人生「いかに生きるべきか」は、宗教家や思想家にとって避けては通れない課題ですが、「今」を生きる価値については、共通して重要視しているようです。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの場合も例外ではなく”「今」を生きる”ことの大切さを説き、それができれば「もっとも長い生、もっとも短い生も同じことだ。 今はすべての人に等しく、したがって失われるものも等しい」(注1)と述べています。「もっとも長い生、もっとも短い生も同じ」というところが素敵です。
またアウレリウスは、「各人は東の間のこの今だけを生きている。それ以外はすでに生き終えてしまったか、不確かなものだ」(注2)と言っています。岸見一郎さんの解説によれば、
過去は「すでに生き終えて」しまって、もはやどこにもありません。未来も、誰にもわからないという意味で「不確かなもの」です。明日のことでも、想像している通りになることは決してありません。人は「東の間のこの今一だけを生きているとアウレリウスはいいます。(注2)だから、「すべての行為を生の最後の行為のように行う」(注2)と良いようです。
最後に、「今日、この時間を最大有意義にすごすことが、人生というもの」(注3)という宗教家の言にも耳を傾けてみましょう。
(注1)『自省録 マルクス・アウレリウス NHK「100分de名著」』、岸見一郎著、NHK出版、2023年、p107
(注2)上同、p108
(注3)人生どう転んだって同じことです。金があろうとなかろうと、どれだけの違いがありましょう。今日を最高に有意義に楽しく暮らせばいいのです。過ぎ去った昨日までのことは一場の夢です。明日からの生活は幻のようなもので、台風が来るか、地震があるか、わかりはしません。過ぎた夢は今さらどうにもならず、一寸先はどうかわからぬ世の中です。
としたら、今日、この時間を最大有意義にすごすことが、人生というものです。人間生きている限り問題はつぎからつぎと起こります。われわれは毎日いろいろ大小さまざまの事件の中で生きているのです。解決をいそぐこともなく、あせることもありません。気ままに暮らすことです。
人間、死ねば、いやでも応でもすべてが解決するのです。
しかし、私のいおうとすることは、せつな的デカダン的に暮らせばよいということではありません。間違わないでください。今日を有意義に送ろう、精いっぱい生きようということです。精いっぱい生きたら、自己のベストで今日を暮らしたら、あとはケセラセラだということなの です。(『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p202~203)
0 件のコメント:
コメントを投稿