔の藩を立てて戰をさせようとするのと同じ思想系統である。今や第二の廃藩置県をしなければ生きていけない段階に来ている」(『改造』、1946年5月、p67)と書き、「人類の生きる道は第二の廃藩置県以外にない」(上同)とまで言い切っている。偶然が引き寄せられたこの思想は、今や忘れられていると言って良い。だからこそ、現代に甦らせる必要がある。
日本政府と国民は、この東アジアにおいて、国連と連携する地域的集団的安全保障体制をつくりあげることに力を尽くさなければなりません。
しかし、それにはいくつかの準備段階が必要です。まず一番にやられなければならないのは東アジア諸国との間で、日常的な外交努力と経済、文化、市民交流を通じて相互信頼を醸成することです。そして、その上に立って、わが国は東アジア諸国との友好協力条約締結をめざす。(『9条とウクライナ問題 試練に立つ護憲派の混迷を乗り超えるために』、深草徹著、あけび書房、2022年、p39)
食にせよ、性にせよ、動物的本能の充足が快いものなのは何人も否定しまい。だが、問題は、人間が動物的本能――衝動でことに処していいのか?という点だ。それも人類の興亡にかかわる国防という大問題において。
かつて日本は愛国心という名で本能を刺戟し、幾多の人間を戦場にかり立てた。かり立てる側も、かり立てられる側も、理性を欠いた本能人間――動物だった。それが敗戦、無条件降伏という苦い気つけグスリで、やっと人間にめざめ、以後は理性ある生きものとして行動しようと、民主憲法を受け入れた。誰もが思う通り、言う通り、憲法第二章「戦争の放棄」は、人間の人間に対する最高理性の誓いであり、それは究極的に“国防"を否定するものである。
“国防"とは、外敵の侵略に対して国家を防衛すること――と辞書にある。人間不信もいい加減にしてくれ、と言いたくなる。こんな人間不信の語が堂々と生きている限り、この世に平和はなく、せっかくの憲第二章も宙に浮く。(「国防か、地球防衛か」『住井すゑ作品集第7巻』、新潮社、1999年、p276)