2022年2月28日月曜日

「新しい人間学」を模索したマルクス

 最近は、社会科学系の古典は「まず解説から読むに限る」と思うようになった。解説者にもよるのかもしれないが、解説を読んだだけでも、エキスを学ぶことができるからだ。マルクスの『経済学・哲学草稿』(光文社古典新訳文庫、長谷川宏) も、解説から読み始め、若きマルクスのイキイキとした文章を味わうことができた。
 この本は、若き日の草稿だけに、欠けるページがあったり、「そんな中途半端な、不完全な本だが、にもかかわらず、丁寧に読めば、マルクスのほかの著作にはない青年期の輝くような思考や思想をそこに見つけることができる」。「草稿の四と第三草稿の『二』は本書のなかでも青年マルクスの生き生きとした思考がもっとも躍動する章だ」と、読みどころまで紹介されていた。
 私が感動した部分は、「人間は、意識的な存在であり、みずからの生活を対象とする存在」であり、植物、動物、石、空気、光などの自然は、「ときに自然科学の対象に、ときに芸術の対象となって、精神的な非有機的自然ないし精神的な生活手段として、加工した上で享受され消化される」というところだ。つまり、人間は意識的な存在であり、「自然物に依存しないでは生きていけない」存在であるだけでなく、科学や芸術活動といった形で「享受され消化される」という表現が、なんとも素晴らしい。
 特に重要な「私にとっての発見」は、マルクスが、「ヘーゲル哲学を引き継ぐ形で宗教批判を強め、新しい人間学を模索する批判哲学がある。フォイエルバッハ、シュトラウス、ブルーノ・バウアーなどがその系列の哲学者だ」とあるように、「新しい人間学を模索していたことである。マルクスが模索した人間学は、「人間本来の生命活動は、人間の意志と意識に導かれるものであるとともに、人間と自然との根本的な交流を示すものでもある」と、その一端が解説されていた。

 動物は、その生命活動と隙間なくぴったり一体化している。動物は生命活動そのものだ。たいして人間は、生命活動を意志と意識の対象とする。生命活動を意識的におこなうわけで、生命活動とぴったり一致してはいない。意識的な生命活動をおこなう点で、人間は動物的な生命活動から袂を分かつ。そのことによって初めて人間は類的存在である。いいかえれば、人間はまさしく類的存在であることによって、意識的な存在であり、みずからの生活を対象とする存在である。だからこそ、その活動は自由な活動なのだ。(第一草稿 四.疎外された労働

 植物、動物、石、空気、光などが人間の意識に入りこみ、理論的な面では、ときに自然科学の対象に、ときに芸術の対象となって、精神的な非有機的自然ないし精神的な生活手段として、加工した上で享受され消化される。と同時に、植物、動物、石その他は、実践的な面でも、人間の生活と活動の一部をなしている。自然の産物のあらわれかたは、栄養、燃料、衣服、住居など種々雑多だが、肉体的存在としての人間は、そのような自然物に依存しないでは生きていけない。(第一草稿 四.疎外された労働

2022年2月27日日曜日

プーチンの背中を押した見えない力

 悲しいことに、ウクライナへの侵攻によって、今まさに地球上で「戦争」が起きている。前に「地球が発する悲鳴」という詩の中で、「戦禍のたびに、/地球が発する悲鳴が聴こえる」と書いたが、今この時も「地球が発する悲鳴が聴こえる」ようだ。このような現実に対してプーチン大統領を非難する声はもっともなことだが、それだけで終わってしまってはいけない。プーチン大統領を後押ししている「見えない力」にスポットを当て、追求しなければ、第2、第3のプーチン大統領を誕生させてしまうからだ。
 では、その「見えない力」とは、何ものか。それは、マルクスが資本論で明らかにした「商品の”物象化”」現象であり、資本主義社会に内在した商品(資本)の運動エネルギーによって人間が制御されてしまうことである。

「彼らは、この運動を制御するのではなく、むしろ、この運動に制御される」というときの彼らは人間のことだから、「人間が物に制御される」ということになる。つまり、物象化によって私たちの生活が大きく振り回される、ということでもあるのだ。それは、何を意味するか? 武器商人が悪者にされることもあるが、彼らも、結局、武器という商品に制御されているに過ぎない、とも言える。資本主義社会、商品社会が存続する限り、武器商品も拡大発展していく運命にある。(「100分de名著 マルクス“資本論”」より)

 つまり、プーチン大統領も、自分の意志で武力侵攻に踏み切ったわけだが、結局は彼の意志の背後で「武器という商品の拡大再生産エネルギー」が働いたことになる。そこにメスを入れないと、戦禍の悲劇は無くならないであろう。

2022年2月26日土曜日

人間の成長は試行錯誤の繰り返し

 人間には、「生老病死」というの四苦があると言われているが、何と言っても死の恐怖は最大のものであろう。私だって小心者で死は恐怖である。だから、人一倍健康に気遣ってきた。それでも、確信を持って生きられるまでには至っていない。そんな状態で「我を去り私心をなくす、そうして自然の大道と己を一緒にしてみると、生死というものがなくなってくる」(高橋是清)という言葉に出会い、心を動かされた。こんな生き方を求めていたのではないか、と。
 問題は、どうすれば「我を去り私心をなくす」ことができるかだ。それは、私欲を無くすこと、あるいは熱中するもの、夢中になれるものを見つけることであると思う。そこで思い出したのが、頭の中にあるものを書出し、頭を空っぽにする方法である。このことと、高橋さんの言わんとしていることが一致しているかどうかはわからない。しかし、やってみる価値はあるのではないだろうか。
 ここで、最近読んだ『人間理解の基礎 中学生の哲学』(内田詔夫著、晃洋書房、2002年)にあった一節「どんな分野においても、人間の成長は基本的にこのような試行錯誤の繰り返しの中で誤りから上手に学ぶことによってなされるのだろう」を思い出した。書き出すだけで「頭を空っぽにする」ことができても、私心をなくして高橋さんの言わんとしている境地になれるかどうかわからないが、試行錯誤の精神で「やってみる」価値はありそうだ。
 ここにきて、また次なる言葉を思い出した。今度は聖書の一節で「求めよ、さらば与えられん/尋ねよ、さらば見出さん/門を叩け、さらば開かれん」(マタイ伝7章7節)である。「やってみる」ということは、「求め、尋ね、門を叩く」ことでもあることに気づいたのだ。どうであろうか??

2022年2月25日金曜日

人権を踏み躙る軍事攻撃は悪である

 ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まった。軍事攻撃によって双方に被害が出ている模様で当然のことだ。朝日新聞の報道によれば、米国防総省高官が見解[01:50(ワシントン24日11:50)として、「我々は、第2次世界大戦以来、このような国家対国家の従来型(の戦争)の動きを見たことがない。もし我々の考えるようなことが展開されるならば、多くの血が流れ、多くの代償が支払われ、欧州の安全保障に重大な影響を与える恐れがある」と語ったという。
 しかし、非軍事的なロシアへの対応は良いとしても、イラクへの侵攻など数々の軍事攻撃をしてきた米国防総省に、今回のロシアの軍事攻撃にものを言える立場であろうか。日本政府も同じであり、ロシアの軍事攻撃を非難するなら、これまでの自らの行いも反省すべきである。「第2次世界大戦以来、国家対国家の従来型(の戦争)の動きを見たことがない」と言ってるが、「従来型(の戦争)でなければいい」と自らの軍事行動を免罪する論調は、決して許されるべきものではない。
 この度のロシア軍によるウクライナへの侵攻で明らかなことは、「いかなる理由があろうとも、「従来型(の戦争)」でなくても、軍事攻撃は悪である」ということであろう。この事実に気づき、世界が軍縮へ向かって邁進するようにならなくてはいけない。間違っても、西側の軍事行動は許されるような論調になってはいけないのだ。そういう意味でも、改めて、最重要な価値としての人命があること、それゆえ人権に普遍性があることを再認識する必要がある。「いかなる理由があろうとも、人権を踏み躙る軍事攻撃は悪だからである」

2022年2月24日木曜日

戦後(政治)は崩壊したのか?

 朝日新聞(2022年2月19日)を読んでいて、<崩壊する「戦後」>という言葉に違和感を覚えた。コラム<(ひもとく)外岡秀俊の志 「強権に確執を醸す」の持続 久間十義>で、<デビュー作『北帰行』で彼が啄木の『時代閉塞(へいそく)の現状』に言及し、「強権に確執を醸す志」を強調していたことを思い出す。ロンドンからの報告に、崩壊する「戦後」の正体を明らめんとする、密(ひそ)かに醸された彼の「志」を感じるのは、一人私だけだろうか>と書かれていたのだ。
 同じような書名の本に、『戦後政治の崩壊 デモクラシーはどこへゆくか』(山口二郎著、岩波書店、2004年)がある。初め、
<崩壊する「戦後」>という言葉に対する違和感の正体がわからなかった。しかし、こうして<崩壊する「戦後」>について書こうとしていたら、不思議と違和感の正体が見えてきた。それは、<「戦後は崩壊した」というのは真実ではないのではないか>という疑問であった。
 さらにいえば、「戦後は崩壊した」という場合の戦後を体現しているは何か、曖昧なところがある。しかし、戦後を体現しているものは、何と言っても日本国憲法であろう。それならば、たとえ解釈改憲されているとは言え、日本国憲法は健全である。日本国憲法が健全である限り戦後は崩壊していない。戦後(政治)は、痛めつけられているとは言えても、決して崩壊はしていないのだ。
 

2022年2月23日水曜日

被曝〈衣類〉が語るもの

 写真集『ひろしま』(石内都著集英社2008年)の被写体は、被爆者が身につけていた衣類だ。このボロボロになってしまった衣類を着ていたであろう女性のことは、衣類の状態から想像で補うしかない。しかし、「〈衣〉として焼けたというのは、だれかがこの布をまとったまま、この布のなかで息絶えたということ」(鷲田清一)だけは明らかである。そして、「焼け爛れたこの〈衣〉はもう、時を刻むことも時に抱きしめられることもない」。だがしかし、この〈衣〉は、この世が存続する限り、かつての惨事を「無言で」語り続けることであろう。

 ここにある衣類の数々は、だれかの思い出のために、遺品としてきちんと畳んで、行李の中やタンスの奥にしまわれていたものではない。破れ、裂かれ、溶け、ぼろぼろにちぎれた衣類の数々。
 それらは、〈布〉として焼けたのではなく、〈衣〉として焼けた。
〈衣〉として焼けたというのは、だれかがこの布をまとったまま、この布のなかで息絶えたということだ。この〈衣〉にとって、時はそこで氷結したままである。傷を負った皮膚は、引きった傷痕をそこに残すだけでなく、傷に抗い、傷とともにもがき、傷をようやっと受け容れたその時間も刻みつけている。そう、身体は時を刻むとともに、(石内都自身のことばを借りれば)時に「抱きしめ」られる。が、焼け爛れたこの〈衣〉はもう、時を刻むことも時に抱きしめられることもない。(鷲田清一著「ひろしま』の栞」、p10

ひろしま』(石内都著集英社2008年)表紙



ひろしま』(石内都著集英社2008年)より


2022年2月22日火曜日

ピカソの「戦争と平和」

 放送大学青山昌文教授の放送授業『芸術の理論と歴史』に、「戦争の世紀と20世紀の美術」という項がある。そこでピカソの絵画「戦争と平和」 の解説があった。そこで、この絵には平和に関する重要なメッセージが描かれていることを知った。それは、平和が微妙なバランスの下に成立していることを暗示している、左側女性の人差し指で支えられらている天秤像である。
 さらに驚くのは、この絵は1952年制作されたわけだが、絵画のメッセージ性が現在にも立派に通用し、一発触発と言われているウクライナ情勢を鋭く告発していることだ。さらに、真の平和というものは、紛争によってではなく、中央の四人で鳩を支えているモニュメントのように、「他民族の人々が手を携えて(取り合って)支えていくことでのみ実現される」といった青山昌文教授の解説が印象的だった。
 以下はウィキペディアからの解説である。

『戦争』は黒や灰色を基調とし、暗い印象を受ける。絵の中央には、黒いに引かれた戦車が描かれ、戦車を駆る人物は赤い血糊の付いた剣を握り締めている。黒い馬は、斧や槍、剣を振るう黒い人影を背景に、燃え盛る書物を踏みにじっている。絵の左側には、平和の象徴である白いハトが彫られた盾を持つ人物が描かれ、戦車の行く手に立ちはだかっている。『戦争』とは反対に、『平和』は白を基調としている。絵の中央には、白いペガサスが描かれ、『戦争』の黒い馬とは対照的である。光り輝く太陽のもとで、子を育て、踊り、生を謳歌する人々の姿が描かれている。




2022年2月21日月曜日

反共主義は反民主主義の前夜

 立憲の支援組織である連合(日本労働組合総連合会)の芳野友子会長が会長就任来、一貫して立憲と共産党との選挙協力を批判している。共産党を排除することをあからさまに求めるなど、反共主義を明確にしてきている。そこではっきりしたいことが、反共主義というがもたらすものについてである。
 ナチスの研究者によると、ナチスの特徴の一つに反共主義があるという。だとすれば、「ナチスに学べばいい」と公言して顰蹙をかった議員がいたように、芳野友子会長も、ナチスに学び、反共主義を強めてきているのかもしれない。そういう意味では、「反共主義は反民主主義の前夜」と言っても良いのである。
 そういえば、米国も「赤狩り」という言葉があるように、共産主義といった一定の勢力を排除しようとする反共主義が根っこにある。民主主義の国というならば、対立する思想も認め、対立勢力を排除するようなことは決してない。民主主義といったら、そこに寛容の精神がなければいけないからだ。つまり、芳野友子会長も米国も、ナチスと大して変わらないということになる。
 ナチスのホロコーストが問題視されるように、米軍による日本やベトナムに対する仕打ちは、ホロコーストとなんら変わりない。その後も各地で空爆を実施してきたではないか。それで民主主義の国と言えるのだろうか。甚だ疑問である。

2022年2月20日日曜日

法の支配=理由に基づく統治

 ノートに「過程は公開→民主社会 22/1/13朝日」とメモしてあった。なんのことかはすっかり忘れていた。検索してわかったがメモは、<(憲法季評)弁護士の電源使用、裁判長が制止 今問う「法の支配」の理念 松尾陽>という記事のことだった。改めて読み直し、「法の支配」というものがよくわかった。たとえば、

 「法の支配」の要諦(ようてい)は、どんな為政者も法に拘束されるということである。その法には、自らが制定した法も含まれる。そこに「法による支配」との違いがある。「私が作ったのだから私がその法の意味を自由に決められる」という理屈は許されず、その解釈適用は、為政者から独立した裁判所に委ねられる
 裁判所も自由に法を解釈適用すればよいわけではなく、理由に基づいて解釈適用しなければならない。このことを最も端的に記したベルギー憲法149条においては、裁判所の判断は「理由によって支えられる」と規定されている。
 究極的には、法の支配とは、理由に基づいて統治するということであり、一種の理性支配である
 民事事件においても、裁判所はある個人の権利や利益を保障するという判断を下す際には理由付けを行う。そこでの理由は私にもあなたにも通用する公的な基準となる。また、その過程は公開される。私的な利益を保障する公的な基準が公開の形で形成されていく点で、民事裁判及びその弁護にも公的な側面があるといえよう。(下線強調は筆者による)
 このような「法の支配」の要諦を考えると、自ずと憲法第九九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」のことを思い出す。「憲法を尊重し擁護する義務」を負うている国会議員が、何故に憲法改正を、しかも堂々と主張できるのであろうか。これでは「法の支配」が成立しないことは明らかだ。どうして、このことをもっと声を大にして問わないのであろうか。
 また松尾陽氏は最後に「理性による紛争処理」にも言及し、そのことは「法の支配」の実現になると、次のように強調している。
 暴力によらず理性の言葉によって紛争を処理していくことは、裁判に至らない紛争処理過程でも重要であり、そこには裁判官ではなく弁護士こそが柔軟に関与していくことができる。
 理性の言葉によって平和的に紛争を処理していくことは、法の支配の実現につながるのみならず、それ自体が、日本国憲法13条が規定する個人の尊重の一つの形である。(下線強調は筆者による)
 ここでは、「日本国憲法13条が規定する個人の尊重」というものに最大の価値を置くならば、憲法9条が、つまり「暴力によらない理性の言葉による紛争処理」が必然的に導かれることを示している。このことから明らかになることは、憲法改正で実現しようとしていることは「法の支配」を破壊しようとすることに他ならない、ということになる。

2022年2月19日土曜日

希望があれば苦痛もやわらぐ

 ダンテの言葉「希望があれば苦痛もやわらぐ」(『やさしいダンテ<神曲>』、阿刀田高著 、角川文庫)) を知って、アウシュビッツという極悪の環境で生き延びた人たちのことを思い出した。そういえば、ダンテの『神曲』を読んでみたいと思ったのも、アウシュビッツという極悪の環境で「ダンテの『神曲』の一節を暗誦し、生き延びた人たちのエピソード」を『小川洋子のつくり方』(小川洋子著、田畑書店、2021年)で読んだからだった。
 エピソードは、一人の青年Pがあるイタリア人Gに「イタリア語を教えて欲しい」とお願いしたことから始まる。なんとGは、『神曲』の一節を思い出し、それをPに暗唱させた。その一節が「 君たちは自分の生の根源を思え。獣のごとく生きるのではなく、徳と知を求めるため生を享けたのだ」だったのである。PやGは、ダンテの『神曲』に救われたと言って良い。
 また、朝日新聞夕刊(2022年2月17日)「(一語一会)人材育成コンサルタント・辛淑玉さん 元在日韓国大使館員の金時福さんからの言葉」として、「絶望したら希望を小さくして生き残れ」を紹介していた。なんと、「差別にあらがう言論活動を続けてきた」結果、「ネットに誹謗(ひぼう)中傷があふれ」、「自宅に注文していない商品が届き、夜中に呼び鈴が鳴らされ、汚物が投げ込まれた」こともある。その時に思い出したのが「絶望したら希望を小さくして生き残れ」だという。
 耐えかね、2年間もドイツへ避難したが、「滞在先のドイツでは、『今日は甘いチョコを食べた』など、食べることで小さな希望をつないだ。帰国後もしんどい時は『希望を極限にまで小さくして』耐えてきた」というのだ。このようなことが、現実に日本で起きている。情けないが、このようなことが記事にされたことに救いを感じる。

2022年2月18日金曜日

憲法9条を生かした外交努力

 日本共産党の提案「憲法9条を生かした外交努力こそ必要」というのは、もっともな提案である。この辺のことを、新春対談で志位委員長がわかりやすく解説していたことを思い出した。すでにASEANという実績のある「平和な枠組み」ができているのだから、日本もその中に入り、その輪を広げていけばいい。それはわかる。しかし、その前に、朝鮮を含めた加害責任を明らかにし、歴史認識に対する和解という作業が欠かせないのではないだろうか。一度、その辺の見解を日本共産党に聞きたいものである。

 ASEANが長年とりくんできた、あらゆる紛争を平和的に解決するという枠組みが、EASという形で現に広がってきていて、そこに日本も入っている。だったら、「敵基地攻撃」なんて物騒なことを言わないで、紛争の平和的解決のためにEASを本気で強化して、東アジアに平和の枠組みをつくっていくという外交をやるべきじゃないかと考えています。

2022年2月17日木曜日

永遠の平和、永遠の平和 ——

 臨終の最後の言葉が、「永遠の平和、永遠の平和 —— 」だった人がいたこと知っていた。思わずメモしたくらいである。しばらく忘れていたが、エッセイ「昭和天皇と鈴木貫太郎」(なかにし礼著『天皇と日本国憲法』)の中で再会することができた。困難を極めた終戦業務を命懸けでやり抜いた、当時の首相鈴木貫太郎の言葉だったのだ。
 敗戦が確実視されても、なお徹底抗戦の陸軍大臣もいる中で、鈴木貫太郎は「死刑すらも覚悟して」(『天皇と日本国憲法』、 p 21)命懸けで日本を終戦に導いてくれた。だからこそ、死ぬ間際まで「永遠の平和」を願ってくれたのであろう。最近も再燃しつつある憲法改悪の動きを考えるとき、鈴木貫太郎の決死の働きを忘れてはいけないと痛感した。
 また鈴木貫太郎は、首相就任演説で「国民諸君は私の屍を踏み越えて、国難の打開に邁進することを確信し…」と訴えたという。この意味するところは、鈴木氏の志を引き継いで「国難の打開に邁進すること」を信じていたのであろう。永遠の平和にとって、今まさに国難の真っ最中だ。鈴木氏の志を引き継いで、今、目の前にある国難を打開していきたいものである。

2022年2月16日水曜日

世界を魅了した浮世絵

 日本の浮世絵が、世界で高い評価を受け、浮世絵に着想を得た絵も描かれたことは知っていた。一九世紀後半のヨーロッパ美術にみられる日本趣味を指したジャポニスムという言葉さえ生まれた。この度は千葉市美術館で、「ジャポニスム:世界を魅了した浮世絵」展が3月6日まで開かれる。日曜美術館アートシーンで紹介されていた。
 アートシーンで紹介された作品は、模倣の対象が、波、雨、構図、と限られている。それだけでも、ジャポニスムの一端を垣間見ることができた。そして、こうした作品の誕生の背景にあった江戸の平和に想いを馳せることができた。これまで続いてきた平和、せめて100年は続いて欲しいものである。

















2022年2月15日火曜日

奴隷をやめて反逆せよ!

 ニーチェの著作に『人間的な、あまりにも人間的な』というのがある。「この著作でニーチェが描きだそうとした世界は、『未来のすばらしき新世界』『現世の彼方に善悪の源を求めない世界』『絶対的な価値や神の裁きもない世界』であった。キリスト教に潜む『奴隷の道徳』をえぐりだす」(『90分でわかるニーチェ』、ポール ストラザーン著、浅見昇吾訳青山出版社、1997年、p40)という。それに、『ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ!」:まず知識・思想から』(副島隆彦著、成甲書房、2017年)という本まで出版されていることがわかった。
 それでは、ニーチェが描きだそうとした「絶対的な価値や神の裁きもない世界」における現代社会の「絶対的な価値」とは、どのようなものであろうか。一つ考えられるのが「アメリカ民主主義」という価値であり、その絶対的な価値に基づく制裁である。例えば「またバイデン米大統領は14日、ジョンソン英首相と電話で協議した。両国の発表によると、2人はロシアとの外交の余地はまだ残っているとの認識で一致。東欧の同盟国の防衛強化や、侵攻時の経済制裁の準備についても議論した」(『朝日新聞デジタル』、2022215日)という具合だ
 また、日本という独立国に、70年以上にわたって米軍基地があり、米軍基地内は日本の憲法も及ばない。それだけではない。日本中のどこでも、ある日突然、日本の憲法も及ばない地域になってしまうのだ。2004813在日米軍アメリカ海兵隊)のヘリコプター沖縄国際大学に墜落した事件が何よりの証拠である。目撃者の証言によると、「バスを降りて歩いてきたら、『ここは通さない』と黄色いテープやらバリケードが置かれてこの道路は封鎖状態で、大げさに言うと戒厳令だな」(自宅近くに米軍ヘリ墜落の恐怖…2004年沖縄国際大学事故」より)と思ったという。
 このような屈辱的な状態は、考えようによっては奴隷状態と変わらない。そこに、「アメリカ民主主義」という絶対的な価値が存在しているからだ。「自発的隷従」などという人もいるが、自発的であろうが、なかろうが、構造的に米国という大国に「隷従」していることには変わりがない。だから、今こそニーチェに学び、「奴隷をやめて反逆せよ!」なのではないだろうか。

(「自宅近くに米軍ヘリ墜落の恐怖…2004年沖縄国際大学事故」より)

2022年2月14日月曜日

多様な幸福を迎えてやれる都市

 住環境に住む人たちの幸福度を一番に考えているという建築家に出合った。NHK放送<SWITCHインタビュー達人達「中馬和彦×重松象平」(2022年2月12日)>に出演されていた重松象平さんである。大切にしているという幸福度の捉え方に特徴があって、未来社会のあり方を暗示しているように思えた。
 幸福度というと、人によっていろんな尺度があって難しいけれど、みんながその都市に住んで楽しいな、好きだなと思える環境づくりを目指したい。それらのことを一言で言うと、それは「包容力」である。つまり、いろんな価値を持った人たちを受け入れる包容力のある環境、都市作り、その人なりの多様な幸福を迎えてあげられるような都市づくりを大切にしたい、というのだ。どこへ行っても同じような経験しか得られないような都市作りというのもダメで、そういう意味で「差異化する」都市づくりも大切、と言っていた。
 重松さんの話を聞きながら、斎藤幸平さんが考えているコモンというものも、このようなものではないかと想像を巡らしていた。そして、「その人なりの多様な幸福を迎えてあげられる」という言葉の底には、個人の尊重、尊厳という憲法の基本原則が貫かれていることに気づいた。世界を舞台に活躍している建築家が、結果的に、仕事を通じて憲法の精神を実現されようとしている。なんと勇気づけられる話であろう。 

2022年2月13日日曜日

世襲政治は民主主義の墓場

 世襲議員の数は、民主主義の成熟度を測るバロメータではないか。こう思うようになったのは、フィリピンでは、「今も国会議員の8割が世襲とされる」(「ドゥルテを慕った先に」、朝日新聞『GLOBE』2022年6月6日)ということを知ったからだ。
 それでは、日本ではどうか。「朝日新聞の調査では、前回2017年衆院選(定数465)で自民党当選者の約3割にあたる83人が世襲議員。希望の党(当時)は7人、立憲民主党は4人が世襲議員だった。岸田文雄首相も父、祖父が衆院議員の経歴を持つ。2000年以降で首相を経験した11人のうち、岸田氏をはじめ計7人が世襲議員だった」という。首相を経験者の64%が世襲議員だったことになる。
 日本経済新聞(20211017日)記事<衆院選「地盤・看板・カバン」の壁 世襲候補は8割当選>では、世襲なし候補の当選割合が30%に対し、世襲候補は8割も当選している現実を取り上げ、そのような結果になるのは、世襲候補が選挙に有利な条件「地盤・看板・カバン」を引き継いでいるからであることを示している。
 日本国憲法第四四条は、「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」である。世襲は「門地(家柄・家格)」に該当するであろうから、憲法違反ではないだろうか。事実、憲法絵本生きる!生かせ!日本国憲法』(橋本勝[絵と文]、共栄書房、2009年)にも、「日本の政治は身分制?これは憲法違反ではないかと思う」(p30)と書かれている。そして、「世襲政治は民主主義の墓場なのだ」で結ばれている。だからこそ、この問題をこれからも問題視していきたい。

([衆院選「地盤・看板・カバン」の壁 世襲候補は8割当選]より)






2022年2月12日土曜日

日常を言祝(ことほ)ぐ

 2022年2月8日放送のNHK「先人たちの底力 知恵泉」は、「大田南畝 豊かに生きる働き方を!」だった。この放送で、江戸時代後期に「狂歌」が爆発的な社会現象となったことを初めて知った。浮世絵や歌舞伎とともに化政文化を代表する「狂歌」人気は、下級武士である大田南畝の副業から始まった。武士の仕事のかたわら、趣味で始めた「狂歌」が大ブームになり、副業として収入を得るまでになったという。


 大田南畝は、初めは仲間と集まって「狂歌」を楽しんでいたが、やがて、『千載和歌』に習って『万載狂歌』という本にして出版する。ところが、そこで終わらず、今度は、「よきことを/思い出せば/あかつきに/ねられぬ老も/めでたかりけり」といった「狂歌」を集めて『めでた百首夷(えびす)歌』を出版する。これが素晴らしい。前に「臨場感たっぷりの浮世絵」で紹介した月岡芳年の「月百姿」や歌川広重の「名所江戸百景」というシリーズ絵に匹敵する快挙である。日常の全てを、しかも一見暗い、後ろ向きになりがちなことも、決して「めでたい」とは思えないようなことでも、「めでたき・・・」と詠んでしまうことが、なんという独創であろう。 
 しかもこの時代は、「天保の大飢饉」「浅間山の大噴火」などもあって、決して明るい世の中ではなかったらしい。それな日常を「言葉の力」だけで、明るいものにしてしまった。逆に、そんな世の中だったからこそ、せめて言葉だけでも、明るく振る舞ったのかもしれない。
 そういえば、江戸城内の倉庫に保管されていた書類の整理を任された時、着々と単調な作業をこなしながらも、仕事の合間の息抜きだったのか、「五月雨の/日もたけ橋の反古調べ/今日もふる帳/明日もふる帳」などと詠んでいた。





2022年2月11日金曜日

四つの交換様式に対応した倫理思想

 倫理といったら、人倫の思想と言って人間の本質と同じく、時代にが変わっても変わらないものと思ってきた。いつの時代であっても、虐げられたり、蔑まされたりすれば、嫌である。嫌なものはいつの時代でも嫌なのだ。そう思ってきた。しかし、和辻哲郎さんの「日本倫理思想史」の輪郭を知って驚いた。時代によって、倫理観も変わっているからだ。具体的には次の通りで、神話時代から明治時代まで詳しく研究されている。
「日本倫理思想史 上 緒論 第一篇 神話伝説に現れたる倫理思想 第二篇 律令国家時代における倫理思想 第三篇 初期武家時代における倫理思想 第四篇 中期武家時代における倫理思想」 『和辻哲郎全集・12巻』
「日本倫理思想史 下 第五篇 後期武家時代における倫理思想 第六篇 明治時代の倫理思想」『和辻哲郎全集・13巻』
 このことを知って、これとの関連で柄谷行人さんの交換様式論のことを思い出した。人間社会には、ABCDの四つの交換様式が存在し、「歴史の大筋は、交換様式Aが支配的な交換様式である社会(氏族社会)から、Bが支配的である社会(国家、帝国)を経て、Cが支配的な社会(資本制社会)に至る。そして、Dが支配的な交換様式であるような社会」(『戦後思想の到達点:柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』、柄谷行人著NHK出版、2019年、p19)に向かっていくことになる、というものだ。倫理思想も、四つの交換様式に対応したものが存在し、それぞれの交換様式を支えているのかもしれない、と思った。そして、ニーチェが目指した「超人」や、カントが目指した、啓蒙によって「未成年の状態」から抜け出した状態が、交換様式Dに対応した倫理状態になる、と。

2022年2月10日木曜日

俗人は既成の道徳律に縛られた奴隷

 このブログ<目指せ!「超人」>は、ニーチェの思想でいうところの「超人」を目指しているわけだが、それにしては、ニーチェの思想の理解が進んでいない。立花隆さんによると、「ニーチェというのは、二〇世紀思想の最大の源流の一つで、それを知らずして二〇 世紀思想は何も語れないというたぐいのもの」だというが、それほどのものという認識は、今までなかった。それでも、ニーチェの思想に共鳴し、その思想を真に学びたいと思ってきたことは間違っていなかったようだ。
 最近注目している日本の思想家和辻哲郎さんもニーチェの思想を研究し、「ニ-チェ研究 序論 本論第一新価値樹立の原理 本論第二価値の破壊と建設」(『和辻哲郎全集・1』)といった業績を残している。ニ-チェの著書から学ぶのも良いが、日本の思想に詳しい研究者による研究書から学ぶことも必要であろうと考えている。良き先輩の導きがあればこそ、真のニーチェの思想の理解が進むと思うからだ。
 さらに、カントの研究も、ニーチェの思想の理解を助けるに違いない。二人に共通する点を見出したが、二人に共通する点があるということは、それだけ、その点には普遍性があるということになる。ニーチェによると「人間とは乗り超えられるべきあるものである」(『ツァラトゥストラ』、手塚富雄訳、中央公論社)。そして、

 乗り超えられる凡庸な俗人は「最後の人間」(der letzte Mensch)(手塚はこれを「末人」とするが、これは取らない。同様に高等な人間=der letzte Menschを手塚は「高人」とするが、これも取らない)と言われます。
 要するに、ニーチェとって、世間一般の俗人は、既成の道徳律に縛られた奴隷であり、家畜の群れのような存在であり、侮辱と軽蔑の対象でしかないない存在だとされます。 現在は、そういう卑しむべき連中が支配的になろうとしている時代だと。(『サピエンスの未来 伝説の東大講義 講談社現代新書 立花隆著、講談社、p 282〜283)
 ニーチェが「最後の人間」あるいは「末人」といったのに対しカントは、『啓蒙とは何か』の中で、「未成年の状態」といった。啓蒙とは、人間が自ら招いた「未成年の状態」から抜け出ることだという。つまり、「人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる」(カント著『永遠平和のために/啓蒙とは何か』)。カントがいう「未成年の状態」から抜け出ることで、ニーチェの言う「超人」になることができる、と言えるのではないだろうか。

2022年2月9日水曜日

九条は地球の未来をも救う

 日本国憲法条がありながら日本は、世界有数の軍事力を持つ国になってしまった。そんな自衛隊の存在に対し、「現実に憲法に反することを、憲法に従うと言いくるめるような状態は異常であり」(『柄谷行人<戦前>の思考』、p202)という意見を、「最高法規条項を無視する異常」の中で紹介した。同じような「これほど頬っかむりしていられる国というのは、ほかにはない」という意見が『朝日ジャーナル』にもあった。
 憲法第九条ってものがあって、私たちは平和憲法を持っているから大丈夫だということであまりにも安心し過ぎてきたと思う。ところが、そのかたわらでもって世界第ハ位の軍備を持つに至っている。いろんなことにこれほど頬っかむりしていられる国というのは、ほかにはないのではないか。(『朝日ジャーナル』、1980, 10,24、p14)
 よく考えれば、「憲法に反することを、憲法に従うと言いくるめる」ようなことは、人を馬鹿にした話である。平気な顔をして「白を黒」と言いくるめるようなものだからである。国民を騙し、世界をも騙してきたことになる。戦闘機一つとっても、これを戦力でないというならば、はっきりいって「嘘」であろう。それだけでない。論理的な矛盾もある。もし、「戦力でない」が真実ならば、防衛力には役に立たないから、もつ意味がない。もつ必要がない、ということになる。
 私は、国をあげて嘘をつくと押していたら、青少年の教育にも、悪影響を与えるであろうことを心配する。だからと言って、条を変えればいいというのではない。条の精神を改めて世界に宣言し、併せて、徐々に自衛隊を縮小していくことを宣言するのである。
 そうすれば、必ずや世界から祝福と賛意の声が殺到するであろう。そんなことはない、という声も、もちろん認める。だが、憲法九条の精神が地球の未来をも救うであろうことを考えると、やはり、世界からの、祝福と賛意の声が殺到することは間違いない。

2022年2月8日火曜日

世界は破局に向かっている?

 いまだに国家間の軍事的緊張が止まない。いや、むしろ拡大しつつある。アジアだけでなく、ロシアと米国が、また睨み合い始めたからだ。そうしたニュースが、何の危機感もなく、淡々と流され、そうしたニュースにも慣れっこになりつつあるのではないか。誰もが「二度と戦争は嫌だ」と思いながらも、だからと言って、その問題を本気に考えるでもない。
 しかし、人類の課題として、「戦争」の問題を避けて通れない。世界は破局に向かっていることに、その警鐘に耳を澄まして気づかなくてはいけない。まずは、評論家・柄谷行人さんの警鐘を聞いてみる。「国家と資本を統御しないならば、われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません」というのは間違いない。まずは、この危機感の共有から始まって、ここで述べられている方法だけでなく、あらゆる対策、考えられるあらゆる対策を講じていかなければならないであろう。
 人類はいま、緊急に解決せねばならない課題に直面しています。それは次の三つに集約できます。
1、戦争
2、環境破壊
3、経済的格差
 これらは切り離せない問題です。ここに、人間と自然との関係、人間と人間の関係が集約されているからです。そして、これらは国家と資本の問題に帰着します。国家と資本を統御しないならば、われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません。
 これらは、一国単位では考えることができない問題です。実際、そのために、グローバルな非国家組織やネットワークが数多く作り出されています。しかし、それが有効に機能しないのは、結局は、諸国家の妨害に出会うからです。資本に対抗する各国の運動は、つねに国家によって分断されてしまいます。
 では、どのように国家に対抗すればよいのでしょうか。その内部から否定していくだけでは、国家を揚棄することはできない。国家は他の国家に対して存在するからです。われわれに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということです。たとえば、日本の憲法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方法はありません。
 各国における「下から」の運動は、諸国家を「上から」封じこめることによってのみ、分断をまぬかれます。「下から」と「上から」の運動の連係によって、新たな交換様式にもとづくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)が徐々に実現される。もちろん、その実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくとも、その道筋だけははっきりしているからです。(『世界共和国へ:資本=ネーション=国家を超えて』、柄谷行人著、岩波新書、2006年、p 224〜225)

2022年2月7日月曜日

億の幸福の相犯さない共存

 最近、三人の思想家に注目し、追いかけている。見田宗介さん(『現代社会はどこに向かうか』『社会学入門:人間と社会の未来』など)、柄谷行人さん(『憲法の無意識』『戦後思想の到達点』など)、和辻哲郎さん(『甦る和辻哲郎 人文科学の再生に向けて』『和辻哲郎 異文化共生の形』など)の三人だが、三人には、共通する未来社会論のようなものがあるのではないか、と考えるようになったからである。
 今回は、見田宗介さんの未来社会論を『現代社会はどこに向かうか』から要約してみる。

 新しい世界を創造する時のわれわれの実践的な公準は、第一に肯定的であるということ。第二に多様であること。第三に現在を楽しむことである。
 「第一の肯定的であるということは、現在あるものを肯定する、ということではない。現在無いもの、真に肯定的なものを、ラディカルに、積極的に、つくりだしてゆく、とその中で桎梏となるもの、妨害となるもの、制約となるものがあれば、権力であれシステムであれ、この真に肯定的なものをこそ力とし、根拠地として、打破し、のりこえてゆくということである」(p153)。
 第二の多様性について言えば、宮沢賢治の詩稿の断片に、このような一節がある。
 ああたれか来てわたくしに言へ/「億の巨匠が並んでうまれ、/しかも互に相犯さない、/明るい世界はかならず来る」
 と。
 われわれはここで巨匠の項のコンセプトに、幸福をおきかえてみることができる。
   億の幸福が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る。
 と
 明るい世界の核心は、億の幸福の相犯さない共存ということにある。
 第三の現在を楽しむことは、「新しい世界をつくるための活動は、それ自体心が躍るものなければならない。楽しいものでなければならない。その活動を生きたということが、それ自体として充実した、悔いのないものでなければならない。解放のための実践自体が解放でなければならない」(p 155)。
 私は、第三が特に重要で、見田さんの独創ではないかと考えている。ややもすると、明るい未来のためには、多少苦しいこと嫌なことがあっても仕方がない。「苦ありて楽あり」なのだ、といった考えがほとんどに思えるからだ。「解放のための実践自体が解放でなければならない」という思想の源流があったら教えて欲しいものである。

2022年2月6日日曜日

文化力、科学力で尊敬される日本に

 国防に軍備は必要というのが一般的であり、その論拠の一つに、「攻められたらどうする」という疑問を挙げる人が多い。それに対して私は、国防で最も大切なことは軍備ではなく「世界から尊敬される国創りにあると思ってきた。世界から尊敬されるようになれば、友好の手を差し伸べてくる国はあっても、軍事力を持って攻めてくるような国は無くなってくるに違いないのだ。美輪明宏さんも、同じように「戦争を避けるには尊敬されていなければいけない」と次のように述べている。 

 これからの日本の進むべき道は明らかです。いかに戦争を避けていくか。日本は資源もないし、武力もない、文明力もないし、財力もないわけだから、これから生きていくためには”外交力”が大切です。外交力で戦争しないでいくこと。それにはまず尊敬されていなければいけないでしょう。(「 文化を回復して尊敬される日本に」『中央公論』1915年9月号、p107)

 このような自明のことが、なぜ、少数意見で終わってしまうのか。それは、国を挙げて、対立勢力、いわゆる”敵”を作り上げており、対立構図が作り上げられているからだ。戦時中に、負けているにもかかわらず、真実は伝えられず、勝った勝ったと喜んだりしていた。それと大差はない。
 ではどうすればいいのか。やはり、真実を知り、その真実を何度でも語っていくしかない。幸い、まだそれだけの自由がある。今うちに、真実を語り続けよう。

2022年2月5日土曜日

最高法規条項を無視する異常

 江戸期を過ぎて近代に入った頃、西洋思想にならって自然との対決を望むようになってきた。それが今日の日本人の姿勢となった。今こそ「人間中心の奢りをやめ、自然破壊の動きを止めなければ、この人類絶滅への愚かな動きを何としても止めなければ、とあがく毎日だ」(96歳堀文子『サライ・2015年6月号』。この人類絶滅への愚かな動きは、自然との対決だけではない。国家間の争い、つまり、戦争行為が加わり、その速度を加速させているのだ。
 今日本は、大きな転期を迎えている。70年間戦争してこなかった国から、戦争できる国へ、転換しようとしているからだ。なぜ、このようになってしまったか。それは、日本国憲法では、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言しておきながら、世界有数の軍事大国にしてしまったからである。この件について柄谷行人さんは、このような状態を「 現実に憲法に反することを、憲法に従うと言いくるめるような状態は異常であり、外国に通用しないだけでなく、国内的にも危険です。憲法上存在しないはずの自衛隊が法律上存在するならば、憲法は何も決定しないことになる。法体系そのものが『決定不能』になる」(『柄谷行人<戦前>の思考』、p202)と書いているが、憲法9条に関して「あいまいで異常な状態」を許してきたツケが回ってきたというべきであろう。
 これでは、人類絶滅へ”まっしぐら”であることが目に見えている。それ以前に、最高法規である憲法の条項を、現実に無視されていても、なんとも思わない心理状態は、決していい訳がない。はっきり言って異常である。「異常であるにもかかわらず、異常と認識できないことが問題ではないか」ということだ。おかしいことはおかしい、と、一人でも言い続けていくことが必要なのかもしれない。

2022年2月4日金曜日

思考の道具としてのシンボル

 街を散策していると、溢れるばかりのシンボルがある。一番身近なのが道路標識であろう。そのほか数え上げればキリがない。そのシンボル化が脳の発達に欠かせなかったらしい。それどころか、「人間という生き物の特殊性の根源が、物事をシンボル化して表す能力にあった」「ヒトに特有のさまざまな能力がそこから派生してきた」(長谷川眞理子著、朝日新聞、1999年6月20日、書評、『ヒトはいかにして人となったか』、テレンス・W・ディーコン著、新曜社、1999年)という説があるというのだ。
 シンボル化とは、一種の抽象化でもある。多くの情報をまとめて表示することだからだ。と、ここまで買いてきて古代の洞窟に描かれた動物の壁画のことを思い出した。壁画もシンボルの一つであり、文字以前の情報伝達の、あるいは情報記録の一つの手段だったのではないか、と思えてきた。このことは何を意味するか?
 図解の一つのシンボル化である。文字情報を元に図解することもあるが、本来ならば、文字情報にする前に頭の中にあるものをシンボル化して、それを元に言語化するのが本来のあり方なのではないだろうか。つまり、思考の道具として、もっとシンボル化の過程を大切にするべきである。このことを、動物壁画は教えてくれている。そう思えてきた。
 ところで、芸術としての絵画も、一つのシンボルと考えることもできる。そう考えると、絵画鑑賞の仕方に新しい視点を加えることができそうである。「臨場感たっぷりの浮世絵」で紹介した浮世絵は、全くのシンボルである。一つの物語を一枚の絵にしたものだからだ。待てよ。ピカソの「ゲルニカ」だって、大きなシンボルといえよう。本当にそうだ。絵画もシンボルだったのだ。

2022年2月3日木曜日

学ぶことこそ社会の礎

 前にビックバン以前の宇宙は?」の中で『朝倉物理学大系第六巻』からの引用を紹介したが、立花さんは『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(立花隆著、文芸春秋、2003年)で、このような一般の人が手に取ることがないような本を紹介していた。
 『読むことの歴史:ヨーロッパ読書史』(大修館書店、六〇〇〇円)も、そうした一冊で、「書き能力の普及、読むことへの熱狂」が、やがては、フランス革命に影響を与えることになるという解説は、読書が社会において、いかに大きな役割を果たしてきたかを物語って興味深かった。
 近世、近代になるにつれ、読書はますます社会において大きな役割を果すようになる。読み書き能力の普及、読むことへの熱狂が、やがてビラや新聞という大量出版物を生む。男性の半分、女性の三分の一が文字を読めるようになってフランス革命が起る。
 近世以前の読書は、大半が宗教と結びついていたが、十八世紀に起きた読書革命によって宗教の優位性はあっという間にくずれ、文化は全面的に世俗化の道を歩みはじめる。

     似たようなことが、朝日新聞コラム「(ひと)官沢治郎さん 沖縄で学習塾を立ち上げた元外交官」(202223)の中にあった。官沢治郎さんは、2009年に外交官としてアフガニスタンに赴任したとき、タリバン政権のくびきから解かれた国で人材を育てるための学校建設に奔走し、「学ぶことこそ社会の礎だ」と確信したというのだ。社会人による読書は、生涯学習における学びの一環である。読書活動も、社会の礎となり得るのではないだろうか。
     それでは、学びの前提は何であろうか。
     それは、やはり学問の自由であり、出版や表現の自由であり、集会や結社の自由であろう。学びに「学び合い」が欠かせないし、伸び伸びとした表現の自由も欠かせないからだ。だからこそ、政治的自由も必要になってくる。そういう意味では、戦前から比べれば現代社会は、革命的な進歩であり、自由の拡大だった。この事実一つとっても、間違っても、戦争のやりやすい戦前に回帰するような憲法の改悪を許してはならない。

    2022年2月2日水曜日

    地球が発する悲鳴

     詩を読むのも好きだが、ときどきしも創ってきたので、創作誌もたまには載せることにした。

    地球が発する悲鳴

    平和のための戦力であり、核兵器だ!
    核抑止力のため、平和なんだ!
    だからこそ、
    自衛隊も、米軍基地も必要だし、
    核禁止条約にも反対する。

    待てよ!
    本当に、平和が保たれているの?

    平和憲法の下でも、
    湾岸戦争、イラン戦争、アフガン戦争など、
    世界のどこかで、戦禍が絶えなかった。
    米国だけでなく、
    世界で、
    戦死者が絶えなかった。

    それでも、
    平和が保たれている、
    って言えるのか!

    宮沢賢治は言った。
    世界がぜんたい幸福にならないうちは
    個人の幸福はあり得ない、と。

    戦禍のたびに、
    地球が発する悲鳴が聴こえる。

    痛ましい地球の傷口を、
    これ以上、
    増やさないで!

    2022年2月1日火曜日

    臨場感たっぷりの浮世絵

     日曜美術館「激動の時を生きた浮世絵師 月岡芳年」(2022/1/30)を見た。幕末、維新の動乱を生き抜き、明治の世に浮世絵の最後の華を咲かせた絵師で、半世紀ほど前血みどろ絵と呼ばれるむごたらしい作品で脚光を浴びたが、近年、アニメにも通じる迫力や情感あふれる作品も着目され、本の出版や展覧会が相次いでいるという。私は、掛け軸の絵のような縦長の画布に描くことによって独特の効果を出しているアイデアと、「月百姿」の随所に見られるアイデアに惹かれた。



     例えば、ここまでの絵では、何のことかわからない。実はこの絵は、仲間と共に平家討伐を企て捕らえられたが、仲間二人は許されたのに俊寛だけ許されず、島に取り残されたところが描かれている。仲間が帰っていく船が小さく描かれ、縦長に描かれたことで、断崖絶壁に立っていることが臨場感たっぷりに描かれている。
     「月百姿」の絵は、”畳に映った月あかりによる松の影”や、”波に映った月の光”など、風流とも言えるアイデアが素晴らしい。歌川広重の『名所江戸百景』というシリーズ絵もあるが、やはり、百景も集めると、それなりに迫力がある。それにしての、絵も”アイデアがものをいう”と、つくづく感じ入った。