2021年12月31日金曜日

真に富める小さな部族ピダハン

 現代文明に毒されていない未開の部族が存在してきたことは、すでに明らかになっている。それらの多くの部族は、現代文明に毒されてきたと言われている。しかし、現代文明の最たるものと言っても良いクリスチャン(ダニエル・エヴェレット氏)の方が、逆に、部族の習慣というか生き方にそまり、部族の生き方を取り入れてしまった人もいたという。彼らは「<現在>の一つひとつを楽しんで笑い興じているので『天国』への期待も『神』による救済も必要としない」(『現代社会はどこに向かうか』、見田宗介著、岩波書店、2018年、p92〜93)。そんな彼らの生活と価値観に、すっかり魅せられてしまったらしい。
 見田宗介さんは、彼らの<現在>とは、どのようなものであろうか、と問うていたが、ここでは、その問いはおいておく。大切なことは、未来を待たなくても、<現在>に満ち足りて生きることができるという実例を見せてくれたことであろう。ただ一つだけあげれば、彼らが「この地上において富める者たちであるのは、彼らが<交歓>の対象としての他者たちと自然たちという、枯渇することのない仕方で、世界を所有しているからである」(上同、p101)。ここでいうところの「枯渇することのない仕方」というのがキーワードのような気がする。
 クリスチャンのダニエル・エヴェレット氏は、一九七七年から二〇〇六年まで二十年近くの間、宣教師/言語学者として、アマゾンの小さな部族ピダハンの人たちと一緒に生活した記録を著書『ピダハン』(みすず書房、2012年)として出版している。彼らの生活には、斉藤幸平氏が主張している<コモン>ともリンクしている部分があるような気がして、読むのが楽しみである。

2021年12月30日木曜日

ヨーロッパ世界の精神?

 前に、マルクスの理論も西洋文明の所産だ、という考えにであったことがあって、その時は、その意味すら理解できなかった。そして、そのままそうした思想があったことさえ忘れていた。『現代社会はどこに向かうか』(見田 宗介著、岩波書店、2018年)を読んでいたら、その答えと一緒に、疑問を抱いた昔の思想が意識の外に現れてきた。その思想というのは、未来へ未来への向かう精神、未来に想像した理想社会に向かう精神のことで、次のような思想である。
 現世に何の歓びも見いだすことのできない民族が、生きることの「意味」のよりどころとすることができるのは、ひたすら「未来」における「救済」の約束、来るべき世に「天国」があるということ、現在われわれを迫害し、富み栄えているものには「地獄」が待っているということ。現世に不幸な者たちの未来には天国があるということ。そのような決定的な「審判」の日が必ずあるという約束だけだった」(『現代社会はどこに向かうか』、p 97)。
 マルクスの思想も、結局は共産主義社会という未来社会に向かっている。資本主義社会では、有限な地球に存在している社会で富み栄えていくには無理がある。破局が待っている、と決定的な「審判」の心配がなされている。私が昔抱いた疑問というのは、そうした思想に対し、未来ではなく、今、現生における歓びを約束する思想があってもいいのではないか、という疑問だった。
 こうした問いは、そう簡単に解けるようなものではない。しかし、『現代社会はどこに向かうか』において、近代に至る「局面を現実において圧倒的に指導した」「ヨーロッパ世界の精神」(上同、p96)の問題を詳述した本として、「真木悠介『時間の比較社会学』現代岩波文庫、2003年、第三章」の紹介があった。よく調べてみたら、『人間解放の理論のために』(真木悠介著、筑摩書房、1981年))という本の存在もわかった。これらの中に「解」、あるいは「ヒント」があるんじゃないか、と、新たな「未読の楽しみ」ができた。

2021年12月29日水曜日

”私の『ゲルニカ』”になった日

 日曜美術館「ピカソ『ゲルニカ』~“実物大”8K映像の衝撃~」(2021年12月26日放送) を見た。『ゲルニカ』が、ゲルニカ空爆から五日後に描かれた最初のデッサンから、多くの習作を経て製作されたことを知り、その過程そのものにも魅力を感じた。
 これまで何度も『ゲルニカ』を観てきたが、今回は、新たな発見があった。光が右下の方へそ差し込んでいるように見え、二人の女性が光(希望)に向かっているように見えたことである。この作品が、多くのモノクロトーンによって描かれていることを知ったからかもしれない。
 そして、最後に、ピカソの含蓄ある言葉「絵は見る人によって初めて生命を与えられる」「牛は牛、馬は馬だ。鑑賞者は結局、観たいように見ればいいのだ」があった。この言葉の通り、私は、この絵から希望を感じ取ることができた。それで初めて、私の『ゲルニカ』になったような気がした。そうだ。今日は、ピカソの『ゲルニカ』が、”
私の『ゲルニカ』”になった日だ。

このニュースがゲルニカを描かせた。


5月1日に描いたピカソ最初のデッサン

ピカソは、このようなゲルニカの習作をたくさんの残している



ピカソの”強い意志”を感じさせる


2021年12月28日火曜日

戦争とは唾棄すべき野蛮

 ニーチェの著書『人間的なあまりに人間的な』を、一度「人間的な、あまりに人間的な」で取り上げた。そこで、社会には、「未発育の知性」の人間と、「成熟した個人」が存在していること。「未発育の知性がいつもはるかに多数を占めている」こと。歴史の進展に従って、成熟した個人の数が増えていくであろうこと、などを紹介した。
 今日読んだところには、「進み遅れた残酷な人間」(傍点部分を下線で示した)というのがあった。「 今日にあって残酷な人々は、残存している前代の文化の諸段階とみなされねばならぬ。人類の山脈は他では隠されている深い地層のありさまをここで一寸あらわに見せているのだ」(No.43)という。「進み遅れた残酷な人間」が「未発育の知性」の人間のことを指しいるかどうか、は知らない。しかし、似たようなものに違いない。
 このような人間の存在を認めると、現代社会において、「敵基地攻撃能力の保有を!」などと声高に叫んでいる人たち、核禁止条約の批准に背を向けている人たちが、みな「進み遅れた残酷な人間」に見えてきてしまう。 次のような言葉に真実味があるからだ。
武器は不自然・・・戦争は非人間的・・・戦争は到底支持できない・・・戦争はおぞましいケダモノ・・・戦争は愚行。(『三ギニー:戦争を阻止するために』、ヴァージニア・ウルフ著、片山亜紀訳、平凡社2017年、p 18)

戦争とは唾棄すべき野蛮です。(上同、p 23)

2021年12月27日月曜日

安保法成立6年憲法と民主主義無視続く

 2021年9月19日の東京新聞が、「安保法成立6年 野党の廃止法案審議されず、政府は既成事実化」という記事を書いていた。この記事を読んで、「野党はこれまで廃止法案を提出してきたが、与党は審議を拒否。国会で十分に議論しないまま、政府は適用実績を積み重ね、既成事実化を進めている」ということを知った。正規の手続きを経た野党の国会開催要求も退け、どれだけ憲法と民主主義というものを無視しようとするのだろうか。
 東京新聞社で撮影したという国会前に集まったデモ隊の写真から安保闘争のことを思い出した。同じようにデモ隊が国会に押し寄せ、国会も紛糾する中で強行採決された。強行採決は、言論の言論の府での最たる暴力と言ってよい。悪法の数々が、こうした暴力によって成立してきたことを思うと、その力の根源を問わずにはおれない。
 その根源というのは、資本主義社会に貫いている人知を超えた力である。人知を超えたものといえば、神ということになる。戦時中、現人神として大きな力を発揮したことは記憶に新しい。資本主義社会に貫いている人知を超えた力というものは、そういうものではない。マルクスは、そうした力を物神性と言った。商品というものが、「人間から独立して人間と対立し、人間を支配する」(『社会科学辞典』、社会科学辞典編集委員会編、新日本出版社、p 163)というのだ。
 政府は、「敵基地攻撃」能力を持てるように、そうした兵器を持とうとしている。確かに、これは政府の用人によって、あるいは役人の意志によるものだ。しかし、その背後に米軍による力が、アメリカ政府役人の意志が働いている。この場合も、背後に控えている力がある。兵器産業の面々の意志である。ここで、兵器という商品の物神性が大きな力となって人間を支配し始める。だからこそ、この力を侮ってはいけないのであり、人間が束になって抗っていかないといけないのだ。

(安保法案に反対し、国会議事堂正面の道路を埋め尽くし廃案を訴えるデモ参加者=2015年8月30日、東京・永田町、東京新聞社ヘリ「あさづる」から)2021919東京新聞より

2021年12月26日日曜日

今だから、日本国憲法

 『図説 1条30秒で理解できる簡単明瞭!日本国憲法~ユルキャラでわかる日本の骨格〜』(Kindle版、日本国憲法研究会、 小川三千彦著)を途中から読んでいたら、9条が抜けていた。不思議に思って目次に戻ったら、前文の次に「二章の9条」の解説があった。


 そういえば、『今だから、日本国憲法』(盛泰寛編著、雑誌『湧』、1988年増刊、地湧社)も、解説の順番が正規の順でなかったことを思い出し、調べてみた。 こちらは、大きく、1、憲法の精神。2、国会、内閣、司法。3、財政、地方自治、天皇」の三つに分けられ、 前文なしで、いきなり「最高法規」の条文となり、続いて、「平和主義」の条文、「国民主権」「国民と国籍」「改正の手続き」「抵抗権」「個人の尊重」「平等主義」・・・、となって、天皇の条文は最後だった。


 それなら、私ならどうする?と考えてみた。
 そして、考えた結論は、前文→基本的人権→平和主義→最高法規・・・
天皇、という順で並べるべき、と考えた。全文に国民主権が入っているので、三つの基本原理を前面に出しており、『今だから、日本国憲法』と同じく、天皇の条文は最後にした

2021年12月25日土曜日

日本をいい国にするために

 美輪明宏さんの「『老い』とは人生の総決算」というインタビュー記事を読んだ。そこで、「その時期が近づいたら、人生を振り返り、自分を見つめ直して、総ざらいしてみること」を勧めていた。「なんのために生きてきたのか。どう生きてきたのか。今までの積み重ねが問われ」る、というのだ。
 このところを読んで、その実例とも言える内容の手記を思い出した。 「大学を定年退職して自由になったときに、最初にやりたいと思ったことは、生を卒業する前に、若い時からの自分の仕事の全体を、生涯をかけたモチーフの一貫性が明確となるような仕方で、一編の『全体小説』のような全集として編集しておくということだった」(『定本見田宗介著作集 10』、岩波書店、2012年、p190)。見田宗介さんにとっての人生の総決算は、『定本見田宗介著作集 』全14巻として結実したことになる。誰もがこのような立派な総決算をできるわけではないが、人それぞれの、個性豊かな総決算ならできそうである。
 美輪さんはまた、日本をいい国にするためには、「きちんと歴史を見て、理性的に分析し、守るべきものは守っていく。そうすれば日本はきっと、この先、いい国になると思」うと述べていた。誇るべき歴史の例として、『鳥獣戯画』『北斎漫画』『からくり人形』をあげ、これらは世界を席巻しているアニメや漫画、そしてロボット技術の原型と言えると言っていました。日本には、このような世界に誇れる文化があるように、日本国憲法も、世界に誇れる文化財でもある。そのことに多くの人々が気づいていけば、本当に日本は、いい国になるに違いない。

2021年12月24日金曜日

作品が語りかけてくれるもの

「やなせたかしの世界」展に行ってきた。アンパンマンよりも、雑誌『詩とメルヘン』の表紙絵として描かれたメルヘンの世界が、なんとも夢があって魅力的だった。そして、一番触発を受けたのが、「パレット島」など10枚の「デュエット」シリーズだった。このシリーズを観て、福島県立美術館に観てきた「掌上泥象」のことを思った。なぜ、これらの作品が心に響いたのか。
 それは、頭の中でははっきり見えている。作品が無言で語りかけてくれているのだ。ただ、まだ言葉になっていない。強いて言葉にしてみると、「”テーマ”か”主題”に沿った言葉を集めることで見えてくるものがある」となった。どんなテーマかというと、「戦力で守ることなどできない日本」「民主主義というものの姿」といったことが頭の中にイメージとしてあった。芸術作品が、頭の中にあったものを引き出してくれた、という感じがする。
 話は変わって、「ヘン」という詩があって、「だれもが解かる/ごくやさしい表現で/紙や絵や文章を書きたい・・・・」とあった。思わずメモしたが、私も、そうありたい、と思ってきた。これまで何度か、わかりにくいがいい詩があって、わかりやすい言葉で、音楽で言うところの編曲のようなことをやったことがある。そういう詩もあっていいのではないか、と思って、もっと作ってみたいと思い出した。

『えちごえほん』1977年10月号表紙絵と「パレット島」

2021年12月23日木曜日

毎日があたらしい

 左手のピアニスト舘野泉さんのことを「全身全霊で音楽を弾く」に書いた。舘野泉さんの何がすごいか、それは、脳出血で半身不随になってピアノを弾けない日々を乗り越えて、左手のピアニストとして再出発してしまったことであろう。人間のその可能性に大いに励まされるものがある。だからこそ、語られる言葉にも光るものがある。
 雑誌『暮しの手帖』(2021年6月~7月号)に「毎日があたらしいから」という、舘野泉さんについての取材記事(渡辺尚子文)があった。
舘野泉さんの生きる姿勢に惹かれる。
5歳でピアノを始めてから
84歳の今に至るまで
舘野さんの想いは変わらない。
だから毎日全身で弾くのだ

 朝起きて、ピアノの前に座って鍵盤に触れる。そのたびに舘野さん「ああー俺は生きているんだな」と思う。ピアノの音が立ち上がる瞬間、あたらしい一日が生まれてくる。

 毎日ピアノの練習を欠かさない。気持ちが乗らない日もあるが、休まず弾く。うまくできず、打ち込む日は「今日はここまでだ」と考え、何日かおいて同じ課題に取り組む。 そうやって繰り返すと、ステージで、自分も知らなかった音が鳴る。(『暮しの手帖』、2021年6月~7月号、p6〜7)
 舘野さんは読書好きだそうで「物語のあらすじよりも、そこから感じることに惹かれる」というところに共感を覚えた。最後に座右の書一冊が紹介されていた。
 常に手元にあるのは『若く逝きしもの』、フィンランドを代表するノーベル賞作家シッランパーの小説だ。舘野さんは高校生の時に偶然、近所の古本屋で見つけた。若く貧しい娘が死の床につきながらも、最後までおのれを生きようとする気力を失わない。その姿に生きる誇りを感じ、折々に読みかえしている。(上同、p9)

2021年12月22日水曜日

説得によって成り立つ民主主義

 強引な辺野古への米軍基地建設や、日本学術会議の任命拒否問題を例に、「日本は、より強固な全体主義に向かって突き進んでいる」のではないか。「改憲の動きも、こうした全体の過程の一環として捉えるべきであろう」(「群のなかに埋没すること」にて)と書いたばかりだが、考えてみたら、議会における強行採決というのも、民主主義の対極にある暴力であろう。なぜなら、「 民主主義の根本はことば」であり、「ことばで説得することによって成り立つ政治が民主主義」(『小田実全集 36 生きる術としての哲学、p25)だからである。
 強行採決といえば、60年の安保改定で盛り上がった安保闘争の発端も、強行採決ではなかっただろうか。議会における強行採決は、自民党の御家芸になってしまったのだろうか。どちらにしても、半世紀近く、こうした事態が放置されてきたということは、ある意味主権者の怠慢でもあったのかもしれない。
 なぜだろうか。明らかなことは、強行採決された時は盛り上がっても、じきに忘れ去られてしまったことであろう。だとしたら、その時のことを、その部分に限って、つまり、わかりやすく編集して記録し直せばいい。安保闘争の記録はたくさんあるにしても、その記録が膨大になれば、余計にわかりにくくなってしまうからだ。さらには、強行採決に限らず、議会における反民主主義的事項を炙り出していく必要もありそうだ。

2021年12月21日火曜日

群のなかに埋没すること

 ノーベル文学賞記念講演ということで、『優しい語り手:ノーベル文学賞記念講演』(オルガ・トカルチュク著、小椋彩・久山宏一訳、岩波書店、2021年)を読んでみて、思わぬ収穫があった。友人と現代社会は全体主義そのものではないか、と話し合ったことがある。まさにそのことが、全体主義機構の解説と一緒に書かれていたのだ。
 例えば、全体主義について、全体という「群のなかに埋没することは、暴力、そして専制への屈従に合意すること」「それは人間の管理を引き受けるものであり、一方、人間のほうでも、自らそれによってすっかり自由を奪われてしまうにもかかわらず、何か自分自身の不可解な道行で、それを許容するだけでなく、受容をしてしまうような機構」(『優しい語り手』、p 69)とあり、エリアス・カネッティの『群衆と権力』 は、このような「全体主義理解の助けになりますが、これは、現代資本主義世界の記述としても、見事に通用します」(同、p 69~70)という。つまり、全体主義についての記述なのに、現代資本主義世界の記述としても見事に通用する、というのだ。
 全体主義とは、考えようによっては民主主義の対極に位置する概念である。したがって社会が民主主義から遠ざかるほど、全体主義に近づくことになる。強引な辺野古への米軍基地建設は、半民主主義の極みと言って良い。そこへ、民主主義的な手続きを経て選出されたにもかかわらず拒否された、日本学術会議の任命拒否問題である。こうした事例でも明らかなように、日本は、より強固な全体主義に向かって突き進んでいると言って良い。改憲の動きも、こうした全体の過程の一環として捉えるべきであろう。

2021年12月20日月曜日

腸内環境を整え、免疫力UPを!

 今朝の新聞広告にあった一冊の本『少食ライフ』が気になったので、早速定額のKindle Unlimited対象になっているかをAmazonで検索してみた。残念ながら、Unlimited対象にはなっていなかった。しかし、同じ著者の本『食べても太らず、免疫力がつく食事法』が対象になっていたので、即読んでみた。
 なんとこの本は、表紙だけで、その要点がわかるように、表紙に円グラフまで示して説明されていた。しかし、これが万人に適した方法だとは思えなかった。何よりも、書かれている内容に信憑性にかけるところがあったからだ。



 その一つの証拠は、「リンゴ酢が直接的に風邪その他の感染に対する抵抗力を示す研究はありません。しかしビタミンCや善玉菌の豊富なリンゴ酢は、古くから民間治療の薬として使われてきました」と、リンゴ酢には豊富なビタミンCや善玉菌が含まれている、と書かれているが、食品群の表によれば、ビタミンCは、少しも含まれていなかったこれでは、どこまでが真実であるか、さっぱりわからない。
 だとしても、飽食の時代、たまには、1日絶食は難しいとしても、15〜6時間絶食してみるのも悪くないと思った。それにしても、すぐに嘘とバレてしまうよう内容が書かれて本が公刊されてしまうのかがわからない。売れればいいというものでもないと思うのだが。


2021年12月19日日曜日

日々「人間の尊厳」が脅かさて

 米軍F16戦闘機がタンクを空から投棄した事件はニュースで知っていた。しかし、投棄された者の大きさを知って唖然とした。ちょっとした物でも、落下速度によって大きな衝撃を与えることは容易に想像がつく。にもかかわらず、これだけのものを平気で投棄する神経は、日本人に対する差別意識の大きさを考えなければ理解できない。米国本土では決してやれないこと、例えば日本で行われているような人口密集地での低空飛行訓練などを、日本では平気でやれる。その最たる典型が、今回の「タンクの空からの投棄」であろう。タンクの大きさが、差別意識の大きさを象徴しているのが、なんとも悲しい。
 青森県、深浦町の吉田町長が朝日新聞(2021128日)に、「われわれには、どこが米軍機の飛行ルートになっているか分からない。被害が起こる可能性は基地周辺だけではないと気づかされた」と語ったという。このような事件が起きても、なお、在日米軍と日米安全保障条約の存在に、なんの疑問も起きないとしたら、今や普遍的な概念と言っても良い「人間の尊厳」が軽視されているとしか考えられない。
 改めて、「人間の尊厳」の重要性を認識し直し、その上で、在日米軍と日米安全保障条約の存在の問題を考え直してもらいたいものである。”基地と日米安全保障条約”ある故に、日々「人間の尊厳」が脅かされるようなことがあっては、本末転倒であろう。”「人間の尊厳」が脅かされて、何が「安全保障」か!”と問いたい。

 

2021年12月18日土曜日

人間的な、あまりに人間的な

 つい最近、ニーチェに『人間的なあまりに人間的な』という著書があるのを知った。そして、まずその書名に惹かれてしまった。そして、この本は、書名から分かるように「人間的な、あまりに人間的な」人間というものを追求した本であろう、と勝手に想像してしまった。それで、ぜひ読んでみたいと思い、手にとって、まず飛び込んできた言葉が「まずい著作者はなくてならぬ」であった。
 結局、ニーチェがここで言いたかったことは、当時の社会の圧倒的に大多数の者は「悪い趣味を持った未発育の知性」の持ち主ではないか、ということではないだろうか。そして痛感したのが、「今の社会も、当時とあまりあわらない」のではないか、ということである。なぜなら、あれだけの悲惨な戦争を経ながらも、いまだに軍事力に固執している原因が、「”未発育の知性”が圧倒的に優勢だから
ではないかと思えるからだ。

 まずい著作者はなくてならぬ。 —— いつにしてもまずい著作者はなくてならないだろう。なぜなら彼らはまだ発育していない未熟な年輩の者の趣味に合うからだ。 こういう連中も成熟した人たちと同様に彼等独特の欲求を持っている。もしも人間の生命がもっと長いものなら、成熟した個人の数が優勢になるか少なくとも未熟者の数と同じくらいになることだろう。 ただ事実は圧倒的に大多数の者が若すぎるうちに死ぬ、つまり悪い趣味を持った未発育の知性がいつもはるかに多数を占めているのだ。こういう人たちはその上若さに特別の一層激しい性急さで彼等の欲求の満足に渇望する、そして彼等はまずい著者たちを無理やりわがものにする(傍点部分を下線で示した)。(No.201)

2021年12月17日金曜日

自由と魅力性による勝利

 今日借りてきた『現代社会はどこに向かうか』(見田宗介著、岩波書店、2018年)で見つけた興味ある考えに感動してしまった。「『永久』と考えられていた体制を、{内部から}(原文は傍点)解体した。 それは軍事力による勝利ではなかった故に、敗者の側に怨恨や復讐心が残るということもなかった。それは正しい勝ち方であったからである」(p144〜145、強調は筆者による)という部分だ。この言葉は、「ベルリンの壁。自由と魅力性による勝利」という項目の章にあったものだが、「自由と魅力性による勝利」という言葉も、またすばらしい。戦後続いた冷戦は、そう言われて仕舞えばその通りだが、内部から崩壊して決着がついたというような話は聞いたことがなかった
 そこで、見田宗介で図書館の本を検索してみた。そして、読みたそうな本が結構見つけた。その中でも、「未読のたのしみ」(『定本見田宗介著作集 10』)という一文を見つけ、嬉しくなってしまった。こんな楽しみもあったのか、と。以下、今日見つけた「未読のたのしみ」リストである。

1、見田宗介著「人間がようやく地上に天国を実現する段階に達した感じがします」『週刊プレイボーイ』、2012年3月19日号

2、「二〇世紀末思想地図」「現代における不幸の諸類型」『定本見田宗介著作集 5』

3、「近代の矛盾の『解凍』」『定本見田宗介著作集 6』

4、「人間と社会の未来」「コミューンと最適社会」「ユートピアの理論」『定本見田宗介著作集 7』

5、「未読のたのしみ」「社会主義の崩壊の後に力をもつ『古典』」「書くことと編集すること」『定本見田宗介著作集 10』

2021年12月16日木曜日

なぜ芸術家に長寿者が多いのか

 これまでのブログで、「強い意欲が長命の原動力になっているのではないか」ということを取り上げてきた。画家のゴヤや北斎、彫刻家の平櫛田中、百歳のピアニスト室井麻耶子などのことだが、写真家の田沼武能もそのようで、「90歳のいまも現役第一線。健康の秘訣は」と問われて、「仕事が、ちょうどいい運動になっているんでしょうね。何より、まだまだもっといい写真を撮りたいという意欲がある。それが元気の源でしょう」(『サライ』、2019年7月号、p96)と答えていた。
 大脳生理学医よれば、意欲は大脳の前頭葉に関係しているようで、強い意欲が前頭葉を発達をもたらし、逆に、そうして発達した前頭葉の働きが意欲の元になっている。前頭葉は新皮質にあり、生命維持に直接関係しているの旧皮質の脳である。ということは、前頭葉に発達が健康を左右しているとは考えにくい。しかし、体の運動が脳の血行にも関係しているように、脳の新皮質発達が、旧皮質の発達に影響を与えるであろうことは十分に考えられる。
 脳の構造でわかるように、生命維持に直接関係しているの旧皮質は、あたかも大脳に守られているかのように、脳の中心部分に存在している。こうした構造からも、単なる類推に過ぎないが、前頭葉の発達、刺激が、大脳全体に影響を与え、大脳全体の発達、刺激が、旧皮質の脳に、長命をもたらしている、と想像できる。このようなことが、「芸術家に長寿者が多い」と言われる所以であろう。

2021年12月15日水曜日

肝心なことは死に食われぬこと

 切れ端のメモ「人は、遅かれ早かれいずれ死ぬ。肝心なことは”死に食われぬ”ことだ。というのが出てきた。誰の言葉かも、何からのメモかも書かれていなかった。しかし、「肝心なことは”死に食われぬ”こと」の、”死に食われぬ”とは、どういうことだろう、と、やけに気になった。
 偶然に、雑誌『サライ』の「サライインタビュー」を読んでいて、死にまつわる言葉を見つけ、心に残った。『魔女の宅急便』の著者角野栄子が、「83歳、まだまだ書き続けますね」と問われ「好きだから書く。それ以上のことはありません」(『サライ』、2019年1月号、、p20)と答えていたのだ。この姿勢、この生き方こそ、”死に食われぬ”ということであろう、と納得することができた。
 これまた、「サライインタビュー」で、画家の千住博さんが語っていたことを思い出した。 「何を大事にすればよいのでしょう」と問われて、「プロセスです。例えば武道で考えると、剣道も柔道も勝てばいいというわけではない。柔道では試合の途中で道衣が乱れると、中断して直します。勝ち負けよりプロセスを大切にする。それが"道"であり、すなわち生き方の問題なのです。これはアナログの世界だと思います。デジタルの0と1の世界だけでなく豊かなグレーゾーンを持つこと、それが奥行きのある文化の内実でもあります」(
『サライ』、2022年1月号、、p79)と答えていたのだ。
 なぜ、
千住博さん言葉を思い出したか、「生は、”死に向かうプロセス”」と考えることもできるのではないか、と思ったからである。プロセスが良ければ、死など、なんともない。柔道の結果が勝っても負けてもサバサバしているようなものではないか、と思えたのだ。

2021年12月14日火曜日

100分de名著 マルクス“資本論”

 斎藤幸平さんによる、NHK放送「100分de名著 マルクス“資本論”」の再放送が始まった。難しい本で知られている本だが、難しい本を読まなくても、その核心を理解することは可能であることがわかってきた。
 まず、資本主義社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れること、だから、商品の分析から始める、と次のような名文でとく。

 資本主義的な生産様式が支配的な社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品は、その富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの考察は商品の分析から始まる。

 その商品は、使用価値(時計なら、時間を測れるという価値)と、価値(他の商品と交換できるという価値)の二つの側面を持っている。で、この価値の大きさが問題になる。何が問題か?
 それは、商品の物象化と言われるもので、この「商品の”物象化”」こそが、資本論の核心部分であり、資本主義社会の、そして現代社会の問題の核心である。そう感じた。「彼らは、この運動を制御するのではなく、むしろ、この運動に制御される」というときの彼らは人間のことだから、「人間が物に制御される」ということになる。つまり、物象化によって私たちの生活が大きく振り回される、ということでもあるのだ。それは、何を意味するか? 武器商人が悪者にされることもあるが、彼らも、結局、武器という商品に制御されているに過ぎない、とも言える。資本主義社会、商品社会が存続する限り、武器商品も拡大発展していく運命にある。そうなってしまう。

 価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、行為から独立して、絶えず変動する。交換者たち自身の社会運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、むしろ、この運動に制御される。

 商品が売れるか、売れないか、買えるか買えないかに人の幸福とか生活が大きく左右されてしまう。物が自分たちの生活を大きく振り回すようになってくるというこの逆転現象を物象化という。


2021年12月13日月曜日

全身全霊で音楽を弾く

 雑誌『暮しの手帖』の「読者の手帖」欄を読んでいたら、ふと、片手のピアニストが書いた新聞記事のことを思い出した。それは、「音楽は不要不急ではない ピアニスト 舘野泉」という日本経済新聞(2021年12月5日)の記事だった。記事中の「2004年から左手だけで演奏するようになった。だが片手だけで弾くという意識は初めからない。やっているのは音楽。全身全霊で音楽を弾き続けているというだけだった」というところに、「一曲でも、こんな気持ちでピアノを弾けたらいいな」とメモしてあった。
 実は、数年前にピアノを習ったことがあり、途中でやめてしまった。その後、せっかく弾けるようになったのに忘れてしまってはもったいない、と再度練習を開始し、また気に入った一曲を弾けるようになった。忘れてはいても、どこか覚えている部分もあるようで、その時は早めに弾けるようになって喜んだものである。しかし、また、いつの間にか弾かなくなって久しい。
 こんな具合だったから、「全身全霊で音楽を弾き続けている」という言葉が身に染みたのかもしれない。今考えると、ただ、指を動かせるようになっただけで、音楽を弾く、音楽を楽しむところまで達していなかったから、途中でやめてしまった。そして、忘れても平気だったのであろう、と思うことができた。”三度目の正直”という言葉もある。また、練習を始め、音楽を弾くという感じがわかるまで、続けてみたいという気になった。

2021年12月12日日曜日

漠然とした不安は言葉とすべし

 現代社会には、不安などさまざまな心の病が存在している。私自身、震災の時に息子の消息がわかるまで、不安で押しつぶされそうになったことがあった。 幸いにも職場で元気で働いていることがわかってから、徐々に心の具合も良くなってた。その時のことを思うと、消息がわからないまま現在に至っている人たちの心のうちを想像すると、その後どうしたのだろうか、と思ってしまう。
 いずれにしても、不安といったものは、言葉で持ってカタチにすることで癒やされるという。精神科医の春日武彦さんが、自らの体験を交えながら、そう解説してあるのを見つけた。雑誌『暮しの手帖』(2021年11月号)の「あの人の本棚より」で『島尾敏雄作品集 第5巻』を紹介した文章がそれだ。「漠然とした不安が言葉となり腹に落ちることによって、解毒される」といった表現は、さすが精神科医だと思った。

 僕は成育環境、特に母親へのねじれた感情が原因で、慢性的な不安を抱えて生きています。このマンションだって、リノベーションすることで家族の思い出を上書きし、不安を軽減しようとしたんだから、根が深い。特に学生の頃は、しんどくてしょうがなかっだの。悩んだ末に、いろんな本から不安の描写を探して、ノートに書き出してみました。そのときに一番多く引いたのが、高尾敏雄の作品集です。短編を集めた5巻が特に良くて、「捜妻記」なんて作品は実に心にしみる。一緒にいたはずの奥さんといつのまにかはぐれて、捜し回るうちに見慣れた風景が歪み、とんでもないものが見えてくる。シュールな展開が真に追っていて、著者は実際にこういう不安を体験したんだろうと思いました。小手先の技術ではない、言葉に対する誠実さが伝わる描写です。漠然とした不安が言葉となり腹に落ちることによって、解毒されるというのかな……。間違いなく、あの頃の僕を救った一冊ですね。(『暮しの手帖』、2021年11月号、p89)

2021年12月11日土曜日

誰もが喜べる喜びを

 最近、またニーチェの言葉を読むようになった。その時の気分で、気に入った言葉も違うようで、今日は、「誰もが喜べる喜びを」という言葉を選んだ。最近、コミニュケーションの分野で、「アサーション」という言葉が使われるようになった。「自分も相手も大切にしながら、自分の意見や考え、気持ちを率直に、正直に、その場にふさわしい方法で表現すること」(『人事労務用語辞典』)だそうで、『アサーションの心:自分も相手も大切にするコミュニケーション』(平木典子著、朝日新聞出版、2015年)と言った本さえ出版されている。
 しかし、ニーチェの言葉を知って、「誰もが喜べる喜びを」というのは、「アサーション」に通じるところがある。「アサーションの心」や、ニーチェの思想が多くの人々に理解されるようになったら、「復讐心や軽蔑心や差別の心」も少なくなり、戦争も、きっとなくなっているに違いない。

 誰もが喜べる喜びを

 わたしたちの喜びは、他の人々の役に立っているだろうか。
 わたしたちの喜びが、他の人の悔しさや悲しさをいっそう増したり、侮辱になったりしてはいないだろうか。
 わたしたちは、本当に喜ぶべきことを喜んでいるだろうか。
 他人の不幸や災厄を喜んではいないだろうか。復讐心や軽蔑心や差別の心を満足させる喜びになってはいないだろうか。『力への意志」(『超訳ニーチェの言葉・1』フリードリヒ・ニーチェ著、東京:ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年、No.28

2021年12月10日金曜日

小田実の「疑問のすすめ」

 小田実さんの「疑問のすすめ」を読んだ。そして、彼の心配した通りに世の中が進んできたことがわかった。自衛隊や天皇制について、「まだまだ既定の事実ではないのだが」、と、それらが規定事実化するのを心配していたが、彼の心配通り、自衛隊も、天皇制も、当たり前のように規定事実化している、と言ってよいのではないだろうか。
 象徴天皇はともかく、自衛隊は、まともに考えれば違憲であることは間違いない。憲法学者も、違憲と考えている方が多いと聞く。しかし、そうした声など耳を貸さず、大手を振って、憲法を踏み躙ってきた。そうしておいて、憲法改定によって、名実ともに合法的な自衛隊にしようとしているのだ。
 戦後の数年間は、新憲法制定によって民主化が進んだ。にもかかわらず、「逆コース」が始まってしまった。反民主化の流れが生じ、今日まで、その流れは、徐々に大きな流れになって、さまざまな障害を産んできた。その最たるものは、松川事件であろう。しかし、その松川事件さえ、忘れ去られようとしている。止まれ!
 逆コースの実態、その歴史を知らずに、日本の未来を語ることなどできないのではないか。改憲の要求も、実のところは「逆コースの総仕上げ」であろう。だからこそ、既定路線化しつつある自衛隊が逆コースの産物であることを明らかにしていく必要がある。そうして、なんとしても改憲を阻止しなければならない。
 私が気になるのは、青年の政治思想の保守化よりも、意識の保守化、固定化である(二つが容易に結びつくことは言うまでもない)。それは既存の事物に対して疑問をもたないという態度に、もつともよくあらわれているだろう。マルクス主義に対する無条件な信頼は、ようやくかげをひそめてきたようだが、逆に、それは、日本の社会の現在の体制への無条件な信頼となりつつあるようだ。どうしてこう極端から極端へと動くのか。若い人々を見ていても、社会を見ていても、私は疑問に思う。
(中略)
 疑問をもたないと言えば、自衛隊と天皇制についても、もっともっと議論が起ってもいいようだ。たとえば、自衛隊をどうするか、増強するのか、このままでいいのか、へらすのか、なくすのか(またいかにしてなくすのか)、あるいはまた、天皇制を存続させるのか、なくすのか―一一それはまだまだ既定の事実ではないのだが、人々の心のなかで、ことに若い人々の心のなかで、すでにあたかもそうしたふうに定着しかかっているように見える。(「疑問のすすめ」『小田実全集 評論第4巻』、講談社、2010年、P221)

2021年12月9日木曜日

七十代は「人生の黄金期」

 週刊朝日で、「帯津良一のナイス・エイジングのすすめ」が連載されている。2021.12.10増大号は、「70歳が分かれ道」と題し、「よりよく老いるためには70代が重要になってくる」という話だった。
 例えば、五木寛之さんの言葉、「百歳人生の後半五十年において、七十代は、まさに『人生の黄金期』といえるのではないでしょうか。あるいは、再来の青春といっていいのかもしれません」(『百歳人生を生きるヒント』、日経プレミアシリーズ)を引用しながら、作家五木寛之さんの生き方を紹介していた。その中で、五木寛之さんが「百寺巡礼」の企画に挑戦し、お寺を巡るたびに、心身が充実して、気力体力が整ってきたという話が印象的だった。
 自分のことになるが、子供たちが自立し、それぞれの生活を生きている。会えるのは限られ、ほとんどは自分の生活を生きなければならない。そのことは、考えようによっては、とても素敵な自由を手に入れているということでもある。そう考えると、「七十代は、まさに『人生の黄金期』」という言葉が実感として理解できる。
 しかし、「七十代は、まさに『人生の黄金期』といえる」というのは、少し違うことに気がついた。正確には、「七十代は、まさに『人生の黄金期』に”できる”」であろう。丸山眞男の論文に、”「である」ことと「する」こと”というのがある。私の理解では、何ごとも「である」ことに安住して満足してはいけないのであって、日々「する」ことが大切だ、ということである。「自由”である”」ことに満足しているのではなく、「自由を満喫”する”」ことが大切なのだ。だから、七十代を『人生の黄金期』にする努力を通じて初めて、七十代は、まさに『人生の黄金期』と言えるようになる。
 

2021年12月8日水曜日

米政権に人権問題で意見する資格なし

 朝日新聞(2021年12月8日)の報道によると、「バイデン米政権は6日、来年2月の北京冬季五輪に政府当局者を派遣しない」という。「新疆ウイグル自治区での少数民族ウイグル族らへの弾圧など中国の人権問題に抗議する狙い」があってのことだという。「待ってほしい。人権問題で、云々いう資格あるの?」と言いたい。何故か。
 足元の、世界一危険な”米軍普天間基地”で、あるいは、”米軍辺野古新基地建設現場”での人権問題に目を瞑り、人様の人権問題に抗議する資格がないじゃないか、と言いたい。日々生存権に脅かされ、度重なる住民の意思を無視した建設の強行は、明らかな人権侵害である。米軍による度重なる低空飛行も、生存権を脅かす人権侵害であろう。自ら人権を軽視するバイデン米政権に、人権問題で意見する資格はないのだ。
 外交ボイコットの方針を明らかにしたサキ米大統領報道官は、「ジェノサイド(集団殺害)と人道に対する罪」といった「極めて強い言葉を使い続けた」という。膨大な核兵器を抱え、実戦では、劣化ウラン弾のような非人道兵器を、なんと、湾岸戦争、ボスニア紛争、コソボ紛争、イラク戦争などで使用してきたのだ。これでも、「人道に対する罪」を問う資格があるといえるのだろうか。断じてない。自らの罪を認めて初めて、「人道に対する罪」を問う資格があると言えるであろう。

2021年12月7日火曜日

高みに向かって努力を続ける

 臨時国会が始まり、朝日新聞一面でその報告があった。そこで、なぜか、「敵基地攻撃 現実的に検討」が強調されていた。なんとも恐ろしい言葉だろう。しかし、そうした政府の姿勢に批判の解説はなかった。残念である。
 ピストルによる攻撃が良いわけではないが、ここで言われている「敵基地攻撃」なるものは、ピストルの攻撃とは桁が違う人命をもターゲットにすることになる。それだけではない、一発でも発射されるような事態を招いたら、その一撃が引き金になって、世界にどれだけの悲劇を招くか計り知れない。「敵基地攻撃」などという言葉は、そこまで想像力を働かせて使って欲しいものである。
 こんな時だからこそ、日本国憲法がめざす「崇高な理想と目的」を思い出す。そして、日本国憲法がめざす「この高み」に向かって、努力を続けることの重要性を痛感する。ニーチェがいうように、「高みに向かって努力を続けることは、決して無駄ではない」からだ。
 高みに向かって努力を続けることは、決して無駄ではない。
 今は無駄が多くて徒労のように見えるかもしれないが、少しずつ頂点へと進んでいるのは確かなのだ。
 今日はまだ到達にはほど遠いだろうが、明日にはもっと高みへと近づくための力が今日鍛えられているのだ。・・「漂泊者とその影」(『超訳ニーチェの言葉・1』フリードリヒ・ニーチェ著、東京:ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年、No.21)

2021年12月6日月曜日

歴史の逆行は断固阻止すべき

 今後日本はどうあるべきか、それを考えるヒントは、これまでの日本の歴史にあった。歴史と言っても、もう大な歴史があるわけだが、総体としての歴史、すなわち、戦後の無一文から出発したに等しい戦後の復興史の中に、そのヒントはあった。その指標は、『文藝春秋SPECIAL :中国、アメリカに勝つ!日本最強論』(2015年冬号)に示された日本の豊かさである。

 日本を、世界で最も豊かな国とする国際的な調査(『文藝春秋SPECIAL :中国、アメリカに勝つ!日本最強論』のこと)がある。アメリカを抜いているんです。戦争が終わったときにどん底で、僕はそのときに五歳ですから、毎日食うものもなくて、本当に大変だったんです。ものすごくリアルに知っているわけです。それが今、こういう国を築けたというのは、世界の歴史の中で類がない成功といえると思います。(『立花隆:最後に語り伝えたいこと』、立花隆著、中央公論新社、p77)

 ご飯も満足に食えなかった国が、「世界の歴史の中で類がない成功」を成し遂げてしまった。「だから、この後どうなるか。問題はそこなんです」と、続く。

 この成功の最大の背景の一つは、日本が軍備を捨てた。憲法九条を持って、九条を持つがゆえに、そこが微妙なんですが、ある時期までほとんど軍備に金を使わないで来たということなんですね。その後も、特に金がかかる核兵器などには全く見向きもしなかった。(中略)歴史の事実として、第二次大戦後、日本はほとんど軍備に金を使わなかった。
 人材をどこに振り向けるかということが、その国の成功を一番左右すると思うのですが、要するに、日本の主たる人的資源を軍備や軍事技術に向けないで来たというのが、日本の成功の一番の背景だと僕は思っています。
 でも、最近そうじゃないという意見、そういう流れができて、違う方向に流れつつある。歴史というのはその時代の人々の意見の集合として決まってくるわけです。常に歴史は動いて、その方向はまだ分かりません。ですけれども、今日の皆さんの発表を聞いていると、むしろいい方向にどんどん向かぅんじゃないかという気がしてきました。(上同、p78)
 なぜ、「世界の歴史の中で類がない成功」を成し遂げることができたか、それは、「人材をどこに振り向けるかということが、その国の成功を一番左右すると思うのですが、要するに、日本の主たる人的資源を軍備や軍事技術に向けないで来たというのが、日本の成功の一番の背景だと」語っている。つまり、「この後どうなるか」という問題は、これからも、「日本の主たる人的資源を軍備や軍事技術に向けないで」、教育や科学の振興、社会福祉の充実等々に向けていくことに尽きる。そういう意味では、9条を改定して軍事費を増大させるなどということはあってはならない。歴史の逆行は、断固阻止すべきなのである。

2021年12月5日日曜日

立花隆:最後に語り伝えたいこと・3

 日本は、アメリカにとっての「不沈空母」と言われて久しい。橋頭堡と言われてこともある。いわば日本は、米軍にとっての前進基地というわけだ。しかし、なかなか問題視されることなく、現在に至っている。これでいいのだろうか。
 そうした米軍の本質を見事に体現しているカナダの事例が紹介されていた。1963年に、「ソ連から核兵器を搭載した爆撃機が飛んできたら、アメリカ国内に到達しないよう、途中のカナダ上空で撃ち落とすことを目指し、アメリカがカナダ全土に核ミサイルを配備」(『立花隆:最後に語り伝えたいこと』、立花隆著、中央公論新社、p43)したというのだ。当然反対運動が起き、何度も逮捕されてりしながらも「しつこい活動をやったのちに、世論を形成し、議会を動かして本当に核廃絶を実現しちゃった」(上同、p44)というから、素晴らしい。
 それにしても、米軍のあからさまな姿勢には驚く。こんな感じで世界に展開している米軍は、
 現在、米軍基地は日本だけでなく世界各国に存在する。1996年においては日本以外に、韓国、ドイツ、イギリス、イタリア、オーストラリア、パナマ、スペイン、トルコ、ベルギー、ギリシャ、アイスランド、オランダ、キューバ、ポルトガル、ディエゴガルシア、ホンジュラス、バーレーンなど世界各国に存在している。1991年に基地賃貸期限が終わり、今は米軍基地がないフィリピンのような国もある。
 そして米軍基地がある各国の基地周辺住民が受ける弊害を見れば、程度の差こそあるが、  他の国も騒音、退廃、核放射能漏出の危険など、ほとんど似通った弊害を負っている。(「世界の米軍」より
 このような現実を前にすると、気持ちも萎えてしまいがちになってしまう。しかし、「ほとんど頭のおかしいような恐怖の均衡政策の上に成り立って」(上同、p41)いる現実がある限り、そうした政策の間違いを言い続けたいものである。

2021年12月4日土曜日

立花隆:最後に語り伝えたいこと・2

  ジャーナリストの立花隆さん、研究者の立花隆さんというイメージが強かったが、意外にも行動の人でもあった。なんと、「被爆国として原爆の実態について世界で訴えたいと願い、友人と二人で『原水爆禁止世界アッピール運動推進委員会』を結成」し、国際会議に参加を実現させ、平和行進に参加していたのだ。二人で初めたというのに驚いたが、行動力に頭が下がった。

(「『立花隆:最後に語り伝えたいこと』、p31」より)

 立花が東京大学に入学したのは一九五九年。被爆国として原爆の実態について世界で訴えたいと願い、友人と二人で「原水爆禁止世界アッピール運動推進委員会」を結成する。広島で開かれていた原水禁世界大会に二人で出かけ、大会に参加していた世界の代表団に対し、広島、長崎の惨状を世界に訴えたい。ついては旅費などについて支援してもらいたい―-と要望してまわった。
 この要望を受け、一九六〇年にCNDから連絡があり、「国際学生青年核軍縮会議」に参加してほしいという招待が舞い込むことになる。ロンドン到着後の費用などはCNDが工面してくれることになったものの、日本からロンドンに行くための資金がない。このため、立花はさまざまな団体に呼びかけ、資金援助を募る。この活動がマスコミに取り上げられたこともあって、立花らは国際会議への参加を実現することができた。立花らは現地で「オルダーマストン・マーチ」にも参加している。(『立花隆:最後に語り伝えたいこと:大江健三郎との対話と長崎大学の講演』、立花隆著、中央公論新社、p30)

 そんな彼だが、彼だからこそ、というべきかもしれないが「みんないろいろ考えて、いろんな挑戦をするでしょう。でも、大体失敗します。思ったことなんて決して実現しないと思った方がいい。それでも、想いが強ければ、トライすべきなんです」(上同、p32)と述べ、長い人生で学ぶべきこと」として、学ぶべきこと」として、1、有効性を求めすぎてはいけない。2、運動なんて99.9%は負け戦。3、あきらめずに負け続ける。4、継続こそ力。をあげていた。
 確かに、多くの人々が「あきらめずに負け続け」てきたからこそ、核兵器禁止条約も成立したと言える。それでも、肝心の日本政府は、まだ批准していない。そんなとき、「批准するまであきらめなければいい」と思えるようになった。また、考えようによっては、反戦運動など、「99.9%は負け戦」であったことは間違いない。それでも、世界の反戦運動はトライし続けてきたし、これからもトライし続けられるに違いない。

2021年12月3日金曜日

立花隆:最後に語り伝えたいこと・1

 図書館で、新刊書『立花隆:最後に語り伝えたいこと:大江健三郎との対話と長崎大学の講演』(立花隆著、中央公論新社、2021年)を借りてきた。そこに『アサヒグラフ』に受けた衝撃という項目があって、そこに、『アサヒグラフ』の「原爆被害の初公開」号(1952年8月6日)で立花さんをはじめとして多くの国民に原爆被害の実態が知らされたことを知った。『アサヒグラフ』に受けた衝撃を、「立花は後に、 無残に焼け焦げた少年の死体、顔に被爆した女性の写真、草木1本なくなった焼け野原の写真。あまりにも劇的な体験でした。当時僕は一二歳でした」(p21)と振り返っている。
 早速、『アサヒグラフ』のバックナンバーを検索し、1952年8月6日号に「無残に焼け焦げた少年の死体、顔に被爆した女性の写真」を見つけた。今までいろんな被曝写真を見てきたが、このような無残な、残酷な、形容しようもない写真は初めて見た。写真の添えられていた文章も、生々しいので紹介する。


 この特集を見て、思わず目を薮う人々は多いことであろう。
 しかし、目を薮うことによつて原子爆弾の威力は、いささかも減ずることはない。否、現在の原子爆弾は、広島、長崎の比でないというではないか。
 日本人は不幸にして世界史上、最初の原爆の犠牲者となつた。だが、果して何人の日本人が、その残虐の真実を知つているであろうか。大部分の日本人は抽象的な記述と巨大な茸型の雲の写真などによつてのみ、その残虐さの片鱗を知るだけであった。 これは偏えに占領期間中、あらゆる被害の残虐を伝える報道と写真が厳重に検関され、公表を禁じられていたからに他ならぬ 
 ここに、広島、長崎両市の写真を特集するのは単なる猟奇趣味の為ではない。一編集者の趣味や性向を、はるかに越えた冷厳な事実――即ち歴史が、それを命ずるのである。
 再軍備論の是非は、しばらく措くとしても、すくなくとも 将来の戦争を口にするほどの人は、この特集に見る無残な姿と同じい――いや、それ以上のものが、やがて、我々自身の上にも生起せぬとも限らぬ、その心構えだけは、忘れて貰いたくないのである。(「『アサヒグラフ』、1952年8月6日号」より、写真も)

2021年12月2日木曜日

日本をめぐる防衛環境の大局観

 現代世界は、混迷を深めているといってよい。防衛問題、エネルギー問題、温暖化問題、少子高齢化等々さまざまな問題が絡み合って、より問題を複雑にしている。最近知ったインフォグラフィックの手法を用いれば、こうした複雑な問題も、理解し、解決の道を見出せそうな気がしてきた。これから、一歩一歩学んで行きたいが、とりあえず、防衛問題に絞って、「日本をめぐる防衛環境の大局観」というものを考えてみた。中国などの核を含む脅威に対し日本は、自衛隊や米軍による核の傘によって対応している図式だ。
 ところが、視点を変えて中国や北朝鮮側に立てば、自衛隊や米軍による核の傘が脅威になっている。普段は、この視点が欠けているので、脅威が固定化し、その増大を「安全保障環境の悪化」と表現し、軍事費増の根拠とされても、さほど問題にされない。
 しかし、こうした「安全保障環境の悪化」という表現が、いかに一方的なものかがわかるグラフィックがある。朝日新聞に掲載されていたものだが、視点を変えれば、いかに「アメリカからの脅威」が大きいかがわかる。ところが、普段は、そうした視点で考えることはない。それでいいのだろうか。
 「視点を変えると物事の本質が見えてくる」というようなことを聞いたことを思い出した。それでは、視点を変えたことによって見えた本質とは、どのようなものだろう。それは、「米軍が大きな脅威となっている国」があるということではないだろうか。さらには、「日本も脅威になっている」かもしれない、ということもあるが、そうあっているとしたら問題であろう。戦後の反省がなされていないということになるからだ。どちらにしても、曇りのない目で世界を見たいものである。


(朝日新聞、2020年4月30日)

2021年12月1日水曜日

民主国家建設の基礎、新憲法

 家永三郎さんの『日本の歴史』、全10巻を持ちながら、今まで積読だった。戦後の歴史に興味が出てきたので、8巻の「戦後の民主的諸改革」のところを読んで、憲法に付随して、民法や刑法など、さまざまな分野にまで改革が及んでいたことを知った。その一つの事例として、次のような朝日新聞記事が紹介されていた。

 民主国家建設の基礎となる新憲法が公布された。しかし、これまでの憲法がそうであったように自分自身の日常生活に何のかかわりもないように考えている者があるかもしれない。しかし、この憲法は新しい民法を生み、刑法の改正をうながし、われわれの身近な生活から封建社会の残りかすを拭い去って、軍国主義のいささかのにおいをもふるい落そうとする。その結果、たとえば日本人の生活を支配してきた「家」の制度さえもここに崩壊の淵にのぞもうとしている。結婚が両性の合意にもとづいてのみ成立し結婚相手を選ぶことや、財産権、相続・住所の選定など戸主の権威の下におかれていたものすべてが解放される時が来たのである。 (崩れゆく白川村 『朝日新聞』11月4日号より)

 このところを読んで、9条をターゲットにされているが、9条の背後(外堀)には、細かい条文があることを思えば、家制度といったそうした細かいところにまで改革の手が伸びてくるに違いない。それどころか、これまでのさまざまな法改正(有事立法や秘密保護法等々)は、9条の外堀に当たり、外堀から攻めてきて、最後に本命の9条改定という寸法なのかもしれない。改めて、外堀改革の実態を調べる必要を感じてきた。

2021年11月30日火曜日

自らも主権者として成長を

 日刊スポーツコラム【政界地獄耳】(2021年11月30日)で、立憲民主党の代表選に水を差す連合会長・芳野友子の、相変わらずの政治介入について言及して、その姿勢を批判していた。このコラムで知ったことだが、なんと
 来年夏の参院選を念頭に「立憲民主党、国民民主党、連合が協力し合って戦える関係をつくっていきたい」と述べ「立民と国民民主の合流は今後、求めていきたい」と余計な政治介入を繰り返し、先の総選挙での野党共闘に対して共産党との共闘を「連合の立場としてはあり得ない。そのことは言い続けていきたい」と代表選挙直前の立憲民主党を強くけん制した。
 という。それに対し、コラムでは、連合の「介入」に抗議すらない立憲民主党を「いびつな姿」と揶揄していた。
 どちらにしても、12月から新執行部体制でのスタートになる。誰が代表になろうとも、変わり映えしないに違いない。連合と日本共産党に対し、どうした対応に出てくるかが、当面の見ものであろう。
 それは中央に対してだが、地方に関しては、そう傍観者ではいられない。自ら投票した候補者がいるのだから、積極的にコンタクトを取り、対話を重ねるようにしていきたい。政党に変化を求めるだけでなく、自らも主権者として成長するべきであろう。

2021年11月29日月曜日

意志と意欲のメンテナンス

 ベストセラーだという分厚い本『独学大全:絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』(読書猿著、ダイヤモンド社、2020年)を読んだことがある。その時のメモに、「意志と意欲のメンテナンス」という項目があった。志の強さは、それを立てた時間にあるのではなく「自身の行為や思考を絶えず志に結び直した、その繰り返しの中に生じる」(p67)というのだ。そういえば、メモは見直すと良いというのも、「意志と意欲のメンテナンス」になる。にもかかわらず、このメモは、8ヶ月も前のメモだった。メンテナンスを怠ってきたことになる。
 メモの中に「複数の学習ルートから学習ルートを選ぶ」という言葉もあって、この言葉から閃いた言葉として「平和への道すじもこれだ!」とメモしてあった。現政権の平和への道すじは軍事路線一辺倒だが、軍事力に頼らない、それこそ平和的な、「いろんなルートの平和への道すじがあるじゃないか」という思いをメモしたものだった。その思いをメンテナンスを通して育てる必要があるのに、残念ながら、育てられないできた。
 この本には、当たり前のことでもあるが、「目標を描く」という項目もあった。ところが、平和の問題に関していえば、「戦争は嫌だ」と言いながら、「不戦」という目標を持たず、「攻められたらどうする」という論法で、軍事力を増強してきたことになる。この論法の1番の弱点は、「攻められた
時点」で、戦争になってしまうことである。だからこそ、「不戦」という目標を描くことが重要になってくる。そして、その目標を達成するためにはどうすればいいか、を考えていけばいい。「不戦」という意志と意欲を持ち、そのメンテナンスをしながら、「不戦」という目標を実現していけばいいのだ。ようやくそのことに気がついた。

2021年11月28日日曜日

宇宙の法則に逆らったヒトラー

 新鮮で、とても重要なことを学んだ。「アドルフ・ヒトラーのような思想」は、”宇宙の法則”に逆らっている、という歌手・俳優の美輪明宏さんの次のような指摘だ。
 みんな同じであるべきだ、となると、「ゲルマン民族こそが優れている」といって、何百万人ものユダヤ人を殺したアドルフ・ヒトラーのような思想に行き着きます。彼は追い詰められて、最後に自殺するしかなかった。宇宙の法則に逆らったからです。(「(悩みのるつぼ)作品への思い込みが強すぎる」『朝日新聞be』、2021年11月27日)
 ところで、第二次世界大戦において日本は、日本・ドイツ・イタリア間で日独伊三国同盟を結んで戦ったことでもわかるように、宇宙の法則に逆らったからこそ、主要な日本は廃墟とされ敗戦となった。その反省を経て、宇宙の法則に則った日本国憲法が制定され、新しい日本に向かって再出発することになった。
 ところが、また宇宙の法則に逆らう潮流が大手をふるって歩き出ししている。軍事力に力を持たせ、軍事力強化にした走る勢力は、宇宙の法則に逆らっており、かつてのドイツや日本のように、手痛いしっぺ返しを喰らうことが目に見えている。そうなる前に、なんとかしたいものである。

2021年11月27日土曜日

多くの国々は支え合っている

 宇宙空間には、「スペースデブリ」と呼ばれる多くの宇宙ゴミが存在している。それを掃除しないと現在活躍している人工衛星に衝突し、日常生活に支障をきたしかねないという。衛星放送、カーナビ、天気予報などでもわかるように、「私たちは宇宙に支えられて」いるからだ。その宇宙が「使えなくなるということは、暮らしが宇宙利用を始める70年以上前に戻ることを意味」(朝日新聞be、2021年11月27日:「(フロントランナー)岡田光信さん 『未開拓分野に踏み出せる。市場は自分で創る』」より)するというのだ。
 この「私たちは宇宙に支えられています」という言葉から、あらためて、私たちは、いかに多くの存在に支えられているか、ということに気付かされ、同時にその、当たり前としての多くの存在、宇宙であり、陸海空の存在を大切にしていくことの重要性に気付かされた。
 米軍による不法投棄によって地下水の汚染が発覚したり、辺野古では、不当で不要な巨大軍事基地の建設という名目で多くの珊瑚礁が破壊され、まさに巨大な海洋汚染が進行している。公害によって大気の汚染が広がり、四日市ぜんそくといった公害病まで発症した。水俣病で知られる海洋汚染もあった。当たり前のこととして大切にされてこなかった証拠である。
 そういえば、日本は、多くの国によって支えられていることも忘れてはいけない。我が国だけではなく、今は、輸出入、文化や科学の交流など、「多くの国々が支え合っている」と言っても良い。こうした現状を無視し、悪戯に対立を際立たせ、軍事力を強化することは、「百害あって一利なし」なのである。この単純な理に、早く気づいてもらいたいものである。

2021年11月26日金曜日

抵抗も表現活動の一環!

 作曲家の池辺晋一郎さんが、興味ある発言をしていた。《「九条の会」での活動も。政権への意見も躊躇しません》が、との問いに対し、「言いたいことを隠さず言うことは、僕にとっては目的じゃなく、僕という音楽家が在り続けるために必要なプロセスだから。ただひとりの人間として楽しんでいることを邪魔されたり、管理されたり、もしくは支配されたりすることに、僕は強く抵抗する。作曲という表現活動の軸を他ならぬ僕の中に築くため、言うべきことを言い、書くべきものを書く」(朝日新聞コラム「(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎:18 未知の世界へ、心震わせたい」、2021年11月26日)と。
 ここのところを読んだ時、表現活動をしていても、言いたいことも言わない人たちのことを考えた。言いたいことを言わなくても、「邪魔されたり、管理されたり、もしくは支配されたりすること」はない、黙っていた方が、表現活動に支障がない、と考えているのだろうか、と。しかし、それでは、表現活動にとっては命とも言える事由の幅が狭められることになる。それに比べて、池辺晋一郎さんにとっては、抵抗すること、言いたいことを言うことも、表現活動の一環になっている。自由を謳歌している、と言っても良いくらいだ。
 日本人は、芸能人に限らず、抵抗意識が弱い、と言われている。自民党政権は、国会軽視にはじまって、やりたい放題で、自殺者まで出した元凶の政治家でも、再選されて政治活動を行なっている。そのような政治家が、のうのうとしていられる日本なのだから、やはり抵抗意識が弱いと言われても仕方がない。ということは、それだけ日本人は「個の意識」が弱い、「表現意欲」が弱い、と言うことだろうか。黙っていては、いつかは自らの表現活動を「邪魔されたり、管理されたり、もしくは支配されたりする」こともありうることを肝に銘じ、「個の意識」と「表現意欲」に磨きをかけたいものである。

2021年11月25日木曜日

民主主義の復活と公共空間の拡充

 西川潤さんの著書に『2030年未来への選択』(日本経済新聞出版社、2018年)という本があって、書名に魅せたれて手にした本である。まず最初に「この近未来に影響を与え得る世界の主要な変数として、人口、食料、エネルギー、資源、コモンズの動きを考えた」という言葉を見つけ、平和の問題、戦争の問題がないことに不満を抱いた。しかし、よく読んで、平和の問題も論及していることがわかった。それは、
 現在の資本主義システム危機を通じて、国際・国内関係の破綻を避け、進行する不均衡を是正する方向が可能であることを見た。それは、個人一人一人の価値観、地域社会と市場・企業関係の再編、そして民主主義の復活と公共空間の拡充による国家の再構成を通じて、可能となる。それは、国家につきものの暴力性(ギデンズ 一九九九)を軍縮の努力を通じ減らして、グローバルな平和社会への国際協力を通じて実現する性質のものである。(『2030年未来への選択』、西川潤著、日本経済新聞出版社、2018年、p268)
 このような社会を実現するためには、「立憲主義のダイナミズム」というのがキーワードになるようである。憲法には、「国家権力を規制するという通常の意味と共に、そのダイナミクスを示し、国家=社会をつくり上げていく、あるいは再構成していく力」という。この後者が「立憲主義のダイナミズム」というものなのだ。この言葉から思い出されるのは、日本国憲法第一二条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という部分で、この部分の発展型、その具体化として、「立憲主義のダイナミズム」が存在していると考えられる。
 ここで明らかなことは、未来社会に向かって「軍縮の努力」は避けて通れないということであろう。2021年11月24日NHK放送の歴史探偵は「江戸の天才たち」だった。江戸時代、それは世界的な才能が花開いた時代だった。最先端の望遠鏡を独力で作った職人や世界レベルの数学理論を構築した和算家をはじめ、天才たちが次々登場したという。それも、200年続いた平和があったからだと言われている。それだけ、平和というものが重要なのに、日本は、アメリカと一緒になって「軍拡」という逆行路線を走っている。なんとしても、歯止めをかけたいものである。

2021年11月24日水曜日

ハインリッヒの法則と原発事故

 だいぶ前に、「凶悪犯罪があるところには、必ず、多くの軽犯罪がある。したがって、軽犯罪を軽視しないでその取り組み(軽犯罪防止活動など)を強化することで、凶悪犯罪も少なくできる」と、そんな法則があることを知った。しかし、その法則の名前も忘れてしまった。
 その法則のことを、健康対策に用いていた本(『健康はピラミッド』、富士村寿著、プレジデント社、1987年)があった。この法則は、「大事故や大災害は、日常の小事故の注意によって防ぐことができるという、実に重要な法則」だが、「これこそが、健康維持の法則そのもの」だというのだ。つまり、「私たちは、日常三〇〇回の小事故、たとえば飲み過ぎ、寝不足、栄養の片寄り、食事時間の不規則、よく噛まない、ストレスなどなどを重ねているうち、カゼ、発熱、ひどい肩こり、痛、腰痛、下痢などを二九回重ね、そしてある日突然思いもかけぬ大病に倒れることとなる」。だから、「日常生活の上でのちょっとした注意や配慮」によって、些細な不調のうちに対策をとることが大切だ、ということになる。
 その法則というのが、H・W・ハインリッヒというドイッの学者によって一九三一年に発表されたハインリッヒの法則である。「ハインリッヒの法則は、一、二九、三〇〇という数字で示されるもので、一回の大事故が起るときには、実はその前に二九回の中事故が起っている筈であり、またその前には三〇〇回の小事故が起っている筈であるという統計なのです。つまり、目立った災害がともなわないような小さな事故が三〇〇回も起っていることを軽視していると、その中に一割程度の中事故を含みながら、やがて一つの大事故を引き起す機会を、順次積み上げて行く」(p92)という。
 この法則を知って、原子力発電所や核兵器の恐ろしさを再認識することができた。原子力発電所や核兵器が存在し、その管理運用をしている限り、小事故は必ず起き、順次積み上げられていく。そして、「その中に一割程度の中事故を含みながら、やがて一つの大事故を引き起す機会を、順次積み上げて行く」(p92)ことになる。これまでも大きな原発事故も、結局は「ハインリッヒの法則」によって引き起こされたと言っても過言ではあるまい。

2021年11月23日火曜日

アメリカ目線から国民目線に転換を

 丸山眞男さんの言葉に「生命・自由および幸福追求の権利は私たちが何ものにも譲り渡すことのできない神聖な基本権であり、そもそも政府の存在理由がなによりそうした基本権の保障にあることは、アメリカ独立宣言以来、ほぼ二百年を経て世界の常識となっております」(『丸山眞男集別集 第2巻』、岩波書店、p261)というのがある。一九六〇年代の発言で、政府の存在理由が基本的人権の保障にあることは世界の常識だというのだ。しかし、現在に至っても、少なくても日本では常識にはなっていない。
 それどころか政府は、相変わらず国民目線よりも、アメリカ目線、官僚目線、大企業目線を優先している。その典型は、国会開催要求を跳ね除けるなどの国会軽視であろう。解釈改憲によって進められてきた自衛隊の強化も、度重なる県民意思を無視して進められてきた辺野古米軍基地建設も、結局は米政権の要求によるものであることは自明のことになっている。
 なぜ、こうも長年に渡って国民軽視の政治が続けられてきたのか。これでは、いつ、時限爆弾が爆発するような事態になるかわからない。世界には多くの核兵器と原子力発電所があるからだ。これまでの政府の取り組みは、時限爆弾の針を進めているようにしか見えない。今必要なことは、時限爆弾の針を止めるか、針の進行速度を遅らすことである。日本国憲法を守り、その真価を発揮させることは、その重要な一歩になるであろう。

2021年11月22日月曜日

憲法におけるコペルニクス的転回

 歴史学者の家永三郎さんが、「コペルニクス的転回――新憲法の意義が理解できなかった私」(『わたしが思うこと』、家永三郎著、民衆社、1995年、p5657)という文章の中で、「日本国憲法制定の当初には、この憲法の画期的意義を理解することができなかった。憲法よりも、降伏直後に新聞紙法・出版法などの治安立法が廃止されたのと、帝国陸海軍が消滅し、微兵制のなくなったのとが、あまりにもうれしかったため、それらが憲法のレベルで保障されたことの画期的意義や、そのほかにも明治憲法期に思いもよらなかった新しい理念が豊富に盛りこまれていることも、よくわからなかった」と書いている。それだけでなく「一流の憲法学者でも、必ずしも新憲法の画期的意義をすみずみまですぐに理解していたとはいえないように思われる」と書かれていた。
 それでは、多くの、普通の日本人にとっては、なおさら、新憲法の意義など理解されていないのかもしれない。ということは、そのような状態で、なんとなく、憲法”改正”なら、と、憲法改定に賛意を示している人がほとんどではないか、と思うようになった。つまり、積極的、意識的な改憲論者は少数で、改憲論者の多くは、投票行動の浮動票のように確固とした意志などなのかもしれない。
 
家永さんの同じ文章の中で、憲法三六条の「教育を受ける権利」を例に、その意義を、「明治憲法時代に教育を受けることは、『忠良ナル臣民』となるための日本人の義務とされていたのであった。それが日本国民各個が人間として成長するのに必要な教育を受ける権利として保障されることになったのだから、まさにコペルニクス的転回といわなければなるまい」と説明していた。明治憲法と対比されることによって、憲法三六条「教育を受ける権利」の意義が、とてもよく理解できた。改めて、憲法の画期的意義を理解する必要があるのかもしれない。

2021年11月21日日曜日

人間のための芸術へ

 日曜美術館「ルーブル美術館 美の殿堂の500年“太陽王”が夢見た芸術の国」を見て、「ロココ芸術・美術」というのを初めて知った。それは、「栄光とか権力とは無縁の世界」と説明され、フランソワ・ブーシェの「オダリスク」やアントワーヌ・ヴァトーの「シテール島の巡礼」が紹介されていた。ネットの説明は、「ロココ美術というのは優雅で美しい美術様式として世間に認知」とか「ロココ美術様式は、ソフトな色味、曲線等を特徴として描かれる甘美で優美な絵画スタイル」というだけだった。
 最後に、結びとして、トレ・ビュルガーの言葉「かつての芸術は、神のため、君主のために作られた。そして、おそらく、人間のための芸術が作られる時がやってきたのだ」を紹介していた。「ロココ芸術」を通して、 「人間のための芸術」が花開いたのかもしれない。

 



2021年11月20日土曜日

攻撃に対してもろい日本

 「一度書かれた文字はそのまま動くことはありませんが、その文字を受け取った人の心の中で文字は自由に運動を始めます(福岡伸一)」。これは、朝日新聞コラム「折々のことば」(2021年11月20日)で鷲田清一さんが取り上げた言葉だ。続けて、「文字は、それを読む人の心をかき混ぜ、ぶるぶる震わせ、渦とでもいうか、なにか知れない動き(ムーブ)を引き起こす。あるいは、心を温かくしたり、凍りつかせたりする。物語はだから、だれでもその人なりに受け取り感じればいいのだと、生物学者は言う。本紙連載中の「福岡伸一の新・ドリトル先生物語」第2回(4月1日朝刊)から」とあった。
 しかし、そうした心の変化は時間が経つにつれ、忘れてしまう。だから、人は忘れないようにメモをするようになった。私のメモ帳は何冊にもなったが、それでも、忘れてしまう。脳の機能がそうなっているのだから、仕方がないと言えばそれまでだが、一度覚えたものは、忘れたとは言え、脳内にストックされている。そして、なんらかの関連刺激によって思い出されることがある。
 これまでの話は、整理されていない記憶のことで、上手に整理された記憶は、思い出すのも容易らしい。というのは、そういった情報として知っているだけで、整理の願望を持ちながら、なかなか実践が伴わない。いろんな問題意識を持ちながら、その問題意識すら整理されていない。関連する問題意識、問題意識のランクづけ、など、整理の仕方も決まっていない。今のところ、その日その日の気分で動いているのが現状なのだ。
 今日借りてきた武谷三男の本『市民の論理と科学』の中の「自衛隊亡国論」というのがあった。そこで、日本にある原子量発電所は「潜水艦で浮上して砲撃ないしミサイル弾攻撃を容易に行うことができる。そうなると日本は死の灰で覆われてしまう。原水爆をつ合わないでも死の灰攻撃をしたのと同じことになるであろう」。だから、「今日の日本ほど攻撃に対してもろい国はない」という。前から、日本は原発があるから、絶対非武装でなくてはいけない。一度戦禍に会えば、復興など無理だという問題意識を持っていた。このような問題意識が「自衛隊亡国論」によって浮上したことになる。最近の防衛環境の悪化を考えると、この問題意識をもっと原理的に、かつ普遍的な問題として深めていく必要性を痛感した。

2021年11月19日金曜日

平和は詩だったのだ

 『最後の詩集』(長田弘著、みすず書房、2015年)の中に、心に響いた詩があった。まず、「川の音。山の端の夕暮れ。/アカマツの影。夜の静けさ。/毎日の何事も、詩だった。/ 坂道も、家並みも、詩だった」というところが、詩的なイメージが、詩視的(造語) なイメージと重なって、なんとも心地よかった。そして、「平和というのは何であったか。/・・・・/平和は詩だったのだ、/どんな季節にも田畑が詩だったように」ときた。 素晴らしい。
 そして、後半にある「死も、詩だった。無くなった、 /そのような詩が、何処にも。」の「そのような詩」とは、どの詩を指しているのだろう。「死も」だから、これ以前の全ての詩を指しているように、私には思えた。
詩のカノン 

昔ずっと昔ずっとずっと昔、 
川の音。山の端の夕暮れ。 
アカマツの影。夜の静けさ。 
毎日の何事も、詩だった。 
坂道も、家並みも、詩だった。 
晴れた日には、空に笑い声がした。 
神々の笑い声は平和な詩だった。 
平和というのは何であったか。 
タヒラカニ、ヤハラグコト。 
穏ニシテ、變ナキコト。 
大日本帝国憲法が公布された 
同じ明治二十二年に、 
大槻文彦がみずからつくった 
言海という小さな辞書に書き入れた 
平和の定義。平和は詩だったのだ、
どんな季節にも田畑が詩だったように。 
全うする。それが詩の本質だから、 
死も、詩だった。無くなった、 
そのような詩が、何処にも。 
いつのことだ、つい昨日のことだ、 
昔ずっと昔ずっとずっと昔のことだ。

2021年11月18日木曜日

真理の言葉は不滅!!

 作曲家の池辺晋一郎さんが、言葉の力、詩の力について述べており、次のように、「詩は、いつも僕を触発し、創作へと奮い立たせる道しるべ」とまで言っている。

 詩人や俳人という人たちは、およそ考えられないくらい、言葉からとてつもなく広い世界を引き出す力を持った人たちだと僕は思っているんです。僕らが100万語費やしても語ることのできない真実を、たとえば中原中也は「茶色い戦争ありました」、俳人の渡辺白泉は「戦争が廊下の奥に立つてゐた」と、たったの一文で突くんです。説明なんか要らない。音楽でもこういうことがやれるはず。いや、やらなきゃいけない。詩は、いつも僕を触発し、創作へと奮い立たせる道しるべなんです。(池辺晋一郎著「スランプ2年、言葉に救われた」『朝日新聞』20211116日)

 さらに池辺晋一郎さんは、「長田弘さんの詩、今も羅針盤」というコラム(『朝日新聞』2021年11月17日)で「いま、自分がどこに向かっているのか、何をどう考えたらいいのか、そんな風に迷うときは、今も長田さんの言葉を羅針盤にしています」と言っている。それなら、と長田弘さんの詩集『最後の詩集』(長田弘著、みすず書房、2015年)を借りて読み始めた。そこに、古代ローマの哲学者エピクテートスの言葉が紹介されていた。何事も、熟成させる時間が大切であることを語っている言葉だが、似たようなことを素粒子学者の小柴昌俊さんが言っていたことを思い出した。研究の芽を卵に喩え、「たくさんの卵を抱え、雛になるまで大切に温めていってほしい」みたいなことを言っていた。
 それにしても、古代ローマ人の言葉が、現代のわれわれにまで、こうして伝わり、勇気づけてくれるとは! 「真理の言葉は不滅!!」ということであろう。
 目に見える成果を早くと訴える人に、エピクテートスは答えて言った。
 「大事なことは何事でも突如として生ずるものではない。一個のいちじくでもそうだ。もしきみがいまわたしに、じぶんはいちじくがほしいと言うならば、わたしはきみに、時間が必要だと答えよう。まず花を咲かせるがいい。次に実を結ばせるがいい。それから熟させるがいい。
 いちじくの実は、突如として、そして一時間のうちに出来上がらないのに、きみは人間の心の実を、そんなに短時間に、やすやすと所有したいのか。わたしはきみにいうが、それは期待せぬがいい」

2021年11月17日水曜日

「戦前の核心」と「9条の意義」

 よく聞く言葉に、「戦後からの脱却」というのがある。そうした言葉に対し、そうではなく「戦前の歴史の核心をまず知ること、これこそが大切である」(「戦争の本当の理由と国家からの説明はなぜ異なっていたか」『この国のかたちを見つめ直す』、加藤陽子著、毎日新聞出版、2021年、p164)という批判を見つけた。
 それでは、「戦前の歴史の核心」とは何か。この点について加藤陽子さんは、「9条の存在によって、日本の国家と社会は、戦前のような軍部という組織を抱え込まずに来ました」(「9条の意義、見つめ直すとき」『この国のかたちを見つめ直す』、pp168)と書いている。「戦前の歴史の核心」とは、莫大な予算を裏付けにした強力な軍隊組織を持っていたことであろう。自衛隊は、軍隊もどきの組織ではあるが、軍隊ではない。軍事力を抱えてはいるものの、軍隊になれないのだ。9条が立ちはだかっているからだ。戦前のことを抜きに、「9条の意義」は語れない、ということである。しかも、戦前の核心を簡潔に把握できるのが望ましい。この後の課題である。

2021年11月16日火曜日

銀河による重力レンズの実例

 サイエンスZEROを観て、初めて重力レンズというものをイメージできた。なんと、中間にある銀河からの光は、オレンジの銀河の重力で曲げられ赤い光となって観測され、後側の銀河からの光は、オレンジの銀河と中間にある銀河の重力で曲げられ、青い光となってリング状に観測されているという。つまり、本来なら、手前の銀河の後ろにある二つの銀河は、手前の銀河がじゃまして見えない。見えないはずの銀河が、重力レンズのおかげで観測されているということなのだ。
 それにしても、なんと壮大な話であろう。恒星一つとっても、その重さは巨大なものなのに、銀河にはとてつもなく多くの恒星で成り立っているのだから、その重さと言ったら・・・・???。重力レンズとは、その重さによって働く重力が光を曲げるという話。素粒子の小ささは、宇宙のスケールの大きさと、同じくらいのスケールの小ささなのだろうか。小ささのイメージは、なぜか、浮かばない!
 話は変わって太陽の話。太陽コロナの温度は、太陽の表面温度よりも高く、100万度以上もあって、それが太陽にとっての1番の謎だという。国立天文台の研究者は、その謎解明にも取り組んでいるという。






2021年11月15日月曜日

”若返り”などもったいない

 雑誌『サライ』の2021年10月号の「サライ・インタビュ」の相手は百歳のピアニスト室井麻耶子さんだった。「若返りたいと思いますか」という問いに対し、「そんなもったいないこと、できません」という思いもよらない返答だった。お金はいくら払っても若くなりたい、というのが普通だと思う。
 そういえば、画家の「いわさきちひろ」さんも、未熟だったころには戻りたくない、というようなことを言っていた。あやかりたいものである。
 室井麻耶子さんが九十歳で新居を建てた話もあった。この話で思い出したのが、彫刻家の平櫛田中さんが九十歳頃に、「あと20年寝かせておけば、立派な彫刻材になる」という大きな楠を取り寄せたという話である。二人に共通するのが、衰えることのない創作(創造)意欲であろう。この”強い意欲”が二人を長命にしたのかもしれない。
若返りたいと思いますか。
「全然。そんなもったいないこと、できません。なぜなら私の「頭陀袋」の中には、これまで積み重ねてきたこと、体験したことやさまざまな感情が、ぎゅっと詰め込まれているからです。ビアノを演奏する際は、その都度、頭陀袋の中から取り出しています」
頭陀袋とはなんの比喩ですか。
「そうね、悲しいことも嬉しいことも、あれもこれも放り込むべかしら。6歳の頃、わが家に黒い箱ピアノが届いた記憶。その時のピアノの弾むような音。大人に”なぜ?””どうして?”と質問した時の大人の困った顔。こぼれ落ちてきた感情を全部、袋の中に詰めてきました」
まんが「田中彫刻記」より


2021年11月14日日曜日

憲法発布のお祝い

  驚いた。吉原あげて憲法発布のお祝いに参加したというのだ。憲法発布と言っても、学者などの一部の人々は歓迎したであろうことは想像できたが、国民レベルで歓迎したのかもしれない。「吉原の思い出噺」(『改造』、1950年3月号、p138)で、「二十三年の憲法発布のときのお祝いで、あのときばかりは、えらい騒ぎでしたよ」と、次のように述懐していたのである。

 いま思い出しましても、御治世が、一時にぱーっとあかるくなるやうなよろこびがわいてきたのは、二十三年の憲法発布のときのお祝いで、あのときばかりは、えらい騒ぎでしたよ。二月十日には日比谷公園へ、十一日には上野へ山車の先々についてゆきましたが、その賑やかさ、物心ついてからあんなことは初めてでした。なにしろ、吉原あげての長い道中で、おそらくあんなことは、前にも後にもないことと思います。

 このような事実を知ると、改憲論者が盛んに流布してきた「押しつけ論」が如何に現実にそぐわない論法であることがわかる。当時の華やかさがわかる後半部分も紹介しておく。

 角海老の花菱太夫さん、品川楼の金爛大夫さんなどは、あの助六芝居に出てくる揚卷太夫そっくり、花魁髷に重々しいまでにでかでかと髪飾りをした厚化粧、金銀の繍のある大巾の帶を前にして、目のさめるやりなあで姿で、新造や太夫衆、やり手、若い衆や女中をぐるりに従えまして、山車に乗ってくり込む景色は、見上げるばかりのきらびゃかさで、ちょっとそばによれないような感じでした。萬華楼ではみんな假装で花魁は黒の揃いの洋服、鳥の毛の橫っちょについた帽子をかぶり、だらりとした長い裾をとり、靴をはいていました。鴇女が、まっくろく顔をぬって黒い洋服をきて、のこのことそのそばについて歩いていましたが、はきつけない靴で、足をいためた人が多勢出ました。
 稻元楼のおかみさんは、柳橋の芸者衆からきた、それは粋な人でしたが、ここの抱えの花魁衆は、黒地に稲穂の裾模様の衿に白博多の帶、緋縮緬の長襦袢、素足に吾妻下駄、頭は引髷に笄、細いくづ引きを掛け、うしろに珊瑚樹の一本ざし。太夫衆はたしか五人位でしたが、それがぞろりとそろっての道中は、絵にあるやうな美しさで、そのほかでは、大文字楼、彦太楼などもなかなかきれいでした。
 それだけに、廓の中のにぎやかさもまたたいしたもので、おすなおすなの混雑、品川楼などは田舎のお客が多かったので泊りきりで朝まで帰らないので、どの部屋も大満員、寝るところがなくて、お店の帳場から土間の方までお客を入れ、ゴザをしいた上に、六枚屏風をめぐらして寝んでもらったものでした。
 お客もみんな假装で道中に加はりました。それがまた多勢いて、その中に、翁屋さんという絆纏をきて、柿色の三尺を横ちょにしめた尾崎徳太郎さんや石橋思案さんなどもまじっていました。尾崎さんは、若い頃から、そういう粋なことのすきな方でした。

2021年11月13日土曜日

選挙がすんだ翌日から奴隷になる

 総選挙が終わってみたら、予想に反して自民党が善戦し、野党共闘をしたにもかかわらず、民主党が後退してしまった。その原因として、野党共闘が槍玉に挙げられ、投票率の低さに表れている政治的無関心に向けられることはなかった。しかし、丸山眞男の「政治的無関心と逃避」という論文を読んで、政治的無関心層の多さにこそ、目を向けれれるべきであると気づかされた。政治的無関心といった生活態度が「国民大衆にびまんしたら、民主政治は立ちゆかない —— 民主政治どころか国民の民族的な生命力自体が枯れて」(『丸山眞男集別集第2巻』丸山眞男著岩波書店、2015年、p57)しまうという。あり得る話だ。
 この論文には、政治的無関心がなぜ生まれるか、が簡潔に説明されていた。そして、驚いたことに、ルソーが今日の社会を予言していたことだ。ルソーは、「イギリス人は自分を自由だと思っているが、彼等が自由なのは選挙の日だけで、選挙がすんだ翌日から奴隷になる」[『社会契約論』第三篇第一五章]という言葉を残していたのである。この中の、「選挙がすんだ翌日から奴隷になる」という言葉を胸に手を当てて考えてみたいものである。

  われわれの生活環境がすべてこういう政治に対する消極的受動的態度を培養するようにできていることは否定できないと思います。第一、日常生活がますます多忙になり職場での労働で人々が神経をすりへれて、政治に関心をもつ時間的余裕も心理的余裕もないというのが大多数の人々の状態です。しかも他方、大衆の娯楽機関や観るスポーツなど、政治などのメンドクサイことから逃避させる仕組はいよいよ発達します。
 そこへもって来て、大きな政治問題がますます自分の手のとどかない国際情勢によって左右され、いくら政治に関心をもってもどうにもならないという絶望の気分がひろがって行きます。こうして、かつてルソーがイギリスの民主政治をふうしした言葉――「イギリス人は自分を自由だと思っているが、彼等が自由なのは選挙の日だけで、選挙がすんだ翌日から奴隷になる」[『社会契約論』第三篇第一五章]という言葉がいよいよ実感をもって現在の大衆民主政の時代に迫って来るようになったのです。(上同、p52)

2021年11月12日金曜日

100年後の理想

 日本には、100年後の日本をイメージした政策が必要と思ってきた。未来のあるべき姿をイメージして、そのためには何が必要かといった考えだ。日本共産党は、そうした考えに近いが、あまりにも遠い未来社会を想定している。そうではなく、100年後、200年後の社会なら、イメージしやすい。100年後も、相変わらず国家間の対立に明け暮れるようでは、人類がそこまで存続できるかが心配になってしまう。
 そしたら、『丸山眞男集』の中に、似たような考えがあった。「どこへ日本を持って行ったらいいかというゴールの意識」が必要ではないか、というのだ。だとすれば、やはり、ゴールは日本国憲法の理想であろう。日本国憲法の理想を語ると、そんな理想は、現実の環境を見ると無理だ、という意見が出る。しかし、100年後の理想といえば、反対もできまいというものである。

丸山 極左勢力というものがこれだけ政治の表面で力がなくなってきて、じゃ他方で保守党なり財界の人たちは安心感を持っているかというと、いたるところにアカのにおいをかぎつけて恐怖している。他方では革命の主体的な条件というのは社会党を見たって共産党を見たっていっこうに成熟してはいない。それがぼくは日本の政治の大きな逆説じゃないかと思う。だから安保改定は通るでしょう。その他反動立法も通るかもしれない。しかしそれで保守陣営が安心して勝利感を持つかというと、そうじゃないと思うのです。むしろかれらはかれらなりにかえって不安の念におののいている。つまり根本的にはどこへ日本を持って行ったらいいかというゴールの意識がないと思うのです。ただこうなっちゃいけないってのはわかっているんですね、かれらの立場から。そこで社会党の天下になっちゃいけないとか、こうしちゃいけないという消極的な面から政策が出てきてる。(「日本の進む道(座談)」丸山眞男集別集 2丸山眞男著岩波書店2015年、p254)

2021年11月11日木曜日

安保は日米攻撃保証条約!

 以前より、「安保こそ諸悪の根源」とまで思ってきた。小田実さんは「安保」の危険性を次のように喝破していた。「アメリカ合州国は、今、世界制覇をめざしてどこへでも動き、その『関東軍』としての動きにいやおうなしに日本は『安保』によってどこまでもつき従って行く。『安保』をやめないと、やめて、アメリカ合州国の「関東軍」につき従うことをやめないと、たいへんなことになる」と。実際小田実さんの指摘のように、安保法制の成立など、ますます「安保」の危険性が増してきている。にもかかわらず、時代の精神は、「安保」容認に傾いているのが現状であろう。小田実さんの声に、耳を傾けていきたいものである。

 もはや、「安保」――「日米安全保障条約」は日本の安全を保障する条約ではありません。「日米攻撃保証条約」です。いや、「安保」がもともとそうした「攻保」のものであったことーーそれは事実がよく示していることです。「攻保」でしょうか。元来、「安保」は日本を防衛するために日本とアメリカ合州国のあいだに結ばれた条約であったはずです。そう理屈づけがなされて来たものでしたが、実際に大きく使われたのはベトナム戦争のアメリカ合州国のベトナム攻撃においてのことでした。ベトナムには日本攻撃の可能性はまったくありませんでしたし、実際、ベトナムにはその意図は皆無でしたから(これはさっきから述べて来た日本を攻める「××」ではなかったことです)、「安保」は「防衛」のためにあるものではなく「攻撃」のためにある―ーこのべトナム戦争において端的に示された事実を、さらに拡大、強化されたかたちで現在の事態が示しています。
 「安保」は今まさに危険なものになって来ています。アメリカ合州国は、今、世界制覇をめざしてどこへでも動き、その「関東軍」としての動きにいやおうなしに日本は「安保」によってどこまでもつき従って行く。「安保」をやめないと、やめて、アメリカ合州国の「関東軍」につき従うことをやめないと、たいへんなことになる。日本自体にとってだけでなく、世界全体にとってです。 (世界は混迷におち入っている」『小田実全集 評論第11巻』、講談社、2011、p176〜177)

2021年11月10日水曜日

戦争なんて絶対に起こり得ない

 前に、「主権国家の対立は、必然に戦争を引き起こす」(横田喜三郎著「世界国家の論理」『世界』、1948年7月号、p18)という言葉に触発され、「平和=至上の目的、無上の命令」を書いた。同じような感動的な言葉に出会った。「僕は差別は憎いけど、区別は好きです。誰もが『違うこと』を楽しめる世界では、戦争なんて絶対に起こり得ない」(「演劇で知った、混じり合う楽しさ」『朝日新聞』、2021年11月10日)という作曲家・池辺晋一郎さんの言葉だ。金子みすゞさんも、「私と小鳥と鈴という詩の中で「鈴と、小鳥と、それから私/みんなちがって、みんないい」と謳っている。
 このような思想の対極にあるものがヘイトスピーチであろう。特定の人々を憎しみ、言葉で罵倒する人々が現に存在している。罵倒する相手が外国人であれば、国家間の対立にまで発展することも当然ありうる。だからこそ、「みんなちがって、みんないい」という思想、「違うこと」を楽しめる思想が広まれば、「戦争なんて絶対に起こり得ない」のだ

『私と小鳥と鈴と』

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

2021年11月9日火曜日

KAGRAによる重力波の観測方法

 NHKの番組「サイエンスZERO」で、KAGRA 大型低温重力波望遠鏡を取り上げていた。この番組を見て、重力波がどういうもので、その観測は、どのようにして行うか、初めて理解できた。
 重力波は、アインシュタインが理論的にその存在を予言したものだが、2015年にブラックホールの合体による重力波が発見されている。アインシュタインの理論によると、36Mと29Mのブラックホールが合体すると、65Mにならないで、62Mのブラックホールと3Mに相当するものが重力波となって放出されるという。
 


 観測方法は、地下800mの地点にの地点にKAGRAの全体図のようなトンネルを作り、レーザー光を同じパイプに、二つに分けて発射し、その反射レーザー光を検出器で捉えるシステムになっている。重力波がくると二本のパイプに僅かな歪みが生じ、その結果、二つの反射レーザー光の交差点まで戻る時間にも僅かな差が生じる。その僅かな時間差を検出器で捉えることで、重力波を観測できる、という。
 重力波は、光や電磁波のように時間が経っても減衰するようなことがないという特徴があるため、より遠くの宇宙を観測できるという。新しい宇宙の姿を見せてくれるのかもしれない。KAGRA 大型低温重力波望遠鏡に、優しい解説動画などがある。



KAGRA 大型低温重力波望遠鏡」の解説動画より

2021年11月8日月曜日

平和=至上の目的、無上の命令

 誰しも、戦争は嫌であるし、二度と戦火に苦しむような世の中にはしたくない。だからこそ、「なぜ戦争が起きてししまうのか」という素朴な、根源的な問いに向き合うことが大切だ。その答え、わかりやすい答えを見つけた。それは、コロンブスの卵かもしれないが、それは「国家間の対立」である。「主権国家の対立は、必然に戦争を引き起こす」(横田喜三郎著「世界国家の論理」『世界』、1948年7月号、p18)からである。
 最近の動きと動きとして、「相手領域内で弾道ミサイル等を阻止する能力」として「敵基地攻撃能力」の保有に言及してきている。明らかに対立を煽るようなもので、戦争の危険性が一層増すことは疑いようがない事実であろう。ならば、いかにすれば国家間の対立をなくしていけるか、平和的に共存していけるかを考えていくべきである。そのためにも、現代の原子力時代に思いを馳せて、「ひとたび戦争が起きれば全世界の破滅的な破壊が起こる。人類も文明も、完全な破滅である。この事実を前にして、平和は無上命令である」(上同。p22)ことを肝に銘じるべきである。
「実際において、あくまで正義に固執し、そのために平和を破壊するようなことになれば、人類の破滅と文明の破壊をまぬがれない。そうなっては『萬事休す』である。人類が破滅し、文明が破壊されたのちにおいて、正義がなんの役にたつであろうか」(上同。p21)ここの「正義」を「抑止力」に置き換えると、まさに今の日本のことになる。
 アインシュタインの、『全世界の破壞をさけようとする目的は、他のいかなる目的にも優先しなければならない」という言葉がおもい出される。この言葉を、ひじように重要なものとして、さきに私は注意しておいた。それは、平和こそ、原子力の世界において、至上の目的であり、無上の命令であつて、われわれはそれを選ばなくてはならないことを示しているからである。

 いつたい、あらゆる法と政治において、その窮極にあるものは、正義と安定である。安定は秩序といつてもよい。国際關係においては、平和といつてもよい。安定といい、秩序といい、平和といい、言葉はちがつているが、実質的には同じである。いずれにしても、 これと正義とは、いかなる法と政治においても、窮極の目標とされている。学者のうちには、これらの二つを一つに統一しようとか、どちらか一方をより根本的なものと見ようとか試みたものもあつたが、けつきょくは成功しなかつた、やはり、二つをひとしく窮極の目的と見るのが正常である。(上同。p21)

2021年11月7日日曜日

「神風信仰」恐るべし

 家永三郎責任編集の著書に『日本平和論大系』という本がある。その12巻では清沢洌が取り上げられていた。日記風に書かれていたので、流し読みをした。そして、軍部だけでなくマスコミの間でも、「敵陣営内に厭戦気分が出ることに望みを持っている」「米国に厭戦気分が起り、そこから破綻するという考え方は戦争初頭から」あった、という記述を見つけた。
 以前「計り知れない徹底抗戦の心理」の中で、「原爆を落とされても、徹底抗戦を主張していた人たちがいたことを思うと、その心理は計り知れない。そこまでは理解できない」と書いたが、いくら攻撃しても懲りない姿を見て「敵陣営内に厭戦気分が出ることに最後まで望みを持っていた」のかもしれない。そういえば日本軍には「神風が吹いて、・・・」という「神風信仰」というものがあった。「厭戦気分が出ることに望みを持った」ことも、「神風信仰」のようなものである。「神風信仰」恐るべしである。

一九四五年一月二日(火)

 日本人および軍部はいかにして戦争を勝ちかんとするか。敵陣営内に厭戦気分が出ることに、今もなお望みを持っている。

      *

 同じ一日の『朝日』には「B29の葬列」という記事で、日本軍が「B29の五百五十機を叩き潰す」といい、その最後にこういっている。米国内に厭戦気分が起ることを期待し信じていることが分る。
      *

 米国に厭戦気分が起り、そこから破綻するという考え方は戦争初頭からのものだ。それを目ざして戦争を始めたのである。現在でもそう考えているようだ。

      *

 新聞には「日本兵が強い」「日本は敗れない」というような電報ばかりのせている。米国海軍長官フォレスタルがそういったとか、海軍次官がそう報告したとか —— 今日はロイターのキムテという記者が、日本はまだ強い から戦略建直しをせよといったと特筆。昔から誉められてばかりいなければ安心できないのが日本人、特に軍人の特徴だ。敵がそんな言を吐く心情なり、考え方なりは一切知ろうとしない。 (『日本平和論大系 12』、家永三郎責任編集、日本図書センター、1994年、p403)

2021年11月6日土曜日

死はあらゆる小道に立っている

 ヘルマンヘッセが自殺まで考えたことは昨日も書いた。それだけに、死に対する考察が鋭い。その上詩人の目で、詩人の言葉で表現しているので尚更である。「生と死」という言葉があるように、生と死は表裏の関係もあって一体である。そのことを「死はあらゆる小道に立っている」と表現しているが、我々は死の存在を意識の外に置いておくだけなのだ。
 それにしても、最後の言葉、「私たちが生を見捨てるやいなや死は君の中にも私の中にも入り込む」は凄い表現である。体だけでなく、「生の意識」を強く鍛えていくことも考えていきたいものである。

老いてゆく中で

若さを保つことや善をなすことはやさしい

すべての卑劣なことから遠ざかっていることも

だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと

それは学ばれなくてはならない


それができる人は老いてはいない

彼はなお明るく燃える炎の中に立ち

その拳の力で世界の両極を曲げて

折り重ねることができる


死があそこに待っているのが見えるから

立ち止まったままでいるのはよそう

私たちは死に向かって歩いて行こう

私たちは死を追い払おう


死は特定の場所にいるものではない

死はあらゆる小道に立っている

私たちが生を見捨てるやいなや

死は君の中にも私の中にも入り込む(『人は成熟するにつれて若くなる』、ヘルマン・ヘッセ著、V・ミヒェルス編、岡田朝雄訳、草思社、1995年、p56〜57)

2021年11月5日金曜日

存在したもののひそかな永遠性

 ヘルマン・ヘッセの言葉を手がかりに、「自殺まで考えても、自殺をせずに生きるにはどうすればいいのか」を考えたことがある。そこで、「自分と向き合い、自己を育てる努力」(「自殺をせずに生きるには」)の大切さを書いた。その後、『人は成熟するにつれて若くなる』(ヘルマン・ヘッセ著、V・ミヒェルス編、岡田朝雄訳、草思社、1995年)の中に、「自己を育てる」ことと関連する素晴らしいヘルマン・ヘッセの言葉を見つけた。
 叡智と私たちの関係は、アキレスと亀の論証のようなものである。叡智が常に先行しているのだ。それに到達するまでの途中は、その魅力を追いかける事は、それでもやはり素晴らしい道である。(p105)

 素晴らしい魔力、万物が変転すると言う燃えるような悲しい魔力よ! しかし、それよりもはるかに素晴らしいのは、過ぎ去ってしまわぬこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生き続けること、そのひそかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること、絶えずくりかえし、それを呼びもどす言葉の中に、生きたまま埋められていることである。(p106)
 ここでいう叡智は、人によって違うかもしれない。しかし、人それぞれを成熟に向かわせてくれる魅力ある灯台のようなものであろう。魅力あるものに向かう過程そのものも、また素晴らしいと言っているところが魅力である。また、「存在したものが消滅しないこと」の素晴らしさは、古代ギリシャ文明など、数かぎりがない。ヘッセの言葉も、こうして呼び戻され、現代を生きる私たちに勇気を与えてくれている。

2021年11月4日木曜日

反国民的な自民党改憲論

「戦力」保持を禁じる憲法9条をもつ日本に、米軍駐留は許されない。『対米従属の正体:9条「解釈改憲」から密約まで』(末浪靖司著、高文研、2012年)に、他国軍の駐留を否定した憲法学説が紹介されているが、常識的に考えても、在日米軍は憲法9条と矛盾する存在で、本来なら認められない。日米安保条約は初めから矛盾する存在であり、国民にとって決して好ましい存在ではなかった。だからこそ、日米関係文書には多数の密約が存在していると言えよう。
 『対米従属の正体』の著者末浪靖司さんは、多くの米公文書を読んでこの書を書いたわけだが、後書きで、「多くの米公文書を読ん気がついたのは、安保条約・地位協定の下での日米関係には、あまりにも『密約』が多いということだ」と書いている。国民には知られたくないから密約にするわけで、そうした密約によって成り立っている条約が国民を守るわけがない。従って、密約の存在一つとっても、日米安保条約がどういうものかは想像できるはずなのだ。
 しかし、今では日米安保条約が既定路線の如く扱われ、「右傾化や軍事化が進み、平和主義を冷笑する風潮さえみられ」、「防衛費は膨らみ、憲法に反する『敵基地攻撃能力の保有』まで真顔で論じられて」(「<社説>憲法公布と文化の日 愛と平和と「紙鍵盤」と(東京新聞」より)いる。そもそも、反国民的な日米安保条約に基づく軍事化や敵基地攻撃能力の保有である。当然これらも反国民的と言っていい。そうなると、自民党が目論んでいる改憲そのものも反国民的と言うべきであろう。

2021年11月3日水曜日

平和で民主的な世の中を!

 75年前のきょう、日本国憲法が公布された。国民主権基本的人権の尊重、平和主義を基本原理に掲げ、戦後日本の歩みをつくってきた。しかし、日本国憲法への攻撃は相変わらず継続され、改憲の圧力も続けられてきた。その結果が、憲法無視の政治、明らかな愚民視の政治」(東京新聞の社説)がまかり通っている。そして、この度の総選挙で、そうした政治への批判票の広がりを見せることはなかった。このような現実を前に心細くもなったが、次のような東京新聞の社説に「まだまだ健全なマスコミが存在している」と大いに励まされた。

 きょうは文化の日、憲法公布の日です。戦争が終わり、平和的、民主的、文化的な新国家をつくろうと心を新たにした日です。でも公布から七十五年、その意義を忘れてはいませんか。
 右傾化や軍事化が進み、平和主義を冷笑する風潮さえみられます。防衛費は膨らみ、憲法に反する「敵基地攻撃能力の保有」まで真顔で論じられています
 政治家も国民を侮っています。「説明しない」「説得しない」「責任をとらない」という「3S」がネットで問題になっています。真実を「語らない」「隠す」「改ざんする」という「3K」の時代でもあります。明らかな愚民視の政治がまかり通っています。
 権力者がもはや民主主義的な統治を放り投げているのです。日本学術会議会員の任命拒否問題でもそうですが、あらゆる分野に権力の介入や圧力が及んでいます
 総選挙が終わりました。安倍・麻生・甘利の頭文字である「3A」は一角が小選挙区落選でしたが、いまだ背後に控える岸田政権だけに注視が必要です。
 憲法の理念である平和で民主的な世の中は、誰もが願っています。文化はそのような養分を吸って、育まれます
 さて、今年のショパンコンクールの優勝者と六位はアジア系カナダ人です。二人ともダン・タイ・ソンの弟子でした。彼は教育者としても優れていたのです。
 「紙鍵盤」の時代はごめんです。日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に…」のくだりがあります。「愛」の文字は「平和」にかかっています。その普遍性を考えずにはいられません。(「<社説>憲法公布と文化の日 愛と平和と「紙鍵盤」と(東京新聞」より、強調は筆者による

2021年11月2日火曜日

私たちに悲観している余裕はない

 この度の選挙結果を踏まえ、作家の中島京子さんが朝日新聞(2021年11月2日)に「己の権利見つめる、今ここから 衆院選に思う」という文章を寄せていた。「現在の選挙制度と、50%ほどの低い投票率の下では、絶対得票率が20%程度でも選挙区の議席を獲得できる。自公政権のコロナ対策などは、けっして支持されていたとは思えないのに、あたかもそれを承認するような結果が出たのは、やはり投票率の低さと無関係ではないだろう」というのは本当であろう。なぜなら、自民党に比例区の得票率は34.7%だから、34.7%で465議席を按分すると161議席、公明党の57議席を足しても、218議席と過半数に満たないからだ。
 また中島さんは、この国も民主主義をないがしろにされている実態を「行政文書の破棄や改ざん、黒塗りによる開示拒否など、民主主義がないがしろにされるのを見てきた。なにより、政権与党は臨時国会の召集を求められても応じなかったのだ。選挙だけではない、この国では、政治そのものが大切にされていない」とわかりやすく端的に表現してくれている。こんな国だったから、「結果を見て、暗澹(あんたん)たる気持ちに」なってしまうのも、よくわかる。だからこそ、「悲観している余裕はない。私たちは、自分たちの基本的な権利をもっと大切にしなければならないし、そのための努力を、今日、この日から始めなければならない」という言葉には、大いに励まされた。

2021年11月1日月曜日

敵基地攻撃論は日本攻撃の呼び水

 総選挙が終わった。期待していた野党共闘の実りは少なく、自民党は過半数を維持してしまい、維新だけが躍進、結局改憲勢力で2/3になってしまった。だからと言って、すぐには改憲に向かって進むようなことはないと思う。改憲に対する国民の関心は少ないからだ。
 また、自民党は「敵基地攻撃能力」とか「防衛予算の増額」を打ち出し、よりマシという理由があったにせよ、過半数の支持を得てしまったことになる。これをもって、国民の多くが「敵基地攻撃能力」とか「防衛予算の増額」を承認したとみていいのだろうか。
 孫崎享外交評論家によれば、

 敵基地攻撃論は日本の安全を全く高めない。攻撃の呼び水になるだけだ。なぜ、こうしたバカげた政策が論じられているのかといえば、米国に利益があるからである。
 極東地域で緊張が高まれば、この地域で武器が売れる。これは米国の湾岸諸国への対応と同じだ。さらに安全保障の面では、米国が自国への攻撃の危険性を増やすことなく北に圧力をかける選択肢が増える。
 情けないことに、今、日本で語られる防衛政策はほとんどが日本の安全を高めるものではない。米国に資するためである。(『日刊ゲンダイDIGITAL』、2021/10/29)
 全く情けない。改憲の原動力も、結局米国の圧力であることに変わりがない。このことにどうして気がつかないのだろうか。

2021年10月31日日曜日

アメリカ軍国主義のファンズム

 臼井吉見という名前と「現代世界の焦点」という書名に惹かれ、『現代の教養14巻:現代世界の焦点』(臼井吉見編 、筑摩書房、1968年)を借りて読んでみた。と言っても、主に臼井吉見氏による解説のところだけだが、今にも通じるところがあるアメリカ評があった。
 それは、「アメリカは急選に軍国主義にむかって動きはじめ、いまや対外的にはファンズムで、かつての日本やドイツとそう変らない」と、同じようだが「アメリカは、ほかの国々の意向をかなり無視して行動することができるようになった点を指摘している」ということだ。アメリカをファシズムと評したのは初耳だが、これまでの戦争政策を見ると、的確は表現であろう。しかし、多くの人たちは、そうしたことを知らないか、深く考えずに、支配的な時代の思想に、[言葉は悪いが]毒されているか、である。
 カリフォルニア大学のシュアマン教授のアメリカ危機説を伝えている。同教授によれば、アメリカは急選に軍国主義にむかって動きはじめ、いまや対外的にはファンズムで、かつての日本やドイツとそう変らない。ただ、このファシズムは、日本やドイツのそれよりも「技術的」であること、国内的には民主主義が維持されていること、この二点でちがいがあるだけだというのである。
「アメリカは何をなすべきか」(高坂正苑)では、アメリカが並はずれた力をもつようになった危険と不安を指摘してる。フランスのデュベルジュによれば、今や世界には二つの超大国が存在するのではなく、「一つの超大国と、一つの大国」が存在するようになったのであり、米ソの共存は「対等でない共存」だという。フランスの職略理論家ボーフル将軍も、現在の世界の権力政治の三極構造は、「弱体化しつつあるソ連」「混乱しつつある中国」「強大なアメリカ」のそれであるとして、それゆえアメリカは、ほかの国々の意向をかなり無視して行動することができるようになった点を指摘している。ソ連の弱体化というのは、スターリン主義的な非常時体制から、より日常的な「混合体制」とでも呼ぶべきものへと移行しつつあるソ連社会の全面的な変化のもたらしたものとみるべきであろう。中国の経験している混乱については、改めていうまでもあるまい。かくて、アメリカはおのれの力を過信して、ベトナム戦争において、無差別爆撃にまで進む か、その寸前で思いとどまるか、その選択に直面することになるであろう。アメリカが他からの介入を懸念することなしに北爆を強化できることは、かえってアメリカに失敗を犯させるかもしれない。このことは同時に、アメリカが並はずれた力の効果のなさに焦りを感じている現在、その力を背後に引っ込めて、賢明な外交政策をえらぶ絶好の機会であることを語るものである。(『現代の教養14巻:現代世界の焦点』臼井吉見編 、筑摩書房、1968年、p381〜382)

2021年10月30日土曜日

200年間戦争をしてこなかった国

 安全保障政策の柱は「国際社会の中での信頼を得ることに力を注ぎ、攻められない国づくり」であると、前から思ってきた。この思いが、『180年間戦争をしてこなかった国』(早川潤一著、Sanwa、1999年)を読んで、一層強くなってきた。この本が出版されてから20年は経っているので、スウェーデンは200年も、戦争をしてこなかったことになる。それだけに、スウェーデンの政策には重みがある。
 特に、外交政策の基本要素として「人権尊重、民主主義、法の支配、国際軍縮、環境保護など」を掲げ、北欧諸国とは、「社会福祉、共同労働市場など広範な協力関係にある」ことは、大いに学ぶべきことだと思う。そして、アジア地域の緊張関係は、一刻も早く解消し、協力関係を築いていく必要があろう。

 スウェーデンは、その中立外交政策の基礎として、国際協力に積極的に参加し、国連に対して強力な支援をしている。さらに人権尊重、民主主義、法の支配、国際軍縮、環境保護などが外交政策の基本要素となっている。また、国民総所得の約一%を国際開発援助に充て、その他数多くの国際組織に加盟している。北欧諸国とは、社会福祉、共同労働市場など広範な協力関係にある。
 こうした国内・国際政治の結果として、スウェーデンは、国内的には一八〇年間戦禍に巻き込まれずにすみ、国土は破壊されず、国民は戦争の恐怖と体験を避けることができ、福祉国家建設に取り組むことができたのである。このことは国民と政治の間の信頼感を高めることができた。
 さらには、他国を攻撃しなかったということや数々の国際援助活動によって、他国からも政治的・経済的な信頼感を獲得している。これは、「平和への戦略」の大いなる勝利といえるのではないか。私にはそのように思えてならなかった。(180年間戦争をしてこなかった国』、p168〜169)

 著者の早川氏は、最後に「先進国として世界に信頼される水準の高い民主国家となることが必要であろう。それが、誰もが安心して生きていける平和国家の基礎をなすのだと思う」(上同 、p170)と結論づけていたが、至言である。

2021年10月29日金曜日

竹内まりやの音楽が輝き続ける理由

 NHK放送の「竹内まりや Music&Life~40年をめぐる旅~ 完全版」(2021年10月24日、2019年の再放送)を観た。その中で夫の山下達郎さんが語った「竹内まりやの音楽が輝き続ける理由」が印象に残った。

 時代のトレンドには出来る限り媚びず追随せず、その先の普遍性というものを常に模索してまいりましたので30年前の作品でも、それほど古びて聞こえません。そして、何より全ての作品に通底しているのが人間存在に対する強い肯定感です。この考えが浮き沈みの激しい音楽シーンの中で、長く受け入れられてきたもっとも大きな要素であると私は考えております。

 ここで語られた「普遍性」と「人間存在に対する強い肯定感」という言葉から、私は日本国憲法のことを連想した。前文で二つの普遍性を謳っているからだ。

 1、そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 2、われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 さまざまな攻撃を受けながらも、日本国憲法がこれまで命脈を保ち続けられたのも、こうした普遍性を持っており、かつ、憲法全文に「通底しているのが人間存在に対する強い肯定感」があったからではないだろうか。山下さんには、普遍性という言葉の重みを教えられた。