悟りというものは、宗教を通していられるもののようなニュアンスがあります。しかし、言葉の力のみで悟ることもできるという言葉を見つけました。「個人の生はいつでも未完成なのです。こんな当たりまえのことも、私には一つの悟り」(『カントの散歩』、玉井茂著、勁草書房、p69)だというのです。なるほどと思いました。なぜなら、自分のことを振り返ってみると、未完成のものばかりと言って良いくらいでした。それゆえ、そん状態に焦りのようなものを感じていました。しかし、どんなに成長できたとしても「生はいつでも未完成」であることが分かって、「それでいいんだ」と心が軽くなりました。これって、一種の悟りではないでしょうか。
また、玉井茂氏にとっては、スピノザの言葉「嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、ただ認識すべし」が、「今でも私にとっての悟りの境地であり、最高の心術と思って」(p69)いると書いています。この言葉は、前の言葉と対になっているように思えます。「生はいつでも未完成」であることを自覚して「焦りもせず、ただ認識すべし」とも言えるからです。
そこで、二つの言葉を合体させて、新しい言葉を作ってみました。「嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、焦りもせず、ただ認識すべし。生はいつでも未完成だからです」あるいは、「生はいつでも未完成です。それゆえ、嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、焦りもせず、ただ認識すべし」です。
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