2023年12月31日日曜日

死を迎える準備

  昔から、安らかな死を迎えるためにはどうすればいいか、そんな問いを抱いていました。何故か、死ぬのが怖かったからです。その問いの答えが(正解かどうかは別にして)、ようやくわかりました。それは、少しずつ、身の回りを軽くしていくことで、私たち自身「本来無一物」であること、「永遠に自分のものはない」ことを実感として体得していくことです。死を迎える準備というのは、自分を手放す準備だったのです。下記の言葉から学んだことです。

本来無一物
 人はもともと何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいくという意味がある言葉。大切なものを失ってしまっても、それは本来の自分に戻っただけのこと。失う怖さにおびえることも、嘆く必要もないという禅の教えです。『ゆるミニマリストのものの減らし方心の満たし方』、mini著、主婦の友社編集、p4)

少しずつ、狭め、軽くしていく
 人間が高齢になって死ぬのは、多分あらゆる関係を絶つということなのである。もちろん一度に絶つのではない。分を知って、少しずつ無理がない程度に、狭め、軽くして行く。身辺整理もその一つだろう。使ってもらえるものは一刻も早く人に上げ、自分が生きるのに基本的に必要なものだけを残す。
 人とは別れて行き、植物ともサヨナラをする。それが老年の生き方だ。そうは言っても、まだ窓から木々の緑は眺められ、テレビで花も眺められる。
 人とも物とも無理なく別れられるかどうかが知恵の証である。(『老いの冒険』、曽野綾子著、興陽館、2015年、p190)

永遠に自分のものはない
 下記のわたしたちが持っているもの――命も、家族も、悲しみも、喜びも、物も、この世とのかかわりも、すべてがやがて時の流れのなかに消えていく。永遠に自分のものであるものなどないのです。爽やかな儚さです。
 こういうふうにみんなが認識できれば、何かを得るための争いや犯罪は減るでしょう。得られない苦しみや、失ったときの悲しみも少しはなくなるでしょう。生に対する執着も弱くなって、死への恐怖も薄れるでしょう。
 命を含むあらゆるものは、一時的に私たちに貸し出されたものです。わたしたち人間は小心だからこそ、あらゆるものを得た瞬間から、失うときの準備をしておいたほうがいい。弱い自分を救うためにも、わたしはそう思うことにしています。(上同、p191)

2023年12月30日土曜日

内部環境としての心

 脳の栄養になる知的環境というものの存在を「あらゆる存在は関係性の総体」に書きました。しかし、そこで抜けてしまった環境がありました。私をとりまく外部環境に対する内部環境のことです。内部環境としての心も、私をとりまいていて私に影響を与えています。そういう意味で、心も立派な環境と言えるのです。
 古代ローマにエピクテトスという思想家がいました。奴隷でしたが後に解放され,ローマでストア哲学を多くの弟子に教えたそうです。彼の死後、その教えは弟子のアリアノスによって「語録」「要訣」として伝えられました。そんな彼に、心の重要性を説いた言葉があります。
 肉体に関する事柄で時間を費やすこと、例えば長時間運動をしたり、長時間食ったり、長時間飲んだり、長時間排便したり、長時間交接したりすることは、知恵のないしるしだ。人はこれらのことを片手間になさねばならぬ。きみの全注意は心に向けたまえ(曽野綾子さんは『老いの冒険』でこの言葉を引用して、「こうした長時間のこうした行為が、 手段ではなく、目的とされることが、いささかこっけいであることもほんとうだ」[p83〜84]と書いています)
 あらためて、心の内面に無関心であったことに気付かされました。そして、日記や、日誌にもっと関心を持ち、継続して取り組んでみる必要があるのかもしれません。

2023年12月29日金曜日

憲法改正は旧日本への逆もどり

 自民党にとって憲法改正は悲願の課題であるはずです。にもかかわらず、その実現には至っておりません。しかし油断はできません。ですから、憲法改正が何を意味するかをはっきりさせて、平和憲法を擁護していく必要があります。
 憲法改正といえば、漢字の意味は憲法をよくすることですが、その内実は全く逆です。自民党にとっての憲法改正は、旧日本の軍国主義への逆もどりを目指しています。これらのことは、これまでも言われてきたことです。しかし、「憲法を弊履のごとく捨てざるをえない立場に追い込まれた人間は、やがていかなる条約をも、いかなる協定をも弊履のごとく捨てるであろう」という指摘は、新しい視点です。それは、国際社会における信用の問題です。つまり、憲法改正は旧日本への逆もどりを意味するだけでなく、これまで国際者で築いてきた信用をなくしてしまうことも意味するということです。だからこそ、憲法は擁護していく必要があるのです。
 新憲法の前文と、その第九条とは新日本の理想を高く掲げたものであって、これを改正して軍備をもちうるようにすることは、いろいろな意味から明らかに旧日本への逆もどりである。いったん掲げた平和の旗印をおろすことは、それは平和からの百步の後退を意味するものであることを知らなければならない。
 さる有名な評論家は一昨年、ある総合雑誌に左の通り述べておる。
 日本の軍隊は解体され、軍閥は打倒された。しかし多年のあいだ培われた軍国主義の精神は死滅しないで国民の思想の中に眠っている。日本をもう一度軍国主義に復活させ、すばらしい戦力として使うのは容易なことであり、すくなくとも、目先の利害からは便利なことにちがいない。
 けれども、目先の算盤で日本のかっての軍国主義の諸要素を利用する者は、まもなく法外に高い勘定を支払わされることを覚悟しなければならない。⋯⋯ 民主主義を体得する好機を奪われた日本人は、いつまでも民主主義を脅かす力となるであろう。憲法を弊履のごとく捨てざるをえない立場に追い込まれた人間は、やがていかなる条約をも、いかなる協定をも弊履のごとく捨てるであろう。
 やや奇矯な云いあらわし方のようではあるが、われわれとして虚心坦懐に味わってみる価値のある言葉でではないだろうか。(『どうする?日本の再軍備』、有田八郎著、憲法擁護国民連合、1954年、p112〜113)

2023年12月28日木曜日

歴史は現在と過去の対話

 立花隆さんが言うように「あらゆる存在は関係性の総体」だとすれば、松岡正剛さんの編集力が重要になってきます。例えばこんなことです。

 私は編集的な歴史観をもつこと、できるだけ編集的世界像を抱いて何かに向かえるということを、いつからか心掛けてきた者ですが、それは「すべての歴史は現代史である」「歴史は現在と過去の対話である」「歴史の中に未来の秘密がある」ということを深く実感してみたかったからなのです。(『18歳から考える国家と「私」の行方——セイゴオ先生が語る歴史的現在 西巻 』、松岡正剛著、春秋社、2015年、p274
 ここでいう「編集的な歴史観」「編集的世界像」とは、どういうことでしょうか。
 私は、数ある歴史的なトピックの中から、何を選んで、どのように並べるか、つまり、歴史的なトピックを編集して歴史を観ることを「編集的な歴史観」と言い、「編集的な歴史観」によって創造された世界が「編集的世界像」であると理解しました。松川事件周辺の歴史を「編集的な歴史観」によって記述してみたい。その過程で、「すべての歴史は現代史である」ということ、「歴史は現在と過去の対話である」ということ、そして「歴史の中に未来の秘密がある」ということを考えてみたいです。

2023年12月27日水曜日

輸出を移転という暴論

 いつ頃からだったのか政府は、武器という言葉の代わりに「防衛装備品」という言葉を使うようになりました。マスコミも、無批判にその言葉を使い続けてきました。そうした傾向に違和感を抱いてきましたが、今度は、輸出という言葉の代わりに「移転」という言葉を使うようになり、これもまた、マスコミも、無批判にその言葉を使い続けています。例えば、こんな具合です。

 14年には安倍晋三内閣が「武器輸出三原則」を撤廃し、「防衛装備移転三原則」を決定。(1)紛争当事国などを除く(2)輸出を認める場合を限定し厳格に審査(3)目的外使用や第三国移転に事前同意を義務づける――を満たせば、他国に武器を輸出できると定めた。(「平和国家、薄れる理念 武器不足、米が提供要請 殺傷兵器輸出解禁」『朝日新聞』、2023年12月23日)
 どうでしょうか。「第三国移転に事前同意を義務づける」と書いたり、「他国に武器を輸出できる」と書いて、言葉の乱れを見せてくれています。
 なぜ、違和感を抱き続けたのか、その理由がはっきりしました。「民主主義は、言葉の信頼の上に立っている」(『精神の発見』、梅原猛著、角川書店、1985年、p255)からでした。政府の行為は言葉の信頼を失わせ、民主主義の土台を揺るがす行為だったのです。だから、ずっと違和感を抱き続けたのです。

2023年12月26日火曜日

あらゆる存在は関係性の総体

  私が生きているということは、私を取り巻く環境との関係があって成立しています。食べ物も、エネルギーも、外の世界の一つの環境ですが、それらの環境は生に直結しているものです。それに対して、生に直結はしていないものの、脳の栄養になる知的環境というのも存在しています。多くの情報は知的環境となって、私の脳の中に入ってきます。しかし、食べたものと違って情報は、意識的な努力、例えば編集作業を経なければ、構造化されません。立花が言うように「あらゆる存在は関係性の総体としてある」にしても、「関係性」そのものにいろんな関係性があるようです。構造化された関係もあれば、構造化されないランダムな関係もあるのです。だからこそ、編集力というものが必要になってくるのです。ですから、「人間とは何かを考えるということは、人間以外のすべてと人間の間の関係を考えるということ」ですが、「人間の間の関係を考える」ということは、「人間の間の関係を編集する」ということなのかもしれません。こうした観点で、「人間以外のすべてと人間の間の関係」を考えてみたいと思います。
 以上、下記の引用文をもとに考えたことです。

 最初になすべきことは、それがそれ以外のものとどういう関係に立っているのか、その関係性において考えてみるということです。その関係性をあらゆる局面においてとらえていけば、それがいかなるものであるかは自然に見えてきます。あらゆる存在は関係性の総体としてあるんです。私という存在についていうなら何との関係についてそういえるかといえば、自分以外のすべてのものです。自分以外のすべてのものとは何かというと、環境です。(中略)
 人間とは何かを考えるということは、人間以外のすべてと人間の間の関係を考えるということです。人間とそれを取りまく環境とのあらゆる関係を最も広い視野においてとらえ直してみようということです。この場合の環境とは、いわゆる環境問題でいう環境概念よりはるかに広義のものであるということに注意してください。
 ここでもう一つ注意しておかなければならないのは、もう一つ別の関係性を見落してはならないということです。それは、「『環境』と『宇宙』のたった一つの違いである『私』」という視点から見た関係性です。〈私〉抜きで見えてくるのは、客観的関係性だけです。そのとき見えてくるのは〈私〉抜きの客観的世界像です。(『東大講義人間の現在・1』、立花隆著、新潮社、2000年、P23)

2023年12月25日月曜日

新たな「戦後神話」の実態は?

 戦後民主主義について、否定的な見方があって気になっていました。丸山眞男も、同じ思いを抱いていました。例えば、

 最近の議論で私に気になるのは、(中略)戦後についての、十分な吟味を欠いたイメージが沈殿し、新たな「戦後神話」が生れていることである。政界・財界・官界から論壇に至るまで、のどもと過ぎて熱さを忘れた人々、もしくは忘れることに利益をもつ人々によって放送されるこうした神話(たとえば戦後民主主義を「占領民主主義」の名において一括して「虚妄」とする言説)は、戦争と戦争直後の精神的空気を直接に経験しない世代の増加とともに、存外無批判的に受容される可能性がある。こうした過去の忘却の上に生い立つ、戦後思想史の神話化を防ぐ一つの方法は、戦後にさまざまの領域で発言した知識人ができるだけ多く、自らの過去の言説を、資料として社会の眼にさらすことであろう。それは旧版の後記にのべた戦後責任という道義的問題だけでなしに、ヨリ綿密な実証的吟味を経た戦後史を作るという私たちの学問的課題のためである。(『丸山眞男集9巻』)

 丸山が心配した「戦後思想史の神話化」は、すでに出来上がっているかもしれません。それでも、その神格化の実態を明らかにし、かつ、「ヨリ綿密な実証的吟味を経た戦後史を作る」ことが求められているようです。それはまた、次の引用にもあるように、丸山がやろうとしたことでもあったようです。

 複雑で多義的で、さまざまな方向への可能性が同時に含まれている「戦後」の状況の中で、何がほんとうに選びとられるべき道なのか、何が本当に「賭ける」に値する道なのかを、文字通り全身全霊を注いで、考え抜こうとしたところに、丸山真男の独自の文章と、発言とが紡ぎ出されていったのです。(『丸山眞男『日本の思想』精読』、宮村治雄著、岩波書店、p8)

2023年12月24日日曜日

本の魔力に貫かれて

 本との出会いを人(著者)との出会いに例えることがあります。だから、古典を読むことはその時代の著者と交流するようなものなのです。そういう意味で「新刊書店と古書店は同じ書店だが、予期せぬ出会いを生む場であることにかわりない」(「本との出会い~石垣りんの詩と随筆 若松英輔」『日本経済新聞』、2023年12月23日)のです。
 私は図書館大好き人間で、六つの図書館を利用しています。だから、常時三〜四十冊は借りています。私にとって図書館が「予期せぬ出会いを生む場」だったのです。「本との出会い・・」を読んで気づきました。励まされた面もあります。例えば次の文章を私の場合に置き換えてみます。

 週に一度は古書店に行くようにしている。一生を費やしても読み切れないほどの本に囲まれた生活をしていながら、まだ買うのかと呆れられそうだが、本の魔力に貫かれた人間にとって本は、単なるモノではない。人生という険しい道を行くときの同伴者であり、道しるべでもある。(上同)

 すると、「週に一〜二度は図書館に行くようにしている。一生を費やしても読み切れないほどの本に囲まれた生活をしていながら、まだ借りるのかと呆れられそうだが、本の魔力に貫かれた人間にとって本は、単なるモノではない。人生という険しい道を行くときの同伴者であり、道しるべでもある」となります。これからも、自信をもって図書館通いを楽しみたいものです。

2023年12月23日土曜日

仕組まれた冤罪事件

 松川事件についての感想を「戦後最大の冤罪事件、松川事件」に書きました。そこで、戦後最大の冤罪事件を起こした裁判官の責任はどうなっているかを問いました。同じように感じていた弁護士がいました。彼は、裁判官だけでなく、警察や検察官の責任問題まで言及して次のように書いています。

 国民は、主権者として、"なぜ警察や検察官が、このようなへマをやったか。またやりながら責任をとらないか"という点を究明すべきではなかろうか。
 このようなヘマをやった原因として考えられることは、警察、検察、第一、二審の裁判所を含めて、科学的知識の不足すること、論理的判断力の欠けていることなどが、一応は考えられるが、しかし、いかになんぼなんでも、誤った起訴ならば、十年以上もつづいた裁判の途中で、気がつきそうなものであるということだ。まさか、大勢の検察官がいるのだから、最高裁判所や差戻後の裁判官と同じように、本件起訴内容のアヤマリに気づいた人もあったろうと思う。
 そういう検察官が、正直に自己の所信を法廷で述べないということを、国民として、黙過していいものだろうか。不正直なことを、権力をもって、押し通すようでは、被告人とされたものばかりでなく、一般の国民も安心して、刑罰権を彼らにまかしておけなくはないだろうか。
 いわんや、警察や検察庁が、はじめから被告人たちが罪のないことを知りながら、起訴をしておいて、偽わりの証拠や証人を作って、無実の良民を罪におとし入れるようなことをやったのでは、それこそ真昼の暗黒であろう。それを放っておいて、いいものだろうか。(「松川判決に想う」『正木ひろし : 事件・信念・自伝』、正木ひろし著、日本図書センター、1999年、p99〜100)

 私は、「松川判決に想う」を読んで、日本共産党のイメージダウンを狙った「仕組まれた冤罪事件」の可能性に確信を抱くようになりました。松川事件の真犯人はわかりませんが、日本共産党員犯人説の菅生事件(菅生駐在所爆破)の場合は、真犯人が警察関係者であることがわかったからです。菅生事件の場合も、「唯の一人も責任をとった者がいない」と次のように述べています。

 菅生事件は、すでに最高裁における最終的判決もすんだのであるが、菅生駐在所爆破は、警察員によって仕掛けられたものであった。すなわち、真犯人は彼らだったというわけである。警察と検察陣にとって、これ以上重大な恥辱的判決はないはずである。しかし、彼らのうち、唯の一人も責任をとった者がいない。おそらく、日本共産党を不人気にする目的はすでに達したから、成功したとでも思っているのではあるまいか。(上同、p101)

2023年12月22日金曜日

大日本帝国の日本人家畜化政策

  旧日本軍のことは、いろいろ言われていますが、その特殊性について正しい理解がなされているのだろうか、という疑問が生まれました。私自身、戦争という概念において、ドイツも、イタリアも日本と同じように理解し、殊更特殊性らしきものはないと思っていましたが、戦争中に支配的だった思想について、「人類最大の悪」と喝破した文章に出会ったからです。次のような文章です。

 この思想は、家畜の運命を表徴する思想です。個体を殺して主の生を養うのは家畜の運命です。人間を家畜の運命にまで堕落させることは容易な業ではありません。人間には向上進歩の本能があります。それを逆行させるのですから大変な努力です。国民を無知にし、無気力にし、従順にし、死を嫌はない様に錬成しなければなりません。これは天意冒涜です。人類最大の悪です。この悪を敢て為したのが大日本帝国です。そのお先棒を勤めたのが日本の文部省であり、その爪牙となり、家畜の臀を叩く鞭の役を勤めたのが内務省と司法省とです。彼等は一般国民を牛馬的の家畜とし、自分達は番犬的家畜であり度かったのです。番犬は同じ家畜でも、一段と主人に近く、殺されないですむ動物です。(『正木ひろし著作集 4』、家永三郎他編 、三省堂、1983年、p57)

 こうした大日本帝国が行った戦争感、特攻隊を生み出した戦争観はこうです。

 先づ憲法論から始った戦争です。国民に自由は無い、国民に主権は無い、国民は滅私率公し、天皇のためにのみ生存し、天皇の為めに万歳を唱へて死すべきものであるという恐ろしい前提から始った戦争です。国民の幸福などいうものが入る余地はありません。国民を牛馬的な家畜にすることから出発した戦争です。換言すれば、個人的「生」の否定から始まった戦争です。自国民を天皇の為めに犠牲にするという思想を背景とする戦争です。煩悩を殺し、海行かば水漬く屍、山行かば苔むす屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ、といふことを最高の善とする戦争です。凡そこんな無慈悲な動機をもつ戦争がかつて地上に存在したことがあるでしょうか。(上同)

 どうでしょうか。このような戦争観は、日本独特のものだというのですが、丸山眞男さんは、あるいは、昭和史に詳しい半藤一利さんは、果たして同じようだったのか、気になってきました。

2023年12月21日木曜日

植物の進化に学ぶ社会学

 ミツバチが花から蜜をもらい、その代わり、花はミツバチに受粉をしてもらいます。自然界には、このような共生関係を保って進化してきたものであふれています。 「結果的に『自分も得をして、みんなが得をする』という関係性を築けた生き物だけが、生き残ってきた」(『植物たちのフシギすぎる進化』、稲垣栄洋著、筑摩書房、2021年、p45)からです。このことを知って、人間社会も、世界の国家の関係も「自分も得をして、みんなが得をする」関係性を築けたものが生き残るのかもしれないと思いました。
 植物の進化に学ぶという点では「『たくさん』のものが、つながりあって『ひとつ』の世界を作っている。/これが進化の末に植物が作り上げた世界なのです」(上同、p80)ということも、人間社会に当てはまるのではないでしょうか。
 そういえば、こんな金言がありました。
 「人間から道徳と理性がなくなると原始に還るが、残念ながら今更牙も爪も生えないし、獣毛も生えないであろうから、動物に劣ることとなり、絶滅を免れぬであろう」(『近きより・5・帝国日本崩壊』、正木ひろし著、社会思想社、1991年、p83〜84)これもまた、自然に学んだ金言です。日本も、道徳と理性の復権を果たさなければ、滅びてしまうでしょう。

2023年12月20日水曜日

戦後最大の冤罪事件、松川事件

 映画『松川事件』(山本薩夫監督、宇津井健他出演、独立プロ名画特選、新日本映画社)を観ています。松川事件に関しては多くの著書があるにもかかわらず、本質的な部分が曖昧になっている印象を受けました。単刀直入にいうと、松川事件を抜きにして戦後は語れないのではないか、それほどの大事件であったにもかかわらず、あまり大きく取り上げられることはないようです。
 なぜ大事件だったか、最高裁で無罪になったから良かったものの、戦後最大(私の予想では)の冤罪事件だったからです。戦後最大でなかったにせよ、大きな冤罪事件であったことに変わりありません。10名近い人が死刑の判決を受けたのですから。(注)
 もう一つ気になったのが、誤った判決、しかも死刑の判決を下した裁判官は、無罪が確定した時点で、反省の言葉なり、何らかの発言があったのでしょうか。冤罪は、人生を狂わせるほどの罪を犯したことにならないのでしょうか。死刑の判決を下した裁判官が、無罪が確定した後の人生をどのように生きたのでしょうか。気になるところです。
 さらに付け加えるならば、やはり、松川事件後の日本共産党の国会議員の激減と、その後の退潮傾向を見逃すわけにはいきません。「共産党は怖い」という印象が広まってしまったのですから、当然です。やはり、戦後の松川事件は、戦後日本を考える上でのターニングポイントになるのではないでしょうか。こうなると、どのように語られてきたのかが気になってきました。
(注)事件は福島市松川町の旧国鉄東北線で線路のレールが何者かによって外され、通過した列車が脱線・転覆し、乗務員3人が死亡したもので、労働組合の幹部など20人が逮捕・起訴され、一審では全員が死刑を含む有罪判決を受けたが、事件から14年後、全員の無罪が確定しました。この戦後最大のえん罪事件について、昭和28年11月11日の拝謁記には、昭和天皇が「一寸(ちょっと)法務大臣ニきいたが松川事件ハアメリカがやつて共産党の所為(せい)ニしたとかいふ事だが」と明かしたうえで、「これら過失ハあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党ニ謝罪ニいつてる」と明かしたと記されていました。「「国鉄三大ミステリー」松川事件に関|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB・赤字強調は引用者」

2023年12月19日火曜日

大国は多くはみなバカであります

 中江兆民の『三酔人経綸問答』のことは「兵隊は市民となって・・・・」と「最高形態としての民主制」で取り上げましたが、洋学紳士君は、さらに熱弁を振います。
「十九世紀のこんにち、武力で威嚇することを国の栄誉とし、侵略を国の方針とし、他国の領土を奪い他国の民を殺して、どうしても地球の所有者になろうと考える国は、まさに狂気の国です。
 もう一言申し上げると
 地球上の大国は多くはみなバカであります。地球上の強国の多くはみな臆病でたがいに恐れると同時に強がって兵隊を集め、軍艦をつらねてかえって身を危険にさらしている。弱小の諸国は、なぜ自発的に兵隊を撤廃し、軍艦を手ばなして安全をはからないのでしょうか」(「100分de名著 中江兆民“三酔人経綸問答”・2」より)
 どうでしょうか。「地球上の強国の多くは、・・・・強がって兵隊を集め、軍艦をつらねてかえって身を危険にさらしている」という予想は、どうだったでしょうか。私は、その通りになって、これまで多くの戦死者を出してきました。それに対して日本は、自衛隊はあるものの、憲法九条の縛りの効果があって、戦後戦死者を出しておりません。しかし、多くの人たちは、洋学紳士君は理想主義者であると言って馬鹿にしたりしております。『三酔人経綸問答』でも、豪傑君が反論します。
 豪傑君「紳士君の言うことは、いかにも学者らしい。学者の言うことは本には著わせるがとても実行はできません。それならば、もし凶暴な国があって、わが国が軍備を撤廃するのに乗じて、軍隊を送って来襲してきたらどうしますか」

 洋学紳士君「願わくは、一ふりの剣も一発の弾丸もたずさえず、われわれはしずかにこう言いましょう。なたがたがやって来て、われわれの国を乱すことを望まない。一日も早く立ち去って国に帰りなさい、と」

 豪傑君「まさか、これほどとは思いませんでした。哲学が人の心をおおいつくして、ものを見えなくしてしまうことが。
 紳士君が数時間にわたって熱弁をふるい、世界の情勢を論じ、政治の歴史を語ったあげく最後の一手とは結局、全国民が手をこまねいて敵の弾丸に倒れて有終の美を飾るというのですからね」(上同)
 洋学紳士君の最後の一手には、私も無理があると思います。ではどうすればいいのかといえば、私は、全力を上げて、攻められない国つくりをすればいいと考えています。ですが、最後の一手までの議論は、まさに未来を先取りした思想であることは間違いありません。この思想こそ、立花隆さんのいう「未来のスピアヘッド(槍の穂先)」ではないでしょうか。つまり、「どのような未来にしろ、未来は、未来のある日突然はじまるものではない。近未来なら、未来は必ず現在に接続しており、現在の中に、未来のスピアヘッド(槍の穂先)が突き刺さっている部分があるものなの」(「20世紀知の爆発」『21世紀 知の挑戦』、立花隆著、文藝春秋、2000年、p 8)です。
 

2023年12月18日月曜日

省エネだけで脱原発は可なり

  東日本大震災であれだけの原子力災害を起こしておきながら、原子力の再稼働が始まっています。再生可能エネルギーに期待を持ちながら、今一つ説得力が欠けるところがあってもどかしいところです。ところが、将来的には再生可能エネルギーに期待しながらも、省エネルギー対策だけでも脱原発が可能だという説もあったのです。直接考えを聞いてみましょう。

 たしかに近い将来にめざすべき方向は、ずっと使っていても減ることのない「自然エネルギー」に進むことだと思います。
 でも原子力発電所は電気の消費を減らすだけのことで、止められることがわかりました。つまり「原子力を止めて自然エネルギーで」と考える必要はなかったのです。自然エネルギーが原子力に代われるエネルギーであるかどうかを立証する必要はありません。今の時点でその危険性と被害が、得られる電気に比べて大きすぎるのならやめればいいからです。
 「資源・エネルギー」が「モノと力」を指すなら、原子力発電は「放射性物質と電気エネルギー」でした。でも得られる電気エネルギーに対して、必要とする「放射性物質」は危険性が大きすぎたといえると思います。次の第二巻では、私たちの生活にもっとも重要になっている石油エネルギーについて考えます。そして、第三巻では「自然エネルギー」について考えてます。さて、私たちの未来はどんな世界になるのでしょう。(『いますぐ考えよう!未来につなぐ資源・環境・エネルギー 1』、田中優著、岩崎書店、2012年、p37)

 どうでしょうか。「得られる電気エネルギーに対して、必要とする「放射性物質」は危険性が大きすぎた」とありますが、危険性のある「放射性物質」は、「必要とする放射性物質」だけではありません。「排出、廃棄される放射性物質」の危険性もあるのです。「必要とする放射性物質」と「排出、廃棄される放射性物質」の危険性を考えたら、とても再稼働など認めるわけにはいきません。「原子力発電所は電気の消費を減らすだけのことで、止められる」のであれば、尚更です。
 田中優氏の著作に、『原発に頼らない社会へ:こうすれば電力問題も温暖化も解決できる』(武田ランダムハウスジャパン、2011年)があります。図書館の内容紹介に「原発の問題点に鋭く切り込み、画期的かつ現実的なエネルギー代替案を投げかける」とありました。早速図書館に予約しましたが、興味ある著作で、読むのが楽しみです。

2023年12月17日日曜日

情報を積極的に編集してみる

 今の私に最も必要な情報を得ることができました。それは、せっかく手にした情報も、何も手を加えなければ、それは宝の持ち腐れになってしまうということでした。ひょっとしたら、手を加えれば宝物になるけれど、手を加えないでほったらかしにした情報は、重荷になってストレッサーになってしまうかもしれません。
 しかし、「積読」も読書のうちであることを考えれば、手を加えなくても一度脳にインプットしたものは、脳の深部に記憶され、積読のような有用性がありそうです。何らかの引き金をヒントに思い出されることがあるからです。
 情報をうけ身のままでいかすことは、なかなかできません。ほったらかしの情報はゼッタイにいきいきしないのです。
 いきいきさせるためには、自分が情報を積極的に編集してみるということがとても大事です。いままでの話を総合して、大事なことはいろいろあるけれども、一人ひとりが自分で情報の編集に向かうということが、いちばん大事なことだということを、あらためて強調しておきます。感じたこと、読んだこと、見たことなどを、自分で紙に書いたり、絵にしたり、語りあったり、それからネットの中でも表現してみることです。(『わたしが情報について語るなら 未来のおとなへ語る』、松岡正剛著、ポプラ社、2011年、p435−436)

2023年12月16日土曜日

小惑星衝突に備える

  立花隆ほどのジャーナリストでも、情報の信憑性が疑われるような記事を書くこともあるのでしょうか。そんな疑問を抱かされた記事があります。「アメリカの軍事監視衛星は、直径十メートル程度の小天体が飛んできて、二十キロトン級(ナガサキ級)の爆発を起すのを、一九七五年から一九九二年までの間に百三十六回も観測している」という次のような記事です。

 宇宙は神秘と美しさに満ちているだけの空間なのではなく、時に荒ぶる神として兇暴な素顔を見せ、一瞬にして世界を破壊しつくすこともあるのだ。アメリカの軍事監視衛星は、直径十メートル程度の小天体が飛んできて、二十キロトン級(ナガサキ級)の爆発を起すのを、一九七五年から一九九二年までの間に百三十六回も観測しているという。そのほとんどが海上に落下したため(地球の表面積の四分の三は海だ)、目立った被害は何も起きていないが、それが人家密集地域の上に落ちて惨禍をもたらすことが同じ確率でありうるのだ。もっともっと大きな大惨禍をもたらしうる小惑星が地球のすぐ近く、月より近いところを通過していった例がこの九〇年代だけで四例も観測されている。(『21世紀 知の挑戦』、立花隆著、文藝春秋、2000年、p 121)

 疑問を抱いたのは、「二十キロトン級(ナガサキ級)の爆発」ならば、海上だからと言っても、世界のニュースにならないわけがないのではないか、と思ったのです。ネットで調べたら、「直径10メートル程度の小惑星の場合、およそ100年に1回ぐらいの頻度」とあって、「一九七五年から一九九二年までの間に百三十六回も観測している」のと大分差があります。情報源をしてして書いて欲しかったです。いずれにせよ、小惑星の衝突が忘れられている恐ろしい自然災害の一つであることに変わりありません。だからこそ、原発依存政策は止めてもらいたいです。

 約6600万年前、メキシコのユカタン半島北部のチクシュリューブに衝突した小惑星は直径約10キロメートルと推定され、恐竜が絶滅するきっかけになったと言われています。この規模の小惑星の衝突は数千万年から1億年に1回程度起こりうると考えられています。
 直径10メートル程度の小惑星の場合、およそ100年に1回ぐらいの頻度と言われています。(「小惑星衝突に備える 回避方法を探す宇宙科学者たち - 記事 - 明日をまもるナビ - NHK」より)

2023年12月15日金曜日

修羅餓鬼と化す戦争

  福島県立武術館「現代版画の小宇宙:金子コレクションから」展に古沢岩美作「仙乞」(版画集『修羅餓鬼』より)が展示されていました。作品解説は次の通りです。

 『修羅餓鬼』は1960年から刊行される1993年まで制作が続けられた古沢のライフワークとなった作品です。古沢は1943年に応召し、中国大陸で戦場に立ちました。終戦後も捕虜となり、復縁したのは1946年のことでした。古沢のこの従軍体験が元になっており、「彼が加害者としての私と被害者としての私がいた」と書いたように、自己を揺るがした戦場の混乱と凄惨さが表現されています。

古沢岩美作「仙乞」

 題名の「仙乞」を調べても、このような文字はありませんでした。「蒼暮」という作品名も、そのような言葉はありませんでした。しかし、「蒼く暮れていく風景を見ながら」という言葉を見つけました。だから、蒼暮」は「蒼く暮れていく」の略で、「仙乞」も、「仙人のような乞食」あるいは「乞食のような仙人」の略ではないかと想像してしまいました。
 版画集『修羅餓鬼』を図書館で検索しても、(県内図書館、国会図書館、全国の大学図書館などの横断検索でも)ヒットせず、唯一県立図書館に『エロスと修羅餓鬼』(古沢岩美画、一枚の檜、1993年)が一冊あるだけでした。だから、この本から、蒼暮」と「犬死」を紹介します。修羅餓鬼と化す戦争の実態を強烈に告発しています。ウクライナやイスラエルの現実も似たようなものではないでしょうか。

蒼暮」

「犬死」

2023年12月14日木曜日

最高形態としての民主制

  •  中江兆民の『三酔人経綸問答』のことは「兵隊は市民となって・・・・」で取り上げ、「第九条の先をいく、22世紀の憲法を予言しているとさえ言える内容」である、と書きました。軍備のない世界、兵隊のいない世界を思い描いていたからです。
     もう一つ、「22世紀の憲法」と思わせた考えがありました。「民主主義体制を最高のもの」と次のように言っているのです。
  • ああ、民主制。

    君主宰相による専制政治は
    愚かにも自身その欠陥に気づかない。

    立憲制はその欠陥を悟り
    半ばを改めただけです。

    民主制こそ度量のひろい
    一点の汚れもない体制なのです。

    ヨーロッパ諸国はすでに
    自由、平等、友愛の三大原理をわきまえながら、
    なお民主制に
    従わない国が多いのはなぜでしょうか。

    なぜ、
    やたら道徳の道にはずれ
    経済の原則にそむき
    国の財政を食いつぶす
    数十万、数百万の常備軍を置いて(略)
    罪のない人民に殺しあいを
    させるのでしょうか(「100分de名著 中江兆民“三酔人経綸問答”・1」より) 

      どうでしょうか。
     中江兆民は、国の政治体制は、専制政治 → 立憲制 → 民主制と進化のステップを
    踏むと考えていたようです。しかし、「なぜ、やたら道徳の道にはずれ、経済の原則にそむき国の財政を食いつぶすのか? なぜ、数十万、数百万の常備軍を置いて(略)罪のない人民に殺しあいをさせるのか?」その答えまでは辿り着けなかったようです。だからでしょう。いまだに世界は、「やたら道徳の道にはずれ、経済の原則にそむき国の財政を食いつぶし、数十万、数百万の常備軍を置いて(略)罪のない人民に殺しあいをさせている」のです。

     ここで、ふと考えが浮かびました。
     進化の最高形態としての民主制について、それがどういうものかについての「正しい理解の不足」が中江兆民の疑問に対する答えではないか、と。そういう意味でも、民主主義について、それがどういうものかどのような誤解があるのかを整理してみる必要があるのかもしれません。

    2023年12月13日水曜日

    血や肉となった日本国憲法

      読売新聞といえば、憲法改正に積極的という傾向が強いと思ってきました。その読売新聞の社説(一九五六年五月三日)で「憲法改正のごときは国の大事業であり、駆足ですべきではない」と憲法改正に対する慎重論を展開していたことを知りました。さらに見逃せないのが「新憲法の根本主義たる主権在民、平和主義、民主主義はすでに日本国民の胃で消化され、いまは血や肉となっている」と、評価していたことです。一度血肉化した主権在民、平和主義、民主主義は、そう簡単に変えることは困難だと思います
     だからでしょう。読売新聞オンラインの見出しですが「改憲「党派超えた連携」重視…首相、任期中実現に改めて意欲」(2023年12月6日)が「衆院憲法審 改憲条文案 作成進まず…首相の総裁任期中 困難に」(2023年12月8日)という具合です。

     現行憲法は生粋の日本製でないかも知れないが、日本の、そして日本国民の憲法であることは否定できない。⋯⋯新憲法の根本主義たる主権在民、平和主義、民主主義はすでに日本国民の胃で消化され、いまは血や肉となっている。⋯⋯従ってたとえ部分的には改むべきものがあるとしても、いままで新憲法が果してきた功績を無視し『自主的でない』『おしつけられたもの』という理由で、これを葬り去ろうというのは、不当である。⋯⋯
     天皇、国務大臣、国会議員は、この憲法を尊重し、擁護すべき義務を持っている。尊重し擁護するというのは、たんに憲法の規定に反しないというのとは違い、積極的な意味を持つ。しかるに軽々に自主憲法制定という名の下に、全面的な憲法改正を企てて、どうして国民に憲法を守れといえようか。憲法改正のごときは国の大事業であり、駆足ですべきではない。そして現在改正を急ぐ要因はなにもないのだ。(『日本国憲法「改正」史』、渡辺治著、日本評論社、1987年、p475)

    2023年12月12日火曜日

    兵隊は市民となって・・・・

     今月のNHK放送「100分de名著」は、中江兆民の『三酔人経綸問答』を取り上げていました。この書の存在は知っている程度でした。ですから、この放送を視聴して「日本国憲法の第九条を先取りした内容」が含まれていたことを初めて知りました。次のような内容でした。放送で朗読した内容を内容を四連の詩に編集して紹介します。「兵隊は市民となって」というところを考えると『三酔人経綸問答』は第九条の先をいく、22世紀の憲法を予言しているとさえ言える内容です。こうなると、これまでどのような評価を受けてきたかが気になります。いずれにせよ、すごい内容です。
     われわれは文明の進歩に後れをとった
     一小国でありながら、
     頭をあげてアジアの片隅にすっくと立ち上がり、
     一躍、自由、友愛の境地に跳びこむのです。

     要塞をとりこわして平地にし、
     大砲を鋳つぶして戦艦を商船に変え、
     兵隊は市民となって、
     ひたすら道徳を研鑚し、工業技術の開発に努め、
     純然たる哲学の申し子となった、とあっては、
     文明をもって自ら傲るヨーロッパ諸国の人々も、
     深く恥じ入るのではないでしょうか。

     彼らが頑なになおも改めず
     はじらいもなく、
     こちらの軍備の撤廃につけいり
     強引に攻め込んできたとき

     われわれはみな、
     わずかの武器も、一発の弾も持たずに
     礼儀正しく迎えたなら
     いったい彼らに何ができるでしょうか(「100分de名著 中江兆民“三酔人経綸問答”・1」より)

    2023年12月11日月曜日

    時代が「第九」を求めている

     赤旗日曜版(2023年12月10日号)に指揮者小林研一郎さんの記事「時代が『第九』を求めている」が掲載されていました。ウクライナや絵すら得るで戦争が続いている今だからこそ、「時代が『第九』を求めている」と言えるのです。小林さんの声を聞いてみましょう。

     ベートーベンがシラーの詩を再構成した『歓喜の歌』には"世界がいさかいの中にあっても、神の力で全ての人々はきょうだいになる"とあります。べートーベンの平和への祈り、分け隔てのない愛を感じます。今、世界は殺りくに明け暮れていますが、宗教や民族を超え、音楽の力で人間同士のたたかいがなくなったら、どんなにうれしいでしょう。(赤旗日曜版、2023年12月10日号)

     年末になると、「第九」の演奏が聞かれるようになりますが、日本だけのことなのでしょうか。いずれにせよ、もっともっと多くに人々に「第九」の演奏が聞かれるようになって、音楽の力で人間同士のたたかいがなくなって欲しいものです。

     
    響曲第9番 小林研一郎&日本フィル - YouTube

    2023年12月10日日曜日

    意味のある偶然の一致

     偶然と思える出来事はまったくの偶然なのではなく、今、その時のその人にとって、あるいは世の中にとって、意味のあることとして起こっているという考え方があります。このような意味のある偶然の一致を「シンクロニシティ」(共時性)と呼んでいます。ちょうど、この「シンクロニシティ」を思い出させることが起きました。
     実は昨日、予約していた『エロスと修羅餓鬼』(古沢岩美画、一枚の檜、1993年)を見ていて、『斬』などを目にして、南京虐殺のことだろうか、と想像していました。
     だから、今朝の新聞で、武田鉄矢さんの戦争中に”日本刀で何人か切った”話をしながら「首を切り落とす快感」を語っていた、と証言しているのを読んで驚きました。正に「意味のある偶然の一致」だったからです。武田さんの生々しい証言は、『斬』に命を吹き込んでくれたのです。

    「中国の匪賊(ひぞく)のヤツらを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を切り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんは横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。(戦争トラウマ[上]、「斬った」誇るおやじ、嫌で嫌で 武田鉄矢さん、朝日新聞、2023年12月10日)
    古沢岩美『斬』(『エロスと修羅餓鬼』、p45)

    2023年12月9日土曜日

    悲しみをみつめて

     日本経済新聞を読んでいて、悲しみを対象にした著作『悲しみをみつめて』の存在を知りました。次のように紹介されていたのです。
     童話『ナルニア国物語』の作者であり、二十世紀を代表するキリスト教思想家でもあったC・S・ルイスが、自身の伴侶の死をめぐって書いた『悲しみをみつめて』(西村徹訳)と題する小さな本がある。この一冊を彼は、次のような一節から始めている。
    「だれひとり、悲しみがこんなにも怖れに似たものだとは語ってくれなかった。わたしは怖れているわけではない。だが、その感じは怖れに似ている。」(若松英輔著「言葉のちから:人生の問い~C・S・ルイス『悲しみをみつめて』」、日本経済新聞、2023年12月9日)
     このように冷静に、言葉を通して<悲しみを対象化した>作品を知り、日本経済新聞の「美の十選」(2023年11月10日)で取り上げられたアイナー・ニールスン「病める少女」という絵画を思い出しました。結核でやつれていく身体の特徴を素描で克明に記録した絵だそうですが、こちらの絵は、絵画を通して<悲しみを対象化した>作品だと思ったからです。なんで、このような死に向かう悲しみのような感情が絵画の対象になったのかが分かりませんでしたが、なぜか心に残った作品だったのです。なお、「病める少女」の解説は次の通りです。
     骸骨のように透ける顔と大きくへこんだ目、自慢の赤毛が後退しておでこが尖(とが)って張り出す様子が残酷なほど写実的に捉えられている。簡素なベッドに身体を横たえて、深く沈むように死と向き合う少女。彼女の膝が緑色の毛布をテントのように持ち上げていて、中には死に神が潜んでいるような不気味さがある。細くて白い右手は、死に神に連れて行かれないようにベッドの鉄の細い手すりをしっかりと掴み最期の抵抗を試みている。
     画面の大半を占める白い壁の空虚さまでもが、彼女の最期の力を吸い取ってしまいそうだ。アネはこの絵が描かれた直後に亡くなった。画家が描こうとしたのは、人間に無作為に割り当てられた運命の悲劇だけではない。この絵は、痛切な現実と向き合う人間の姿と、神の救いのない世界の告発でもあるのだ。東京芸術大学教授・佐藤直樹著、日本経済新聞、2023年11月10日)

             アイナー・ニールスン「病める少女」




    2023年12月8日金曜日

    知的実践という知的労働

      実践というと、物を作ったり、人に物を売ったりすることで肉体労働に対応すると思っていました。しかし、研究などの知的労働も、立派な実践であることを知りました。というのは、

     われわれが純粋な理論(傍点部分)つまり抽象と考えることは、その表明の形式におけると同様にその目的性において実践(傍点部分)であるということだからです。プラトンが対話篇を書いたとき、アリストテレスが講義をしてその講義録を公けにしたとき、エピクロスが書簡をまとめその複雑で長い自然論を起草したとき —— 不運なことにそれはヘルクラネウムで発見された小片群の形で断片的にしか残っていないのですが —— これらいずれの場合も、哲学者が一つの学説を展開していることは確かです。(『生き方としての哲学 : J.カルリエ, A.I.デイヴィッドソンとの対話 』、ピエール・アド著、小黒和子訳、法政大学出版局,、2021年、p152)

     このことは何を意味するのでしょうか。
     いくら読書などを通して材料を集めても、それだけでは実践にならない、というよりも、実践が完結しないことを意味します。読書とかスクラップなどは、実践の一過程でしかない、ということです。一つの学説なり論文の形に仕上げて初めて、実践と言えるのです。新しいものを創り出す、という意味を考えれば、一つの知的労働ということもできます。このような実践を知的実践と名づけてはどうでしょうか。

    2023年12月7日木曜日

    考えを概括化すること

     辰巳芳子さんは、歩きながら考えをサマライズする(概括化する)と言って、次のように語っています。その中の「見聞きしたものを、自分の中できちんと整理していかないと進歩しないし、生きていく力にもなりません」「そのサマリーをまた訂正していかなくては。それは生きていくかぎりずっと続くのです」という言葉には身に沁みました。「見聞きしたもの」を「学んだもの」と置き換えると、自分のことを言われているようだったからです。
    「本を読んだり、机の前に座ってサマライズすることはあんまりないのね。そんなふうにして、人間は考えがまとまるものじゃないって私は思うの。だから、自分の中にわき上がった問いの答えが出なかったり、原稿を書きながら、『ここはわかっていないな』と思うと、そこでやめるのね。
     それで、しばらく家のことをやったり、庭を散歩しながら、それはどういうことなのかとか、どういう言葉に置き換えることができるか、考えていくようにしているの。
     たとえばおいしいと感じたら、私はどうしてそれをおいしく感じるのか? まずいと感じたら、それはなぜなのか? 素材なのか、体調なのか、あるいは思い出に関わっているのだろうか、とかね。もっと楽しいことでは、誰かが素敵な着こなしをしていたら、どうしてよく見えるのかなっていうことを考えたり。
     そんなとき、歩いたり手仕事をしていると、考えがまとまりやすいと思う」
    「人間は感じているだけではダメよ。経験っていうのは見聞きするだけではほとんど役に立たないの。見聞きしたものを、自分の中できちんと整理していかないと進歩しないし、生きていく力にもなりません。
     でも一度サマライズしたからって安心できるものでもありません。新しい経験で、そのサマリーをまた訂正していかなくては。それは生きていくかぎりずっと続くのです」(辰巳芳子著「積み重ねが力になる私の元気習慣」『生きる力を鍛えるヒント:ゆうゆう7月号増刊』、主婦の友社、2022年、p49)
     ここでいう概括化する思想の一つに「ビッグピクチャー(全体像)」をはっきりとらえる」というものがあります。世界の問題は多岐にわたっています。その全体を捉えて対策を考えないと、力が分散してしま雨と思うのです。だから、「ビッグピクチャー(全体像)」をはっきりとらえる」ことが重要になってくきます。この点を立花隆さんは「この時代を丸ごととらえるにはどのような考え方をすれば良いのか」(『21世紀知の挑戦』、文藝春秋、p14)という問いを持ち、「一九九八年は、ほとんど丸1年間、20世紀をどう総括し21世紀をどう展望するかという議論ばかりやってきた」(上同、p12)と書いています。その結果が「サイエンスが人類を変えた」に結実したようです。
     すてきな大変化と私たちのあいだを隔てているのは、じつはとても薄い壁だけなんです。化学物質や発ガン性物質の氾濫、遺伝子組み換えや原子力発電の問題などは、すべてが上から押しつけられたものだから、その筋道を止めることによって、世界中がほっとひと息つくことができる。そのために私たちは「ビッグピクチャー(全体像)」をはっきりとらえる必要がある。そして「N0!」を突きつけるんです。(『いよいよローカルの時代:ヘレナさんの「幸せの経済学」』、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ・辻信一著、大月書店、2009年、p158)

    2023年12月6日水曜日

    矛盾した憲法改正論

      日本国憲法は占領軍に押し付けられたもの。それゆえ憲法改正をする必要があると主張する「押しつけ憲法論」というのがあります。こうした論調に対する見事な反論を見つけました。1953年5月18日の東京新聞に掲載された「矛盾した憲法論」という投書のようです。

     十一日附本欄にN生が「天下り憲法」と題し、現憲法は占領軍の一方的意志で押付けたものだから例えその内容が民主的でも成立のいきさつに非民主的な汚点があるから、現憲法の改正を国民に問えという主張をした、もしこの議論が正し意図すれば、百年前の開国もペリーの強要だったから、も一度鎖国か開国かを世論に問わねばならぬことになろう、そればかりでなく国民の意に反して押しつけられたものであるとするなら、当時の国会は当然それを拒むのが職責であったはずなのに一人として辞職もせずに賛成し、祝賀した事実を何と見るか。
     もしもそれらの政党や代議士が全部国民を欺いたとすれば、そのような代議士を国民が現在に至るまで数回の総選挙で当選させ組閣させて来たことは一体どういうことになるのか、やはり国民も選挙を押しつけられているということになるのか、今日、憲法改正を唱えている政治家の大部分は制定当時その委員をした人やばく大な国費をもらって憲法普及に努力した人々である、こんな不信な政治家が再び憲法改正の音頭をとることにN生は矛盾を感じないのか、現在の憲法が押し付けられたという理由で改変を企画せよというなら、それより前に制定当時の全代議士の総退陣を強行する立法処置を講じてからでなければ論説のツジッマが合わない。(『正木ひろし著作集・4』、家永三郎ほか編、三省堂、1983年、p302〜303)

     そういえば、祝賀会の写真を見たことがあります。憲法普及会のことは知っていましたが、ばく大な国費を使って憲法普及に努力していたことまでは知りませんでした。このようなことを知ると、柄谷行人さんのいう「日本国憲法は無意識のレベルで支持されている」ということもわかるような気がします。

    2023年12月5日火曜日

    戦争を根絶するための資本論

     前に、 「兵器という商品の物神性が大きな力となって人間を支配し始める」と書いて、商品の物神性というものを問題にしたことがあります。しかし、資本論を読み直しているうちに「経済的社会構成体の発展を一つの自然史過程ととらえる」こと、従って、「個々人に諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、社会的には以前として諸関係の被造物なの」(「序言[初版への]」『資本論・1』、カール・マルクス著、新日本出版社、p12)だという観点が問題であると思うようになりました。
     別の訳も、参照してみました。「私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係所の所産なのだからである」(「資本論」『マルクスエンゲルス全集23a』、大月書店、p11 )。ここで登場している個人とは、具体的にプーチンのような人を指し、彼も結局、諸関係の被造物(所産)にすぎない、ということを意味します。
     だとすれば、戦争を根絶するためにも、資本論の最終目的である「近代社会の経済的運動法則を暴露する(明らかにする)こと」(上同)が欠かせないことになります。しかし、問題は、そう簡単ではないことです。その上、「たとえある社会が、その社会の運動の自然法則への手がかりをつかんだとしても、その社会は、自然的な発展諸段階を飛び越えることも、それらを法令で取り除くことも、できない」。ただ「その社会は、生みの苦しみを短くし、やわらげること」(上同)だけだと言います。

    2023年12月4日月曜日

    諸悪の根源を求めて

     ウクライナに続いてイスラエルまで戦争を始めてしまいました。20世紀は戦争の世紀といわれていたのに20世紀で卒業できず、21世紀に入ってまで戦争が勃発してしまいました。どうしたら戦争をなくすことができるのでしょうか。この問題を解決するための前提知識として、戦争はなぜ起きるのか、戦争の原因についての考察が必要です。病気の原因がわからなければ、病気の治療ができないのと一緒です。
     戦争の一つの原因として武器商人が考えられています。武器は、資本主義的生産様式の商品として生産され、消費される運命にあります。従って、そのに資本論で明らかにされた法則が作用しているならば、資本主義社会そのものが問題になるます。つまり、資本主義社会が存在している限り、戦争は無くならない、ということになります。資本論で明らかにされた法則について、その法則は「鉄の必然性を持って作用」と、次のようにいっています。
     資本主義的生産の自然諸法則から生じる社会的な敵対の発展程度の高低が、それ自体として問題になるのではない。問題なのは、これらの諸法則そのものであり、鉄の必然性を持って作用し、自己を貫徹するこれらの傾向である。(「序言[初版への]」『資本論・1』、カール・マルクス著、新日本出版社、p9〜10)
     ここでマルクスが問題にした資本主義社会に「鉄の必然性を持って作用」する傾向というものが本当にあるのら、そこに諸悪の根源がありそうです。資本論や帝国主義論などを手掛かりに、諸悪の根源を求めていきたい。そう考えています。

    2023年12月3日日曜日

    軍国主義の一掃掲げていた文部省

     日本国憲法と共に、教育基本法ができたことは知っていましたが、文部省は、それに先立って「新日本建設ノ教育方針(昭和二十年九月十五日)」なる文書を出していました。読んでみて驚きました。「従来の戦争遂行要請に基く教育施策を一掃して」と軍国主義の一掃掲げ、「文化国家、道義国家建設の根基に培う文教諸施策の実行に努めている」と高い理想を実現しょうとしていたのです。

     文部省デハ戦争終結ニ関スル大詔ノ御趣旨ヲ奉体シテ世界平和ト人類ノ福祉ニ貢献スベキ新日本ノ建設ニ資スルガ為メ従来ノ戦争遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家、道義国家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ実行ニ努メテヰル
    一 新教育ノ方針
     大詔奉体ト同時二従来ノ教育方針ニ検討ヲ加へ新事態ニ即応スル教育方針ノ確立ニツキ鋭意努力中デ近ク成案ヲ得ル見込デアルガ今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメソトシテ居ル
    二 教育ノ体勢
     決戦教育ノ体勢タル学徒隊ノ組織ヲ廃シ戦時的教育訓練ヲ一掃シテ平常ノ教科教授ニ復帰スルト共ニ学校ニ於ケル軍事教育ハ之ヲ全廃シ尚戦争ニ直結シタル学科研究所等モ平和的ナモノニ改変シツツアル(「新日本建設ノ教育方針(昭和二十年九月十五日):文部科学省」より)

    2023年12月2日土曜日

    初めてのAnaconda

     Anacondaは、科学計算のためのプログラミング言語(Python)を使用できる環境を作る無料のアプリケーションです。放送大学の仲間にこの存在を教えてもらい、導入方法も教えてもらいました。
     プログラムをネットで探し、初めは対数の計算をしてみました。1, 10, 100, 1000, 10000の対数も求める計算です。二回目は、10000を500にして計算してみました。一瞬に結果が示されて、それだけで感動してしまいました。
     新しい世界を歩き始めた感動です。数学がより楽しめそうです。

    import
    math [math.log10(x) for x in (1, 10, 100, 1000, 10000)]

    結果:[0.0, 1.0, 2.0, 3.0, 4.0]

    import math
    [math.log10(x) for x in (1, 10, 100, 500

    結果:[0.0, 1.0, 2.0, 3.0, 2.6989700043360187]

    2023年12月1日金曜日

    オスプレーの墜落 は「一事が万事」

     また、米軍のオスプレーが墜落しました。幸い重大事故には至らなかったものの、兵士は死亡、あるいは行方不明です。この事故を知ったとき、咄嗟に頭によぎった言葉が「一事が万事」でした。オスプレーがたびたび事故を起こしていることもあって、オスプレーは欠陥軍用機と言われてきました。それでも、米軍は運用を強行してきました。自衛隊も追随して運用してきました。その結果が今回の墜落を招いてしまったのです。
     この一事は、米軍は、あるいは軍隊は自国の兵士の命まで軽視していることを意味します。そして、軍事に関わる万事が、兵士の命も、ましてや敵国の命など眼中にないことを意味しています。だからこそ、国防といった言葉を隠蓑にし、兵器の消費という大目標を達成しようとしているのです。
     少し考えれば、軍事産業にとっての恰好の市場は戦場なのです。例えばミサイルの場合、戦争がなければ消費はされません。戦争がなければ、その性能を知ることもできないのです。
     と、ここまで書いていて、「国防のため」と言っても、兵器は所詮、「どれだけ効率的に人を殺せるか」が性能の良い兵器だということに気がつきました。このような兵器が世界で大量に生産され、その商品は、戦場という市場を求めているのです。こんなのおかしいです。このおかしさに気が付かなくてはなりません。そう痛感します。

    2023年11月30日木曜日

    農業を育成し土地の劣化防ぐ

      日本の自給率が異常に低いことは自明のことです。しかし、その実態は、あまり知られていないのではないでしょうか。赤旗日曜版(2023年11月26日)によれば、「国内農業の生産基盤は崩壊寸前です。食料自給率は38%に低迷し、2010年に205万人だった基幹的農業農業従事者は、12年で4割にあたる82.5万人が離農。農地は東京都の面積を大きく超える26.8万ヘクタールが失われました」。こうした現状の意味することの重要性を最近知りました。『人間中心の経済学』の著者シューマッハーの声に耳を傾けてみましょう。

     物的資源の中で最大のものは、土地である。社会が土地をどう保全・利用するかを見れば、その社会の将来を想定できる。土地は人間をふくむ生物の生存の場であるだけでなく、人間の健康・美・永続性を保証するものである。土地の劣化により幾多の文明が亡びたが、現代の文明も、農業とは異なる工業の論理を押しつけることによって、土地の破壊に拍車をかけている。(小島慶三著「シューマッハーの人と思想」『スモール・イズ・ビューティフル 人間中心の経済学』、E.F.シューマッハー著、講談社、1986年、p p396)

     どうでしょうか。「人間をふくむ生物の生存の場であるだけでなく、人間の健康・美・永続性を保証するもの」が土地なのです。これだけ大切な土地を劣化させ続けていいのでしょうか。言い訳がありません。このまま放置しておくことは、家の土台がシロアリに侵食されているのを放置しておくようなものです。早く農業を育成し、土地の劣化を防がなくてはいけません。

    2023年11月29日水曜日

    世界の貧困に目を向けよう

     日本は豊かですが、それに比べて世界には貧しい国があることは知っていました。しかし、どの国が、どのくらい貧しいのかまでは知りませんでした。最近南スーダンの貧しさの実態、つまり、「約1000万人の人口に対して、子どものための病院は首都のジュバにある一つだけ。小児科の医師は2人のみ」ということを知り、胸が締め付けられるような思いに駆られてしまいました。南スーダンの面積は日本の1.7倍ですから、「国民が安心して暮らせるようになるには、まだまだ時間がかかり」そう、というのもよくわかります。
     日本国憲法前文において、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」としています。「全世界の国民が」と言っていることの意味を改めて痛感しました。考えてみれば、人間の尊厳というものに国籍は関係ありません。だからこそ、「全世界の国民に、平和のうちに生存する権利」があるのです。もっともっと世界の貧困に目を向けていきたいです。
     世界で一番新しい独立国である南スーダン。ずっと続いていた内戦が終わり、独立を果たしましたが、長きにわたる内戦で国は疲弊し、お金もありません。約1000万人の人口に対して、子どものための病院は首都のジュバにある一つだけ。小児科の医師は2人のみです。国民が安心して暮らせるようになるには、まだまだ時間がかかります。
     また、別の途上国では、10歳にも満たない子どもでさえ紛争に巻き込まれます。銃を持たされて人を殺すように教え込まれ、それでしか生きる術を持たない子どもたち。「殺したくない」とか「それは悪いことだ」なんて言えるはずもなく、大人に言われた通りにするほかありません。けれど紛争が終わったとき、命令した大人たちは、彼らの人生の責任など取ってくれません。 子供たちは人殺しの罪を背負い、非難され、疎外され、普通に生きていくことができなくなってしまいます。(黒柳徹子著「自分の考えを率直に声に出し続けましょう」『世界を平和にするためのささやかな提案』、池澤春菜著、河出書房新社、2015年)

    2023年11月28日火曜日

    いいものは決して滅びない

     映画「ショーシャンクの空に」を観ました。最後の方で主人公のアンディがレッド宛の手紙の中で希望について語った言葉が印象的でした。
     レッド、希望はいいものだよ。
         何にも替え難い。
         いいものは決して滅びない(”希望は永遠の命だ”[字幕])
     この言葉を聞いたとき、古代ギリシャに誕生して2000年以上も決して滅びなかった「ユークリッド幾何学」と幾多の試練を経ながらも70年以上健在な「日本国憲法」のことを思い出しました。そして、希望の言葉「日本国憲法」も永遠の命に違いない、と確信しました。
     なお、以下は「ショーシャンクの空に」の”あらすじ”です。

     若くして銀行副頭取を務めるアンディは、妻とその愛人を射殺した罪に問われる。無実を訴えるが終身刑の判決が下り、ショーシャンク刑務所へ投獄される。
     初めアンディは孤立していたが調達屋レッドに声を掛けられ、趣味のために小さなロックハンマーを注文する。 それ以来レッドと交友を重ねるようになり、それに伴い他の受刑者とも会話をするようになる。 そうしたある日、アンディは仲間と屋根の修理をすることになる。そこでアンディは屋根の修理作業中、ハドリー主任刑務官の遺産相続問題を知り、自身の経験を活かし作業仲間達へのビールと引き換えに解決策を提案し、成功する。
     それ以来アンディは仲間達のみならず刑務官らにも一目置かれる存在となる。 やがて、アンディは図書係に配置換えとなる。だが、その本当の目的はノートン所長や刑務官達がアンディを利用し自身の税務処理や資産運用を行わせるためだった。そして、ある日所長の不正蓄財を手伝ったアンディが新たな無実の証言を根拠に再審請求を迫った。そんなアンディを懲罰房に入れ考えを改めるよう迫り、1ヶ月経っても折れないアンディにノートン所長とハドリー主任刑務官は、無実の鍵を握るトミーを脱走したように見せかけ殺害する。
     だが懲罰房から出たアンディはどこか元気が無く、考え事をしているようで、レッドに要領の無い伝言を残した時、レッドはアンディが自殺を考えているのではないかと仲間達に相談したが、嵐の晩、皆心配を募る。
     翌朝の点呼の際、アンディが房から消えていることが発覚。中を調べると、大きなポスターに裏に隠された穴があった。アンディは約20年間、来る日も来る日もロックハンマーで壁を掘り続け、ついに脱獄したのだった。アンディはスティーブンスに成りすまして所長の不正蓄財を引き出すと同時に、告発状を新聞社へ送り、メキシコへ逃亡する。
     そしてアンディの告発状によってハドリー主任刑務官は逮捕され、人生を悟った所長は拳銃自殺する。間もなくレッドも服役40年目にしてようやく仮釈放され、アンディの伝言を信じ、メキシコへ向かう。そして海の海岸線で、長年の理不尽な獄中生活から自力で自由になり、悠々自適の生活を送るアンディと再会し、笑顔で喜びの抱擁を交わした。

    2023年11月27日月曜日

    「調身」「調息」「調心」

       よく言われる言葉に「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」という言葉があります。その理由は、「体が先」で「脳は後」という生理学にあるようです。だから、やる気スイッチが入るのも、まずは行動することが大切なのです。文章を書くときも、つまり、書出しに悩んでなかなか書き出せないときも、見切り発車で書き始めれば、体も「書きモード」になるのです。

     怒りの感情も、「表現してしまうと広がってしまう」ので、「イライラしたとき、暴言を吐きたいときは、瞬間的に行動するのではなく、我慢を」(イ)することが大切です。逆に、「別に楽しいことがないときでも、『フェイクスマイル』で笑顔をつくるとストレスが軽減されて自分が良くなる」(ロ)「手足の動きは、表情よりもさらに優位に感情を動かす=楽しい動きをすると楽しくなってくる」(ハ)という研究もあるくらいです。
     そう言えば、武道や座禅では「型から入る」という言葉を使います。座禅の三大要素「調身」「調息」「調心」のうち、最も大切なのは「調身」です。なぜなら、「調身」によって「身体の姿勢がととのってくると、息も心も自ずとととのってくる」(ニ)からです。
    この「調身」が「型」です。

    「(ホ)」より

    (イ)『科学の力で元気になる38のコツ:誰でもできるのにほとんどの人がやっていない』、堀田秀吾著、アスコム、2022年、p119
    (ロ)上同、p33
    (ハ)上同、p44
    (ニ)『ただ座る:生きる自信が湧く一日15分座禅』、ネルケ無方著、光文社新書、2012年、p133)
    (ホ)上同、p158

    2023年11月26日日曜日

    今、求められている和解

      ベン・シャーンの作品に「思いがけぬ邂逅」という握手している手だけの絵があります。県立美術館の常設展で何度も目にして心に残っていた作品です。今日も出会ってきましたが、この作品を前にしたときの感情が以前にも増してはっきりとしてきました。明確な言葉「和解」の象徴として現れたのです。ウクライナやイスラエルにおける戦争状態のことが頭にあったからに違いありません。


     オンライン辞書「weblio国語辞典」によると、「邂逅」とは、”偶然の出会い”や”思いがけない巡り会い”という意味だけでなく、「人との嬉しい出会い」という意味もありました。この絵から「人との嬉しい出会い」を想像できますが、「和解」も想像できます。だから、この絵の題名は「今、求められている和解」がふさわしいと思います。

    2023年11月25日土曜日

    「悪魔の島」と呼ばれた沖縄

     ベトナム戦争については関心もあり、枯葉剤が散布されて多くの奇形児が生まれたことなど多くを知っているつもりでいました。しかし、ベトナムに向かう米戦闘機の出撃基地があった沖縄は、現地の人々から「悪魔の島」と呼ばれていたことまでは知りませんでした。なんという汚名でしょう、またったく恥ずかしいです。
     沖縄が「悪魔の島」と呼ばれていたことを教えてくれたのは、コラム「もう戦争には加担しない」です。次に全文紹介しますが、短い文章の中に、まさに日本の置かれた現状が見事に描かれています。特に米軍の本質がベトナムベト戦争当時から変わっていないこと、米軍の本質が「憲法改正」問題と深く関わっていることなど、このコラムから読み取ることができます。とにかく名文です。
     沖縄戦の地獄を逃げまどい、家族を戦火に奪われて、ようやく生き延びた沖縄の人々は戦争への強い拒否と平和への熱い希求を胸に戦後の生活を始めました。しかしながら、その願いを踏みにじるように沖縄は米軍政下に置かれ、米軍による世界支配のための「太平洋の要石」と位置づけられ、ベトナム戦争時には、その出撃基地として現地の人々から「悪魔の島」と呼ばれました
     そんな中で、平和憲法を持つ日本への「祖国復帰運動」が燃えさかり、1972年、沖縄は27年間の米軍政から日本国に「返還」されましたが、その内実は沖縄の人々が願っていた「基地のない平和な島」とはほど遠いものでした。それどころか逆に、日本本土にあった米軍基地が次々に沖縄へと移転され、沖縄の基地負担がますます重くなるスタートでしかなかったのです。
     現在も米軍は、日本政府による莫大な「思いやり予算」に支えられて沖縄に居座り続け、中国や北朝鮮の「脅威」を煽って、軍備強化や日本の自衛隊との共同訓練・共同作戦などの連携を強めています。さらに日本政府自体が、与那国島をはじめ宮古・八重山の「国境地城」への自衛隊配備を進めつつあり、地元住民から不安や反対の声が上がっています。
    「国防軍の創設」や「憲法改正」をめざす安倍政権の誕生で軍事力強化の危機が強まっている今こそ、戦争に加担するのではなく、東アジアをはじめ世界を結ぶ「平和の要石」になりたいという沖縄の願いを、ますます強く打ち出していく必要があります。(『沖縄の風よ薫れ:「平和ガイド」ひとすじの道』、糸数慶子著、高分研、2013年、p 22、強調は引用者)

    2023年11月24日金曜日

    壊れていない車(憲法)は修理するな

     興味深い憲法に対する例えを見つけました。「憲法は、その上に国家という車体を載せているシャシーのようなもの」(注1)だというのです。だから、そのシャシー(憲法)は、

     欠かせない大切な骨組みだが、滑らかに走行しているときにはまったく気にならないし、する必要もない。危うい場面に遭遇したり、スピードを出し過ぎてきしんだりしたときには、どこか傷んではいないか、荷重が重すぎるのではないか、などと点検しなければならない。
     しかし、大概の場合は部品を取り換えたり、板金を打ち直したり、エンジンの故障を直せばすむ。シャシーなどは、めったなことで取り換えるものではないのである。(注2)
     この本には、シャシーの一部を変えた場合にことは書いてありませんが、容易に想像がつきます。全体のバランスが崩れてしまい、かえって危険になるはずです。日本国憲法も同じです。三原則が揃って初めて日本国憲法なのです。九条を変えてしまったら、直ちに基本的人権と国民主権にも影響し、日本国憲法は瓦解してしまいます。
     それでは、九条を変えてしまったら、近隣諸国にどのような影響があるのでしょうか。
     中国や韓国など近隣諸国にとって憲法九条は、日本が再び危険な国家にならないための象徴的な存在になっている。改憲で無用な警戒心を抱かせ、相互不信と軍備増強のいたちごっこといった事態を招いてこの国の安全保障環境を不安定にさせるのは、どう考えても得策ではないと考えるからだ。(注3)
     そうなのです。「改憲で無用な警戒心を抱かせ、相互不信と軍備増強のいたちごっこといった事態を招いて」しまうのです。そうでなくとも、「相互不信と軍備増強のいたちごっこ」は拡大するばかりです。改憲は、そこに油を注ぐようなものなのです。
    (注1)『改憲幻想論 : 壊れていない車は修理するな』、佐柄木俊郎著、朝日新聞社、2001年、p1
    (注2)上同、p1〜2
    (注3)上同、p4

    2023年11月23日木曜日

    力強い充実感と生き甲斐の感情

     今は、世界的に混迷を深めています。戦争を止められないでいるのが何よりの証拠でしょう。日本でも、物価高が直撃しているにもかかわらず、大幅な防衛費増が確定視されています。難なく確定してしまいそうでも、多くの国民にとって座視することしかできないのは情けないことです。このように明るい見通しを持てないのも混迷を深めている証拠です。
     ヨーガの効能に「情緒の調和と安定、精神の明朗と平静、幸福感と充実感、不動の信念、創造性と自主性、解放感、さらには感覚を超えた広大な世界への心眼開発などといったもの」(『ヨーガ入門』、佐保田鶴治著、ベースボール・マガジン社、2015年、p20)があることを最近知りました。こうした効能が政局の如何に関わらず得られるならば、逆に、健全な精神から、健全な政局安定をもたらすことができるかもしれません。そんな希望が生まれました。先ずは、自らヨーガ実践を通して、ヨーガの真実の姿を体得したいものです。
     ヨーガにとっては、健康や治病は低次元の効果に過ぎません。ヨーガ修習の効能の本命は、個人の精神的な変身にあるのです。
     情緒の調和と安定、精神の明朗と平静、幸福感と充実感、不動の信念、創造性と自主性、解放感、さらには感覚を超えた広大な世界への心眼開発などといったものが、ヨーガの長い実修のあるものなのです。それに類した体験を語っている女史の手記の一部を紹ましょう。(上同、p20)

     ここで宗教というのは、各人にとっていちばん大切な教えということです。いいかえれば一人ひとりがもっている信念であり、各人の人格のバックボーンだともいえます。
     そして各人が宗教を持つならば、情緒の安定、明るく平和な性格、力強い充実感、不動の信念、生き甲斐の感情といった結果が、かならず現われてくるはずです。こうした意味での宗教は、個人個人に特有なものですから、人間の数だけあるといえます。(上同、p26)

    2023年11月22日水曜日

    人間中心の経済学

     シューマッハーが現代社会の危機を1970年代に予言していた彼の思想の要点を見てみましょう。
     シューマッハーはいう。近代の思想・科学・技術によって形成された世界は、三つの危機に同時に巻きこまれている、と。第一に、人間の本性は、非人間的な技術と組織の中で、窒息し、衰弱しつつある。第二に、人間の生命を支える生活環境は痛めつけられ、なかば崩壊の徴候を示している。第三に、人間の経済に不可欠な、再生不能な資源、とくに化石燃料資源の枯渇が眼前に迫っている。この根源となったものは、物質至上主義と巨大技術信仰、そして貪欲と嫉妬心にほかならない豊かさの追求である。
     自然との調和、身の丈技術、節欲勤倹の倫理観によって支えられた前時代の文明は、自然の自律的な調整によって永続性を保証されていたが、現今の自然支配と能動的進歩感、独走的技術のもとでは、歯どめとなるものは存しない。際限のない膨張主義は、資源・環境の両面から、自然を暴力的に破壊・汚染する一方、産業人の体質をむしばみ、人間の尊厳・自由そして創造性を抑圧するものとなる。また、企業組織や都市社会においても、集中と肥大化を生み、かえって空洞化や人間疎外を進行させる。(小島慶三著「シューマッハーの人と思想」『スモール・イズ・ビューティフル 人間中心の経済学』、E.F.シューマッハー著、講談社、1986年、p393〜394)
     今読んでも、一つも古さを感じさせないことは驚きに値します。逆に言えば、危機を指摘されながらも、彼の指摘によって有効な対策を取れなかったことを意味します。何十年もの猶予があったにもかかわらず、です。なぜでしょうか。
     私は、彼の思想に弱点があったからではないか、と考えています。その弱点というのが、「どんなに制度や機構を変えてみても、社会の病いを起こす人間の利己主義や飲欲や争い好きを取り除けない」という考えです。社会の危機は、「人間の利己主義や飲欲や争い好き」によって起きているのでもなく「資本の巨大な力」によるという観点が抜けていることです。「資本の巨大な力」に対抗できるだけの「民主的権力」というものが誕生して初めて、シューマッハーのいう社会的危機は解決されるのです。私はそう思います。
     どんなに制度や機構を変えてみても、社会の病いを起こす人間の利己主義や飲欲や争い好きを取り除けないのは明らかである。できることといえば、このような弱点を助長しないような環境を作りだすことである。制度・機構の力で人びとに原則を守らせることはできない。できるのは、望めば守れるような原則にもとづいて、社会秩序を打ちたてることである。(『スモール・イズ・ビューティフル』、E.F.シューマッハー著、講談社、1986年、p341)

    2023年11月21日火曜日

    和をもって貴しとなす

      新しい思想に出会いました。「インド大乗仏教の流れの中から生み出された心に関する深い洞察を含む理論です。日本にはすでに七世紀に導入され、以後千三百年あまり伝承されてきたものです。そういう意味では大変古いものです」(『コスモロジーの創造』、岡野守也著、法蔵館、2000年、p160)。この理論によると、世界的な問題になっている戦争や環境問題に対して統一的に考えられるところが、何よりの魅了です。

     唯識の視点から言うと、三つの問題は基本的にはまったく同じ根から発生しています。それは、一言で言うと「分離的認識」、すなわちすべての存在を、ばらばらに分離したものとして捉える認識のあり方です。仏教の用語では「分別知」といいます。これは、人類が言葉を獲得し、言葉を使って世界や自分を認識するようになって以来、つまり人類が人類としての歩みを初めて以来抱えてきた問題で、現代においてそれが頂点あるいは限界に達しつつあるのだと言っていいでしょう。
     簡単に言うと、言葉、とりわけ名詞・代名詞を使って世界を見ると、木なら木、私なら私という名詞・代名詞に対応した分離した「もの」があるかのように見えてしまい、それを成り立たせている無数の関わり・つながりが見えなくなってしまう傾向があるということです。
    ①(戦争の根本原因〕
     もちろん個々の戦争には複雑な事情が絡んでいるわけですが、問題点をはっきりさせるためにあえて単純化して言うと、向こうとこちらの集団が分かれて対立しているという分離的認識なしには、戦争は起こりえません。自分たちとは別の集団があって、「あいつらが自分たちの利益を侵害する、名誉を傷つけた」とか、「自分たちの信じている正義に反している」とか、「あいつらを侵略、征服、支配すると、自分たちがもうかる」といった考えがあって初めて戦争になるわけです。
    ②(環境破壊の根本原因〕
     環境破境・資源の枯渇も分別知によるものだと言って間違いありません。自然・地球環境を人間とは分離した向こう側にある対象と認識し、それをいろいろに細かく部分に分けて捉え、人間の都合のいいように作りなおすことができる、そうしていい、というのが、科学・技術・産業の基本にある考え方だと思います。
     それがまだ未発達で小規模の間は、自然にはそうとうな自己修復力がありますから、それほど問題にはなりませんでした。しかし、近代になって科学技術と産業活動が驚くべき大規模にまで発展してきたとき、ようやく地球環境の自己浄化力には限界があること、地球の資源にも限りがあることが明らかになってきたのです。(上同、p161〜162、強調は引用者)

     どうでしょうか。
     ここで気づいたことですが、 「分離的認識」の対極にある思想は、一七条憲法第一条の「和をもって貴しとなす」です。そういう意味で、この思想こそ、平和思想の原点です


    2023年11月20日月曜日

    模倣と創造

     多くの画家が、名作の模写を通して技術を磨いてきたことは知っていました。マティスも多くの模写をしていました。「ルーブル美術館で数々の名作の模写に打ち込んで」(*)いたのです。シャルダンの『赤エイ』模写は6年以上の年月をかけて完成させたそうで、その熱意に感心してしまいました。『マティスを旅する』には模写した『赤エイ』が飾られた部屋の写真がありましたが、模写そのものが立派な作品になっていたのです。
     このように、芸術の分野においては公然と模倣が行われてきました。というより、積極的に”模倣による学び”が推奨されていたと言っても過言ではありませんでした。しかし、他人の文章の引用を多用した場合など、「創造性のなさを人に示すようで」と考えてしまうです。文章の模倣は、あまりよく思われないのです。そうした傾向に異論を唱えたのが板倉聖宣さんです。
     模倣は悪いことではない。他人のすぐれた考え、すぐれた文章は、いいと思ったらどしどしとり入れるのがいいのだ。そうすれば、その原著者の思想を自分のものとすることができるし、その原著者の気のつかなかったことまでも気づくようになり、新しい創造の世界をきりひらくことができるようになるだろう。(『模倣と創造 科学・教育における研究の作法』、板倉聖宣著、仮説社、1978年、p29)
     どうでしょうか。「気に入った文章、考えがあったら、 それを遠慮なく引用して文章を書くようにするといい」(上同、p30)とも言っています。これまで引用の多い文章を書いてきましたが、これからも、自信を持って引用しながら文章を書いていきたいです。

    2023年11月19日日曜日

    基本的人権と公共の福祉

     基本的人権と公共の福祉に関して、ずっと違和感を抱いてきました。「公共の福祉」のためには「基本的人権が侵害されても仕方がない」と思わされてきたからです。この論理がもっとも反映していると思われるのは、軍事基地問題があります。つまり、「国防という公共の福祉のため」という論理です。騒音被害といった深刻な基本的人権侵害が何よりの証拠です。
     そもそも、「『公共の福祉』という概念は、基本的人権を充足するためにあるものであって、それを口実に、少数者に対してであろうと多数者に対してであろうと、代償をともなわない犠牲を強要する権利は誰にもない」(『市民の自由 : 基本的人権と公共の福祉 』、戒能通孝著、法律文化社、1968年、序)のです。しかし、偽りの「公共の福祉」という概念が横行しているのが現状です。なぜでしょうか。
     それは、「大の虫は当然小の虫を殺す権利があるという考えこそ、専制が発明した最も厭うべき言葉、人類の福祉のために永遠に呪われた言葉である」(上同)ことが理解されなかったからに違いありません。だからこそ、真の「公共の福祉」という概念を納得できるまで究明することが求められています。
     繰り返しますが、「およそ政治的権力の性格を少数の支配者が大衆を圧迫するためにあるのではないと解釈するかぎり、『公共の福祉』は『基本的人権』に対立するものでなく、それを補充する手段にすぎない』(上同、p1)のです。にもかかわらず、「この平凡な原則が承認されていないということだけで、民主的政府の存立をゆるがすような安易でいいかげんの立法が、なかば公然と横行するようになっている」(上同、p1) のです。このことは、最近の国会討論を見ても頷ける話です。

    2023年11月18日土曜日

    国民が求めてもいない憲法改正

     自民党には「憲法改正実現本部」というのがあって、憲法改正に向けた国民運動の全国展開を始動させたそうです。その第一弾の集会は、なんと「非公開で、参加者は地方議員約40名」だけ、というから驚きです。よほど”やましいこと”を相談したのでしょう。そうでなければ、非公開の意味がありませんから。
     また、「安倍政権時代から今日に至るまで、憲法改正が国民の関心事であったことは一度もない」、つまり、「国民が求めてもいない憲法改正のために時間と税金を空費するような政党(自民党・維新の会・国民民主党などの)には、公党の自覚が欠けていると言うほかはない」という主張は、もっともな話です。
     そして最後の結論は、「憲法違反を平気で繰り返す政権の改態論については、有権者はひとまず拒否するのが正しい選択だろう」でした。「憲法違反を平気で繰り返す政権」は、それだけ憲法を軽視しています。そんな政権に憲法改正を語る資格はないのではないでしょうか。私はそう思います。
     以上、コラム「憲法違反を繰り返す政権による改憲とは」の感想です。
     新聞報道によれば、自民党の憲法改正実現本部が改正に向けた国民運動の全国展開を始動させ、その第一弾の集会が2月6日、岐阜市で開かれたとのことである。集会は非公開で、参加者は地方議員約40名。一般市民を締め出して何が国民運動かと思うが、参院選後に本格化するらしい改正の動きに向けて、地元の機運を高めるための決起集会だったのだろう。そして早くも10日には、今国会初となる衆院の憲法審査会が開かれるに至ったのだが、新年度予算案の審議中の開催など、聞いたことがない。国民生活に直結する予算案の審議以上に重要なものはないはずの通常国会で、異例の開催を要求した自民党・維新の会・国民民主党の3党は、いったい何を履き違えているのかと思う。
     現に安倍政権時代から今日に至るまで、憲法改正が国民の関心事であったことは一度もないし、いまのところ予算案の審議中にあえて憲法審査会を開く理由はどこにも見当たらない。いまは何よりも、コロナ禍で低迷する賃金や増え続ける社会保障費などの将来不安に応えるべきところ、国民が求めてもいない憲法改正のために時間と税金を空費するような政党には、公党の自覚が欠けていると言うほかはない。
    (中略)
     それよりも安倍政権が9条を恣意的に「解釈」して集団的自衛権の行使容認を閣議決定したことのほうが重大な憲法違反であり、本来ならこれを破棄するか、それとも9条を書き換えるかの議論が行われて然るべきだが、現状では望むべくもない話である。
     かくして、改憲をめぐる状況は国民にとってつねに不全感も甚だしいのだが、そもそも9条や53条の例にみられるごとく、憲法違反を平気で繰り返す政権の改態論については、有権者はひとまず拒否するのが正しい選択だろう。2022.03.06(「憲法違反を繰り返す政権による改憲とは」『銃を置け、戦争を終わらせよう 未踏の破局における思索』、高村薫著、毎日新聞出版、2023年、p110〜113)

    2023年11月17日金曜日

    日米対等の平和条約締結を

     前に、心に沁みる「まえがき」を<「脱アメリカ」だけが日本を救う>で、紹介しましたが、「あとがき」もまた、ポイントが箇条書きにまとめられていて良かったです。そこで、「あとがき」の後半も紹介します。「米軍基地のすべてを撤去すること」など、はっきりとした物言いで、気持ちがいいです。
     エネルギーが尽きる前に少なくとも五つのことをやり遂げたい。
    第一は、日本の政治を極端に劣化させた衆議院議員の選挙制度(小選挙区比例代表並立制)を廃止し、中選挙区制を復活させること。
    第二は、TPP加入を阻止し、「脱アメリカ・入アジア」の外交路線を確立すること。
    第三は、政府・財務省の増税一本檜の政治路線を打破し、日本経済を成長軌道に乗せること。
    第四は、沖縄をはじめ日本にある米軍基地のすべてを撤去すること。このために日米安保条約を全面改定するか破棄して、日米対等の平和条約を締結すること
    第五は、自然環境保全と大地震・大災害に耐えうる社会を建設すること。
    最後に、日本の政治の根本理念として、次の五つの格言を政治家の精神のなかに植えつけたい。
    第一は「和を以て貴しと為す」(聖徳太子)。
    第二は「一隅を照らす者は国の宝である」(最澄)。
    第三は「広く会議を興し万機公論に決すべし」(五簡条の御響文)。
    第四は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」(福沢論吉)。
    第五は「国家の実力は地方に存する」(徳富蘆花)。
     最後にもう一度強調したい。
    あらゆる堕落のなかで最も軽蔑すべきものは――他人の首にぶらさがることである」(ドストエフスキー、代表作の一つ「白痴」の中の言葉)。
     日本国民はアメリカ政府の首にぶら下がって生きるという堕落した生き方から脱却しなければならない。「脱アメリカ」だけが日本再生の道である。(『独立国日本のために 「脱アメリカ」だけが日本を救う』、森田実著、ベストセラーズ、2011年、強調は引用者)
     どうでしょうか。
     沖縄をはじめ日本にある米軍基地のすべてを撤去すること、そして、日米対等の平和条約を締結すること、あるいは、和を以て貴しと為すこと、いずれも真っ当なことばかりです。このことに気付いて欲しい。本当に本当に、「脱アメリカ」だけが日本再生の道なのです。逆に言えば、「脱アメリカ」なしに日本再生の道はあり得ないのです。

    2023年11月16日木曜日

    平和的な手段で戦争を防ごう

     誰もが平和を望んでいます。戦争で殺し殺される世界は、ある意味地獄です。しかし、こうしている今でも、世界に目を向ければ、地獄絵が展開されているのです。だからでしょう。戦争は嫌だけれど、嫌だから、と軍備の拡大に賛成してしまう人がたくさんいます。そうすることが、戦争を防ぐ唯一の方法だと信じているからです。
     それでは、軍備を拡大して行けば、本当に戦争を防ぐことができるのでしょうか。残念ながら、その保障はありません。軍備の備えをしあっていても現実に戦争が起きてきたことが何よりの証拠です。そもそも、戦争の手段でもって戦争を防ぐということ自体、論理的矛盾なのです。軍備の拡大といった手段の強化は、相手を刺激して矛盾対立が激しくなって戦争の危険が増すからです。
     その点、文化の力、科学の力等の平和的な手段で戦争を防ごうとすることは、そこに論理的矛盾がありません。平和的な手段の強化は、より戦争を起こり難くするからです。なぜなら、文化の力、科学の力等が強化されれば、それだけ世界に尊敬されるようになります。日本が尊敬に値する国になれば、日本を攻めようと思う国は無くなるのです。平和的な手段でこそ、真に戦争を防ぐことができるのです。

    2023年11月15日水曜日

    精神の修練としての哲学

     最近、哲学への関心が高まってきました。『生き方としての哲学 J.カルリエ、A.I.デイヴィッドソンとの対話』(ピエール・アド 著、小黒和子訳、法政大学出版局、2021年)という本を見つけ、その中でプラトンの定句「哲学することは、死への修練である」を紹介していたからです。もともとやがて来るであろう死への不安に、どう備えていいものか頭の隅にあったからかもしれません。
     この本には「精神の修練としての哲学」という章もあって、修練について次のように語っています。

     個人的には私は精神の修練を、個人の変化、自己の変容を目指した意志的で個人的な行為であると、定義したいと思います。ジャン=ピエール・ヴェルナンとルイ・ジェルネはその例となりうる二つの手本を示しました。もうひとつの例は、これもまた古いものですが、人生の困難に備えるもので、ストア派にとっては貴重とされるものでした。病気、貧困、追放などの運命の転変に耐えるには、そうした機会がありうることを考えて準備しなければならない。覚悟していたものはより容易に耐えられるのです。(p151、強調は引用者)

     さらに、「修練とは実際には哲学全体であって、それは教育的言述であると同時に、われわれの行動の指針となる内面的理念でもあるのです」(p152)。だから、哲学全体が興味の対象になります。しかし、それではあまりにも対象が広すぎます。ゆえに、対象を絞って、『生き方としての哲学』、ショーペンハウエルやカントの哲学を学びの対象にしたいと考えてみました。

    2023年11月14日火曜日

    自ら現憲法を選んでいたのです

     長い間、日本国憲法は占領軍によって押し付けられたもの、つまり「押し付け憲法」と批判されてきました。しかし、初めはそうであったとしても、いわゆる逆コースの改憲案が否決されれば、その時点で、自ら現憲法を選んだことになります。「押し付け憲法」と批判される理由も無くなってしまいます。日本の戦後史の中に、そんなことがあったのでしょうか、
     実はあったのです。最近知りました。次の通りです。

     講和発効後の五〇年代前半に保守党が提起した憲法改正案は、全面的にではないにせよ、戦後改革以前の旧天皇制的レジームへの復帰に傾斜する内容をかなり含むものであり(いわゆる逆コース)、日本の保守的支配層の旧体制的感覚を示すものであった。しかし、この種の旧体制的感覚の改憲案が世論の批判を浴びて流産したこと自体、もはや旧体制の復活が不可能であるほどに現行憲法を前提とした新体制が定着しつつあったことを示している。このとき以降、旧体制の復活の企図は、戦後体制を担う勢力の側からも、今日まで一度も出されていない。(渡辺洋三著「戦後改革と日本現代法」『戦後改革 1課題と視角』、東京大学社会科学研究所編 東京大学出版会、1974年、p121)

     どうでしょうか。現憲法が選ばれ、「旧体制の復活が不可能であるほどに現行憲法を前提とした新体制が定着しつつあったことを示して」いたのです。だからこそ、今に至っても、現憲法が健在なのでしょう。自ら選び取った現憲法を大切にしましょう。

    2023年11月13日月曜日

    ショーペンハウエルの幸福論

     ショーペンハウエルが印度の古代哲学思想」に多くを学んでいることを知って彼に興味を抱き、彼の著書を調べました。そして、彼が幸福論を書いていることを知りました。『人生論 : 幸福について』(ショーペンハウエル著、橋本文夫訳、桜井書店、1948年)と『幸福について (哲学叢書 ; 第33巻)』(シヨーペンハウエル著、石井正・石井立共訳、創元社、1948年)の違う訳者のもの二冊があったのです。ちょっと読んでみたら、次に示したように「東洋的な空観」まで精通していたようで驚きました。

     「人生論」のなかにも著者の根本的な哲学思想が躍如としている。しかし、ここには縷説(るせつ)を避け、ただ現代に生きるわれわれに切実な点だけを摘記すれば、第一はキルケゴール、ニーチェ、トーマス・マンなどに貫く孤独な超人という思想の萌芽が見られることである。衆愚と優越者との喩えがたいみぞ、哲学的に言えば生きようとする意志のみに生きる者の社会と、知性・精神に生きる者の孤独との対立である。第二は著者が古代印度の「梵は我なり」即ち仏教の「一即一切」の悟りを開いていることである。この東洋的な空観に究極の安心立命を求めようとしていることである。(「訳者序」『人生論 : 幸福について』、p3〜4)
     果たして、ショーペンハウエルによって「東洋的な空観」がどのように表現されているか、興味あるところです。

    2023年11月12日日曜日

    精神を鼓舞する印度古代哲学思想

     9 2歳で現役、ギネス世界記録に認定された「世界最高齢の総務部員」というキャッチコピーの本『92歳総務課長の教え 世界一仕事が楽しくなる!』(玉置泰子著、ダイヤモンド社、2022年)を読んでいて、長年病気らしい病気をしたことがないこと、「50年ほど毎朝、ヨガを続け」(p76)ていることが分かりました。これぞまさに”継続は力”の見本です。
     彼女のヨガの先生は佐保田鶴治先生でしたので、彼の本を探しました。『ヨーガ入門 ココロとカラダをよみがえらせる』(佐保田鶴治著、ベースボール・マガジン社、2001年)といったヨガの本以外に、『ウパニシァッド文学と其の哲学思想 : 印度神秘思想の古典』(佐保田鶴治著、白揚社、1950年)といった本も書いていたことを知りました。この本は国会図書館オンラインでちょっと読んでみました。ショーペンハウエルもラテン語訳のウパニシァッドを読んでいて、次のように激賞していました。
     「ウパニシァッドは印度古代の、まだ伝統の殻に堅く覆われなかった頃の所産として、 人間精神の若々しい覚醒の暁に見いだすさまざまな驚き問い、それへの勇敢なる挑戦の跡を示している点で、人類一般の思想史上に於いても貴重な文献の一たるを失わない」(p1、なお下線部の原典は傍点)。それだけでなく、著名なショーペンハウエルもラテン語訳のウパニシァッドを読んでいて、「この書が地上にあり得る最も有益なる、精神を鼓舞する典籍なり。この本はただ予に生の慰安をもたらすに止まらず、また死の慰藉をももたらす」(p2、なお一部現代文にして読みやすくしました)というのです。宝物を発見したような気分です。そして、ショーペンハウエルにまで興味が広がってしまいました。

    2023年11月11日土曜日

    精神活動の喜びと活力

     NHKテレビ『わない数学 第2シリーズ 超越数』(2023年11月8日) を見ました。巨大な謎を秘めていて、ウルトラスーパーすごい数「超越数」とは何なのでしょうか?
    1、まず、数には作図できる数(代数的数)と作図できない数(超越数)があることがわかりました。数学者リンデマン(1852-1939)は、𝛑が代数的数でないことを証明できれば𝛑が超越数であることを証明できることを明らかにし、𝛑が超越数であることを証明を目指しました。


    2、しかし、長い間、𝛑やℯが超越数であることの証明はできませんでした。超越数の存在が証明できなかったのです。
    3、やがて、数学者リウヴィル(1809-1882)が、超越数を作ってしまい、リウヴィル数と名づけました。その後、𝛑やℯが超越数であることも証明されていきました。


    4、一方で、自然数の数の全体は実数の数の全体より圧倒的に少ないことを証明した数学者カントール(1845-1918)が、代数的数の全体は、自然数の数の全体に等しい、即ち、数の全体より圧倒的に少ないことを証明しました。


    5、次に、フランス高等科学研究所コンツェビッチ博士が、積分記号(∫)で表せるものと、表せないものに分類できることを発見し、積分記号で表せるものを周期と名づけました。そして、「代数的数は漆黒の空にある星のように光っている。漆黒の闇は超越数である」と語っています。
     また、大阪大学吉永正彦教授は、「周期の登場は、今後長い期間、人間の精神活動に喜びと活力を与え続け、 数学を進展させるエネルギーを与え続けるのではないか」と語っています。とても、この言葉が気に入りました。未知なる超越数の存在と宇宙に広がっている謎の暗黒星雲の存在がダブって興味が倍増してしまいました。

    2023年11月10日金曜日

    虚偽の申請で辺野古新米軍基地建設

     政府は辺野古の軟弱地盤を07年に把握していながら、「確認なし」と偽りの報告を県に申請していました。(衆院安全保障委員会で赤嶺議員が報告書入手)つまり、日本共産党の赤嶺政賢議員が入手した「埋め立て予定海域についての調査報告書(07年)」には、「調査地には軟弱な沖積層が広く、厚く分布している」ためとして、「今後の追加調査」として「ボーリング調査の実施」が提案されていました。しかし政府(沖縄防衛局)は、2013年に県に提出した辺野古埋め立て申請書に「長期間に渡って圧密沈下する軟弱な粘性土層は確認されてない」と嘘の内容を記載していたのです。
     ちょっと考えれば、いずれ嘘が発覚することはわかることです。それでも嘘の申請を出せたのは、工期が長引き、費用が嵩むことによる利益を目論むことができたからに違いありません。事実、費用は「当初の約2・7倍の9300億円」に膨らでいました。
     よく、手段が目的化する場合があると言われます。この場合、手段としての「工事そのもの」が目的化してしまっているようです。だから、嘘をついてまで、あるいは建設は無理かもしれないにせよ、何が何でも建設を強行しようとしているのではないでしょうか。このような辺野古新米軍基地建設は、絶対許せません。


    図
    「『赤旗』、2023年11月11日」より
     赤嶺氏は、辺野古・大浦湾側の軟弱地盤の存在によって工期が当初の5年から12年以上に延び、費用も当初の約2・7倍の9300億円に膨らみ、それ以上かかることは確実だと告発。埋め立て申請の当初から「虚偽の申請をやって辺野古(新基地建設)を進めていることは絶対に許せない」と批判しました。(『赤旗』、2023年11月11日)

    2023年11月9日木曜日

    骨のある思想家正木ひろし

      日本語の修飾語に「歯に衣を着せぬ」というのがあります。この修飾語の通り、これこそ「歯に衣を着せぬ物言い」と感心したのが次の天皇批判です。

     武装を解除された日本は、将来道義一本で建って行く以外に方法は無いという。誠に然り。然る時は、先ず第一に、日本を今日の悲境に陥入れたる張本人天皇の責任の追求を完全にすることを前提とす。我等は軍閥の命令によって戦争に従事したるものに非ず。天皇の名によってこれを遂行したるのみ。その責任を不問に附して、何の正義、何の道義ぞや。

      日本は、万邦無比な国体を有することが第一の特徴であり、その故に有難い国だと教わって来た。しかし、事実に於て何が有難かったのか。天皇に所有されたる生物、牛や馬と同じ家畜に他ならない。日本の国体を有難いと言うのは、家畜主たちと、その番犬階級のみ。(正木ひろし著『近きより』第九卷第十号<一九四四年十二月号>、『日本平和論体系・12』、家永三郎編、日本図書センター、p256)

     いまだに世襲議員が国会で力を持っています。これというのも、最大の世襲である天皇の戦争責任を不問にしてしまったのも関係しているに違いありません。それに、正木氏のような骨のある政治家、知識人が少ないからでしょう。残念です。
     このような骨のある正木氏の他の著書も読んでみたいと探した本が『日本人の良心』(正木ひろし著、筑紫書房、1949年)です。そこでも、「天皇と悪魔との合体。それが日本民族の悲劇の根源である」(p 22)と言い切っていました。著作集もあるようなので、もっと彼の思想を読み込んでみたくなってきました。

    2023年11月8日水曜日

    非戦を説きつづけよう!!

     世界における戦火の勢いが増してきているのでしょうか。停戦の働きかけがあるにも関わらず、無視されているからです。どうすればいいのでしょうか。半藤一利さんが「大小の戦乱の絶えることのない現代世界にあって、非戦を説きつづけることは、夢みたいな理想をただ語っているにすぎないのか、とあえて疑問を呈した」(『墨子よみがえる “非戦”への奮闘努力のために』、半藤一利著、平凡社、2021年、p236)ことがあります。その疑問に対する答えを聞いてみましょう。

     いいですか、たった一発の原子爆弾で広島を潰滅させたときから、人類は滅亡への第一歩を踏みだしたのです。もともと自然界に存在しないウラニウム25をつくりだし、それを燃料としているのが原子力なのです。根本的に自然に逆らっている。結果的に、天の意思にそむき、自分たちで制御できない"死の兵器"を自分たちの手でつくりだしたのです。ですから、核兵器廃絶の道以外に人類の明日はないのです。
     なるほど、その実現はまだはるか彼方としても、せめてその第一歩として、「核の先制攻撃の禁止」をまず日本は世界的に働きかけるべきなのです。それだけでも地球の明日のためになる。スタートになる。いまからでも間に合います。東日本大震災での放射能問題を考えただけでも、もし極小の核兵器をゲリラが使ったら、の恐怖の想定は容易にできます。そのためにも、墨子の精神すなわち第九条の精神を単に守るだけでなく、より大きな力のあるものとし、世界にむかって発信しようと、強く訴えているのです。(『墨子よみがえる “非戦”への奮闘努力のために』、半藤一利著、平凡社、2021年、p237)

     どうでしょうか。
     結局、「9条を実行する」ということになりますが、柄谷行人によれば、「これは憲法を護るということとは異なる。これを実行するためには、革命に等しい変革が必要である。が、それは、不可能ではない。軍備を拡大し、戦争に勝ち抜くことに比べれば、はるかに実現可能性が高い」(柄谷行人著、「9条を実行する」(『これからどうする 未来のつくり方』、岩波書店、2013年、p3)のです。
     理性(理想)の重要性について述べた名言があります。「光線は音もなく感ずべきほどの圧力もないが厳存する。人間の理性も音もなく圧力もないが厳存する。而して光線を無視する生物が亡ぶ如く、理性を無視する者も亡ぶ」(正木ひろし著『日本平和論体系・12』、家永三郎編、日本図書センター、p209)です。9条も世界を照らす光のようなものです。

    2023年11月7日火曜日

    執拗な推敲を重ねた芭蕉

     芭蕉の句に「閑かさや岩にしみ入蝉の声」という名句があります。実は、この句は推敲を重ねた末に出来上がったものだったのです。『わたしの芭蕉』(加賀乙彦著、講談社、2020年)を読んで知りました。 例えば、「山寺や石にしみつく蝉の声」 → 「淋しさの岩にしみ込むせみの声」 → 「閑かさや岩にしみ入蝉の声」と、こんな具合でした。
     著者が「この執拗な推敲」と表現した句もありました。「吹とばす石はあさまの野分哉」ですが、この句について、次のように述べています。
     この執拗な推敲が芭蕉の身上である。最初の句から「石」はもちいられているのだが、それを石の表現として、その持つ巨大な力として定着しなくては、独創的な表現にならない。岩という不動のものを「重力に反して」飛び上がらせるところに自然の力と相乗りする表現の力がある。それが句作の醍醐味である。(『わたしの芭蕉』、加賀乙彦著、講談社、2020年、p11)
     推敲の過程は次の通りでした。
    「秋風や石吹颪(おろ)すあさま山」」 → 「吹颪あさまは石の野分哉」 → 「吹落あさまは石の野分哉」 → 「吹とばす石はあさまの野分哉」
     四句をこうして眺めてみると、あさま山野風ばかりが際立っているのに対し、四句目は、あさま山の噴火のエネルギーが見事に表現された秀句になっているのがわかります。納得するまで執拗に推敲を重ねる姿勢は、是非ともあやかりたいものです。これからも文章を書き続けたいと思っているからです。

    2023年11月6日月曜日

    アジアで共存の枠組構築を!!

     ウクライナ戦争後、世界で軍事予算の大幅な増が見込まれています。しかし、「とりわけ二一世紀の日本にとって、アジアとの新たな共存の枠組みを構築することが、安全保障の面でも、経済の面でも不可欠である」(山口二郎著「序文」『東アジアで生きよう!』、金子勝編 、岩波書店、2003年)ことに変わりがありません。聖書にある「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、国際外交にも通用する真理だと思うからです。それなのに、敵愾心を膨らませて軍事費を増やすことは、百害あって一利なしなのです。
     では、どうすればいいのでしょうか。
     それは、「 過去の侵略から目を背け、冷戦期の同盟戦略にしがみつく日本政府ではなく、軍国日本と異なるデモクラシーを樹立した自信を支えとして、過去には正面から取り組み、現在のアジア地域の目指す方向を提案する。そんな日本政府をつくることができるのか。東アジアの地域構想を考える最後の、そして最大の課題がここにある」(『東アジアで生きよう!』、金子勝編 、岩波書店、2003年、p83)のです。
     このような、新しい政府の樹立の必要性まで踏み込んだ議論は珍しいです。しかし、そこまで踏み込まなければ未来はないことも事実です。それだけに、野党共闘の課題はこれからの日本を考える上で欠かすことができません。そこまで見通せるかどうか、それが問題です。

    2023年11月5日日曜日

    老子の平和思想

     老子思想が平和思想でもあるという。そういえば、墨子という東洋の思想家も平和思想の道主で、『墨子よみがえる』(半藤一利著、平凡社、2021年)という本があるくらいです。その本に、墨子の著書「非攻」篇〔上〕から「小さな悪事を行なうと、これを知って人は非難する。ところが大きな悪事を行なって他国を侵略すると、非難しようともせず、かえってこれを誉め、それこそ正義であるという」(p181)という言葉が紹介されていました。
     最近は、非難されてもなんのその、という”太々しい”風潮が目立ちます。モラルの低下なのでしょうか。軍事力を肯定していれば、そうした状態が長引くほど、モラルも低下していくであろうことは、容易に想像がつきます。常備軍の存在は、軍事訓練という名の殺人訓練ばかりしているからです。精神も荒廃してしまいます。だからこそ、常備軍の思想ではなく、日本国憲法の思想、墨子や老子の思想による理想を大切にしていくことが求められています。
     老子思想の根本にあるのは、自然を重視した調和の思想である。これからの世界に必要なもの――それは調和である。戦争や対立ではなく、徹底した「調和」を実現しなければならない。
     フランスの作家ロマン・ロランはいう。
    「真実の生活に根ざすただ一つの真の道徳は調和であろう。だが、人間社会は今日まで圧迫と諦めの道徳しか知らなかった」。
     この見方は正しい。二一世紀初頭の政治は悪い方向へ動いている。テロと戦争、強制と従属、エゴイズムの横行、そして諦めと受動的ニヒリズム(ニーチェ)の蔓延⋯⋯。この状況を一日も早く克服して、平和と調和と安定と希望の時代をつくり出したい。このために、私は「新老子主義」を広めるための新しい思想運動をこれから起こす。秋には私の論理を世に問うつもりである。(『森田実時代を斬る』、森田実著、日本評論社、2003、p8-9)

    2023年11月4日土曜日

    テロより怖いもの

     「テロより怖いもの」は、著書『堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法』の項目名です。文章も臨場感のある名文でしたので、この項目の本文全てを紹介します。
     9・1後、「銃の売り上げが右肩上がりに上昇、国会では巨額の軍事予算が、満場一致で承認」されたそうですが、ウクライナ戦争後に「世界の国々で軍事費が増額」されたのも、9・1後と同じ現象ではないでしょうか。
     9・1を思い出すたびに、記憶のフタがゆっくり開き、現れるのは、別のものなのです。
     あの日体験した地獄より、もっとずっと怖い世界。
     飛行機をハイジャックして、ナイフ一本で無慈悲に3000人を殺したテロリストよりも、さらに邪悪な者たちが存在すること。
     それを最初に目の当たりにしたのは、テロの翌日、9月12日の朝でした。
     恐怖と怒りでパニックになった人々の憎悪が、突然現れたテロリストという敵に向かって、凄まじい勢いで吹き出していたのです。
     朝起きて通りに出ると、鮮やかな赤と青が目に飛び込んできました。
     家々の門や窓にびっしりと貼られた星条旗(p18)
     少し開いた窓の隙間から、アメリカの国歌「星条旗」が流れていました。
     道行くバスや車にも星条旗がはためき、スーパーや量販店ではプラスチックの国旗が半日で完売、テレビをつけるとブッシュ大統領が拳を振り上げ、こちらに向かって力強くこう言います。
    「アメリカは負けない、テロリストになど屈しない。我々は一丸となって、この戦争に必ず勝利する」
     バス停でも電車の中でも、会社の休憩室でも、人々の話題はテロとの戦争でもちきりでした。次のテロはいつ、どこに来るのだろう? 自分と家族を守るには、どんな武器を準備すべきだろう?
     この頃、多くの主婦たちが、チェーンの大型スーパーで銃を買い、州兵の訓練所に撃ち方を習いに行ったのです。
     家族の人数分だけ銃を買ったというアパートの隣人は、一人暮らしの私を心配し、熱心にこう勧めてくれました。
    「ベッドサイドの引き出しに入れときなさい。テロリストが入ってきたとき、すぐ出せるようにね」(p19)
    (寝るときに、頭のそばに銃ですか⋯⋯。むしろそっちのほうが、怖くて安眠できそうにありません)
     やはり、武器で自衛する国民の権利が憲法にまで書かれている国は違います。エレベーターで会うたびに、何度も念押しされました。
    「一番上の引き出しに入れてね、聖書の横よ」
     無理もありません。テレビ、ラジオ、新聞では毎日のように、「正体のわからない危険なテロリスト」「国内すべての地域が次のテロのターゲットになる可能性」など、恐怖を煽る報道ばかりが流されていたのですから。
     武器というのは不思議なもので、増やせば増やすほど不安が大きくなるのです。
     恐怖が国全体を雨雲のように覆っていき、銃の売り上げが右肩上がりに上昇、国会では巨額の軍事予算が、満場一致で承認されていきました。(『堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法』、堤未果著、幻冬舎、2023年、p18~20,、強調は著者による)
     どうでしょうか。私はこの中の「武器というのは不思議なもので、増やせば増やすほど不安が大きくなる」は真実であり、名言だと思いました。やはり、さらなる戦火の拡大が危惧される今こそ、日本国憲法の真価を学び合う必要がるのではないでしょうか。
     われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
     われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、(この)政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
     日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ(「日本国憲法前文」より)

    2023年11月3日金曜日

    今こそ”民主化と地方自治”

     温暖化、省エネルギーと環境問題が取り上げられてから久しいです。にもかかわらず、軍隊が化石燃料の大量消費者である、と問題になることはありませんでした。しかし、とうとう批判が現れました。世界の軍事費が環境問題と深く関わっているだけでなく、次に紹介するように「世界で最も温室効果ガスを出しているのは各国の軍隊」だったのです。

     そう、世界で最も温室効果ガスを出しているのは各国の軍隊。ダントツの1位は、脱炭素政策の旗振り役であるアメリカの国防総省です。空軍の燃料費だけで年間30億ドルですから、推して知るべしですね。
     なぜこれがC〇Pで問題にならないのかって?
     アメリカは1997年の京都議定書でさんざんゴネて、軍事関連の炭素排出量報告義務から、ちゃっかり自分の国だけ外したからです。毎年報告しなければならないEU他46か国も、軍用機の分を一般飛行機枠に入れるなど、できるだけ少なく見せる工夫はしていますが、アメリカだけずるいという声が上がり、ついに2015年に免除を任意まで戻させました(任意なのでもちろんアメリカは出しませんがね)。
     もっと優過されているのは中国です。
     この間経済大国になり、軍事費も世界2位なのに、いまだに途上国枠なので報告義務なし、イスラエルやサウジアラビア、インドなども同様です。
     炭素を世界一排出しながらも、軍事産業はどの国にとっても機密情報扱いの分野ですから、今後も透明性はあまり期待できません。多国籍企業がよく批判される。環境保護を謳いながら実際には環境破壊に加担している「グリーンウォッシュ」の、まさにメガトン級と言えるでしょう。(『堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法』、堤未果著、幻冬舎、2023年、p272〜273)

     どうでしょうか。
     やはり、世界を席巻している軍国主義にメスを入れない限り、地球は持ち堪えられないのです。そうです。こうして書いて気がつきましたが、国防とかなんとか美名のもと、世界に覆うている暗雲は軍国主義そのものです。だからこそ、日本国憲法の出番であり、世界の民主化が求められていると言えるでしょう。世界の「扉を開くキーワードは、民主化と地方自治なのです」(上同、p275)。

    2023年11月2日木曜日

    超老朽化原発再稼働の狂気

      今朝の新聞を開いたら、2面にガザ難民キャンプへの空爆の記事があって、3面には<原発「40年超」運転、常態化 計6基、60年運転可能に>という記事が掲載されていました。「再来年までに運転開始40年を迎える運転中の九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)について、原子力規制委員会は1日、60年までの運転延長を認めた。」「60年までの認可は5、6基目。40年超が常態化し、今後も増えるのは確実だ」(朝日新聞、2023年11月2日)というのです。
     私は、両者の記事を眺めながら、”原発「40年超」運転、常態化”は、”ガザ難民キャンプへの空爆”と同じだと思いました。どちらも、被害を被るであろう住民のことなど考えてはいないからです。超老朽化した原発を再稼働すれば、原発事故の確率が高まることは火を見るより明らかです。にもかかわらず、再稼働を認めるということは、原発事故による被害住民のことなど考えていないとしか言いようがありません。
     空爆とて同じことです。無辜の住民のことを考慮していたら、とても空爆などできません。ただ、この場合は、即被害を被りますが、再稼働の場合は、確率の問題が絡んでいます。とは言え、被害の規模は甚大なことは福島の事故で証明済みです。一地区への空爆の比ではありません。だからこそ、ドイツでは脱原発への舵を切りました。しかし、当の福島で”原発事故終息への見通しも持てない状況”であるにもかかわらず、超老朽化した原発の再稼働を認めることは”狂気の沙汰”としか言いようがありません。

    2023年11月1日水曜日

    経験として成長してゆく条件

     画家にとっての「描く」という作業(仕事)について語った言葉を読んで、それらが”数学や英語の勉強にも言える”ことではないか、と思いました。たとえば数学の勉強にとっては計算が欠かせません。その計算について「計算することの中で経験として成長してゆく」「計算しながらでしか見えないものがある」と言えると思ったのです。
     英語について言えば、「英文を声に出して読む、あるいは英文を書くことの中で経験として成長してゆく」英文を声に出して読みながら、あるいは英文を書きながらでしか見えないものがある」と言えると思いました。なぜでしょうか。
     それは、記憶に関係しているような気がします。最近「暗記はあらゆる勉強の前提条件」(『自己発見の心理学』、国分康孝著、講談社、p96)だということを知ったばかりだからです。描くこと、計算すること、音読することなどは、全て記憶に定着させることでもあるため、「経験として成長してゆく」ことになると思うのです。
     人が何かのものを描くのはそのものを見るためだ。(ロビン・G・コリングウッド)見ることは描くことの中で経験として成長してゆく。・・・風景一つ描くにも、画家は現場で丹念にスケッチする。やりながらでしか見えないものがあるのだ。『藝術の原理』(山崎正和・新田博衞訳)から(「折々のことば:2897 鷲田清一」『朝日新聞』、2023年11月1日、強調は引用者)

    2023年10月31日火曜日

    ユークリッド幾何学『原論』に挑戦

     月に二回のペースで、放送大学の仲間で、数学の勉強会をやっています。その過程で、ユークリッド幾何学『原論』の命題に挑戦しました。そして、何とか三つの命題をクリアすることができました。
     これまでの命題を考えていく過程で、一つ一つ思考を積み上げていくことの大切さを学ぶことができました。さらに、命題を解く過程で”わからないこと”も出てきました(つまずき過程)が、それも、わかると、わかったという快感が味わえることも再発見でした。だから、わからないことが出てきても、それを挑戦の課題とプラスに受け止めることができるようになってきたのです。
     古代ギリシャ人が考えた問題を解いている、そう思っただけでも、言いようのない感動をしています。プラトンの「メノン」を読んだ時も、ソクラテスと同じことを考えているんだ、と同じような感動をしました。なぜ、古代ギリシャ人がこれらの素晴らしい、何千年後にも通用する仕事を成し遂げることができたのでしょうか。謎です。

    第2巻命題5 二等分および二分された線分上の矩形

    もし線分が相等および不等な部分に分けられるならば、不等な部分に囲まれた矩形(Ad、dB)と二つの区分点(rd)の間の線分上の正方形との和は、もとの線分の半分の上の正方形に等しい。


     今回もまた、何を言っているのかさっぱりわからない命題である(やっぱりそうなんだ)。図を描いてみよう。

    f:id:kigurox:20180321135252p:plain(ΑΓ=ΓΒ)


    1、問題の確認:まず線分ΑΒがあり、それを点Γで等しい部分に、点Δで不等な部分に分ける。このとき、不等な二つの部分ΑΔ、ΔΒに囲まれた矩形と、二つの区分点Γ、Δの間の線分上の正方形との和が、もとの線分の半分ΒΓ上の正方形に等しいと主張している。

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     これまでの命題と違って、直感的に正しいかどうか、すぐにはわからない。少なくとも、下の二つのピースをどう動かしても、上の正方形は作れそうにない。
     では証明しよう。

    2、とりあえず作図する:まず、線分ΓΒ上に正方形ΓΕΖΒを描き、対角線ΒΕを結ぶ。

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     そして、点Δを通り線分ΓΕ(またはΒΖ)に平行な線分ΔΗを引き、ΒΕとの交点をΘとする。

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     さらに、点Θを通りΑΒ(またはΕΖ)に平行な線分ΚΜを引き、点Αを通りΓΕ(またはΒΖ)に平行な線分ΑΚを引く。

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     このとき、補形ΓΘは補形ΘΖに等しい。双方に四角形ΔΜをくわえると、ΓΜ全体ΔΖ全体に等しい。

    f:id:kigurox:20180321141913p:plain

    3、ところで、線分ΑΓは線分ΓΒに等しいので、平行四辺形ΑΛは平行四辺形ΓΜに等しい。ゆえに、平行四辺形ΑΛも平行四辺形ΔΖに等しい。

    双方(*平行四辺形ΑΛ、平行四辺形ΓΜ)に平行四辺形ΓΘをくわえると、ΑΘ全体はグノーモーンΝΞΟ(「平行四辺形ΓΘ+平行四辺形ΔZ」のことのようです)に等しい。

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    3ー*ここで、また問題に立ち返る。正方形rZ=平行四辺形ΑΘ+正方形ΛΗ(=rΔ上の正方形
    4、ここで、矩形ΔΜは正方形なので、辺ΔΘは辺ΔΒに等しい。ゆえに矩形ΑΘは、矩形ΑΔ、ΔΒである。従って、グノーモーンΝΞΟも、矩形ΑΔ、ΔΒに等しい。

     双方に、矩形ΛΗを加える。すると、グノーモーンΝΞΟと矩形ΛΗの和(正方形rZ)は、矩形ΑΔ、ΔΒ(矩形ΑΘ)と、矩形ΛΗとの和に等しい(ここがミソらしい)で、矩形ΛΗは線分ΓΔ上の正方形に等しいので、後者は矩形ΑΔ、ΔΒと、ΓΔ上の正方形との和に等しい。

     そして、グノーモーンΝΞΟと矩形ΛΗの和は、正方形ΓΒΖΕに等しい。従って、二線分ΑΔ、ΔΒに囲まれた矩形と線分ΓΔ上の正方形との和は、ΓΒ上の正方形に等しい。

     よって、もし線分が相等および不等な部分に分けられるならば、不等な部分に囲まれた矩形と二つの区分点の間の線分上の正方形との和は、もとの線分の半分の上の正方形に等しい。これが証明すべきことであった。