そして結論です。
空の境地というのは、対象と一体になるということです。なんて分かりやすい解説でしょう。続けて、空を体得するには修行という段階、つまり、技から術の段階を経て、芸の境地にまで達することが必要だそうです。(では、私にとって、どんな芸の境地が待っているのでしょうか。これからの課題です。)
椿の花の絵を描くときは、"椿になれ"、船を描くときは"船と一体になれ"ということです。将棋では「王将」の坂田三吉がボカをやって銀を死なせたとき、思わず「銀が泣きよる」というせりふを吐いたのは、まさに将棋の駒と坂田三吉とは一体になっていたからです。また専門 棋士が駒や基石を並べないでも指せるのも一体となっているということでしょう。柔道の投げ、 剣道の打ち込みも、空の境地のときに成功します。
(中略)
空というのは、むなしいとか、からっぽとかいうことではありません。反対に充実しており、健全だということです。胃や歯が痛いときは、われわれは胃や歯のことを意識します。痛くない時は、胃や歯の存在を忘れています。これが空です。決して存在しないのでなく、充実して存在しているのです。(注2)
そうして、
これが芸の段階にまでいくと、若乃花(現二子山親力)と栃錦(現春日野親方)の相撲のように、勝つとか負けるとかにこだわらず、ただ無念無想、全力を尽くして戦うのみです。勝ち、負けはあくまでもその結果にすぎません。その過程、いわば相撲の醍醐味わっているところに、この両横綱の真髄があったと思います。(注3)(注1)『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p26からの要約
(注2)上同、p72~73
(注3)上同、p74
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