2022年4月30日土曜日

子や孫に引き継ぐべき責任と義務

 親にとって、子や孫ほど可愛いものはない。だからこそ、人生のラストスタートを走るようになってからは、人生の目標を決める際、第一に「子や孫の世代」のことを考えた。「子や孫の世代」になっても、平和が続いと願い、このホームページの自己紹介でも、<人生の目標は、この日本という国を少しでもいい状態にして、「私たちが享受できた平和」と一緒に「子や孫の世代」にバトンタッチしたい>と書いている。
 同じように感じている人はいるもので、白洲次郎さんの場合は、「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」と、次のように述べている。

 吾々の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的の立直しを要求しているのだと思う。恐らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終るだろう。それ程事態は深刻で、前途は荊の道である。しかし、吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる。(『プリンシプルのない日本』、白洲次郎著、ワイアンドエフ、2001年、p100
 「吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務」ということであれば、中国や朝鮮にかつてしてきたことに対する責任と、そうした過去の過ちを直視して謝罪する義務があるのではないだろうか。そうした過去をなきものにし、逆に敵視するだけでなく、それを根拠に軍備拡大を図るなどとんでもないことである。だから、真の平和を「子や孫」に遺してやるためにも、和平路線を目指すべきである。

2022年4月29日金曜日

死を超越した生き方

 多喜二の『蟹工船』をCDで聞いた。北海道を舞台に、過酷な労働者の実態を描いた小説である。この小説で、意外なことを知った。何度も人の死を目の当たりにしていると、自分が死ぬことも、さほど怖くなくなるらしいのだ。死ぬことにも、慣れることがあるというのである。それなら、多喜二たちのような治安維持法で拷問されながらも、死をも覚悟して戦った人たちにも、死ぬことに対する慣れというようなものがあったのだろうか。
 そもそも多喜二に興味を持ったのは、死をも恐れぬ生き方にあった。しかし、死を恐れなかったのが、単なる慣れでしかなかったとしたら、多喜二への興味は半減してしまう。とはいえ、悪政への怒りと、その悪政に苦しむ労働者への愛、そこに自らの生きがいを見いだせた多喜二は幸せだったに違いない。多喜二にとって、戦うことは生きることそのものだったのである。
 よく言われることに、多喜二は、日本共産党の党員だったから、死をも恐れぬ生き方ができた、という意見もある。しかし、それは違う。悪政と戦い、そうした体験をもとに小説を書く生き方に自らの生きがいを見いだせたからこそ、死をも恐れず、勇敢に戦うことができたのである。こうした多喜二の生き方が現代の我々に教えることは、本気になれる生きる対象を見出すことではないだろうか。そこに、死を超越した生き方がある、と思うのである。
 その一方で、死を超越したければ、心の内面を見つめて、心の平安を求め、築いていく生き方もあるような気もする。テレビを見ていたとき、「心のなかに庭園を築く」というような言葉が耳に入り、その言葉が気になって仕方がなかったのである。    
 物を捨て、執着心を捨てられれば、まずは心も軽くなるような気がするけれど、それだけではどうしようもない。詩人や哲学者などの先人に学ぶことなしには到達できない境地かもしれない。ただ、時間感覚や命に対する感覚の変遷を調べることで、何かがわかる、そんな予感はするのだが。

2022年4月28日木曜日

「過去の克服」こそ、二一世紀日本の希望

 『加藤周一自選集』の索引を読んでいたら、読みたいタイトルが結構あった。例えば、「安保条約と知識人」「安保条約の行く末」「石川淳覚え書」「石川淳小論」「石川淳または言葉の力」「狂気の中の正気または『リア王』」など、50個以上あった。
<新世紀の希望、または「歴史意識」について>には、「おそらく日本国の幸福な未来も、いきなり世界平和ではなく、日中韓の友好関係の足元から始めるほかない。それこそが21世紀の課題であり、長い努力の過程である」(強調は引用者による)とあった。そのためにも、ドイツの例を示しながら、「過去の克服」に全力を挙げる必要があると、解説してあった。小論ながら、まことに説得力のある内容だった。
 それで、すっかり加藤周一さんの遺してくれた思想に興味を持つようになって、彼の思想を学びたくなってしまった。索引を調べたら興味のあるタイトルが多くて嬉しくなってしまったのだ。でも、それらをすぐに読み始めるのではなく、なんでそれらに興味を抱いたか、つまり、<興味の正体>と、<そこから何を学びたいか>を考えてから読み始めたいと思った。それにしても、日本を取り巻く環境の悪化が心配される今だからこそ、「二一世紀の日本の希望は、二〇世紀の過ちを改めることから生じるだろう」という言葉を噛み締めたいものである。

 二〇世紀に日本国は、二つの過ちを犯した。その前半には、軍国日本が朝鮮半島を植民地化し、中国を侵略して、自滅した。後半には、経済大国日本が、朝鮮、韓国とも、中国とも、確かな信頼関係を構築することに失敗した。前者は武力による過ちであり、後者はカネもうけに専心した過ちである。古語にも「過則勿憚改」(論語:過ちがあったのなら、それを改めることをためらってはいけない)という。二一世紀の日本の希望は、二〇世紀の過ちを改めることから生じるだろう。それが「歴史意識」の問題である。
 歴史は過去から未来へ向かって流れる。そこには持続と変化がある。何が変わらず、何が変わったのか。周辺のアジア諸国に対する軍国日本の態度と、その価値観は、敗戦後半世紀の間に、根本的に変わったろうか。もし変わったとすれば、未来の日本が同じ過ちをくり返すことはなさそうである。変わらなかったとすれば、同じ過ちをくり返すだろう可能性を排除できない。すなわち現在の日本社会が過去をどう見ているかによって、外国が ―― 殊に大きな被害を受けたことのある中国や朝鮮半島の人々が、未来の日本を信頼できるかどうかは決まるのである。(<新世紀の希望、または「歴史意識」について>『加藤周一自選集・10巻』、p95)

2022年4月27日水曜日

「古い皮袋」に新しい酒は入らない

 高橋哲哉著<「戦後」を超えるには「戦後」の根底を問わねばならない>『「戦後」とは何だったのか』(季刊『前夜』編集委員会編 、2005年)に、「9条は1条とセット」という項目があった。「 9条自体が実は1条を残したことによって蝕まれてきた、 空浄化されてきたという面」(p70)がある。「天皇制が残ることによって戦前の権力構造が温存され、復権され、それによってこの種の人々が戦後日本の権力を担ってきた」(p 71)というのだ。
 なるほど、そうかも知れない。そう納得できるニュースが飛び込んできた。ウクライナ外務省が「4月上旬、公式ツイッターに投稿した動画で、ヒトラーやムソリーニと昭和天皇を並び立てたことに関し自民党議員が怒り出した。25日、官房副長官・磯崎仁彦は『ヒトラーとムソリーニと昭和天皇を同列に扱うということは全く不適切で極めて遺憾。(ウクライナ政府に)当該写真が不適切であり直ちに削除するように申し入れた』」(2022年4月27日、日刊スポーツコラム「政界地獄耳・提案できない野党で緊張ない国会」)というのだ。「日独伊三国同盟はまぎれもない事実で、その3カ国の元首という認識だったのではないか」と解説していたが、それにしても、異常な反応だ。
 官房副長官・磯崎仁彦は1957年生まれの65歳だ。戦前生まれの高齢者なら、天皇制に愛着のようなものを抱いていても不思議ではない。しかし、65歳という若さで、こうした反応をするということは、磯崎仁彦個人の反応というよりは、自民党内に伝統的に受け継がれてきた思想性というものがあって、そうした思想性が言わせたものなのかもしれない。高橋哲哉氏の論考を読むと、自民党内で支配的な「前近代性」が浮き彫りになってくる。
 最近、新約聖書に「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れているし、皮袋も無駄になる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(マタイによる福音書九章)という言葉があることを知った。この言葉を引用していた『いかに生きるか』(森有正著、講談社現代新書)では、「古い皮袋」のことを「 私たち日本の古い社会、古い習慣、古い考え方」(p 127)と説明していた。天皇制という「古い皮袋」を抱えていて、それを問題にしない限り、新しい思想は、確かに育たないのかもしれない。

2022年4月26日火曜日

軍事力に頼らなくてもいい社会秩序の創造を

 小林節教授と言えば、護憲の憲法学者として有名だが、彼さえ、軍事力を評価し始めた。「戦争は愚かな政治が起こすものであろう。だから、平和主義者は、軍事力を敵視するのではなく、軍事力を誤用しかねない政治を諫め続けるべき」「<共産党・志位委員長の講演に思う「理想」を持つ自由と「現実」の責任>『日刊ゲンダイ』、2022/04/26」というのだ。続けて、「他国の愚かな政治がわが国に対する侵略を試みた場合に、わが国の軍事力(自衛隊)と価値観を共有する他国からの支援こそが日本国民の自由と民主主義を守ってくれるという事実を、今回、ロシアのウクライナ侵攻が分かりやすく教えてくれた」という。果たしてそうだろうか。
 この議論で注目したいところは、「他国の愚かな政治がわが国に対する侵略を試みた場合に」という前提である。この前提は「軍事力で攻められたらどうする」というこれまでの議論と何ら変わっていない。ロシアが、これまでの議論の見本を示し、いっそう「軍事力で攻められたら」という前提に重みを増してきたに過ぎない。しかし、そうした議論は一面的であり、短絡しすぎる。なぜなら、例えばウクライナ側に、侵略を招いてしまった要素はなかったのか、近隣諸国と友好関係を築くという選択肢はなかったのか、といった議論があっても良いのではないだろうか。
 つまり、「軍事力で攻められた」という前提条件でなく、「戦争を起こしてしまっては遅い」という前提条件に立つことだってできる。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」(「日本国憲法前文」より)た国民として、あらゆる知恵を発揮して、戦争の芽を摘んでいけばいいのだ。ロシアのウクライナ侵略戦争から学ぶべきは、やはり、軍事力は、「人命ばかりでなく文明も経済も破壊してしまう」ということであり、だからこそ、軍事力に頼らなくてもいい社会秩序というものを模索し、築いていかなければならない、ということであろう。間違っても、「軍事力の再評価」などしてはならない。

2022年4月25日月曜日

今こそ明日の建設への理想を語ろう

 恒藤恭さんの思想に魅せられて、彼が編纂した全集なら素晴らしいに違いないと思い、全巻の目次のある『土田杏村全集 第15巻』(恒藤恭他編纂、日本図書センタ-、1982年)を借りて、この巻に収められた「『思慕の春』の序」と「『明日に呼びかける』の序 」を読んでみた。思った通り、素敵なことが書かれていた。特に「『明日に呼びかける』の序 」が良かった。
 例えば、五・一五事件について、「これは暴力によって政治を動かさうとした、重苦しい、陰惨な記憶なのだ。国民はもはや、長くこうしたところに停滞していたくない。それを超克し、その陰鬱の彼方に、もっと明朗な視野を展開して行きたい(p 327〜328)と書き、「言論は確かに以前より自由ではなくなっている」が、「今こそ自由に今日の清算を語り、明日の建設への理想を語り合はなければならない」、「こうした時代に我々は、一層熱心に建設の理想を語らなければならない。どういう局限せられた事情の中に於いてでも、我々に許される可能の限度に於いてそれを語り合はないのは、国民大衆の一員としての責務を怠るものだ」(p 328)と理想を語ることの重要性を力説している。
 そして最後は、「明日の大気よ、新鮮であれ。創意と大胆と情熱にみたされた国民の総意を健康に呼吸せしめつ。-(昭和八年冬)」(p 329)と結んでいる。二十一世紀に起きてしまった「まさかの戦争」が進行中で、重苦しい、陰惨な空気という点では、昭和八年頃と変わりがないかもしれない。このような事態に対し、理想は遠くに追いやられ、現実路線という声が大きくなってきている。その典型が「日本核武装論」であろう。しかし、土田杏村杏村氏がいうように、「今こそ自由に今日の清算を語り明日の建設への理想(憲法の理想)を語り合はなければならない」のであり、「こうした時代に我々は、一層熱心に建設の理想(憲法の理想)を語らなければならない」。つくづくとそう思う。

2022年4月24日日曜日

9条の精神を先取りした堺利彦

 堺利彦著「孟子を読む」を読んだ。読みにくいところ、よくわからないところもあったが、9条の精神を先取りしていると思われるところを発見した。「その過大なる軍備を徹し、その攻伐の念を捨て、真に列国の国民に親しみ、おのずから東洋の人心を得るにあらずんば、いかにして東洋の盟主たるをえんや」(『堺利彦全集・1』、法律文化社、1971年、p 245)という部分だ。
「東洋の盟主たるをえんや」という部分に違和感を抱きそうだが、この部分は、日本国憲法前文の「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」といった意味にとっていいのではないかと思う。「真に東洋の盟主たらんと欲せば、孟子のいわゆるそのもとに返りて仁政を施すの外なきなり」とも書いていることでも分かる。
 堺利彦は、当時の仁義に欠ける軍拡路線を批判して、仁政を求めていたのである。堺利彦が求めた、この仁政こそ、日本国憲法に引き継がれた精神ではないだろうか。堺利彦は「ただ恐喝的軍備拡張と詐欺的外交政略との外なき今日、吾人は書斎の中においてひとり孟子を読み、この古書より発する燦然たる光明に打たれて、ひそかに安心と希望とを得たるの感あり」(上同、p243)といい、「春秋戦国の時、孟子は利を見ずして仁義を説けり」(上同、p243)と言って、仁義を忘れて「利」に走った当時の「恐喝的軍備拡張と詐欺的外交政略」を嘆いていたのである。
 残念ながら、二十一世紀になっても、仁義を忘れて「利」ばかりを追い求めている姿は変わらなかった。その究極の結果が戦争であることは、ロシアが日々証明してくれている。それだけに、堺利彦の先見性が光って見える。民主主義とヒューマニズムは一体のものであったはずだが、いつ頃からか民主主義は、ヒューマニズムをどこかへ置忘れてしまったのだろうか。

2022年4月23日土曜日

あまりにも無謀な論理の「日本核武装論」

 文藝春秋(2022年5月号)で、恐ろしい特集が組まれていた。「緊急特集 ウクライナ戦争と核」だが、要は「日本核武装論」なのだ。安倍晋三氏の勇ましい<「核共有」の議論から逃げるな 中国・ロシア・北朝鮮からこの国を守るために>だけでなく、慶応義塾大学教授片山杜秀による<「核の選択」清水幾太郎を読み直す>があって、初っ端から、「日本には核兵器が必要だ」と来た。「世界の現実を前にすればあまりに明らか」(p130)だというのだ。あまりにも無謀な論理である。「世界の現実」といっても、千差万別であるのに、何ら現実の具体例を示さず「あまりに明らか」と結論しているからだ。
 また、「平和主義的・性善説的夢物語にとらわれず、この世のありのままを素直に見よう」とも書いている。核武装を主張しているのだから、核をめぐる対象を「ありのままを素直に見よう」ということであろう。それならば、「2021年1月22日、核兵器の禁止に関する条約(核兵器禁止条約)が、核兵器の使用と実験による壊滅的な人道上の被害を軽減する国際人道法上初の法規として発効し」(「核兵器禁止条約はなぜ重要なの? - 赤十字国際委員会 赤十字国際委員会」より)たことこそ、ありのままを素直に見た現実の姿であろう。
 核兵器禁止条約が発効したことにより、「核兵器の使用、使用するとの威嚇、開発、実験、生産、製造、取得、保有または貯蔵を禁止し」、「加えて、いかなる人に対しても、またいかなる方法においても、条約で禁止されている活動を行うことを援助、奨励、勧誘することは法に反する」(上同)のである。したがって、核兵器禁止条約を批准していない日本であっても、核の生産も、製造も、条約で禁止されている活動を行うことになる。だからこそ、「日本には核兵器が必要だ」などということは法治国家なら言えないことなのだ。

2022年4月22日金曜日

植民地主義を継続する限り「戦後」は始まらない

 清末愛紗著「植民地主義を継続する限り「戦後」は始まらない」『「戦後」とは何だったのか』(季刊『前夜』編集委員会編 、2005年)を読んだ。「いまだに植民地主義は継続されており、それゆえ戦後は始まらない」という主張を知って、正直驚いた。こんな議論もあったのか、と。
 確かに戦中は植民地主義国家だった。「イスラエルと同じように人々の生命を奪い、文化を否定し、生活を破壊するなどの蛮行を繰り返してきた、とんでもない植民地主義国家」だったが、敗戦で、民主的な国家になった、と思ってきた。
 しかし、「イスラエルと同じように人々の生命を奪い、文化を否定し、生活を破壊するなどの蛮行を繰り返してきた、とんでもない植民地主義国家なのです」と現在形で書かれ、「日本には多くの〈パレスチナ人〉(パレスチナ人と同じような状況におかれてきた人たち、たとえば在日朝鮮人という存在)がいて、いまだに植民地主義を継続させ」ている、というのだ。
 改めてよく考えると、敗戦で民主的な国家になったが、「逆コース」をたどって「米国の極東軍事政策に組み込まれた日本」になってしまったのだから、「いまだに植民地主義を継続させている」というのも頷ける。だからこそ、敵基地攻撃能力を持ちたい、などと本気で考えてしまうのだ。このように考えてくると、ロシアをさんざん批判しているが、イスラエルや米国の蛮行も、同類であること、米国と一蓮托生の日本も同類であることが理解できるであろう。

 パレスチナ難民である彼女は、ヨルダンで生まれ育ちました。生まれてこのかた、ヨルダン川西岸地区すら行ったことがありません。彼女のおばあちゃん、おじいちゃんはもともと、現イスラエル領のコフール・アナ村出身です。同村はヤッファー東部にあった村で、イスラエルの建国の過程で住民たちが追い出され、完全に廃墟となりました。彼女とは、パレスチナ人がおかれてきた状況についてよく話をします。彼女が顔をしかめながら、イスラエルが過去にずっとやってきたこと、たとえば多くのパレスチナ人から故郷を奪ったことや東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区やガザ地区を占領していることや両地区に対してイスラエル軍が攻撃を加えていることなどを指して、こんなにひどい国は聞いたことがないと言ったことがあります。その話を聞いたとき、言わずにはいられなくなって、「私は実はイスラエルとまったく同じようなことをやってきた国の出身だ」と答えました。日本という国は、多くのアラブの国で比較的よいイメージを持たれているようなことを聞きます。しかし、その国は多くのアジア諸国を軍事侵略し、。その話をすると、彼女がびっくりしてしまいました。「えー」という顔で、そんなこと知らなかったと答えたわけです。(p 18〜19)

 ヨルダンでの調査を通して出会うたくさんのパレスチナ難民と話をするたびに、私は日本の「戦後」というのはいったい何なんだろうと思います。私は、「戦後」という言葉はあまり使いたくないと思っています。それはさきほども言いましたが、日本には多くの〈パレスチナ人〉がいて、いまだに植民地主義を継続させ、ついにそしてイラクに軍隊を送ってしまった国であることを考えると、「戦後」という言葉を使って、あたかも戦争が終わったかのように何かを検証するということが、実はあってはならないのではないかと思うからです。(p20) 

2022年4月21日木曜日

米国の極東軍事政策に組み込まれた日本

 戦後の日本史を短く表現した文章を見つけた。日本は、敗戦によって新憲法の元に新生日本を目指してスタートしたはずであった。しかし、朝鮮戦争の頃から、米国を震源地とする「逆コース」と呼ばれた新生憲法にとっての逆風が吹き荒れ、その嵐は現在に至っても変わらず続いている。しかし、その嵐は見えにくくなっているだけでなく、「そういうもの」だと肯定する風潮が強くなってきている。マスコミはじめ、いわゆる知識人も、「逆風」を「順風」の如く言い出してきているのだ。
 だが、たとえロシアのウクライナ侵略に反対し、ウクライナを支援しようとも、米国の極東軍事政策に変更があるわけでもない。ウクライナやロシアで自由と民主主義が脅かされているように、米国の極東軍事政策に深く結びついた安保体制が続くかぎり、自由と民主主義の未来はないことを、しっかりと見抜かなくてはいけない。
 今こそ、「逆コース」という「逆風」を払い退けて、日本国憲法に基づく政治を取り戻さなければならない。米国の極東軍事政策と、安保体制というものをしっかりと正しく見据え、世界の平和に向けて、歩んでいくことが求められている。

 わが国はすでに朝鮮戦争のさなかにしっかり米国の極東軍事政策に組み込まれてしまい、「逆コース」と呼ばれた風潮の中に日本国憲法と安保体制との矛盾があらわになり、冷戦の文脈が憲法の平和主義はもとより、そもそも”自由”(原文は傍点強調)民主主義そのものの成長を扼殺する危険を痛感せずにはいられなかった。(『現代政治と民主主義の原理』、福田歓一著、岩波書店、1972年、p 239)

2022年4月20日水曜日

「対岸の火事」➡︎「火の粉が我が身に」

 今朝のニュース「貸した飛行機、返して ロシアが経済制裁に報復、400機留め置く 欧米や日本、リース企業苦慮」を知って、「ここまできたか」と心中穏やかではなかった。ニュースによると「欧米などの航空機リース各社が、ロシアの航空会社に貸し出した機体が返ってこない事態になっている。ウクライナ侵攻に対する欧米の経済制裁への報復措置として、ロシアが、外国から借りた旅客機約400機を持ち出せなくしているためだ。航空機リース事業を手がける日本のメガバンクなども被害に遭っており、返ってこなければ損失が出るおそれもある」(朝日新聞デジタル、2022420日)という。
 そもそも、「近代社会が成立するためには法秩序を遵守すること」が大前提である。誰もが道路交通法を遵守するから、安心して車を運転して生活できるように、社会生活も、誰もが法を遵守するから、安心して商売もできるし、働いて生活もできる。つまり、武力という暴力的手段に手を出した時点で、自ら法秩序を破壊してしまったことを意味する。その範囲が、今まではロシアとウクライナだけだった。
 しかし、ロシアによる法秩序の破壊が欧米や日本にまで広がってしまった。恐ろしいことになってしまった。ロシアによるウクライナ侵略戦争が「対岸の火事」では済まされなくなってしまったことを意味する。無法のかぎりを尽くしているものにとって、「借りた飛行機を返さない」といった無法など朝飯前なのかもしれない。
 だがしかし、ひょっとすると、「火の粉が我が身にも」と思った世界の有力者(経済界でも政界でも、どこでもいい)が、「本気になって停戦に向かって動き出してくれるかもしれない」という淡い期待が芽生えてきた。「対岸の火事」で済んでいるならば、不謹慎だが、「沈黙も可」で済む。しかし、「火の粉が我が身にも」となったら話は別だからだ。これ以上傷口が広がらないよう、世界の有力者の力を信じたい。

「朝日新聞デジタル、2022420日」より

2022年4月19日火曜日

哲学者エピクロス攻撃と日本共産党攻撃

 エピクロスという古代ギリシャの哲学者がいる。彼は快楽主義者と呼ばれることが多いが、実は彼は原子論者で、 「<すべてのものは原子と真空からできている>と説き、神の存在を否定して<神を恐れることなく平安に暮らすこと>を説いた。そこでその明快な宗教批判に恐れをなした宗教側は、<エピクロスは神をも恐れず、快楽のみを求める快楽主義者だ>と攻撃した」(『科学者伝記小事典 科学の基礎をきずいた人びと』、板倉聖宣著、仮説社、2000年、p 18)。 だから今でも、エピクロス主義のことを快楽主義と勘違いしている人が多い。しかし、「彼の主張は 人間の本性に根ざすヒューマニズムで、科学的理想主義でもあった」(上同)。
 エピクロス主義のことを快楽主義と言われるようになったのは、宗教批判を恐れた人たちによるエピクロス攻撃によるものだったということを知って、共産党批判も同じ構造であることを確信した。先の総選挙で、立憲民主党のことを立憲共産党と言って、野党共闘が批判されたが、最近は、朝日新聞(2022年4月9日)で「日本共産党を考える」という特集を組み、「共産主義こだわれば じり貧に」と「誤りは認め 今の世を見据えて」というインタビュー記事を掲載している。これでは、見出しを読んだだけで、日本共産党に対するマイナスイメージが伝わってくる。これも一種の、野党共闘を恐れる勢力、日本共産党の躍進を恐れる勢力の攻撃ではないだろうか。
 何より、松川事件が日本共産党の躍進を恐れる勢力の攻撃であったことは、歴史が証明している。あれだけ大々的に日本共産党員が真犯人(死刑判決まで出され)だと新聞で報道され続けたのだから、日本共産党は恐ろしいという刷り込みがなされたと言っても過言ではない。確かに、日本共産党にだって批判されるようなことがあってもいい。それは、どの党でもあることではないか。大切なことは、エピクロスの真の姿を見てエピクロスの思想を判断したように、日本共産党がこれまでしてきたことを正しく見て、日本共産党が何を目指して活動しているかを正しく見て、日本共産党の思想を理解してほしい。だからこそ、これからも、社会の真実を見抜く目を曇らせないよう、日々勉強していきたいものである。

2022年4月18日月曜日

戦争はそもそも起こしてはいけない

 朝日新聞記事「非暴力抵抗こそ民を守る 想田和弘さん(映画監督)」(2022年4月15日)から、「そもそも戦争が始まってしまったら終わりなんです。一番大事なのは、戦争が起きないようにすること」(「非暴力抵抗こそ民を守る」より)という言葉を紹介した。室蘭工業大学大学院の清末愛砂さんも、『赤旗日曜版』(2022年4月17日号)で、「戦争はそもそも起こしてはいけない。9条に基づいて外交努力を重ねて戦争の芽を摘んで」ゆくことが大切と語っている。「普段から外交を積み重ねて諸国民と信頼関係を築く。そのことで戦争を回避し、結果的に国民を守るのです」と。
 しかし、戦争を起こさないためには目を外に向けた外交の積み重ねだけでは不十分で、目を国内に向けて、「格差や差別、貧困、いじめ、性暴力……。社会を構成する一人ひとりが、足元から暴力を否定し、暴力に依拠しない人間にならなければ、武力行使を是とする政府を安易に生み出してしまうでしょう」という指摘は、これまであまり気に留めてこなかっただけに新鮮だった。普段から、言葉の暴力も含め、足元から暴力を否定し、身の回りの家族、隣人の人権を尊重するようにしていくことが、大きな、国家的な暴力としての戦争を予防することになるという。全くその通りだ。憲法の実践というと大袈裟になってしまいがちだが、足元から誰にでもできることがわかった。

 私たちが望む平和は、戦争や武力行使のない状態だけを意味するわけではありません。憲法前文に「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあるように、平和的生存権とは「恐怖と欠乏」から解放された生活を送る権利のことです。
    格差や差別、貧困、いじめ、性暴力……。社会を構成する一人ひとりが、足元から暴力を否定し、暴力に依拠しない人間にならなければ、武力行使を是とする政府を安易に生み出してしまうでしょう。軍事化の芽は平時の営みから醸成されます。
 とりわけ一番親密な関係である家族において、DVや虐待といった暴力を否定したのが憲法24条(個人の尊厳と両性の本質的平等)です。家族は、暴力に頼らない人間や軍国主義を強制する政府に従わない人間を育む場-。それを求めた24条は、9条と共に平和主義の両輪です。『赤旗日曜版』2022年4月17日号)
日本国憲法
第二四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
(2)配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

2022年4月17日日曜日

基本的人権と結びついた民主主義

 水戸黄門といえば、「これが目に入らぬか」と言って印籠をかざすと、「ハハー」と言って印籠の前にひざまづく様が有名である。この印籠のように「ありがたがる」ものに「民主主義」という言葉がある。だからであろうか。「民主主義はあらゆる政治概念の中で最も乱用された概念と」(『民主主義の本質と価値』ハンス ケルゼン著、長尾龍一訳、岩波文庫2015年、p 12)なってしまった。なぜ、このようになってしまったのか。
 それは、民主主義と切り離してはいけない「基本的人権」あるいは「人間の尊厳」というものを、切り離して民主主義を考えてしまうからである。「民主主義は<基本的人権を、人間の尊厳を踏みにじる>暴君をやっつける以外に機能してはいけない」(『板倉聖宣の考え方 授業・科学・人生』、板倉聖宣著、仮説社、2018年、p 175、<>内は)のである。板倉氏は、こうも言っている。

 「尊重する」ってことは<彼らの意志に反することはさせない>ということです。僕は基本的人権というものを一番にしているから、研究所でも研究者の基本的人権を侵すようなことは聞き入れません。・・・そういうことで行けばだんだん民主主義が本当の意味で復活してくるだろうと思います。(上同、p174〜175)

 アメリカ民主主義と言われることがある。今、ロシア軍によるウクライナへの侵略戦争が行われているが、この戦争を専制主義国対民主主義国の戦争と言われることもある。民主主義を口にしても、基本的人権を踏みにじってしまう民主主義もあるということであろう。ということは、本当の民主主義に、基本的人権としっかり結びついた民主主義にアップデートしなければいけないということになる。今後の課題としたい。

2022年4月16日土曜日

外交にこそ日本の生き場がある

 ウクライナで行われている戦争の仲裁案が「倉重篤郎のニュース最前線」(『サンデー毎日』、2022.4.17)で取り上げられていた。ロシア史の泰斗和田春樹・東大名誉教授ら学者グループが提起したもので、日本、中国、インドのアジア3カ国が、即時戦闘停止を呼び掛け、仲裁者として停戦交渉を仲介すべきだ、というものだ。
 ロシアのウクライナ侵攻から40日。戦況が膠着状態になる中、「武器を供与して戦えではなく、停戦の努力が必要」「これ以上、人を殺せば和解が難しくなる」というので動いたものだが、最後に今後の日本の取るべき方向性にまで言及して興味深かった。つまり、

 この戦争は日本の外交・安保論議にも一石を投じている。中国を睨み軍事抑止力を一層強化すべきとの意見がある。軍費増、敵基地攻撃能力、核共有……。一方で、それは一たび戦争が始まれば人々への殺傷力、文明破壊力強化として機能するだけで、むしろ外交不全がこの戦争をもたらした、との反省も聞こえてくる。
 小欄は、後者の立場を取る。外交にこそ日本の生き場を求めたい。岸田首相に申し上げる。トルコの仲介努力支援のためにも、日本が中印に働きかけ、停戦仲いかが裁の輪を広げては如何か。日本が直面する対中緊張緩和にもつながる道である。(『サンデー毎日』、2022.4.17、p17)
 外交不全という言葉を初めて知ったが、「外交不全がこの戦争をもたらした」との反省は、注目に値する。「現在の戦争は世界を破滅させかねないと思いました。特に日本は沿岸に原発が並び、食料自給率も37%。戦争を起こさない外交努力を尽くすしかありません」(劇作家・演出家・俳優の渡辺りえ「『赤旗日曜版』、2022410日号」より)というように、外交努力を「し尽して」こそ、平和で明るい未来が拓かれるのだ。

2022年4月15日金曜日

非暴力抵抗こそ民を守る

 朝日新聞記事「非暴力抵抗こそ民を守る 想田和弘さん(映画監督)」(2022年4月15日)には、「目から鱗」だった。改めて、近代戦が多くの犠牲者を出すことを考えれば、この度の戦争の最大の教訓は、「戦争が始まってしまったら終わりなんだ」ということではないだろうか。特に日本には、多くの原発や在日米軍基地を抱えているからだ。
 これからでも遅くない。全力で「戦争を起きないように」していくことが重要なのだ。そのためにも、米軍と一緒に「在る」ことの危険性を認識しないといけない。逆に、憲法9条が「在る」ことの重要性を認識しないといけない。
 安保条約がある限り、日本は主権国家とは言えないし、戦争の呪縛から抜け出すことはできない。だから、国際法を軽視してきた強大な国家に従属している状態から脱皮して、対等な主権国家同士の非軍事的な友好関係を、「従属関係の異常」から「平和に共存していく関係」を構築していくことが求められているのだ。
 たとえ戦争になっても、私は銃は取りません。
 そもそも戦争が始まってしまったら終わりなんです。一番大事なのは、戦争が起きないようにすること。そのために政治や外交、経済や文化の交流があります。
 確かに主権国家には自衛権がある。でも、攻められたからといって応戦すれば、相手も応戦し、暴力の連鎖が始まります。本当に国や人々を守れるかというと、難しい。今回のウクライナを見てもわかるでしょう。町や村が破壊され、大勢の人が死んでいく。これは取り返しがつきません。侵略者を駆逐できたとしても、国がめちゃくちゃになった後では、元も子もない。(「非暴力抵抗こそ民を守る 想田和弘さん(映画監督)」より)

2022年4月14日木曜日

寿命を左右する老化加速物質”リン”

 何となく、腎臓が寿命を左右する重要な臓器であることは感じていた。「肝腎要」という言葉があることでも、腎臓が重要な臓器であることはわかっていた。しかし、どうしてなのか、どうすれば腎臓を守れるのか、は知らなかった。『週刊新潮』(2022年4月21日号)に掲載された記事、<寿命を左右!「腎臓」を蝕む老化加速物質リンを排出できるか>を読んで、初めて理解できた。

1、肺が肺胞という器官でガス交換されるように、腎臓では、ネフロンという器官で血液が浄化され、必要な物質が再利用される。そのネフロンは、100万くらいあって、老化とともに徐々に減っていく。しかし、リンの血中濃度が多い状態が続くと、つまり、リンの摂取が多いと、ネフロンの減少が加速し、老化の進行も早まるという。


2、対策は二つ、加工食品など、リンが添付された食品を控えることと、適度な運動によって、骨の中に蓄えられてリンが血中に溶け出すのを防ぐことである。(骨に重力の刺激があたらかないと、つまり運動不足が続くと、リンやカルシウムがが血中に溶け出す)以下重要と思われた部分を紹介する。なお、太字強調と()内の追加文は引用者による。

 リンには「有機リン」と「無機リン」の2種類があり、前者は肉類、魚介類、卵、乳製品、野菜、穀物などに含まれ、その量はたんぱく質含有量に比例することが多いです。後者は、食品添加物として使用されているリンで、ソーセージやハム、ベーコンなどの加工肉、干物や練り物、スナック菓子、インスタント麺、ファストフードなど、ほとんどの加工食品に含まれています
 スーパーやコンビニで売られている惣菜や弁当にも、腐るのを遅らせるために無機リンを含んだ添加物が多く使われています。無機は有機よりも体内への吸収率が高いのが特徴です。
 有機リンの場合は、制限すると栄養状態が悪くなってしまうこともあり、あまり気にする必要はありません。とはいえ、赤身の肉や牛乳、プロセスチーズなどには多く含まれているので、それらは多少控えめにした方がいいと思います。たんばく源のなかでは、大豆に含まれるリンは吸収されにくいので、大豆ミートなどはおすすめです。
 一方、食品添加物に入っている無機リンは、意識して減らすことができます。
 食品表示ラベルに「リン酸塩」という記載があれば、リンが入っていることがわかります。ただし、何種類もの添加物を一括名で表示することも許されているため、リンという言葉が記載されていないことも多いので注意が必要。リンが使用されている可能性が高い添加物の例としては、「かんすい」「酸味料」「香料」「乳化剂」「pH調整剤」「強化剤」「結着剤」などがあります。
 このように"見えにくい物質"だけに、厳密に選別するのは至難の業です。最善の方法は、とにかく"食品添加物が多そうなものを減らしていく"ことです。
(中略)
 こうした食事療法のほかに、体を動かすことも大きな効果があります
 もともと私たちの骨は、負荷がかかることで骨量が維持されています。たとえば宇宙の無重力環境にいると、体を支える必要がなくなるため、骨量が地上の約10倍ものスピードで減ってしまいます。
 (運動不足によって)骨量が低下するということは、骨という"貯蔵庫"からリンやカルシウムが溶け出して、血中に入ることを意味します。つまりリンを多量に摂取したのと同じ状態になるのです。それを防ぐためには運動をしなければなりません。日々しっかり運動をして、骨に刺激を与え、プレッシャーをかけ続けること。特に、骨に対する刺激が少ない座位行動時間が長い人は注意する必要があります。座りっぱなしを意識して避け、1時間に5分程度は立ち上がって歩くようにする。余裕があればウォーキングなどの運動もいいでしょう。(「黒尾誠著『週刊新潮』、2022年4月21日号」より)

 

2022年4月13日水曜日

野蛮な世界を変えるには

 朝日新聞(2022年4月13日)コラム「後藤正文の朝からロック」に、「野蛮な世界を変えるには」という記事が掲載されていた。野蛮な侵略戦争が進行形であるだけに、時期に適った記事であった。
 結論は「脱却すべきは、大国がその力で小国に緊張を強いる情勢ではないか。軍事力で張り合うのではなく、国や地域の新しい連帯や共生のための枠組みを作らなければ、力こそが正義であるかのような野蛮な世界のあり方は変わらない。戦争や核兵器の悲惨さを知る日本こそ、そうした議論の先頭に立って欲しいと切に願う」だが、残念ながら、こうした声は少数意見で、 大勢は、核兵器を含む軍事力による抑止論であろう。
 しかし、ロシアが、その「抑止論では平和は守れない」ことを見事に証明してくれた。にもかかわらず、実験の結果は明らかなのに、抑止論信仰は変わらない。逆に、抑止力のために、日本も核武装をするべきだという御仁まで現れた。残念だ。
 では、再び「野蛮な世界を変えるには」に戻るが、「国や地域の新しい連帯や共生のための枠組みを作らなければ、力こそが正義であるかのような野蛮な世界のあり方は変わらない」が真実だとしても、少数では力にならない。少数意見が束にならないけない。そこで、試みに小さな少数意見を集めてみたらどうなるだろうか。それだけで力になるかどうかはわからない。でも、やってみる価値はあるだろう。

2022年4月12日火曜日

仕事に誇りを持って働くこと

 建築家の安藤忠雄さんに注目し、彼の著書を読んでいることは「アジアはひとつ、地球はひとつ」にも書いた。『境界を越える 建築は、壮大な夢の実現』(講談社、2012年)にも、ハッと閃いた言葉があった。幸田露伴の『五重塔』を紹介して最後に、主人公の十兵衛が自分の仕事に誇りを持って働いていたように、「それぞれの人が、それぞれの仕事を通じて自分の誇りを他人に伝えていく、それこそが『公的精神』というもので」、「『公』というのは個人の思いから成り立っている」(p 66)という言葉である。
 戦前の日本における「公」というのは、そうではなかった。「滅私奉公」こそ美徳とされていた。しかし、『五重塔』は、幸田露伴の1892年(明治25年)の小説である。こんな時代に「『公』というのは個人の思いから成り立っている」というような思想が描かれたことに驚き、幸田露伴という人に興味を持った。
 初めはそこまでの考えはなかった。初めは、「公」と「個」の矛盾した関係が見事に統一された関係を見出しただけだった。閃きを拾い上げて初めて、幸田露伴という人そのものにまで興味を抱くことになったのである。それにしても、小説の主人公の「仕事に誇り」という個人の思いと、「公」との関係にまで注目した著者の着眼点も大したものである。

2022年4月11日月曜日

戦後の二面性から見える歴史の二面性

 今日は、まず表題、「戦後の二面性から見える歴史の二面性」というタイトルから書き始めてみる。『戦争文化と愛国心非戦を考える』(海老坂武著、みすず書房、2018年)に、戦後のみなぎるような革新の息吹、映画『青い山脈』の歌詞「古い上着よ/さようなら/さみしい夢よ/さようなら」に代表される新生日本に対する明るい一面と同時に、そうした明るいエネルギーを押しとどめようとでもするような暗い一面が描かれていた。「こうした明るさは万人に分け持たれたものではなかったろう」と書き、「その上、暗い事件があとを断たなかった。小平事件、帝銀事件、松川事件、三鷹事件・・・・」(p 99)という具合に。
 このところを読んだ時、こうした二面性は、この時期だけでなく、歴史全体を貫き、歴史の発展の原動力になっているに違いないと思えてきた。松川事件では、今では何者かによって仕組まれた事件で、日本共産党のイメージを悪くするためのものであったことは明らかになっている。つまり、新生日本にみなぎる革新の息吹を押しとどめようとした勢力によって実行されたもので、歴史の逆光を狙ったものだった。こうした力が、今も脈々と引き継がれ、9条改憲や軍事費増のエネルギーになっている。
 9条改憲や軍事費増については、絶えず、それらしき理由を挙げてはいる。しかし、条改憲や軍事費増のエネルギーは、結局は歴史を逆行させるという意味でも、ロシアが現在やっていることと同じであることを見抜かなくてはいけない。そして、こうした単純な世界史の構造なら、その本質を容易く理解もできる。もっと具体例を持って、歴史の構造を捉え直すことが大切なのかもしれない。

2022年4月10日日曜日

収容所に閉じ込められた沖縄住民

 赤旗日曜版に、津嘉山正種さんのインタビュー記事が掲載された。そこで知ったことだが、占領下の沖縄には収容所があって、「当時米軍は住民を収容所に閉じ込め、その間に土地を強奪し、基地を建設」したという。恥ずかしい話だが、米軍によって住民が収容所に閉じ込められていたことまでは分からなかった。なんていうことだったのだろう。
 さらに、沖縄に米軍基地が集中していることは、周知の事実である。しかし、四つの自治体では、なんと半分以上が米軍基地だったのだ。このことまで知っている人はほとんどいないのではないだろうか。嘉手納町に至っては、82%が米軍基地だから、米軍基地の中に町があると言っても間違いではない。これでも、米軍基地は必要と言える気持ちがわからない。
 米軍基地の重圧が続いているのに、日米両政府は名護市辺野古に新たな米軍新基地建設を強行している。それに対して津嘉山正種さんは「復帰でパスポートはいらなくなったし、国民同士の差別はなくなった。でも、政府による沖縄差別は今も変わっていない。県民の声を聞かず新基地建設を進めている。絶対に許してはいけない」という。二十一世紀に新たな軍事基地など必要ないのだ。



2022年4月9日土曜日

アジアはひとつ、地球はひとつ

 朝日新聞(202224日)に、「5臓ないなら、ないように生きる 建築家・安藤忠雄さん」というインタビュー記事が掲載されていた。「2009年と14年に2度がんが見つかり、胆嚢、胆管、十二指腸、膵臓、脾臓を全摘し」、『5臓なしの体』になって約8年」。「それでも私は、不思議と元気」だという。そんな彼に興味を持ち、『歩きながら考えよう 建築も、人生も』(安藤忠雄著、PHP研究所 2010年)を読んでみた。エネルギッシュな彼の人生そのものに魅力を感じたが、それだけでなく、「アジアはひとつ、地球はひとつ」とか、「これからアメリカは世界中の人たちと地球上で共に生きる、という表現をしませんかと提案」に滲み出ている思想性にも魅力を感じた。以下、下線を引いた「書き抜き」を紹介する。

 ひとつの建築を見たら、また次の建築まで二時間かけて歩きました。歩いている間は、前に見た建物のことを考え、そしてこれから見る建物のことを考え、頭の中でずっとそれを思い描きながら歩くわけですよ。p 36

 初めてパルテノン神殿を前にしたときは、迫力に圧倒されはしたものの、正直その偉大さがよくわかりませんでした。それから後、別の機会に二回、三回と見ているうちに、少しずつその凄さがわかるようになりました
 勉強して、建築に対する理解が深まるにつれ、その魅力を肌で感じることができるようになったのです。p 41

 その本はただ眺めるだけでなく、紹介されている図面やドローイングを真似しながら、何度も繰り返して書き写しをしました。p 59 

 ル・コルビュジエはスイスの山間の町、ラ・ショー=ド=フォンというところに生まれ、それからパリに出ていきます。専門の教育も受けずに仕事を始めた独学の建築家で、自分で道を切り拓こうとたくさんのプロジェクトを提案しますが、これがなかなからまくいかず、連戦運敗だったようです。
 しかし、彼はうまくいかなくてもあきらめずにまた挑戦をする。そんな生き方に、私は憧れ以上の思いを抱き、少なからず影響を受けています。何しろ私も連戦連敗ですから。p60


 以前、事務所で犬を飼ったことがありまして、その犬に「コルビュジェ」と名付けていました。(中略)、自分たちもコルビュジエのように、「思うように仕事がうまくいかなくても、へこたれることなくやり続けよう」という思いを託したんです。p 61


 早いうちに子供たちに「アジアはひとつ、地球はひとつ」という意識を持たせなければなりません。親がよく言って聞かせたり、体験させないといけないと思いますね。p 74


 9・11の問題は、 経済大国アメリカが世界中に「経済至上主義」を広げたことが原因のひと つですので、9・11の後に、また経済至上主義的な建物を立てるより、古墳状の広がりのある広場を作るのはどうだろうか、全面芝生にし、ここで悲惨な出来事が起こったけれども、これからアメリカは世界中の人たちと地球上で共に生きる、という表現をしませんかと提案しました

 残念ながら相手にもされませんでした。「経済的にメリットがない」とも言われました。が、それが悲劇の原因になっている一面もあるわけです。p 81〜82


『木を植えた男』に描かれた「農夫のように、粘り強く、無私な行為を黙々と続けるなど、なかなかできることではありません。しかし、人々が小さな力を出し合って協力をすれば、必ずこの世の中を変えていくことができるはずではないかと思うんです」(p85)。


 長寿の源は何かと自分なりに分析すると、好奇心ではないかと思います。その好奇心の裏側にあるのは、自然なんです。美しい自然。p 91


 人間は会話の中でこそ、生きているということを実感できるはずなのですが、今はその機会すら失われています。p 98


「読み」というのは、読むことによって哲学を考えるということ。自分の生き方を考える。「書く」というのは、書くことによって自分の考え方を表現するということ。「算盤」というのは、単なる数勘定ではなく人生を計画する、ということです。

 自分の人生を計画するのに、過去をどう考え、未来をどう考えるか。そのためには、読み書き算盤ができないといけないと思うんです。 

(中略)

 本当の読み書き算盤とは、 自分の思考と表現と判断力によって自分の世界を作っていくということです。p103〜105


2022年4月8日金曜日

憲法9条は世界平和の命綱

 芥川賞作家の諏訪哲史さんの憲法論を知って勇気づけられた。特に、憲法の理想を「野蛮で醜い″現実″に合わせるのは愚か」だと言い切っていて、読んでいてスッキリした。ウクライナで現在進行形の現実は、まさしく「野蛮で醜い″現実″」であり、憲法9条を変えてしまえば、憲法は「野蛮で醜い″現実″」に引き下げられ、その結果、「野蛮で醜い″現実″」を引き寄せてしまう危険性を伴うことになる。
 「憲法9条は日本の平和の命綱」という表現は、さすが、文学者らしく、見事に本質を言い表している。と同時に、この表現を借りれば「憲法9条は世界平和の命綱」ということにもなる。前文を読むと、憲法9条が世界平和の命綱であることがよくわかる。

 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。(「日本国憲法前文」より)

「日本には侵略戦争を始めた歴史があり、その反省を踏まえていまの憲法がある。憲法を変えたい人とは、いまの平和では不満ということです。9条改憲に賛成する人は、有事の際、自分や子や孫が徴兵され他国へ人殺しに行くことに賛成なのか、よく考えてほしい。僕がいま一番言いたいのは、戦争に行く人を、日の丸を振りバンザイといって送り出してはいけないということです。それは軍国主義への逆行だからです」
「外国の基地を攻撃する武力をもつことは、先制攻撃ができる能力をもつことです。もし日本が先制攻撃の可能な国なら、相手には開戦の対等な口実になる。だから憲法9条は、日本が他国を攻撃しないよう完全にガードしてきました。日本の平和の命綱です。平和国家の看板である9条を変えたら、日本は戦争できる国となり、外国に戦争を仕掛ける口実を与えることになる」
「憲法9条は、変えるどころか全世界の憲法をこれにすべき素晴らしい実例です。これを世界中がまねれば、世界は対話でしか物事を解決できなくなります。70年前に日本はこの憲法を選び、戦争をしないで今まできました。日本には70年前からこんな憲法があるんだぞ、日本を見ろと、いまこそ世界にアピールすべきです。せっかく掲げた宣誓を野蛮で醜い″現実″に合わせるのは愚かです」(「『赤旗日曜版』、2022年4月3日号」より)

2022年4月7日木曜日

戦争をやっている場合ではない

 プーチンによって始められた戦争が収束に向かう気配が全くみられない。このような事態を前にして友人が、世界の気候変動など世界的な課題を前にして、「戦争などやっている場合か」と嘆いていた。法政大学名誉教授・前総長の田中優子さんも、「今、世界がのりこえる喫緊の課題は地球温暖化の問題であり、持続可能な社会をつくることです。国際社会の積み重ねを壊して、戦争をやっている場合ではない」と述べている。しかし、多くの人は戦争について反対はしていても、世界的な課題と結びつけて反戦を訴えている人は少ない。逆に、反戦に力を入れたため、世界の気候変動など世界的な課題は忘れてしまうことも起こりうる。だからこそ、世界的な課題と反戦を一つ課題としてとらえ直すことが重要になってくる。
 似たようなこととして、プーチンに批判していても、従来からの「力の論理」批判には至らず、逆に「力の論理」を増強する論調が大勢を占めてきている心配がある。政府が24日に閣議決定した2022年度当初予算案で、防衛費は前年度比583億円増の5兆4005億円となり、過去最大を更新したことが、そのことを雄弁に語っている。
 この度の戦争は、「力の論理」では悲劇が増すばかりで、何も解決しないことを日々教えてくれている。「力の論理」の思想に代わるものとして登場したのが、「他国を侵略しない、戦争はしない」と決断した憲法9条の思想である。今こそ、9条の思想を見直し、その真価に思いを馳せるべきである。
 
 

2022年4月6日水曜日

戦争予防に全力を尽くす

 朝日新聞夕刊コラム素粒子(2022年4月5日)が、戦争の悲劇を短い言葉で伝えていた。「続々と残虐な詳報が届く。何たること。21世紀も戦争は無法な人殺しと略奪なのだ」と。
 それでは、ロシア兵は「無法な人殺し」だが、ウクライナ兵はそうではないのだろうか。侵略という無法に立ち向かうには、人殺しもやむを得ないのだろうか。武器を持って対峙する正義の戦争があってもいいんじゃないか。ウクライナ兵士の戦いをガン変えると、そう思えてくる。そして、戦争に正義も不正義もないのであって「戦争は絶対悪」だという信念が揺らいできてしまった。
 しかし、人の命は地球より重いという原理から導き出される結論は、やはり、「戦争は絶対悪」なのであり、戦争に正義も不正義もないのだ。だから、戦争予防に全力を尽くしていくことが重要になる。
 それでも防ぐことができなかったら、・・となるのだが、そこには、地球は滅亡という危険性が伴う。だからこそ、「戦争予防に全力を尽くす」ということが浮かび上がってくるのだろう。

2022年4月5日火曜日

人間の尊厳を謳い続けよう

 テレビでウクライナの人々の声を伝えていた。
「今も朝から晩まで砲撃が続く、根こそぎ人の命を奪いにきている」。
「マリウポリにいる人間を根絶やしにするためです」。
 こうした声を聞くと、人権って何だ。人間の尊厳って何だと思ってしまう。そして、人の命は地球より重い、という言葉もあるが、あまりにも人命が軽すぎるではないか。
 しかし、命の尊さを謳い、人権や人間の尊厳を謳い続けることでしか、平和な社会を築いていくことはできない。時間はかかっても、歩みがのろくても、人々が命の尊さと、人権と人間の尊厳の重要性に気づいていくことでしか、平和な社会を築いていくことはできないからだ。命や人権・人間の尊厳が軽視されているからこそ、人間の尊厳を謳い続けよう、と言いたい。
 武力を持たなければ不安だ、という声が大勢を占めているかもしれない。大きな声をする方に、人はなびくのかもしれない。だからといって、命を粗末にすることはできない。人権や人間の尊厳を軽く扱う風潮に、黙って従うことはできない。
 助け合ってこそ、人間であろう。人の幸福というものは対立からは生まれない。力を合わせ、喜びや悲しみを分かちあうところにこそ、人の幸福というものがある。国だって、対立しあっていいことなど何もないのだ。
 つまり、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」(「日本国憲法前文」より)。世界の国々が主権を回復し、各国が対等関係の付き合いをしていけばいいのだ。

2022年4月4日月曜日

「個人の幸福と尊厳」とを守る立憲主義

 日本には多くの原発を抱えているのだから、決して戦争を始めてはいけない、と「原発も攻撃されれば「核兵器」」に書いたが、その真実性がいっそう増してきた。「原発のリスク要因として、地震や津波だけではなく武力攻撃があることがウクライナの事態で明白になった」(雑誌『アエラ』、2022年3月21日号)からだ。同じ内容の記事を赤旗日曜版(2022年3月27日号)で見つけた。以下要点を紹介する。

1、政治の役割は、戦争を回避するために知恵と手段を尽くすことです。原発が54基もある日本は、ひとたぴ攻撃されたら全滅します。軍事超大国の米国でも9・11(米国同時多発テロ)を防げなかったように、軍事力は役に立ちません。

2、「攻撃されたらどうする」ではなく、戦争を未然に防ぐ。私たちは「二度と侵略しません」と約束し、諸外国と友好を結ぶ以外に道はありません。それが、国内外で2000万人の人々を殺した侵略戦争の反省としての憲法9条の精神です。

3、国家間の陰惨な戦争に抗する思想として生み出されたのが、権力の暴走をとめ、″国家は個人の幸福と尊厳を守るためにある″とする立憲主義です。その到達点に日本の平和憲法があります。立憲主義を踏みにじることは人類の英知への攻撃です。
 立憲主義といえば、「国家権力を制限して、国民の人権を保障する」(『憲法の力』、伊藤真著、集英社新書、p66)程度の理解だった。だから、「国家間の陰惨な戦争に抗する思想として生み出されたのが、権力の暴走をとめ、″国家は個人の幸福と尊厳を守るためにある″とする立憲主義」という解説は新鮮だった。しかし、私の理解は逆だ。「権力の暴走をとめ、″国家は個人の幸福と尊厳を守るためにある″とする立憲主義」が先に生まれ、「個人の幸福と尊厳を守る」ことをて徹底するために「国家間の陰惨な戦争に抗する」9条の思想が生まれた、と考えている。

 

2022年4月3日日曜日

議会聞かず、政府顧みず

 向坂逸郎を通じて堺利彦のことを知り、その作品を読んでみようという気になった。彼の「重要さは案外知られていない」「最近になって再認識が行われ始めたようである」というところだ。「日本におけるマルキシズム運動は、この人から始まっている」という一文も、その気にさせた。
 早速『堺利彦全集・1』を借りて読んでみた。「田中正造の直訴」「徴兵法についての所感」「人種的反感」と言った興味ある随筆を見つけた。
「田中正造の直訴」では、「正造は渡良瀬川沿岸の人民に変わりて足尾鉱毒の被害を訴うる者なり。議会聞かず、政府顧みず、社会助けず、ついにここに及べり」(p 134)とあって、辺野古の米軍基地問題など、いまだに「議会聞かず、政府顧みず、社会助けず」であることを痛感し、なんという社会だと嘆きが湧き上がった。
 今は、コロナ騒動の後に戦争が起き、辺野古の米軍基地問題などどこかへ飛んで行ってしまった。世の中の目が一箇所に集中してしまっている。これでいいのだろうか。もっと社会を概観することを重視しないといけないのではないだろうか。しかし、私の思いは、なんか空回りしているような気もする。人に話しても、共感を得られなかったからだ。
 しかし、こうして冷静に考えてみると、空回りしているようでも、やはり自分の信念に自信を持ち、考え、発信していくことが大切なのかもしれない。そうして、主権者にふさわしい人間に、市民社会にふさわしい市民に成長すべく、「日々鍛錬していく」だけである。

2022年4月2日土曜日

今こそ日米安保条約にメスを

  ベトナム戦争があった時代の高校生の卒業答辞を読んで、今行われているロシアによるウクライナ侵略とベトナム戦争のあまりの類似性に驚き、ロシアを批判すると同時に、米軍や在日米軍基地の危険性にまで考えを深めることの重要性を痛感した。答辞中の「アメリカはベトナムの人たちに加えている攻撃をやめようとしない」を「ロシアはウクライナの人たちに加えている攻撃をやめようとしない」と置き換えることができるからだ。 

 私たちは戦争のおそろしさを知りません。でもテレビで、新聞で、毎日のようにべトナムのいたましい姿を見ています。アメリカはベトナムの人たちに加えている攻撃をやめようとしない。 
 戦争の悲惨さをよく知っている日本さえ、現在沖縄はベトナム戦争のアメリカ軍事基地として利用されているのをはじめ、本土のいたるところにも、アメリカの軍事基地が設けられ、いつでもペトナムに兵士をおくれるよう準備中なのです。そして自衛隊員を、そのため訓練させているのは何を物語るのでしょうか。(『憲法を考える』、星野安三郎著、ポプラ社、1977年、p201〜202)
 四五年前は、在日米軍、つまり日本がロシア軍と同じような侵略基地になっていたのは周知の事実である。今後は在日米軍、つまり日本が「ロシア軍のような侵略基地にはならない」と誰がも約束などできない。だからこそ、今こそ日米安保条約にメスを入れるべきなのだ。そして真の独立国家として、日本国憲法の導きに従って、世界平和の先頭に立って邁進すべきなのである。

2022年4月1日金曜日

「法の支配」と「倫理的な考慮」

 政治の世界から倫理的側面が外されているのが不満だった。それが顕著に現れたのが原発再稼働の是非をめぐる論議の過程であろう。ドイツでは、倫理の専門家が議論に加わって、結局廃炉という結論に至った。それに対して日本は、倫理の専門家は議論に加わることがなく、そのためだけではないにしても、再稼働に号サインを出してしまった。
 ところが、ようやく、倫理の重要性を加味した議論を見つけることができた。それは、「法の支配は、倫理的な考慮に基づいていない場合、機能しません。それゆえ、倫理的領域と法的領域のあいだでの態度調整が必要となります」(『未来への大分岐 資本主義の終わりか、人間の終焉か?』、マルクス・ガブリエル・マイケル・ハート・ポール・メイソン著、斎藤幸平編、集英社新書、2019年、p 188)というものだ。日本では、法の支配は、機能していないに等しい。倫理的な考慮に基づいていないゆえだったのだ。納得である。
 民主主義についても、重要なことを言っているようだが、残念ながら、今のところ理解ができない。斎藤幸平氏が「だから、あなたは民主主義をさまざまなパースペクティブのあいだを取り持つ絶え間ない管理や調整の過程として描いているのですね」(上同)というところだ。このところは、『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル著、清水一浩訳、講談社、2018年、p 169)を参照するように描かれていた。ガブリエルの民主主義論に興味が湧いてきた。マルクス・ガブリエルは、二十一世紀の哲学者なのかもしれない。
 ガブリエルは、新実在論というものを提起しており、その新実在論は「客観的事実普遍的原理を擁護するプロジェクト」(『未来への大分岐』、p180)だという。このところは、憲法などにある普遍的原理を哲学的に擁護する理論のようで、大変興味深いことである。