2020年7月31日金曜日

「何か何でも戦争を避けたい」不退転の決意

 昨日のブログを書いてから、金大中氏の「太陽政策」の根底にあったのは、「何か何でも戦争を避けたい、もう二度とあの内戦のようなことを繰り返してはならないという不退転の決意ではなかっただろうか。」(『朝鮮半島と日本の未来』、姜尚中著、集英社新書、p204)という言葉が頭から離れなかった。並並ならぬ気迫を感じたからかもしれない。それに比べ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、」という日本国憲法前文の一節からは、気迫のようなものを感じることはない。
 だがしかし、「何か何でも戦争を避けたい」「もう二度とかつての戦争のような塗炭の苦しみを繰り返してはならない」という思いは、国民共通の思いに違いない。こうした思いは同じでも、なぜか、改憲に賛成と考えてしまう人たちも現れてしまう。その方が、「戦争を避ける確率が大きい」と考えるのであろう。なぜか?
 米軍に守られてきたから、今まで平和で経済も発展できた、と考えている人たちがいる。残念ながら、抑止力によって、曲がりなりにも平和が保たれている、と考えている人たちの方が多いのかもしれない。だからだ。
 軍事力に頼っていれば、いつかは衝突することは避けられない。銃乱射事件がなくならない、アメリカの武器社会が雄弁に証明してくれている。では、どうすればいいのか?
 軍事力がない方が平和な社会を建設できるということ、「何か何でも戦争を避ける」には、9条の精神以外にないことを、いかに説得力をもって提示できるかどうかにかかっている。今の私は、そう思う。
 そして、「何か何でも戦争を避けたい」「もう二度とかつての戦争のような塗炭の苦しみを繰り返してはならない」という不退転の決意を持ち続けることである。

2020年7月30日木曜日

敵対関係ではなく、ライバル関係を!

 北朝鮮が核に固執し、度重なるミサイル実験を行ってきた背景に、巨大な日韓米国の軍事力に包囲され、「窮鼠猫を嚙む」にならざるを得ない、がある、と思ってきた。このことを金大中氏は、「北朝鮮が高姿勢に出て、こけおどしをするのも弱者の強迫観念から」(『朝鮮半島と日本の未来』、p205)と表現していた。至言である。だからこそ、朝鮮半島と日本の未来にとって大切なことは、「敵愾心と憎悪を煽るような対決型の政治」(同)では決してない。金氏が言うような敵対関係ではなく、良きライバル関係なのである。

 金氏は、南北首脳会談で今度は北の独裁者と対面を果たすことができたのである。誰よりも独裁者を憎みながら、敵ではなく、ライバルとしての関係を築こうとした金大中氏。彼の「太陽政策」の根底にあったのは、何か何でも戦争を避けたい、もう二度とあの内戦のようなことを繰り返してはならないという不退転の決意ではなかっただろうか。
 北朝鮮内の人権抑圧や弾圧など、由々しい問題を軽視することはできない。また、安保理決議を歯牙にもかけず、ミサイルなどの実戦配備や発射を繰り返す北朝鮮の振る舞いは言語道断だ。しかし、それでも粘り強く狭い回廊を歩み、そして平和の広場に出る。これが「太陽政策」の眼目であり、金氏のレガシーは確実に今も引き継がれていると言える。
 本書は、ある意味で金大中氏との出会いを通じて得られた「太陽政策」を、私の知見と私なりの言葉で語り直そうとする試みでもある。
 新型コロナウイルスが世界を揺るがし、世界恐慌すら危惧される現在、もはや敵愾心と憎悪を煽るような対決型の政治には自滅の近しかないことは明らかである。その意味では「太陽政策」が今こそ、現実味を帯びて私たちの前に朝鮮半島と日本の未来を考える選択肢として浮上しつつあると言える。「北朝鮮が高姿勢に出て、こけおどしをするのも弱者の強迫観念からだ。説得し、背中を軽くトントンとたたき、なでさすってやるべきだ」(『金大中自伝II』)。この金大中氏の言葉をいま一度噛みしめるべきではないだろうか。(『朝鮮半島と日本の未来』、姜尚中著、集英社新書、p204〜205)

2020年7月29日水曜日

改憲には「国民の大部分の納得」を!!

 平成30年5月3日、「憲法と日本人―――1949-64知られざる攻防」という番組がNHKで放送された。同番組では、戦後参議院議員を務めた広瀬久忠によって昭和32年に発表された憲法改正案の作成過程の一部が取り上げられた。そして、この放送を基にした本、『憲法と日本人 1949-64年改憲をめぐる「15年」の攻防』(NHKスペシャル取材班著、朝日新聞出版、2020年1月)が出版された。
 憲法改正をめぐる国民的議論が交わされた時代が、かつて一度だけ存在した。その時代が、ほんの副題になっている<1949-64年改憲をめぐる「15年」の攻防>である。
 しかし、その時の攻防では、結局憲法改正の見通しが立たなくなったらしい。「あとがき」で、NHK報道局社会部副部長の大河内直人さんは、次のように述懐している。

 憲法改正の見通しが立たなくなった1964年に広瀬が綴った文章には、こんな一文があった。「5年かかっても10年かかってもいいではないか。国民の大部分の納得を取り付けるまで飽く まで努力を重ねるべきである」 
 ”憲法を変えるのか、変えないのか”、もしその問いが発せられるならば、そこには大いなる 前提、つまり国民的議論が存在する必要があることを先人たちは伝えている。そのことを私たちは今、しっかりとかみしめるべきではないかと思う。 2019年12月(強調は引用者による)

 そして、1949-64年<当時のような熱い議論自体、国会の中でさえ、皆無といっていい。安倍総理大臣の「必ずや私の手で成し遂げていきたい」という発言だけが独り歩きしていると感じる>と。これで、長年の疑問が解けた。憲法擁護義務のある国会議員が先頭になって、旗を振って憲法改正に走っていいのか、という疑問だ。どう解けたか。
 今までの憲法改正に関する議論には「国民的議論という大いなる前提」が抜けていたのである。

2020年7月28日火曜日

日本の軍事産業にも経費が落ちるように!

 現職の防衛大臣が、自衛隊のことを「珍しい軍隊ですよねえ。」と発言し、<河野太郎防衛相「自衛隊、珍しい軍隊」>というタイトル記事で朝日新聞( '19.11.12)に報道されていた。230字程の小さな記事だったせいもあったのか、あまり問題にもならなかった。しかし、『暮らしの手帖』(2020年2-3月号)で、武田砂鉄さんが取り上げていた。

 日本国憲法の第92項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。それなのに、あろうことか防衛大臣が自衛隊のことを「軍隊」と呼んだ。自民党議員の会合の挨拶で、自衛隊員がトイレットペーパーを自前で買うこともあるほど予算がタイトになっている、と述べた流れでの発言だが、見過ごすことはできない。この手の暴言がなぜ放置されるのだろう。慣れてはいけない。慣れると既成事実になる。(p127)

 防衛大臣の「軍隊」発言と、逆の意味で問題なのが「防衛装備移転三原則」のような虚言であろう。次に、森本敏・元防衛相の発言の中の虚言を、括弧の中に真実の言葉を添えてみた。堂々と「軍事技術を育成・発展させる」とか、「軍事産業にも技術と経費が落ちるよう努力する」と報道されたら、国民の反応はどう変わるだろう。言語学者がこうした虚言を問題視しないのが理解できない。

「日本の防衛(軍事)技術を育成・発展させるためには三つのことが重要だ。一つ目は、共同開発を増やし、日本の防衛(軍事)産業にも技術と経費が落ちるよう努力すること。二つ目は、日本の海外への装備移転(武器輸出)を進めること。2014年に武器輸出三原則を緩和し、いくつかは実現したが、実績は乏しい」(森本敏・元防衛相、朝日新聞、2020年6月7日)

2020年7月27日月曜日

防衛官僚がイスラエルの無人機「ヘロン」に興味

 昨日紹介した「日本初の総合武器見本市」がふれ込みの「DSEIJAPAN」(幕張メッセで二〇一九年一一月一八日から三日間開催された)は、安倍政権による二〇一四年四月の「武器輸出三原則」の撤廃と「防衛装備移転三原則」の閣議決定を受けて開かれたように思える。しかし、政府の閣議決定前に武器の見本市が開かれていたのである。以下、雑誌『世界』(2019年12月号)より、要点のみ列挙した。これほど深く、武器商人との癒着が進んでいたことに驚き、同時に、さほど問題視されてこなかったことにも驚いた。

 1、2003年〜2007年毎年、春に米国で、秋に日本で聞かれた。
 国会議事堂近くの憲政記念館で繰り返し開催された「日米安全保障戦略会議」である。日米の国防族議員や軍需企業幹部、防衛官僚らが集結した。(中略)
 会議では、国内最大手である三菱重工の西岡喬会長(当時)が、MDに続く将来の日米共同開発の案件候補として、新型戦闘機や無人機、対テロ・生物化学兵器対処装備、ロボット、通信電子などを列挙し、前のめりの姿勢を示した。(中略)
 憲法ゆかりの会場での武器見本市が、憲法破壊を先取りする役割を果たしたのだ。

2、2004年10月にパシフィコ横浜で開催された「国際航空宇宙展2004」
 海外企業ブースの入口には、米レイセオン社のミサイル防衛(MD)用の迎撃ミサイル「SM3」の模型が出迎えるような存在感を示していた。
 さらに進むと、イスラエルの軍需大手であるIAI社のブースがあった。無人偵察機「ヘロン」の模型がつるされ、米国と共同聞発している迎撃ミサイル「アロー」の模型も展示されていた。パレスチナ人の監視や虐殺を通して開発されてきたイスラエルの武器が堂々と展示されていることに戦慄を覚えた。

3、2014年6月にパリで開催された世界最大規模の国際武器見本市「ユーロサトリ」への日本の初出展。その様子を活写した二〇一四年一〇月放映のNHKスペシャル「ドキュメント 武器輸出」は、防衛官僚の堕落を見せつけた。





「ここで無邪気に賞賛された『イスラエルの実戦』の実態が、どれほど残虐なものか。二〇〇八年末から二〇〇九年一月にかけて、さらにはユーロサトリ直後の二〇一四年七月末から八月にかけても、イスラエル軍によるパレスチナ・ガザ地区への苛烈な攻撃が行なわれ、それぞれ約一四〇〇人、約二二〇〇人にも及ぶ人々が虐殺された。多くは子どもを含む民間である。」(『世界』、2019年12月号、p47〜48)これが、ヘロンの正体である。このような残虐兵器に興味を示す防衛官僚は、どんな神経を持っているのだろう。

2020年7月26日日曜日

人間の生命を奪う能力が商品価値に!

 2019年11月に幕張メッセでの武器見本市「DSEI JAPAN」が開かれた。東京にある、武器取引反対ネットワーク:NAJAT(代表・杉原浩司)人たちが抗議行動したようで、その様子が「杉原こうじのブログ」(https://kosugihara.exblog.jp/239787324/ )で紹介されている。
 雑誌『世界』(2019年12月号)では、杉原浩司による「武器見本市という憲法的不祥事」という論文を書いて、武器見本市を人間の生命を奪う能力が商品価値となるグロテスクな見本市」と表現して、その実態を告発している。
 武器という商品も、御多分に洩れず、消費される運命にある。だからそこ、消費する軍隊と軍事基地が必要な第一の理由なのであって、「国を守る」というのは大義名分・口実に過ぎない。
 これまた記憶に過ぎないが、「戦争」は、武器の商品価値を証明する実験場だ、と書かれて本もあった。膨大な軍事基地を維持するために仮想敵国が必要なように、武器という商品の大量消費のためにも、膨大な軍事基地が必要なのであった。
「杉原こうじのブログ」より



2020年7月25日土曜日

米軍基地の面積が1.7倍に増えていた。

 今日は、1954年頃の米軍基地の実態を紹介する。今までは、沖縄の米軍基地ばかりに目が行き、国内の基地については、基地の名前を知っているくらいだった。古い資料でも、こんな兵力が、というところもあって、今までの無知を恥じた。

 アメリカ軍の海外軍事基地はソ連、中国など共産圏をとりかこんで約二百を数えるが、日本は西ドイツ、イギリス、フランス、韓国とならんで、もっとも大きな基地の一つに数えられている。昭和三十二年、米地上軍の撤退がはじまったころには、空軍五万、海軍二万、陸軍三万余、合計十万を超える強大な兵力が駐留していた。それが原子戦体制に即応する米太平洋軍の編成替えなどで、地上戦闘部隊は全部ひきあげ、地上軍として残っているのは通信、補給業務関係の約一万となったが、いまでも空軍を主力に海陸を含めて約七万弱の兵力が残っている。なかでも、ソ中にとって脅威となるのは、機数約八百の在日空軍であり、第五空軍司令部(府中)のもとに第三十九航空師団(三沢)と第四十一航空師団(ジョンゾン)が全国各地の空軍基地に展開し、北太平洋航空資材司令部(立川)が日韓両国にある米空軍の資材供給を資材供給を担当している。
 海軍関係では厚木、岩国に海兵隊基地があるほか、横須賀、佐世保が「平時最強の海軍力」を誇る米第七艦隊の根拠地とされている。第七艦隊は空母六、重巡洋艦三、駆逐艦四十をはじめ約百四十の艦艇から成り、兵員七万、原爆機をふくめて約五百の艦載機を持つとされているし、空母には核弾頭つきのミサイル「レギュラス」が装備されている
 占領終結の後もここにこのような軍事力を保持し続けているアメリカ、それに基地を提供し、自分も自衛の名で米戦略の一環をになっている日本、このような状況が日本の周辺から相手方の大兵力をひかせ得ない最大の要因になっているのだ。 (渡邊誠毅著「時代錯誤の防衛計画」『世界』、195411月号、岩波書店、56 〜p57)  

 「機数約八百の在日空軍」には驚いたが、「原爆機をふくめて約五百の艦載機を持つとされている」には、もっと驚いた。そして、この頃から、自衛の名の下に、米戦略の一環を自衛隊がになってきたのである。核弾頭つきのミサイル「レギュラス」が装備された空母は、今も配備されているのだろうか。恐ろしい話である。
 それでは、その後米軍基地はどうなったのか、「第3回 全国知事会 米軍基地負担に関する研究会・資料 」によると、なんと、基地全体の数は減ってきているのに、基地の面積は、なぜか国民が知らぬ間に増えてきている。これで、独立日本とは、なんとも恥ずかしい話だ。

 

2020年7月24日金曜日

仮想敵国が必要な日米安保条約

 日米安保条約は、その本質的な性格が覆い隠され、あたかも既定路線であるかのような認識が広がっている。その陰で、膨大な国家予算が在日米軍経費として支払われていたのだ。

   「膨らむ米軍関連経費の日本負担の総額と項目」(朝日新聞・2020年3月2日)より

 改めてこの図を見て、国民の知らないところで、日本側負担の項目が増えていたのに驚いた。
 こんな時だからこそ、初心に帰って、日米安保条約の本質を考えてみることが大切だと思う。ちょうど、とても端的に表現していた文章を見つけたので紹介しておく。

「良識ある日本人は中国を敵視する思想や行動を容認したことなく、今後も容認しない。」(石橋前首相)というのは、千鈞の重みをもつ至言である。まことに、すべての良識ある日本人は、暗に中国を仮想敵国として前提する見地から締結され、日本国憲法の精神と全く背馳する内容をもち、わが国の正常的なありかたをゆがめ、すこやかな民主的発展のさまたげとなっている日米安保条約が、なるべく速かに解消されることを、当然にも要望するはずである。(大阪市立大学学長 恒藤恭著、「安保条約改定と日本人の良識 」『世界』、1959年11月号、p29)

 今は、北朝鮮を仮想敵国として前提し、議論が進められている。日米安保条約には、どうしても仮想敵国が必要なのだ。それは、何かで読んだことを思い出したが、膨大な軍事基地を維持していくためである。世界に張り巡らせた米軍基地の実態と、武器見本市の実態から、容易に想像がつく。(つづく)

2020年7月23日木曜日

国と国とも賛嘆しあいたいものだ


   (「『武者小路実篤画文集・6』、p101」より)

この言葉は「君も僕も美しい」という次の詩が元になっている。その詩に、二行を加えてみた。そして、新しい画文を創ってみた。

君も美しい 僕も美しい
僕も美しい 君も美しい
美しいものだらけの世界
山と山が賛嘆し合うように
星と星が賛嘆し合うように
人間と人間とが賛嘆しあいたいものだ
・・・・・・・・・・・・・・
同じように
国と国とも賛嘆しあいたいものだ




2020年7月22日水曜日

俺たちは人間 協力はするが独立する


 武者小路実篤さんが「新しき村」運動をしたことは知っていても、とうの昔に止めてしまわれたものと思っていたら、現在も、「『新しき村』は、実篤の考える自然な暮らし、自他共生を目指した生活のありかたを世に問う実践の場」(http://www.atarashiki-mura.or.jp/)として、細々と続いていることを知って驚いた。
 この詩は、その「新しき村」の「理想をあらわしたもの」(『武者小路実篤画文集・6』より、詩も)だそうだが、国と国との関係でも、立派に通用する理想である。世界の国が、お互いの独立を尊重し、互いに協力し合えば、世界はきっと良くなる。温暖化も、戦争による苦しみも、一掃されるに違いない。

2020年7月21日火曜日

今こそ、世界が力を合わせて行くとき!

 朝日新聞(2020年7月21日)に、「敵基地攻撃 乱暴な論理の飛躍だ」という社説が掲載された。「専守防衛の原則から逸脱する恐れがあるとともに、地域の不安定化と軍拡競争にもつながりかねない」から、「地に足のついた安全保障論議を求める」という内容だったが、議論の内容そのものよりも、議論の前提となっている主張に違和感をもった。その部分を下線を引いて示してみる。

 陸上イージスは東西2基で24時間365日、日本全体をカバーできるという触れ込みだったが、その費用対効果には疑問が示されていた。計画断念に至る経緯の検証も行わず、ミサイル防衛の将来像も描かぬまま敵基地攻撃能力というのは、あまりにも乱暴な論理の飛躍である。
 たしかに、政府は1956年の鳩山一郎内閣以来、「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない」として、「他に手段がない」場合に限り、敵のミサイル基地をたたくのは「自衛の範囲」との見解を踏襲してきた
 しかし、あくまで「法理的には」という話であり、守りに徹する自衛隊が「盾」、打撃力を担う米軍が「矛」という日米同盟の役割分担に照らせば、他に手段がないともいえない。
 憲法上許されるのは、敵が攻撃に「着手」した後になるが、実際の見極めは困難で、判断を誤れば、国際法に違反する先制攻撃になりかねない。(「社説」より)

 そもそも、初めから敵視するのをやめ、友好を目標に外交を進めていけば、「座して自滅を待つ」というようにはならない。初めから敵視しているから、「座して自滅を待つ」というような不安に陥るのだ。それなのに、政府の見解を「前提」にしているのだから、政府がこれからやりたいことを批判すること自体、不徹底にならざるを得ない、といえよう。
 さらに、「日米同盟」そのものも「前提」として議論が進められている。その「日米同盟」の要請による「敵基地攻撃」なのである。それでは、「敵基地攻撃」を真に批判することなどできない。だから、「地に足のついた安全保障論議を求める」などといった曖昧な結論になっている。
 新型コロナ問題で、あるいは温暖化問題で、今こそ世界が力を合わせて行かなければならないのであって、敵対していては、力をあわせることなどできない。だから、「敵基地攻撃」など、とんでもないことをしようとしているのだ、と知るべきだのだ。

2020年7月20日月曜日

国語と漢語とからなる高度な日本語教育を!

 書家の石川九楊さんのコラム「日本国憲法」を読みたくて借りた『石川九楊著作集別巻III』だが、これまた目を開かせられた評論(本居宣長から疑え —— 「神の国」「三国人」発言を超えて)に出会えた。最後に結論が書かれており、そこを読んだだけでも、著者のいわんとする真意は伝わってくるので、そこだけでも引用しておく。
 社会現象が、国語教育に関連しているらしいというのは、「そういうことだったのか」と合点がいった。

 これまで述べてきた論は意外な結論を導き出す。日本語には国語(平仮名語)の前提として漢語(漢字語)がある以上、国語教育を強めるとともに漢語教育を復活して、日本語の水準を高めることは、日本語と日本人に多大の益をもたらすとの。
 そう言えば、自分白身の経験から言っても、子供の頃から漢文教育を授けられ、漢詩、漢文に深く通じることができなかったことは大きな悔いとしてある。なぜなら大人になってからの付焼刃程度の漢文力では日本文学や日本史や日本文化の半分が暗闇のままで、いっこうに姿を現わさないからである。
 白川静の『字統』『字訓』『字通』が出版社の思惑を超える売れ行きを見、大人たちが教育テレビの漢詩講座を熱心に受講し、中年の男性が中国偉人伝記小説をベストセラーに押し上げ、子供たちは漫画で『三国志』や、「史記』の世界に触れている現在の文化状況は、いかに漢文教育が無自覚なまま切望されているかを証している。
 国語と漢語とからなる高度な日本語教育、国文と漢文の共同による日本文学、国史と漢史(東アジア史)を結合した日本史の再構築によって、日本の学問を再建する必要がある。
 なぜなら日本語の一方であり、根幹である漢語教育を疎かにすることは、日本語の衰退を招き、日本人が世界的水準で思索し、世界的に活躍する機会を奪う。知識人は歪んだ平仮名文化を自讃して自閉し、さらに現在のように平仮名・国語・国文教育まで軽視されれば、子供達は限りなく無文字に近い生活に堕ち、原始や野蛮に似た精神世界を生き始める。
 計算機や通信機の高度化(ハイテク)という仮面の背後で急速に進む大人の幼稚化、そして親殺しや.子殺し、事故のごとき唐突な刺殺事件、首狩りや人体損傷、剌青 —— これらはいずれも無文字時代における書字の代行であった —— の多発は、日本語の急速な劣化とともに生じている社会現象である。
 本居宣長を疑うこと。二百年にわたる本居宣長的なものの呪縛を切り、その外側の広々とした世界に出ること。それが二十一世紀の日本の思想にとって、また我々民衆の思考にとって必要なのである。(『石川九楊著作集別巻III』、p150〜151)

2020年7月19日日曜日

”米軍基地に領土を奪われている”日本

 書家の石川九楊さんが「日本国憲法」というコラムを書いていたので、『石川九楊著作集別巻III』を借りて読んだ。そこに書かれていた「沖縄をはじめ、前門と背後から首都に睨みをきかせる横須賀、横田など米軍基地に多くの領土を奪われている」という次の言葉に度肝を抜かれた。「米軍基地に領土を奪われている」という発想を抱いた人がかつていただろうか。どうして、こうした発想に至る人がなかったのだろう。何れにせよ、日本国の主権に関わる実態に関する表現を大切にし、広げていきたいものである。

 資源の確保、国益や国防をスローガンに開戦した先の大戦。戦中、三OO万以上の国民の生命が奪われ、都市は廃墟と化し、戦後は、北方四島のみならず、沖縄をはじめ、前門と背後から首都に睨みをきかせる横須賀、横田など米車基地に多くの領土を奪われている。いったい何か国益で何か国防だったか。これと同類の、国賊、国辱、売国などの二字熟語は、漢語がつくった実体のない虚言。国民益や国民を防ぐためには戦争をしないことは必須の条件(p606)。

 国賊、国辱、売国といった「実体のない虚言」というのも気になった。そして、今の社会では、どのような虚言が幅を利かせているいるのだろう、と考えてしまった。防衛装備品、抑止力なども、虚言ではないか、と。このことは、これからも考え続けていきたい。

2020年7月18日土曜日

良識に照らしておかしいことは?

 『サンデー毎日』で「世代の昭和史」という連載が始まった。その4回に「時代が作られるのは、様々な因子が絡みながらも、なぜ東條や東條の考えや組織が軸になったのかを考えてみたい。良識が次第に弱まるのには相応の理由があると思う」(保阪正康著「世代の昭和史」『サンデー毎日』、2020年7月26日号、p135)とあった。ここの「良識が次第に弱まる」というところに触発されて思い出したことがある。『暮らしの手帖』(2018年8-9月号)に掲載された武田砂鉄さんの次の言葉だ。

 永井荷風は、軍国主義に染まった世の中について「変わりだした」のはいつかを振り返り、犬養毅首相が首相官邸で青年将校に暗殺された五・一五事件を挙げた。あらゆる出来事の萌芽は、始まった時には気付けない。(p141)

 なぜ、この文章を思い出したか。良識が次第に弱まる」という現象も、時代が逆行しつつある「一つのバロメーター」になるのではないか、と思ったからである。
 公文書の廃棄や改ざんは、良識があったら、とてもできないことである。逆に考えれば、公文書の廃棄や改ざんが公然となされ、常態化しつつあるのは、良識が次第に弱まってきている」と考えられる。だからこそ、良識に照らしておかしいことは、徹底しておかしいと言い続けることが需要なのである。

2020年7月17日金曜日

「日米安保条約」という根本問題にメスを!

 ネットを調べていたら、辺野古新基地建設の工事も中止に!という主張(注)と、辺野古新基地建設の現場写真を見つけた。この写真を見て、こんなにも進んでしまったのか、と驚いてしまった。半分以上埋め立てが済んでしまったのだろうか。着々と既成事実を積み上げている、感じである。しかし、諦めてはいられない。
 この写真を見る限り、新基地の面積は市街地の隣に市街地と同じくらいになるようだ。これでは、地域住民への騒音なとの影響は計り知れないに違いない。普天間基地周辺の苦しみが辺野古の住民に移転するだけであることが、どうしてわからないのだろうか。
 黒塗りの文書や公文書の廃棄問題、強引な辺野古新基地建設問題、「敵基地攻撃能力」の保有問題、憲法改悪問題など、一連の問題は全て繋がっていることに気づかなくてはならない。つまり、一連の問題を引き起こす根っこの部分、根本原因にまで踏み込むことなしに、真の解決はあり得ないということである。
 しかし現実は、個々の問題で右往左往している、という感じがする。一つの問題が解決しないうちに新たな問題が発覚し、新たな問題が解決しないうちに、次の・・・、という具合でことが進んできているのだ。テレビの標語に「元を断たなきゃダメ」というようなものが流れたことがある。最近の一連の問題も、「日米安全保障条約」という根本問題にメスを入れない限り真の解決はあり得ない。私はそう思う。

 (注)安全面とコストを問題にイージス・アショア配備を事実上中止にしたのなら、同じように安全面とコストの問題がある辺野古新基地建設の工事をすぐにでも止めるべきだ。しかし、新基地建設工事の見直しどころか、安倍政権はむしろイージス・アショアの配備計画中止をきっかけに、敵のミサイル発射拠点を破壊する「敵基地攻撃能力」の保有を声高に叫びはじめた》。(「https://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/d608cb44781842b8a2ab5e0b500dfbc2」より)

2020年7月16日木曜日

この黒塗り文書は、あまりにもひどい

 <「真実ありのままを。私はひかない」 森友改ざん、財務局職員の妻語る>という朝日新聞(2020年7月14日)の記事がある。その記事に、「俊夫さんの公務災害認定(19年2月)の経緯や理由がわかる文書の開示を人事院に請求したが、昨年12月に出てきたのは大半が黒く塗りつぶされた文書約70枚だった。抑えてきた気持ちが爆発した」とあった。
自死した赤木俊夫さんの妻雅子さんの情報開示請求について話す
松丸正弁護士(右)と生越照幸弁護士。手元には、黒く塗りつ
ぶされた文書
があった=6日、大阪市北区、小宮路勝撮影


 写真を見てもわかるように、誰が見ても、この黒塗り文書は、あまりにもひどい。明らかな基本的人権の一つである「知る権利」の侵害である。このような不正が、堂々とまかり通る政界は、果たして正常と言えるか。甚だ疑問である。だからこそ、赤木俊夫さんの妻雅子さんを応援していきたい。
 この件を調べていて、もっとひどいのがあった。<(社説)公文書不開示 外交を隠れ蓑にするな>という朝日新聞(2019年11月5日)の記事だ。
<朝日新聞記者が求めた1968年の「沖縄返還問題の進め方について」。緊急時の米側の核兵器持ち込みをめぐる記述が黒く塗りつぶされた>だけでなく、<ジャーナリストの布施祐仁氏が求めた日米行政協定(日米地位協定の前身)の改定交渉に関する50年代後半の文書だ。27点中26点が全部または一部不開示となった>という。
 黒塗りどころか、文書のそのほとんどの提出そのものを拒んでいたのである。本来、国民の側に主権があるのだから、憲法を遵守しておれば、拒むことなどできないはずではないか。明らかな憲法無視である。

2020年7月15日水曜日

奇蹟を起せ、日本人よ、真の独立心を持て

 「奇蹟を起せ、日本人よ、真の独立心を持て」は、一数学者の病床からの叫びで、1952年12月のことである。1952年と言えば、GHQのポツダム政令の一つである「警察予備隊令」により設置(1950年8月10日)された警察予備隊が、保安隊に改組されて発展的解消(1952年10月15日)した年であった。それから70年経っても、残念ながら、真の独立には至っていない。日本人の中に、「独立心がまだまだ育っていない」ということなのだろう。
 しかし、70年間「戦争を回避し」、平和を守ってこれたことは、誇っていいし、自信を持っていい。改憲の策動を阻止してきたからである。こうした先人の意思を学び、是非とも引き継いでいきたいものである。

 今日日本人がどんなに苦しく不安であっても、日本人が確乎たる独立心をもって、本当に結束して平和を守るために闘うならば、どこまでも戦争を回避し、また日本の真の独立をもかちえられると私は確信する。奇蹟は起りうるのである。来るべき新年をむかえるに際して、私は「奇蹟を起せ、日本人よ、真の独立心を持て」と叫びたいのである。(一九五二・一二・一八病床にて口述)〔昭和二十八年一月一日図書新聞所載](『近代日本の数学』(小倉金之助著、新樹社、1956年、p142)

2020年7月14日火曜日

明治以来だった現政権の卑屈性

 最近数学書も読み始め、ときどき計算問題を解いたりするようになった。ただ単に数式を展開するだけの問題でも、答えができ、かつ、正解だとわかると、それだけで嬉しい、ということを発見した。
 今日も計算していて、指数でわからないところがあったので、書棚にあった数学書を手にとってみた。その過程で、積ん読していた小倉金之助さんの本に、気になることが書かれており、寄り道して、その部分を読み始めてしまった。
 『數學史研究』(岩波書店、1935年)の「階級社会の算術 その一 —— 植民地時代に於ける南北アメリカの算術に関する一考察 —— 」「スペイン植民地」という項目と、『近代日本の数学』(新樹社、1956年)の「明治政府の卑屈性」という項目だ。
 数学史の中で、植民地の実態が、一部でも解明されていたのも驚いたが、現政権の卑屈性が明治政府以来のものであったことを知り、その根深さを思い知らされた。

 なおパークスは日本政府への手紙に、ろくに敬語も使わなかった。日本歴史講座第五巻『近代篇』の石井孝氏の”明治維新の国際的環境”を読むと、次の個所が目にとまる。
「……かかる半植民地的状態の強化に対して、世界資本主義の援助によって成立し、したがって買弁性をもつ明治政府は、それに抵抗しえずして、きわめて卑屈な態度をとらねばならなかった。パークスが明治政府の大官をよんで、どなりつけたという話のごとき、もっともよくこの明治政府の性格を示す。」
 以上いろいろな話から読者は、人民に対して横暴を極めた明治の絶対主義的政府が、強力な先進国に対しては、独立心がなく、どんなに卑屈なものであったかがおわかりであろう。(『近代日本の数学』、p139〜140)

 と、ここまで書いてきて、明治政府の絶対性と卑屈性は、「対で一体」なものではないか、という思い(仮説)に至った。「弱者に絶対(強権)性を発揮する」ゆえ、「強者に卑屈にななる」。反対に、「強者に卑屈である」ゆえ、「弱者に絶対(強権)性を発揮する」のだ、と。その具体例が、現政権のアメリカに対して卑屈性である。それゆえに、辺野古などで、強権性が発揮されている、と考えられる。そう考えると、卑屈性も、民主主義の対極にある概念ということになる。

2020年7月13日月曜日

F35(147機)導入計画も白紙撤回を

 朝日新聞(2020年7月11日)も、「F35の日本売却、米国務省が承認 総額2兆5千億円」のニュースを伝えた。「日本政府は18年12月に、購入を決めていた42機に加えて105機を追加購入し、計147機体制とする方針を閣議で決めていた」というので、さほど大きなニュースはならなかったのかもしれない。社説で問題にすることもなかったからだ。
 しかし、前にも書いたように、新型コロナ関連予算が膨れ上がり、今後の財政運営に厳しさは誰もが認める通りのはずだ。このような時に真っ先に切り詰めるべき予算は、防衛予算であるべきではないか。しかも、防衛予算といっても、本当のところは、アメリカ当局が公言しているように、アメリカ経済の下支えである。そこを問題にすべきところなのだ。
  『帝国以後 ・アメリカ・システムの崩壊』(エマニュエル・トッド著、藤原書店、2003年)に言わせると、「つい最近まで国際秩序の要因であったアメリカ合衆国は、ますます明瞭に秩序破壊の要因となりつつある」(p1)「もしかしたら、アメリカの戦費に日本が財政的協力をしないというだけでも、アメリカ・システムの崩壊には十分な貢献となるかもしれない」(p7)という。日本がアメリカの経済を、一部下支えしていることは、専門家も認めているようで、それだけに、問題にして欲しかった。
 一度決まったことを覆すことは難しいことかもしれない。しかし、イージス・アショア計画の断念という成功体験がある。決してできないことではないはずだ。イージス・アショア計画に続けて、白紙に戻すべきだ。

2020年7月12日日曜日

メディアの選挙情勢調査は再考のとき?

 朝日新聞の「声欄」に「都知事選、速すぎる当確報道疑問」(専門学校講師・岩木靖子)という投書があった。5日に投開票された東京都知事選では、新型コロナウイルス感染対策で、締め切りの午後8時の時点で投票所にいれば投票できたというのに「午後8時になった直後、現職が当選確実との報道が流れた。投票する直前の人もまだいただろうに。支持していた候補者の当選ならまだしも、そうでなかったらあまりにむなしい」という内容だった。
 つまり、投票が終わらないうちに流れた「当選確実との報道」が 有権者の投票への意欲をそぐこともあり得る。だから、「せめて締め切りから30分後、または開票率数%の段階まで報道を控えることはできないだろうか」というのだ。全くその通りである。
 この投書を読んで、いつも行われる国政選挙前の「選挙情勢報道」を思い出した。今回の投書のように、選挙前に出される情報は投票行動に影響を与えるので問題だ、と思っていたからである。調べてみたら、「メディアの選挙情勢調査は再考のとき? 選挙の楽しみを奪うあまりに早い予測報道」という高橋茂(ネット選挙コンサルタトン)さんの記事があった。
 
 今回はまず、10月12日の朝刊各紙で序盤情勢が一斉に報じられた。公示からわずか2日後である。いずれも、自民党に非常に勢いがあること、希望の党が伸び悩んでいることなどを、一面の大見出しでうたっている。
 朝日新聞 自民堅調 希望伸びず/立憲に勢い
 読売新聞 自民 単独過半数の勢い/希望伸び悩み/立憲民主は躍進公算
 毎日新聞 自公300超うかがう/希望伸び悩み/立憲に勢い
 日経新聞 与党、300議席に迫る勢い/自民、単独安定多数も/希望、選挙区で苦戦
 産経新聞 自公300議席うかがう/立憲 民主倍増も/希望、伸び悩み
といった具合である。読売新聞にいたっては、各選挙区の情勢も詳しく伝える充実ぶりだ。
 選挙情勢がいち早くわかるおもしろさはあるものの、ここまではっきりと議席予測を示されると、公示直後に早くも選挙が終わったかのような思いを抱くのも事実である。「選挙は最後の3日間で決まる」どころか、「公示日直後に決まっている」という印象なのだ。(朝日新聞・論座、2017年10月19日)

 これでは、選挙の投票率の伸びないのも、わかるような気がする。もっと選挙報道のあり方を考えるべきなのかもしれない。

(熊本県 54)

 さすがにあれはない。のことだ。

 私は都民ではないが、ネットを通じて選挙戦を見守っていた。投開票日は、ツイッターで「#都知事選を史上最大の投票率にしよう」という投票を呼び掛けるキャンペーンに参加し、より多くの都民が投票所へ足を運んでくれるよう祈った。

 今回はという情報を得て、「あきらめないで」とつぶやいた。

 しかし

2020年7月11日土曜日

現実を批判するものは理想である

 あまりにも、理想がないがしろにされがちの昨今である。その典型は、何と言っても、「9条改憲」の策動であろう。それだけに、理想の持つ、大切さを名文で綴った文章を味わいたい。

 現実国家の行動態度の混迷する時、国家の理想を思い、現実国家の狂する時、理想の国家を思う。これは現実よりの逃避ではなく、かえって現実に対してもっとも力強き批判的接近をなすために必要なる飛躍である。
 現実批判のためには現実の中にいなければならないが、現実に執著する者は現実を批判するを得ない。すなわち現実によりて現実を批判することは出来ないのである。現実を批判するものは理想である。あたかも地上物件を爆撃するためには飛行機が離陸しなければならないごとく、また敵の飛行機を打ち落すためにはそれよりもさらに高く飛び上ることが必要であるごとく、現実を批判し指導するためには理想を明らかにし、理想の世界に足場を据えればならない。理想の高度の高さほど、現実批判は力たり得るのである。(「国家の理想」『矢内原忠雄全集 第18巻 時論 1』、矢内原忠雄著、岩波書店、1952年、p137、強調は引用者による)


2020年7月10日金曜日

日本へ戦闘機105機(2.5兆円)の売却決定

 全く、何ということだろう。
 2020年7月10日のNHKのニュースによると「トランプ政権は日本に対して、最新鋭のステルス戦闘機・F35A63機とF35B42機の合わせて105機と、関連の装備を売却することを決め、9日、議会に通知しました」という。しかも、アメリカ国務省の当局者はNHKの取材に対し「今回の売却は日本の防衛能力を向上させるものだ」と強調すると同時に、「アメリカの経済と雇用を支援するもので、アメリカは歓迎する」と話したという。このような重大ニュースをアメリカの議会に報告されたニュースで知るとは、何とも情けない話である。
 次に疑問なのは、このような意思決定を国会抜きに、つまり、主権者抜きに決めてしまったのではないか、そういうことは許されるのか、ということである。国会で論議されていれば、その是非が議論にならないわけがない。新型コロナで相当の財政支出をしている。このようなときに、2兆円もの巨額を投じて「アメリカの経済と雇用を支援する」余裕などないはずだ。

 このような現実を前にして、国会も、世論も沈黙しているとしたら、日本の独立精神は、どこに行ってしまったのか、ということになる。イージス・アショアのように、白紙に戻したいものである。
 繰り返すが、日本経済が火の車なんだから、「アメリカの経済と雇用を支援する」余裕などないのだ。とりあえずは、今後の展開を見守りたい。

2020年7月9日木曜日

人類に絶滅をもたらすか、人類が戦争を放棄するか?

 「真の安全保障上の脅威とは何か」を読み直していて、「私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?」という言葉に出会った。なんとも恐ろしい話だ。しかし、最近の異常気象を目の当たりにしていると、言葉の重みが真実味を帯びて迫ってくる。以下に、その部分を引用しておく。強調は私

 将来起きるかもしれない紛争の可能性のために巨大な空母や新型兵器を製造し、膨大なエネルギーを用いてそれらを維持していくような贅沢は、もはや私たちには無意味なことなのだ。その点で、日本の憲法九条は素朴な平和主義ではない。現在の国際社会の現実に即した現実的な選択肢なのである。
 ちょうど六〇年前、バートランド・ラッセル博士とアルバート・アインシュタイン博士をはじめとした指導的知識人たちが、共産主義陣営と反共産主義陣営による世界戦争へと向かう歩みを非難する宣言を作成し、これに著名するためにロンドンに集まった。この宣言の署名者の中にはノーベル賞受賞者の湯川秀樹とライナス・ポーリングも含まれていた。
 彼らは当時、アメリカとソ連を席巻していた核兵器使用についての無謀な議論、そして戦争へと向かって突き進むことが全人類の脅威であると主張することを躊躇しなかった。そして、宣言の中に技術の進歩、すなわち原子爆弾の開発が人類の歴史を変えたと記したのである。
 「ここに私たちが皆に提出する問題、きびしく、恐ろしく、おそらく、避けることのできない問題がある —— 私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?
 最近の動きをみれば、それよりも危ない政治情勢にもなっている。いまこそ行動する時である。(エマニュエル・パストリッチ著「真の安全保障上の脅威とは何か」『世界』、2025年12月号、p96-97)

2020年7月8日水曜日

豪雨の陰に温暖化あり

 「豪雨の陰に温暖化あり。脱炭素へ。抜本策を」(朝日新聞夕刊コラム「素粒子」・2020年7月8日より)同じ夕刊に、「史上最多の雨量 岐阜・高山」という記事が載り、「球磨川の水につかった神瀬地区=4日午後0時27分(消防分断員の川口誠司さん提供)の写真も掲載されていた。このような災害を目の当たりにすると、「安全保障上の最大の脅威は温暖化だ」という指摘が現実味を帯びて迫ってくる。敵基地攻撃能力云々(注)などと言っている場合じゃないのである。


 ここで思い出したのが、オーストラリアの森林火災だ。朝日新聞社のGLOBE(2020年7月5日号)に、森林火災の写真とともに、その実態が報告されていた。

 森林火災後の「自然保護区に残った林に踏み入ると、難を免れたコアラを見つけた。焼けたユーカリにわずかに芽吹いた葉に食いつき、必死に生きようとしていた。
 火災は昨年9月ごろに始まり、豪南東部を中心に広がった。3月までに延焼面積は日本の約6割にあたる計2300万ヘクタールに及び、3000棟以上の住宅が焼失。犠牲者は34人にのぼった。煙はシドニーを覆っただけでなく、海を越えてニュージーランドにも達した。森林火災が珍しくないこの国でも、未曽有の被害となった。
 今回の天災を招いた原因だとデモ参加者らが考えているのが、地球温暖化だ。豪気象局によると、19年の平均気温は平年を1.52度上回り、1910年の観測開始以来、最も暖かく、乾燥した年となった。特に昨年12月中旬には全国の最高気温が平均で41.9度と、これまでの最高を更新。温暖化を放置すれば、さらに気温が上昇し、大規模な火災を繰り返すという不安が広がった。(強調は引用者による)

(注)陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備断念を受け、衆院安全保障委員会が8日、開かれる。委員会では今後のミサイル防衛体制のあり方に加え、安倍晋三首相が検討する考えを示した「敵基地攻撃能力」の保有も議論される見通しだ。しかし、課題は多く、保有するのは容易ではない。
 陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備断念を受け、衆院安全保障委員会が8日、開かれる。委員会では今後のミサイル防衛体制のあり方に加え、安倍晋三首相が検討する考えを示した「敵基地攻撃能力」の保有も議論される見通しだ。しかし、課題は多く、保有するのは容易ではない。(朝日新聞・2020年7月8日より)

     (朝日新聞デジタル・2020年7月8日)より

2020年7月7日火曜日

不気味な奴隷船の絵画

 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー「奴隷船」(1840年、ボストン美術館蔵)という絵を初めて知った。朝日新聞夕刊(2020年7月7日)で高階秀爾(美術史家・美術評論家さんが紹介していたのである。解説記事を読んでも、よくわからなかったが、拡大してみてみるとよくわかった。海に投げ出された支隊の断片と、それらに群がる魚も描かれ、この絵の力と、画家ターナーの偉大さがよくわかった。

「画面には死者を海に投げ棄てる場面など、まったく描かれていない。それどころか、奴隷船自体ははるか遠く波間に隠されていて、乗組員の姿などまるで見られない。これでは奴隷たちの海中投棄という作品本来の内容は、まったく伝わらないであろう。それを伝えるために、ターナーは卓抜なやり方を用いた。彼が、黄、赤、オレンジの多彩な輝きを見せる太陽の光輝を反映したエメラルド・グリーンや青紫の複雑な色合いの海面の、うねるような白い波浪のあいだに、鎖をつけたままの片脚が突き出しているのを特に目立つように描き出したのは、そのためである。この不気味な肉体の断片の存在によって、壮麗な色彩の饗宴(きょうえん)と見えた画面が、いっきょに不吉な死の影に覆われる。その影が、まるで隠し味のように作品の色彩効果を高めている点に、画家ターナーの偉大さをうかがうことができるだろう」(高階秀爾)。

 アメリカで最近起きだ暴動には、こうした歴史的時代背景があることも忘れてはならない、と思う。 

 カタログに自作の詩集『希望の挫折』(未完)からの七行詩を書き記したという。

  総員甲板へ、中檣(ちゅうしょう)を倒して固定せよ
  怒りに燃えるあの太陽と脅かすように広がる雲とが
  台風の襲来を告げる。
  台風に襲われる前に、死んだ者も構わず
  皆海へ投げ捨てよ、鎖もつけたまま
  希望、希望、偽りの希望よ!
  お前の市場は今やどこにあるのか?

2020年7月6日月曜日

原子力発電所も米軍基地も必要なし

 「平和と教育」という講演記録を読んでいたら、「水素爆弾の二つ三つも落されるならば、人間はもちろん、土地そのもの、国土そのものさえもうしなわれるかも知れない」という次のような文章に出会った。

 人類はその文明の結果をもって、互に憎みあい、互に殺しあったし、また今も憎みあっており、また将来も憎みあおうとしておる。これは健全な人間の姿であるとはいえません。十九世紀末以来文明の行きづまり、近代物質文明の行きづまりということを、いろいろの人が論じましたけれども、第一次世界大戦を経、第二次大戦を経て、その行きづまりは、こんなに世界的規模において、こんなに深刻に現われている。もしも水素爆弾の二つ三つも落されるならば、人間はもちろん、土地そのもの、国土そのものさえもうしなわれるかも知れない。(「平和と教育」『矢内原忠雄全集 第20巻 時論 3』、矢内原忠雄著、岩波書店、1952年、p137、強調は引用者による)

 このところを読んだとき、水素爆弾ではないが、兄弟分の原子力発電所の事故により、すでに失われた国土があるじゃないか、と思いがよぎった。チェルノブイリにあるゴーストターンや福島の浜通りにある帰還困難区域のことだ。チェルノブイリで原発事故があったとき、日本では、「日本の原発は大丈夫だ」と言われていた。しかし、事故が起きてしまった。あれだけの事故を目の当たりにしながら、「今度は大丈夫」とタカをくくって、再稼働に血眼になっている。
 町の大半が帰還困難区域になっている町もあるのだ。その現実は、日本人みんなが心に留め、二度とこのような場所を作らない、作らせない、という思いを共有しなければならない。「失われてしまったコミュニティも生業も含めて、町を完全に元通りの形に戻すことは、残念ながら不可能と⾔わざるを得ません。今できるのは、元の状態に少しでも近づける努⼒をすることです」という馬場有浪江町長の言葉が胸に迫ってくる。
 米軍基地の問題も同じであり、今、この時も軍用機の爆音に悩まされている人たちがおり、そうした被災が何十年と続いている現実がある。そうした現実に思いを寄せることなく、ちょっとアンケートで安保条約はあったほうがいい、などと答えているのを民意と錯覚しているのだ。やはり、米軍基地があるゆえの現実も、日本人みんなが心に留め、なるべく早く米軍基地を撤去してもらい、二度とこのような新しい基地は作らない、作らせない、という思いを共有しなければならない。9条を国是とする日本に「軍事基地」は似合わないからだ。




2020年7月5日日曜日

日本も完全な独立の回復を!

 最近の安保条約に対する世論調査の結果(2020年7月3日朝日新聞夕刊)を見て、いささか暗い気持ちになってしまった。「安保条約の維持に『賛成』が68%で、『反対』の13%を大きく」上回っていたからである。しかし、「駐留経費の負担増は反対が72%で、賛成14%」だったことが救いだった。
 この記事を読んで気になったことがある。初めから「日本は米軍に基地を提供し、米国は日本を防衛する――。日米安全保障条約が現在の形に改定されて今年で60年になります」、と、「日本は米軍に基地を提供し、米国は日本を防衛する」が既定事実のような書かれていたことである。しかし、米国にとって日本は橋頭堡であることは、アメリカも認めていることだ(注)。
 それならば、米軍の実態が知らされていない故に「安保条約の維持に『賛成』が68%」というような結果を示している、といえよう。「駐留経費の負担増は反対が72%で、賛成14%」という結果が、証明している。米軍の事態さえ明らかになれば、安保条約の世論調査結果も反転するに違いない。そう信じている。
 どうして、こんなにも在日米軍に対して寛大なのだろうか。「外国軍隊が日本に駐屯している限り、日本の独立は完全であるとは言えない」という声があるのに、最近は、そうした声がずっと小さくなってしまった。その結果が、「安保条約の維持に『賛成』が68%」なのだ。次に紹介した講演記録「独立後の日本」でも言っているように、未だに「日本は自主的な国家であるというような詭弁」を弄しているのだろうか。

 アメリカが日本において利用する軍事上の施設は、いわゆる行政協定できめるということであったが、この間新聞で発表されて、その数が非常に多くあったものだから、国民が皆びっくりした。これは日本が独立したといっても、完全な独立ではないことの証拠です。ソ連や中共などの共産主義諸国から独立の承認を受けるという問題は別として、国内だけを考えても、日本の独立が完全でないということは、明らかであります。外国軍隊の駐屯は日本がお願いしたのだから、日本は自主的な国家であるというようなことは、詭弁であります。外国軍隊が日本に駐屯している限り、日本の独立は完全であるとはいえません。日本が完全な独立を回復するには、今後数年あるいは、数十年を要することかも知れません。(「独立後の日本」『矢内原忠雄全集 第20巻 時論 3』、矢内原忠雄著、岩波書店、1952年、p95~96、強調は引用者による)

注・「僅か三年足らずの歳月の間に、民主主義的改革から日本を太平洋における我々の軍事的経済的防壁に変貌せしめ」、「日本は今や我が橋頭堡の一つと化された」(『ニッポン日記』、マーク・ゲイン著、筑摩書房、1951年、p224)

2020年7月4日土曜日

敵というもの今はなし秋の月

  「民族の独立について」という講演記録を読んだ。最後に、「我々の理想を堅持し、その理想に照らしまして実際問題に対する処置を誤らないようにお考えくださいまして、我々が先祖から受けついだ名誉ある日本民族の歴史を一層全うしていっていただきたいと思うのであります」(『矢内原忠雄全集 第20巻 時論 3』、矢内原忠雄著、岩波書店、p89)と結んでいた。その理想というものを彼は、新憲法の二大原則としての、「デモクラシーの原則」と「平和の原則」をあげていた。
 しかし現実は、理想からますます遠ざかってきていると言って良い。するとどうなるか、「もしもそれから離れて、戦争前の国家主義と軍国主義の逆コースをとるならば、あの悲惨な敗戦とこの長い被占領の期間の教訓が全くむだなものになってしまいまして、日本民族の歴史は、進歩どころか、後戻りをすることにならざるを得ないのです」(同上、p84)と述べている。まさに政府がやろうとしている「憲法改正」なるものは、ここでいうところの逆コースそのものである。
 そして、この講演の核心は、何と言っても、戦争終了の詔勅があった直後に創られたという、高浜虚子の「敵というもの今はなし秋の月」であろう。だから最後に、平和の精神に満ちている文章を紹介しておく。

 今日私どもが世界の情勢を見て最も心配にたえないのは、この二つの陣営が互に理解しようとしない点であります。互に他方を敵と仮想して、その推定の上に政策を立てておる。それが世界のすべての民族に、大小の影響をそれぞれ与えておるのです。こういう国際情況は決して健全な状態とはいえません。
 個人個人の附合いでもそうでありまして、互に敵と思って憎み合うならば、人と人との附合いは出来ません。第三次世界大戦が起るならば、どんな禍が人類に及ぶかわからない。皆が心配しておりますが、しかしその戦争の原因というものは、無理解とそねみと疑いと不信用にあるとするならば、今日の国際情勢は決して健全な情勢ではありません。それがいろいろの所に反作用をきたす。日本でいうならば、反米運動、反ソ運勣として、国民の間に分裂を生する原因となる。
 日本民族が独立国民として自主的に判断出来るとするならば、国内平和のためにも、世界平和のためにも、今日の国際関係において日本民族の念願するところは、如何なる民族をも敵としない、ということである。昭和二十年秋、あの戦争終了の詔勅があった直後、高浜虚子の作った句に、「敵というもの今はなし秋の月」というのがありました。これが戦争終了・平和獲得の心境であります。日本民族には敵がない。日本民族は世界において敵を持だない。これが平和の精神であります。
 現実の国際情勢には厳しいものがあって、日本にいろいろの政治的な制約を与えていることは、私はよく承知しておりますけれども、しかし日本民族の独立の精神ということを、少くとも思想的に把握するならは、私共は微弱な勢力の民族ではあるけれども、もしも世界の二大強国が互に憎み合って戦おうとするならば、日本民族はその間に立って、両手を挙げて、「戦ってはいけない」と叫ぶ。その立場を我々は与えられておるのであります。それが日本民族の使命であり、そして民族独立の自覚でなければならないと思う。(同上、p86〜87、強調は引用者による)

2020年7月3日金曜日

第九条解釈の矛盾を言い続ける

 人間の社会において、約束の果たす役割は大きい。だから、言葉による約束を軽視するような人は信用されない。人間的にも、そんな人だと、思われてしまう。しかし、今の政治の世界では、必ずしも、そうではない。典型的な例は、国連決議、という言葉による合意を無視して、アメリカが戦争を始めたことである。それでも通用している。
 考えてみれば、一連の政府による第九条解釈も、言葉による合意を無視したものになっている。大塚英志さんの次の指摘が、そのことを語っている。

 ことばによって交渉する。ことばを信じる。・・・第九条を率直に解釈していけば当然導きだされる。こういったことばに対しての態度が、現在ネグレクトされています。その結果、今ぼくたちの抱える多くの問題となって現れている。(大塚英志著、『憲法力 いかに政治のことばを取り戻すか』、p203)

 こうして書いてみて気づいたことがある。私はネグレクトしていない、と思っていても、黙っていれば、結果的にネグレクトしていることと変わりがない、ということである。このようなことを丸山真男は、戦争との関係で「無作為の作為」(戦争に反対「しない」ということをしている)と言っている。
 どう解釈しようとも、自衛隊が持っている戦闘機などの防衛装備品などと言われているものは戦力そのものである。ちょっと考えればわかることだが、「戦力」でなかったら「抑止力」にならない。第九条解釈の矛盾を言い続けることが大切なのかもしれない。

2020年7月2日木曜日

安全保障上の真の脅威、温室効果ガス

 中央大学通信教育部出版の『英語(A)』に、欧州委員会がまとめた地球温暖化に関するレポートの草案についての記事(2007年)が紹介されていた。その中の一節に、

Faced with mounting evidence of rising temperatures, European governments agreed earlier this year to reduce greenhouse gas emissions by at least 20 percent of their 1990 levels by 2020.

(大意は)温暖化傾向を示す証拠が増えるという事態に直面して、ヨーロッパの政府は温室効果ガスを、2020年までに少なくとも1990年レベルより20%減らすことを合意した(協定した)。

 とあった。すでに2020年の期限に達している。それで、結果はどうなのかが気になり調べてみた。残念ながら全然減っていない。なんか怖くなってしまった。


 前に、温暖化傾向を示す気候変動こそ、安全保障上の真の脅威である、というエマニュエル・パストリッチ氏の論文「真の安全保障上の脅威とは何か・平和憲法の現代性と気候変動への対応」(『世界』、2015年12月号)を紹介したことがある。
 温室効果ガスの実態や身近に起きている異常気象の実態を考えると、エマニュエル氏の主張に真剣に取り組んでいかなければ、とんでもないことになる、という危機感を強くした。こうした事態に戦闘機などの武器は何の役にも立たない。そうしたお金を民政に活かせば、どれだけ助かるかわからない。

2020年7月1日水曜日

アメリカ民主主義を体現した日本国憲法

 GHQには民政局(GS)系と参謀部第二部(G2)系という二つのグループがあって、この憲法第九条を作ったのが、当時のアメリカの中で「ニューディーラー」と呼ばれる人たちの流れを汲んでいた民政局(GS)系の人たちだった。この辺のことを次のようにまとめながら大塚さんは、「GHQの抗争関係の中で成立した第九条の持つ意味を、もう一度考え直してみる必要があるんじゃないか」と問題提起をしていた。
 私も考えてみた。そして得た結論は、<民政局(GS)系の人たちは、アメリカの独立宣言に始まった「アメリカ民主主義」を体現していた。だから、日本国憲法に「アメリカ民主主義の到達点」を余すことなく盛り込むことに成功した。日本国憲法には、日本の憲法研究の到達点だけでなく、「アメリカ民主主義」の伝統も色濃く反映されているに違いない>ということである。

「民主化」とは戦勝国による上からの強引な「革命」だということは忘れるべきではないでしょう。だから繰り返しますが、日本国憲法の戦争放棄条項が、占領軍側の一方の本音として、占領支配の手段だったことは否定しようがありません。
 その上で、この憲法第九条を作ったのが、当時のアメリカの中で「ニューディーラー」と呼ばれる人たちの流れを汲んでいた事実を忘れてはいけないと思います。
 どういうことかと言うと、マッカーサーも含めて、GHQの中には派閥抗争があったんですね。GHQには民政局(GS)系と参謀部第二部(G2)系という二つのグループがあった。つまり、押し付けた側のアメリカも一枚岩ではなかったのです。一方には、ニューディーラー的な、非軍事的な民主化政策を取ろうとするGSと、他方にはソビエト連邦に対して日本をどう反共産主義の砦にするかということに占領政策のポイソトを置いていたG2がいて、その派閥抗争が占領下を通じて延々と続くわけです。
 このあたりにのことは「文藝春秋」に一九六〇年に連載された『日本の黒い霧』の中で松本清張が示した構図ですね。GSがイニシアチブをとって進行する、日本の「行き過ぎた民主主義」を「是正」しようとして、G2が下山事件などの背後で暗躍した、というものです。G2にしてみれば「日本国憲法」はGSが作った「行き過ぎた民主主義」の象徴のようなものです。
 最終的には、ニューディーラーたちは派閥抗争に敗北して、GHQの主導権は日本を反共の砦にしていこうとする人たちの手に握られます。警察予備隊の設置や、サソフラソシスコ条約、日米安保条約が象徴する「日米同盟」は、このような後者のアメリカと結ばれた、と言えます。
 「押し付け憲法論」に抜けているのは、憲法を書いたアメリカ人と「日米同盟」の相手であるアメリカは違うアメリカなんだということへの認識です。つまり、このようなGHQの抗争関係の中で成立した第九条の持つ意味を、もう一度考え直してみる必要があるんじゃないか。その時、戦後の日本において第九条に象徴されるものが、別の意味合いを帯びてくるはずなのです。(大塚英志著、『憲法力 いかに政治のことばを取り戻すか』、p188~189)