2024年10月31日木曜日

書物は無限の精神の鉱脈

 また、何と”うまい例え話だろう”と感心してしまった文章(注1)に出会いました。「一冊の書物は無限の精神の鉱脈」で、「読者は生命にも理解力にも限度のある鉱夫」に例えられるというのです。だから、前に「掘り出した鉱石と今日掘りあてた鉱石とが質も量も違うのは当然だ」となるのです。私も「パスカル遠望」の中に”精神の鉱脈”をの中に発見したことになります。
 はじめに” また”とかいたように、カントについて書かれた著書の中に”精神の鉱脈”をの中に発見していました。カントなどの「著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる」(注2)まったくそのとおりです。パスカルの『パンセ』は渡辺一夫や私にまで影響を及ぼし、カントの著作は、ショーペンハウアーや私にまで深く影響を及ぼしてきたのですから。

 (注1)ふとしたことでパスカルの『パンセ』を読み返してみましたが、昔読んだ本を読み返す場合にいつもそうであるように、今度も、昔はずいぶんよい加減な読方をしたものだなと、つくづく思いました。恐らく、一冊の書物は無限の精神の鉱脈にもたとえられましょうし、読者は生命にも理解力にも限度のある鉱夫と考えられるかもしれません。昨日僕が掘り出した鉱石と今日掘りあてた鉱石とが質も量も違うのは当然だとしますと、来年僕が再び読むかもしれない『パンセ』は、今年とはまた別な感銘を僕に与えるかもしれず、楽しいような恐ろしいような気もします。その上、僕の判る範囲は限られていると考えますと、ちょっと寂しくもなりますが、現在僕には、まだまだ判ってしかるべきものが残されていると思えば、楽しみにもなります。(「パスカル遠望」『渡辺一夫著作集 6 フランス文学雑考 上巻』、筑摩書房、1971年、p361) 

 (注2)偉大な精神の持主の著作の場合、その価値をすみずみまではっきりと説き明かすよりも、もろもろの欠点や誤謬を指摘することのほうがはるかにたやすい。なぜかといえば、それらの欠点はひとつひとつ限りのあるものであり、したがって完全に見渡しのきくものであるからである。これに対し、天才のもろもろの著作がもつこういう卓抜さというものは、究明することも、汲みつくすこともできない。それこそ、天才がおのれのもろもろの著作に刷りこむ印なのである。それゆえ事実またこれらの著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる。ただその度合いを測り知ることができないまでである。(「カント哲学の批判」『ショーペンハウアー全集 4』、茅野良男訳、白水社、1996年、p9)

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