2024年10月19日土曜日

死を忘れられる生き方

 どのように死を迎えたいか、ずっと関心を持ち続けてきました。そして、カントの「これでよし!」と満足して死を迎えたという話に憧れてきました。そんなこともあり、『私の大往生』(文春新書)に目を通しましたが、心惹かれる大往生は見当たりませんでした。
 しかし、見つけました。「死について哲学的考察などする余裕はない」と生きることに専心していた素敵な先輩がいたのです。

 近世後期の流行文筆家、頼山陽は死の床にあって、自分は残された著作の完成に専心しているので、、昂然と公言したそうだし、今世紀最大の小説『失われた時を求めて』の校正中に死を迎えたブルーストも、「自分にとって死はこの世から別の世に通過する一瞬に過ぎず、考察にあたいしない」と呟いて、脇目もふらずに原稿に書き込みをつづけていたという。(「老年の生き方について」『人生を愛するには 仙渓草堂閑談』、中村真一郎著、文芸春秋、1995年、p45)
 この二人の生き様を、死の迎え方をどう表現すべきかを考えてみました。そして、死に頓着しない、死を忘れられる生き方になりました。物事に熱中していると、食べるのも忘れることがあります。同じように、死が近づいてきていても、それに気づかないほど熱中できるものがあればいいのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿