2020年4月30日木曜日

初めて知った国体明徴(はっきりと証明する)運動

 恥ずかしい話だが、国体明徴運動というものを初めて知った。そして、この運動は、天皇中心の国体概念が、軍部の台頭とともに軍部や右翼によって創られた概念でないか、と思うようになった。だから、国体概念は軍部と切っても切れないか関係にあるのではないか、と。だとすると、改憲によって自衛隊が軍隊になれば、日本国憲法によって否定された国体概念が頭をもたげてくるに違いない。以下、その概略を紹介する。

 ブリタニカ国際大百科事典によれば、国体明徴運動「1935年の天皇機関説テロ事件から発した政治問題。菊池武夫貴族院議員の田美濃部達吉攻撃に便乗して、政友会は岡田内閣打倒のため軍部と結託し、天皇機関説排撃の世論操作を行なった。
 このため政府は美濃部の著書『逐条憲法精義』『憲法撮要』などを発禁処分とし、統治権の主体は天皇にありとする国体明徴の訓令を発するにいたった
 しかし問題は収まらず軍強硬派は岡田首相の妥協的な事態収拾方法を攻撃し、ついに軍内部の皇道派と統制派の派閥抗争へと発展、また、平沼騏一郎枢密院副議長は機関説支持派の木喜徳郎枢密院議長を攻撃するにいたった。
 このため政府は2度にわたって国体明徴声明(1935.8,10.)を発せざるをえなかった。この事件によって軍強硬派・右翼勢力は政治的進出を果す重要な突破口をつくることができた」。

 また、Wikipediaによれば、「そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。しかし、軍部の台頭と共に起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた」という。
 さらに

 第1次国体明徴声明を受けて軍部・右翼は運動の中止を指示、猛威を振るった運動は終息するかに見えた。美濃部も1935年(昭和10年)9月18日、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が軍部・右翼の猛反発を招き、紛議が再燃。軍部・右翼は国体明徴の徹底を岡田首相に迫り、1935年(昭和10年)10月15日、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した(第2次国体明徴声明)

 以上のような一連の天皇機関説排斥運動に関して注意すべき点は、これが学術論争といった類のものではなく、政争の道具にされた点である。つまり立憲政友会による岡田内閣倒閣運動に使われたばかりか、軍部による政治的主導権奪取の手段として利用されたのである。2度にわたる政府声明を以って事態は一応の沈静化を見たが、これにより帝國憲法下における立憲主義の統治理念は公然と否定されることとなった。
— 「国体明徴に関する国体明徴声明全文
恭しくみるに、我が國體は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚の天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭に『國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫フル』と宣ひ、憲法第一には大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』と明示し給ふ即ち大日本帝國統治の大權は儼として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比なる我が國體の本義を愆るものなり。近時憲法學説を繞り國體の本義關聯して兎角の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體の明徴に力を效し、其の精華を發揚せんことを期す乃ち茲に在る所を述べて廣く各方面の協力を希望
— 「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日 (第1次国体明徴声明)
曩に政府は國體の本義に關し所信を披瀝し、以て國民の嚮ふ所を明にし、愈々その精華を發揚せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體の本義にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察す。然るに漫りに外國の事例・學説を援いて我國體に擬し、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體に悖り、其の本義を愆るの甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比なる我國體の本義を基とし、其眞髄を顯揚するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明し、以て國體觀念を愈々明徴ならしめ、其實績を收むる爲全幅の力を效さんことを期す。
— 「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)




2020年4月29日水曜日

高齢者も堂々と支えられていい!!

 とても胸のすく思いを感じさせてくれた文章に出会った。今まで、高齢化が進んでいくと、やがて一人の若者が一人の高齢者を支えるようになってくる、と聞かされてきた。その度に、肩身の狭い思いをし、何かがおかしい、と思いながら、反論できなかったからである。

 よく「若者一人で何人の高齢者を支える」というデータが出され、老若男女の不安をあおりたてる。こんな数値が大きな顔をしているのは、世界中で日本だけだと聞いた。年をとれば衰えて若者がその面倒をみるのが当たり前のことであって、若者がお荷物に感じ高齢者が申し訳なく思う必要はないのだと。(「『逆説の長寿力21カ条 幸せな最後の迎え方』を読んで/ひとことブックレビュー」より)

 今、新型コロナウイルス問題が広がるにつれて「新たな分断」が生じてきているが、「若者一人で何人の高齢者を支える」というデータを示されることで、若者と高齢者の間に分断が生じてきた、ということに気がついた。そして、高齢者が生きにくい、ということは、障害者も生きにくいということになる。障害者も、他者の支えなしには生きられないからだ。
 さらに考えを進めると、高齢者も、障害者も、等しく、憲法13条でいうところの「個人」である。であるならば、高齢者や障害者は、若者が支えるのではなく、社会、あるいは国家により、保障されるべき当然の権利と考えられることに気がついた。堂々と支えられていいのだ、と。

2020年4月28日火曜日

いまだ死者ゼロの国・ベトナム

 朝日新聞デジタル(2020年4月28日)の記事「いまだ死者ゼロの国 隔離を強制、厳しすぎだと思ったが」によると、ベトナムにおける新コロナウイルス感染者数は累計268人で、死者ゼロだという。記事の中にあった「感染者の把握は世界中の国々にとって共通の課題であることが明確になっている」という言葉の重みを、日本でもしっかりと認識して、これからの対策に生かしてほしい。以下、記事の中から要点を紹介する。強調は引用者による。
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感染者数は累計268人
 ベトナム政府は23日、「社会隔離」と名付けて1日から続けていた外出制限を緩和した。首都ハノイや南部ホーチミンではレストランや露店が営業を再開し始めた。タクシーも車両の台数に制限はあるが営業を許可された。新たな感染者は16日から23日まで出ず、約9600万人の人口に対して、同日時点の感染者数は累計268人。このうち約8割の220人がすでに回復した。死者はいない。24日になって新たに感染が確認された2人は、特別便で2日前に日本から帰国したベトナム人だった。

ハノイで23日、3週間続いた政府による外出制限が緩和された街を行き交うバイクの波(ロイター)

症状なくても強制隔離
 2月13日の16人目を最後に3週間止まっていた感染者数は、3月6日に欧州からの帰国者の感染が判明した後、再び増え始めた。ベトナム政府は同21日からすべての入国者を隔離の対象にし、22日には外国人の入国を事実上禁止にしている。4月1日からはハノイや南部ホーチミンなど大都市を中心に3週間にわたって外出制限を実施した。
 欧州経由での感染が拡大し始めた段階で、感染者やその接触者、海外からの入国者を病院や自宅、軍の施設などに隔離する措置を徹底するようになった。

SARSは最初に「制圧」
 2003年に重症急性呼吸器症候群(SARS)が流行した時も、ベトナムは同じようなやり方を取っている。当時は民間病院での集団感染をきっかけに、5人が死亡、63人が感染した。ベトナムは感染者と接触者を徹底的に追跡し、隔離することで世界で最初にSARSの「制圧」を宣言した

2020年4月27日月曜日

戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ!

『カント』を読んでいたら、「『永久平和論』などととなえているカントは、ぐまいで、大まぬけで、キ印じゃないかな」(p35)と、カントをあざける」と「キ印」とう言葉が出てきた。そう言えば、と、この言葉を多用していた坂口安吾の『もう軍備はいらない』を思い出した。坂口の造語かと思って調べもしなかったものだ。
 今回「キ印」が坂口の造語でないことがわかったので調べてみた。「キ印」は、気ちがいという意味だった。そう意味がわかって坂口安吾の文章を読むと、なかなか味わいがある。Kindle 版から、次に引用しておくから、味わってほしい。

 人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。

 こんな国へもガムシャラに盗みを働きにくるキ印がいないとは限らないが、キ印を相手に戦争してよけいなケガを求めるのはバカバカしいから、さっさと手をあげて降参して相手にならずにいれば、それでも手当り次第ぶっこわすようなことはさすがにキ印でもできないし、さて腕力でおどしつけて家来にしたつもりでいたものの、生活万般にわたって家来の方がはるかに高くて豊かなことが分ってくるにしたがってさすがのキ印もだんだん気が弱くなり、結構ダンビラふりかざしてあばれこんできたキ印の方が居候のような手下のようなヒケメを持つようになってしまう。
 昔からキ印やバカは腕ッ節が強くてイノチ知らずだからケンカや戦争には勝つ率が多くて文化の発達した国の方が降参する例が少くなかったけれども、結局ダンビラふりまわして睨めまわしているうちにキ印やバカの方がだんだん居候になり、手下になって、やがて腑ぬけになってダンビラを忘れた頃を見すまされて逆に追ンだされたり完全な家来にしてもらって隅の方に居ついたりしてしまう。
 もっともキ印がダンビラふりまわして威勢よく乗りこんできた当座はいくら利巧者が相手にならなくとも、相当の被害はまぬがれない。女の子が暴行されたり、男の子が頭のハチを割られ片腕をヘシ折られキンタマを蹴りつぶされるようなことが相当ヒンピンと起ることはキ印相手のことでどうにも仕方がないが、それにしてもキ印相手にまともに戦争して殺されぶッこわされるのに比べれば被害は何万億分の一の軽さだか知れやしない
 その国の文化水準や豊かな生活がシッカリした土台や支柱で支えられていさえすれば、結局キ印が居候になり家来になって隅ッこへひッこむことに相場がきまっているのである。腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。(強調は、引用者による)


2020年4月26日日曜日

みんなが出来る新型コロナウイルス対策

 近畿大学・免疫学・宮澤教授による新型コロナウイルス感染対策講座を受けて、新型コロナウイルスの特徴を正しく知って、「みんなが出来る新型コロナウイルス対策」をみんなで実施することの重要性を知った。
 三密を避け、マスクの着用することがなぜ重要なのか、その理由がわかれば、徹底されるに違いない。

 その1、新型コロナウイルスは、インフルエンザウイルスより増殖が遅いので、軽症でも、あるいは感染に気づかなくても、増殖を続けて、感染を広げてしまう機会が多い(軽症者が多い)。そして、(その中の一定の割合の人たちが)急激に重症化してしまう人がいるということである。

https://www.youtube.com/watch?v=aD_vMFWUf8Y)より

                
2、ウイルスは動けないので、人が動き、くしゃみなどで飛沫によって感染力を発揮する。だから、人の動きを制限し、マスクをして飛沫を飛ばさないことが大切になる。

3、ウイルスに皮膜は油分なので、石鹸やエタノールによる手洗いで皮膜を溶かしてしまうことが大切になる。それでウイルスの感染力がなくなるからである。





2020年4月25日土曜日

希望の星に見える韓国のコロナ対策

 朝日新聞デジタル(2020年4月25日)の 特派員(ソウル=鈴木拓也)リポートによると、4月19日には、感染者数が「2ヶ月ぶりに1桁となった」という。「4月3日に感染者数は1万人を超えた」、のにである。
 これだけ明確な結果出ているのに、こうした先進モデルを無視し続け、感染者を増やしていることは、考えようによっては、一つの犯罪ではないだろうか。以下、要点を紹介するが、日本は、こうした先進優良モデルに謙虚に学ぶべきである。韓国のコロナ対策が希望の星に見える。
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 韓国では、2月下旬に南東部の大邱で宗教団体の集団感染が発生。一時期は、1日に約800人の感染が判明するなど急激に拡大した。テレワークを行う企業が増え、地下鉄やバスの利用者は激減。飲食店も閑古鳥が鳴いた。

 その後、充実したPCR検査や、ITを駆使した追跡システムで感染者の早期発見をめざしたことで、感染が抑えられつつある。4月3日に感染者数は1万人を超えたが、1日当たりの増加数は2桁を維持するようになり、19日には2カ月ぶりに1桁となった。

検査態勢、WHOも評価
 韓国政府は「安心できる段階ではない」(丁世均〈チョン・セギュン〉首相)と注意を呼びかける。国民に対して引き続き、不要不急の外出はなるべく避け、カラオケ店やネットカフェ、クラブなど人が密集したり、換気が悪かったりする屋内施設の利用は自粛するよう求めている。
 だが、感染の勢いが抑制され、街には日常の風景が戻りつつある。
22日、仕事を終えた会社員らで混み合うソウルの地下鉄駅構内=鈴木拓也撮影
 韓国のPCR検査数はこれまでに95万件を超え、日本の5倍近い。韓国政府は2015年に中東呼吸器症候群(MERS)の流行で38人が死亡した教訓から、未承認の医療機器でも一時的に流通させられる特別な制度を設けていた。政府は1月に中国で感染が拡大する状況をみて、韓国にも感染が広がる可能性があると懸念。流行前から民間企業と協力して十分な数の検査キットを準備した。
 韓国国内で感染が始めて確認されたのは1月20日だが、感染が一気に拡大したのはその1カ月後だった。2月下旬に南東部の大邱で新興宗教団体の集団感染が発生。同時期に近くの慶尚北道の病院でも院内感染が起き、感染者が急増した。韓国政府は大邱とその周辺地域を感染症の「特別管理地域」に指定。市民に外出自粛を求めるとともに、発熱など感染の疑いのある人や、症状がなくても感染者と接触した人に対して集中的にPCR検査を実施した。

2020年4月24日金曜日

感染対策の優良モデルに学んで!!

 世界的に流行している新コロナウイルスですが、韓国や台湾など、検査を徹底するなどして感染を抑えることに成功している国が結構あることがわかった。
 4月21日に書いた「WHOテドロス事務局長の訴え」で、ベトナムとエスラエルの例を紹介したが、優良モデルはもっとあったのだ。どうか日本も、こうした事例の優良モデルに学び、感染者の増加を食い止めて欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=gyZiZFXbJbs)より


2020年4月23日木曜日

軍備ではない、自衛のための最小限の武力とは

 日本国憲法の下では、自衛のための最低限の武力といえども、持つべきではない、と、そう考えてきた。しかし、その武力の保持を「警察という名分と機能の範囲において認める」(「九条の問題」『南原繁の言葉』、p305)というアイデアを知って、それもいいかもしれない、と考えが変わった。
 そういえば、警察は、ピストルという武器の携帯が認められ、何ら不思議に思われていない。だから、「あくまで、いわゆる戦争のための軍備でないことが」(同上、p305)武力保持の条件になる。それなら、威嚇にもならないし、従って憲法に抵触することもない。
 では、どの程度の力を持てるのだろうか。その点について「最初の段階の警察予備隊、せいぜい保安隊のある程度にとどめてはどうか」(同上、p306)と提案している。さらに、このような国内のアイデアを、「国際警察」の観念に発展させて、次のように提唱している。

 世界の諸国が戦争を放棄し平和の組織秩序をつくった後も、国際の秩序を破壊する行為が時に起り得ることは、国内に犯罪が行なわれるのと同様であって、人類が存在する限り、おそらく絶えることはないであろう。したがって、これを抑止する国際共同の武力は備えられなければならない。ただし、それはもはや、これまで各国間に戦わされて来た戦争と、そのための各国の軍備とは観念を異にし、国際法上の違反行為とこれを抑止する国際の警察行為にほかならない。(同上、p307)

2020年4月22日水曜日

“武器でなく命に費用を”(ローマ教皇)

 “武器でなく命に費用を” と、ローマ教皇が紛争停止を呼びかけていた。世界的なコロナ危機の中、世界は連帯をすべきだ、と訴えていたのである。四月十四日の赤旗で知ったのだが、なぜか、朝日新聞では報道されなかったし、Googleで検索しても、赤旗の記事がけヒットしただけだった。次のリンクで読めるが、全文紹介する。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-04-14/2020041406_01_1.html 

 ローマ・カトリック教会のトップ、フランシスコ教皇は12日、バチカンのサンピエトロ大聖堂で復活祭(イースター)のミサを行い、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う危機に対応するため、紛争を終わらせ、世界が連帯するよう求めました。新型コロナの感染拡大を受け、ミサは少人数で開かれ、テレビやインターネットで中継されました。(桑野白馬)

 教皇は「今は武器をつくり売買すべき時ではない。人々を支え、命を救うために巨額を費やす時だ」と強調。シリアやウクライナなど紛争や対立が起きている国や地域に言及し、「長期にわたる戦争や紛争を終わらせる時だ」と訴えました。
 また、ウイルスの影響で人々の生活が一変したと強調し、「多くの人が不確実な将来と、仕事を失うなど今ある危機を心配している」と指摘。各国の政治指導者に対し、「誰もが尊厳ある生活を送れるよう行動する」ことや、危機の収束後に「人々が日常生活を再開できるよう」尽力することを求めました。
 さらに、欧州連合(EU)が歴史的な課題に直面していると指摘。EU諸国が域内の復興を支援する方法について合意できていない現状を念頭に、「革新的な解決策を採用することも含めて団結を示す時だ」と強調しました。
 教皇は、「われわれが直面している問題は、すべての人が共有している問題だ」として「無関心、自己本位、分断、忘却といった言葉を永遠に禁止したい」と訴えました。

 日本でも、補正予算でコロナ対策を乗り切ろうとしているが、財源は国債頼りのようで、軍事予算には1円たりとも手をつける気はないようだ。しかし、戦闘機や陸上配備型イージス・システム(イージス・アショア)といった予算を当面凍結して、それらを回してもいいではないだろうか。


2020年4月21日火曜日

WHOテドロス事務局長の訴え

 21日のNHK「おはよう日本」で、WHOテドロス事務局長が「現時点では感染者の発見や治療・隔離などを優先させるべき」と訴えていた。
そして、バンコクで10台の救急車を「感染者発見の検査車両」に改造し、検査を実施した事例を紹介していた。その結果は、881人検査して6人から陽性反応が確認されたという。陽性反応の出た人が、知らずに感染を広げることを未然に防いたことになる。
 また、朝日新聞の報道によると、ベトナムでは、接触者や入国者を無症状でも隔離徹底し、感染者数の増加を食い止めているという。「ベトナム政府の発表によると、感染者数は268人(19日現在)。死者はおらず、16日を最後に新たな感染者は出ていない」(2020年4月21日)というのだ。
 さらには、「大量のPCR検査によって感染を食い止めている国もある」として、イスラエルの例も紹介している。
「厳格な外出禁止令とともに、1日1万件ペースで検査を進め、人口当たりの検査数は世界トップクラスとされる。検査で早期に感染者を特定し、隔離を進めるのが基本戦略。感染者は1万3千人を超えるが、死者は172人(19日現在)。感染は減少傾向に転じ、19日からは外出禁止令も緩和に入った。
 大量検査を支えるのが、感染者に病院へ来てもらうことなく見つけ出す手法だ。感染の疑いがある人から電話で事前診断を受け付け、必要なら救急隊が自宅を訪れて検査する。「ドライブスルー方式」も積極的に実施。検査のために病院に行くリスクを減らし、院内感染を防いでいる」(2020年4月21日)という。日本も、こうした事例に学び、感染者の増加を食い止めてもらいたいものである。
2020年4月21日NHK


2020年4月20日月曜日

濃厚接触者には全員PCR検査を実施すべきだ

 4月15日に「検査データ増は至上命令!では?」というブログを書いた。ノーベル賞・本庶佑氏が「感染予防というのは、ウイルスを撒き散らす側がどこにいるか。それを捕らえないと防御対策ができない」という基本的なことを抑え、PCR検査を急ぐ必要性を訴えたことを紹介したものである。
 しかし、何故か、検査を急いでいる様子が見当たらない。それどころか、福島県「市長会によると、感染者の濃厚接触者に対する『PCR検査』が必ずしも行われていないため、濃厚接触者が地域で偏見や差別を受けているという」(朝日新聞、福島版、4月19日)。一番感染リスクの高い人にさえ、『PCR検査』が徹底されていないようなのだ。
 さらに信じられないのは、軽症だから、と家族のいる自宅でも自宅待機を迫られている現実があることだ。たとえ軽症でも、しっかりと隔離して感染をシャットアウトするのが感染症対策のイロハではないか。その上で、感染してしまった患者さんの接触者については、たとえ濃厚でなくてもPCR検査を徹底して、感染の拡大を防ぐべきである。


2020年4月19日日曜日

日本の運命を決する第一義はどこに

 今こそ、コロナ一ウイルス一色だが、いろんな問題が山積みであることに変わりはない。今まで、それらに振り回されてきた感が強い。そうしたことは、今に始まったことがない。何と、明治時代から、そうした問題があったのだ。「甲の問題が起れば蒼惶(「そうこう」:落ち着かないさま。あわてるさま。)として甲に走り、乙の問題が起ればまた蒼惶として乙に走るというが如く」と次のように石橋湛山は書いていたのだ。

 我が邦は今や内外種々なる点において容易ならぬ難局に立っておる。満州の問題は如何、対支那の問題は如何、資本家対労働者の問題は如何、いわゆる高等游民の問題は如何、国民道徳の問題は如何。かくの如く数え来れば、一刻もその解決を猶予して居られない大問題難問題は、国民の四囲内外にほとんど身勤きも出来ないほど積っておる。そもそもこれを吾人は如何にすべきか。
 曰く、ただ吾輩が前説せしが如き強力鋭利なる大智見の刀を以て、片端からこの乱麻を断って行くのみである。しかるに近来我が為政家は勿論、思想家、教育家、ないし一般国民のこれらの問題に対する態度を観るに、甲の問題が起れば蒼惶(そうこう)として甲に走り、乙の問題が起ればまた蒼惶として乙に走るというが如く、少しも我が根本的の立場から定めて、これに照して、総ての問題に徹底的解決を与うるということをしない。あたかも彼らのなせる処は、下手の碁打が一小局部にのみその注意を奪われて、全局に眼を配ることが出来ず、いたずらに奔命に疲れて、ついに時局を収拾すべからざるに至らしむるような者である。吾輩は切に我が国民に勧告する。卿らは宜しくまず哲学を持てよ、自己の立揚に対する徹底的智見を立てよ、而してこの徹底的の智見を以て一切の問題に対するの覚悟をせよと。即ち言を換えてこれをいうならば、哲学的日本を建設せよというのである。哲学は最も徹底的に自己を明らかにする者である。何をおいてもまず自己を考える。而してその明瞭にせられたる自己から出発して、新しき日本を建設する、これ実に我が邦目下の急務であると思う。『石橋湛山評論集』、ワイド版岩波文庫、p27)

 例えばこれを吾輩が前に挙げた外交家の例に取って見よ。彼らには日本の立場がわからないのである。日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか。徹底した目安がついておらないのである。徹底した目安がない。ここにおいてか彼らはやむをえず、その時々の日和を見、その時々の他人の眼色を窺って、行動するよりほかに道はないのである。(同上、p26)

 それでは、「日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか」、それこそ、安保条約である。諸悪の根源は、安保条約なのである。湛山は、このことを教えてくれた。  

2020年4月18日土曜日

人を人として生かしむることを唯一の目的とせる

 日本国憲法の第13条は、「すべての国民は、個人として尊重される。」そして「最大の尊重を必要とする」と結ばれている。
 次に、明治45年に書かれた石橋湛山の文章を読んでみる。

 人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむるものであろう。人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを唯一の目的とせるものである。(『石橋湛山評論集』、ワイド版岩波文庫、p20、強調は引用者による)

 されば「国民として生きる前に人として生きねばならぬ」という言葉は、私の意味を以てすれば、「国民として生きる前」ばかりでなく、「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」に人は人として生きねばならぬのである。否、生きざるを得ないのである。何となれば、国家も、宗教も、哲学も、文芸も、その他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬからである。(上同、p20〜21)

 日本国憲法の第13条の思想に、石橋湛山の思想がしっかり流れ込んでいると感じる。
石橋湛山(一八八四~一九七三)は、日本敗戦後七人目の首相だったが、「健康上の制約から、自分の考えを実行できなかったことを詫びる」(p277)と書いているように、途中で政治家を引退している。現在の政治家に、ぜひ次の言葉を読んでもらいたいものである。

 重ねていうが、わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方をもった政治家に政治を託するわけにはいかない。政治家の諸君にのぞみたいのは、おのれ一身の利益より先に、党の利益を考えてもらいたい。党のことより国家国民の利益を優先して考えてもらいたいということである。

2020年4月17日金曜日

魂を表現した絵

『怖い絵のひみつ』(中野京子著、KADOKAWA、p67)で、ウィリアム・ホガースが描いた「ビール街と〈ジン横丁〉」の解説を読んだ。絵に込められた画家の心を読み取る、という鑑賞もあることを知った。
 ワイエスの「松ぽっくり男爵」も、福島県立美術館で何度も目にしていながら、あまり気にとめることがなかった。しかし、ドイツ軍の軍服を着てヘルメットをかぶった軍人の肖像画「ドイツ人(THE GERMAN)」を知って、「松ぽっくり男爵」のヘルメットが肖像画に描かれたヘルメットであることを知った。そこで初めて、「松ぽっくり男爵」の絵が素晴らしさがわかった。
 解説には「透徹した写実描写を駆使しながら、日常を超えた眼に見えない魂を静かな感動をもって表現している」とあった。なるほど。「ビール街と〈ジン横丁〉」も、考えてみたら、娼婦の魂を表現している。

 こうしたスラム街では、粗悪な安酒ジンを売りつけるジン・ショップが建ち並んでいました。
 本作には中央でジンを飲んで酩酊し、階段にだらしなく座るボサポサ髪の娼婦が描かれています。なぜ娼婦とわかるのかというと、 彼女の足に梅毒による腫物が浮かんでいるからです。
 彼女は胸をはだけて授乳していましたが、嗅ぎ煙草をつまもうとそちらに気をとられた隙に赤ん坊は真っ逆さまに階段の下へ落ちてゆく。この高さでは、赤ん坊が助かることはないでしょう。
 またアルコールや梅毒に触まれた女性の命も長くはない はずです。これこそがロンドンの娼婦の現実。「道をふみはずした女」の行く末が、100年も前からここにあったのです。
ビール街と〈ジン横丁〉
松ぽっくり男爵

「ドイツ人(THE GERMAN)」(1975年)
 ドイツ軍の軍服を着用したカール・カーナーの肖像です。この絵の中でかぶっているドイツ軍のヘルメットは、バロン(男爵)という愛称で呼ばれていました。「松ぽっくり男爵』に描かれているのもこのヘルメットです。(福島県立美術館の解説より)

2020年4月16日木曜日

検査データ増は至上命令!では?

 前に、「対ウイルス戦は検査データ増が至上命題だ」(4月9日)という考えを紹介した。
 今日の「羽鳥慎一モーニングショー」(4月16日)では、今頃、ノーベル賞受賞者である本庶佑・京都大学特別教授がビデオ通話で生出演して、「見えない忍者」という、わかりやすい例えを使って検査の必要性を説いていた。ネットで紹介されていたので、要点だけを紹介する。
 サンデー毎日(4月26日号)では、青木理さんが、「政権は、まさに科学的データの基礎となる感染検査体制すら不十分なまま『緊急事態』を宣言し、」と書いている。「検査データ増が至上命題」どころか、「検査データ増は至上命令」ではないだろうか。
 私が赤で強調したところが、ずっと気になっていたことで、この隠れ患者さんを早急に見つけて隔離することが、何よりも優先させるべきだ、と私は思う。 


(本庶・京大特別教授)
「ただ重要なことはこれ普通の風邪ならばみんなこんなに慌てない。
インフルエンザなら0.1%ほどの死亡率ですが、
これ(新型コロナ)は世界中で5%くらいの死亡率。
社会的なパニックを抑えるためにいま求められているのは重症者を死なせない。
治療ここに大きな力を入れないといけない
感染対策には限界がありまして
いくら一生懸命やっても絶対ゼロにはなりません。
これは長く、繰り返し、出てきます。
ですから、いかに早く治療体制を強化するか、これにかかっている」

(本庶佑氏)
「感染予防というのは、
ウイルスを撒き散らす側がどこにいるか。それを捕らえないと防御対策ができないわけです。
私はまず、忍者との戦いだけど、忍者がどこにいるか分からないのに防備を固めることはできないわけです。
まずそれをきちんと捕らえる
全体の忍者の数が減ってくれば、ターゲットが見えてくる。
全包囲の戦いはできない。
やはり決まったターゲットに絞るために感染を減らし、そして実態をきちんとマッピングする。
この2つが当面は必要なことだと思います」

(本庶佑氏)
「いや。8割の人は何も症状が出ないわけですから。
ただその人は逆にやっかいで症状が出なくて、それを撒き散らしているわけですから
そこをきっちりと行政なり医療側が認識していないと大きな間違いを起こしますからね。
やはり戦争というのは敵を知らないと準備できない。
そういうことを申し上げているわけです」

2020年4月15日水曜日

米軍基地こそ経済の妨げ

 沖縄県では、戦中は沖縄戦で、戦後は米軍基地で苦しめられてきた。世界一危険な米軍基地と言われながら、普天間基地は使い続けられ、その代替え基地としての辺野古基地建設も、問題続きで一向に解決の目処が立っていない。
 そんな中での明るい材料は、米軍基地が経済の妨げになっていることを見事に証明してくれたことであろう。米銀基地の跡地利用で、大きな経済効果を上げてきたことである。もし、日本にある全ての基地が返還されたら、どれだけの経済効果があるか、考えただけでも、未来が明るくなってくる。
 今は、新コロナウイルスの問題で基地どころの話ではない、かもしれない。しかし、基地あるがゆえに、日々人権が脅かされ続けている人たちの存在を忘れてはならないと思う。
赤旗日曜版2018年9月23日号より

2020年4月14日火曜日

理性もとづいて行動し、実践すること

 今は、日本国憲法の価値の危機である。憲法改正によって9条が改変されようとしているからである。現実にある自衛隊に、憲法の理想(理性というべきか!)が侵食されようとしている、といっても良い。だからこそ、カントのいう「絶対的な価値をもつ善意志」に注目し、「純粋に理性の声にしたがう」ことの意義と重要性を考えていきたい。
 だからと言って、カントのように、「自然の性(本能・衝動)」に従って生きることを「理性の声」にしたがうことの対立概念として否定するようなことはしたくない(はっきりと否定しているかどうか、深く読んでみないとわからないが)。「理性の声」にしたがうことも、「こうしたいからこうする」という生き方と必ずしも矛盾しないからだ。小牧さんも、「二面は、調和することができないものだろうか」(p16)と書いている。

 『ダルントレーダンク』によれば、絶対的な価値をもつ善意志、人間の尊厳の根源である善き意志とは、純粋に理性の声にしたがうことであった。逆にいえば、この世の幸福をもとめようとする人間の欲(本能・衝動)によって、意志が動かされたり、影響されてはならない、というのであった。幸福な生をいちばんだいじな目あてとするような生きかたは、カソトによれば、悪である。人間のなすべきこと(道徳的な善)は、幸福追求ではなくして、幸福をさずかるにふさわしいということである。幸福をうけるにふさわしいとは、幸福を追うことではなく、むしろ逆に、幸福を意にせず、ときには幸福を犠牲にしても、ひたすら純粋に、理性もとづいて行動し、実践することである。生きたいから生きる。好きだから愛する、いっぱんに、こうしたいからこうする、というのでは、自然の性(本能・衝動)のままに動いているにすぎず、動物とかわりはない。そんなことでは、人間の尊さや価値は、どこにも見いだされないであろう。問題は、生きたくない、死にたい、にもかかわらず、理性の命ずるところにしたがって、けつぜんと、義務感から生きぬこうとすることである。(『カント・人と思想・15』、小牧治著、清水書院、1967年、p14〜15、原文の傍点部分に下線を引いてある)

2020年4月13日月曜日

善意志こそ、人間を人間たらしめる本質

 「名著を繰り返し読むことが大切だ」(西澤潤一著、『いつもそばに本が』)とい言葉に触発されて、前に読んだ『カント』の解説書を読み直した。といっても線が引かれてある部分だが。そして、カントが、善意志こそ、人間を人間たらしめる本質である、と説いていることを知った。理解力・機智・判断力といった精神的才能も、無条件に善いものとは言えない。なぜなら、その人の「意志が善でなかったら、さきにあげたせっかくの才能や性質も、きわめて悪い有害なものとなりかねない。知恵があり、勇気があり、冷静である悪漢ほど、おそろしくて憎むべきものはないではないか」(『カント・人と思想・15』、小牧治著、清水書院、1967年、p13)というのである。政治家を選ぶ際も、是非とも、カントのいう「善意志」というものを評価の基準にしてほしいものである。
 
 むずかしかった。ドイツ文の構造は、むずかしかったが、とにかく訳を参照にして、なんとか、じぶんなりに理解した。しかし、内容となる、そうかんたんにはいかない。まだわからないこと、なっとくのいかぬことは、ずいしょにあった。
 しかし、一ページ、一ページとすすんでいくにつれ、なにか、力強く、わたしの心にせまってくるものがあった。カントは、若いわたしに、こんなふうにうったえてきた。
 理解力・機智・判断力などの精神的才能は、なるほど望ましいものである。勇気・果断・堅忍不抜などの気質の性は、なるほど善いものである。また、権力・冨・名誉はもとより、健康、身心の安泰、みちたりた境遇など、そうじて幸福とよばれるものも、善いものであり、望ましいものである。しかし、それらを、無条件に善いものというわけにはいかない。それらを、人間にとって、いちばんの価値がある、望ましいものとみなすわけにはいかない。人間にとっていちばん価値があり、人間に人間らしい尊さを与えるものは、善き意思である、善意思こそこの世界ではもとより、世界のそとにおいても、無条件絶対にとみなされうる、ただひとつのものである。それゆえ、もし、われわれの意志が善でなかったら、さきにあげたせっかくの才能や性質も、きわめて悪い有害なものとなりかねない。知恵があり、勇気があり、冷静である悪漢ほど、おそろしくて憎むべきものはないではないか。権力・富・名誉などといった幸福にめぐまれた人が、もし善意志を欠くならば、どういうことになるであろうか。かれは、得意になり、ときには思いあがって世に害悪をおよぼすであろう。わたしたちは、純な善意志のおもかげをつゆ持たぬ人が、この世に栄えていくのをみて義憤を感じないであろうか。あさましい人間として、その人を蔑視するではないか。まさに善意志こそ、いっさいをこえて光りかがやく尊厳であり、人間を人間たらしめる本質である。人格を崇高なものとする根源である、と。(『カント・人と思想・15』、小牧治著、清水書院、1967年、p12~13、原文の傍点部分に下線を引いてある)

 カントの『グルントレーグンク』は、人間の尊厳や崇高さが、善意志のなかにあることを、くりかえし教えてくれた。力強く、わが心にうったえてくれた。暗かった青年の心に、光りが、さしこんできたようだった。哲人の書を読破しえた喜びは、同時にまた、行手になにか希望を見つけだした喜びでもあった。(p13)


2020年4月12日日曜日

物理学者が傾倒したアルベエル・カミュ

 物理学者の米沢富美子さんが「カミユには終始傾倒し」、カミユが「六〇年に四十六歳で交通事故死し」たときは、失意のあまり「自分で作った会を抜けた」という。それほどまでに米沢さんを傾倒させたカミユに興味を抱いた。

『創造と自由』、アルベヱル・カミユ著、新潮社、1954年
『自由の証人』、アルベヱル・カミユ著、新潮社、1952年
『正義の人々(現代フランス戯曲叢書)』、アルベエルカミュ著、新潮社、1953年

 小学生で活字中毒になった私は、中学、高校でも手当たり次第に読書したが、一九五七年の京大入学から卒業までの四年問は、その後の人生観を決める本たちに出会った。
 マルクス主義や実存主義が全盛の時代だった。紆余曲折の末カミユに行き着いた私は、文学部の学生を誘って「実存主義研究会」を作った。数人の仲間が理学部近くの喫茶店・進々堂に集い、その週の本について議論する。実存哲学の先駆者キルケゴールやニーチエに始まり、サルトル、ボーボワール、カミュなど、入手できるものはほぼ挑戦した。半年ばかり経たところで、実存哲学のみでは行動の方向が見えない、やはりマルクス主義を勉強すべきだという意見が出された。実存主義とマルクス主義の総合を試みるサルトルの影響もあった。
 私自身は、サルトルの哲学やマルクス主義には女性の視点が欠けていると思った。カミユには終始傾倒した。『シーシユポスの神話』などで人間存在の不条理を肯定しつつ、なお誠実に生きる姿に共感した。五七年、カミユは「鋭い真摯さをもって、人間の意識に投げかけられる諸問題に光をあてた」としてノーベル文学賞を授与されたが、六〇年に四十六歳で交通事故死し、失意の私は自分で作った会を抜けた
 思えば旧約聖書も「男の肋骨で女が造られ」に始まり「女は男を慕い、男は女を治める」と続く。哲学や思想や宗教の底流に女性差別が根強くある。どうやら女には住み辛い世の中らしいと気づいたが、決定的に実感したのは就職活動の時たった。物理学は科の掲示板に貼られた求人票にはいずれも「男子のみ」の非情な一行が。(『いつもそばに本が』、米沢富美子著、p208)

 二十世紀、戦争による死者の数は一億人以上ともいわれる。日本中の人間が全部消えたのに相当する。二十一世紀こそは、人間の叡智が平和的解決を工夫すると期待したが、いきなり武力による報復の連鎖が始まった。
 空爆の映像は心が凍る。幼い頃の私のように、あの空の下を逃げる子供たちがいる。家に閉じ込められた女性たちがいる。タリバンが来る前、カブールの大学では約半数が女子学生だったという。医師になって皆を助けたいと目を輝かせていた女性たち。テロは議論の余地なく悪い。しかし何故こうなったかを、米国は一度でも考えたか。温暖化防止のための京都議定書からの離脱。国連への拠出金を滞納しながら対テロのお墨付きを取る時には国連を引き合いに出す。大国のエゴが貧困の国にどう映るか
 こんな時は本が懐かしい。読書の喜びは、連い国や遥かな昔に患いを馳せ、異なる価値観で暮らす人たちを同じ人間として慈しめることだ。(『いつもそばに本が』、米沢富美子著、p210)

2020年4月11日土曜日

新日本国家の理想

 格調高い、新日本国家の理想を語った講演記録(一九四六年十一月三日の記念式典)の要約

 終戦後ニ年ニカ月余、われわれ国民のたどり来たった道は、必ずしも悲惨と暗黒とのみではない。それを通して、偉大な黎明がわが民族の上に、明けそめつつあるのを認めねばならぬ。個々人は戦禍と窮乏のなかから、かれらの新たな生を求めて、所在に起ち上り、社会はあらゆる分野において、旧い因襲と桎梏から解放されて、新たな動向を目ざして、巨大な運動を捲き起しつつある。
 その間、敗戦の汚辱と痛手を一身に負うた国家も、その旧い形骸を脱して、廃墟のなかから、いまや新たな建設への全貌を明らかにするに至った。今回、憲法改正の事業は実にそれにほかならない。それは旧憲法の区々たる個々の法案の改正ではなく、ほとんどその全変革 ―― わが国の歴史的な新憲法の制定と称していい。
 かくのごときは、ポツダム宣言の受諾という敗戦の運命が、われわれに命じた課題であったと同時に、わが国が自己みずからの清算と再生とのために、成しとげねばならぬ使命であったのである。それは民族の痛苦なくして行われたわけではない。今われわれにそのすべては明らかではないが、歴史が後に明白にするであろう。われわれは、いま悲痛のなかから、その生誕を祝し、そこに生れいでた新日本国家の理想と性格を見極めることにより、われわれ個人並びに社会の生活と運動に、新たな指標を見出さなければならない。
 第一に、そと世界に対し、戦争放棄と平和国家理想の宣言である。世界いずれの国においてか、武力の絶対廃棄と戦争の徹底的否認とを、国家理想として宣した国はかつてあったであろうか。国民の自衛のための兵備と交戦権すらも放棄せられてある。そこに将来、独立国としてのわが国家存在の不安が指摘せられ、また世にこれを一個のユートピアとして批評する者があるのも、決して理由なきことではない。
 だが、かくのごときは、その精神において、実にわが国有史以来の敗戦により払った犠牲の血の教訓である。今次の大戦において日本が学びえたものは、実に「剣をとって起つ者は剣によって滅びる」ということである。いまやわれわれは過去の軍国主義と極端な国家主義の信条を完全に払拭しなければならない。それは、今次わが不法の戦争において犯した過誤と害悪に対する国民的贖罪たるのみならず、進んで諸国民と協力して、世界恒久平和という人類永遠の理想実現へのわが民族の積極的努力に対する決意の表白である。
 第二に、かような高い世界理想に伴うところの、わが国家組織そのものの民主的根本変革を挙げなければならない。国内に自由と平和の支配する民主主義の確立なくして、国際的民主主義を意味する諸国家協同の世界平和は、どうして実現しえられようぞ。新憲法の根本特色は、その全体にわたって、実に民主主義精神の拡大強化にある。それこそ新日本国家の基本的性格であり、「民主日本」は「平和日本」の名とともに、いまや彼女の新しい性格の表現である。  
 われわれを支配する政治の権力は、もはや少数指導者や一部階級にあるのでなく、全体の国民 ―― あまねく民衆の手に移ったのである。このことは、およそ政治的権威は国民に由来し、国民こそ真の主権者であることの、人類普遍の政治原理への、国民の新しき自覚に基づくのである。そして、その権力は国民の代表者である国会がこれを行使するのであって、国会は国家の最高機関であり、内閣は国会に対して全責任を負わなければならない。
 第三に、かような民主主義国家の内部において、人間個人の完全な自由が確保されてある。民主主義の成果は、国民のひとりびとりが等しく人間として、生命・自由および幸福追求に対する完全な権利を享受することなくして、到底期待しえられるものでない。国際の戦争の廃棄も、国民ひとりびとりの人間的価値と尊厳を認めてこそ、初めて可能であるであろう
 新憲法が旧憲法に比し徹底して、国民の基本的人権を侵すべからざる永久の権利として保障したことは、ここに力説されなければならない。それは実に「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、過去幾多の試練に堪えたものであり」、今後「わが国民の不断の努力によって、保持しなければならぬ」ところのものである。
 われわれは新憲法に掲げた理想をどこまでも堅持し、民族の浄化と自己完成を目ざして、歴史の永遠の流れのなかに、断えざる進歩をつづけねばならない。
 武力の戦いは、われらを永久に去った。これよりは主義と理想と性格の戦いである。われわれは、この新たな平和の戦いにおいて、光栄ある勝利を獲得し、われわれの祖国再建の偉業を成就せずば已まぬであろう。(「新憲法発布」『南原繁の言葉』p280~290からの要約)

2020年4月10日金曜日

戦後日本の進路

「戦後日本の進路 更生日本の門出前途は実に洋々たり」は、昭和二〇年(一九四五年)八月二五日に書かれた石橋湛山の記事である。

 昭和二十年八月十四日を以って発余せる更生日本が、具体的にはいかなる針路を取るべきか、(中略)
 言うまでもなく日本国民は将来の戦争を望む者ではない。それどころか今後の日本は世界平和の戦士としてその全力を尽さねばならぬ。ここにこそ更生日本の使命はあり、またかくてこそ偉大なる更生日本は建設されるであろう。しかし原子爆弾の一例は、いかなる針路を日本が取るにしても、その着眼の要点を示すものである。率直にいえば、従来の我が国には、この着眼が足りなかった。竹槍こそ最も善き武器なりとする非科学的精神が禰漫した。ここに戦争においても今回の不利を招いた根本原因があるが、平和の事業においても同様である。単に物質的の意味でない科学精神に徹底せよ。しからば即ちいかなる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ。記して以て更生日本の門出を祝す辞となす次第である。(『石橋湛山評論集』、ワイド版岩波文庫、p259〜261、強調は引用者による)

 この記事を読んで、このような戦後日本の息吹を感じるものをもっと探して集めてみたい、と思った。これは、その一歩である。

2020年4月9日木曜日

対ウイルス戦で今必要なことは?

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため非常事態宣言が発令された。しかし、まだまだ分からないところが多い中で、効果的な対策がなされていると言えない。その原因が検査データの少なさである。次の指摘に示されている。

 対ウイする戦は検査データ増が至上命題だ。分母を多くすればするほどに正確な感染率、重・軽症率、快復率、致死率が出てくる。地域別、男女別、年齢別、状況別データ解析で、ウイルスの危険度の実相が見え、正しく恐れることが可能になる。
 政策の優先順位がはっきりし、エビデンスのある行政指導で、国民と対話をしながら政策を浸透させる。「首相決断」でいきなり一斉休校を求るような乱暴な処置はもとより論外となる。(倉重篤郎のニュース最前線」『サンデー毎日』、2020年3月22日号、p46)

 毎日発表されるのは、感染者が何人になたか、それが中心で、詳しいデータ解析の報告など聞いたことがない。対ウイルス戦の至上命題に、是非とも取り組んで欲しいものである。

2020年4月8日水曜日

憲法学者美濃部達吉の思想・2

「美濃部達吉の憲法学の最大の特色は、最大限に国民の自由と人権を守るための法学理論をつくり出したところにあった」(美濃部達吉著「治安維持法批判」の家永三郎氏による解説)。それは、次のような、専制政治と対比させて解説した立憲政治の特徴によく表れている。

 専制政治は権力による政治である、上に絶対の権力を有する者があって国民を支配し、国民はその権力の下に服従するを要するものとせらるることが、専制政治の根本思想をなしている。国民はただこれに従うことを命ぜらるるにとどまって、これを批評し論難することを許されない、民をして依らしむべく知らしむべからずとは、すなわちこの思想を言い表わしているものである。
 立憲政治はこれに反して民衆的の政治である。政治が国民の意向に従い、国民の諒解を得て行なわるるを要することが、その精神の存するところである。その結果として、事の性質の許すかぎりは秘密政治の主義を排し、政治がすべて公然国民の前に発表せられ、国民はモの是非を批評し論議することができなければならぬ。(『現代日本思想体系・3・民主主義』、家永三郎編集解説、1965年、p280)

 しかし、美濃部達吉の主張する立憲主義は、専制君主政と区別されたと言えども、次のような立憲君主制であった。

 立憲政治は国民の翼賛による政治である。統治権は君主これを専行したまうのではなく、国民の同意を得て行なわせらるることが、立憲君主政の専制君主政と区別せらるる第一の要点である。
 立憲政治の根本義は民衆政治すなわち万機これを国民の公論に決するの政治にあるのであるが、ただ国民がみずから統治を行なうことは、わが固有の君主主義と相両立し得ないものであるから、わが憲法はもとより国民がみずから統治を行なうことの主義をとらず、統治権はすべて君主または君主の機関によってのみ行なわるるものとし、ただその統治権を行なうについて国民の意向にしたがって行なわるべきことを要求しているのである。言い換うれば、立憲君主政治は君主主義の骨駱の中に民衆政治の精神を包むもので、君主が民の心をもって心とし、それによって統治を行なうことが立憲主義の要求である。(『現代日本思想体系・3・民主主義』、家永三郎編集解説、1965年、p279)

 ここで問題なのは、「立憲君主政治は君主主義の骨駱の中に民衆政治の精神を包む」とか「君主が民の心をもって心とし」といったことは、彼の観念上での願望に過ぎなかったことである。「君主が民の心をもって心と」することなどあり得なかったことでもわかる。これが彼の思想の限界なのであろう。

2020年4月7日火曜日

憲法学者美濃部達吉の思想

 美濃部達吉の思想がどういうものだったのか、全く知らなかった。家永三郎さんの美濃部達吉に関する著書に触発されて、1927年に刊行されたという『逐条憲法精義(抄)』を読み始めた。そして、初めから、その内容に驚いてしまった。まずは、驚いた文章を列記してみる。「著者のみるところによれば、従来日本に行なわれている憲法学説のはなはだ満足し難いものが多いのは、主として左の三の点にその原因をもっている」と書いて、「その原因」について述べたものである。

1、もしわが国体をもって、絶大無限の権力が君主に存することを主義(神授君権説)とするものと解するならば、誤りこれよりはなはだしきはない。

2、国体の観念は、わが帝国が開国以来万世一系の皇統を上に戴いていることの歴史的事実と、わが国民が皇室に対して世界に比類なき崇敬志順の感情を有することの倫理的事実とを示す観念であって、現在の憲法的制度を示すものではない。

3、殊に君主の大権は常に官僚の輔翼によって行なわるるのであるから、国体を理由とする君権説の主張は、その結果においては、常に官僚的専制政治の主張に帰するもので、これがわが従来の憲法学説に累せる最も大なる原因である。

4、立憲政治の精神についての理解の足らぬことである。立憲政治をもって三権分立の政治であるとすることは、かつて十八世紀末に行なわれた思想であるが、わが憲法の解釈において今もなおかくのごとき思想をもって基礎と為し、立憲政治が主として民衆的政治であり、責任政治であり、法治政治であることの本質を否定する説が、広く行なわれている。この欠陥は国体観念についての誤解と相待ちて、わが憲法の解釈をしてますます立憲政治の本義から遠からしむるの結果を来たしている。

5、わが憲法が種々の点において日本に独特なる制度をとっていることを承認する者であるが、なお大体において西洋の諸国に共通する立憲主義を採用しているものなることを確信し、憲法の解釈においても必ずこの主義を基礎としなければならぬことを主張するものである。著者の見解が多くの点において世に流布せる従来の見解と異なるものがあるのは、ここにその第二の原因を有する。(『現代日本思想体系・3・民主主義』、家永三郎編集解説、1965年、p274〜275)

 立憲主義について「立憲政治が主として民衆的政治であり、責任政治であり、法治政治である」と、その本質を捉えていたことに、ただただ驚いた。そして、今だに、この本質的な立憲政治が実現されていないことに。

2020年4月6日月曜日

北朝鮮核問題の根本的な解決は?

 北朝鮮によるミサイル発射が続いている。一時は、アラート警報が鳴り響いたこともあった。最近も発射されており、次のような新聞記事が掲載されている。

 北朝鮮が飛翔(ひしょう)体2発を発射したことを受け、国連安全保障理事会は3月31日、テレビ会議システムを通じて非公開で対応を協議した。英国とフランス、ドイツが要請し、協議後には英仏独を含む欧州6カ国から北朝鮮を非難する声明が出されたが、全会一致の見解は出されなかった。
 北朝鮮は29日に日本海に向けて短距離弾道ミサイルとみられる飛翔体を発射。声明は「世界の平和と安全をむしばみ、(核やミサイルの開発を禁じる)安保理決議に明確に違反するものだ」と批判した。ドイツ代表部によると、協議では「新型ウイルスの世界的流行で世界的な連帯と協力が最優先されるべき時に、北朝鮮は無責任にも国際の安定を危険にさらしている」などの意見が出たという。(ニューヨーク、2020年4月1日朝日新聞)

 このような北朝鮮核問題は今に始まったことではなく、20数年来からくすぶっている問題である。なぜ、根本的な解決に至らないか。
 それは、核保有国の核保有を問題視せず、核保有国が小国による核保有を問題視し、批判しているからに他ならない。次のような家永三郎さんの批判が雄弁に物語っている。

 昨今朝鮮民主主義人民共和国の核疑惑が国際問題化している。たまたまいくつかの国が公然と核を保有しながら、北朝鮮だけを疑うのはどういう資格によるのだろう。今年三月二五目の『朝日新聞』「声」欄に「核保有国が、他国に対して核を持つなと言うこと自体説得力を欠いている」という投書が出ていたが、まさにそのとおりではないか。(「まず核兵器全廃を!」『私が思うこと』、家永三郎著、民衆社、1995年、p129)

 この記事を読んで、『朝日新聞』の投書の内容を知りたくなった(幸い、放送大学の学生は、朝日新聞の記事を自宅にいて検索できる)。大宮市 横山謙(会社員 30歳)さんによる「北朝鮮核問題の平和解決急げ」という投書だった。家永さんによる引用部分を詳しく紹介すると、


「米国を中心とした国連の制裁路線にも疑問を抱かざるをえない。経済制裁で北朝鮮を孤立させることが、事態の好転につながるだろうか。むしろ態度を硬化させてしまうように思えてならない。また核保有国が、他国に対して核を持つなと言うこと自体が説得力を欠いている。こんな時こそ、日本が積極的に平和的な問題解決に乗り出すべきである。日本にはその能力と義務があると思う」(1994年03月25日、朝日新聞)。

「核保有国が、他国に対して核を持つなと言うこと自体が説得力を欠いている」から、一向に問題は解決に至らず、結果、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の建設問題まで浮上してきた。
 北朝鮮核問題は、「イージス・アショア」の建設で解決するわけがない。「(核やミサイルの開発を禁じる)安保理決議」や「核禁止条約」を、核保有国も、核疑惑のある国にも、等しく適用していく以外にはないのでる。

2020年4月5日日曜日

身体感覚を伴う理解の重要性

 新型コロナウイルスによる休校のため、タブレットによる遠隔授業が見直され、各地で実践されたようだ。しかし、タブレットの教育における活用は、限定すべきである。「タブレット教育は百害あって一利なし」という論文を読んで、感じたことである。
 例えば、こんなことが書かれていた。「友人の植物の専門家の最初の勉強は、実際の植物を平面の画用紙にスケッチすることだった。お世話になった古典の専門家の教授が、学生のとき最初にきせられた作業は、古文書の書写だった。全て身体感覚を伴う理解である。」
 このように、紙の上で手を動かす作業を通じて、「自分が向かいあった事実に対する理解が生まれる。知識の理解は、このような身体感覚を伴わなければ、応用できる知識にはならない」(柳谷晃著、「タブレット教育は百害あって一利なし」『文藝春秋オピニオン2014年の論点100』、p247)というのである。
 そう言えば、体で覚えた自転車は、決して忘れない。身体感覚を伴う理解というのは、自転車乗りを覚えるのと同じなのかもしれない。数学の勉強でつまずいたのは、手を使った計算を軽視し、読んで理解しようとしてきたからに違いない。これからは、紙に計算することを心がけてみたい。

2020年4月4日土曜日

世界を変えるのは銃でなく言葉


『サンデー毎日』(2020年4月5日号)に映画『ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ』(田部井一真監督)を見た感想が寄せられていた。ムヒカとは、ウルグアイの元大統領のこと。

 世界を変えるには「銃ではなく自分自身の言葉だ」と悟り、人々に訴えた。
「人生でいちばん大事なことは成功ではなく歩むことである」と、転んでも転んでも歩くこと。(木下昌明)

 調べたら映画の公式サイト(https://jose-mujica.com/)もあった。

(「https://jose-mujica.com/  」より)


















 


『<いのち>を食う 3.11後の映画と現実』について

 映画『ムヒカ』に感動したという木下昌明さんのことが気になって、著書を探して見つけたのが、『<いのち>を食う 3.11後の映画と現実』(木下 昌明著、績文堂出版、2014年)である。
 内容紹介によると、「全世界を覆う資本主義の嵐は、いまや人間の<いのち>を食いものにしなければ生きのびられなくなっている-。原発への抗議行動に参加し、記録してきた著者が、映画などを素材に批評する。オリジナル作品のDVD付き」とあった。予約したので、どんな本で、どんな映像なのかが楽しみである。

2020年4月3日金曜日

アパルトヘイトは法律の暴力だった

 ネルソン・マンデラの伝記を読んで、白人による黒人差別の酷さを知った。そして、根強い黒人やアジア人への差別思想が安保条約や日米地位協定に深く貫かれているのではないか、という疑問を持った。いくつかに実例を引用してみる。

 黒人たちは、都市周辺に設けられた、せまい「黒人居住区」に住むことを強制されていた。小さな家がひしめき合い、電気も下水道もない、不衛生で不便な場所だった。p46
【黒人居住区】南アフリカでは、人種によって住む地域が決められていた。黒人居住区は、黒人が住むことを強制されていた居住区。これまで住んでいた土地から追い出され、せまく整備されていない土地におしこめられていた。(『世界を切り開いた世界の10人・3・ネルソン・マンデラ』、学研教育出版、2015年、p46)

 街にはバスだけではなく、列車や公園のベンチ、公衆トイレ、病院など公共施設や設備は「白人専用」、「黒人専用」と分けられていた。まちかえで白人専用のベンチに座ると、警察にたいほされることもあった。
【原住民パス】16歳以上の黒人が、つねに持つことを義務づけられた身分証明書(パス)。小冊子のような形で、持ち主の住所や、その地域の首長の名前、税金の納付状況などがくわしく記され、黒人からは反感を持たれていた。(同、p51)

 国民党はすぐに動き出した!白人以外を差別するアパルトヘイト政策が次々に実行されていったのだ。
 まず、白人の下にアジア人や黒人がいる、とはっきりと法律で等級分けした。もっともおとるのは黒人と定めたのだ。黒人は政府が決めた地域に住むことを強制され、豊かな土地が次々に白人にうばわれた。白人の地域を通るだけでも通行証が必要になった。学校や病院などの公共施設も、人種のちがいによって分けられた。
 これらはこれまで日常的に行われていたが、それらすべてが、こと細かく、強制力を持つ法律として決められたのである。それはまさに、法律の暴力だった。前政権の連合党の白人政治家ですら、アパルトヘイトを「冷酷で危険な政策」と呼んだほどだった(同、 p61~62)。
(注)一九四八年に政権についた

2020年4月2日木曜日

驚いた『大学生のための日本国憲法入門』

 今年になって出版された『大学生のための日本国憲法入門』を読んで驚いた。憲法 9条の解説が「第13章 憲法 9条と自衛隊」になっており、さらに、「日米安保条約は、日本の防衛だけでなく、 極東地域における自由と民主主義を守るためにも、 不可欠なものとなっています」と、コラムという形で、次のように安保肯定論を展開していたのである。

コラム 事例から考える
日米安全保障条約と平和主義
 不幸にして第2次世界大戦で対立してしまうことになった日本と米国ですが、終戦後、米国は日本にとって自由と民主主義という根本的価値観を共有する最大の同盟国となりました。 日本の防衛においては、全国の軍事的要所に米軍基地が配置され、米軍が自衛隊と共同して我が国の防衛にあたっています。この共同防衛の根拠は日米安全保障条約(日米安保条約)です。
(中略)
 日米安保条約が存在しないことを想像してみて下さい。日本国憲法は前文や憲法9条|項の規定からもわかるように、 日本が外国から侵略されたり、戦争をしかけられることを前提としていないことは明らかです。しかしながら、日本の周辺には、 勢力拡大を狙う大国や、 暴発寸前の国家が存在します。 このように地域の安全保障にリスクを抱える中で、 日米安保条約は、日本の防衛だけでなく、 極東地域における自由と民主主義を守るためにも、 不可欠なものとなっています。(『大学生のための日本国憲法入門』、吉田成利著、慶應義塾大学出版会、2020年、p125)

 日本の代表的な憲法体系書(『岩波講座憲法・2』)と言われる『憲法・第3版』、芦部信喜著、岩波書店、2012年)では、「安保条約には重要な問題点が少なくない」(p67)とある。

2020年4月1日水曜日

恐ろしく感じたコロナ関連ニュースが二つ

1、【AFP=時事】米軍の空母「セオドア・ルーズベルト(USS Theodore Roosevelt)」の艦長は国防総省に対し、空母内で新型コロナウイルスの感染が拡大し状況が制御不能になっているとして、乗組員の隔離に向けた迅速な支援を要請した。米国の2紙が3月31日、報じた。
 空母のブレット・クロージャー(Brett Crozier)艦長は4ページにわたる書簡で、現在米領グアムの港に停泊している空母の乗組員約4000人の間で感染拡大が止まらない惨状を説明。米地方紙サンフランシスコ・クロニクル(San Francisco Chronicle)によると、「われわれは交戦中ではない。水兵らは死ぬ必要はない」と述べた。

2、東京行きの医療搬送チャーター便が墜落 
 マニラ国際空港で3月29日午後8時過ぎ、羽田行きの小型チャーター機が離陸に失敗して炎上し、乗客乗員全員が死亡した。小型機はフィリピンの会社が運航する医療搬送用で、同機にはカナダ人の患者と付き添いのアメリカ人、それにパイロットや医師・看護師らフィリピン人の6人の、あわせて8人が搭乗していた。
 首都マニラには、最先端の医療を受けることが出来る複数の私立病院も存在する。こうした病院ではジカ熱を患う外国人患者も通常は治療を受けることが出来る。ではなぜカナダ人の患者は、マニラの病院で治療を受けずに羽田へ医療搬送されることになったのか。
  墜落死した乗員の友人によると、患者のカナダ人男性はジカ熱を発症後、フィリピン国内のいくつかの病院を訪れたが、受け入れを拒否されたという。新型コロナウイルス対応により、病院側の収容能力が限界に達していたからだった

 以上のニュースを知って、とても人ごとではすまなかった。米軍人の感染が在日米軍内に持ち込まれたら、どうなってしまうのだろう、という思いと、マニラのような事態が拡大したら、という思いがあったからだ。
 今必要なことは、冷静にことの推移を見守り、何が起こっているのかを科学的に正しく認識していくことではないだろうか。
 その意味でも、朝日新聞(2020年4月1日)に掲載された<(村山斉の時空自在)感染死者数、気になる「傾き」>は、対数グラフによる検討などがあって、説得力のある、いい記事だった。

 新型コロナウイルスは感染しても8割が軽症またはほとんど症状がなく、自覚なく他の人にうつしてしまう。そのため潜在的な感染者が相当数いてはっきりしないので、死者数を指標に考えてみる。誰も免疫のない新しいウイルスは対策を打たないと感染者は指数関数的に増えていく。対数グラフでは直線になり、この傾きは欧米の国ではほぼ同じだ。このまま進むとひと月で1千倍以上になる。世界的危機だ。
 一方、日本の傾きはすでに頭打ちになっている韓国とほぼ同じで、死者の数が欧米のように爆発的に増えていないのが救いだ。それでもひと月で10倍になる傾きだ。それに死者数は数週間前に感染した人のもので、最近の感染拡大はまだデータに表れていない。これからオーバーシュートすることは十分ありうる。外出自粛で拡大は止まる。警戒しよう。(素粒子物理学者)