雑誌『暮しの手帖・2020年8-9月号』に、「生命は」という詩が掲載されていた。この詩を通じて、詩人吉野弘の存在を知った。この詩は、「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい」と始まり、その生命は、花なら、めしべやおしべ、虫や風といった「他者から満たして」もらって初めて存在し得ることを謳う。そして最後に、花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
-―『吉野弘詩集』(岩波書店)
この詩に貫かれているものは何だろう、と考えてみた。そして、それは「人間の尊厳」の上に位置する「生命の尊厳」である、という結論に達した。「人間の尊厳」よりも広い概念である。だから、
「人間の尊厳」<「生命の尊厳」
の関係式が成り立つ。
これからの社会は、「生命の尊厳」がもっと前面に出ていくようでなければならない。なぜなら、「生命の尊厳」が成立しなければ、「人間の尊厳」も成立しないからだ。この点は、生命科学者の中村桂子さんや哲学者の梅原猛さんが主張されていることでもある。
似たような詩「岩が」を吉野弘詩集『素直な疑問符』に見つけることができた。「魚が岩を憐れんだり/岩が魚を卑しめたりしないのが/いかにも爽やかだ/流れは豊かに/むしろ 卑屈なものたちを/押し流していた」という部分に、心地よい批判精神と、この詩の真骨頂を見出すことができた。なぜなら、人間関係だけでなく、日米関係の中にも「卑屈なものたち」を見出すことができるからだ。
岩が
岩が しぶきをあげ
流れに逆らつていた。
岩の横を 川上ヘ
強靱な尾をもつた魚が 力強く
ひっそりと 泳いですぎた。
逆らうにしても
それぞれに特有な
そして精いっぱいな
仕方があるもの。
魚が岩を憐れんだり
岩が魚を卑しめたりしないのが
いかにも爽やかだ。
流れは豊かに
むしろ 卑屈なものたちを
押し流していた。