「行動の先に希望がある。行動を続けることで未来は切り開かれる」(サルトル) 「人間は進化する存在。今の自分を超えて、創造的であり続ける『超人』を目指せ!」(ニーチェ) こうして社会に発信するというささやかな行動を通じて、一歩でも二歩でも、未来を切り開いていける存在でありたいです。
2021年12月31日金曜日
真に富める小さな部族ピダハン
見田宗介さんは、彼らの<現在>とは、どのようなものであろうか、と問うていたが、ここでは、その問いはおいておく。大切なことは、未来を待たなくても、<現在>に満ち足りて生きることができるという実例を見せてくれたことであろう。ただ一つだけあげれば、彼らが「この地上において富める者たちであるのは、彼らが<交歓>の対象としての他者たちと自然たちという、枯渇することのない仕方で、世界を所有しているからである」(上同、p101)。ここでいうところの「枯渇することのない仕方」というのがキーワードのような気がする。
クリスチャンのダニエル・エヴェレット氏は、一九七七年から二〇〇六年まで二十年近くの間、宣教師/言語学者として、アマゾンの小さな部族ピダハンの人たちと一緒に生活した記録を著書『ピダハン』(みすず書房、2012年)として出版している。彼らの生活には、斉藤幸平氏が主張している<コモン>ともリンクしている部分があるような気がして、読むのが楽しみである。
2021年12月30日木曜日
ヨーロッパ世界の精神?
現世に何の歓びも見いだすことのできない民族が、生きることの「意味」のよりどころとすることができるのは、ひたすら「未来」における「救済」の約束、来るべき世に「天国」があるということ、現在われわれを迫害し、富み栄えているものには「地獄」が待っているということ。現世に不幸な者たちの未来には天国があるということ。そのような決定的な「審判」の日が必ずあるという約束だけだった」(『現代社会はどこに向かうか』、p 97)。マルクスの思想も、結局は共産主義社会という未来社会に向かっている。資本主義社会では、有限な地球に存在している社会で富み栄えていくには無理がある。破局が待っている、と決定的な「審判」の心配がなされている。私が昔抱いた疑問というのは、そうした思想に対し、未来ではなく、今、現生における歓びを約束する思想があってもいいのではないか、という疑問だった。
こうした問いは、そう簡単に解けるようなものではない。しかし、『現代社会はどこに向かうか』において、近代に至る「局面を現実において圧倒的に指導した」「ヨーロッパ世界の精神」(上同、p96)の問題を詳述した本として、「真木悠介『時間の比較社会学』現代岩波文庫、2003年、第三章」の紹介があった。よく調べてみたら、『人間解放の理論のために』(真木悠介著、筑摩書房、1981年))という本の存在もわかった。これらの中に「解」、あるいは「ヒント」があるんじゃないか、と、新たな「未読の楽しみ」ができた。
2021年12月29日水曜日
”私の『ゲルニカ』”になった日
これまで何度も『ゲルニカ』を観てきたが、今回は、新たな発見があった。光が右下の方へそ差し込んでいるように見え、二人の女性が光(希望)に向かっているように見えたことである。この作品が、多くのモノクロトーンによって描かれていることを知ったからかもしれない。
そして、最後に、ピカソの含蓄ある言葉「絵は見る人によって初めて生命を与えられる」「牛は牛、馬は馬だ。鑑賞者は結局、観たいように見ればいいのだ」があった。この言葉の通り、私は、この絵から希望を感じ取ることができた。それで初めて、私の『ゲルニカ』になったような気がした。そうだ。今日は、ピカソの『ゲルニカ』が、”私の『ゲルニカ』”になった日だ。
2021年12月28日火曜日
戦争とは唾棄すべき野蛮
今日読んだところには、「進み遅れた残酷な人間」(傍点部分を下線で示した)というのがあった。「 今日にあって残酷な人々は、残存している前代の文化の諸段階とみなされねばならぬ。人類の山脈は他では隠されている深い地層のありさまをここで一寸あらわに見せているのだ」(No.43)という。「進み遅れた残酷な人間」が「未発育の知性」の人間のことを指しいるかどうか、は知らない。しかし、似たようなものに違いない。
このような人間の存在を認めると、現代社会において、「敵基地攻撃能力の保有を!」などと声高に叫んでいる人たち、核禁止条約の批准に背を向けている人たちが、みな「進み遅れた残酷な人間」に見えてきてしまう。 次のような言葉に真実味があるからだ。
武器は不自然・・・戦争は非人間的・・・戦争は到底支持できない・・・戦争はおぞましいケダモノ・・・戦争は愚行。(『三ギニー:戦争を阻止するために』、ヴァージニア・ウルフ著、片山亜紀訳、平凡社2017年、p 18)
戦争とは唾棄すべき野蛮です。(上同、p 23)
2021年12月27日月曜日
安保法成立6年憲法と民主主義無視続く
2021年9月19日の東京新聞が、「安保法成立6年 野党の廃止法案審議されず、政府は既成事実化」という記事を書いていた。この記事を読んで、「野党はこれまで廃止法案を提出してきたが、与党は審議を拒否。国会で十分に議論しないまま、政府は適用実績を積み重ね、既成事実化を進めている」ということを知った。正規の手続きを経た野党の国会開催要求も退け、どれだけ憲法と民主主義というものを無視しようとするのだろうか。
東京新聞社で撮影したという国会前に集まったデモ隊の写真から安保闘争のことを思い出した。同じようにデモ隊が国会に押し寄せ、国会も紛糾する中で強行採決された。強行採決は、言論の言論の府での最たる暴力と言ってよい。悪法の数々が、こうした暴力によって成立してきたことを思うと、その力の根源を問わずにはおれない。
その根源というのは、資本主義社会に貫いている人知を超えた力である。人知を超えたものといえば、神ということになる。戦時中、現人神として大きな力を発揮したことは記憶に新しい。資本主義社会に貫いている人知を超えた力というものは、そういうものではない。マルクスは、そうした力を物神性と言った。商品というものが、「人間から独立して人間と対立し、人間を支配する」(『社会科学辞典』、社会科学辞典編集委員会編、新日本出版社、p 163)というのだ。
政府は、「敵基地攻撃」能力を持てるように、そうした兵器を持とうとしている。確かに、これは政府の用人によって、あるいは役人の意志によるものだ。しかし、その背後に米軍による力が、アメリカ政府役人の意志が働いている。この場合も、背後に控えている力がある。兵器産業の面々の意志である。ここで、兵器という商品の物神性が大きな力となって人間を支配し始める。だからこそ、この力を侮ってはいけないのであり、人間が束になって抗っていかないといけないのだ。
(安保法案に反対し、国会議事堂正面の道路を埋め尽くし廃案を訴えるデモ参加者=2015年8月30日、東京・永田町、東京新聞社ヘリ「あさづる」から)2021年9月19日東京新聞より
2021年12月26日日曜日
今だから、日本国憲法
そういえば、『今だから、日本国憲法』(盛泰寛編著、雑誌『湧』、1988年増刊、地湧社)も、解説の順番が正規の順でなかったことを思い出し、調べてみた。 こちらは、大きく、1、憲法の精神。2、国会、内閣、司法。3、財政、地方自治、天皇」の三つに分けられ、 前文なしで、いきなり「最高法規」の条文となり、続いて、「平和主義」の条文、「国民主権」「国民と国籍」「改正の手続き」「抵抗権」「個人の尊重」「平等主義」・・・、となって、天皇の条文は最後だった。
2021年12月25日土曜日
日本をいい国にするために
このところを読んで、その実例とも言える内容の手記を思い出した。 「大学を定年退職して自由になったときに、最初にやりたいと思ったことは、生を卒業する前に、若い時からの自分の仕事の全体を、生涯をかけたモチーフの一貫性が明確となるような仕方で、一編の『全体小説』のような全集として編集しておくということだった」(『定本見田宗介著作集 10』、岩波書店、2012年、p190)。見田宗介さんにとっての人生の総決算は、『定本見田宗介著作集 』全14巻として結実したことになる。誰もがこのような立派な総決算をできるわけではないが、人それぞれの、個性豊かな総決算ならできそうである。
美輪さんはまた、日本をいい国にするためには、「きちんと歴史を見て、理性的に分析し、守るべきものは守っていく。そうすれば日本はきっと、この先、いい国になると思」うと述べていた。誇るべき歴史の例として、『鳥獣戯画』『北斎漫画』『からくり人形』をあげ、これらは世界を席巻しているアニメや漫画、そしてロボット技術の原型と言えると言っていました。日本には、このような世界に誇れる文化があるように、日本国憲法も、世界に誇れる文化財でもある。そのことに多くの人々が気づいていけば、本当に日本は、いい国になるに違いない。
2021年12月24日金曜日
作品が語りかけてくれるもの
それは、頭の中でははっきり見えている。作品が無言で語りかけてくれているのだ。ただ、まだ言葉になっていない。強いて言葉にしてみると、「”テーマ”か”主題”に沿った言葉を集めることで見えてくるものがある」となった。どんなテーマかというと、「戦力で守ることなどできない日本」「民主主義というものの姿」といったことが頭の中にイメージとしてあった。芸術作品が、頭の中にあったものを引き出してくれた、という感じがする。
2021年12月23日木曜日
毎日があたらしい
雑誌『暮しの手帖』(2021年6月~7月号)に「毎日があたらしいから」という、舘野泉さんについての取材記事(渡辺尚子文)があった。舘野泉さんの生きる姿勢に惹かれる。
5歳でピアノを始めてから
84歳の今に至るまで
舘野さんの想いは変わらない。
だから毎日全身で弾くのだ
朝起きて、ピアノの前に座って鍵盤に触れる。そのたびに舘野さん「ああー俺は生きているんだな」と思う。ピアノの音が立ち上がる瞬間、あたらしい一日が生まれてくる。
毎日ピアノの練習を欠かさない。気持ちが乗らない日もあるが、休まず弾く。うまくできず、打ち込む日は「今日はここまでだ」と考え、何日かおいて同じ課題に取り組む。 そうやって繰り返すと、ステージで、自分も知らなかった音が鳴る。(『暮しの手帖』、2021年6月~7月号、p6〜7)
常に手元にあるのは『若く逝きしもの』、フィンランドを代表するノーベル賞作家シッランパーの小説だ。舘野さんは高校生の時に偶然、近所の古本屋で見つけた。若く貧しい娘が死の床につきながらも、最後までおのれを生きようとする気力を失わない。その姿に生きる誇りを感じ、折々に読みかえしている。(上同、p9)
2021年12月22日水曜日
説得によって成り立つ民主主義
強行採決といえば、60年の安保改定で盛り上がった安保闘争の発端も、強行採決ではなかっただろうか。議会における強行採決は、自民党の御家芸になってしまったのだろうか。どちらにしても、半世紀近く、こうした事態が放置されてきたということは、ある意味主権者の怠慢でもあったのかもしれない。
なぜだろうか。明らかなことは、強行採決された時は盛り上がっても、じきに忘れ去られてしまったことであろう。だとしたら、その時のことを、その部分に限って、つまり、わかりやすく編集して記録し直せばいい。安保闘争の記録はたくさんあるにしても、その記録が膨大になれば、余計にわかりにくくなってしまうからだ。さらには、強行採決に限らず、議会における反民主主義的事項を炙り出していく必要もありそうだ。
2021年12月21日火曜日
群のなかに埋没すること
例えば、全体主義について、全体という「群のなかに埋没することは、暴力、そして専制への屈従に合意すること」「それは人間の管理を引き受けるものであり、一方、人間のほうでも、自らそれによってすっかり自由を奪われてしまうにもかかわらず、何か自分自身の不可解な道行で、それを許容するだけでなく、受容をしてしまうような機構」(『優しい語り手』、p 69)とあり、エリアス・カネッティの『群衆と権力』 は、このような「全体主義理解の助けになりますが、これは、現代資本主義世界の記述としても、見事に通用します」(同、p 69~70)という。つまり、全体主義についての記述なのに、現代資本主義世界の記述としても見事に通用する、というのだ。
全体主義とは、考えようによっては民主主義の対極に位置する概念である。したがって社会が民主主義から遠ざかるほど、全体主義に近づくことになる。強引な辺野古への米軍基地建設は、半民主主義の極みと言って良い。そこへ、民主主義的な手続きを経て選出されたにもかかわらず拒否された、日本学術会議の任命拒否問題である。こうした事例でも明らかなように、日本は、より強固な全体主義に向かって突き進んでいると言って良い。改憲の動きも、こうした全体の過程の一環として捉えるべきであろう。
2021年12月20日月曜日
腸内環境を整え、免疫力UPを!
なんとこの本は、表紙だけで、その要点がわかるように、表紙に円グラフまで示して説明されていた。しかし、これが万人に適した方法だとは思えなかった。何よりも、書かれている内容に信憑性にかけるところがあったからだ。
2021年12月19日日曜日
日々「人間の尊厳」が脅かさて
2021年12月18日土曜日
人間的な、あまりに人間的な
結局、ニーチェがここで言いたかったことは、当時の社会の圧倒的に大多数の者は「悪い趣味を持った未発育の知性」の持ち主ではないか、ということではないだろうか。そして痛感したのが、「今の社会も、当時とあまりあわらない」のではないか、ということである。なぜなら、あれだけの悲惨な戦争を経ながらも、いまだに軍事力に固執している原因が、「”未発育の知性”が圧倒的に優勢だからではないか」と思えるからだ。
まずい著作者はなくてならぬ。 —— いつにしてもまずい著作者はなくてならないだろう。なぜなら彼らはまだ発育していない未熟な年輩の者の趣味に合うからだ。 こういう連中も成熟した人たちと同様に彼等独特の欲求を持っている。もしも人間の生命がもっと長いものなら、成熟した個人の数が優勢になるか少なくとも未熟者の数と同じくらいになることだろう。 ただ事実は圧倒的に大多数の者が若すぎるうちに死ぬ、つまり悪い趣味を持った未発育の知性がいつもはるかに多数を占めているのだ。こういう人たちはその上若さに特別の一層激しい性急さで彼等の欲求の満足に渇望する、そして彼等はまずい著者たちを無理やりわがものにする(傍点部分を下線で示した)。(No.201)
2021年12月17日金曜日
自由と魅力性による勝利
1、見田宗介著「人間がようやく地上に“天国”を実現する段階に達した感じがします」『週刊プレイボーイ』、2012年3月19日号
2、「二〇世紀末思想地図」「現代における不幸の諸類型」『定本見田宗介著作集 5』
3、「近代の矛盾の『解凍』」『定本見田宗介著作集 6』
4、「人間と社会の未来」「コミューンと最適社会」「ユートピアの理論」『定本見田宗介著作集 7』
5、「未読のたのしみ」「社会主義の崩壊の後に力をもつ『古典』」「書くことと編集すること」『定本見田宗介著作集 10』
2021年12月16日木曜日
なぜ芸術家に長寿者が多いのか
大脳生理学医よれば、意欲は大脳の前頭葉に関係しているようで、強い意欲が前頭葉を発達をもたらし、逆に、そうして発達した前頭葉の働きが意欲の元になっている。前頭葉は新皮質にあり、生命維持に直接関係しているの旧皮質の脳である。ということは、前頭葉に発達が健康を左右しているとは考えにくい。しかし、体の運動が脳の血行にも関係しているように、脳の新皮質発達が、旧皮質の発達に影響を与えるであろうことは十分に考えられる。
脳の構造でわかるように、生命維持に直接関係しているの旧皮質は、あたかも大脳に守られているかのように、脳の中心部分に存在している。こうした構造からも、単なる類推に過ぎないが、前頭葉の発達、刺激が、大脳全体に影響を与え、大脳全体の発達、刺激が、旧皮質の脳に、長命をもたらしている、と想像できる。このようなことが、「芸術家に長寿者が多い」と言われる所以であろう。
2021年12月15日水曜日
肝心なことは死に食われぬこと
偶然に、雑誌『サライ』の「サライインタビュー」を読んでいて、死にまつわる言葉を見つけ、心に残った。『魔女の宅急便』の著者角野栄子が、「83歳、まだまだ書き続けますね」と問われ「好きだから書く。それ以上のことはありません」(『サライ』、2019年1月号、、p20)と答えていたのだ。この姿勢、この生き方こそ、”死に食われぬ”ということであろう、と納得することができた。
これまた、「サライインタビュー」で、画家の千住博さんが語っていたことを思い出した。 「何を大事にすればよいのでしょう」と問われて、「プロセスです。例えば武道で考えると、剣道も柔道も勝てばいいというわけではない。柔道では試合の途中で道衣が乱れると、中断して直します。勝ち負けよりプロセスを大切にする。それが"道"であり、すなわち生き方の問題なのです。これはアナログの世界だと思います。デジタルの0と1の世界だけでなく豊かなグレーゾーンを持つこと、それが奥行きのある文化の内実でもあります」(『サライ』、2022年1月号、、p79)と答えていたのだ。
なぜ、千住博さんの言葉を思い出したか、「生は、”死に向かうプロセス”」と考えることもできるのではないか、と思ったからである。プロセスが良ければ、死など、なんともない。柔道の結果が勝っても負けてもサバサバしているようなものではないか、と思えたのだ。
2021年12月14日火曜日
100分de名著 マルクス“資本論”
まず、資本主義社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れること、だから、商品の分析から始める、と次のような名文でとく。
資本主義的な生産様式が支配的な社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品は、その富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの考察は商品の分析から始まる。その商品は、使用価値(時計なら、時間を測れるという価値)と、価値(他の商品と交換できるという価値)の二つの側面を持っている。で、この価値の大きさが問題になる。何が問題か?
それは、商品の物象化と言われるもので、この「商品の”物象化”」こそが、資本論の核心部分であり、資本主義社会の、そして現代社会の問題の核心である。そう感じた。「彼らは、この運動を制御するのではなく、むしろ、この運動に制御される」というときの彼らは人間のことだから、「人間が物に制御される」ということになる。つまり、物象化によって私たちの生活が大きく振り回される、ということでもあるのだ。それは、何を意味するか? 武器商人が悪者にされることもあるが、彼らも、結局、武器という商品に制御されているに過ぎない、とも言える。資本主義社会、商品社会が存続する限り、武器商品も拡大発展していく運命にある。そうなってしまう。
価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、行為から独立して、絶えず変動する。交換者たち自身の社会運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、むしろ、この運動に制御される。
商品が売れるか、売れないか、買えるか買えないかに人の幸福とか生活が大きく左右されてしまう。物が自分たちの生活を大きく振り回すようになってくるというこの逆転現象を物象化という。
2021年12月13日月曜日
全身全霊で音楽を弾く
雑誌『暮しの手帖』の「読者の手帖」欄を読んでいたら、ふと、片手のピアニストが書いた新聞記事のことを思い出した。それは、「音楽は不要不急ではない ピアニスト 舘野泉」という日本経済新聞(2021年12月5日)の記事だった。記事中の「2004年から左手だけで演奏するようになった。だが片手だけで弾くという意識は初めからない。やっているのは音楽。全身全霊で音楽を弾き続けているというだけだった」というところに、「一曲でも、こんな気持ちでピアノを弾けたらいいな」とメモしてあった。
実は、数年前にピアノを習ったことがあり、途中でやめてしまった。その後、せっかく弾けるようになったのに忘れてしまってはもったいない、と再度練習を開始し、また気に入った一曲を弾けるようになった。忘れてはいても、どこか覚えている部分もあるようで、その時は早めに弾けるようになって喜んだものである。しかし、また、いつの間にか弾かなくなって久しい。
こんな具合だったから、「全身全霊で音楽を弾き続けている」という言葉が身に染みたのかもしれない。今考えると、ただ、指を動かせるようになっただけで、音楽を弾く、音楽を楽しむところまで達していなかったから、途中でやめてしまった。そして、忘れても平気だったのであろう、と思うことができた。”三度目の正直”という言葉もある。また、練習を始め、音楽を弾くという感じがわかるまで、続けてみたいという気になった。
2021年12月12日日曜日
漠然とした不安は言葉とすべし
現代社会には、不安などさまざまな心の病が存在している。私自身、震災の時に息子の消息がわかるまで、不安で押しつぶされそうになったことがあった。 幸いにも職場で元気で働いていることがわかってから、徐々に心の具合も良くなってた。その時のことを思うと、消息がわからないまま現在に至っている人たちの心のうちを想像すると、その後どうしたのだろうか、と思ってしまう。
いずれにしても、不安といったものは、言葉で持ってカタチにすることで癒やされるという。精神科医の春日武彦さんが、自らの体験を交えながら、そう解説してあるのを見つけた。雑誌『暮しの手帖』(2021年11月号)の「あの人の本棚より」で『島尾敏雄作品集 第5巻』を紹介した文章がそれだ。「漠然とした不安が言葉となり腹に落ちることによって、解毒される」といった表現は、さすが精神科医だと思った。
僕は成育環境、特に母親へのねじれた感情が原因で、慢性的な不安を抱えて生きています。このマンションだって、リノベーションすることで家族の思い出を上書きし、不安を軽減しようとしたんだから、根が深い。特に学生の頃は、しんどくてしょうがなかっだの。悩んだ末に、いろんな本から不安の描写を探して、ノートに書き出してみました。そのときに一番多く引いたのが、高尾敏雄の作品集です。短編を集めた5巻が特に良くて、「捜妻記」なんて作品は実に心にしみる。一緒にいたはずの奥さんといつのまにかはぐれて、捜し回るうちに見慣れた風景が歪み、とんでもないものが見えてくる。シュールな展開が真に追っていて、著者は実際にこういう不安を体験したんだろうと思いました。小手先の技術ではない、言葉に対する誠実さが伝わる描写です。漠然とした不安が言葉となり腹に落ちることによって、解毒されるというのかな……。間違いなく、あの頃の僕を救った一冊ですね。(『暮しの手帖』、2021年11月号、p89)
2021年12月11日土曜日
誰もが喜べる喜びを
しかし、ニーチェの言葉を知って、「誰もが喜べる喜びを」というのは、「アサーション」に通じるところがある。「アサーションの心」や、ニーチェの思想が多くの人々に理解されるようになったら、「復讐心や軽蔑心や差別の心」も少なくなり、戦争も、きっとなくなっているに違いない。
誰もが喜べる喜びを
わたしたちの喜びは、他の人々の役に立っているだろうか。
わたしたちの喜びが、他の人の悔しさや悲しさをいっそう増したり、侮辱になったりしてはいないだろうか。
わたしたちは、本当に喜ぶべきことを喜んでいるだろうか。
他人の不幸や災厄を喜んではいないだろうか。復讐心や軽蔑心や差別の心を満足させる喜びになってはいないだろうか。『力への意志」(『超訳ニーチェの言葉・1』フリードリヒ・ニーチェ著、東京:ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年、No.28)
2021年12月10日金曜日
小田実の「疑問のすすめ」
私が気になるのは、青年の政治思想の保守化よりも、意識の保守化、固定化である(二つが容易に結びつくことは言うまでもない)。それは既存の事物に対して疑問をもたないという態度に、もつともよくあらわれているだろう。マルクス主義に対する無条件な信頼は、ようやくかげをひそめてきたようだが、逆に、それは、日本の社会の現在の体制への無条件な信頼となりつつあるようだ。どうしてこう極端から極端へと動くのか。若い人々を見ていても、社会を見ていても、私は疑問に思う。
(中略)
疑問をもたないと言えば、自衛隊と天皇制についても、もっともっと議論が起ってもいいようだ。たとえば、自衛隊をどうするか、増強するのか、このままでいいのか、へらすのか、なくすのか(またいかにしてなくすのか)、あるいはまた、天皇制を存続させるのか、なくすのか―一一それはまだまだ既定の事実ではないのだが、人々の心のなかで、ことに若い人々の心のなかで、すでにあたかもそうしたふうに定着しかかっているように見える。(「疑問のすすめ」『小田実全集 評論第4巻』、講談社、2010年、P221)
2021年12月9日木曜日
七十代は「人生の黄金期」
しかし、「七十代は、まさに『人生の黄金期』といえる」というのは、少し違うことに気がついた。正確には、「七十代は、まさに『人生の黄金期』に”できる”」であろう。丸山眞男の論文に、”「である」ことと「する」こと”というのがある。私の理解では、何ごとも「である」ことに安住して満足してはいけないのであって、日々「する」ことが大切だ、ということである。「自由”である”」ことに満足しているのではなく、「自由を満喫”する”」ことが大切なのだ。だから、七十代を『人生の黄金期』にする努力を通じて初めて、七十代は、まさに『人生の黄金期』と言えるようになる。
2021年12月8日水曜日
米政権に人権問題で意見する資格なし
足元の、世界一危険な”米軍普天間基地”で、あるいは、”米軍辺野古新基地建設現場”での人権問題に目を瞑り、人様の人権問題に抗議する資格がないじゃないか、と言いたい。日々生存権に脅かされ、度重なる住民の意思を無視した建設の強行は、明らかな人権侵害である。米軍による度重なる低空飛行も、生存権を脅かす人権侵害であろう。自ら人権を軽視するバイデン米政権に、人権問題で意見する資格はないのだ。
外交ボイコットの方針を明らかにしたサキ米大統領報道官は、「ジェノサイド(集団殺害)と人道に対する罪」といった「極めて強い言葉を使い続けた」という。膨大な核兵器を抱え、実戦では、劣化ウラン弾のような非人道兵器を、なんと、湾岸戦争、ボスニア紛争、コソボ紛争、イラク戦争などで使用してきたのだ。これでも、「人道に対する罪」を問う資格があるといえるのだろうか。断じてない。自らの罪を認めて初めて、「人道に対する罪」を問う資格があると言えるであろう。
2021年12月7日火曜日
高みに向かって努力を続ける
高みに向かって努力を続けることは、決して無駄ではない。
今は無駄が多くて徒労のように見えるかもしれないが、少しずつ頂点へと進んでいるのは確かなのだ。
今日はまだ到達にはほど遠いだろうが、明日にはもっと高みへと近づくための力が今日鍛えられているのだ。・・「漂泊者とその影」(『超訳ニーチェの言葉・1』フリードリヒ・ニーチェ著、東京:ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年、No.21)
2021年12月6日月曜日
歴史の逆行は断固阻止すべき
今後日本はどうあるべきか、それを考えるヒントは、これまでの日本の歴史にあった。歴史と言っても、もう大な歴史があるわけだが、総体としての歴史、すなわち、戦後の無一文から出発したに等しい戦後の復興史の中に、そのヒントはあった。その指標は、『文藝春秋SPECIAL :中国、アメリカに勝つ!日本最強論』(2015年冬号)に示された日本の豊かさである。
日本を、世界で最も豊かな国とする国際的な調査(『文藝春秋SPECIAL :中国、アメリカに勝つ!日本最強論』のこと)がある。アメリカを抜いているんです。戦争が終わったときにどん底で、僕はそのときに五歳ですから、毎日食うものもなくて、本当に大変だったんです。ものすごくリアルに知っているわけです。それが今、こういう国を築けたというのは、世界の歴史の中で類がない成功といえると思います。(『立花隆:最後に語り伝えたいこと』、立花隆著、中央公論新社、p77)
ご飯も満足に食えなかった国が、「世界の歴史の中で類がない成功」を成し遂げてしまった。「だから、この後どうなるか。問題はそこなんです」と、続く。
この成功の最大の背景の一つは、日本が軍備を捨てた。憲法九条を持って、九条を持つがゆえに、そこが微妙なんですが、ある時期までほとんど軍備に金を使わないで来たということなんですね。その後も、特に金がかかる核兵器などには全く見向きもしなかった。(中略)歴史の事実として、第二次大戦後、日本はほとんど軍備に金を使わなかった。
人材をどこに振り向けるかということが、その国の成功を一番左右すると思うのですが、要するに、日本の主たる人的資源を軍備や軍事技術に向けないで来たというのが、日本の成功の一番の背景だと僕は思っています。
でも、最近そうじゃないという意見、そういう流れができて、違う方向に流れつつある。歴史というのはその時代の人々の意見の集合として決まってくるわけです。常に歴史は動いて、その方向はまだ分かりません。ですけれども、今日の皆さんの発表を聞いていると、むしろいい方向にどんどん向かぅんじゃないかという気がしてきました。(上同、p78)
2021年12月5日日曜日
立花隆:最後に語り伝えたいこと・3
現在、米軍基地は日本だけでなく世界各国に存在する。1996年においては日本以外に、韓国、ドイツ、イギリス、イタリア、オーストラリア、パナマ、スペイン、トルコ、ベルギー、ギリシャ、アイスランド、オランダ、キューバ、ポルトガル、ディエゴガルシア、ホンジュラス、バーレーンなど世界各国に存在している。1991年に基地賃貸期限が終わり、今は米軍基地がないフィリピンのような国もある。
そして米軍基地がある各国の基地周辺住民が受ける弊害を見れば、程度の差こそあるが、 他の国も騒音、退廃、核放射能漏出の危険など、ほとんど似通った弊害を負っている。(「世界の米軍」より
2021年12月4日土曜日
立花隆:最後に語り伝えたいこと・2
ジャーナリストの立花隆さん、研究者の立花隆さんというイメージが強かったが、意外にも行動の人でもあった。なんと、「被爆国として原爆の実態について世界で訴えたいと願い、友人と二人で『原水爆禁止世界アッピール運動推進委員会』を結成」し、国際会議に参加を実現させ、平和行進に参加していたのだ。二人で初めたというのに驚いたが、行動力に頭が下がった。
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(「『立花隆:最後に語り伝えたいこと』、p31」より) |
立花が東京大学に入学したのは一九五九年。被爆国として原爆の実態について世界で訴えたいと願い、友人と二人で「原水爆禁止世界アッピール運動推進委員会」を結成する。広島で開かれていた原水禁世界大会に二人で出かけ、大会に参加していた世界の代表団に対し、広島、長崎の惨状を世界に訴えたい。ついては旅費などについて支援してもらいたい―-と要望してまわった。そんな彼だが、彼だからこそ、というべきかもしれないが「みんないろいろ考えて、いろんな挑戦をするでしょう。でも、大体失敗します。思ったことなんて決して実現しないと思った方がいい。それでも、想いが強ければ、トライすべきなんです」(上同、p32)と述べ、長い人生で学ぶべきこと」として、学ぶべきこと」として、1、有効性を求めすぎてはいけない。2、運動なんて99.9%は負け戦。3、あきらめずに負け続ける。4、継続こそ力。をあげていた。
この要望を受け、一九六〇年にCNDから連絡があり、「国際学生青年核軍縮会議」に参加してほしいという招待が舞い込むことになる。ロンドン到着後の費用などはCNDが工面してくれることになったものの、日本からロンドンに行くための資金がない。このため、立花はさまざまな団体に呼びかけ、資金援助を募る。この活動がマスコミに取り上げられたこともあって、立花らは国際会議への参加を実現することができた。立花らは現地で「オルダーマストン・マーチ」にも参加している。(『立花隆:最後に語り伝えたいこと:大江健三郎との対話と長崎大学の講演』、立花隆著、中央公論新社、p30)
確かに、多くの人々が「あきらめずに負け続け」てきたからこそ、核兵器禁止条約も成立したと言える。それでも、肝心の日本政府は、まだ批准していない。そんなとき、「批准するまであきらめなければいい」と思えるようになった。また、考えようによっては、反戦運動など、「99.9%は負け戦」であったことは間違いない。それでも、世界の反戦運動はトライし続けてきたし、これからもトライし続けられるに違いない。
2021年12月3日金曜日
立花隆:最後に語り伝えたいこと・1
早速、『アサヒグラフ』のバックナンバーを検索し、1952年8月6日号に「無残に焼け焦げた少年の死体、顔に被爆した女性の写真」を見つけた。今までいろんな被曝写真を見てきたが、このような無残な、残酷な、形容しようもない写真は初めて見た。写真の添えられていた文章も、生々しいので紹介する。
この特集を見て、思わず目を薮う人々は多いことであろう。
しかし、目を薮うことによつて原子爆弾の威力は、いささかも減ずることはない。否、現在の原子爆弾は、広島、長崎の比でないというではないか。
日本人は不幸にして世界史上、最初の原爆の犠牲者となつた。だが、果して何人の日本人が、その残虐の真実を知つているであろうか。大部分の日本人は抽象的な記述と巨大な茸型の雲の写真などによつてのみ、その残虐さの片鱗を知るだけであった。 これは偏えに占領期間中、あらゆる被害の残虐を伝える報道と写真が厳重に検関され、公表を禁じられていたからに他ならぬ
ここに、広島、長崎両市の写真を特集するのは単なる猟奇趣味の為ではない。一編集者の趣味や性向を、はるかに越えた冷厳な事実――即ち歴史が、それを命ずるのである。
再軍備論の是非は、しばらく措くとしても、すくなくとも 将来の戦争を口にするほどの人は、この特集に見る無残な姿と同じい――いや、それ以上のものが、やがて、我々自身の上にも生起せぬとも限らぬ、その心構えだけは、忘れて貰いたくないのである。(「『アサヒグラフ』、1952年8月6日号」より、写真も)
2021年12月2日木曜日
日本をめぐる防衛環境の大局観
しかし、こうした「安全保障環境の悪化」という表現が、いかに一方的なものかがわかるグラフィックがある。朝日新聞に掲載されていたものだが、視点を変えれば、いかに「アメリカからの脅威」が大きいかがわかる。ところが、普段は、そうした視点で考えることはない。それでいいのだろうか。
「視点を変えると物事の本質が見えてくる」というようなことを聞いたことを思い出した。それでは、視点を変えたことによって見えた本質とは、どのようなものだろう。それは、「米軍が大きな脅威となっている国」があるということではないだろうか。さらには、「日本も脅威になっている」かもしれない、ということもあるが、そうあっているとしたら問題であろう。戦後の反省がなされていないということになるからだ。どちらにしても、曇りのない目で世界を見たいものである。
| (朝日新聞、2020年4月30日) |
2021年12月1日水曜日
民主国家建設の基礎、新憲法
家永三郎さんの『日本の歴史』、全10巻を持ちながら、今まで積読だった。戦後の歴史に興味が出てきたので、8巻の「戦後の民主的諸改革」のところを読んで、憲法に付随して、民法や刑法など、さまざまな分野にまで改革が及んでいたことを知った。その一つの事例として、次のような朝日新聞記事が紹介されていた。
民主国家建設の基礎となる新憲法が公布された。しかし、これまでの憲法がそうであったように自分自身の日常生活に何のかかわりもないように考えている者があるかもしれない。しかし、この憲法は新しい民法を生み、刑法の改正をうながし、われわれの身近な生活から封建社会の残りかすを拭い去って、軍国主義のいささかのにおいをもふるい落そうとする。その結果、たとえば日本人の生活を支配してきた「家」の制度さえもここに崩壊の淵にのぞもうとしている。結婚が両性の合意にもとづいてのみ成立し結婚相手を選ぶことや、財産権、相続・住所の選定など戸主の権威の下におかれていたものすべてが解放される時が来たのである。 (崩れゆく白川村 『朝日新聞』11月4日号より)
このところを読んで、9条をターゲットにされているが、9条の背後(外堀)には、細かい条文があることを思えば、家制度といったそうした細かいところにまで改革の手が伸びてくるに違いない。それどころか、これまでのさまざまな法改正(有事立法や秘密保護法等々)は、9条の外堀に当たり、外堀から攻めてきて、最後に本命の9条改定という寸法なのかもしれない。改めて、外堀改革の実態を調べる必要を感じてきた。