2024年11月19日火曜日

気づきの喜び

 昔、「気づきの喜び」(注)という短文を書いていました。それを読み返し、この「気づき(発見)の喜び」が、これまでの読書生活を支えていたことを改めて確認することができました。しかも、文章の発見だけでなく、素晴らしい著書や著者の発見も、読書の楽しみになってきました。例えば、「フランクルのことを調べていて、フランクルと同い年で、病弱で悩みがちで、フランクルを読み込んでいたという正木正さんのことを知り、その関係で、『心の糧 (角川文庫)』(ヒルテイ編、正木正訳、角川書店、1956年)の存在を知りました」(「人は言葉を求め言葉に救われる」より)
 ヒルテイには『悩みと愛と幸福 : ヒルティの言葉 (角川文庫)』(ヒルティ著、正木正訳、角川書店、1954年)という本もあって、そこに、「眠られぬ夜は、もし人がそれを正しく利用するなら、しばしば極めて大きな祝福であり、神の正しき恩龍である。自分自身についての反省に達し、日頃の喧噪の下では認めることの出来なかった神の御声をきくために、眠られぬ夜は烈しい動揺錯乱の多くの生活に於ける唯一の方法である。(幸福論・第三卷)」という言葉を発見し、不安が少し和らいだことを思い出しました。これからも、いろんな気づきを求めて、読書を続けていきたいものです。

(注)「岡先生が数学的思索にふけっていると」(「磯田道史の この人、その言葉」、朝日新聞、2009年10月10日土曜日)という言葉が、なぜか心に残った。哲学者が思索にふけるというイメージはすぐに抱けるように、思索は哲学者の専売特許と思っていた。だから、思索が哲学者の専売特許でないことが分かって、新鮮さを感じたのも事実である。そう言えば、発明の過程でいろいろと思索を巡らすということもある。
 思索にふけるとか、思索を巡らすという状態は、一種の禅の境地に似ている。だから、学問の世界に魅力を感じ、思索にふける自分の姿をイメージしてしまうのかも知れない。
「なぜ人間が数学上の発見ができるのか。それを岡(潔)は考えた」。そして、「<発見の鋭い喜び>に導かれて、学問的な発見はなされることに気づいた(「磯田道史の この人、その言葉」、朝日新聞、2009年10月10日土曜日)」ともいう。しかし、そう易々と学問的な発見が続くことはない。ではどうする?
 日ごろの小さな気づきの喜びを拾い上げるようにすれば良い。本を読んでいるとき、あるいはテレビを見ているときなど、小さな思いつき(気づき)がある。これらをメモという形で拾い上げれば、そこには「気づきの喜び」というものがある。そうした喜びが積み重なって初めて、学問的な発見の喜びにつながるのではないだろうか。学問を目指すものにとってメモは書かせないということである。2009年10月10日土曜日

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