これまで、梅原猛氏の思想に共感してきました。しかし、「あれ、おかしいぞ!」というところが出てきてしまいました。資本主義だけでなく、マルクス主義にまで原因を求め、宗教的な解決策に救いをもてめていることについてです。
例えば、「マルクス主義においては、そのユダヤ教的一神論の性格が過酷なまでに徹底されるのです。そこには信仰を共有する者への同志愛はありますが、信仰の異なる者、マルクス主義に反対する者にたいしては愛も寛容もなく、ただ憎悪のみがあるだけです」(「人類哲学の創造」『梅原猛著作集・17』、p173)と決めつけて、切り捨ててしまっています。しかし、一神教による対立があったにせよ、そうした宗教的な対立による力よりも、はるかに大きな資本の力(産軍複合体のような)を免罪しては、真の解決に至ることは。到底望めないと思うからです。
また、仏教が目指す人間像について「人間を欲望のとらわれから解放し、そして、欲望を超えた自由人」(注1)を考えていますが、欲望を超えられない人も肯定されるのが真の寛容社会で、梅原猛氏の思想には、一神教を批判しながら、一神教に陥ってしまっているところがあるのではないか、そんな疑問を持ってしまったのです。資本論が明らかにした資本の力を侮ってはならない、そう痛感した次第です。
さらに言えば、人間を欲望人と精神人に分け、「その欲望を空の思想によって反省させ、人間を欲望人としてではなく精神人として再生させ、人間に利他の徳を教える」 (注2)などいうことは、思い上がりも甚だしい、と思うのですが、どうでしょうか。
(注1)大乗仏教は「空」をその思想の根底におきます。空の思想を説くのは般若経典ですが、その説くところは結局、人間を欲望の執着から解放することだと思います。有にわれず、無にもとらわれず、肯定にもとらわれず、否定にもとらわれないということは、人間を欲望のとらわれから解放し、そして、その欲望を超えた自由人として積極的に世間で活動させるという意味をもっているのです。(上同、p180)
(注2)現代文明は、まさに人間を宗教や道徳の束縛から解放し、人間の欲望を最大限に満足させようとするものでしょうが、その欲望を空の思想によって反省させ、人間を欲望人としてではなく精神人として再生させ、人間に利他の徳を教えることは、現代文明にとって真に重要なことであると思います。
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