2022年1月31日月曜日

地球と生命”共進化”の謎解明

 生命は、約40億年前に誕生したが、その頃の地球環境には酸素もなく、今の生物にとってはとても厳しい環境だった。そんな環境でも、生命は徐々に進化し、35億年前になると、光合成生物が誕生し、やがて、地球は酸素に覆われるようになる。

 そんな地球にとっての大変化は、8億年前に起きた多細胞動物の大進化であろう。番組「月が教えてくれる!?地球と生命”共進化”の謎」によれば、多細胞動物大進化の要因は、8億年前に起きた地球や月に降り注いだ大量の隕石がもたらしたリン濃度の急増にあるという。
 月の環境は、地球と違って太古の姿が残されており、年代ごとの隕石の数まで調べることができるようになったそうで、そうした調査によって明らかになった「大量の隕石が降り注いだ年代」と「リンが急増した年代」と「多細胞動物が大進化した年代」が、見事に一致したというのだ。
 小宮教授が「小さな変化だと負のフィードバックがかかってしまうので、大きな変革があることが重要」と語っていたが、それが、リンの急増だったという。






2022年1月30日日曜日

ビックバン以前の宇宙は?

 私たちが住んでいるこの世界(宇宙)は、ビックバンから始まっていまだに膨張し続けていると言われている。それでは、ビックバン以前はどうだったのか、という疑問を抱いている人は、私もそうだが、結構多いのではないだろうか。一般人向けの宇宙論に関する本にも、納得できるような(なるほどと思えるような)答えは見つからなかった。
 しかし、立花隆さんの解説によると、「世界は無から生まれたのではなく、ヒッグス粒子が詰まった真空から生まれたのである。そして実際、真空から物質が生成するということは、高エネルギー素粒子実験の世界では、日常的な現象なのである」。だとすると、ビクバン以前の宇宙は、
ヒッグス粒子が詰まった真空の世界が広がっていたのだろうか。そんな想像ができるようになってきた。
 相対性理論によると、現在既知の物質は宇宙の構成体の一部分でしかなく、宇宙の構成体の多くが暗黒物質(ダークマター)だ、ということはわかっていたが、暗黒物質の正体がヒッグス粒子なのだろうか。いずれにせよ、宇宙空間は「真空で何もない」のではなさそうである。

 最近の数カ月間、高エネ研の素粒子実験をレポートする仕事がつづいているので、この大系でだいぶ勉強させてもらった。一般読者には無縁の内容が大部分だが、次のくだりだけは、ぜひ紹介しておきたい。
 素粒子論は現在、標準理論と呼ばれる形にまとまっているが、そのエッセンスは、驚くべき内容を含んでいる。
「標準理論が新しくもたらした物質観のなかで最も革命的な要素は真空に対する概念であろう。標準理論によれば、真空は何もない無の空間ではなく、物性における媒質のように何か(ヒッグスと呼ぶ)が詰まっている力学的構造体である。したがって真空自身がエネルギーをもつことが可能であり、環境変化に応じて真空自体の性質も変わりうる(中略)、すなわち真空は温度によってその相を変える。標準理論の要諦は、われわれの住む世界が極低温状態にあり、ヒッグス粒子の凝縮したいわば超伝導相状態にあると認識することにある」(『朝倉物理学大系第六巻』長島順清「高エネルギー物理学の発展」)
 ビッグバンで、なぜ何もないところから世界が突然出現することができたのかが、これによって説明される。世界は無から生まれたのではなく、ヒッグス粒子が詰まった真空から生まれたのである。そして実際、真空から物質が生成するということは、高エネルギー素粒子実験の世界では、日常的な現象なのである。素粒子論の最先端は、ほとんどサイババの超能力(もちろんこちらはイカサマ)みたいな話になっているのである。(『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』、立花隆著、文芸春秋、2003年)

2022年1月29日土曜日

過去に目を閉ざす者は結局・・・

  岸田文雄首相は28日、佐渡金山遺跡(新潟県佐渡市)の世界文化遺産登録を目指し、ユネスコに推薦する考えを表明した。当初は見送りを検討していたが、自民党内から突き上げを食らい、方針転換した形だ。この点に関し、<視点>人類遺産の理念、政治が翻弄」という、朝日新聞編集委員の中村俊介氏による解説があった。しかし、その内容は、名指しこそ控えたにせよ、「露骨な政治介入によって遺産のOUV(顕著な普遍的価値)がゆがめられることがあってはならない」と、韓国を批判し、対立を助長するものであった。

 推薦は決まった。が、来夏の審議まで道のりは険しそうだ。韓国はもちろん、国際社会の反発も予想され、すんなり登録が実現するか予断を許さない。
 世界遺産が条約である以上、国際政治から完全に切り離すことは現実的に難しい。しかし、露骨な政治介入によって遺産のOUV(顕著な普遍的価値)がゆがめられることがあってはならない。それは世界遺産制度の根幹を揺るがすことにもなりかねない。(『朝日新聞』』』、2022年1月29日)

 それに対し、政界地獄耳」は、「」というコラムを書いて、アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅強制収容所というドイツの負の遺産に対するドイツとイスラエルの例を挙げながら、歴史認識の違いを「ドイツとイスラエルのように共同で乗り越えることはできないものだろうか」と、問題提起している。政府におもねない心地よい姿勢に拍手喝采である。朝日新聞には見習ってもらいたいものである。
 歴史認識と言えば、ドイツのワイツゼッカー元大統領の有名な言葉「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」(ヴァイツゼッカー『荒れ野の40年』岩波書店、1986年、p16)を思い出す。それに比べて、岸田文雄首相の姿勢を恥ずかしく思う。
 なお、日刊スポーツの社会コラムはネットで全文公開されているので、全文紹介しておく。

★「第二次世界大戦中に命を落とした約600万人のユダヤ人と、ナチス・ドイツの強制収容所に閉じ込められ、生還することのなかったユダヤ人、ポーランド人、ロマの人々。1942年の春に始まったアウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅強制収容所が解放されて77年を迎えます」とポーランド広報文化センターは伝える。20日、国連総会はホロコーストを否定・歪曲を非難する決議を193カ国の賛成で決議したが、この決議実現を主導したのは加害国であるドイツ。被害者であるイスラエルに声をかけ共同で提案した。
★1月27日はアウシュヴィッツ強制収容所がソ連軍によって解放された日で、国連は21日から27日までをホロコースト犠牲者を想起する国際デーとしてホロコーストの歴史と遺産に焦点を当てこの悲劇を忘れることなく、負の歴史を繰り返さぬよう、共に考え平和を構築することを考える日としている。国連やドイツが危惧する背景には米国をはじめ世界各国で「ホロコーストはなかった」とか「陰謀論」が繰り広げられ、歴史を無視し、人権を軽視し差別を助長する動きが拡大しているからだ。
★日本政府は1度は見送った佐渡金山遺跡のユネスコ世界記憶遺産登録申請を閣議決定する。韓国の反発は必至だ。その後両国で登録を巡り平行線になるのは明らかだが、ドイツとイスラエルのように共同で乗り越えることはできないものだろうか。日中、日韓関係が進まないのはいずれも歴史認識の相違が拡大してのことばかりだ。一時は共通の歴史研究などの議論も進んだが、加害者と被害者の理屈がそもそもかみ合わない。ドイツとイスラエル、そして国連は戦後80年を迎える前に大きく前進したが、東アジアでは無理な相談だろうか。(K)※敬称略(」より全文引用)

2022年1月28日金曜日

崇高な理想を棄てる憲法改定

  また、改憲論が叫ばれ始めた。また、というのは、「憲法改定論議が最近かまびすしいが、・・」(忘れかけていた人生の名言・名句』、森村誠一著、角川春樹事務所2008年)と書かれているように、憲法改定論議が繰り返されてきたからだ。あらためて、9条改定がどういうものなのかを、森村誠一氏の言葉を借りて考えたい。森村氏は、「アメリカの都合に合わせて国家の崇高な理想を棄てようとする憲法改定は、餌の前に尾を振る犬のように見えてならない」と次のように書いている。

 「人はパンのみにて生きるにあらず」(新約聖書 マタイ福音書四-四)という言葉がある。陽の光も浴びずに一生、檻の中でも餌があれば生存することはできる。だが、それは生きているとは言えない。餌という一種の人工呼吸器によって生存しているだけにすぎない。
 「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
 日本国憲法前文の第四項である。アルジェンティーナや檻の中とはまったく関係ないような文言であるが、国家の理念を宣言している格調高い言葉である。
 理念なき国家と国民は、古代ローマ市民のように堕落する。憲法改定論議が最近かまびすしいが、現実というよりはアメリカに同調して、日本の理念を棄てようとしているようにおもえてならない
「憲法は普通の法律とは全然ちがう。憲法とはたとえば、私の国はこういう顔をしているとか、こういう理想を持っているという決意表明でもあるのだから、現実にそぐわないところがあっても当たり前だとおもうんです。これは国が目指す方向、理想を表明したものだから、現実にそぐわないから現実に合わせましょうという、こういうのを普通は堕落と言うんです。理想を放棄しようとするのですから堕落でしょう。(中略)憲法を変えるということ自体、まちかっていると私はおもいます」田中優子氏(法政大学教授)
 この言葉は、まさに憲法の日本の名誉にかけた崇高な理想宣言を的確に衝いている。
 これを現実に合わないという目先の理由から廃棄することは、聖書で言うパンのために国家の名誉をかけた理想を棄てることである。
 私たちは敗戦後、国家の独立を奪われ、敗戦国の汚名のもと、「陽の光も浴びずにうずくまっていた」ことを忘れてはならない。理想を棄てるということは、パンのためにうずくまることである。アメリカの都合に合わせて国家の崇高な理想を棄てようとする憲法改定は、餌の前に尾を振る犬のように見えてならない。(上同、p 237、協調は筆者)

 さらに大切な視点は、「九条を取り払うことが戦争をしやすくするシステムヘの改造である」点である。真の平和が、ますます遠のいてしまうことである。なぜなら、「真の平和とは、単に戦争がない状態ではない。戦争ができないシステムが完全に保障されていることをいう。憲法九条の改定、あるいは廃棄は、その保障を取り除くこと」(上同、p 257)だからである。

2022年1月27日木曜日

アメリカのもう一つの顔:戦争国家

 放送大学の人間と文化コースに「世界文学への招待」という科目がある。この科目を受講した学友から、この科目で、「アメリカは第二次世界大戦後も世界各地で戦争を続けてきたということ、朝鮮半島、ベトナム、イラク、アフガニスタンと絶え間なく戦争を続けてき他こと」などが語られているという情報を教えてもらった。早速講義を聞き、教科書も取り寄せて読んでみた。教科書には、次のように書かれていた。
 1776年にイギリスから独立を果たして以来、アメリカ合衆国による軍事行動の回数は、大規模な戦争から小規模な軍事作戦まで含めれば、2010年の時点で250回をすでに超えている。つまり、ほぽ一年に一回の割合で何らかの武力行使が発生していることになる(そのなかでも最長のものは、一世紀以上にわたって続けられたアメリカ先住民に対する軍事行動である)。世界に冠たる民主主義国家を自認するアメリカは、戦争国家というもう一つの顔を常に保持してきた。(『世界文学への招待』、放送大学教科書、p43
 私は、アメリカ先住民に対する軍事行動が一世紀以上にわたって続けられたことに驚き、西部劇に対する見方が一変してしまった。偶然にも、署名につられて手にした『戦争中毒:アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由』(ジョエル・アンドレアス著、きくちゆみ監訳、合同出版、2002年)に、アメリカ先住民に対する虐殺の記述があった。
 この「明白な運命」はすぐにアメリカ先住民(インディアン)に対する虐殺的な戦争へとつながっていった。米軍は情け容赦なく先住民の土地を奪い、西へと追いやり、抵抗する者たちを虐殺した。(明白な運命:キリスト教徒による新大陸の獲得と開拓を神に与えられた明白な使命とする考え方で、18世紀以来先住民迫害と領土拡張の正当化に使われた。『戦争中毒』、p7〜8)
 このような「戦争中毒」のアメリカと日本は、軍事同盟(安保条約)を結び、共同訓練もしてきた。だが、一緒に戦争することなく、現在に至っている。なぜか。憲法九条が防波堤になってきたからである。まずはこの事実を謙虚に受け入れ、アメリカとの軍事的な結びつきは断ち切った方が良いことに気づくべきであろう。

2022年1月26日水曜日

元始、女性は太陽であった

 2021年11月4日放送「レディーサピエンス」をやっと見ることができた。結論は、狩は男性が担い、そういうこともあって女性の地位は低く、「戦利品の対象」と見られることも多かった。しかし、近年の発掘による新発見もあって、女性も狩を手伝っていたこと、指導的な地位にいた女性もいたことなどがわかってきて、レディーサピエンス像が像が塗り替えられてきているという。
 この番組で一番感動したのが、ホーレ・フェルス洞窟の3万5千年前の地層から発掘された女性像である。ホーレ・フェルスのヴィーナスと言われており、旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古いものだという。
 この像の特徴は、胸と陰部が強調され、つまり、「女性であることの本質だけ」をが強調された。だから、顔も、手足も表現する必要がなかった。だからこそ、余計に、妊娠や出産、豊穣、命の力強さが、命を生み出すものへの祈りが表現されているという。とにかく、堂々として、力強い。3万5千年も前に、このような作品が作られていたことに、ただ、ただ驚いた。
 女性解放運動の先駆者として知られる作家、平塚らいてう(一八八六・明治十九年~一九七一・昭和四十六年)の言葉として、「元始、女性は太陽であった」が知られている。ホーレ・フェルスのヴィーナスのような存在を知ると、「元始、女性は太陽であった」が真実味を増して蘇ってくる。



2022年1月25日火曜日

新しい哲学が求められている

 辺野古への米軍基地問題が混迷を深めてきている。市長選で、基地反対派が敗れたからだ。原発推進派も、再稼働に向けて力を入れてきている。温暖化の問題も、早く対策を取らなければならないほどに進行してきている。今や問題は地球規模で起きていて、グローバルな思考が求められていると言えよう。
 前に読んだ哲学者(たぶん梅原猛さん)の話で、新しい哲学が求められているというのがあった。その時は、そんなものか、と思っただけだが、彼の言わんとしていたことが、なんとなくわかってきた。
 いまの状況を見ると、基地問題は基地問題として考えられ、原発問題も、原発単独の問題、拡大してもエネルギー問題、環境問題として考えられている。憲法問題も、危機的状況にある。それらの問題に対し、力が分散し、効果的な対策がとられていないのではないだろうか。
 だからこそ、多くの問題を同一の問題として考えられる統一理論が求められている。それが、梅原猛さんが求めた「新しい哲学」というものではないだろうか。でも、これまで培われてきた哲学の中に、多くの問題を同一の問題として考えられる哲学が、先行研究の例としてあるのではないか、そんな気もする。と、そんな気持ちで、哲学史というものの外観を学んでみたいが、その前に、学んでみたいが、その前に、和辻哲郎、見田宗介、柄谷行人といった日本の思想家から探ってみたいと思っている。

2022年1月24日月曜日

戦争ができない世の中をつくろう

 ジャーナリストの「むのたけじ」さんの言葉として、 「憲法は生活の普段着です」という言葉を紹介したことがある。その「むのたけじ」さんが「戦争ができない世の中をつくらなければいけない」という言葉を残していた。続いて、「戦争は悪だということを確認するのが、二十世紀にあれほどたくさんの犠牲を払って、私たちがつかんだ歴史の教訓でなければならない」(『戦争絶滅へ、人間復活へ:93歳・ジャーナリストの発言』、むのたけじ著、岩波書店2008年』、p 55)と。
 改めて、「戦争絶滅へ、人間復活へ」という書名の意味について気づいたことがある。「戦争絶滅」への道と、「人間復活」への道とは、車の両輪の如く切り離せない、ということである。逆に考えれば、憲法を変えて「戦争をしやすくする」道は、「人間性を剥奪しやすくする」道でもある、ということである。
 つまり、「平和は創っていくべきもの」で述べたように、単純に「人間性を追求する」ことも、結果的には「戦争絶滅」への道を追求する道でもあるのだ。なぜなら、
 戦争というものは、戦場でも国内でも人間破壊です。人間ではなくなって、一種のケモノ状態になる。そして、相互不信になる。軍隊とは命令と服でしょう。軍隊の命令と服従という体制を維持していくためには、軍人だけでなく、一般の国民までが、さっき言ったような相互監視の形をとるんです。 戦争のなかから正義が生まれる、なんてことはまったくありえないね。敵に対して憎悪をかきたてるということが土台にあって、その憎むべき相手を皆殺しにする。そればかりか、日常生活でもお互いが信じ合えない状態になっていく。(上同、p53)
 そうでなくても、ブラック企業などが存在し、人間性の破壊が進行している。だからこそ、「戦争絶滅と人間復活」に向かって進めていかなければならない。

「『くらす、はたらく、経済のはなし 5』、山田博文著、大月書店」より

2022年1月23日日曜日

一九四五年革命の意義再認識を

 戦後の改革を革命に匹敵するものと捉えた八月革命説という存在は知っていた。憲法学者の宮沢俊義氏が「八月革命と国民主権主義」(『世界文化』第1巻第4号、1946年5月)という論文で主張したもので、次のような内容だった。
 憲法改正限界説を前提とする場合、天皇主権を基本とする大日本帝国憲法から国民主権を基本とする日本国憲法への改正は、憲法改正の限界を超える。しかし、天皇主権と相容れない「1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言」受諾は天皇による国民への主権の移譲の同意・承認であり、この時点で国民主権と矛盾する限りで大日本帝国憲法は効力を失うという法的意味の「革命」があったといえる。(「ウキペディア」より)
 しかし、八月革命説を取り上げた論調はあまり見られなかった。ところが、立花隆さんが「1945年革命」説を唱えていたのを最近知った。1945年の「社会的システム転換」は、1868年ん明治維新と、「それに並ぶくらい、あるいはそれ以上といっていいくらい大きな社会的システム転換であった一九四五年革命」(『イラク戦争・日本の運命・小泉の運命』、立花隆著、講談社、2004年、p300)と書いているのである。「一九四五年 大日本帝国→いまの日本」だと。
 革命というと、あまり良い印象を持たない人もいるかもしれない。しかし、フランス革命が象徴しているように、民衆にとって、あるいは市民、国民にとっては良きもの、虐げられたものの解放といったイメージの方が真実に近い。一九四五年の改革だって、戦前、戦中から比較すれば、全くの革命であり、臣民(君主国において,君主に支配されるものとしての人民。旧憲法下において,天皇および皇族を除いた国民)からの解放であった。だからこそ、憲法を、しかもその中心部分を改革しようという企ては、一九四五年革命を後退させるものである。こうした認識が欠けている向きがあるように思える今こそ、一九四五年革命の意義を再認識したいものである。

2022年1月22日土曜日

平和は創っていくべきもの

 目標も大切だが、目標に至る過程も同じように大切である、そんな考えに共鳴してきた。同じ考えに、道元禅師の根本思想とも言える「修証一如」」という教えがあった。「普通は、修行するということは、あくまでプロセスであり、その向こうに結果としての悟りがあると考えます。道元は、道を探り、悟りを求めて座禅するという、そのプロセス自体の中に、既に悟りがあるという。 「修証一如」、つまり修行することと悟りを開く事は一つである」(『道元の読み方』、栗田勇著、祥伝社)。
 このことを知って、「平和を守る」というけれど、「平和は、守るべきものではなくて、創っていくべきもの、創っていきたいものである」ということに気がついた。
どういうことか。
 「九条の思想」を世界に広げて」に「科学の世界では、天文学の世界でも、素粒子の世界でも、多くの国々の協力なしには研究が進まないようで、ニュートリノ大実験では、五百人以上のプロジェクトによって実験が進められている。こうした研究をよりよい環境で進めていくためにも、「九条の思想」を世界に広げて、国家間の対立はなくするようにしていきたい」と書いた。しかし、こうした国際的な研究そのものが「平和な状態」であり、そういう意味では「平和の創造」という側面もある、ということである。
 昔から日本には、 「華道」とか、「茶道」、さらには「柔道」に「剣道」といった「***道」といった文化やスポーツがある。考えようによっては、科学研究の分野を「科学道」と考えることもできる。このような「道」も、「平和あってこそ」のもので、「道」即 「平和」である。だから、「道」の数も、幅も大きくしていくことで、「平和を創っていく」ことができる。そうして、戦争勢力を追いやっていけば良い。これこそ、”戦わずして勝つ”方法であろう。

2022年1月21日金曜日

日本全土無差別爆撃=ジェノサイド

  1945年3月10日、東京大空襲があった。B-29全334機は、東京に焼夷弾の絨毯爆撃を行い、死者は10万を超えたと言われている。それで東京は焼け野原になってしまったが、その後空襲は地方に及び、日本の主要都市は、ほとんど焼き尽くされてしまった。『ぼくが見た太平洋戦争』の著者宗田理さんは、このような日本全土に及ぶ空襲を「計画的な無差別爆撃」と表現していたが、正に日本版ジェノサイドであろう。確かに、広島と長崎に落とされた原爆も、ジェノサイドだが、日本全土に及ぶ空襲も、アウシュヴィッツや原爆に匹敵するジェノサイドそのものである。『ぼくが見た太平洋戦争』で紹介されていた1945年5月前半の空襲の記録を読み、その思いを強く持った。

五月四日(金曜日) B-29四十九機、九州の航空基地に来襲。別の十五機は、関門水域に機雷を投下。
五月五日(土曜日)  B-29五十二機、広島県呉方面に来襲。別の五十七機は、九州の航空基地を爆撃。
五月七日(月曜日)  B-29四十一機、九州の航空基地に来襲。
五月八日(火曜日)  P-51戦闘機六十五機、千葉県の航空基地、軍需工場を銃撃。
五月十日(木曜日) B-29三百七十九機、岩国、徳山、呉、松山、九州などを焼夷弾爆撃。
五月十一日(金曜日)  B-29九十三機、阪神地区に来襲。神戸、芦屋を無差別爆撃。別の五十八機、九州地方を爆撃。
五月十三日(日曜日) アメリカ艦載機九百二十機、九州南部に来襲。航空基地を爆撃。
五月十四日(月曜日)  B-29四百八十機、名古屋に来襲。(『ぼくが見た太平洋戦争』、p 63〜64)
 アウシュヴィッツの悲劇は、遺跡としてその惨事を語り続けてきたし、これからも語り続けるであろう。しかし、空襲の惨事は、遺跡として残されていない。だからこそ、加害の歴史を忘れてはいけないように、空襲の惨事も、語り続けていく必要がある。

2022年1月20日木曜日

<生き方の魅力性>という戦い方

 これまでの人間の歴史を振り返ると、戦争の世紀と言われるほどに、「国家間の戦力による戦い」が続けられてきた。そして、これからも、そうした戦いが続くように思われている。だから、新しい軍事基地の建設が強行されているし、国家財政難にもかかわらず、軍事費の増加が見込まれている。
 しかし、冷静な目で世界を見渡すと、戦力によらない方法論が芽生え、実績を上げてきている。その方法というのが「言葉ではない、暴力ではない、<生き方の魅力性>によって、人びとを解き放つこと、世界を解き放ってゆく」(定本見田宗介著作集10』、p32)というものである。
 見田宗介さんが、その一つの具体例として挙げているのが、戦後の冷戦です。「アメリカが冷戦を軍事力で勝ったのではない」「 アメリカと西ヨーロッパは、その情報と消費の水準と、何よりもその『自由な社会』であることの魅力性において冷戦の対手を圧倒した」(上同、」p 98)から、アメリカは冷戦に勝利したのだ。
 こうした新しい戦いというものには「怨恨」や「報復」といったものがないのが特徴である。「ロシアや東欧諸国の民衆で、アメリカを恨んで自爆テロをしようなどという人はいない」(上同、」p 98)のだ。
 では、どうするか。次に示されているように、われわれ「自身が、独裁者や独裁的な勢力から自立することをとおして、アメリカを中心とするグローバリズムの支配からも自立し、自らの幸福と平和と自由を追求するという方向しかない」。
 独裁者や独裁的な勢力の支配の下にある貧しい国々が存在する時、これらの国々の問題の真実の「解決」のかたちというものを考えてみることが許されるとすれば、それはこれらの国々の民衆自身が、独裁者や独裁的な勢力から自立することをとおして、アメリカを中心とするグローバリズムの支配からも自立し、自らの幸福と平和と自由を追求するという方向しかないはずです。
 このような国や地域の民衆の自立のために日本やアメリカの高度の情報化/消費化社会の内部の人間がなしうることは、(当面の様々な「援助」は有効であるとしても)根本的には、わたしたちの社会自身が自立すること、外部の諸社会、諸地域を収奪し、汚染することのないような仕方で、自由と幸福の持続可能なシステムを構想することでしかないはずです(被支配者の自立のために支配者がなしうることは、支配者自身が自立すること、被支配者への依存をやめることです)。(上同、p102〜103

2022年1月19日水曜日

”ゴーギャンの理想”社会

 ゴーギャンは、ゴッホと共同生活をした後タヒチにに行って、そこで生活しながら創作をした。そして、二度とヨーロッパに帰ることはなかった。そこまでは知っていたが、なぜタヒチに行ったのかも、タヒチで描かれた絵の評価も、よくわからなかった。しかし、ゴーギャンの代表作『アレアレア』の、見田宗介さんによる解説を知って、その辺の事情がわかってきた。
 ゴーギャンが『アレアレア』で描きたかったのは、「人間と野生の犬みたいなものがお互いに自由に、楽しく静かに共生している」世界であり、だから、「この犬は野性的な生命力の象徴として赤くなければいけなかった。こちらにある人間達と同じような色で描かれて」いる、という。だとすればゴーギャンは、理想の社会を探しにタヒチに行き、そこで見つけた”ゴーギャンの理想”社会を描いたのかもしれない。あるいは、創作をする過程で、
”ゴーギャンの理想”社会というものを考えたのかもしれない。ゴーギャンの魅力を発見した気分だ。

『アレアレア』
 彼はその頃のヨーロッパの爛熟した商品文明、自分で株式ブローカーとして裏の裏まで知り尽くしていた商品世界、表面的な繁栄に対して強い嫌悪感をもってタヒチに行くわけです。この絵に関して彼は友達に次のような手紙を送っています。私はここで「野蛮な豪華」というものを描きたかった、と。この野蛮な豪華さを形作っているものは「絹でもない、ビロードでもない、金でもない」、純粋な画家の手によって豊かにされたマティエールである、と。絹でもない、ビロードでもない、金でもない、そういったいわば商品世界のものによってゴテゴテと飾り立てられた身体ではない、純粋な野蛮のもつ豪奢なのだと。
 これは『アレアレア』という彼の代表作の一つですが、タヒチの言葉で「歓ばしさ」とか、「静かな幸福」という意味です。ゴーギャンが一度パリに帰って画展をした時に大好評を得ます。ところが、この絵の犬だけは非常に評判が悪かった。この赤い犬です。変な犬だ、ということで評判が悪かった。今でも、犬を切り取って二人の女性を真ん中において絵葉書とかが作られています。それはゴーギャンに対するよくある誤解の典型的なもので、ゴーギャンは別に女性の身体だけを描こうと思ったわけではないのです。ある一つの世界があるということを描きたかったのです。人間と野生の犬みたいなものがお互いに自由に、楽しく静かに共生している、そのような世界を描きたかったのです。それ以前、この絵を発表する前のヨーロッパの絵の中に出てくる犬というのは、貴婦人が手に抱いているテリアとか、いわば飼い慣らされている可愛い犬、つまり文明的な犬だったわけですが、その目から見るとこの犬は変な犬だということで評判が悪かった。ゴーギャンが言いたかったことから言えば、この犬は野性的な生命力の象徴として赤くなければいけなかった。こちらにある人間達と同じような色で描かれています。(『定本見田宗介著作集10』、岩波書店、2012.p 27~29)

2022年1月18日火曜日

戦争と憎悪と抑圧のない世界を!

 戦争のない平和な社会が目的ならば、その手段も平和的でなければおかしい、武力で平和を守れるわけがない、そう思ってきた。「武力で平和を守る」という言葉自体おかしいのだ。なぜなら、「平和を守る」といって手を出した瞬間に、平和が破られてしまうからだ。
 ところで、「平和」とは、戦争のない状態とかいって、曖昧な概念である。それに対して、見田宗介さんが社会が目指すべき世界について、「異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」、「戦争と憎悪と抑圧のない世界」「異質なもの多様なものの相補し交響する世界」と表現していたが、これは、「平和な社会・世界」の定義そのものであろう。
 また、見田宗介さんは、平和な社会という目的に対する手段も、抽象的だが、単なる「暴力的な否定という仕方ではなく、(人間の中の自然の可能な力を肯定するということを通して)異質なもの多様なものの相補し交響する世界の胚芽を、至るところの今ここに生きられる仕方で実現していく」と平和的な方策を述べている。
 ここで言っていることを私なりに解釈すると、人間の可能な力の肯定、つまり、個々人の意欲に支えられた「異質なもの多様なものの相補し交響する世界の胚芽を、至る所に育てていく過程で、戦争とか、憎悪、抑圧などは自然に”追いやられ”てしまう。戦争とか、憎悪、抑圧の主体が自壊してしまうような世界こそが平和な世界ということもできる。
 わたしたちにとって野口晴哉は、 ジョン・レノンやボブ・ディランやカルロス・サンタナの歌と遥かに呼応する運動のうねりの中で、全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界を実現するための、方法の夢中の模索と探求という途上で出会われた。
 戦争と憎悪と抑圧のない世界を、 暴力的な否定という仕方ではなく、(人間の中の自然の可能な力を肯定するということを通して)異質なもの多様なものの相補し交響する世界の胚芽を、至るところの今ここに生きられる仕方で実現していくのだという方法論の、確実な一角として探り当てられていた。(「人間について」『定本見田宗介著作集 10』、岩波書店、2012年、p15)

2022年1月17日月曜日

運動習慣で健康寿命を伸ばす

 数年前、一年近くスローランニングを続けたことがあった。しかし、何が原因だったか、途中でやめてしまった。ところが、また、再開する気持ちが湧いてきた。NHKBSプレミアム「ヒューマニエンス”走る”」をみたからである。
 「ヒューマニエンス”走る”」によれば、ランニングによって認知機能が改善するだけでなく、健康長寿も伸びるらしい。走ることで古くなったミトコンドリアが破壊され、ミトコンドリアの新生を促すからだという。運動の効果を映像で示されると、説得力がある。
 また、「『赤旗日曜版』、2022年1月16日号」記事、樋口満著「知ってトクするフィットネスは動楽で!」によれば、「グラフに示されるように、年齢とともに進む体力の衰えは、誰にも酒されない」が、運動習慣を続けることで、健康寿命を伸ばすことができる、という。
 後は、実践あるのみ。いつから? 今日からでしょう。ネットで読めるランニング雑誌をパラパラ見ていたら、休みも大切だが、「3日以上の休み」は避けた方が良い、とあった。5分からでも、まずは出発することから始めてみよう。

(「『赤旗日曜版』、2022年1月16日号」より)



2022年1月16日日曜日

「九条の思想」を世界に広げて

 日本国憲法では、戦力も、交戦権も否定し、国際紛争は話し合いで解決しよう、という立場だ。それに対し、決まって言われる言葉が「武力で攻められてら、どうする」であろう。そう言って、戦力放棄の思想を”丸腰論”と言って批判する。
 しかし、日本国憲法前文にある「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」を国是とするならば、どんな形であれ、国土を戦争状態にしてはいけない。そのためには、敵基地攻撃能力とか言って「自ら攻撃しようとする」ことは論外として、「攻撃を招くようなこと」もしてはいけない。攻撃を招くようなことは、しらみつぶしのように炙り出しても、排除していかなければならないのだ。
 逆に考えれば、国際的な文化交流の機会を多くする、といった「国家間の親睦を深める機会」は多いほど良い。その方が、戦争のリスクを限りなく遠くへ追いやることができるからだ。そして、そこにこそ、平和な日本が約束される。


 科学の世界では、天文学の世界でも、素粒子の世界でも、多くの国々の協力なしには研究が進まないようで、ニュートリノ大実験では、五百人以上のプロジェクトによって実験が進められている。こうした研究をよりよい環境で進めていくためにも、「九条の思想」を世界に広げて、国家間の対立はなくするようにしていきたいものである。

2022年1月15日土曜日

米兵はマスクなしで外出、酒飲みもOK

 コロナ感染者が、あれよあれよという間に1日に2万人を超えてしまった。一時は収束したのだろうかというほどだったのに、である。これというのも、政府の不手際であることは明確だ。その最たるものが水際対策の不徹底である。
 政府は、水際対策としてすべての国・地域からの入国者に求めていた。しかし、米軍関係者は例外だったからだ。しかも、最近知ったことだが、米軍関係者の例外を認めていたのは日本政府だけだった。その辺の事情は、『サンデー毎日』(2022年1月23日)コラム「牧太郎の青い空白い雲」に詳しく報道されていた。
 米海兵隊基地「キャンプ・ハンセン」で発生した巨大クラスターで、基地外でオミクロン株感染が広がっている。
 だというのに、米兵はマスクなしで外出。酒を飲む。キャンプ・ハンセン所属の海兵隊員が酒気帯び運転で立て続けに2人も逮捕される始末だ。
 しかも、信じられないことだが、昨年9月以降、米海兵隊の部隊が出入国してもPCR検査を行っていない。同じアメリカの同盟国・韓国では米軍関係者の感染経路や健康状態を開示し、出入国時にはPCR検査を実施しているのに⋯⋯。
 沖縄は米軍のお陰で経済的利益を受け、両国には(アメリカ優位の)地位協定がある。だから、弱腰になるのは分かる。それにしても、日本人の命に関わる⋯⋯せめて「PCR検査をしないなら国交断絶だ!」とそっと言え! (『サンデー毎日』、2022年1月23日、p 41)
 なんていうことだ。このようなことが許されていいのか。17日から通常国会が開かれる。この水際対策の不徹底問題が、どのように議論されるか注視していきたい。

2022年1月14日金曜日

「一事が万事」の好例=イラク戦争

 分かりやすいイラク戦争に関する説明があった。そこで、遠い国のこととはいえ、日本も、大きく関与していたことを知った。 「イラク戦争では横須賀母港の二隻のイージス艦が、巡航ミサイル・トマホークを発射して戦争が始ま」り、「先制攻撃のあと横須賀母港の空母キティーホークの艦載機が五〇〇〇回以上の攻撃を行い」、その結果、「一九万人。その七割の一三万四〇〇〇人」もの一般市民が犠牲になっていたのだ。

 横須賀基地を母港とする空母機動部隊は、湾岸戦争、イラク戦争で、先制攻撃の中軸を担ってきました。イラク戦争では横須賀母港の二隻のイージス艦が、巡航ミサイル・トマホークを発射して戦争が始まっています。先制攻撃のあと横須賀母港の空母キティーホークの艦載機が五〇〇〇回以上の攻撃を行いました。
 イラク戦争の犠牲者は一九万人。その七割の一三万四〇〇〇人が、戦闘に巻き込まれて死亡した一般市民といわれています。アメリカ軍兵士の戦死も四五〇〇人を超え、除隊後の自殺者や戦争後遺症に苦しむ元兵士の多さが深刻な問題となっています。
 開戦理由とされた、フセイン政権による「大量破壊兵器の保有」も、「テロリストをかくまっている」も事実ではなかったことが、米国自身の調査で明らかになっています。二〇一六年七月には、同盟軍であったイギリスの独立調査委員会(チルコット委員会)も、「侵攻は法的根拠を十分に満たしていたと言うにはほど遠い」と調査報告書を発表しました。
 基地の街に暮らす市民として心に重くのしかかるのは、こうした国際法に反した先制攻撃による軍事力の投入が「平和」を遠ざけ、より大きな混乱を作り出しているという現実です。歴史学者のエマニュエル・トッドは「1S(イスラム国)を生んだのは、アメリカのイラク侵攻だ」(朝日新 聞、二〇一五・二・一九)と指摘します。欧米諸国が過去数十年にわたって繰り返してきた空爆や地上戦が、夥(おびただ)しい数の中東の市民を犠牲にしてきたことが、今日の「テロの脅威」を呼び込んでい ます。(新倉裕史著「横須賀基地と原子力空母」『私たちは戦争を許さない:安保法制の憲法違反を訴える』、安保法制違憲訴訟の会編、岩波書店、2017年、p 33~34)

 このところを読んで、「一事が万事」という言葉が脳裏に浮かんだ。米軍がやってきたこと、これからやろうとしていることも、同じようなことであろう、ということだ。このような米軍と自衛隊は足並みを揃えてきているわけだが、自衛隊も、日本も、同じようなことをするようになってしまうのか、と思うと、やりきれない。安保条約の支持者さん、もう目を覚ましてもいいのではないですか。

2022年1月13日木曜日

百年後の日本から今を考える

 半藤一利さんの著書『漱石先生お久しぶりです』に、「百年単位で考える」という項目がある。そこに、百年を一世紀として考えることは、明治になって西暦が入ってきてからのことで、日本人には馴染みが薄い。そのためか、百年単位の長期スパンで物事を考えることに弱い。しかし、目先のことばかりにとらわれず、長いレンジで物事をみることが大切だ、とあった。
 英国の文化思想家ローマン・クルツナリックさんも、朝日新聞(2022年1月1日)で、「私たちの関心は『今、ここ』だけに集中し、未来を見据えてなすべきことをじっくりと考える『長期思考』が欠けて」いると述べていた。だから、「20××年の未来から考えよう」と提起していた。
 そこで、百年後の日本を考えてみた。「米軍の戦闘機が自由に飛び交い、その合間を飛ぶように、民間機が小さくなっている。さらに、あいも変わらず、戦闘機の爆音に悩まされ、低空飛行に怯える状況が後を絶たない日本」、そんなA案と、「軍事基地のない、名実ともに日本国憲法が遵守された平和で豊かな日本」、そんな B案である。私なら当然、
 B案だ。今、敵基地攻撃能力が必要と考えている方も、百年後まで必要とは考えていないのではないだろうか。
 しかし、一度憲法九条の改定を選んでしまったら、もとに戻ることは相当困難にあるであろうし、何よりも、日本、あるいは世界の破局に向かって加速されるのが怖い。だからこそ、B案のためには今、何が大切かを考えていきたいものである。昨日書いた破局的事態の現実化を防ぐために」は、この一つの方策である。

2022年1月12日水曜日

破局的事態の現実化を防ぐために

 最近、今までになく勇ましい(恐ろしい)ことを言うようになってきた。敵基地攻撃能力の保有ということだ。そうした対立を激化させる方策は、破局へ向かう勢いが増すばかりであろう。そういう意味で、『世界』(2022年1月)に掲載された論文、和田春樹著「日本外交の危機か、 われわれの危機か」は、示唆に富む内容だった。
 まず、「日本では首相が誰に代わろうと、安倍晋三元首相が打ち出した朝鮮半島政策が踏襲される」と始まり、敵基地攻撃能力の保有至る経過が、次のように簡潔にまとめられている。

 今こそ「戦後日本外交の総決算」を行なうと宣言した演説であった。安全保障環境は「激変」した。これまでの延長線上の政策では対応できない。六年間「積極的平和主義」の旗のもとすすめてきた「地球儀俯瞰外交の総仕上げ」をめざしていくと言い切った。

 その結果、「破局的事態が現実化する可能性」が増すことになる。だからこそ、「破局的事態が現実化する可能性をゼロにすることがわが国の最重要な課題の一つであるはず」と、問題提起をし、そのために、として、日本国憲法を指針とし、東アジア諸国との、非敵対的、友好的、協力的な関係の構築を目指すべきと、次のように指摘している。

 米朝が戦争状態に入る時、北朝鮮は在日米軍基地をミサイル攻撃すると明言したのである。いまでは核弾頭搭載ミサイルも含められているだろう。米朝が戦争状態になれば、核弾頭のミサイルが日本に着弾する。いくらミサイル防衛の装備を高めても、完全に防ぐことは難しい。北朝鮮が核兵器の使い道を考えれば、「アメリカは遠すぎ、韓国は近すぎる」ということだ。日米安保条約があるから大丈夫だ、米国の核の傘に守られるから安心だと言って済ますことはできな い。そのような破局的事態が現実化する可能性をゼロにすることがわが国の最重要な課題の一つであるはずだ。
 国際紛争を解決する手段として、武力による威嚇、武力の行使を放棄した日本が使うのは、平和外交の手段である。北の核を本当に防ぐつもりなら、日朝関係を非敵対的な、正常な関係に、できれば友好的、協力的な関係にすることがめざされるべきだ。
 さらに、日朝関係を正常な関係にするために欠かせないこととして、「植民地支配を反省し、謝罪する気持ちをもちつづけてこそ、私たちは韓国、朝鮮の人々と人間的な正常な協力関係の中で生きられる」と次のように結論している。こうした道理に基づく方策を用いてこそ、破局から人類を守ることが可能なのである。
 日本と韓国、朝鮮の関係において、植民地支配三五年の加害性は動かしがたく、日本人が反省謝罪することは永遠の課題である。植民地支配を反省し、謝罪する気持ちをもちつづけてこそ、私たちは韓国、朝鮮の人々と人間的な正常な協力関係の中で生きられるのである。
 東北アジアの六か国、韓国、北朝鮮、ロシア、中国、米国、日本が平和の家、共同の家に住む状態をつくらなければ、日朝の平和、米朝の平和、日中の平和、米中の平和、中台の平和が実現できるはずはない。朝鮮半島の人々を敵視、無視するならば、日本という船は自由で開かれた平和なインド太平洋を航海することはできないだろう。

2022年1月11日火曜日

戦争は人類破壊への扉を開く

 放送大学の授業科目「西洋芸術の歴史と理論」の一三回は、「20世紀の美術 —— 戦争の世紀の芸術 —— 」で、ピカソとシャガールを取り上げていた。この講義で、『ゲルニカ』に対する新しい評価を知った。古典的な戦争と20世紀の戦争を区別し、ピカソは『ゲルニカ』を通して、20世紀の戦争の本質を見事に描き出している、ということである。
 『ゲルニカ』は、ゲルニカへの空爆を描いたわけだが、ここには加害者は描かれていない。この絵では、加害者と被害者が切り離されている。被害者、殺される側の、苦悶というものを見なくても済む。そんな古典的な戦争にはない特徴が描かれている、というのである。
 そして、この絵が、我々にとって、わかりやすいものになっている。残念ながら、ニュースなどを通じて空爆というものがどういうものかを知っているからだ。しかし、ピカソにとっては、初めてのことで、実に驚くべきことであり、激しい怒りを感じたことであった。
 空爆に対する講師の説明も印象的だった。空爆は、「無防備な一般人をプロの軍人が空から殺す、殺しまくる」というのだ。20世紀の戦争の本質を見事に言い表している言葉だと思う。それでは、21世紀の戦争は、どんな特徴があり、その本質とは何だろうか。
 21世紀の戦争を考えるにあたり、決定的な影響を与える存在がある。それは、核兵器と核施設(原子力発電所や原子力潜水艦)の存在である。それゆえ、21世紀の戦争の本質は、人類破壊への扉を開きかねない、ということであろう。
21世紀の戦争は人類破壊への扉を開くと言ってもよい。

2022年1月10日月曜日

より高度な経済的社会構成体

 斎藤幸平さんによる、NHK放送「100分de名著 マルクス“資本論”」の四回目のメモをもとに、四回目の要点としてまとめてみた。
 斎藤さんは、新しい新資料を読みながら資本論を再解釈して、マルクスに新しい視点を与えている。その最たるものが、「生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンによって占有することを基礎とする個人的所有を再建する」ということ、つまり、「誰もが必要とする社会の富は、共有材としてみんなでシェアしていくことで、豊かなコモン(共有財産)の領域を広げていこう」ということである。このような思想に関する、次のようなマルクスの言葉も紹介していた。

 アソシエートした 生産者が、盲目的な力に支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的なものに規制し、自分たちの共同的な制御の下に置くと言うこと、つまり最小の力の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うこと(資本論第三巻草稿、アソシエーション:自発的な結社)

 より高度な経済的社会構成体の立場から見れば、個々人による地球の私的所有は、ある人間による、他の人間の知的所有と同様にまったく馬鹿げたものとして現れるだろう。 1つの社会全体でさえ、1つの国でさえ、いな、同時代のすべての社会を一緒にしたものでさえ、地球の所有者ではない。それらは地球の占有者、地球の用益者に過ぎないのであり、よき家父として、これを改良して次の世代に遺さなければならないのである。(資本論第三巻草稿)

 マルクスの言葉で印象的なところが、「盲目的な力に支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的なものに規制し、自分たちの共同的な制御の下に置く」と、「人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行う」、「より高度な経済的社会構成体の立場から見れば、個々人による地球の私的所有は、ある人間による、他の人間の知的所有と同様にまったく馬鹿げたものとして現れるだろう」で、いづれも、コモンを説明している内容となっている。
 また、資本主義社会では、労働が歪められ、自然が歪められ、人と自然の循環が乱されている。そんな姿は、労働環境の悪化、自然破壊などで表面化してきている。こんな状態をマルクスは、資本主義社会は「修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出す」と次のように表現していた。政府は、「新しい資本主義」を目指すらしいが、新しいの一言が付こうとも、こうした資本主義の本質は変わりようがないであろう。

 大土地所有は、社会的な物質代謝と自然的な、土地の自然諸法則に規定された物質代謝の連関のなかで修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出すのであり、その結果、地力を浪費させ、この浪費は商業を通じて自国の国境を超えて遠くまで広められる。(資本論第三巻草稿)

2022年1月9日日曜日

日本の借金”応能負担”で解決可能

 日本の借金は、2021年時点で1212兆4680億円を上回ってしまった。どうすればいいのか、解決の見通しはあるのか。現状は、そうした不安と疑問が渦巻いている。それは、私自身の姿でもある。しかし、忘れていただけで、解決策はあった。耳慣れない”応能負担”の原則を活用すればよかったのである。
 戦後のハイパーインフレによって、貯金も紙切れ同然になってしまった話を聞いているだけに、そうした二の舞だけは避けたい。そのためにも、こうした経済の真実をみんなのものにしていくことが大切である。
 幸い、新聞記事を書いた山田博文さんの本、『くらす、はたらく、経済のはなし 1~4』(山田博文/文、赤池佳江子/絵、大月書店、2019年)も出版されている。基礎から学んでみたい。


2022年1月8日土曜日

公党間の約束と信義は貫いて!!

 総選挙後、野党共闘は失敗だった、というキャンペーンがあった。立憲民主党も日本共産党も比例区で票も議席も減らしたからだ。しかし、小選挙区での議席は、野党共闘候補が一定の前進を果たしている。それに、総選挙前の補欠選挙では、それこそ、野党共闘が完勝したこともあった。それゆえ、必ずしも「野党共闘は失敗だった」とは言えない。
 そもそも、小選挙区では野党がバラバラでは勝てないことは、自明のことであろう。自民党にとって、「1人区で野党がバラバラでなく、1対1の構図をつくられたら、まずいことは誰でもわかる。だから、自民党はメディアに『野党共闘は失敗だ』と書かせている」(「赤旗』2022年1月1日、「日本共産党の志位委員長が紹介した自民党の重鎮からのメッセージ」から)という。立憲民主党は、自民党のネガティブキャンペーンに見事に乗せられてしまったのだ。
 朝日新聞(202216日)報道によれば、「首相、連合新年会に出席 9年ぶり 野党にくさび、狙いか」という見出しで、岸田文雄首相が「5日、立憲民主党と国民民主党の最大の支援団体・連合が開いた新年交歓会に出席した」ことを報じていた。この写真報道を見て、立憲民主党や国民民主党にとって、政権交代を”本気になって目指している”のかどうか、疑問に思ってしまった。しかし立憲民主党は、公党間の約束は守り、信義を貫いて欲しいものである。

(「朝日新聞、2022年1月6日」より)


 

2022年1月7日金曜日

絶えざる脱皮を目指した北斎

 ピカソは、多くの作品を残していることでも有名だが、北斎は、ピカソに並ぶほどの作品を残したのではないだろうか。しかし、ピカソの場合、青の時代とか、バラ色の時代といった時代区分と作品の発展(成長)過程が明確であるのに対し、北斎の場合、手がけた作品の範疇は多方面のわたり、それらの発展過程は必ずしも明確ではない。
 例えば、肉筆画帖に描かれたという「蛇と小鳥」は、全くの写実画のようで「このような絵も描いていたんだ」と驚いた絵の一つだ。これらが、多くの浮世絵や北斎漫画と、どのような関係にあるのか、全くわからないことに気づいた。


 また、多くの画号を用いたことでも有名だが、この点に関しては、絶えざる脱皮を通しての高みを目指したであろうことは、ピカソに似ている。その似た点というのが、「創作意欲の強さ」である。その典型、あるいはその証拠とも言えるのが、ここに示した「百」という落款である。北斎は、90歳で逝去しているが、この落款には「百歳まで絵を描き続けたい」という強い意志が滲んでいると言えよう。

2022年1月6日木曜日

外国人の人権を軽んじている日本は

誰かの人権が
守られていない社会では、
実は誰も人間扱いされない
駒井知会弁護士ウェブサイト「Choose Life Project」('21.4.9)

 出入国管理法改正案は、反対する声が大きくなったこともあり見送られたが、これにて一件落着したわけではない。日本で暮らす外国人の人権を無視し、モノのように扱う態度は、入管施設だけではなく、日本社会のそこかしこに存在しているのではないか。日本人と外国人と区分けし、外国人の人権を軽んじる。しかし、この日本で暮らしている誰かの人権が守られていないということは、この国で暮らす誰もが人として尊重されていない、ということなのだ。(武田砂鉄著「今日拾った言葉たち」『暮しの手帖』、2021年8-9月号、p129)

 なんとも素敵な言葉だろう。なんと真実をついた言葉だろう。
 ここ言葉を知って、米軍基地周辺で、それこそ何十年と続いている人権侵害のことを考えた。身近なことでは、家族が認知症になり、施設で看てもらいたいが金銭的に無理だということを考えた。何人も、人として尊厳されるという建前からすれば、これは、国による人権の侵害ではないか。
 とここまで書いて、もっと身近な人権、人間の尊厳というものを考えていく必要性を感じた。そして、身近な人権侵害と、遠くで起きている人権侵害がどのように繋がっているかを考えていくのである。もっともっと、「基本的人権」や「個人の尊厳」のことを深く考えていきたい。

2022年1月5日水曜日

繁栄をもたらす憲法第九条

 立花隆さんの論文、”憲法九条を死守して「崇高な理想」を貫け”(『滅びゆく国家:日本はどこへ向かうのか』、立花隆著、日経BP社、2006年)の存在を最近知った。飛びつくように読んだが、論旨が明快で、鋭かった。
 一番スッキリしたことは、朝令暮改(法令などがすぐに変更されて一定せず,あてにならぬこと)という四字熟語を例に、「法の問題で何より重要なのは、法の安定性を守ること」(同上、p232)。だから、余程はっきりした理由がない限り、みだりに法を変えてはいけない、と言い切っていたことである。「朝令暮改の世界では人は、法を守る気力すら失ってしまう」(同上、p233)、と。後でもっと詳しく読んでいきたいが、「法の安定性」について言及していた人が少ないのか、私にとっては新鮮だった、
 もうひとつ憲法九条のことで言えば、「憲法第九条が日本に繁栄をもたらす」なぜなら、「軍事費増大によって経済は破綻する」からだ、という意見も、とても新鮮だった。それゆえ、「日本経済も血を流すアメリカとの軍事同盟許すな!」ということになる。目を疑うようなことも書かれていた。「全米各地にある基地のうち主要基地三十三を閉鎖し、二十九基地の兵力を削減する」(同上、p 416)という。こんなニュース聞いたことがない。実際予算はどのくらい減っているのだろうか。 
 この本、
『滅びゆく国』の結論は明らかだ。憲法を無視し、軍事費を拡大していく道こそ、滅びの道だ、ということである。「古来、軍事力によって世界の覇権を握った大国は、どこかの時点でとめどなく増大していく軍事費に経済的に耐えられなくなって崩壊している。かつての日本も戦争で軍事的に敗れる前に、実は経済的に崩壊しており、勝つことは不可能だった」(同上、p 417)のだ。「滅びゆく国家」を手をこまぬいて見ているわけにはいかない。

2022年1月4日火曜日

世界の本質を表現した芸術

 放送大学の授業科目「西洋芸術の歴史と理論」の十二回「19世紀の美術 —— 革命時代の芸術 —— 」の放送授業を受けた。クールぺとマネを取り上げ、その革命性、革新性を解説してくれた。これまでにない、絵画鑑賞の新しい視点を教えられたような気がする。私なりに要約してみた。

1、18世紀以前と19世紀以降を大きく分けると、
 18世紀以前:社会が家族単位
 19世紀以降:社会に工場やオフィスが現れ、家族から切り離された労働者階級が誕生

2、クールベは、『プルードンの肖像』という絵を描いているが、社会主義者だったプルードンと友達だった。彼は、これまでの絵の対象だった神や王様に変わって、石を破る人々といった労働者など、市井の人々を、労働のつらさそのものを描いた。
 現実の人々を巨大な絵にすること自体が革命的だった。どのくらい大きかったかを『画家のアトリエ』の前に立った青山昌文先生と比較して見せてくれている。また、オルナンの埋葬では、聖職者も描かれているが、市井の人々と同列に描かれていることも、ある意味では革命的であり、先生は口にしていなかったが、遠くの方に小さく描かれたキリスト像も、私には印象的だった。

3、マネについては、ブルジョアの家庭に育ったこともあって、芸術は革命的だが、思想性は、そうでもなかったと言われることが多い。しかし、先生に言わせると、共和主義者だったという。マネも、酒場の人や娼婦といった市井の人々が描いているが、特に、女性の裸体も市井の人々をモデルにしていることが革命的だった。これまでの女性の裸体は、神話の世界での意味の高い存在だった。それに対してマネは、単なる街の、現実の女性の裸体が描いた。

4、芸術というものは、世界の本質を表現したものである。そういう意味では、クールベも、マネも、「価値の転換」を見事に表現している。





クールベの『画家のアトリエ』





2022年1月3日月曜日

家畜のように扱われたマーシャル人

 核兵器禁止条約第一回締約国会議が三月に開催される。この会議に呼応して「核に平和奪われた島々:マーシャル諸島」という記事(2022年1月3日『赤旗』)を読み、唖然として、今まであまり深く知らなかったことを恥じた。「米国は1946年から1958年にかけてマーシャル諸島・ビキニ環礁とエニウェトク環礁で67回原水爆実験」をおこなっていたのだ。12年間にわたって、しかも年平均5.5回もの実験をおこなっていたのだ。
 無人の島で、自国領でのことなら、少しは話がわかる。しかし、実際に住んでいた島民は、半ば強制的に隣のロンゲリック環礁に移されての実験である。改めて地図を見てわかったが、ビキニ環礁とロンゲリック環礁との距離は、およそ150Km。したがって、風向きによっては、死の灰をまともに浴びるであろうことは容易に想像がつく。
 そんな島民に対し米軍は、「冬眠をクワジェリン米軍基地に収容して名札をつけて写真を撮り」、「治療と称して放射線の人体への影響についてデータを収集し」たという。島民の一人に、米国が公式に認めたビキニ水爆の唯一の犠牲者(レコジさん)がいる。レコジさんの母であるミツワ・アンジャインさん(故人)は「アメリカ人は、マーシャル人を家畜か動物のように扱った」と訴えたそうだ。このような米軍と同盟を結んでいるのが、なんとも情けない。
 核禁止条約の第六条が「被害者に対する援助及び環境の修復」であることも、初めて知った。そうであるならば、アメリカは率先して条約を批准し、「被害者に対する援助及び環境の修復」に努めるべきである。アメリカには、そうした義務もある。



2022年1月2日日曜日

辺野古米軍新基地建設→絶対的愚行!

 辺野古への新米軍基地強制建設が続いている。「沖縄県のコロナウイルス感染は一時、国内最悪のレベルに」陥っている。「それでも政府は辺野古の工事を止めず、連日、埋め立て土砂を投入してき」(2022年1月1日『赤旗』)ている。
 そんな中、市民たちも、徹底的な感染防止を図りながら、海上での行動を続けていることを、『赤旗』は伝えていた。「理屈抜きで、こんな海に軍事基地を造るなんてあり得ない」と語っていたメンバーの一人吉岡千枝さんの姿が写真で報道されていた。吉岡千枝さんは、「約15年間、仕事の休みの日は辺野古に通い、カヌーをこぎ続けてきた”ベテラン”」だという。
 吉岡さんのような人たちに、ただ、ただ頭が下がる。ありがとう。
 2021年7月5日月曜日のブログ「軍事基地のない日本にする」で、「人道上許されない絶対的愚行」という親川志美子さんの論文(『世界』、2021年6月号)、辺野古の米軍新基地建設現場の埋め立てに沖縄の土、沖縄戦の戦場となった遺骨があるかもしれない土を使おうとしていることへの抗議の論文を元にして詩を創った。その詩を再掲する。

(「2022年1月1日『赤旗』」より)

軍事基地のない日本にする

戦後七五年が過ぎた今でも沖縄には、
  広大な米軍基地と自衛隊基地が広がっている。
  そこへ、琉球の島々のあちらこちらに、
  米軍新基地が造られてきている。

日本政府は、
  一度振り上げてしまった拳を、
  下ろせなくなったかのごとく、
  辺野古に、
  米軍新基地を造る計画に執着している。

  そこに世界最大級のアオサンゴの存在があっても、
  そこに世界最北限のジュゴンの住処があっても、
  そこに活断層があり、超軟弱地盤があり、
    技術的に困難であっても、
  県民投票で七割の投票者がN0を突きつけても、
  両耳をふさぎ、米軍新基地建設を強行に進めてきている。

  辺野古新基地建設反対という政治家が選ばれるたびに、
  彼らに公約違反をさせ、
  民主主義を愚弄する形で、
  両耳をふさぎ、米軍新基地建設を強行に進めてきている。

米軍普天間基地は無条件全面返還に限る。
  沖縄に、日本に米軍新基地はいらない!
  やがては、軍事基地のない日本にするからだ!

民主主義に、戦争は似合わない。
  日本が民主主義の国なら、
  沖縄に、日本に米軍新基地はいらない!
  やがては、軍事基地のない日本にするからだ!

2022年1月1日土曜日

憲法13条は日本国憲法の核心

 「日本国憲法の核心とされる13条 」とは、2022年元旦の朝日新聞社説にあった言葉で、「日本国憲法の核心とされる13条は『個人の尊重』を掲げ、個人が自分に関する情報を自分で管理する権利もここから導き出される」とあった。この13条は、第11条、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」で述べた基本的人権の中に入っているもので、これらの基本的人権は、再び、第十章最高法規の97条で登場し、「・・・これらの権利は、・・現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と述べている。
 基本的人権に限って、「与へられる」と「信託されたものである」の違いがあったにせよ、なぜ、二回(二条)にわたって述べられているか、今まであまり考えたことがなかった。しかし、「なぜ憲法は『最高』なのでしょうか?その答えはズバリ、『永久不可侵性の基本的人権を保証しているから』です」(『憲法未来予想図:16のストーリーと48のキーワードで学ぶ』、榎澤幸広・奥田喜道編著、現代人文社、2014年、p13」ということを知って、「そうか、基本的人権は永久不可侵性であるが故に、それだけ重要な条文であるがゆえに、基本的人権の永久不可侵性については二回(二条)にわたって述べられていると理解される。
 また、前文に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあるように、「日本だけが平和であれば良いという『一国平和主義』ではなく、全世界の平和を考えている」(上同、p 168)ことを考えれば、ここに、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といった宮沢賢治の思想が色濃く反映しているのがわかる。そして、13条ですべて国民についての「個人の尊重」を掲げながらも、個人の幸福だけを考えているわけではないことも明らかである。したがって、すべて国民についての「個人の尊重」と一緒に「全世界の国民の個人の尊重」も、考慮されていると考えられる。