1964年4月5日、東京都町田市で米軍機が市街地に墜落。4人が死亡、重軽傷者32人が出る大惨事が起きたが、そうした「米軍機墜落事件の記憶を風化させてはいけない」と、自宅の敷地の一画に、ブロンズ製の母子像を昨年から設置している岩崎俊男さんが、赤旗(2020年9月21日)のひと欄で紹介されていた。

沖縄でも、墜落事件の大惨事が結構起きている。やはり、忘れてはいけない、風化させてはいけないと思う。宮森小ジェット機墜落事件のことも、最近その詳しい実態を知って驚いた。
そのとき何か起きたか
豊濱光輝 (石川・宮森630会会長)
◇一九五九年六月三十日
その日も大変暑い日でした。宮森小学校では、二時間目が終わり、ミルク給食の時間になったところでした。コップに注がれたミルクを子どもたちが飲もうとしたとき、大きな大きな爆発音がしたのです。
火を噴きながら、ジェット機が学校へ突っこんでいくのを、多数の石川市(現うるま市)民が目撃していました。校庭はたちまち炎と黒煙に包まれ、まるで地獄絵図のよう。子どもたちは泣き叫び、逃げまどいました。
◇尊い命がうばわれた
宮森小学校に墜落したのは、米軍嘉手納基地所属のジェット戦闘機でした。離陸直後に操縦不能となり、パイロットは具志川村(現うるま市)で脱出。 機体は石川市の
民家二十七棟をなぎ倒し、宮森小学校に激突しました。
児童十一人、住民六人の命をうばい、百五十四人の児童、五十六人の住民が重軽傷を負いました。後に、後遺症によって、さらに一人の命が失われました。
事故を起こしたジェット機は、
整備不良のまま離陸し、墜落直前に搭載していた爆弾を海に投棄していた、ということが、事故から四十年後の一九九六年になってわかりました。
この事故、いいえ、整備不良ということを知りながら離陸させたのですから、事件と言えるでしょう。戦争が終わって十四年もたつというのに、なぜ、このような悲惨で残酷な形で、十一人もの尊い子どもたちの命がうばわれなければならなかったのでしょうか。
ジェット機の一部が飛びこんだ六年三組の教室には、四十八人の子どもたちがいました。その手前の二年生の教室はガソリンをかぶって燃え上がりました。教室からは次々に「先生、助けて!」と子どもたちがとび出してきました。
その子どもの一人、玲子さんは、家に逃げ帰るつもりで校門まで走りました。玲子さんを保護した先生は、どうやって助けたらいいのかわかりませんでした。「痛いよう、痛いよう」と泣き叫ぶ玲子さんですが、抱っこしようとすると、紫色にやけどした皮ふが手にくっつくのです。手を引いて歩いていたとき、米軍の救護班がやってきたので、先生はその米兵に玲子さんを引き渡しました。
玲子さんを学校、病院とさがしまわった両親は、米軍病院で変わり果てたわが子に対面しました。玲子さんは「水がほしい、お母さん、水をちょうだい……」としきりに水をほしがっています。けれども、看護婦から「飲ませないでください」と言われ、がまんさせるしかありませんでした。
玲子さんは、その日の夕方に亡くなりました。玲子さんのお母さんは二〇一一年に八十六歳で亡くなりましたが、娘があんなにはしがっていた水をあげられなかったことを、一生後悔していたそうです。九十四歳のお父さんは
今も元気で、毎朝コップに水を入れ、玲子さんの遺影の前に置き、「今日は晴れているよ」「今日は雨だよ」と話しかけているそうです。(『ひまわり 沖縄は忘れない、あの日の空を』、ひろはたえりこ他著、汐文社、2012年、p152~155、強調は引用者による)