2022年9月30日金曜日

共同幻想論としての国家像

 吉本隆明の代表的とも言われている共同幻想論という思想について、本を読んでも、いまいち分からないところがあって、どうしてこれが、という感じだった。しかし、この思想を紹介していた『考える教室 大人のための哲学入門』(若松英輔著、NHK出版、2019年)を読み直し、初めて、共同幻想論としての”国家像”というものを理解することができた。同時に、異界というものも理解することができるようになった。
 今までは、異界の一つでもある「黄泉の国」、つまり、「死後,霊魂が行くとされる所、”死者の国”など存在しない、死んだら原子になって宇宙に帰るんだ」と思ってきた。しかし、そのような存在も、共同幻想と考えれば、そうした存在も認めることができる。正確にいうと、”死者の国”という幻想を見る人々の群れの存在が現実に存在するのであって、自分はその群れの中に入っていないだけの話だったのだ。
 吉本隆明は、国家も共同幻想だと言っているが、ここで重要な点は、西洋と日本の「”国家像”としての共同幻想は違う」ということであろう。西洋では、次のような「社会から分離した概念」であるのに対し、日本の場合は、「国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージ」だというのである。
 人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会のうえにそびえているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージでかんがえられてはいない。いつでも国家は社会の上にえた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。(「文庫版の序」より)
 あらためて戦前の国体概念を考えると、それがいかに幻想であったかということと、その国家概念が天皇を中心とした「国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなもの」というイメージがぴったりであることがわかる。確かに、そうした袋の外にいた人々もいるにはいたが、ほとんどの人々は、共同幻想を抱いていたと言ってよい。
 ここで問題と思えたことは、戦後になって戦前のような国体概念こそ無くなっても、姿形を変えた似たような共同幻想としての国家が存在していて、そうした概念が日本における民主化の妨げになているのではないか、ということだ。この点は、再考して深めたいところである。

憲法は国家に対する命令書

 憲法についてよく言われることに「憲法は、国民が守るべき法律ではなく、国家権力が守るべき法律だ」というのがある。このことを正面から捉えて解説した本が 『はじめて学ぶ憲法教室 第1巻 憲法はだれに向けて書かれているの?』(菅間正道著新、日本出版社、2014年)である。つまり、「憲法と、国家に対する命令書」であり、「権力を持った人たちが、その権力を使って暴走しないよう、国家と権力者をしばる」(『はじめて学ぶ憲法教室 第1巻』、p5)法律なのである。
 それでは、国家の本質は、どのようなものなのだろうか。本質として暴走するものなのであろうか。これまでの国会の動きを見ると、国会軽視も甚だしいところがあって、明らかな暴走傾向が見られる。もし、この傾向が国家の本質によるものならば、国民は、国家に対峙する存在として、暴走に歯止めをかけていく必要がある。その時、憲法を盾にすれば良い。あるいはほこにもなるかもしれない。
 いずれにせよ、憲法は、単なる文書の一つであって、それを運用する担い手の存在無くしては、その力を発揮し得ないのだ。それ故、国民主権の原則があるのであって、この原則は、自ら行使することによって、初めてその存在が、その力が明らかになっていく。主権者としての自覚も高まていく。

2022年9月28日水曜日

石川啄木の戦争観

 石川啄木といえば、歌集『一握の砂』が有名だが、文明批評ともいうべき詩も書いていた。『進駐軍の命により』(辻真先著、徳間書店、2001年)に引用されていたのだ。「啄木は詩人の直感をもって、戦争の姿を指摘したのだ、と思う」(『進駐軍の命により』 p 75)と主人公の勇悟に語らせていたが、鋭い指摘に驚いた。
やがて世界の戦は来らん!
不死鳥の如き空中軍艦が空に群れて、
その下にあらゆる都府は毀たれん!
戦は永く続かん! 人々の半ばは骨となるらん!
然る後、あはれ、然る後、我らの『新しき都』は
いずこに建つべきか? 滅びたる歴史の上にか?
思考と愛の上にか? 否、否……
 詩の題名も、引用された部分で全体なのか、続きがあるのかも分からないが(後で調べたい)、石川啄木に優れた文明批評の目があったことは、確かなようである。
 それにしても、人間(為政者)はなんと愚かなことであろうか。これだけ本格的な戦争が今世紀に起きるなど、誰が予想したであろうか。為政者には、骨となる運命の人々に想いを馳せることはないのであろうか。このような詩を、世界の人々に知ってほしいものである。

2022年9月27日火曜日

吉本隆明の理想社会論

 吉本隆明の本を読んでいると、歯に衣を着せないで、”そこまで言っては言い過ぎじゃない”と思われるような批判をしている感じがする。例えば、「自民党から共産党に至るまで、日本の政党もウソばかりついている。ウソをついているというのは、「自分のことは棚上げにしてモノをいっている」ということです。自分が実際に実行できるかどうかということは棚上げにして、キレイごとやカッコいいことばかりいっている。そして、他人にはキツイことばかり要求しているんです」(『私の「戦争論」』、吉本隆明著、田近伸和聞き手、ぶんか社、1999年、 p 69)という具合だ。しかし、よく読むと、なるほどと思わせる真実が含まれていることがわかってきた。
 日本の戦後民主主義について、これまでも色々と議論されてきた中で、それがいかにダメかということに言及したあたりは、森友問題や桜を見る会問題を見越していたかのようで、真実を語っていると思う。
 戦後、GHQがやったことと比較しても、日本の戦後民主主義がいかにダメかということは明瞭です。占領政策を打ち出す際、GHQは必ず、「こういう理由で、こういう政策をやる」という声明を出しました。今でいう"情報公開"以上のことをやってみせたんです。それを見て、僕は「へえ―っ!」と感心しました。当時、権力を一手に掌握していたGHQが、たとえどんなに小さなことでも、一般民衆の了解を得ながらことを進めるという、そういう姿勢に感心したんです。「これが民主主義なのか」って思いました。
 日本の戦後民主主義も、戦前に比べれば、そりゃあ、よくなったという点はいろいろありますが、GHQがあのときやってみせた民主主義の一番基本的なところが、いまだにやられていないんです。(『私の「戦争論」』、吉本隆明著、田近伸和聞き手、ぶんか社、1999年、p 68〜69)
 つまり、「民主主義の一番基本的なところが、いまだにやられていない」から、森友問題や桜を見る会問題が起きてしまったのである。
 さらに、「吉本隆明の理想社会論」も語られていて、そこが圧巻だった。「吉本隆明の歴史観」も、諸手を挙げて賛成したい。
 "一般の民衆を主にして、あらゆることを考える"ということを民主主義というのであれば、それはやはり、民主主義が基本だということになるんじゃないでしょうか。一部の支配者やエリートがどうしたというのではなく、一般の民衆があらゆる意味で自由になり、豊かになっていく――それが、人類にとっての「理想の社会」「最終の社会」のイメージであるというのは疑いようのないことですから。歴史とは何かといえば、究極的には、その実現をめざしているのが歴史なわけです。(『私の「戦争論」』、吉本隆明著、田近伸和聞き手、ぶんか社、1999年、p70 〜71)

2022年9月26日月曜日

禅僧仙厓(せんがい)の『布袋画讃』

 NHK放送の「日曜美術館 アートシーン」(2022年9月25日)で、江戸時代の九州・博多で活躍した禅僧仙厓(せんがい)(1750 - 1837)の作品展「仙厓のすべて」(出光美術館)の紹介があった。そこで、禅僧仙厓の存在を初めて知った。
 出光美術館による展示概要によると、
 仙厓の遺した水墨の絵画──「禅画」は、「厓画無法(仙厓の絵には決まった法などない)」の精神にもとづいた、きわめてユーモラスかつ自由奔放な作品で、斬新な表現や大胆なデフォルメにより、現代の私たちが見ても「楽しくて、かわいい」と感じる不思議な魅力に満ち溢れています。
 という。
 紹介された絵で気に入った作品は、『指月布袋画讃』だが、番組の解説によると「求めるものは遥かなた、修行こそが大切」と説いた絵だという。現代における、「達成感も大切だが、達成に至る”過程”も大切!!」という教えに通じるところがある。かわいい布袋(ほてい)様で、不思議と心が和む。

 この作品は晩年の作だが、40代に描かれたという『布袋画讃』とはイメージがだいぶ違う。北斎も晩年まで絶えざる成長を目指したが、あくまでも絵の描き方に限られていた。しかし、仙厓は、禅僧であったが故に、心のあり方も追求したと思われ、その結果が絵の描き方まで影響を与えたようである。極端に省略(デフォルメ)された表情が、本当に「楽しくて、かわいい」。

40歳代に描かれた『布袋画讃

2022年9月25日日曜日

この一瞬の光を永遠に

 フェルメールと言えば『真珠の耳飾りの少女』と、言われるほどに、この絵は有名だが、このモデルが長女だったことは最近知った。お母さんのエアリングをつけて遊んでいるところにお父さんがやってきた。その時、「どうしてお母さんの絵ばかり描くの?」と言って振り向いた。フェルメールは、「いまだ、この瞬間を絵の中に閉じ込めなくては!!」(『フェルメール この一瞬の光を永遠に』、キアーラ・ロッサーニ文、西村書店、2018年)と思い、『真珠の耳飾りの少女』を完成させたという。
 絵本『フェルメール この一瞬の光を永遠に』の書名「この一瞬の光を永遠に」も、また素晴らしい。『真珠の耳飾りの少女』に関するエピソードと、「この一瞬の光を永遠に」という言葉を知ってから、フェルメールの絵の見方が変わって、とても素晴らしく見えるようになった。
 また、当時、歴史(宗教画など)を描く画家こそが最高の画家であるという考え方があったところに、フェルメールは、何気ない日常の一瞬を題材にし、光を当てた。そこにこそ、彼の革新性と素晴らしさがあると思う。

真珠の耳飾りの少女

                牛乳を注ぐ女


2022年9月24日土曜日

機能不全の民主主義

 日本政府は、民意に逆らって辺野古への米軍基地建設を進めてきている。この事実一つとっても、日本に民主主義がないことを物語っている。なぜなら、エマニュエル・トッドも述べているように、「民主主義がないところというのは、EUレベルのように、人々が投票するのに、それが考慮されないところのこと」だからである。日本も民主主義体制の国と言われているが、その民主主義は機能不全に陥っているのだ。

 民主主義がないところというのは、EUレベルのように、人々が投票するのに、それが考慮されないところのことです。つまり、フランスの人たちが巨U憲法の批准に「N0N(否)」と投票したのに、エリートたちはアレンジして別もののようにして通してしまった。ギリシャ人がどう投票しようと、オランダ人がどう投票しようとどうでもいい。つまり、私たちはもはや、人々の望むように行動することを政府が受け入れるというシステムの中にいないのです。(『世界の未来 ギャンブル化する民主主義、帝国化する資本主義』、エマニュエル・トッド著、朝日新聞出版、2018年、p 31)
 また、ヴォルフガング・シュトレークによれば、「私たちの体制は民主主義と言われます。しかし、私たちは民主的に統治されていない。これは今日、人々に失望と混乱をもたらしている大きな裂け目である」(上同、p 91)という。民主主義の機能不全が、今日における人々の失望と混乱の元凶ではないかというのだ。その上、「憲法とは、人民が与えた信任を、統治する者が人民に対して悪用することがないように、人民の側が持っている保障(上同、p 91) だというのに、この憲法さえ、為政者は何食わぬ顔で無視してしまう。これでは、失望と混乱が深まってもおかしくないではないか。
 このような状態が続いているにもかかわらず、どうして怒りが湧き上がってこないのかが不思議である。怒りの声を上げ続けることが必要なのかもしれない。

2022年9月23日金曜日

足元からの民主主義

 吉本隆明の思想について、まだほんの少し垣間見た程度だが、すごいことを考え抜いた人であって、大いに学ぶに値すると思うようになってきた。いつだったか、友人と二人で、足元からの民主主義というものを考えたが、同じようなことを次のように語っていたのだ。

 誰かがなにかをしてくれるはずだとは思わずに、自分たちで精いっぱい考えて、圧縮するというか、縮小して、気心の知れた友達同士で同人雑誌を作るみたいな感覚を持ち、三人以上いればしっかりした集団ですので、そこでいろいろなことをやってみる。つまり、ここだけはすこし自由・平等なんだという、三人ぐらいでそういうものを作っていく、といったことがたくさんできていけばいいと思っています。
 ほとんど空想のように思われるかもしれませんが、そういうことでしか可能性はないのではないかとぼくは考えています。(『第二の敗戦期 これからの日本をどうよむか』、吉本隆明著、春秋社、2012年、p157)

 このような自由な発想はすごいと思うし、そこに庶民的な視点がある。庶民的な視点こそが、吉本隆明思想の魅力かもしれない。
 庶民的な視点と言えば、戦後の農地改革のように、「限度以上の利潤を上げている企業や個人のところを少し削ってもらって、それを困窮している中小企業とか個人産業のところへ贈与するということをすべき」である。「いってみれば、第二の農地改革というものを考えていい」(上同、p 156)などと言った考えも、庶民的な視点そのものである。

2022年9月22日木曜日

安全保障=日本のとるべき道

 誰も、戦争を望む人などいない、そう思ってきた。しかし、プーチン大統領のことを考えると、最近の世界情勢を見ていると、そうとばかりは言えないこともはっきりしてきた。武力を用いて殺戮しても、戦果としか考えられないような人も存在しているということである。しかし、そうした人々の存在は、ごく限られており、ほとんどの人々にとっては、戦争などない方が良い、それどころか、絶対に巻き込まれたくない、何百年と平和な世界が続いてほしいと願っているに違いない。
 そう考えると、日本のとるべき道は、自ずから決まってくる。「いま日本が行うべきは、『抑止力』の強化ではなく、緊張を和らげ衝突を予防する『仲介外交』の促進」(『日米同盟・最後のリスク なぜ米軍のミサイルが日本に配備されるのか』、布施祐仁著、創元社、2022年、p 265)以外にない。日米同盟による「抑止力」を強化していけば、それだけ「アメリカの戦争に巻き込まれる」という大きなリスクを伴うことは必然だからである。
 ここで「アメリカの戦争に巻き込まれる」と言われても、実感がないかもしれない。これまで米軍は、ベトナム戦争をはじめとして、イラン、イラク戦争、アフガン戦争などアクサンの戦争をしてきた。それでも、日本が巻き込まれるようなことはなかったからだ。なぜか? それは、「アメリカの過去の交戦国に、海を超えて日本を攻撃するだけの軍事力がなかったから」(上同、p265〜266)だという。納得である。やはり、日本のとるべき道は、国際紛争を未然に防ぐ「仲介外交」に限るのだ。
 幸いにも、そのお手本があった。「身近に存在するASEAN(アセアン)こそが、『仲介外交』の最高のお手本」(上同、p267)だったのだ。さらには、ASEANを土台にした”東南アジア友好協力条約(TAC)”というのもあり、なんと、2003年に、中国がASEAN域外国として初めて加入していたのである。ASEANを中心にしたアジアにおける平和のネトワークを構築してほしいものである。

2022年9月21日水曜日

「日本は民主主義国家」と言えるの?

 これまで、戦後民主主義という言葉で、多様な民主主義の形態を”一緒くた”にして批判してしまうことや、アメリカや日本を民主主義国と言い表してしまうことに違和感を抱いてきた。しかし、明確な言葉にすることができずにいた。そんなとき、「僕は宗教という形態には反対です。カントも反対していた。彼は道徳を宗教の上においたわけです。僕は倫理という言葉を考えてきたけど、カントはそれを道徳と呼んでいます」(『柄谷行人発言集 対話篇』、柄谷行人著、読書人、2020年、p412)という言葉に出会った。
 ここで言われている「宗教」や「カント」批判の構造が、「戦後民主主義」や「民主主義」という言葉の用い方の構造と同じことに気づいたのだ。柄谷さんの「宗教」や「カント」批判の構造には、仏像文化に、あるいは、カントの『永遠平和について』に見られるような優れた面も否定してしまっているところがある、と。
 同じように、確かに「戦後民主主義」は、だいぶ劣化してきているのは事実であろう。その実例を見事に言い表している想田和弘さんの文章がある。

 異例の値引き契約で結ばれた森友学園への国有地売却問題、安倍晋三・元首相の友人が理事長を務める加計学園に獣医学部新設が認められた問題。公文書の破棄や改ざんが発覚し、国会では虚偽答弁が繰り返されました。
 17年、野党は臨時国会の開会を要求しましたが、政府与党は憲法に反して拒み続けました。3カ月間も引き延ばしたあげく、ようやく開会した臨時国会を冒頭で解散しました。なのに与党に大勝させてしまったのが前回の総選挙でした。
 昨年9月、菅義偉政権が日本学術会議が推薦した会員候補の一部を任命拒否した問題も同様です。民主制の土台となる憲法を為政者が守らない。法的に非常に疑義のあることを強行してしまう。政治家も最初は恐る恐るルール違反をしていたかもしれません。でも、主権者が容認し黙認してきたことで、だんだんと平気になってきた。
 突然、こんな無法な政治になったわけではなく、政治家によるルール違反を主権者が不問にしてきた結果だと思うんです。(「映画作家・想田さん『民主制の基本に立ち返るとき』」、朝日新聞、2021年10月18日)

 このように、戦後、民主主義は踏みにじられてきた。だからと言って、日本国憲法は健在だし、民主主義が否定されてしまったわけではない。また、これだけ民主主義が踏みにじられてきている日本を民主主義国と言えるのか、と思うのだ。どうも、言葉が正しく使われていないのではないだろうか。

2022年9月20日火曜日

北朝鮮敵視政策は止めて!

 地政学とは、どのような学問かと思い、『こども地政学 なぜ地政学が必要なのかがわかる本』( 船橋洋一監修、バウンド著、カンゼン、2021年)を読んでみた。辞書には、「地政学とは、国家を有機体としてとらえ,その政治的発展を地理的条件から合理化しようとする理論」とあったが、北朝鮮を敵視した記述があって驚いてしまった。
 なんと、「日本と仲が悪い国ってどの国だろう?」という問いがあり、「隣国である北朝鮮とは国交がない『近くて遠い国』です」。「日本が仲が悪い国の代表格は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)です。隣国なのに国交がなく、自由に行き来することもできません」(p 18)と解説があったのだ。
 逆に、「日本は世界のどんなグループに属しているの?」という問いがあり、「日本にとって『日米同盟』は最重要グループです」(p24)とあった。大手マスコミも、日米安保容認に傾いているのだから仕方がないとしても、歴史的な日朝関係を振り返ることなく、北朝鮮に対して「日本が仲が悪い国の代表格」と決めつけてしまうのはどうであろうか。
 大東亜戦争について、「あれは侵略などではない」と大真面目に書いている本を読んだが、同じように、日本軍が朝鮮人に対してやったこと、あるいは日本人が朝鮮人に対して持っていた差別意識はなかったというのだろうか。そうでなければ、「日本が仲が悪い国の代表格は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)です」などとは、とても言えない。戦時中のことは真摯に反省し、東アジアの国々は、隣国同士、手を取り合い、同盟関係を目指すべきなのである。だから、北朝鮮などに対する敵視政策は止めてほしい。

2022年9月19日月曜日

愚痴を聞く行為も布施の一つ

 継続は力なり、という言葉もあるが、同じ範疇の本『毎日、続ける 97歳現役ピアニストの心豊かに暮らす習慣』(室井摩耶子著、河出書房新社、2018年)を読んだ。「ささやかな事でもコツコツ続けて、一歩ずつ、いや半歩ずつでも積み重ねていくことで、人生を豊かに輝かせる」(p4)ことができるという。このことを手短に体験したければ、新聞の連載小説がいい。毎日ほんの少しの読書でも、毎日コツコツ続けていけば、いつの間にか、一冊の小説も読み終えることができるからだ。
 心を豊かに暮らす習慣として、「愚痴や人の悪口は、百害あって一利なし」(p 92)という項目もあった。「ネガティブな言葉」は、基本的に気分を滅入らせるだけだから、まわりも自分も心地よくなれる表現を常に意識したい、というのだ。しかし、こればかりは自分が注意していても、「愚痴や人の悪口」を聞かされる身には、どうしようもない。どうすればいいのだろうか。
 ここで、インターネットのお世話になった。「お坊さんQ&A愚痴や他人の悪口を聞き続けるのがつらい。ストレスにならない方法はありますか?)」に、あっと驚く回答を見出すことができたのである。このサイトで、「愚痴とは、もともとは仏教用語の1つであること」、「仏教には、『三毒』という言葉があり、貪欲(どんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴の3つをよくないもの」としていることを知った。
 このうち「瞋恚」は、『大乗阿毘達磨集論』では、「それは苦、衆生、苦を備えた心への怒りを本質とし、安穏ならざる〔状態〕に住し、悪しき行い〔を為すこと〕の依り所たることを作用とする」。
 また、「唯識大意では、 我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心、『自分がないがしろにされた』という思いと解釈している」とあった。
 それで「あっと驚く回答対策」だが、それは、「愚痴を聞くのは修行の1つ」なのだから、「相手を観察しながら、愚痴を聞いてあげてください」ということである。このことを知っただけで、心がだいぶ楽になった。
 愚痴の意味を知る!そして聞く行為は、施しの心(布施)の修行です。
どうかこれからは、心していっぱい愚痴を聞いてみては。そうそう聞いてくれる人はいませんけれど、どれもまた意味がある功徳なのです。(金粟院 山口秀徹)

 布施とは、金銭や品物を与えるだけではありません。施しの心、つまり親切な心でも人を救うことはできます。さらに、善いことをすれば、善い結果が返ってくる、そう信じて功徳を積むことで、自分自身の未来や来世にもよい結果がもたらせるのかもしれませんね。
 加えて、愚痴は、「もっとわたしのことを心配してほしい」というアピールであり、怒りの背景には、「自分がないがしろにされた」という思いが見え隠れしているらしいということを知ったことの意義も大きい。

2022年9月18日日曜日

世界を蘇らせる詩論

 哲学の概念に「矛盾」という概念がある。文学には無縁と思っていたが、文学の世界にも通用する概念のようで、「詩は一見無縁なもの同士を結び付けることで世界を蘇(よみがえ)らせる」という次のような詩論を読んだ。
「世界をそのいちばん奥深いところで束ねているものは何か(柴田翔訳)」という彼の問いは、今日ますます切実さを増しつつある。科学や技術があまりにも細分化された揚句(あげく)、私たちの世界観は暗黒の中世に逆戻りしたかのようだ。
 その問いの答を求めて、ファウストは悪魔メフィストに魂を売り渡したが、ゲーテ自身は、ばらばらになった部分を全体へと統合するものこそ、詩の力だと信じていたに違いない。俳句の二物衝突やシュルレアリスムの詩法に見られるように、詩は一見無縁なもの同士を結び付けることで世界を蘇(よみがえ)らせる。(「四元康祐『詩探しの旅』 21世紀のファウスト」、日本経済新聞、2022年9月11日)
 こうした詩論を前提に、次の詩を読んでみよう。
「洋服屋のおじいさん」も、「バン屋の奥さん」「佐東町温井の一九三人の遺族たち」、そして、「『天皇陸下バンザイ』と叫び/沈んでいった十三歳の大門賢治くん」も、臣民だった。この人たちの悲劇というか悲しみの深さというものは、臣民の対極にあった「その天皇」の存在を描くことによって、一層リアルに蘇ってくる。四元康祐さんの詩論は、そう教えてくれた。
洋服屋のおじいさん
市の命令で十三歳から六十歳までは

広島から出られなかった
それなのに原爆供養塔にお骨があることがわかって
昨年遺族が九州からお骨をとりにきた時
市は弔慰金も交通費もビタ一文出さなかった
出せといってもカネがないといった
おじいさんの眼に涙があふれてくる
黒い雨に打たれて白内障になった
己斐のバン屋の奥さんの眼に涙があふれてくる

広島から北八キロ
朝五時に出かけて二度と帰ってこなかった
佐東町温井の一九三人の遺族たちの心に
つぎからつぎから涙があふれてくる

本川をながれていきながら
「天皇陸下バンザイ」と叫び
沈んでいった十三歳の大門賢治くん
その天皇はおととしアメリカへ出かけ
にこにことディズニーランドで笑っていた
帰ってきた記者会見で
「広島に落ちた原子爆弾はなにぶん戦争中のことなので
やむを得ないと私は思います」(『ヒロシマ連祷』、石川逸子著、土曜美術社、1982年、p20〜21)

2022年9月17日土曜日

生物は更新によって自己を維持していく

 訳文といえ(とっても読みやすくて分かりやすい)、書かれている内容といえ、感動的な本に出会った。『民主主義と教育』(J.デュ-イ著、金丸弘幸訳、玉川大学出版部、1984年)である。その素晴らしさは「生(life)とは環境へ働きかけることによって自己を更新していく過程である」という言葉でも言い尽くされているが、「伝達による生(life)の更新」という項目の初めの部分を紹介する。この部分を読むと、「生(life)とは環境へ働きかけることによって自己を更新していく過程である」という言葉の素晴らしさを理解してもらえるに違いない。
 J.デュ-イは、民主主義について、どのような考えを抱いているのか、とても興味がある。きっと素晴らしいものではないか、と期待している。
 

伝達による生(life)の更新
 生物と無生物が最も著しく違う点は、生物が更新によって自己を維持していくということである。石をたたいても抵抗はある。もし石に加えられた打撃の強さよりも石の抵抗力のほうが大きければ石は外面的にはそのまま変わらない。もしそうでなければ、石は砕けてこなごなになる。石はけっして打撃に逆らって身を保つような仕方で反応することはない。まして、その打撃を自己の行動を継続するための要因として役だてようとして反応することはなおさらない。ところが一方、生物は自分より優れた力によって容易に圧しつぶされるかもしれないのに、それでも、生物は自分のうえに働きかけてくる諸エネルギーをこれから自分が生存していくための手段に変えようとするのである。もしそれができなければ、生物は(少なくとも高等な生物の場合には)ただたんに細片に分解するだけではなく、生物そのものとしてのその存在を失うことになる。
 生物は命ある限り、自己自身のために周囲のエネルギーを何とか利用しようと努力する。生物は、光や空気や水分や土地の資源を利用する。生物がそうしたものを利用するのは、生物がそれらを自己保存の手段に変えるということである。生物が成長を続けているかぎり、こうして生物が環境利用に消耗するエネルギーは、環境利用によって獲得する利益によって十分に償われる。すなわち、生物は成長するのである。もし「制御する」という語をこうした意味に解釈すれば、生物とは、自分が征服しなければ、逆に自分を殺すことにもなりかねないようなエネルギーを、自己自身の活動を持続するために征服し、制御していくものである、と言うことができるであろう。生(life)とは環境へ働きかけることによって自己を更新していく過程である。(『民主主義と教育』、J.デュ-イ著、金丸弘幸訳、玉川大学出版部、1984年、p 31〜32)

2022年9月16日金曜日

蔑称”Gook!”:汚いもの・東洋人

 詩集『ヒロシマ連祷』(石川逸子著、土曜美術社、1982年)のことは、「祈りの詩集『ヒロシマ連祷』」に書いたが、もっと石川逸子さんの本を読んでみたくなって、評論<石川逸子著「国貞きみの詩世界」>が載っている『くにさだきみ詩選集一三〇篇』(くにさだ きみ著、コールサック社、2010年)見つけることができた。詩人「くにさだきみ」の発見である。
 詩集の中に、「知らなかった/Gookということばがあることを」で始まる「Gook」という詩があった。私も知らなかったので、辞書で調べてみた。なんと、二つの意味があって、「1 、汚いもの。2 、⦅米・俗・卑⦆ 東洋人」と、われわれ東洋人は、汚いものと同列だったのだ。
 もっと詳しい英中和辞典でも調べてみた。ここには、{侮蔑的}という項目があって、「あほう、いなかっぺ、土百姓、しゃくにさわるやつ」とあった。
Gook
知らなかった
Gook(グック)ということばのあることを

わたしのうちの
どんな辞典にも載ってはいない
米兵たちのスラング
Gook!
ペッ!
と唾を吐き捨てる気分で

日本人にもベトナム人にも
浴びせかけてきた蔑称
Gookということば

太平洋戦争が終わって半世紀
ベトナム戦争が終わって四半世紀
昨日はじめて
わたしは出会った
――人間よりも劣ったいきもの――
Gookというものの標本に
南京錠が外されると
ホルマリンの匂いが鼻をつく
ホーチミン市
ツウヅウ病院標本室
頭部の融合した二重体児
無脳症の嬰児やら裂唇の女児
ふわっと浮かぶ顔面に
目がひとつだけあいていて口も持たない
単眼症男児のサンプル瓶
どのガラス瓶にも名まえはなくて
出生年月日と症名だけの
小さなラベルが貼られている

長崎国際文化会館
原爆資料センターに展示された
挺身女子学徒隊の制服にも
名前はなかった
溶けたガラスに付着した人間の手にも
急性原爆症で
病理解剖された卵巣の瓶にも
簡単な説明があるだけで
名前はなかった 
その街がGookではなく
白人の街なら
その国がベトナムではなく日本ではなく
ヨーロッパならば
(後略)

2022年9月15日木曜日

多国間の平和条約を模索していく

 米中間について「新冷戦」という言葉が使われている本(『国民安全保障国家論 世界は自ら助くる者を助く』、船橋洋一著、文藝春秋、2022年)の、特に、米中の間にある”「日本の選択」はどうあるべきか”を言及しているところ読んだ。そして、その中に矛盾ある表現を見つけてしまった。
 まず、「米中対立が軍事対決へと激化すると、日本は米国の同盟国としての義務と自らの実存的必要性のギリギリの矛盾に直面させられる。中国によって日本がせん滅される極限状況を別として、いかにして、そうした選択肢を避けるかに死力を尽くすしかない」。そして、「日米が中国を全面的な敵性国(adversary)と決めつけ、それが中国の排他的民族主義を煽り、双方とも後戻りができなくなる状況を遥けるべきである。日米中とも相手の意図を正確に把握すること、そしてパーセプション・ギャップを埋めるため、不断の対話をすることが必要である」(『国民安全保障国家論 世界は自ら助くる者を助く』、船橋洋一著、文藝春秋、2022年、p 92)。と、ここまでは、もっともな話で、「死力を尽く」し、あくまでも、「パーセプション(理解)・ギャップを埋めるため、不断の対話をすることが必要」なのである。
 しかし、一方で不断の対話を強調しながら、「そのために」と称して、「日本がより自立し、自らの安全保障に責任を持ち、日米同盟を相互依存的な責任共有の体制に進化させるべきである。有事に国民を保護できる国の体制をつくらなければならない、日本の抑止力を高めなければならない。米国との間で抑止力の統合を図らなければならない、日米韓の三者の政策協調を急がなければならない。米国と台湾との三者の戦略対話が必要である」(上同、p93)と、あくまでも軍事力による対応の域を出ていない。わかりやすく言えば、刀を振り上げつつ「話し合い」を求めるようなものである。「中国を全面的な敵性国と決めつけ」るのを止めれば、「日本の抑止力を高め」る必要はないし、「米国との間で抑止力の統合を図」る必要もないではないか
 それどころか、パーセプション(理解)・ギャップを埋めるための不断の対話を成功させるためには、段階的にせよ、「安保条約を解消し、多国間の平和条約を模索していく」くらいの気概を示していくべきではないだろうか
 以下、該当部分を引用しておく。
 日本の選択肢は限られている。そもそも、中国との経済相互依存を全面的にデカプリすることは不可能であり、望ましくない。それは日本の選択肢ではない。さらに、米中対立が軍事対決へと激化すると、日本は米国の同盟国としての義務と自らの実存的必要性のギリギリの矛盾に直面させられる。中国によって日本がせん滅される極限状況を別として、いかにして、そうした選択肢を避けるかに死力を尽くすしかない。「日米中の罠」はこれまで以上にさまざまな顔をして立ち現れてくるだろう。けれどもこれからの時代、もっとも恐ろしい「日米中の罠」は、米中対決の中で日本が選択肢を失う罠である。中国に日本の自国防衛の意思と能力、日米同盟の抑止力の有効性、科学技術力とイノベーションの力をつねに理解させるべきである。同時に、日米が中国を全面的な敵性国(adversary)と決めつけ、それが中国の排他的民族主義を煽り、双方とも後戻りができなくなる状況を遥けるべきである。日米中とも相手の意図を正確に把握すること、そしてパーセプション・ギャップを埋めるため、不断の対話をすることが必要である。(『国民安全保障国家論 世界は自ら助くる者を助く』、船橋洋一著、文藝春秋、2022年、p 92)
 そのためには、日本がより自立し、自らの安全保障に責任を持ち、日米同盟を相互依存的な責任共有の体制に進化させるべきである。有事に国民を保護できる国の体制をつくらなければならない、日本の抑止力を高めなければならない。米国との間で抑止力の統合を図らなければならない、日米韓の三者の政策協調を急がなければならない。米国と台湾との三者の戦略対話が必要である、サイバー・セキュリティの能力の飛躍的増強が要る。日本の戦略と国益に資するパワー・バランスと国際秩序の構築に向けての戦略的思考と外交力が欠かせない。そして、何よりも統治力が求められる。(上同、p 93)

2022年9月14日水曜日

新しい哲学を求めて

 今現在、この世界は”混迷を深めている”と言っても過言ではあるまい。今このときも「戦禍に怯えてくらしているウクライナの人々」がいるにもかからず、そうした無法状態を止められないでいるからだ。
 どうすればいいのか、というと”ウクライナのように攻められたらどうしよう”といった狭い観点でしか考えられていないのが現状だ。だからこそ、軍事費倍加論が平気で語られてしまうのである。しかし、今語られている世界的な危機は”戦争の問題”だけでないことは明らかだ。「南アジアのパキスタンでは、記録的な大雨で国土の約3分の1が冠水した」と、朝日新聞(2022年9月14日)の一面トップ記事で紹介されていることが、問題の深刻さを浮き彫りにしている。
 こんな時だからこそ、大局的観点に立って考える必要がある。つまり、誰が言ったか忘れてしまったが、新しい哲学が求められているのであろう。そこで注目している哲学者が、『偶然性の問題』や『「いき」の構造』の著者、九鬼周造と、『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』の著者、竹田青嗣、西研である。それに、生命科学者の中村桂子の生命観に則った世界観も加わる。
 特に二人による『精神現象学』の解読作業を通して、”われわれは「哲学」という方法原理の新しい希望と可能性を見出した”(『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』、p9)という点が、まさに私にとっても一つの希望なのだ。そこまで辿り着けるかどうか、が問題だが。

2022年9月13日火曜日

B29に”狩られる”修羅場

 辻真先さんのエッセー「ペットたちの戦争と平和」(日本経済新聞、2022年9月11日)を読んだ。戦争中、飼い猫が「夜中に苦しさのあまり大きな鳴き声を発しながら死んでいった話」があった。ひもじさのあまり食べてはいけないものを食べてしまったのが原因だったらしい。苦しんでいる痩せ細った猫を目の当たりにし、よほど空腹だったのであろう、と書いていた。  
 エッセーを読み進めているうちに、なんという表現だろう!と感嘆した文章に出会った。「われわれ自身がB29に狩られる修羅場の季節が終わってのち、我が家はもう一度犬を飼った」である。この中の「われわれ自身がB29に狩られる修羅場」という表現は、虫ケラのように逃げ惑うしかなかった戦禍の人々を見事に言い表している。戦争の本質をついているような気もする。
 正直な話、このエッセーを読むまでは、辻真先さんの名前すら知らなかった。著者名で検索してみたら、だいぶ本が出版されていた。このような表現ををされる著者は、どのような内容の本を書いているのだろう、と興味が湧いてきた。とりあえず、『進駐軍の命により』(辻真先著、徳間書店、2001年)を手に取ってみようかな、と考えている。感嘆する文章に出会えるであろうか?

2022年9月12日月曜日

小室直樹の戦争肯定論

 本によっては、全部読まなくても足りる、何を言いたいのか、要点さえわかればいい本もある。『国民のための戦争と平和』(小室直樹著、ビジネス社 、2018年)は、そんな本だった。最後の方にあった「初版刊行時の推薦の言葉」を読んだだけで要点がわかってしまい、全部読む必要がなかったのである。
 その要点とは、日本の「安全保障論議」について、「日本の世論は、どこかおかしい。それを一口で言えば、

 戦争の文明史的本質が見失われているということである。主義主張やイデオロギーという皮相な次元ではなく、明確な本質的問題を提起する必要があるという結論に達した。
 それは「戦争とは国際紛争解決の最終手段である」という文明史的洞察の原点に立ち返ること。(国際法学者ホセ・マリア・アラネギ、『国民のための戦争と平和』、小室直樹著、ビジネス社 、2018年、p222)

 だという。その上で、

 著者はこの平和主義者が第二次大戦という「不必要の戦争」を招来したという歴史の矛盾を指摘しつつ、文明史的に戦争を捉え、それを回避する道を示し、戦争なき未来に至る道を示唆する。それは念仏でもお題目でもない。
 そうではなく「戦争より合理的かつ実効的な国際紛争解決の手段を考案しないかぎり、戦争は消滅するはずがない――別の言葉で言えば、平和という制度を、戦争以上に高度の組織的努力の体系とするということである。――それは、結局、戦争を上まわる巨大な努力の体系ということになる――」(評論家 山本七平、『国民のための戦争と平和』、小室直樹著、ビジネス社 、2018年、p223)

 この結論の、どこかがおかしい。それは何か。
 それは、「戦争より合理的かつ実効的な国際紛争解決の手段を考案しないかぎり、戦争は消滅するはずがない」と言ってしまうと、そうした手段待ちになってしまい、何処か、人任せになってしまう。現実はそういうものではなく、戦争勢力の思想と、それと対決する思想の闘いである。
 もっとはっきり言ってしまえば、小室氏の主張は、平和を求めているようなそぶりを見せながら、結局は戦争肯定論になってしまう、ということである。だからこそ、憲法九条が存在する「いわゆる日本国憲法というものは最初から効力がない。手続きとして無効であった」(『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』、小室直樹・渡部昇一著、祥伝社、2001、p120)などと言ってしまうのだ。

2022年9月11日日曜日

祈りの詩集『ヒロシマ連祷』

 連祷(れんとう)という言葉を初めて知った。『ヒロシマ連祷』(石川逸子著、土曜美術社、1982年)という詩集を読んだからだ。辞書には「カトリック教会の礼拝で,司式者と会衆とが交互にかわす連続の祈り」という説明があった。『ヒロシマ連祷』は、ヒロシマとナガサキで被曝した人たち、戦争で命を落とした人たちへの祈りの詩集だったのだ。
 詩集の中でも「合唱」が圧巻だった。 「つたえよう つたえよう /風に搖れる草となって /どこまでも、(中略)あの日から/ 白骨になってしまった /中学生のことを(後略)」と「つたえよう つたえよう」が四回も続く。
 こうして私に伝えられ、また、私から伝わっていってほしい。

合唱 
つたえよう つたえよう
風に搖れる草となって
どこまでも
 焼けへしゃげた弁当箱
 空を
 ながれていった
 もんべのひとひら
 あの日から
 白骨になってしまった
 中学生のことを

つたえよう つたえよう
かなしい波となって
あらゆる岸に
 もげていた首
 川を
 下っていった
 幼いたましい
 あの日から
 白髪になってしまった
 母さんのことを

(あのげんばくが
いまは無邪気くらいの
小ささですって
テニヤンから飛行機に積まなくても
ボタン一つ押して
どこへでも飛んでいけるんですって)

つたえよう つたえよう
家々をたたく風となって
どこまでも
 骨ガンになったアメリカ兵
 大地に
 理もれてしまった
 ヒロシマの
 ナガサキ の
 なお熱い 涙
 朝鮮人徴用工の
 溶けた 叫び

つたえよう つたえよう
あの日から
生きてきた
ひとりの 娘の つらい年月を
草となって
風となって
どこまでも(『ヒロシマ連祷』、石川逸子著、土曜美術社、1982年p138~141)

2022年9月10日土曜日

日常が突然断ち切られる悲劇

 ニューヨークを拠点とする美術家・蔦谷楽(つたやがく)のことは、日本経済新聞(2022年9月10日)のアートレビュー<蔦谷楽展 核問題を今に問う現代の「鳥獣人物戯画」>で、初めて知った。日米で核の歴史を綿密に調査し、絵画や映像作品として発表しているが、この度、原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)で蔦谷楽展を開催中だという。
 蔦谷楽が核問題に関心を持ったのが、「15年に父親が東日本大震災の被災地に土木技術者として赴任したのがきっかけだった。ともすれば忘れそうだった被災地の状況を、父親が日々伝えてくる。『何も復興していないじゃないか』。福島について調べ始め、やがてマンハッタン計画にも視野を広げた。
『日本にも米国にも核の被害者はいる。彼らは時の権力者によって情報を隠され、大きな被害に苦しむ。いつの時代も、どこの場所でも、構造は同じだ』
と蔦谷。憤りを直接表現するのではなく、動物や昆虫の姿を借りることで、核問題に興味がない人も関心を持ちやすいよう工夫した」(日本経済新聞、2022年9月10日、強調は引用者による)という。
 真珠湾攻撃の直後に米国でスパイ容疑をかけられ、強制収容された日系1世の物語も作品として登場しているようだが、このような突然訪れる悲劇は、「残念なことに今もなお、ありふれた日常が突然断ち切られる悲劇は世界各地で起きている」(上同)という指摘には、ウクライナで日々起きている惨状を想像してしまい、心が痛む。
 また、「いつの時代も、どこの場所でも、構造は同じ」という言葉を普遍的な真理と位置付ければ、時代の問題を解くキーワードになるように思えてきた。基地問題や沖縄の問題も、温暖化の問題も、そこにも「権力者と被害者という支配構造」が存在している。そこを見据え、真の解決に向かっていきたいものである。

2022年9月9日金曜日

「人殺しの術」を学び、訓練している米兵

 沖縄では、米兵によるレイプ事件が絶えない。しかし、時が過ぎると忘れてしまっていた。しかし、被害者にとって何年経っても心の傷は癒やされないことを、改めて思い知らされた。3人の米兵に性暴力を受けた女性の手記を読んだからだ。目取真俊氏が『いったい、この国はどうなってしまったのか! 続』(魚住昭・斎藤貴男・目取真俊著、日本放送出、2006年)で紹介していたのである。
 「仕事として『人殺しの術』を学び、訓練している米兵達が、今日も我が物顔で、私達の島を何の制限もされずに歩いています」という心の叫びは、忘れがちな真実であるだけに、心に響く。この事実は、基地が存続している限り、無くならないのだ。
 孫が今年一年生になったばかりだが、通学路を米兵が闊歩しているとしたら、とても心配で、夜も眠れなくなってしまうかもしれない。基地は必要だと考えている日本中の爺婆に、あなたの孫が暮らす街に基地があっても、それでも、基地は必要だと言えますか、と問いたい。
拝啓、沖縄県知事 稲嶺恵一様
 日頃のご活躍に敬意を表します。
 1995年9月に起こった米兵による少女暴行事件から10年、去る7月3日、またもや米兵による少女に対するワイセツ行為事件が起こりました。いったいいつまでこんなことが続くのでしょうか。いったい何人の女性が犠牲になれば、気がすむのでしょうか?
(中略)
 私は被害者の一人として訴えます。私は、高校2年生のときに米兵によるレイプを受けました。学校帰りにナイフで脅され、自宅近くの公園に連れ込まれ3人の米兵にレイプされたのです。本当に怖かった。「もう終わりだ、自分は死ぬのだ」と思いました。何度叫ぼうとしても声も出せずにいました。そのとき米兵は「I can kill you」と言いました。「殺すぞ」ではなく、「殺せるぞ」と言ったのです。
 あれから20年以上の月日が流れたいまでも、私は事件による心の傷に苦しんでいます。被害者にとって、時の長さは関係ありません。(中略)
 今回被害にあったのは、まだ小学生です。被害にあった女の子の気持ちを考えると、いても立ってもいられなくなります。どれほど恐ろしかったことでしょう。私は基地を押し付けようとするすべての人に言いたいのです「あなたのお子さんであったならどうされるのでしょうか?」と。(中略)
 米兵達は今日も我が物顔で、私達の島を何の制限もされずに歩いています。仕事として「人殺しの術」を学び、訓練している米兵達が、です。稲嶺知事、一日も早く基地をなくして下さい。それは、県民の80%以上が望んでいることなのです。基地の県内移設に「NO」と言って下さい。ここならだめ、あそこならOKと言うことはありえません。なぜなら、事件の多くは基地の外で起きているからです。沖縄はアメリカ・米軍のために存在しているのではありません。(後略)(「沖縄タイムス』、2005年7月9日)(『いったい、この国はどうなってしまったのか! 続』、p 382〜383)

2022年9月8日木曜日

「審議拒否」「はぐらかし」は暴力だ

 人類史における言葉の獲得が果たした役割は、とてつもなく大きいことがわかってきている。遺伝子によって情報が受け継がれ、進化の旅が続いてきた。その過程で言葉を獲得したわけだが、言葉こそ第二の遺伝子と言われるようになった。言葉によって飛躍的に進化が促進され、知識や文化が受け継がれるようになったからだ。
 集団で狩りをするにも言葉は重要な働きをしたことは容易に想像がつく。その際に、借りの方法を話し合ったり、結果を反省するときも話し合い、より良い工夫についても話し合ったに違いない。もちろん話し合いが少ない集団もあったであろう。そういう集団は、環境が悪化するにつれて淘汰され、話し合い、工夫しあった集団が生き残ったのだ。
 物理学者のホーキング博士も、その辺のことを「人類の大きな成功はどれも、話しあうことから生まれたんだ。そして大きな失敗は、話しあわなかったせいで起きた。でももうそんなまちがいをくり返さないようにしよう」(『こどもサピエンス史 生命の始まりからAIまで』、ベングト=エリック・エングホルム著、ヨンナ・ビョルンシェーナ絵、久山葉子訳、NHK出版、2021年)と言っている。
 人類史の中での大きな失敗は、何と言っても戦争である。十分な話しあいを軽視し、言葉の代わりに武力を用いてしまったのが戦争だからである。人類史の教訓に学び、国際紛争も言葉による話しあいで解決するようにしなければならない。
 国会の審議や国会議員による官僚に対するヒヤリングにおいて、まともな話しあいができていない事態が続いている。審議拒否や「はぐらかし」が平気で行われているのだ。こうした行為は、武力こそ使わないが、一種の暴力そのものではないか。話しあいを拒否しているからだ。そうした視点に立って、審議拒否や「はぐらかし」といった国会審議をもっと問題視すべきなのかもしれない。

2022年9月7日水曜日

内閣支持率の真の実態は20%台

 内閣支持率の実態の動向は、上がったか下がったかばかりが強調されて、半数近い支持率であることが強調されているように見える。しかし、最近知って驚いたことだが、内閣支持率の真の実態は20%台なのだ。
 気になった「お任せ民主主義」を検索して、高知新聞の記事「お任せ民主主義脱したい」(2020.01.04)を見つけた。この記事に「『消極的支持』が4~5割にも達する状況は、3年近く前から変わらない」と。次のような解説があったのだ。

 立憲民主党と国民民主党などは合流を模索している。有権者にとっての「選択肢」を目指すのであれば、政権を任せるに足ると思えるだけの一致した政策や社会の姿を早く提示する責任があろう。
 共同通信による昨年末の世論調査で内閣支持率は42・7%だった。一方で、支持する理由は「ほかに適当な人がいない」が48・1%を占めている。こうした「消極的支持」が4~5割にも達する状況は、3年近く前から変わらない。

 この記事にならって、最近のデータで分析をしてみた。

 朝日新聞世論調査―質問と回答〈8月27、28日実施〉
(数字は%。〈〉内の数字は全体に対する比率。丸カッコ内の数字は、7月16、17日の調査結果)
 ◆あなたは、岸田内閣を支持しますか。支持しませんか。
   支持する 47(57)
   支持しない 39(25)
   その他・答えない 14(18)
 ◇(「支持する」と答えた人に)それはどうしてですか。(択一)
   首相が岸田さん 11〈5〉
   自民党中心の内閣 23〈11〉
   政策の面 11〈5〉
   他よりよさそう 55〈26〉
   その他・答えない 1〈0〉(朝日新聞、2022年8月29日)
 岸田内閣を支持する47%のうち、積極的支持率は5+11+5=21%しかないことがわかる。つまり、支持率が5割程度あっても、そのうち「『消極的支持』が4~5割にも達する状況は、3年近く前から変わらない」というのは真実のようである。今年度の「消極的支持」は、(26/47)%だから、5.5 割だった。
 このような実態は、やはり、頼るべき野党に育てられていない野党にも責任があるということだろうか。

2022年9月6日火曜日

葛飾北斎の「日新除魔図」

 NHKの番組「ザ・バックヤード」で、九州国立博物館にあるという門外不出の重要文化財、葛飾北斎の「日新除魔図」の紹介があたった。北斎晩年(83歳〜84歳)の肉筆画219枚で、「自身の長寿を願うなどの理由」で描かれたという。この年でこれだけのことができるのか、と勇気づけられる作品だった。
 勇気づけられるといえば、
87歳の渡辺京二さんが、「サライインタビュー」(『サライ』、2018年8月号)で、「年に2~3冊は本を出している」と語っていた。「87歳で!」と驚いたが、いい刺激になり、少しはあやかりたいと思った。
 二人に共通しているのは、自分の目標、日々の課題を明確にし、毎日取り組んだということであろう。今ふと思ったことだが、日々、「自ら設定した課題をひたすらやるのみ」なのかもしれない。




2022年9月5日月曜日

生涯迷いながら生きる

 朝日新聞の連載小説、今村翔吾著『人よ、花よ』が気に入ったので、今村翔吾の作品『てらこや青義堂』と『幸村を討て!!』を、並行して少しずつ読み始めたことは「家康74歳の”天下取り”」に書いた。
『てらこや青義堂』は、忍者だった十蔵がてらこやの師匠になって子供たちを教え導いていく物語である。ぐいぐいと読み進んできたが、なんとなく心が安らぐ言葉に出会った。十蔵の師匠だった順治郎に対して言った「生涯迷いながら生きとうございます」だ。
 順治郎は「それでよし」と返答するが、ややもすると、”達観する”という言葉があるように、「人は成長すれば、完成されて迷いなどなくなっていくものであり、いつまでも迷い続けているのは情けないもの」と思いがちだ。自分自身、実際そんな感じだったところにこの言葉に出会った。そして、スッと心が楽になったのだ。
 実は、「生涯迷いながら生きとうございます」という言葉の前に、次のような十蔵と順治郎の会話があった。
「・・・・それにしても変わらぬなあ」
 順治郎は 口元の皺をなぞりながら笑った。
「相も変わらず未熟者でございます」
「いや。人を教える者にとって、変わらぬは褒め言葉だ。己が成長したと思った時、そこが辞め時よ」
 やはりこの方に師事して良かったと改めて確信した。
 順治郎の「変わらぬは褒め言葉だ」も、「あれ?」と思った言葉だった。生き方の理想と思われる「日々成長していく姿」と「変わらぬ」は相反するように思われたからだ。しかし、北斎の生き様を考えてみると、「生涯迷いながら」死ぬ寸前まで成長し続けている。つまり、「生涯迷いながら死ぬ寸前まで成長し続けた」という点で、北斎は死ぬまで変わらなかったとも言える。そして、北斎も、満足の絵を絵が生きたいと「生涯を迷いながら生き抜いた」人生だったと言えよう。「生涯迷いながら生きとうございます」という言葉は、真実の言葉だったようである。

2022年9月4日日曜日

民主主義が機能するための第一の条件

 田中角栄と言ったら、ロッキード裁判、とか金脈、汚職というイメージだった。「角栄は、官僚を慴伏せしめ、自由自在に駆使した」ということを知り、どちらが真実なのか、わからなくなってしまった。角栄が官僚を自由自在に駆使したとなれば、官僚からの反撃が十分考えられるからだ。
 そういえば、福島県では、国の原子力、地方自治政策に県民の視点から妥協せず対峙する姿勢で福島県知事を18年務め佐藤栄佐久氏が、事実なき談合関与の疑いで辞任に追い込まれてしまった経緯がある。これも、官僚に楯突き自認に追い込まれてしまった可能性が大きい。
 角栄時代の議会記録などを見れば、今の記録とどれだけ違うのかがわかるかもしれない。いずれにしても、書かれてあることをそのまま信じてしまうことだけは避けるようにしたいものである。ただ、デモクラシーが機能し得るために議会における自由な言論が重要なことは確かである。だから、どれだけ「自由な言論」が行われてきたか、その検証をする必要があるということである。
 角栄は、官僚を慴伏せしめ、自由自在に駆使した。角栄ありてデモクラシーあり。角栄死してデモクラシー亡ぶ。
 デモクラシーが機能し得るための第一の条件は何か。 議会における自由な言論である。自由な討論によって国策が決定されることである。(『田中角栄の遺言 官僚栄えて国滅ぶ』、小室直樹著、クレスト社、1994年、p16)

2022年9月3日土曜日

明治維新の負の側面

 日本の歴史を考える時に、明治維新から考える必要がある。しかも、明治の間違った評価を正す必要がある。そう聞いても、明治維新の負の側面をはっきりと認識することができなかった。しかし、ようやく、明治維新の負の側面を端的に表現してある文章に出会うことができた。そして、男尊女卑の思想など、明治維新の負の側面を、いまだに引きずっていることに気がついた。
 明治維新とはなんだったのか、改めて問い直されるべき課題であり、その作業を経ずして、更なる前進はないのではないか、そこまで考えてしまった。
 まずは、すでに問い直された業績を発掘することであろう。図書館のレファレンスサービスのお世話になって、探してみたい。
 維新、文明開化と言いながら、明治の日本は封建的抑圧が徳川時代より強まります。
 男尊女卑につながる良妻賢母の思想も、この時期に広がったものです。もとは武士だけの考えで、庶民の女性はもっと自由で家の中でも力をもっていました。明治維新は標準的な国家を作ろうとしただけの革命ですが、個人が国民として管理されるようになったことで社会の風通しは悪くなったと私は感じています。端的にいえば日本人から個が消え、人間臭さが薄れた。幸福の質が変わったのです」(渡辺京二談、『サライ』、2018年8月号、p 18)

2022年9月2日金曜日

<メモ>の持つエネルギー

 大和言葉には魂が宿っている、みたいな話を聞いたことがある。日常の言葉にしても、言葉によっては元気をもらったりする言葉があるのは事実である。しかし、「<メモ>の持つエネルギーは計り知れない」(『新作文宣言』、梅田卓夫著筑摩書房 、1989年、p 192)という言葉は、次元の違うインパクトがあった。多くのメモを書いてきたが、残念ながら、<メモ>の持つエネルギーを実感するようなことはなかった。だから、余計にインパクトを感じたに違いない。
 メモを続けていると「考えがつながって深まっていく」。「予測もしない方向へ飛躍することもある」(上同、p171)というのだが、そこまで至っていない、つまり、一度メモして終わり、見返しても、一回くらいが多く、手を加えながら何度も見返すようなことがなかった。そこまでやらないと、そこまでやりつつ、メモから果実を実らせて初めて、<メモ>の持つエネルギーを実感できるのかもしれない。
 本はたくさん読んでも、自分が書いたメモ帳やノートを読むということはほとんどなかった。たまに整理のついでに、思いついたように読む程度だった。しかし、考えようによっては、新しい本を読んでいくよりも、メモやノートを読み返すことの方が重要なのかもしれない。手っ取り早い自己発見のたびにつらなると思うからだ。まずはメモ帳の再読からやってみよう。

2022年9月1日木曜日

様々な病気は1万年前に農耕を始めてから

 朝食を食べないようにしてから、もう2ヶ月半も経った。不眠症もすっかりよくなり、体力も回復しつつある。朝食廃止を主張する人の中には肉食を避けるように言う人もいるが、今日読んだ『脳の寿命を延ばす「脳エネルギー」革命 ブドウ糖神話の崩壊とケトン体の奇跡』には、肉食に偏る(メチオニンを摂り過ぎる)のも、菜食に偏る(トリプトファン不足になる)のもいけないとあった。程々の肉食も、やはり必要のようである。
 人類の歴史をビデオで見たが、肉食をするようになって脳の容積が飛躍的に拡大してきたという。この事実も、適当に肉食を継続していくことが必要なことを教えてくれている。
 ケトン体食は、総体としてのケトン体を問題にしているが、二食主義はそうではない。ケトン体の重要性を認識しながらも、ケトン体を使用したり、糖質を活用したり、とそのオン・オフの切り替えを大切にしている。昼と夜があるように、エネルギー源のオン・オフというのも大切なのかもしれない。
 どちらにしても、人類史的な観点を忘れてはならないということであろう。『脳の寿命を延ばす「脳エネルギー」革命』に学んだことである。
 てんかんを始めとして様々な病気は、ホモサピエンスが1万年前に農耕を始め、糖質中心の食事を摂るようになったことで起きた宿命とさえ言われています。ケトン体は、この糖質中心の食習慣からちょっと抜け出るためのツールとなり得ます。 ケトン体は「脳の最後の砦」みたいなものだと私は理解しています。(『脳の寿命を延ばす「脳エネルギー」革命 ブドウ糖神話の崩壊とケトン体の奇跡』、佐藤拓己著、光文社、2021年、p269)