2023年12月31日日曜日

死を迎える準備

  昔から、安らかな死を迎えるためにはどうすればいいか、そんな問いを抱いていました。何故か、死ぬのが怖かったからです。その問いの答えが(正解かどうかは別にして)、ようやくわかりました。それは、少しずつ、身の回りを軽くしていくことで、私たち自身「本来無一物」であること、「永遠に自分のものはない」ことを実感として体得していくことです。死を迎える準備というのは、自分を手放す準備だったのです。下記の言葉から学んだことです。

本来無一物
 人はもともと何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいくという意味がある言葉。大切なものを失ってしまっても、それは本来の自分に戻っただけのこと。失う怖さにおびえることも、嘆く必要もないという禅の教えです。『ゆるミニマリストのものの減らし方心の満たし方』、mini著、主婦の友社編集、p4)

少しずつ、狭め、軽くしていく
 人間が高齢になって死ぬのは、多分あらゆる関係を絶つということなのである。もちろん一度に絶つのではない。分を知って、少しずつ無理がない程度に、狭め、軽くして行く。身辺整理もその一つだろう。使ってもらえるものは一刻も早く人に上げ、自分が生きるのに基本的に必要なものだけを残す。
 人とは別れて行き、植物ともサヨナラをする。それが老年の生き方だ。そうは言っても、まだ窓から木々の緑は眺められ、テレビで花も眺められる。
 人とも物とも無理なく別れられるかどうかが知恵の証である。(『老いの冒険』、曽野綾子著、興陽館、2015年、p190)

永遠に自分のものはない
 下記のわたしたちが持っているもの――命も、家族も、悲しみも、喜びも、物も、この世とのかかわりも、すべてがやがて時の流れのなかに消えていく。永遠に自分のものであるものなどないのです。爽やかな儚さです。
 こういうふうにみんなが認識できれば、何かを得るための争いや犯罪は減るでしょう。得られない苦しみや、失ったときの悲しみも少しはなくなるでしょう。生に対する執着も弱くなって、死への恐怖も薄れるでしょう。
 命を含むあらゆるものは、一時的に私たちに貸し出されたものです。わたしたち人間は小心だからこそ、あらゆるものを得た瞬間から、失うときの準備をしておいたほうがいい。弱い自分を救うためにも、わたしはそう思うことにしています。(上同、p191)

2023年12月30日土曜日

内部環境としての心

 脳の栄養になる知的環境というものの存在を「あらゆる存在は関係性の総体」に書きました。しかし、そこで抜けてしまった環境がありました。私をとりまく外部環境に対する内部環境のことです。内部環境としての心も、私をとりまいていて私に影響を与えています。そういう意味で、心も立派な環境と言えるのです。
 古代ローマにエピクテトスという思想家がいました。奴隷でしたが後に解放され,ローマでストア哲学を多くの弟子に教えたそうです。彼の死後、その教えは弟子のアリアノスによって「語録」「要訣」として伝えられました。そんな彼に、心の重要性を説いた言葉があります。
 肉体に関する事柄で時間を費やすこと、例えば長時間運動をしたり、長時間食ったり、長時間飲んだり、長時間排便したり、長時間交接したりすることは、知恵のないしるしだ。人はこれらのことを片手間になさねばならぬ。きみの全注意は心に向けたまえ(曽野綾子さんは『老いの冒険』でこの言葉を引用して、「こうした長時間のこうした行為が、 手段ではなく、目的とされることが、いささかこっけいであることもほんとうだ」[p83〜84]と書いています)
 あらためて、心の内面に無関心であったことに気付かされました。そして、日記や、日誌にもっと関心を持ち、継続して取り組んでみる必要があるのかもしれません。

2023年12月29日金曜日

憲法改正は旧日本への逆もどり

 自民党にとって憲法改正は悲願の課題であるはずです。にもかかわらず、その実現には至っておりません。しかし油断はできません。ですから、憲法改正が何を意味するかをはっきりさせて、平和憲法を擁護していく必要があります。
 憲法改正といえば、漢字の意味は憲法をよくすることですが、その内実は全く逆です。自民党にとっての憲法改正は、旧日本の軍国主義への逆もどりを目指しています。これらのことは、これまでも言われてきたことです。しかし、「憲法を弊履のごとく捨てざるをえない立場に追い込まれた人間は、やがていかなる条約をも、いかなる協定をも弊履のごとく捨てるであろう」という指摘は、新しい視点です。それは、国際社会における信用の問題です。つまり、憲法改正は旧日本への逆もどりを意味するだけでなく、これまで国際者で築いてきた信用をなくしてしまうことも意味するということです。だからこそ、憲法は擁護していく必要があるのです。
 新憲法の前文と、その第九条とは新日本の理想を高く掲げたものであって、これを改正して軍備をもちうるようにすることは、いろいろな意味から明らかに旧日本への逆もどりである。いったん掲げた平和の旗印をおろすことは、それは平和からの百步の後退を意味するものであることを知らなければならない。
 さる有名な評論家は一昨年、ある総合雑誌に左の通り述べておる。
 日本の軍隊は解体され、軍閥は打倒された。しかし多年のあいだ培われた軍国主義の精神は死滅しないで国民の思想の中に眠っている。日本をもう一度軍国主義に復活させ、すばらしい戦力として使うのは容易なことであり、すくなくとも、目先の利害からは便利なことにちがいない。
 けれども、目先の算盤で日本のかっての軍国主義の諸要素を利用する者は、まもなく法外に高い勘定を支払わされることを覚悟しなければならない。⋯⋯ 民主主義を体得する好機を奪われた日本人は、いつまでも民主主義を脅かす力となるであろう。憲法を弊履のごとく捨てざるをえない立場に追い込まれた人間は、やがていかなる条約をも、いかなる協定をも弊履のごとく捨てるであろう。
 やや奇矯な云いあらわし方のようではあるが、われわれとして虚心坦懐に味わってみる価値のある言葉でではないだろうか。(『どうする?日本の再軍備』、有田八郎著、憲法擁護国民連合、1954年、p112〜113)

2023年12月28日木曜日

歴史は現在と過去の対話

 立花隆さんが言うように「あらゆる存在は関係性の総体」だとすれば、松岡正剛さんの編集力が重要になってきます。例えばこんなことです。

 私は編集的な歴史観をもつこと、できるだけ編集的世界像を抱いて何かに向かえるということを、いつからか心掛けてきた者ですが、それは「すべての歴史は現代史である」「歴史は現在と過去の対話である」「歴史の中に未来の秘密がある」ということを深く実感してみたかったからなのです。(『18歳から考える国家と「私」の行方——セイゴオ先生が語る歴史的現在 西巻 』、松岡正剛著、春秋社、2015年、p274
 ここでいう「編集的な歴史観」「編集的世界像」とは、どういうことでしょうか。
 私は、数ある歴史的なトピックの中から、何を選んで、どのように並べるか、つまり、歴史的なトピックを編集して歴史を観ることを「編集的な歴史観」と言い、「編集的な歴史観」によって創造された世界が「編集的世界像」であると理解しました。松川事件周辺の歴史を「編集的な歴史観」によって記述してみたい。その過程で、「すべての歴史は現代史である」ということ、「歴史は現在と過去の対話である」ということ、そして「歴史の中に未来の秘密がある」ということを考えてみたいです。

2023年12月27日水曜日

輸出を移転という暴論

 いつ頃からだったのか政府は、武器という言葉の代わりに「防衛装備品」という言葉を使うようになりました。マスコミも、無批判にその言葉を使い続けてきました。そうした傾向に違和感を抱いてきましたが、今度は、輸出という言葉の代わりに「移転」という言葉を使うようになり、これもまた、マスコミも、無批判にその言葉を使い続けています。例えば、こんな具合です。

 14年には安倍晋三内閣が「武器輸出三原則」を撤廃し、「防衛装備移転三原則」を決定。(1)紛争当事国などを除く(2)輸出を認める場合を限定し厳格に審査(3)目的外使用や第三国移転に事前同意を義務づける――を満たせば、他国に武器を輸出できると定めた。(「平和国家、薄れる理念 武器不足、米が提供要請 殺傷兵器輸出解禁」『朝日新聞』、2023年12月23日)
 どうでしょうか。「第三国移転に事前同意を義務づける」と書いたり、「他国に武器を輸出できる」と書いて、言葉の乱れを見せてくれています。
 なぜ、違和感を抱き続けたのか、その理由がはっきりしました。「民主主義は、言葉の信頼の上に立っている」(『精神の発見』、梅原猛著、角川書店、1985年、p255)からでした。政府の行為は言葉の信頼を失わせ、民主主義の土台を揺るがす行為だったのです。だから、ずっと違和感を抱き続けたのです。

2023年12月26日火曜日

あらゆる存在は関係性の総体

  私が生きているということは、私を取り巻く環境との関係があって成立しています。食べ物も、エネルギーも、外の世界の一つの環境ですが、それらの環境は生に直結しているものです。それに対して、生に直結はしていないものの、脳の栄養になる知的環境というのも存在しています。多くの情報は知的環境となって、私の脳の中に入ってきます。しかし、食べたものと違って情報は、意識的な努力、例えば編集作業を経なければ、構造化されません。立花が言うように「あらゆる存在は関係性の総体としてある」にしても、「関係性」そのものにいろんな関係性があるようです。構造化された関係もあれば、構造化されないランダムな関係もあるのです。だからこそ、編集力というものが必要になってくるのです。ですから、「人間とは何かを考えるということは、人間以外のすべてと人間の間の関係を考えるということ」ですが、「人間の間の関係を考える」ということは、「人間の間の関係を編集する」ということなのかもしれません。こうした観点で、「人間以外のすべてと人間の間の関係」を考えてみたいと思います。
 以上、下記の引用文をもとに考えたことです。

 最初になすべきことは、それがそれ以外のものとどういう関係に立っているのか、その関係性において考えてみるということです。その関係性をあらゆる局面においてとらえていけば、それがいかなるものであるかは自然に見えてきます。あらゆる存在は関係性の総体としてあるんです。私という存在についていうなら何との関係についてそういえるかといえば、自分以外のすべてのものです。自分以外のすべてのものとは何かというと、環境です。(中略)
 人間とは何かを考えるということは、人間以外のすべてと人間の間の関係を考えるということです。人間とそれを取りまく環境とのあらゆる関係を最も広い視野においてとらえ直してみようということです。この場合の環境とは、いわゆる環境問題でいう環境概念よりはるかに広義のものであるということに注意してください。
 ここでもう一つ注意しておかなければならないのは、もう一つ別の関係性を見落してはならないということです。それは、「『環境』と『宇宙』のたった一つの違いである『私』」という視点から見た関係性です。〈私〉抜きで見えてくるのは、客観的関係性だけです。そのとき見えてくるのは〈私〉抜きの客観的世界像です。(『東大講義人間の現在・1』、立花隆著、新潮社、2000年、P23)

2023年12月25日月曜日

新たな「戦後神話」の実態は?

 戦後民主主義について、否定的な見方があって気になっていました。丸山眞男も、同じ思いを抱いていました。例えば、

 最近の議論で私に気になるのは、(中略)戦後についての、十分な吟味を欠いたイメージが沈殿し、新たな「戦後神話」が生れていることである。政界・財界・官界から論壇に至るまで、のどもと過ぎて熱さを忘れた人々、もしくは忘れることに利益をもつ人々によって放送されるこうした神話(たとえば戦後民主主義を「占領民主主義」の名において一括して「虚妄」とする言説)は、戦争と戦争直後の精神的空気を直接に経験しない世代の増加とともに、存外無批判的に受容される可能性がある。こうした過去の忘却の上に生い立つ、戦後思想史の神話化を防ぐ一つの方法は、戦後にさまざまの領域で発言した知識人ができるだけ多く、自らの過去の言説を、資料として社会の眼にさらすことであろう。それは旧版の後記にのべた戦後責任という道義的問題だけでなしに、ヨリ綿密な実証的吟味を経た戦後史を作るという私たちの学問的課題のためである。(『丸山眞男集9巻』)

 丸山が心配した「戦後思想史の神話化」は、すでに出来上がっているかもしれません。それでも、その神格化の実態を明らかにし、かつ、「ヨリ綿密な実証的吟味を経た戦後史を作る」ことが求められているようです。それはまた、次の引用にもあるように、丸山がやろうとしたことでもあったようです。

 複雑で多義的で、さまざまな方向への可能性が同時に含まれている「戦後」の状況の中で、何がほんとうに選びとられるべき道なのか、何が本当に「賭ける」に値する道なのかを、文字通り全身全霊を注いで、考え抜こうとしたところに、丸山真男の独自の文章と、発言とが紡ぎ出されていったのです。(『丸山眞男『日本の思想』精読』、宮村治雄著、岩波書店、p8)

2023年12月24日日曜日

本の魔力に貫かれて

 本との出会いを人(著者)との出会いに例えることがあります。だから、古典を読むことはその時代の著者と交流するようなものなのです。そういう意味で「新刊書店と古書店は同じ書店だが、予期せぬ出会いを生む場であることにかわりない」(「本との出会い~石垣りんの詩と随筆 若松英輔」『日本経済新聞』、2023年12月23日)のです。
 私は図書館大好き人間で、六つの図書館を利用しています。だから、常時三〜四十冊は借りています。私にとって図書館が「予期せぬ出会いを生む場」だったのです。「本との出会い・・」を読んで気づきました。励まされた面もあります。例えば次の文章を私の場合に置き換えてみます。

 週に一度は古書店に行くようにしている。一生を費やしても読み切れないほどの本に囲まれた生活をしていながら、まだ買うのかと呆れられそうだが、本の魔力に貫かれた人間にとって本は、単なるモノではない。人生という険しい道を行くときの同伴者であり、道しるべでもある。(上同)

 すると、「週に一〜二度は図書館に行くようにしている。一生を費やしても読み切れないほどの本に囲まれた生活をしていながら、まだ借りるのかと呆れられそうだが、本の魔力に貫かれた人間にとって本は、単なるモノではない。人生という険しい道を行くときの同伴者であり、道しるべでもある」となります。これからも、自信をもって図書館通いを楽しみたいものです。

2023年12月23日土曜日

仕組まれた冤罪事件

 松川事件についての感想を「戦後最大の冤罪事件、松川事件」に書きました。そこで、戦後最大の冤罪事件を起こした裁判官の責任はどうなっているかを問いました。同じように感じていた弁護士がいました。彼は、裁判官だけでなく、警察や検察官の責任問題まで言及して次のように書いています。

 国民は、主権者として、"なぜ警察や検察官が、このようなへマをやったか。またやりながら責任をとらないか"という点を究明すべきではなかろうか。
 このようなヘマをやった原因として考えられることは、警察、検察、第一、二審の裁判所を含めて、科学的知識の不足すること、論理的判断力の欠けていることなどが、一応は考えられるが、しかし、いかになんぼなんでも、誤った起訴ならば、十年以上もつづいた裁判の途中で、気がつきそうなものであるということだ。まさか、大勢の検察官がいるのだから、最高裁判所や差戻後の裁判官と同じように、本件起訴内容のアヤマリに気づいた人もあったろうと思う。
 そういう検察官が、正直に自己の所信を法廷で述べないということを、国民として、黙過していいものだろうか。不正直なことを、権力をもって、押し通すようでは、被告人とされたものばかりでなく、一般の国民も安心して、刑罰権を彼らにまかしておけなくはないだろうか。
 いわんや、警察や検察庁が、はじめから被告人たちが罪のないことを知りながら、起訴をしておいて、偽わりの証拠や証人を作って、無実の良民を罪におとし入れるようなことをやったのでは、それこそ真昼の暗黒であろう。それを放っておいて、いいものだろうか。(「松川判決に想う」『正木ひろし : 事件・信念・自伝』、正木ひろし著、日本図書センター、1999年、p99〜100)

 私は、「松川判決に想う」を読んで、日本共産党のイメージダウンを狙った「仕組まれた冤罪事件」の可能性に確信を抱くようになりました。松川事件の真犯人はわかりませんが、日本共産党員犯人説の菅生事件(菅生駐在所爆破)の場合は、真犯人が警察関係者であることがわかったからです。菅生事件の場合も、「唯の一人も責任をとった者がいない」と次のように述べています。

 菅生事件は、すでに最高裁における最終的判決もすんだのであるが、菅生駐在所爆破は、警察員によって仕掛けられたものであった。すなわち、真犯人は彼らだったというわけである。警察と検察陣にとって、これ以上重大な恥辱的判決はないはずである。しかし、彼らのうち、唯の一人も責任をとった者がいない。おそらく、日本共産党を不人気にする目的はすでに達したから、成功したとでも思っているのではあるまいか。(上同、p101)

2023年12月22日金曜日

大日本帝国の日本人家畜化政策

  旧日本軍のことは、いろいろ言われていますが、その特殊性について正しい理解がなされているのだろうか、という疑問が生まれました。私自身、戦争という概念において、ドイツも、イタリアも日本と同じように理解し、殊更特殊性らしきものはないと思っていましたが、戦争中に支配的だった思想について、「人類最大の悪」と喝破した文章に出会ったからです。次のような文章です。

 この思想は、家畜の運命を表徴する思想です。個体を殺して主の生を養うのは家畜の運命です。人間を家畜の運命にまで堕落させることは容易な業ではありません。人間には向上進歩の本能があります。それを逆行させるのですから大変な努力です。国民を無知にし、無気力にし、従順にし、死を嫌はない様に錬成しなければなりません。これは天意冒涜です。人類最大の悪です。この悪を敢て為したのが大日本帝国です。そのお先棒を勤めたのが日本の文部省であり、その爪牙となり、家畜の臀を叩く鞭の役を勤めたのが内務省と司法省とです。彼等は一般国民を牛馬的の家畜とし、自分達は番犬的家畜であり度かったのです。番犬は同じ家畜でも、一段と主人に近く、殺されないですむ動物です。(『正木ひろし著作集 4』、家永三郎他編 、三省堂、1983年、p57)

 こうした大日本帝国が行った戦争感、特攻隊を生み出した戦争観はこうです。

 先づ憲法論から始った戦争です。国民に自由は無い、国民に主権は無い、国民は滅私率公し、天皇のためにのみ生存し、天皇の為めに万歳を唱へて死すべきものであるという恐ろしい前提から始った戦争です。国民の幸福などいうものが入る余地はありません。国民を牛馬的な家畜にすることから出発した戦争です。換言すれば、個人的「生」の否定から始まった戦争です。自国民を天皇の為めに犠牲にするという思想を背景とする戦争です。煩悩を殺し、海行かば水漬く屍、山行かば苔むす屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ、といふことを最高の善とする戦争です。凡そこんな無慈悲な動機をもつ戦争がかつて地上に存在したことがあるでしょうか。(上同)

 どうでしょうか。このような戦争観は、日本独特のものだというのですが、丸山眞男さんは、あるいは、昭和史に詳しい半藤一利さんは、果たして同じようだったのか、気になってきました。

2023年12月21日木曜日

植物の進化に学ぶ社会学

 ミツバチが花から蜜をもらい、その代わり、花はミツバチに受粉をしてもらいます。自然界には、このような共生関係を保って進化してきたものであふれています。 「結果的に『自分も得をして、みんなが得をする』という関係性を築けた生き物だけが、生き残ってきた」(『植物たちのフシギすぎる進化』、稲垣栄洋著、筑摩書房、2021年、p45)からです。このことを知って、人間社会も、世界の国家の関係も「自分も得をして、みんなが得をする」関係性を築けたものが生き残るのかもしれないと思いました。
 植物の進化に学ぶという点では「『たくさん』のものが、つながりあって『ひとつ』の世界を作っている。/これが進化の末に植物が作り上げた世界なのです」(上同、p80)ということも、人間社会に当てはまるのではないでしょうか。
 そういえば、こんな金言がありました。
 「人間から道徳と理性がなくなると原始に還るが、残念ながら今更牙も爪も生えないし、獣毛も生えないであろうから、動物に劣ることとなり、絶滅を免れぬであろう」(『近きより・5・帝国日本崩壊』、正木ひろし著、社会思想社、1991年、p83〜84)これもまた、自然に学んだ金言です。日本も、道徳と理性の復権を果たさなければ、滅びてしまうでしょう。

2023年12月20日水曜日

戦後最大の冤罪事件、松川事件

 映画『松川事件』(山本薩夫監督、宇津井健他出演、独立プロ名画特選、新日本映画社)を観ています。松川事件に関しては多くの著書があるにもかかわらず、本質的な部分が曖昧になっている印象を受けました。単刀直入にいうと、松川事件を抜きにして戦後は語れないのではないか、それほどの大事件であったにもかかわらず、あまり大きく取り上げられることはないようです。
 なぜ大事件だったか、最高裁で無罪になったから良かったものの、戦後最大(私の予想では)の冤罪事件だったからです。戦後最大でなかったにせよ、大きな冤罪事件であったことに変わりありません。10名近い人が死刑の判決を受けたのですから。(注)
 もう一つ気になったのが、誤った判決、しかも死刑の判決を下した裁判官は、無罪が確定した時点で、反省の言葉なり、何らかの発言があったのでしょうか。冤罪は、人生を狂わせるほどの罪を犯したことにならないのでしょうか。死刑の判決を下した裁判官が、無罪が確定した後の人生をどのように生きたのでしょうか。気になるところです。
 さらに付け加えるならば、やはり、松川事件後の日本共産党の国会議員の激減と、その後の退潮傾向を見逃すわけにはいきません。「共産党は怖い」という印象が広まってしまったのですから、当然です。やはり、戦後の松川事件は、戦後日本を考える上でのターニングポイントになるのではないでしょうか。こうなると、どのように語られてきたのかが気になってきました。
(注)事件は福島市松川町の旧国鉄東北線で線路のレールが何者かによって外され、通過した列車が脱線・転覆し、乗務員3人が死亡したもので、労働組合の幹部など20人が逮捕・起訴され、一審では全員が死刑を含む有罪判決を受けたが、事件から14年後、全員の無罪が確定しました。この戦後最大のえん罪事件について、昭和28年11月11日の拝謁記には、昭和天皇が「一寸(ちょっと)法務大臣ニきいたが松川事件ハアメリカがやつて共産党の所為(せい)ニしたとかいふ事だが」と明かしたうえで、「これら過失ハあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党ニ謝罪ニいつてる」と明かしたと記されていました。「「国鉄三大ミステリー」松川事件に関|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB・赤字強調は引用者」

2023年12月19日火曜日

大国は多くはみなバカであります

 中江兆民の『三酔人経綸問答』のことは「兵隊は市民となって・・・・」と「最高形態としての民主制」で取り上げましたが、洋学紳士君は、さらに熱弁を振います。
「十九世紀のこんにち、武力で威嚇することを国の栄誉とし、侵略を国の方針とし、他国の領土を奪い他国の民を殺して、どうしても地球の所有者になろうと考える国は、まさに狂気の国です。
 もう一言申し上げると
 地球上の大国は多くはみなバカであります。地球上の強国の多くはみな臆病でたがいに恐れると同時に強がって兵隊を集め、軍艦をつらねてかえって身を危険にさらしている。弱小の諸国は、なぜ自発的に兵隊を撤廃し、軍艦を手ばなして安全をはからないのでしょうか」(「100分de名著 中江兆民“三酔人経綸問答”・2」より)
 どうでしょうか。「地球上の強国の多くは、・・・・強がって兵隊を集め、軍艦をつらねてかえって身を危険にさらしている」という予想は、どうだったでしょうか。私は、その通りになって、これまで多くの戦死者を出してきました。それに対して日本は、自衛隊はあるものの、憲法九条の縛りの効果があって、戦後戦死者を出しておりません。しかし、多くの人たちは、洋学紳士君は理想主義者であると言って馬鹿にしたりしております。『三酔人経綸問答』でも、豪傑君が反論します。
 豪傑君「紳士君の言うことは、いかにも学者らしい。学者の言うことは本には著わせるがとても実行はできません。それならば、もし凶暴な国があって、わが国が軍備を撤廃するのに乗じて、軍隊を送って来襲してきたらどうしますか」

 洋学紳士君「願わくは、一ふりの剣も一発の弾丸もたずさえず、われわれはしずかにこう言いましょう。なたがたがやって来て、われわれの国を乱すことを望まない。一日も早く立ち去って国に帰りなさい、と」

 豪傑君「まさか、これほどとは思いませんでした。哲学が人の心をおおいつくして、ものを見えなくしてしまうことが。
 紳士君が数時間にわたって熱弁をふるい、世界の情勢を論じ、政治の歴史を語ったあげく最後の一手とは結局、全国民が手をこまねいて敵の弾丸に倒れて有終の美を飾るというのですからね」(上同)
 洋学紳士君の最後の一手には、私も無理があると思います。ではどうすればいいのかといえば、私は、全力を上げて、攻められない国つくりをすればいいと考えています。ですが、最後の一手までの議論は、まさに未来を先取りした思想であることは間違いありません。この思想こそ、立花隆さんのいう「未来のスピアヘッド(槍の穂先)」ではないでしょうか。つまり、「どのような未来にしろ、未来は、未来のある日突然はじまるものではない。近未来なら、未来は必ず現在に接続しており、現在の中に、未来のスピアヘッド(槍の穂先)が突き刺さっている部分があるものなの」(「20世紀知の爆発」『21世紀 知の挑戦』、立花隆著、文藝春秋、2000年、p 8)です。
 

2023年12月18日月曜日

省エネだけで脱原発は可なり

  東日本大震災であれだけの原子力災害を起こしておきながら、原子力の再稼働が始まっています。再生可能エネルギーに期待を持ちながら、今一つ説得力が欠けるところがあってもどかしいところです。ところが、将来的には再生可能エネルギーに期待しながらも、省エネルギー対策だけでも脱原発が可能だという説もあったのです。直接考えを聞いてみましょう。

 たしかに近い将来にめざすべき方向は、ずっと使っていても減ることのない「自然エネルギー」に進むことだと思います。
 でも原子力発電所は電気の消費を減らすだけのことで、止められることがわかりました。つまり「原子力を止めて自然エネルギーで」と考える必要はなかったのです。自然エネルギーが原子力に代われるエネルギーであるかどうかを立証する必要はありません。今の時点でその危険性と被害が、得られる電気に比べて大きすぎるのならやめればいいからです。
 「資源・エネルギー」が「モノと力」を指すなら、原子力発電は「放射性物質と電気エネルギー」でした。でも得られる電気エネルギーに対して、必要とする「放射性物質」は危険性が大きすぎたといえると思います。次の第二巻では、私たちの生活にもっとも重要になっている石油エネルギーについて考えます。そして、第三巻では「自然エネルギー」について考えてます。さて、私たちの未来はどんな世界になるのでしょう。(『いますぐ考えよう!未来につなぐ資源・環境・エネルギー 1』、田中優著、岩崎書店、2012年、p37)

 どうでしょうか。「得られる電気エネルギーに対して、必要とする「放射性物質」は危険性が大きすぎた」とありますが、危険性のある「放射性物質」は、「必要とする放射性物質」だけではありません。「排出、廃棄される放射性物質」の危険性もあるのです。「必要とする放射性物質」と「排出、廃棄される放射性物質」の危険性を考えたら、とても再稼働など認めるわけにはいきません。「原子力発電所は電気の消費を減らすだけのことで、止められる」のであれば、尚更です。
 田中優氏の著作に、『原発に頼らない社会へ:こうすれば電力問題も温暖化も解決できる』(武田ランダムハウスジャパン、2011年)があります。図書館の内容紹介に「原発の問題点に鋭く切り込み、画期的かつ現実的なエネルギー代替案を投げかける」とありました。早速図書館に予約しましたが、興味ある著作で、読むのが楽しみです。

2023年12月17日日曜日

情報を積極的に編集してみる

 今の私に最も必要な情報を得ることができました。それは、せっかく手にした情報も、何も手を加えなければ、それは宝の持ち腐れになってしまうということでした。ひょっとしたら、手を加えれば宝物になるけれど、手を加えないでほったらかしにした情報は、重荷になってストレッサーになってしまうかもしれません。
 しかし、「積読」も読書のうちであることを考えれば、手を加えなくても一度脳にインプットしたものは、脳の深部に記憶され、積読のような有用性がありそうです。何らかの引き金をヒントに思い出されることがあるからです。
 情報をうけ身のままでいかすことは、なかなかできません。ほったらかしの情報はゼッタイにいきいきしないのです。
 いきいきさせるためには、自分が情報を積極的に編集してみるということがとても大事です。いままでの話を総合して、大事なことはいろいろあるけれども、一人ひとりが自分で情報の編集に向かうということが、いちばん大事なことだということを、あらためて強調しておきます。感じたこと、読んだこと、見たことなどを、自分で紙に書いたり、絵にしたり、語りあったり、それからネットの中でも表現してみることです。(『わたしが情報について語るなら 未来のおとなへ語る』、松岡正剛著、ポプラ社、2011年、p435−436)

2023年12月16日土曜日

小惑星衝突に備える

  立花隆ほどのジャーナリストでも、情報の信憑性が疑われるような記事を書くこともあるのでしょうか。そんな疑問を抱かされた記事があります。「アメリカの軍事監視衛星は、直径十メートル程度の小天体が飛んできて、二十キロトン級(ナガサキ級)の爆発を起すのを、一九七五年から一九九二年までの間に百三十六回も観測している」という次のような記事です。

 宇宙は神秘と美しさに満ちているだけの空間なのではなく、時に荒ぶる神として兇暴な素顔を見せ、一瞬にして世界を破壊しつくすこともあるのだ。アメリカの軍事監視衛星は、直径十メートル程度の小天体が飛んできて、二十キロトン級(ナガサキ級)の爆発を起すのを、一九七五年から一九九二年までの間に百三十六回も観測しているという。そのほとんどが海上に落下したため(地球の表面積の四分の三は海だ)、目立った被害は何も起きていないが、それが人家密集地域の上に落ちて惨禍をもたらすことが同じ確率でありうるのだ。もっともっと大きな大惨禍をもたらしうる小惑星が地球のすぐ近く、月より近いところを通過していった例がこの九〇年代だけで四例も観測されている。(『21世紀 知の挑戦』、立花隆著、文藝春秋、2000年、p 121)

 疑問を抱いたのは、「二十キロトン級(ナガサキ級)の爆発」ならば、海上だからと言っても、世界のニュースにならないわけがないのではないか、と思ったのです。ネットで調べたら、「直径10メートル程度の小惑星の場合、およそ100年に1回ぐらいの頻度」とあって、「一九七五年から一九九二年までの間に百三十六回も観測している」のと大分差があります。情報源をしてして書いて欲しかったです。いずれにせよ、小惑星の衝突が忘れられている恐ろしい自然災害の一つであることに変わりありません。だからこそ、原発依存政策は止めてもらいたいです。

 約6600万年前、メキシコのユカタン半島北部のチクシュリューブに衝突した小惑星は直径約10キロメートルと推定され、恐竜が絶滅するきっかけになったと言われています。この規模の小惑星の衝突は数千万年から1億年に1回程度起こりうると考えられています。
 直径10メートル程度の小惑星の場合、およそ100年に1回ぐらいの頻度と言われています。(「小惑星衝突に備える 回避方法を探す宇宙科学者たち - 記事 - 明日をまもるナビ - NHK」より)

2023年12月15日金曜日

修羅餓鬼と化す戦争

  福島県立武術館「現代版画の小宇宙:金子コレクションから」展に古沢岩美作「仙乞」(版画集『修羅餓鬼』より)が展示されていました。作品解説は次の通りです。

 『修羅餓鬼』は1960年から刊行される1993年まで制作が続けられた古沢のライフワークとなった作品です。古沢は1943年に応召し、中国大陸で戦場に立ちました。終戦後も捕虜となり、復縁したのは1946年のことでした。古沢のこの従軍体験が元になっており、「彼が加害者としての私と被害者としての私がいた」と書いたように、自己を揺るがした戦場の混乱と凄惨さが表現されています。

古沢岩美作「仙乞」

 題名の「仙乞」を調べても、このような文字はありませんでした。「蒼暮」という作品名も、そのような言葉はありませんでした。しかし、「蒼く暮れていく風景を見ながら」という言葉を見つけました。だから、蒼暮」は「蒼く暮れていく」の略で、「仙乞」も、「仙人のような乞食」あるいは「乞食のような仙人」の略ではないかと想像してしまいました。
 版画集『修羅餓鬼』を図書館で検索しても、(県内図書館、国会図書館、全国の大学図書館などの横断検索でも)ヒットせず、唯一県立図書館に『エロスと修羅餓鬼』(古沢岩美画、一枚の檜、1993年)が一冊あるだけでした。だから、この本から、蒼暮」と「犬死」を紹介します。修羅餓鬼と化す戦争の実態を強烈に告発しています。ウクライナやイスラエルの現実も似たようなものではないでしょうか。

蒼暮」

「犬死」

2023年12月14日木曜日

最高形態としての民主制

  •  中江兆民の『三酔人経綸問答』のことは「兵隊は市民となって・・・・」で取り上げ、「第九条の先をいく、22世紀の憲法を予言しているとさえ言える内容」である、と書きました。軍備のない世界、兵隊のいない世界を思い描いていたからです。
     もう一つ、「22世紀の憲法」と思わせた考えがありました。「民主主義体制を最高のもの」と次のように言っているのです。
  • ああ、民主制。

    君主宰相による専制政治は
    愚かにも自身その欠陥に気づかない。

    立憲制はその欠陥を悟り
    半ばを改めただけです。

    民主制こそ度量のひろい
    一点の汚れもない体制なのです。

    ヨーロッパ諸国はすでに
    自由、平等、友愛の三大原理をわきまえながら、
    なお民主制に
    従わない国が多いのはなぜでしょうか。

    なぜ、
    やたら道徳の道にはずれ
    経済の原則にそむき
    国の財政を食いつぶす
    数十万、数百万の常備軍を置いて(略)
    罪のない人民に殺しあいを
    させるのでしょうか(「100分de名著 中江兆民“三酔人経綸問答”・1」より) 

      どうでしょうか。
     中江兆民は、国の政治体制は、専制政治 → 立憲制 → 民主制と進化のステップを
    踏むと考えていたようです。しかし、「なぜ、やたら道徳の道にはずれ、経済の原則にそむき国の財政を食いつぶすのか? なぜ、数十万、数百万の常備軍を置いて(略)罪のない人民に殺しあいをさせるのか?」その答えまでは辿り着けなかったようです。だからでしょう。いまだに世界は、「やたら道徳の道にはずれ、経済の原則にそむき国の財政を食いつぶし、数十万、数百万の常備軍を置いて(略)罪のない人民に殺しあいをさせている」のです。

     ここで、ふと考えが浮かびました。
     進化の最高形態としての民主制について、それがどういうものかについての「正しい理解の不足」が中江兆民の疑問に対する答えではないか、と。そういう意味でも、民主主義について、それがどういうものかどのような誤解があるのかを整理してみる必要があるのかもしれません。

    2023年12月13日水曜日

    血や肉となった日本国憲法

      読売新聞といえば、憲法改正に積極的という傾向が強いと思ってきました。その読売新聞の社説(一九五六年五月三日)で「憲法改正のごときは国の大事業であり、駆足ですべきではない」と憲法改正に対する慎重論を展開していたことを知りました。さらに見逃せないのが「新憲法の根本主義たる主権在民、平和主義、民主主義はすでに日本国民の胃で消化され、いまは血や肉となっている」と、評価していたことです。一度血肉化した主権在民、平和主義、民主主義は、そう簡単に変えることは困難だと思います
     だからでしょう。読売新聞オンラインの見出しですが「改憲「党派超えた連携」重視…首相、任期中実現に改めて意欲」(2023年12月6日)が「衆院憲法審 改憲条文案 作成進まず…首相の総裁任期中 困難に」(2023年12月8日)という具合です。

     現行憲法は生粋の日本製でないかも知れないが、日本の、そして日本国民の憲法であることは否定できない。⋯⋯新憲法の根本主義たる主権在民、平和主義、民主主義はすでに日本国民の胃で消化され、いまは血や肉となっている。⋯⋯従ってたとえ部分的には改むべきものがあるとしても、いままで新憲法が果してきた功績を無視し『自主的でない』『おしつけられたもの』という理由で、これを葬り去ろうというのは、不当である。⋯⋯
     天皇、国務大臣、国会議員は、この憲法を尊重し、擁護すべき義務を持っている。尊重し擁護するというのは、たんに憲法の規定に反しないというのとは違い、積極的な意味を持つ。しかるに軽々に自主憲法制定という名の下に、全面的な憲法改正を企てて、どうして国民に憲法を守れといえようか。憲法改正のごときは国の大事業であり、駆足ですべきではない。そして現在改正を急ぐ要因はなにもないのだ。(『日本国憲法「改正」史』、渡辺治著、日本評論社、1987年、p475)

    2023年12月12日火曜日

    兵隊は市民となって・・・・

     今月のNHK放送「100分de名著」は、中江兆民の『三酔人経綸問答』を取り上げていました。この書の存在は知っている程度でした。ですから、この放送を視聴して「日本国憲法の第九条を先取りした内容」が含まれていたことを初めて知りました。次のような内容でした。放送で朗読した内容を内容を四連の詩に編集して紹介します。「兵隊は市民となって」というところを考えると『三酔人経綸問答』は第九条の先をいく、22世紀の憲法を予言しているとさえ言える内容です。こうなると、これまでどのような評価を受けてきたかが気になります。いずれにせよ、すごい内容です。
     われわれは文明の進歩に後れをとった
     一小国でありながら、
     頭をあげてアジアの片隅にすっくと立ち上がり、
     一躍、自由、友愛の境地に跳びこむのです。

     要塞をとりこわして平地にし、
     大砲を鋳つぶして戦艦を商船に変え、
     兵隊は市民となって、
     ひたすら道徳を研鑚し、工業技術の開発に努め、
     純然たる哲学の申し子となった、とあっては、
     文明をもって自ら傲るヨーロッパ諸国の人々も、
     深く恥じ入るのではないでしょうか。

     彼らが頑なになおも改めず
     はじらいもなく、
     こちらの軍備の撤廃につけいり
     強引に攻め込んできたとき

     われわれはみな、
     わずかの武器も、一発の弾も持たずに
     礼儀正しく迎えたなら
     いったい彼らに何ができるでしょうか(「100分de名著 中江兆民“三酔人経綸問答”・1」より)

    2023年12月11日月曜日

    時代が「第九」を求めている

     赤旗日曜版(2023年12月10日号)に指揮者小林研一郎さんの記事「時代が『第九』を求めている」が掲載されていました。ウクライナや絵すら得るで戦争が続いている今だからこそ、「時代が『第九』を求めている」と言えるのです。小林さんの声を聞いてみましょう。

     ベートーベンがシラーの詩を再構成した『歓喜の歌』には"世界がいさかいの中にあっても、神の力で全ての人々はきょうだいになる"とあります。べートーベンの平和への祈り、分け隔てのない愛を感じます。今、世界は殺りくに明け暮れていますが、宗教や民族を超え、音楽の力で人間同士のたたかいがなくなったら、どんなにうれしいでしょう。(赤旗日曜版、2023年12月10日号)

     年末になると、「第九」の演奏が聞かれるようになりますが、日本だけのことなのでしょうか。いずれにせよ、もっともっと多くに人々に「第九」の演奏が聞かれるようになって、音楽の力で人間同士のたたかいがなくなって欲しいものです。

     
    響曲第9番 小林研一郎&日本フィル - YouTube

    2023年12月10日日曜日

    意味のある偶然の一致

     偶然と思える出来事はまったくの偶然なのではなく、今、その時のその人にとって、あるいは世の中にとって、意味のあることとして起こっているという考え方があります。このような意味のある偶然の一致を「シンクロニシティ」(共時性)と呼んでいます。ちょうど、この「シンクロニシティ」を思い出させることが起きました。
     実は昨日、予約していた『エロスと修羅餓鬼』(古沢岩美画、一枚の檜、1993年)を見ていて、『斬』などを目にして、南京虐殺のことだろうか、と想像していました。
     だから、今朝の新聞で、武田鉄矢さんの戦争中に”日本刀で何人か切った”話をしながら「首を切り落とす快感」を語っていた、と証言しているのを読んで驚きました。正に「意味のある偶然の一致」だったからです。武田さんの生々しい証言は、『斬』に命を吹き込んでくれたのです。

    「中国の匪賊(ひぞく)のヤツらを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を切り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんは横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。(戦争トラウマ[上]、「斬った」誇るおやじ、嫌で嫌で 武田鉄矢さん、朝日新聞、2023年12月10日)
    古沢岩美『斬』(『エロスと修羅餓鬼』、p45)

    2023年12月9日土曜日

    悲しみをみつめて

     日本経済新聞を読んでいて、悲しみを対象にした著作『悲しみをみつめて』の存在を知りました。次のように紹介されていたのです。
     童話『ナルニア国物語』の作者であり、二十世紀を代表するキリスト教思想家でもあったC・S・ルイスが、自身の伴侶の死をめぐって書いた『悲しみをみつめて』(西村徹訳)と題する小さな本がある。この一冊を彼は、次のような一節から始めている。
    「だれひとり、悲しみがこんなにも怖れに似たものだとは語ってくれなかった。わたしは怖れているわけではない。だが、その感じは怖れに似ている。」(若松英輔著「言葉のちから:人生の問い~C・S・ルイス『悲しみをみつめて』」、日本経済新聞、2023年12月9日)
     このように冷静に、言葉を通して<悲しみを対象化した>作品を知り、日本経済新聞の「美の十選」(2023年11月10日)で取り上げられたアイナー・ニールスン「病める少女」という絵画を思い出しました。結核でやつれていく身体の特徴を素描で克明に記録した絵だそうですが、こちらの絵は、絵画を通して<悲しみを対象化した>作品だと思ったからです。なんで、このような死に向かう悲しみのような感情が絵画の対象になったのかが分かりませんでしたが、なぜか心に残った作品だったのです。なお、「病める少女」の解説は次の通りです。
     骸骨のように透ける顔と大きくへこんだ目、自慢の赤毛が後退しておでこが尖(とが)って張り出す様子が残酷なほど写実的に捉えられている。簡素なベッドに身体を横たえて、深く沈むように死と向き合う少女。彼女の膝が緑色の毛布をテントのように持ち上げていて、中には死に神が潜んでいるような不気味さがある。細くて白い右手は、死に神に連れて行かれないようにベッドの鉄の細い手すりをしっかりと掴み最期の抵抗を試みている。
     画面の大半を占める白い壁の空虚さまでもが、彼女の最期の力を吸い取ってしまいそうだ。アネはこの絵が描かれた直後に亡くなった。画家が描こうとしたのは、人間に無作為に割り当てられた運命の悲劇だけではない。この絵は、痛切な現実と向き合う人間の姿と、神の救いのない世界の告発でもあるのだ。東京芸術大学教授・佐藤直樹著、日本経済新聞、2023年11月10日)

             アイナー・ニールスン「病める少女」




    2023年12月8日金曜日

    知的実践という知的労働

      実践というと、物を作ったり、人に物を売ったりすることで肉体労働に対応すると思っていました。しかし、研究などの知的労働も、立派な実践であることを知りました。というのは、

     われわれが純粋な理論(傍点部分)つまり抽象と考えることは、その表明の形式におけると同様にその目的性において実践(傍点部分)であるということだからです。プラトンが対話篇を書いたとき、アリストテレスが講義をしてその講義録を公けにしたとき、エピクロスが書簡をまとめその複雑で長い自然論を起草したとき —— 不運なことにそれはヘルクラネウムで発見された小片群の形で断片的にしか残っていないのですが —— これらいずれの場合も、哲学者が一つの学説を展開していることは確かです。(『生き方としての哲学 : J.カルリエ, A.I.デイヴィッドソンとの対話 』、ピエール・アド著、小黒和子訳、法政大学出版局,、2021年、p152)

     このことは何を意味するのでしょうか。
     いくら読書などを通して材料を集めても、それだけでは実践にならない、というよりも、実践が完結しないことを意味します。読書とかスクラップなどは、実践の一過程でしかない、ということです。一つの学説なり論文の形に仕上げて初めて、実践と言えるのです。新しいものを創り出す、という意味を考えれば、一つの知的労働ということもできます。このような実践を知的実践と名づけてはどうでしょうか。

    2023年12月7日木曜日

    考えを概括化すること

     辰巳芳子さんは、歩きながら考えをサマライズする(概括化する)と言って、次のように語っています。その中の「見聞きしたものを、自分の中できちんと整理していかないと進歩しないし、生きていく力にもなりません」「そのサマリーをまた訂正していかなくては。それは生きていくかぎりずっと続くのです」という言葉には身に沁みました。「見聞きしたもの」を「学んだもの」と置き換えると、自分のことを言われているようだったからです。
    「本を読んだり、机の前に座ってサマライズすることはあんまりないのね。そんなふうにして、人間は考えがまとまるものじゃないって私は思うの。だから、自分の中にわき上がった問いの答えが出なかったり、原稿を書きながら、『ここはわかっていないな』と思うと、そこでやめるのね。
     それで、しばらく家のことをやったり、庭を散歩しながら、それはどういうことなのかとか、どういう言葉に置き換えることができるか、考えていくようにしているの。
     たとえばおいしいと感じたら、私はどうしてそれをおいしく感じるのか? まずいと感じたら、それはなぜなのか? 素材なのか、体調なのか、あるいは思い出に関わっているのだろうか、とかね。もっと楽しいことでは、誰かが素敵な着こなしをしていたら、どうしてよく見えるのかなっていうことを考えたり。
     そんなとき、歩いたり手仕事をしていると、考えがまとまりやすいと思う」
    「人間は感じているだけではダメよ。経験っていうのは見聞きするだけではほとんど役に立たないの。見聞きしたものを、自分の中できちんと整理していかないと進歩しないし、生きていく力にもなりません。
     でも一度サマライズしたからって安心できるものでもありません。新しい経験で、そのサマリーをまた訂正していかなくては。それは生きていくかぎりずっと続くのです」(辰巳芳子著「積み重ねが力になる私の元気習慣」『生きる力を鍛えるヒント:ゆうゆう7月号増刊』、主婦の友社、2022年、p49)
     ここでいう概括化する思想の一つに「ビッグピクチャー(全体像)」をはっきりとらえる」というものがあります。世界の問題は多岐にわたっています。その全体を捉えて対策を考えないと、力が分散してしま雨と思うのです。だから、「ビッグピクチャー(全体像)」をはっきりとらえる」ことが重要になってくきます。この点を立花隆さんは「この時代を丸ごととらえるにはどのような考え方をすれば良いのか」(『21世紀知の挑戦』、文藝春秋、p14)という問いを持ち、「一九九八年は、ほとんど丸1年間、20世紀をどう総括し21世紀をどう展望するかという議論ばかりやってきた」(上同、p12)と書いています。その結果が「サイエンスが人類を変えた」に結実したようです。
     すてきな大変化と私たちのあいだを隔てているのは、じつはとても薄い壁だけなんです。化学物質や発ガン性物質の氾濫、遺伝子組み換えや原子力発電の問題などは、すべてが上から押しつけられたものだから、その筋道を止めることによって、世界中がほっとひと息つくことができる。そのために私たちは「ビッグピクチャー(全体像)」をはっきりとらえる必要がある。そして「N0!」を突きつけるんです。(『いよいよローカルの時代:ヘレナさんの「幸せの経済学」』、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ・辻信一著、大月書店、2009年、p158)

    2023年12月6日水曜日

    矛盾した憲法改正論

      日本国憲法は占領軍に押し付けられたもの。それゆえ憲法改正をする必要があると主張する「押しつけ憲法論」というのがあります。こうした論調に対する見事な反論を見つけました。1953年5月18日の東京新聞に掲載された「矛盾した憲法論」という投書のようです。

     十一日附本欄にN生が「天下り憲法」と題し、現憲法は占領軍の一方的意志で押付けたものだから例えその内容が民主的でも成立のいきさつに非民主的な汚点があるから、現憲法の改正を国民に問えという主張をした、もしこの議論が正し意図すれば、百年前の開国もペリーの強要だったから、も一度鎖国か開国かを世論に問わねばならぬことになろう、そればかりでなく国民の意に反して押しつけられたものであるとするなら、当時の国会は当然それを拒むのが職責であったはずなのに一人として辞職もせずに賛成し、祝賀した事実を何と見るか。
     もしもそれらの政党や代議士が全部国民を欺いたとすれば、そのような代議士を国民が現在に至るまで数回の総選挙で当選させ組閣させて来たことは一体どういうことになるのか、やはり国民も選挙を押しつけられているということになるのか、今日、憲法改正を唱えている政治家の大部分は制定当時その委員をした人やばく大な国費をもらって憲法普及に努力した人々である、こんな不信な政治家が再び憲法改正の音頭をとることにN生は矛盾を感じないのか、現在の憲法が押し付けられたという理由で改変を企画せよというなら、それより前に制定当時の全代議士の総退陣を強行する立法処置を講じてからでなければ論説のツジッマが合わない。(『正木ひろし著作集・4』、家永三郎ほか編、三省堂、1983年、p302〜303)

     そういえば、祝賀会の写真を見たことがあります。憲法普及会のことは知っていましたが、ばく大な国費を使って憲法普及に努力していたことまでは知りませんでした。このようなことを知ると、柄谷行人さんのいう「日本国憲法は無意識のレベルで支持されている」ということもわかるような気がします。

    2023年12月5日火曜日

    戦争を根絶するための資本論

     前に、 「兵器という商品の物神性が大きな力となって人間を支配し始める」と書いて、商品の物神性というものを問題にしたことがあります。しかし、資本論を読み直しているうちに「経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程ととらえる」こと、従って、「個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、社会的には以前として諸関係の被造物なの」(「序言[初版への]」『資本論・1』、カール・マルクス著、新日本出版社、p12)だという観点が問題であると思うようになりました。
     別の訳も、参照してみました。「私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係所の所産なのだからである」(「資本論」『マルクスエンゲルス全集23a』、大月書店、p11 )。ここで登場している個人とは、具体的にプーチンのような人を指し、彼も結局、諸関係の被造物(所産)にすぎない、ということを意味します。
     だとすれば、戦争を根絶するためにも、資本論の最終目的である「近代社会の経済的運動法則を暴露する(明らかにする)こと」(上同)が欠かせないことになります。しかし、問題は、そう簡単ではないことです。その上、「たとえある社会が、その社会の運動の自然法則への手がかりをつかんだとしても、その社会は、自然的な発展諸段階を飛び越えることも、それらを法令で取り除くことも、できない」。ただ「その社会は、生みの苦しみを短くし、やわらげること」(上同)だけだと言います。

    2023年12月4日月曜日

    諸悪の根源を求めて

     ウクライナに続いてイスラエルまで戦争を始めてしまいました。20世紀は戦争の世紀といわれていたのに20世紀で卒業できず、21世紀に入ってまで戦争が勃発してしまいました。どうしたら戦争をなくすことができるのでしょうか。この問題を解決するための前提知識として、戦争はなぜ起きるのか、戦争の原因についての考察が必要です。病気の原因がわからなければ、病気の治療ができないのと一緒です。
     戦争の一つの原因として武器商人が考えられています。武器は、資本主義的生産様式の商品として生産され、消費される運命にあります。従って、そのに資本論で明らかにされた法則が作用しているならば、資本主義社会そのものが問題になるます。つまり、資本主義社会が存在している限り、戦争は無くならない、ということになります。資本論で明らかにされた法則について、その法則は「鉄の必然性を持って作用」と、次のようにいっています。
     資本主義的生産の自然諸法則から生じる社会的な敵対の発展程度の高低が、それ自体として問題になるのではない。問題なのは、これらの諸法則そのものであり、鉄の必然性を持って作用し、自己を貫徹するこれらの傾向である。(「序言[初版への]」『資本論・1』、カール・マルクス著、新日本出版社、p9〜10)
     ここでマルクスが問題にした資本主義社会に「鉄の必然性を持って作用」する傾向というものが本当にあるのら、そこに諸悪の根源がありそうです。資本論や帝国主義論などを手掛かりに、諸悪の根源を求めていきたい。そう考えています。

    2023年12月3日日曜日

    軍国主義の一掃掲げていた文部省

     日本国憲法と共に、教育基本法ができたことは知っていましたが、文部省は、それに先立って「新日本建設ノ教育方針(昭和二十年九月十五日)」なる文書を出していました。読んでみて驚きました。「従来の戦争遂行要請に基く教育施策を一掃して」と軍国主義の一掃掲げ、「文化国家、道義国家建設の根基に培う文教諸施策の実行に努めている」と高い理想を実現しょうとしていたのです。

     文部省デハ戦争終結ニ関スル大詔ノ御趣旨ヲ奉体シテ世界平和ト人類ノ福祉ニ貢献スベキ新日本ノ建設ニ資スルガ為メ従来ノ戦争遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家、道義国家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ実行ニ努メテヰル
    一 新教育ノ方針
     大詔奉体ト同時二従来ノ教育方針ニ検討ヲ加へ新事態ニ即応スル教育方針ノ確立ニツキ鋭意努力中デ近ク成案ヲ得ル見込デアルガ今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメソトシテ居ル
    二 教育ノ体勢
     決戦教育ノ体勢タル学徒隊ノ組織ヲ廃シ戦時的教育訓練ヲ一掃シテ平常ノ教科教授ニ復帰スルト共ニ学校ニ於ケル軍事教育ハ之ヲ全廃シ尚戦争ニ直結シタル学科研究所等モ平和的ナモノニ改変シツツアル(「新日本建設ノ教育方針(昭和二十年九月十五日):文部科学省」より)

    2023年12月2日土曜日

    初めてのAnaconda

     Anacondaは、科学計算のためのプログラミング言語(Python)を使用できる環境を作る無料のアプリケーションです。放送大学の仲間にこの存在を教えてもらい、導入方法も教えてもらいました。
     プログラムをネットで探し、初めは対数の計算をしてみました。1, 10, 100, 1000, 10000の対数も求める計算です。二回目は、10000を500にして計算してみました。一瞬に結果が示されて、それだけで感動してしまいました。
     新しい世界を歩き始めた感動です。数学がより楽しめそうです。

    import
    math [math.log10(x) for x in (1, 10, 100, 1000, 10000)]

    結果:[0.0, 1.0, 2.0, 3.0, 4.0]

    import math
    [math.log10(x) for x in (1, 10, 100, 500

    結果:[0.0, 1.0, 2.0, 3.0, 2.6989700043360187]

    2023年12月1日金曜日

    オスプレーの墜落 は「一事が万事」

     また、米軍のオスプレーが墜落しました。幸い重大事故には至らなかったものの、兵士は死亡、あるいは行方不明です。この事故を知ったとき、咄嗟に頭によぎった言葉が「一事が万事」でした。オスプレーがたびたび事故を起こしていることもあって、オスプレーは欠陥軍用機と言われてきました。それでも、米軍は運用を強行してきました。自衛隊も追随して運用してきました。その結果が今回の墜落を招いてしまったのです。
     この一事は、米軍は、あるいは軍隊は自国の兵士の命まで軽視していることを意味します。そして、軍事に関わる万事が、兵士の命も、ましてや敵国の命など眼中にないことを意味しています。だからこそ、国防といった言葉を隠蓑にし、兵器の消費という大目標を達成しようとしているのです。
     少し考えれば、軍事産業にとっての恰好の市場は戦場なのです。例えばミサイルの場合、戦争がなければ消費はされません。戦争がなければ、その性能を知ることもできないのです。
     と、ここまで書いていて、「国防のため」と言っても、兵器は所詮、「どれだけ効率的に人を殺せるか」が性能の良い兵器だということに気がつきました。このような兵器が世界で大量に生産され、その商品は、戦場という市場を求めているのです。こんなのおかしいです。このおかしさに気が付かなくてはなりません。そう痛感します。