2021年11月30日火曜日

自らも主権者として成長を

 日刊スポーツコラム【政界地獄耳】(2021年11月30日)で、立憲民主党の代表選に水を差す連合会長・芳野友子の、相変わらずの政治介入について言及して、その姿勢を批判していた。このコラムで知ったことだが、なんと
 来年夏の参院選を念頭に「立憲民主党、国民民主党、連合が協力し合って戦える関係をつくっていきたい」と述べ「立民と国民民主の合流は今後、求めていきたい」と余計な政治介入を繰り返し、先の総選挙での野党共闘に対して共産党との共闘を「連合の立場としてはあり得ない。そのことは言い続けていきたい」と代表選挙直前の立憲民主党を強くけん制した。
 という。それに対し、コラムでは、連合の「介入」に抗議すらない立憲民主党を「いびつな姿」と揶揄していた。
 どちらにしても、12月から新執行部体制でのスタートになる。誰が代表になろうとも、変わり映えしないに違いない。連合と日本共産党に対し、どうした対応に出てくるかが、当面の見ものであろう。
 それは中央に対してだが、地方に関しては、そう傍観者ではいられない。自ら投票した候補者がいるのだから、積極的にコンタクトを取り、対話を重ねるようにしていきたい。政党に変化を求めるだけでなく、自らも主権者として成長するべきであろう。

2021年11月29日月曜日

意志と意欲のメンテナンス

 ベストセラーだという分厚い本『独学大全:絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』(読書猿著、ダイヤモンド社、2020年)を読んだことがある。その時のメモに、「意志と意欲のメンテナンス」という項目があった。志の強さは、それを立てた時間にあるのではなく「自身の行為や思考を絶えず志に結び直した、その繰り返しの中に生じる」(p67)というのだ。そういえば、メモは見直すと良いというのも、「意志と意欲のメンテナンス」になる。にもかかわらず、このメモは、8ヶ月も前のメモだった。メンテナンスを怠ってきたことになる。
 メモの中に「複数の学習ルートから学習ルートを選ぶ」という言葉もあって、この言葉から閃いた言葉として「平和への道すじもこれだ!」とメモしてあった。現政権の平和への道すじは軍事路線一辺倒だが、軍事力に頼らない、それこそ平和的な、「いろんなルートの平和への道すじがあるじゃないか」という思いをメモしたものだった。その思いをメンテナンスを通して育てる必要があるのに、残念ながら、育てられないできた。
 この本には、当たり前のことでもあるが、「目標を描く」という項目もあった。ところが、平和の問題に関していえば、「戦争は嫌だ」と言いながら、「不戦」という目標を持たず、「攻められたらどうする」という論法で、軍事力を増強してきたことになる。この論法の1番の弱点は、「攻められた
時点」で、戦争になってしまうことである。だからこそ、「不戦」という目標を描くことが重要になってくる。そして、その目標を達成するためにはどうすればいいか、を考えていけばいい。「不戦」という意志と意欲を持ち、そのメンテナンスをしながら、「不戦」という目標を実現していけばいいのだ。ようやくそのことに気がついた。

2021年11月28日日曜日

宇宙の法則に逆らったヒトラー

 新鮮で、とても重要なことを学んだ。「アドルフ・ヒトラーのような思想」は、”宇宙の法則”に逆らっている、という歌手・俳優の美輪明宏さんの次のような指摘だ。
 みんな同じであるべきだ、となると、「ゲルマン民族こそが優れている」といって、何百万人ものユダヤ人を殺したアドルフ・ヒトラーのような思想に行き着きます。彼は追い詰められて、最後に自殺するしかなかった。宇宙の法則に逆らったからです。(「(悩みのるつぼ)作品への思い込みが強すぎる」『朝日新聞be』、2021年11月27日)
 ところで、第二次世界大戦において日本は、日本・ドイツ・イタリア間で日独伊三国同盟を結んで戦ったことでもわかるように、宇宙の法則に逆らったからこそ、主要な日本は廃墟とされ敗戦となった。その反省を経て、宇宙の法則に則った日本国憲法が制定され、新しい日本に向かって再出発することになった。
 ところが、また宇宙の法則に逆らう潮流が大手をふるって歩き出ししている。軍事力に力を持たせ、軍事力強化にした走る勢力は、宇宙の法則に逆らっており、かつてのドイツや日本のように、手痛いしっぺ返しを喰らうことが目に見えている。そうなる前に、なんとかしたいものである。

2021年11月27日土曜日

多くの国々は支え合っている

 宇宙空間には、「スペースデブリ」と呼ばれる多くの宇宙ゴミが存在している。それを掃除しないと現在活躍している人工衛星に衝突し、日常生活に支障をきたしかねないという。衛星放送、カーナビ、天気予報などでもわかるように、「私たちは宇宙に支えられて」いるからだ。その宇宙が「使えなくなるということは、暮らしが宇宙利用を始める70年以上前に戻ることを意味」(朝日新聞be、2021年11月27日:「(フロントランナー)岡田光信さん 『未開拓分野に踏み出せる。市場は自分で創る』」より)するというのだ。
 この「私たちは宇宙に支えられています」という言葉から、あらためて、私たちは、いかに多くの存在に支えられているか、ということに気付かされ、同時にその、当たり前としての多くの存在、宇宙であり、陸海空の存在を大切にしていくことの重要性に気付かされた。
 米軍による不法投棄によって地下水の汚染が発覚したり、辺野古では、不当で不要な巨大軍事基地の建設という名目で多くの珊瑚礁が破壊され、まさに巨大な海洋汚染が進行している。公害によって大気の汚染が広がり、四日市ぜんそくといった公害病まで発症した。水俣病で知られる海洋汚染もあった。当たり前のこととして大切にされてこなかった証拠である。
 そういえば、日本は、多くの国によって支えられていることも忘れてはいけない。我が国だけではなく、今は、輸出入、文化や科学の交流など、「多くの国々が支え合っている」と言っても良い。こうした現状を無視し、悪戯に対立を際立たせ、軍事力を強化することは、「百害あって一利なし」なのである。この単純な理に、早く気づいてもらいたいものである。

2021年11月26日金曜日

抵抗も表現活動の一環!

 作曲家の池辺晋一郎さんが、興味ある発言をしていた。《「九条の会」での活動も。政権への意見も躊躇しません》が、との問いに対し、「言いたいことを隠さず言うことは、僕にとっては目的じゃなく、僕という音楽家が在り続けるために必要なプロセスだから。ただひとりの人間として楽しんでいることを邪魔されたり、管理されたり、もしくは支配されたりすることに、僕は強く抵抗する。作曲という表現活動の軸を他ならぬ僕の中に築くため、言うべきことを言い、書くべきものを書く」(朝日新聞コラム「(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:18 未知の世界へ、心震わせたい」、2021年11月26日)と。
 ここのところを読んだ時、表現活動をしていても、言いたいことも言わない人たちのことを考えた。言いたいことを言わなくても、「邪魔されたり、管理されたり、もしくは支配されたりすること」はない、黙っていた方が、表現活動に支障がない、と考えているのだろうか、と。しかし、それでは、表現活動にとっては命とも言える事由の幅が狭められることになる。それに比べて、池辺晋一郎さんにとっては、抵抗すること、言いたいことを言うことも、表現活動の一環になっている。自由を謳歌している、と言っても良いくらいだ。
 日本人は、芸能人に限らず、抵抗意識が弱い、と言われている。自民党政権は、国会軽視にはじまって、やりたい放題で、自殺者まで出した元凶の政治家でも、再選されて政治活動を行なっている。そのような政治家が、のうのうとしていられる日本なのだから、やはり抵抗意識が弱いと言われても仕方がない。ということは、それだけ日本人は「個の意識」が弱い、「表現意欲」が弱い、と言うことだろうか。黙っていては、いつかは自らの表現活動を「邪魔されたり、管理されたり、もしくは支配されたりする」こともありうることを肝に銘じ、「個の意識」と「表現意欲」に磨きをかけたいものである。

2021年11月25日木曜日

民主主義の復活と公共空間の拡充

 西川潤さんの著書に『2030年未来への選択』(日本経済新聞出版社、2018年)という本があって、書名に魅せたれて手にした本である。まず最初に「この近未来に影響を与え得る世界の主要な変数として、人口、食料、エネルギー、資源、コモンズの動きを考えた」という言葉を見つけ、平和の問題、戦争の問題がないことに不満を抱いた。しかし、よく読んで、平和の問題も論及していることがわかった。それは、
 現在の資本主義システム危機を通じて、国際・国内関係の破綻を避け、進行する不均衡を是正する方向が可能であることを見た。それは、個人一人一人の価値観、地域社会と市場・企業関係の再編、そして民主主義の復活と公共空間の拡充による国家の再構成を通じて、可能となる。それは、国家につきものの暴力性(ギデンズ 一九九九)を軍縮の努力を通じ減らして、グローバルな平和社会への国際協力を通じて実現する性質のものである。(『2030年未来への選択』、西川潤著、日本経済新聞出版社、2018年、p268)
 このような社会を実現するためには、「立憲主義のダイナミズム」というのがキーワードになるようである。憲法には、「国家権力を規制するという通常の意味と共に、そのダイナミクスを示し、国家=社会をつくり上げていく、あるいは再構成していく力」という。この後者が「立憲主義のダイナミズム」というものなのだ。この言葉から思い出されるのは、日本国憲法第一二条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という部分で、この部分の発展型、その具体化として、「立憲主義のダイナミズム」が存在していると考えられる。
 ここで明らかなことは、未来社会に向かって「軍縮の努力」は避けて通れないということであろう。2021年11月24日NHK放送の歴史探偵は「江戸の天才たち」だった。江戸時代、それは世界的な才能が花開いた時代だった。最先端の望遠鏡を独力で作った職人や世界レベルの数学理論を構築した和算家をはじめ、天才たちが次々登場したという。それも、200年続いた平和があったからだと言われている。それだけ、平和というものが重要なのに、日本は、アメリカと一緒になって「軍拡」という逆行路線を走っている。なんとしても、歯止めをかけたいものである。

2021年11月24日水曜日

ハインリッヒの法則と原発事故

 だいぶ前に、「凶悪犯罪があるところには、必ず、多くの軽犯罪がある。したがって、軽犯罪を軽視しないでその取り組み(軽犯罪防止活動など)を強化することで、凶悪犯罪も少なくできる」と、そんな法則があることを知った。しかし、その法則の名前も忘れてしまった。
 その法則のことを、健康対策に用いていた本(『健康はピラミッド』、富士村寿著、プレジデント社、1987年)があった。この法則は、「大事故や大災害は、日常の小事故の注意によって防ぐことができるという、実に重要な法則」だが、「これこそが、健康維持の法則そのもの」だというのだ。つまり、「私たちは、日常三〇〇回の小事故、たとえば飲み過ぎ、寝不足、栄養の片寄り、食事時間の不規則、よく噛まない、ストレスなどなどを重ねているうち、カゼ、発熱、ひどい肩こり、痛、腰痛、下痢などを二九回重ね、そしてある日突然思いもかけぬ大病に倒れることとなる」。だから、「日常生活の上でのちょっとした注意や配慮」によって、些細な不調のうちに対策をとることが大切だ、ということになる。
 その法則というのが、H・W・ハインリッヒというドイッの学者によって一九三一年に発表されたハインリッヒの法則である。「ハインリッヒの法則は、一、二九、三〇〇という数字で示されるもので、一回の大事故が起るときには、実はその前に二九回の中事故が起っている筈であり、またその前には三〇〇回の小事故が起っている筈であるという統計なのです。つまり、目立った災害がともなわないような小さな事故が三〇〇回も起っていることを軽視していると、その中に一割程度の中事故を含みながら、やがて一つの大事故を引き起す機会を、順次積み上げて行く」(p92)という。
 この法則を知って、原子力発電所や核兵器の恐ろしさを再認識することができた。原子力発電所や核兵器が存在し、その管理運用をしている限り、小事故は必ず起き、順次積み上げられていく。そして、「その中に一割程度の中事故を含みながら、やがて一つの大事故を引き起す機会を、順次積み上げて行く」(p92)ことになる。これまでも大きな原発事故も、結局は「ハインリッヒの法則」によって引き起こされたと言っても過言ではあるまい。

2021年11月23日火曜日

アメリカ目線から国民目線に転換を

 丸山眞男さんの言葉に「生命・自由および幸福追求の権利は私たちが何ものにも譲り渡すことのできない神聖な基本権であり、そもそも政府の存在理由がなによりそうした基本権の保障にあることは、アメリカ独立宣言以来、ほぼ二百年を経て世界の常識となっております」(『丸山眞男集別集 第2巻』、岩波書店、p261)というのがある。一九六〇年代の発言で、政府の存在理由が基本的人権の保障にあることは世界の常識だというのだ。しかし、現在に至っても、少なくても日本では常識にはなっていない。
 それどころか政府は、相変わらず国民目線よりも、アメリカ目線、官僚目線、大企業目線を優先している。その典型は、国会開催要求を跳ね除けるなどの国会軽視であろう。解釈改憲によって進められてきた自衛隊の強化も、度重なる県民意思を無視して進められてきた辺野古米軍基地建設も、結局は米政権の要求によるものであることは自明のことになっている。
 なぜ、こうも長年に渡って国民軽視の政治が続けられてきたのか。これでは、いつ、時限爆弾が爆発するような事態になるかわからない。世界には多くの核兵器と原子力発電所があるからだ。これまでの政府の取り組みは、時限爆弾の針を進めているようにしか見えない。今必要なことは、時限爆弾の針を止めるか、針の進行速度を遅らすことである。日本国憲法を守り、その真価を発揮させることは、その重要な一歩になるであろう。

2021年11月22日月曜日

憲法におけるコペルニクス的転回

 歴史学者の家永三郎さんが、「コペルニクス的転回――新憲法の意義が理解できなかった私」(『わたしが思うこと』、家永三郎著、民衆社、1995年、p5657)という文章の中で、「日本国憲法制定の当初には、この憲法の画期的意義を理解することができなかった。憲法よりも、降伏直後に新聞紙法・出版法などの治安立法が廃止されたのと、帝国陸海軍が消滅し、微兵制のなくなったのとが、あまりにもうれしかったため、それらが憲法のレベルで保障されたことの画期的意義や、そのほかにも明治憲法期に思いもよらなかった新しい理念が豊富に盛りこまれていることも、よくわからなかった」と書いている。それだけでなく「一流の憲法学者でも、必ずしも新憲法の画期的意義をすみずみまですぐに理解していたとはいえないように思われる」と書かれていた。
 それでは、多くの、普通の日本人にとっては、なおさら、新憲法の意義など理解されていないのかもしれない。ということは、そのような状態で、なんとなく、憲法”改正”なら、と、憲法改定に賛意を示している人がほとんどではないか、と思うようになった。つまり、積極的、意識的な改憲論者は少数で、改憲論者の多くは、投票行動の浮動票のように確固とした意志などなのかもしれない。
 
家永さんの同じ文章の中で、憲法三六条の「教育を受ける権利」を例に、その意義を、「明治憲法時代に教育を受けることは、『忠良ナル臣民』となるための日本人の義務とされていたのであった。それが日本国民各個が人間として成長するのに必要な教育を受ける権利として保障されることになったのだから、まさにコペルニクス的転回といわなければなるまい」と説明していた。明治憲法と対比されることによって、憲法三六条「教育を受ける権利」の意義が、とてもよく理解できた。改めて、憲法の画期的意義を理解する必要があるのかもしれない。

2021年11月21日日曜日

人間のための芸術へ

 日曜美術館「ルーブル美術館 美の殿堂の500年“太陽王”が夢見た芸術の国」を見て、「ロココ芸術・美術」というのを初めて知った。それは、「栄光とか権力とは無縁の世界」と説明され、フランソワ・ブーシェの「オダリスク」やアントワーヌ・ヴァトーの「シテール島の巡礼」が紹介されていた。ネットの説明は、「ロココ美術というのは優雅で美しい美術様式として世間に認知」とか「ロココ美術様式は、ソフトな色味、曲線等を特徴として描かれる甘美で優美な絵画スタイル」というだけだった。
 最後に、結びとして、トレ・ビュルガーの言葉「かつての芸術は、神のため、君主のために作られた。そして、おそらく、人間のための芸術が作られる時がやってきたのだ」を紹介していた。「ロココ芸術」を通して、 「人間のための芸術」が花開いたのかもしれない。

 



2021年11月20日土曜日

攻撃に対してもろい日本

 「一度書かれた文字はそのまま動くことはありませんが、その文字を受け取った人の心の中で文字は自由に運動を始めます(福岡伸一)」。これは、朝日新聞コラム「折々のことば」(2021年11月20日)で鷲田清一さんが取り上げた言葉だ。続けて、「文字は、それを読む人の心をかき混ぜ、ぶるぶる震わせ、渦とでもいうか、なにか知れない動き(ムーブ)を引き起こす。あるいは、心を温かくしたり、凍りつかせたりする。物語はだから、だれでもその人なりに受け取り感じればいいのだと、生物学者は言う。本紙連載中の「福岡伸一の新・ドリトル先生物語」第2回(4月1日朝刊)から」とあった。
 しかし、そうした心の変化は時間が経つにつれ、忘れてしまう。だから、人は忘れないようにメモをするようになった。私のメモ帳は何冊にもなったが、それでも、忘れてしまう。脳の機能がそうなっているのだから、仕方がないと言えばそれまでだが、一度覚えたものは、忘れたとは言え、脳内にストックされている。そして、なんらかの関連刺激によって思い出されることがある。
 これまでの話は、整理されていない記憶のことで、上手に整理された記憶は、思い出すのも容易らしい。というのは、そういった情報として知っているだけで、整理の願望を持ちながら、なかなか実践が伴わない。いろんな問題意識を持ちながら、その問題意識すら整理されていない。関連する問題意識、問題意識のランクづけ、など、整理の仕方も決まっていない。今のところ、その日その日の気分で動いているのが現状なのだ。
 今日借りてきた武谷三男の本『市民の論理と科学』の中の「自衛隊亡国論」というのがあった。そこで、日本にある原子量発電所は「潜水艦で浮上して砲撃ないしミサイル弾攻撃を容易に行うことができる。そうなると日本は死の灰で覆われてしまう。原水爆をつ合わないでも死の灰攻撃をしたのと同じことになるであろう」。だから、「今日の日本ほど攻撃に対してもろい国はない」という。前から、日本は原発があるから、絶対非武装でなくてはいけない。一度戦禍に会えば、復興など無理だという問題意識を持っていた。このような問題意識が「自衛隊亡国論」によって浮上したことになる。最近の防衛環境の悪化を考えると、この問題意識をもっと原理的に、かつ普遍的な問題として深めていく必要性を痛感した。

2021年11月19日金曜日

平和は詩だったのだ

 『最後の詩集』(長田弘著、みすず書房、2015年)の中に、心に響いた詩があった。まず、「川の音。山の端の夕暮れ。/アカマツの影。夜の静けさ。/毎日の何事も、詩だった。/ 坂道も、家並みも、詩だった」というところが、詩的なイメージが、詩視的(造語) なイメージと重なって、なんとも心地よかった。そして、「平和というのは何であったか。/・・・・/平和は詩だったのだ、/どんな季節にも田畑が詩だったように」ときた。 素晴らしい。
 そして、後半にある「死も、詩だった。無くなった、 /そのような詩が、何処にも。」の「そのような詩」とは、どの詩を指しているのだろう。「死も」だから、これ以前の全ての詩を指しているように、私には思えた。
詩のカノン 

昔ずっと昔ずっとずっと昔、 
川の音。山の端の夕暮れ。 
アカマツの影。夜の静けさ。 
毎日の何事も、詩だった。 
坂道も、家並みも、詩だった。 
晴れた日には、空に笑い声がした。 
神々の笑い声は平和な詩だった。 
平和というのは何であったか。 
タヒラカニ、ヤハラグコト。 
穏ニシテ、變ナキコト。 
大日本帝国憲法が公布された 
同じ明治二十二年に、 
大槻文彦がみずからつくった 
言海という小さな辞書に書き入れた 
平和の定義。平和は詩だったのだ、
どんな季節にも田畑が詩だったように。 
全うする。それが詩の本質だから、 
死も、詩だった。無くなった、 
そのような詩が、何処にも。 
いつのことだ、つい昨日のことだ、 
昔ずっと昔ずっとずっと昔のことだ。

2021年11月18日木曜日

真理の言葉は不滅!!

 作曲家の池辺晋一郎さんが、言葉の力、詩の力について述べており、次のように、「詩は、いつも僕を触発し、創作へと奮い立たせる道しるべ」とまで言っている。

 詩人や俳人という人たちは、およそ考えられないくらい、言葉からとてつもなく広い世界を引き出す力を持った人たちだと僕は思っているんです。僕らが100万語費やしても語ることのできない真実を、たとえば中原中也は「茶色い戦争ありました」、俳人の渡辺白泉は「戦争が廊下の奥に立つてゐた」と、たったの一文で突くんです。説明なんか要らない。音楽でもこういうことがやれるはず。いや、やらなきゃいけない。詩は、いつも僕を触発し、創作へと奮い立たせる道しるべなんです。(池辺晋一郎著「スランプ2年、言葉に救われた」『朝日新聞』20211116日)

 さらに池辺晋一郎さんは、「長田弘さんの詩、今も羅針盤」というコラム(『朝日新聞』2021年11月17日)で「いま、自分がどこに向かっているのか、何をどう考えたらいいのか、そんな風に迷うときは、今も長田さんの言葉を羅針盤にしています」と言っている。それなら、と長田弘さんの詩集『最後の詩集』(長田弘著、みすず書房、2015年)を借りて読み始めた。そこに、古代ローマの哲学者エピクテートスの言葉が紹介されていた。何事も、熟成させる時間が大切であることを語っている言葉だが、似たようなことを素粒子学者の小柴昌俊さんが言っていたことを思い出した。研究の芽を卵に喩え、「たくさんの卵を抱え、雛になるまで大切に温めていってほしい」みたいなことを言っていた。
 それにしても、古代ローマ人の言葉が、現代のわれわれにまで、こうして伝わり、勇気づけてくれるとは! 「真理の言葉は不滅!!」ということであろう。
 目に見える成果を早くと訴える人に、エピクテートスは答えて言った。
 「大事なことは何事でも突如として生ずるものではない。一個のいちじくでもそうだ。もしきみがいまわたしに、じぶんはいちじくがほしいと言うならば、わたしはきみに、時間が必要だと答えよう。まず花を咲かせるがいい。次に実を結ばせるがいい。それから熟させるがいい。
 いちじくの実は、突如として、そして一時間のうちに出来上がらないのに、きみは人間の心の実を、そんなに短時間に、やすやすと所有したいのか。わたしはきみにいうが、それは期待せぬがいい」

2021年11月17日水曜日

「戦前の核心」と「9条の意義」

 よく聞く言葉に、「戦後からの脱却」というのがある。そうした言葉に対し、そうではなく「戦前の歴史の核心をまず知ること、これこそが大切である」(「戦争の本当の理由と国家からの説明はなぜ異なっていたか」『この国のかたちを見つめ直す』、加藤陽子著、毎日新聞出版、2021年、p164)という批判を見つけた。
 それでは、「戦前の歴史の核心」とは何か。この点について加藤陽子さんは、「9条の存在によって、日本の国家と社会は、戦前のような軍部という組織を抱え込まずに来ました」(「9条の意義、見つめ直すとき」『この国のかたちを見つめ直す』、pp168)と書いている。「戦前の歴史の核心」とは、莫大な予算を裏付けにした強力な軍隊組織を持っていたことであろう。自衛隊は、軍隊もどきの組織ではあるが、軍隊ではない。軍事力を抱えてはいるものの、軍隊になれないのだ。9条が立ちはだかっているからだ。戦前のことを抜きに、「9条の意義」は語れない、ということである。しかも、戦前の核心を簡潔に把握できるのが望ましい。この後の課題である。

2021年11月16日火曜日

銀河による重力レンズの実例

 サイエンスZEROを観て、初めて重力レンズというものをイメージできた。なんと、中間にある銀河からの光は、オレンジの銀河の重力で曲げられ赤い光となって観測され、後側の銀河からの光は、オレンジの銀河と中間にある銀河の重力で曲げられ、青い光となってリング状に観測されているという。つまり、本来なら、手前の銀河の後ろにある二つの銀河は、手前の銀河がじゃまして見えない。見えないはずの銀河が、重力レンズのおかげで観測されているということなのだ。
 それにしても、なんと壮大な話であろう。恒星一つとっても、その重さは巨大なものなのに、銀河にはとてつもなく多くの恒星で成り立っているのだから、その重さと言ったら・・・・???。重力レンズとは、その重さによって働く重力が光を曲げるという話。素粒子の小ささは、宇宙のスケールの大きさと、同じくらいのスケールの小ささなのだろうか。小ささのイメージは、なぜか、浮かばない!
 話は変わって太陽の話。太陽コロナの温度は、太陽の表面温度よりも高く、100万度以上もあって、それが太陽にとっての1番の謎だという。国立天文台の研究者は、その謎解明にも取り組んでいるという。






2021年11月15日月曜日

”若返り”などもったいない

 雑誌『サライ』の2021年10月号の「サライ・インタビュ」の相手は百歳のピアニスト室井麻耶子さんだった。「若返りたいと思いますか」という問いに対し、「そんなもったいないこと、できません」という思いもよらない返答だった。お金はいくら払っても若くなりたい、というのが普通だと思う。
 そういえば、画家の「いわさきちひろ」さんも、未熟だったころには戻りたくない、というようなことを言っていた。あやかりたいものである。
 室井麻耶子さんが九十歳で新居を建てた話もあった。この話で思い出したのが、彫刻家の平櫛田中さんが九十歳頃に、「あと20年寝かせておけば、立派な彫刻材になる」という大きな楠を取り寄せたという話である。二人に共通するのが、衰えることのない創作(創造)意欲であろう。この”強い意欲”が二人を長命にしたのかもしれない。
若返りたいと思いますか。
「全然。そんなもったいないこと、できません。なぜなら私の「頭陀袋」の中には、これまで積み重ねてきたこと、体験したことやさまざまな感情が、ぎゅっと詰め込まれているからです。ビアノを演奏する際は、その都度、頭陀袋の中から取り出しています」
頭陀袋とはなんの比喩ですか。
「そうね、悲しいことも嬉しいことも、あれもこれも放り込むべかしら。6歳の頃、わが家に黒い箱ピアノが届いた記憶。その時のピアノの弾むような音。大人に”なぜ?””どうして?”と質問した時の大人の困った顔。こぼれ落ちてきた感情を全部、袋の中に詰めてきました」
まんが「田中彫刻記」より


2021年11月14日日曜日

憲法発布のお祝い

  驚いた。吉原あげて憲法発布のお祝いに参加したというのだ。憲法発布と言っても、学者などの一部の人々は歓迎したであろうことは想像できたが、国民レベルで歓迎したのかもしれない。「吉原の思い出噺」(『改造』、1950年3月号、p138)で、「二十三年の憲法発布のときのお祝いで、あのときばかりは、えらい騒ぎでしたよ」と、次のように述懐していたのである。

 いま思い出しましても、御治世が、一時にぱーっとあかるくなるやうなよろこびがわいてきたのは、二十三年の憲法発布のときのお祝いで、あのときばかりは、えらい騒ぎでしたよ。二月十日には日比谷公園へ、十一日には上野へ山車の先々についてゆきましたが、その賑やかさ、物心ついてからあんなことは初めてでした。なにしろ、吉原あげての長い道中で、おそらくあんなことは、前にも後にもないことと思います。

 このような事実を知ると、改憲論者が盛んに流布してきた「押しつけ論」が如何に現実にそぐわない論法であることがわかる。当時の華やかさがわかる後半部分も紹介しておく。

 角海老の花菱太夫さん、品川楼の金爛大夫さんなどは、あの助六芝居に出てくる揚卷太夫そっくり、花魁髷に重々しいまでにでかでかと髪飾りをした厚化粧、金銀の繍のある大巾の帶を前にして、目のさめるやりなあで姿で、新造や太夫衆、やり手、若い衆や女中をぐるりに従えまして、山車に乗ってくり込む景色は、見上げるばかりのきらびゃかさで、ちょっとそばによれないような感じでした。萬華楼ではみんな假装で花魁は黒の揃いの洋服、鳥の毛の橫っちょについた帽子をかぶり、だらりとした長い裾をとり、靴をはいていました。鴇女が、まっくろく顔をぬって黒い洋服をきて、のこのことそのそばについて歩いていましたが、はきつけない靴で、足をいためた人が多勢出ました。
 稻元楼のおかみさんは、柳橋の芸者衆からきた、それは粋な人でしたが、ここの抱えの花魁衆は、黒地に稲穂の裾模様の衿に白博多の帶、緋縮緬の長襦袢、素足に吾妻下駄、頭は引髷に笄、細いくづ引きを掛け、うしろに珊瑚樹の一本ざし。太夫衆はたしか五人位でしたが、それがぞろりとそろっての道中は、絵にあるやうな美しさで、そのほかでは、大文字楼、彦太楼などもなかなかきれいでした。
 それだけに、廓の中のにぎやかさもまたたいしたもので、おすなおすなの混雑、品川楼などは田舎のお客が多かったので泊りきりで朝まで帰らないので、どの部屋も大満員、寝るところがなくて、お店の帳場から土間の方までお客を入れ、ゴザをしいた上に、六枚屏風をめぐらして寝んでもらったものでした。
 お客もみんな假装で道中に加はりました。それがまた多勢いて、その中に、翁屋さんという絆纏をきて、柿色の三尺を横ちょにしめた尾崎徳太郎さんや石橋思案さんなどもまじっていました。尾崎さんは、若い頃から、そういう粋なことのすきな方でした。

2021年11月13日土曜日

選挙がすんだ翌日から奴隷になる

 総選挙が終わってみたら、予想に反して自民党が善戦し、野党共闘をしたにもかかわらず、民主党が後退してしまった。その原因として、野党共闘が槍玉に挙げられ、投票率の低さに表れている政治的無関心に向けられることはなかった。しかし、丸山眞男の「政治的無関心と逃避」という論文を読んで、政治的無関心層の多さにこそ、目を向けれれるべきであると気づかされた。政治的無関心といった生活態度が「国民大衆にびまんしたら、民主政治は立ちゆかない —— 民主政治どころか国民の民族的な生命力自体が枯れて」(『丸山眞男集別集第2巻』丸山眞男著岩波書店、2015年、p57)しまうという。あり得る話だ。
 この論文には、政治的無関心がなぜ生まれるか、が簡潔に説明されていた。そして、驚いたことに、ルソーが今日の社会を予言していたことだ。ルソーは、「イギリス人は自分を自由だと思っているが、彼等が自由なのは選挙の日だけで、選挙がすんだ翌日から奴隷になる」[『社会契約論』第三篇第一五章]という言葉を残していたのである。この中の、「選挙がすんだ翌日から奴隷になる」という言葉を胸に手を当てて考えてみたいものである。

  われわれの生活環境がすべてこういう政治に対する消極的受動的態度を培養するようにできていることは否定できないと思います。第一、日常生活がますます多忙になり職場での労働で人々が神経をすりへれて、政治に関心をもつ時間的余裕も心理的余裕もないというのが大多数の人々の状態です。しかも他方、大衆の娯楽機関や観るスポーツなど、政治などのメンドクサイことから逃避させる仕組はいよいよ発達します。
 そこへもって来て、大きな政治問題がますます自分の手のとどかない国際情勢によって左右され、いくら政治に関心をもってもどうにもならないという絶望の気分がひろがって行きます。こうして、かつてルソーがイギリスの民主政治をふうしした言葉――「イギリス人は自分を自由だと思っているが、彼等が自由なのは選挙の日だけで、選挙がすんだ翌日から奴隷になる」[『社会契約論』第三篇第一五章]という言葉がいよいよ実感をもって現在の大衆民主政の時代に迫って来るようになったのです。(上同、p52)

2021年11月12日金曜日

100年後の理想

 日本には、100年後の日本をイメージした政策が必要と思ってきた。未来のあるべき姿をイメージして、そのためには何が必要かといった考えだ。日本共産党は、そうした考えに近いが、あまりにも遠い未来社会を想定している。そうではなく、100年後、200年後の社会なら、イメージしやすい。100年後も、相変わらず国家間の対立に明け暮れるようでは、人類がそこまで存続できるかが心配になってしまう。
 そしたら、『丸山眞男集』の中に、似たような考えがあった。「どこへ日本を持って行ったらいいかというゴールの意識」が必要ではないか、というのだ。だとすれば、やはり、ゴールは日本国憲法の理想であろう。日本国憲法の理想を語ると、そんな理想は、現実の環境を見ると無理だ、という意見が出る。しかし、100年後の理想といえば、反対もできまいというものである。

丸山 極左勢力というものがこれだけ政治の表面で力がなくなってきて、じゃ他方で保守党なり財界の人たちは安心感を持っているかというと、いたるところにアカのにおいをかぎつけて恐怖している。他方では革命の主体的な条件というのは社会党を見たって共産党を見たっていっこうに成熟してはいない。それがぼくは日本の政治の大きな逆説じゃないかと思う。だから安保改定は通るでしょう。その他反動立法も通るかもしれない。しかしそれで保守陣営が安心して勝利感を持つかというと、そうじゃないと思うのです。むしろかれらはかれらなりにかえって不安の念におののいている。つまり根本的にはどこへ日本を持って行ったらいいかというゴールの意識がないと思うのです。ただこうなっちゃいけないってのはわかっているんですね、かれらの立場から。そこで社会党の天下になっちゃいけないとか、こうしちゃいけないという消極的な面から政策が出てきてる。(「日本の進む道(座談)」丸山眞男集別集 2丸山眞男著岩波書店2015年、p254)

2021年11月11日木曜日

安保は日米攻撃保証条約!

 以前より、「安保こそ諸悪の根源」とまで思ってきた。小田実さんは「安保」の危険性を次のように喝破していた。「アメリカ合州国は、今、世界制覇をめざしてどこへでも動き、その『関東軍』としての動きにいやおうなしに日本は『安保』によってどこまでもつき従って行く。『安保』をやめないと、やめて、アメリカ合州国の「関東軍」につき従うことをやめないと、たいへんなことになる」と。実際小田実さんの指摘のように、安保法制の成立など、ますます「安保」の危険性が増してきている。にもかかわらず、時代の精神は、「安保」容認に傾いているのが現状であろう。小田実さんの声に、耳を傾けていきたいものである。

 もはや、「安保」――「日米安全保障条約」は日本の安全を保障する条約ではありません。「日米攻撃保証条約」です。いや、「安保」がもともとそうした「攻保」のものであったことーーそれは事実がよく示していることです。「攻保」でしょうか。元来、「安保」は日本を防衛するために日本とアメリカ合州国のあいだに結ばれた条約であったはずです。そう理屈づけがなされて来たものでしたが、実際に大きく使われたのはベトナム戦争のアメリカ合州国のベトナム攻撃においてのことでした。ベトナムには日本攻撃の可能性はまったくありませんでしたし、実際、ベトナムにはその意図は皆無でしたから(これはさっきから述べて来た日本を攻める「××」ではなかったことです)、「安保」は「防衛」のためにあるものではなく「攻撃」のためにある―ーこのべトナム戦争において端的に示された事実を、さらに拡大、強化されたかたちで現在の事態が示しています。
 「安保」は今まさに危険なものになって来ています。アメリカ合州国は、今、世界制覇をめざしてどこへでも動き、その「関東軍」としての動きにいやおうなしに日本は「安保」によってどこまでもつき従って行く。「安保」をやめないと、やめて、アメリカ合州国の「関東軍」につき従うことをやめないと、たいへんなことになる。日本自体にとってだけでなく、世界全体にとってです。 (世界は混迷におち入っている」『小田実全集 評論第11巻』、講談社、2011、p176〜177)

2021年11月10日水曜日

戦争なんて絶対に起こり得ない

 前に、「主権国家の対立は、必然に戦争を引き起こす」(横田喜三郎著「世界国家の論理」『世界』、1948年7月号、p18)という言葉に触発され、「平和=至上の目的、無上の命令」を書いた。同じような感動的な言葉に出会った。「僕は差別は憎いけど、区別は好きです。誰もが『違うこと』を楽しめる世界では、戦争なんて絶対に起こり得ない」(「演劇で知った、混じり合う楽しさ」『朝日新聞』、2021年11月10日)という作曲家・池辺晋一郎さんの言葉だ。金子みすゞさんも、「私と小鳥と鈴という詩の中で「鈴と、小鳥と、それから私/みんなちがって、みんないい」と謳っている。
 このような思想の対極にあるものがヘイトスピーチであろう。特定の人々を憎しみ、言葉で罵倒する人々が現に存在している。罵倒する相手が外国人であれば、国家間の対立にまで発展することも当然ありうる。だからこそ、「みんなちがって、みんないい」という思想、「違うこと」を楽しめる思想が広まれば、「戦争なんて絶対に起こり得ない」のだ

『私と小鳥と鈴と』

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

2021年11月9日火曜日

KAGRAによる重力波の観測方法

 NHKの番組「サイエンスZERO」で、KAGRA 大型低温重力波望遠鏡を取り上げていた。この番組を見て、重力波がどういうもので、その観測は、どのようにして行うか、初めて理解できた。
 重力波は、アインシュタインが理論的にその存在を予言したものだが、2015年にブラックホールの合体による重力波が発見されている。アインシュタインの理論によると、36Mと29Mのブラックホールが合体すると、65Mにならないで、62Mのブラックホールと3Mに相当するものが重力波となって放出されるという。
 


 観測方法は、地下800mの地点にの地点にKAGRAの全体図のようなトンネルを作り、レーザー光を同じパイプに、二つに分けて発射し、その反射レーザー光を検出器で捉えるシステムになっている。重力波がくると二本のパイプに僅かな歪みが生じ、その結果、二つの反射レーザー光の交差点まで戻る時間にも僅かな差が生じる。その僅かな時間差を検出器で捉えることで、重力波を観測できる、という。
 重力波は、光や電磁波のように時間が経っても減衰するようなことがないという特徴があるため、より遠くの宇宙を観測できるという。新しい宇宙の姿を見せてくれるのかもしれない。KAGRA 大型低温重力波望遠鏡に、優しい解説動画などがある。



KAGRA 大型低温重力波望遠鏡」の解説動画より

2021年11月8日月曜日

平和=至上の目的、無上の命令

 誰しも、戦争は嫌であるし、二度と戦火に苦しむような世の中にはしたくない。だからこそ、「なぜ戦争が起きてししまうのか」という素朴な、根源的な問いに向き合うことが大切だ。その答え、わかりやすい答えを見つけた。それは、コロンブスの卵かもしれないが、それは「国家間の対立」である。「主権国家の対立は、必然に戦争を引き起こす」(横田喜三郎著「世界国家の論理」『世界』、1948年7月号、p18)からである。
 最近の動きと動きとして、「相手領域内で弾道ミサイル等を阻止する能力」として「敵基地攻撃能力」の保有に言及してきている。明らかに対立を煽るようなもので、戦争の危険性が一層増すことは疑いようがない事実であろう。ならば、いかにすれば国家間の対立をなくしていけるか、平和的に共存していけるかを考えていくべきである。そのためにも、現代の原子力時代に思いを馳せて、「ひとたび戦争が起きれば全世界の破滅的な破壊が起こる。人類も文明も、完全な破滅である。この事実を前にして、平和は無上命令である」(上同。p22)ことを肝に銘じるべきである。
「実際において、あくまで正義に固執し、そのために平和を破壊するようなことになれば、人類の破滅と文明の破壊をまぬがれない。そうなっては『萬事休す』である。人類が破滅し、文明が破壊されたのちにおいて、正義がなんの役にたつであろうか」(上同。p21)ここの「正義」を「抑止力」に置き換えると、まさに今の日本のことになる。
 アインシュタインの、『全世界の破壞をさけようとする目的は、他のいかなる目的にも優先しなければならない」という言葉がおもい出される。この言葉を、ひじように重要なものとして、さきに私は注意しておいた。それは、平和こそ、原子力の世界において、至上の目的であり、無上の命令であつて、われわれはそれを選ばなくてはならないことを示しているからである。

 いつたい、あらゆる法と政治において、その窮極にあるものは、正義と安定である。安定は秩序といつてもよい。国際關係においては、平和といつてもよい。安定といい、秩序といい、平和といい、言葉はちがつているが、実質的には同じである。いずれにしても、 これと正義とは、いかなる法と政治においても、窮極の目標とされている。学者のうちには、これらの二つを一つに統一しようとか、どちらか一方をより根本的なものと見ようとか試みたものもあつたが、けつきょくは成功しなかつた、やはり、二つをひとしく窮極の目的と見るのが正常である。(上同。p21)

2021年11月7日日曜日

「神風信仰」恐るべし

 家永三郎責任編集の著書に『日本平和論大系』という本がある。その12巻では清沢洌が取り上げられていた。日記風に書かれていたので、流し読みをした。そして、軍部だけでなくマスコミの間でも、「敵陣営内に厭戦気分が出ることに望みを持っている」「米国に厭戦気分が起り、そこから破綻するという考え方は戦争初頭から」あった、という記述を見つけた。
 以前「計り知れない徹底抗戦の心理」の中で、「原爆を落とされても、徹底抗戦を主張していた人たちがいたことを思うと、その心理は計り知れない。そこまでは理解できない」と書いたが、いくら攻撃しても懲りない姿を見て「敵陣営内に厭戦気分が出ることに最後まで望みを持っていた」のかもしれない。そういえば日本軍には「神風が吹いて、・・・」という「神風信仰」というものがあった。「厭戦気分が出ることに望みを持った」ことも、「神風信仰」のようなものである。「神風信仰」恐るべしである。

一九四五年一月二日(火)

 日本人および軍部はいかにして戦争を勝ちかんとするか。敵陣営内に厭戦気分が出ることに、今もなお望みを持っている。

      *

 同じ一日の『朝日』には「B29の葬列」という記事で、日本軍が「B29の五百五十機を叩き潰す」といい、その最後にこういっている。米国内に厭戦気分が起ることを期待し信じていることが分る。
      *

 米国に厭戦気分が起り、そこから破綻するという考え方は戦争初頭からのものだ。それを目ざして戦争を始めたのである。現在でもそう考えているようだ。

      *

 新聞には「日本兵が強い」「日本は敗れない」というような電報ばかりのせている。米国海軍長官フォレスタルがそういったとか、海軍次官がそう報告したとか —— 今日はロイターのキムテという記者が、日本はまだ強い から戦略建直しをせよといったと特筆。昔から誉められてばかりいなければ安心できないのが日本人、特に軍人の特徴だ。敵がそんな言を吐く心情なり、考え方なりは一切知ろうとしない。 (『日本平和論大系 12』、家永三郎責任編集、日本図書センター、1994年、p403)

2021年11月6日土曜日

死はあらゆる小道に立っている

 ヘルマンヘッセが自殺まで考えたことは昨日も書いた。それだけに、死に対する考察が鋭い。その上詩人の目で、詩人の言葉で表現しているので尚更である。「生と死」という言葉があるように、生と死は表裏の関係もあって一体である。そのことを「死はあらゆる小道に立っている」と表現しているが、我々は死の存在を意識の外に置いておくだけなのだ。
 それにしても、最後の言葉、「私たちが生を見捨てるやいなや死は君の中にも私の中にも入り込む」は凄い表現である。体だけでなく、「生の意識」を強く鍛えていくことも考えていきたいものである。

老いてゆく中で

若さを保つことや善をなすことはやさしい

すべての卑劣なことから遠ざかっていることも

だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと

それは学ばれなくてはならない


それができる人は老いてはいない

彼はなお明るく燃える炎の中に立ち

その拳の力で世界の両極を曲げて

折り重ねることができる


死があそこに待っているのが見えるから

立ち止まったままでいるのはよそう

私たちは死に向かって歩いて行こう

私たちは死を追い払おう


死は特定の場所にいるものではない

死はあらゆる小道に立っている

私たちが生を見捨てるやいなや

死は君の中にも私の中にも入り込む(『人は成熟するにつれて若くなる』、ヘルマン・ヘッセ著、V・ミヒェルス編、岡田朝雄訳、草思社、1995年、p56〜57)

2021年11月5日金曜日

存在したもののひそかな永遠性

 ヘルマン・ヘッセの言葉を手がかりに、「自殺まで考えても、自殺をせずに生きるにはどうすればいいのか」を考えたことがある。そこで、「自分と向き合い、自己を育てる努力」(「自殺をせずに生きるには」)の大切さを書いた。その後、『人は成熟するにつれて若くなる』(ヘルマン・ヘッセ著、V・ミヒェルス編、岡田朝雄訳、草思社、1995年)の中に、「自己を育てる」ことと関連する素晴らしいヘルマン・ヘッセの言葉を見つけた。
 叡智と私たちの関係は、アキレスと亀の論証のようなものである。叡智が常に先行しているのだ。それに到達するまでの途中は、その魅力を追いかける事は、それでもやはり素晴らしい道である。(p105)

 素晴らしい魔力、万物が変転すると言う燃えるような悲しい魔力よ! しかし、それよりもはるかに素晴らしいのは、過ぎ去ってしまわぬこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生き続けること、そのひそかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること、絶えずくりかえし、それを呼びもどす言葉の中に、生きたまま埋められていることである。(p106)
 ここでいう叡智は、人によって違うかもしれない。しかし、人それぞれを成熟に向かわせてくれる魅力ある灯台のようなものであろう。魅力あるものに向かう過程そのものも、また素晴らしいと言っているところが魅力である。また、「存在したものが消滅しないこと」の素晴らしさは、古代ギリシャ文明など、数かぎりがない。ヘッセの言葉も、こうして呼び戻され、現代を生きる私たちに勇気を与えてくれている。

2021年11月4日木曜日

反国民的な自民党改憲論

「戦力」保持を禁じる憲法9条をもつ日本に、米軍駐留は許されない。『対米従属の正体:9条「解釈改憲」から密約まで』(末浪靖司著、高文研、2012年)に、他国軍の駐留を否定した憲法学説が紹介されているが、常識的に考えても、在日米軍は憲法9条と矛盾する存在で、本来なら認められない。日米安保条約は初めから矛盾する存在であり、国民にとって決して好ましい存在ではなかった。だからこそ、日米関係文書には多数の密約が存在していると言えよう。
 『対米従属の正体』の著者末浪靖司さんは、多くの米公文書を読んでこの書を書いたわけだが、後書きで、「多くの米公文書を読ん気がついたのは、安保条約・地位協定の下での日米関係には、あまりにも『密約』が多いということだ」と書いている。国民には知られたくないから密約にするわけで、そうした密約によって成り立っている条約が国民を守るわけがない。従って、密約の存在一つとっても、日米安保条約がどういうものかは想像できるはずなのだ。
 しかし、今では日米安保条約が既定路線の如く扱われ、「右傾化や軍事化が進み、平和主義を冷笑する風潮さえみられ」、「防衛費は膨らみ、憲法に反する『敵基地攻撃能力の保有』まで真顔で論じられて」(「<社説>憲法公布と文化の日 愛と平和と「紙鍵盤」と(東京新聞」より)いる。そもそも、反国民的な日米安保条約に基づく軍事化や敵基地攻撃能力の保有である。当然これらも反国民的と言っていい。そうなると、自民党が目論んでいる改憲そのものも反国民的と言うべきであろう。

2021年11月3日水曜日

平和で民主的な世の中を!

 75年前のきょう、日本国憲法が公布された。国民主権基本的人権の尊重、平和主義を基本原理に掲げ、戦後日本の歩みをつくってきた。しかし、日本国憲法への攻撃は相変わらず継続され、改憲の圧力も続けられてきた。その結果が、憲法無視の政治、明らかな愚民視の政治」(東京新聞の社説)がまかり通っている。そして、この度の総選挙で、そうした政治への批判票の広がりを見せることはなかった。このような現実を前に心細くもなったが、次のような東京新聞の社説に「まだまだ健全なマスコミが存在している」と大いに励まされた。

 きょうは文化の日、憲法公布の日です。戦争が終わり、平和的、民主的、文化的な新国家をつくろうと心を新たにした日です。でも公布から七十五年、その意義を忘れてはいませんか。
 右傾化や軍事化が進み、平和主義を冷笑する風潮さえみられます。防衛費は膨らみ、憲法に反する「敵基地攻撃能力の保有」まで真顔で論じられています
 政治家も国民を侮っています。「説明しない」「説得しない」「責任をとらない」という「3S」がネットで問題になっています。真実を「語らない」「隠す」「改ざんする」という「3K」の時代でもあります。明らかな愚民視の政治がまかり通っています。
 権力者がもはや民主主義的な統治を放り投げているのです。日本学術会議会員の任命拒否問題でもそうですが、あらゆる分野に権力の介入や圧力が及んでいます
 総選挙が終わりました。安倍・麻生・甘利の頭文字である「3A」は一角が小選挙区落選でしたが、いまだ背後に控える岸田政権だけに注視が必要です。
 憲法の理念である平和で民主的な世の中は、誰もが願っています。文化はそのような養分を吸って、育まれます
 さて、今年のショパンコンクールの優勝者と六位はアジア系カナダ人です。二人ともダン・タイ・ソンの弟子でした。彼は教育者としても優れていたのです。
 「紙鍵盤」の時代はごめんです。日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に…」のくだりがあります。「愛」の文字は「平和」にかかっています。その普遍性を考えずにはいられません。(「<社説>憲法公布と文化の日 愛と平和と「紙鍵盤」と(東京新聞」より、強調は筆者による

2021年11月2日火曜日

私たちに悲観している余裕はない

 この度の選挙結果を踏まえ、作家の中島京子さんが朝日新聞(2021年11月2日)に「己の権利見つめる、今ここから 衆院選に思う」という文章を寄せていた。「現在の選挙制度と、50%ほどの低い投票率の下では、絶対得票率が20%程度でも選挙区の議席を獲得できる。自公政権のコロナ対策などは、けっして支持されていたとは思えないのに、あたかもそれを承認するような結果が出たのは、やはり投票率の低さと無関係ではないだろう」というのは本当であろう。なぜなら、自民党に比例区の得票率は34.7%だから、34.7%で465議席を按分すると161議席、公明党の57議席を足しても、218議席と過半数に満たないからだ。
 また中島さんは、この国も民主主義をないがしろにされている実態を「行政文書の破棄や改ざん、黒塗りによる開示拒否など、民主主義がないがしろにされるのを見てきた。なにより、政権与党は臨時国会の召集を求められても応じなかったのだ。選挙だけではない、この国では、政治そのものが大切にされていない」とわかりやすく端的に表現してくれている。こんな国だったから、「結果を見て、暗澹(あんたん)たる気持ちに」なってしまうのも、よくわかる。だからこそ、「悲観している余裕はない。私たちは、自分たちの基本的な権利をもっと大切にしなければならないし、そのための努力を、今日、この日から始めなければならない」という言葉には、大いに励まされた。

2021年11月1日月曜日

敵基地攻撃論は日本攻撃の呼び水

 総選挙が終わった。期待していた野党共闘の実りは少なく、自民党は過半数を維持してしまい、維新だけが躍進、結局改憲勢力で2/3になってしまった。だからと言って、すぐには改憲に向かって進むようなことはないと思う。改憲に対する国民の関心は少ないからだ。
 また、自民党は「敵基地攻撃能力」とか「防衛予算の増額」を打ち出し、よりマシという理由があったにせよ、過半数の支持を得てしまったことになる。これをもって、国民の多くが「敵基地攻撃能力」とか「防衛予算の増額」を承認したとみていいのだろうか。
 孫崎享外交評論家によれば、

 敵基地攻撃論は日本の安全を全く高めない。攻撃の呼び水になるだけだ。なぜ、こうしたバカげた政策が論じられているのかといえば、米国に利益があるからである。
 極東地域で緊張が高まれば、この地域で武器が売れる。これは米国の湾岸諸国への対応と同じだ。さらに安全保障の面では、米国が自国への攻撃の危険性を増やすことなく北に圧力をかける選択肢が増える。
 情けないことに、今、日本で語られる防衛政策はほとんどが日本の安全を高めるものではない。米国に資するためである。(『日刊ゲンダイDIGITAL』、2021/10/29)
 全く情けない。改憲の原動力も、結局米国の圧力であることに変わりがない。このことにどうして気がつかないのだろうか。