2021年5月31日月曜日

殺人兵器の製造開発はもう止めて

『週刊文春』(2021年6月3日号)に、『A1・兵器・戦爭の未来』(ルイス・A・デルモンテ著、東洋経済新報社、2021年)の書評が載っていた。書評を読みながら、どこまで戦争を続けるつもりなのだろう、と呆れてしまった。と同時に、何ていう兵器(殺人器)を創ったのだろう、と恐ろしくなってしまった。
 これまでは、局地戦で収まっているからいいものの、局地戦がいつ全面戦争に発展するかわかったものじゃない。人間社会にとって戦争は無くならないみたいな固定観念は、もう卒業しなければならない。それでなくても、自然の脅威が人類社会に迫ってきているからだ。「兵器は殺人器なんだ」から、殺人兵器の製造開発は、もうやめてもらいたい。

 A1の技術革新は、戦場にも不断の変革をもたらしている。米国や中国、ロシア は"自律型兵器" —— 一度起動されると、人間の判断を必要としない兵器――の研究を積極的に進めている。米国は国内の規約で自律型兵器を運用する際、人間を介在させているが、国際的な取り決めは存在せず、今後成立させるのも困難だという。シンギュラリティ以降の戦争はどうなるのか、人類が戦うべき相手とは誰なのか、示唆に富んだ一冊。(『週刊文春』、2021年6月3日号) 

無人の兵団 AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』(ポール・シャーレ著、早川書房、2019年):勃興するAI・ロボット技術を受け、急速に進化を遂げる「自律型兵器」。米陸軍レインジャー部隊出身のアナリストが、各国の実例を紹介して、あらゆる関係者に取材。最先端軍事技術の実態とその深部に迫る。(図書館による内容紹介)

  自律型兵器で画像検索すると、色々あって驚いたが、検索していて気になったのは、なんの躊躇いもなく、”殺す”という言葉が使われていることだ。「必要なときに(敵を)殺すことができ、その後すぐに(敵を)殺すことができます」(「人類は自律兵器システムを正しく扱えるか 『無人の兵団――AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』」より)というように。


2021年5月30日日曜日

幸せな人生のつくり方

 図書館の新刊コーナーにあった『幸せな人生のつくり方 今だからできることを』(坂東眞理子著、祥伝社、2021年)を読んできた。自己流速読で、目次で目についた文字を探し、本文をさっと読み、また目次に戻りを繰り返し、その間にメモしていくだけ。今回は、五行のメモで済んだ。()内は、今こうして書いたもの。

1、今何かを初めることが状況を変える。1頁でも読み始める、一行でも書き始める。(何事も、まずは始めることで、脳のスイッチが入るらしい。)

2、今していることに15分心を込めて取り組む。(お茶の先生だったか、書の先生だったか忘れたけれど、丁寧な所作が大切だ、と書いてあったものを思い出した。書も、筆の運びを心を込めて、丁寧にするが重要と、そんなことが書かれていた。本文が見つかったら、ここに追加しておきたい)

3、今できる行動をする。「よかったね」「おめでとう」「うれしい」と言う 。(感謝の心、喜びの心を言葉に表す、ということだろうか。

4、感謝する時間を持つ。(言葉として発しなくても、感謝する時間を持照れば、それだけでも心が休まるのかもしれない。)

5、時間も疲れも忘れるフロー状態(何事かに夢中になった状態で、一種の瞑想状態と言える{同じな}のかもしれない。)

6、課題を縦に並べる そして、一つ一つ解決していく(よく言われることだが、なかなか身につかない。体得しなければ!)

2021年5月29日土曜日

数奇なる思想家”田岡嶺雲”

 月に二回は行く隣町の図書館では、時々廃棄処分する蔵書を一冊10円で販売している。そこで買った『現代日本文学大系・22』(筑摩書房、1967年)に、全く今にも通じるマスコミ批判があった。実は、この本は”幸徳秋水”や”大杉栄”という名があったから買ったもので、そこに収録されていた”田岡嶺雲”という人の名は、全く知らなかった。しかし、家永三郎氏が、田岡嶺雲についての解説を書いていたので、まずはその解説を読んでみることにした。
 そして驚いた。 家永氏が「嶺雲の洞察は、単なる文明批評の域を超え、卓抜な歴史哲学識見を明治の思想史の上に展開するものであった」と評価しているように、目を見張るものがあった。その一つが次のマスコミ批判である。

 新聞紙は時好に投ずるため、国家間の衝突の切迫するかの如き報道することにより、絶えず人心を沸騰させ、知らず知らずの間に国民の対外的憎悪を挑発している。これでは戦争の生ずるのは当然であろう・(p406)

 この一文を読めば、多くの人に納得してもらえるに違いない。あまりにも、現状を反映しているからだ。こういうのを時代を超えた普遍性を持った認識というのであろう。騙されないようにしたいものである。
 田岡嶺雲を紹介した本として、岩波新書『数奇なる思想家の生涯』(家永三郎著、1955年)があることもわかった。図書館の閉架書庫に眠っていた。

2021年5月28日金曜日

友好的な近隣外交を目的に!

 バイデン政権になってから、やたらと中国を意識し始め、マスコミでも中国や北朝鮮を敵視し、高額なイージス艦を持とうとしている。逆に考えれば、目的はこちらのイージス艦導入で、その理由づけとして、中国問題を演出しているのではないか、と勘ぐりたくなる。
 そうではなく、真の目的を「友好的な近隣外交」におけば、そのための方策はいくらでもあるはずだ。次に紹介しているように、「隣国との揉め事に『他人の価値親を理解し、尊敬し合える』ように働きかけて」て行くのに、高額なイージス艦はいらない。かえって邪魔であろう。

 「他人の価値観を理解し、 尊敬し合えることができたらどんなにいいだろう」<ファッション雑誌『ViVi』と自民党のコラボ広告 ('19.6.10)>

 自民党が女性誌『ViVi』とコラボレーションしたPR広告を作り。物議を醸したが、そこに添えられたモデルのメッセージは、「偉い人の意見が大事で、市民の意見なんて反映されていない」「外国の方やお年寄りにもっともっと親切な対応をすべき」など、むしろ、今の政治を動かしている人たちへのにも読めた。たとえば隣国との揉め事に「他人の価値親を理解し、尊敬し合える」ように働きかけている政治家がどれだけいるだろう。(武田砂鉄著『暮らしの手帖』、201910 -11月号)

「朝日新聞、2021年5月28日」より

2021年5月27日木曜日

嘘の罪で処刑になった長老たち

 PHPで連載されていた中野京子による「美貌の人」(2017年12月号)を読んで、作品「セザンヌと長老たち」と、この作品の題材となった旧約聖書のダニエル書に入っている短編「スザンナと長老の物語」のことを初めて知った。
 この物語の要約と絵は、サイト(https://cs.kddi.com/)から引用しておいたが、セザンヌの「祈りが通じたことを、聖書への知識を持つ欧米人はよくわかっている。つまり物語を知らなければ、この絵はただ異様で不快でしかないということだ。先には悲劇しか想像できないのだから」(p68〜69)それゆえ、「意味や物語のある絵画作品は、意味や物語を知った上で鑑賞するのが作品や絵画に対するリスペクトではないか」という中野さんの絵画作品に対する真摯な思いは、心打つものがあった。
 結局裁判では、ダニエルが2人の別々の証言が矛盾することを証明して、スザンナは無実が証明されるのだが、一人は乳香樹、一人はカシの木と主張したため、嘘がばれ、長老らが処刑されることになったという。ここで、嘘の罪が処刑という重い罰であったこと、長老という権威に近い者であっても裁かれてしまったことは、それだけ言葉に重みがあったということを意味する。それに引き換え、嘘が明らかになっても、何ら裁かれることもない、今の政局は、どうなっているのだろう、あまりにも言葉に重みがないではないか、と思う。

(「https://cs.kddi.com/」より)
 裸体の女性と、異様に接近している中年の男たちが描かれています。
 1人は薄い布を掴んで引きはがそうとし、もう1人は「シーっ」という人差し指を立てるジェスチャーで意味ありげです。女性は男の腕を振り払おうと手で押し戻し、胸元を隠しながら涙ぐんだ目を天へ向けています。

神さま、どうか助けてください。

 助けを求めているような切ない絵のタイトルは、『スザンナと長老たち』。
 権力者である2人の長老が、人妻のスザンナによこしまな気持ちを抱くことから始まります。彼らは水浴中のスザンナを襲おうとしますが、拒まれたために、なんと姦通罪(かんつうざい)をでっち上げて死刑にしようとするのです!
 そこへ預言者ダニエルが歩み出て、長老たちに詰問し、2人の別々の証言が矛盾することを証明して、スザンナは無実が証明されるのです。
 大逆転で正義が勝つ!テレビドラマのような勧善懲悪なストーリーに、気分爽快になってしまう作品です。(「https://cs.kddi.com/」より)

2021年5月26日水曜日

忘れてはならない核兵器事故

 核兵器禁止条約が成立しても、核戦略は変更はない。朝日新聞デジタルの記事<「そのとき」を待つICBM 米軍基地で見た核発射訓練>を読むと、何気ない日常の背後で日々行われている訓練に想いを馳せてみると、これでいいのか、という思いが募る。
 考えてもみてほしい。何気なく使っている「そのとき」の重みを!!
 ICBMとは、大陸間弾道間ミサイルの略で、爆撃機や潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)とともに、米国の核戦力の三本柱の一つだという。世界のこれらの弾頭にある核兵器が、たとえ事故であったにせよ、一度発射されたらどうなるか、世界はどうなるか、想像していないのではないか、と思ってしまう。
 新訳「ラッセル=アインシュタイン宣言」でも書いたが、わが子や孫たちが、即死、そうでなければ、「病いと肉体の崩壊という緩慢な拷問を経て、苦しみながら死んでいく」ようになってしまう、かもしれないのだ。
 たとえ事故でも、と書いたが、『核文明の恐怖 原発と核兵器』(H.コルディコット著・高木仁三郎訳、岩波書店、1979年)によると、その時点で、「三〇年の間に、事故が一〇〇回以上も記録されて」いると、次のように報告されている。

 ここ三〇年の間に、事故が一〇〇回以上も記録されており、その中には、以下のようなケースがある。核装備をしたアメリカの潜水艦が、すでに何回もソ連の艦船と衝突している。核兵器を搭載したソ連の飛行機が、日本海に突っこんだ。ソ連のミサイル駆逐艦が黒海で爆発し、沈没したと伝えられる。またアメリカの飛行機が、誤ってスペイン上空で四個のブルトニウム爆弾を落としてしまったととも知られている。*
*アメリカは強く汚染した土を何トンも掘って、サウス・カロライナ州バーンウェルの溝の中に埋めたが、この土地は毎月一〇〇ミリも雨が降るので、サパンナ川にブルトニウムが流れ出さないかと心配されている。
 私たちの未来は、このように人為的な誤りに左右されかねないが、それだけでなく、人間感情のもろさも問題だ。向うみずな権力者や、ストレスを強く受けた人間が大惨事を起とすこともありうる。ニクソン元大統領が辞任する数週間のことであるが、ニクソンが核戦争のスイッチを押すのではないかと心配した政府の高官たちは、ボタンを取り去ってしまったと伝えられる。またブレジネフ首は、時には急性の精神発作をひき起とすコーチゾンを服用していた。(p110)
 こうした核兵器事故は、決して忘れてはならない。強くそう思う。それだけに残念なのは、『核文明の恐怖 原発と核兵器』のような本が絶版であることと、図書館でも開架書庫ではなく、閉架書庫にあったことだ。
 高木仁三郎で検索し、閉架書庫にあった『太陽とともに 自然と共存する技術』(ゴットフリー・ボイル著・高木仁三郎訳、社会思想社、1978年)という本も見つけた。読んでみたい本である。

2021年5月25日火曜日

全体主義は政治の消滅である

  ハンナ・アーレントの解説書『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(矢野久美子著、中公新書、2014年)に、全体主義に対するわかりやすい定義があった。

 人びとを人間として「余計な者」にすることと、多様でそれぞれが唯一無二の人びとが地上に存在するという人間の複数性を否定することが、全体主義の悪であった。ヤング・ブルーエルは書いている。
 全体主義は政治の消滅である、と彼女は論じた。すなわち、それは政治を破壊する統治形態であり、語り、行為する人間を組織的に排除し、最初にある集団を選別して彼らの人間性そのものを攻撃し、それからすべての集団に同じような手を伸ばす。このようにして、全体主義は、人びとを人間として余計な存在にするのである。これがその根源的な悪なのだ。(『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』、pII4〜II5)
 このような解説を読むと、全体主義というものは、不寛容といった生易しいものではないことがわかる。敵対者の否定であり、抹殺であった。そういう意味では、アウシュヴィッツ収容所の存在は、全体主義の象徴的存在なのかもしれない。
 その全体主義の対極にあるのが民主主義だとすれば、民主主義の破壊が進んでいる日本も、徐々に全体主義の方向に向かっている、ということもできる。注意しなければならない。

 この著書を通じて、矢野久美子氏の存在を知った。例によって、他の著書を調べ、その中から二冊を選んだ。そのうちに読んでみたい。
*『なぜアーレントが重要なのか』 、E.ヤング=ブルーエル著、みすず書房 、2008年
 内容紹介:政治とは、未曾有の事態の中で創造的に判断することである-。「全体主義の起原」「人間の条件」「精神の生活」を軸に、アーレントの思想の根源をとらえ、現代世界の緊迫の問題へと繋ぐ]

*『少しだけ「政治」を考えよう! 』、フェリス女学院大学シティズンシップ教育グループ編著、松柏社、2018年
 内容紹介:「政治」とはなんのためにあるのか。誰のためにあるのか、そして、「社会」は変えることができるのか-。フェリス女学院大学の教員有志が、こうした根源的な問いに若者が自分なりの答えを探すためのヒントを伝える。
 「第二の誕生と公共空間」:矢野 久美子著
 「私たちの私たちによる私たちのための政治」:常岡(乗本)せつ子著

2021年5月24日月曜日

日本のエネルギー技術の中心問題

 最近、ずっと積読だった全集物に目を通してみた。読み通すことはできないだろうと、飾っておくだけだったものだ。目次に目を通して、興味の持てた論文なり、書評といったエッセイ風の読み物を見つけた。それらを読み、それだけでも、つまり、何も多くを読み通せなくても、一つでも気に入った作品を見出せれば、全集の価値はあるんだ、ということがわかった。
 例えば『堀江正規著作集・6』(大月書店、1977年)には、「学問のすすめ」という論文があり、昔読んだ跡の赤線が結構引いてあった。今回は新たに、林雄二郎編『日本のエネルギー問題』の書評に得るところがあった。

 日本のエネルギー技術の問題についても、そこにある中心問題は、アメリカ帝国主義の支配とそれに従属する政府、独占資本の超過搾取、首きり、国内資源の荒廃化をもたらす技術政策、合理化政策に反対し、新技術の資本家的な適用のもたらす社会的な諸結果をおしかえすことである。そうすることによってのみ、労働者階級の生活をまもり、経済の民主主義的乎和的発展の方向と結びつくような技術問題の解決の展望がひらかれる。(p 188)
 結局エネルギー問題も、バイデン政権がどんなにつくろうとも、「アメリカ帝国主義の支配とそれに従属する日本政府」という認識が欠けていては真の解決には至らないであろう、ということを教えてくれている。
 しかし、2021年5月24日の朝日新聞を見ても、「中国の台湾統一が平和的なら認めるが、武力に訴えることは日米安保条約で牽制する」(藤田直央編集委員の記者解説)、と「台湾」に触れた日米首脳共同声明に触れた発言をしている。完全に帝国的側面が隠されてしまっている。こんな時だからこそ、資本論の価値を見直される必要があるといえよう。

2021年5月23日日曜日

軍備は制限の要なく唯撤廃あるのみ

 誰もにとっても、戦争は嫌だし、無くしたいと思っているだろう。そう思いながらも、ある程度の軍事力は必要だ、備えは必要だ、と思っている人が多いのも事実である。どうして、こうした矛盾が生じているのであろうか。 それは、戦争の根本原因を理解していないからでは無いだろうか。石橋湛山の「軍備の競争は、列国の帝国主義的欲望が已まざる限り、防止するを得ない」という言葉を知って痛感したことである。続けて、「最早軍備は制限の要なく、唯撤廃あるのみである」(『日本平和論体系・6』、家永三郎編、日本図書センター、1993年、p178)と書いている。まさに日本国憲法9条の先取りであろう。
 帝国主義とは、資本主義の発展段階のことだから、根は、資本主義と同じである。それゆえ、結局は、資本主義の本質を知らなければならない、ということになる。そこで、手元にあった『「資本論」刊行150年に寄せて』(不破哲三著、日本共産党中央委員会出版局、1017年)を読み始めた。書出しが、”資本主義社会では、「社会的理性」は
いつも「祭りが終わってから」はたらく”(『新日本新書版・6』p497〜498)という資本論からの引用から始まっていた。「社会的理性」という言葉を初めて知ったが、この本では、原発問題を例に、「社会的理性」というものを次のように説明していた。

(放射性廃棄物の処理に) どれだけの費用がかかるか、 誰も計算できないでいます。おそらく処理費用を入れると、 原発は経済的どころか、最もコスト高のエネルギーだという結論が出るのではないでしょうか。
 ここには「社会的理性」を失った資本主義の無責任さの、最悪の表れがあります。(p17)
 最も理性的とも言える日本国憲法を無視し、事もあろうに、理性的な部分を取っ払ってしまう改憲を企てている。そうして、コロナ禍でもあるにもかかわらず、「代替イージス、2隻9千億円(陸上の2倍)」といった無駄遣いを平気で計上しようと画策している。こうした動きは、「社会的理性」を失った資本主義の中に、根本的原因を見出せるし、見出さなくてはいけない。そう思った。

2021年5月22日土曜日

世界から泥棒国を無くなす

 日本には、数多くの平和論者がいた。彼らの業績は家永三郎氏によって編纂された『日本平和論体系』としてまとめられている。今回は、尾崎行雄氏の論文を読みたくてその六巻を借りたが、そこに石橋湛山の論文もあった。
 軍備の必要性を、泥棒に備えた戸締りに例えて説明されることがある。そうした議論に対する批判部分を読んで、その心地よい論理が素晴らしかった。読みやすくして紹介する。
 軍備は泥棒を防ぐ戸締りだと言うなら、何処かに其の泥棒のいる筈である。
 世界の各国が皆、おれは泥棒ではない、唯泥棒を防ぐ為に軍備をするのだと言うは、驚くべき矛盾である。彼等は、何でもない影を見て、泥棒だと恐怖しているのか、さもなくば互いに若しくは或国が、泥棒でありながら、ずうずうしくも白を切っているのか、いずれかでなくてはならぬ。
 そして、其の執れであるにしても、攻究すべき問題は是にある。何でもない影に恐怖しておるのならば、其の正体を明らかにする必要がある互いにか、又は或国かが、実は泥棒であるのならば、そんな泥棒などせずとも、互いに暮して行ける社会状態を作ろうではないか。
 若し世界の平和を真に愛好する者であるならば、必ずここまで其の考えは及ばねばならぬ。換言すれば、世界から泥棒国を無くなす、従って攻撃的軍備は勿論の事、防禦的軍備をも無用にする、ここまで突っ込んで行って、初めて彼は真に平和を顧念する者と言えるのである。
 我が軍備は、全く国防的である、其の必要は絶対的だとすましてる論者は、少なくも世界の個人主義者(悪い意味の)たるの非難を免れない。そはあたかも、己れの家は垣が高い、戸締りが十分だ、世間にどんなに泥棒がいたって構わぬ、と言う態度だ。彼には、自ら世界の先頭に立って、もしくは世界の人々と力を合せて、世界を、人の住み善い場所にしてやろうと言う意気がない、経綸がない。(p162)

 ここに、日本国憲法の精神が立派に存在しているのに驚く。「泥棒などせずとも、互いに暮して行ける社会状態を作ろうではないか」とか、「世界から泥棒国を無くなす、従って攻撃的軍備は勿論の事、防禦的軍備をも無用にする、ここまで突っ込んで行って、初めて彼は真に平和を顧念する者と言えるのである」である。このような文章を読むと、日本国憲法の中に先人の業績が集約されているような気がする。少なくとも、押しつけ憲法では無いことだけははっきりするであろう。

2021年5月21日金曜日

代替イージス、2隻9千億円(陸上の2倍)

 今朝の朝日新聞一面トップ記事見出しは「代替イージス、2隻9000億円 総経費、陸上の2倍 防衛省試算」だった。「昨年6月に配備を断念した陸上配備型迎撃ミサイルシステム『イージス・アショア』(陸上イージス)に代えて、政府が整備を決めた代替艦『イージス・システム搭載艦』2隻の総コストが、少なくとも9千億円近くと試算されていたことがわかった。計画当時に総コストが4500億円ほどとされた陸上イージスの2倍の水準となる。コストの総額は『1兆円規模まで膨らむ』(政府関係者)可能性がある」というのだ。
 しかも、「巨額の試算の存在は明かされぬまま、検討が進んでいる」というから、なお悪い。それでなくとも、コロナ対策で巨額の予備費を計上して使っているのだから、試算の経過は、国会に(国民の前に)明らかにすべきである。それができないというのであれば、二重の問題が生じてくる。
 一つは、議事録公開という民主主義の原則に反するということであり、二つ目は、国民に知られると困る「疾しい取引きであること」を認めているようなものだからである。今後の展開を注視していきたい。


「朝日新聞デジタル・2021年5月21日」より

2021年5月20日木曜日

閣議決定と強行採決という牙

 これまでの国会を見てきて、政府が行う「閣議決定」というものが一人歩きし、その力を増してきているのに違和感を抱いてきた。本来ならば、国会こそが最高機関として、その力があるはずなのに、「閣議決定」が、あたかも伝家の宝刀の如く、或いは水戸黄門の印籠の如く扱われてきてはいないか、ということである。
 こうした私の思いは、間違いではなかった。「縄で縛られているはずの巨人が私たちに向かって牙を剥き、強行採決や閣議決定になった・・・ということでしょうか」。 閣議決定されたら、「その後に国会で論議し、最終判断し、ときには閣議決定を発揮する。これが正しいやり方なのだという」(幸せのための憲法レッスン 教えて中馬さん!』、金井奈津子著[中馬清福述]かもがわ出版、2016年、p150)とあった。閣議決定と強行採決と同列に考えた憲法感覚に共感を覚えた。
 そもそも、野党議員やマスコミこそが「閣議決定」の扱いに異議をとなえるべきなのに、疑問視さえせれていないことは、情けないことだ。それだけ、憲法感覚、或いは人権感覚が鈍ってきているのだろうか?

2021年5月19日水曜日

議事録が民主主義国家を可能にする

 安倍政権で、公文書を軽視する風潮が増してきた感がある。野党が公文書を要求しても応じなかったり、無いと言っていたのが後からその存在が明らかになったり、極端な例は、シュレッターにかけて処分してしまったというものだろう。しかし、議事録などの公文書は、民主主義の前提であったはずである。なぜなら、民主主義は、粘り強い対話の積み重ねによって実現されていくものだが、その対話の積み重ねにとって議事録は欠かせないからだ。
 『 今こそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線』(池上彰・的場昭弘著、朝日新聞出版、2020年)でも、「議事録が民主主義国家を可能にする」という項目の中で、「法治国家であり、民主主義国家であり、なおかつ文明国家であることの前提条件として、記録を残す努力は、たとえ金がかかってもやっておく必要がある」(p227〜228)と書かれている。イギリスでは、200年の議会報告書がありだいたい図書館に入っている、という。
 考えてみれば、こうした民主主義の基本中の基本も理解し、守ろうとしない政党に、改憲の資格はない。民主主義の政治を実践できて初めて、改憲の資格ができるというものである。しかし、民主主義は必要ない、民主主義は邪魔である、という政党なら、もちろん改憲の資格が出てくる。その場合の改憲は、当然、憲法破壊を目指す改憲となるであろう。

2021年5月18日火曜日

孤高の花鳥画家・渡辺省亭

 NHK放送日曜美術館「孤高の花鳥画家・渡辺省亭」(2021年5月16日放送)を観た。知られざる天才と言われる所以は、弟子もとらず、どの美術団体にも所属せず、日展などの展覧会に出品することもなかったから、という。その技量は、天才と言われ、迎賓館に飾られた七宝焼の原画にも採用されたことからも推し測れようというものである。


 また、終生写生を続けたという渡辺省亭は、「昼夜寝食を忘れるくらいに画学に勉励しているので、枕元に紙や筆を置いたままにしておく。だから、いつも寝るのを忘れるくらいだ」というような文章を残している。こうした生き様が、自然と絵に滲んでしまうので、絵を前にした人々を感動させるに違いない。それにしても、凄い。



2021年5月17日月曜日

憲法九条を無視した”やみの再軍備”

 雑誌かなんかで吉川経夫氏の存在を知り、「松川事件の教訓」を読みたくて『吉川経夫著作選集 第5巻』(吉川経著法律文化社2001年)を借りたが、専門的すぎて読めなかった。しかし、私でも読める「憲法理念に忠実な判決 —— 最高裁、憲法九条の解釈迫らる —— 」とか、「裁判批判論 —— 専門家の偏見と素人の常識の対決 —— 」とかもあり、そのなかに、政府が行ってきた現在の軍備拡大路線を「憲法九条を真っ向から無視してやみの再軍備を強行」と表現しており、よく言ってくれたと心地よかった。以下に引用する。

 裁判所は政治上の問題に介入しないという名のもとに、憲法九条の解釈をタブーのようによけて通ろうとするのが、最高裁判所を始めこれまでの裁判所に共通した態度であった。そして、そのことが政府が憲法九条を真っ向から無視してやみの再軍備を強行するのを容易にするという大きな「政治的」効果を生んでいたことは否定しえない。このような従来の安易な態度を一てきして、与えられた法規範を厳正に適用するという裁判所本来の使命を忠実に果たしたものが、今回の東京地裁の砂川判決である。(p502) 

 さらに、駐留米軍に対する違憲性についても、次のように、わかりやすい表現で紹介していた。

 砂川判決の「要旨は、憲法九条は、自衛権を否定するものではないが、戦力の保持は自衛のためであっても一切許していないこと、日本政府が日米安保条約によって米軍の駐留を許容していることは、右の戦力保持の禁止に抵触し、したがって駐留米軍は憲法上その存在を許すべからざるものであること、右のように駐留米軍が憲法上その存在を許すべからざるものである以上、米軍基地への立入りを一般法規である軽犯罪法の規定以上に重く罰して基地内の平穏を一般国民の土地等の平穏よりも一層厚く保護しようとする刑事特別法二条は、憲法三一条の適正手続き条項に違反し無効である、というにあって、別に突飛な議論でも何でもない」(p502) 。

 法律の専門家である裁判官が「日米安保条約によって米軍の駐留を許容していることは、右の戦力保持の禁止に抵触し、したがって駐留米軍は憲法上その存在を許すべからざるものである」と断定している意義は大きい。この判決が「憲法の理念に忠実な解釈がなされた結果、当然に導き出された結論であるという点に大きな価値をもっている」(p503)

2021年5月16日日曜日

理想に燃えた憲政の神様・尾崎行雄

 もっと尾崎行雄のことを知りたいと思い、図書館にあった『尾崎行雄全集 第10巻』(平凡社、1927年)と、伝記、『平和と自由の理想に燃えて 民主主義と議会政治の父・尾崎行雄』(志村武著、高田三郎絵、PHP研究所、1983年)を借りてみた。 この伝記を読み、尾崎行雄が「日本議会政治の父」とか「憲政の神様」とよばれていたことを初めて知った。扉には「60年以上の歳月にわたって衆議院をつとめ、 民主主義による政治の実現と世界の平和のために一生をささげた尾崎行雄」と書かれていた。
 全集の回顧録には、「日本憲政の前途」というのがあって、そこに今日の解釈改憲のことが書かれており、その先見性に驚いた。

 立憲政体の骨子となるものは、正義と道徳の二である。もし国民全国の正義の力が、武力金力を圧するに足るだけに強くなければ、その基礎の上に立つ憲法は、何時破壊せらるるかも知れぬ。尤も其の破壊は形式において破壊せらるるか、或いは形式は其のまま存して、実態に於いて破壊せらるるか、いずれにしても破壊さるる事になる。(『尾崎行雄全集 第10巻』平凡社、1927年、p617)

 ここでいうところの「形式は其のまま存して、実態に於いて破壊せらるる」は、現在進行している解釈改憲そのものであろう。

2021年5月15日土曜日

比べなくとも価値ある自分に気づく

 心理学の本『まんがで身につくアドラー 明日を変える心理学―――誰でも3日で変われる』(鈴木義也著、あさ出版)を読んでみた。日本国憲法でいうところの「人間の尊厳」に通じるところもあって、感心し、見直してしまった。「アドラー心理学は、劣等感や優越感にとらわれる次元からの脱却を提唱しています。それは、劣っている、秀でているなど、という思いに振り回されない生き方です。すべての人は唯一で独自でありながらも対等で、尊重されるべき存在なのです。」(p185)というところである。
 結局、「すべての人は唯一で独自でありながらも対等で、尊重されるべき存在」であることに気づくことが大切なのであって、その気づきは、人と「比べなくとも価値ある自分に気づくこと」でもあったのだ。素晴らしい。
 「人は劣等感を何かで穴埋めしようとします。同じ土俵で勝てないなら他の分野で勝とうとします」
(p184)ということも書かれており、ここにこそ、ヘイトスピーチ等の根源があると納得することができた





2021年5月14日金曜日

世界永遠の平和と帝國の主張(尾崎行雄)

 朝日新聞の書評「憲法と個人 一人一人が『正直さ』を貫く 蟻川恒正」(2021年5月1日)で、尾崎行雄の存在を知った。「一読を薦めたいのが、『尾崎行雄 民主政治読本』である。日本国憲法施行直後に刊行された本書は、民主主義への清新な期待で貫かれている」という言葉に惹かれ、読んでみたくなったのである。幸いにも、この本は国会図書館サイトで、ネットでも読めた。
「道理の道を歩め、力の道を勧めば亡国の外はない」と忠告したのに、一切耳を貸さず、まっしぐらに、亡国街道をばく進した・・・」「私はこの本で、負けたいきさつをはっきり書き、こうすれば日本は立派な民主平和国家として、かならず生きかえるという道筋を自信を持って書く」(p6、要約)と初めに書いている。ここを読んだだけで、もっと他の本も読んでみたいと思って探してみた。そして、二冊の本を見つけた。いつか読んでみたい目次は次の通り。



  戰後の經營に就ての演説 侯爵 大隈重信/205
  時局に就ての演説 前司法大臣 尾崎行雄/210
  内外商況の概要及正金銀行の前途に就て 前正金銀行頭取 園田幸吉/224

  疾病の保險法 前内務省衞生局長 後藤新平/230
  世界永遠の平和と帝國の主張 尾崎行雄/242
  明日の婦人となれ 與謝野晶子/289
  我が歩むべき道 早稻田大學教授 武田豐四郎/322

2021年5月13日木曜日

さて何をなすべきか。

  今日も、素敵な言葉に出会った。ジャーナリストだった中馬清福さんが、落ち込んだ時に思い起こすという評論家・故加藤周一さんの言葉を紹介していたが、その言葉の中にあった。信濃毎日新聞の求めに応じて寄せられて原稿だという。

 さて何をなすべきか。少数派が未来の多数派になるように、意見を変えず、いつまでもひつつこく、憲法の平和主義を捨てず、戦争に死んだ友だちや親や祖先を忘れず、できるだけの小さな努力を重ねながら生きてゆくのが、よろしかろうと私は思う。
 これは悲観的な意見だろうか。とんでもない。少数意見の多数意見になる日を望んで暮らすことの他に民主主義というものがあるわけではない。人生に目標があり得るという考えは、悲観的どころか、むしろ楽観的な考え方であろう。
 これは非現実的な考え方であろうか。必ずしもそうではない。金もうけを人生の目標としても、その実現はむずかしく、井原西鶴も言ったように、貧乏人が金もちになる望みは現実的ではない。しかも金もうけへ向かう過程は明るくないだろう。しかるに民主主義的な目標へ向かう過程には、現実に日常的に、一種の明るさ、または温かさが伴うのである。(『日本の基地問題を考えてみよう』、
中馬清福著、岩波ジュニア新書、2009年、p213)
 この中の「憲法の平和主義を捨てず、戦争に死んだ友だちや親や祖先を忘れず、できるだけの小さな努力を重ねながら生きてゆくのが、よろしかろう」と、「少数意見の多数意見になる日を望んで暮らすことの他に民主主義というものがあるわけではない」という言葉に、私も励まされた。こうしたささやかな小さな努力を重ねながら、少数意見の多数意見になる日を望んで暮らす人々が、少しずつ少しずつ増えていき、多数意見になっていく。こうした動的な過程に民主主義がある。なんて素敵な言葉だろうか。

2021年5月12日水曜日

生活を根こそぎ破壊する戦争

 戦争の定義、あるいは、定義とまでは言わなくとも、戦争の実態を言い表した、説明した言葉はたくさん見てきた。その中でも、日常の何気ない平和な生活を「根こそぎ破壊するのが戦争なんです」(『幸せのための憲法レッスン 教えて中馬さん!』、金井奈津子著[中馬清福述]、かもがわ出版、2016年、p82)という言葉が、とびきり戦争の本質を言い表していると感じた。
 さらに考えておきたいことは、常備軍の存在そのものも、常備軍による戦争の準備過程そのものも、生活を破壊し、様々な権利侵害を伴うことである。沖縄での米軍基地被害状況が、そのことを最も見える形で教えてくれている。だが、普段はあまり見えないし、真剣に考えることもない。多くの日本人にとっては「よそ事」で済まされているだけである。
 また、憲法で保障された平等の観点からも問題がある。例えば基地騒音に悩んでいる人たちにとっては、法のもとの平等に著しく反していることになる。騒音のない生活を求める権利があるのだ。

2021年5月11日火曜日

洪水の日のあるのことを

 板倉聖宣著『発送法カルタ』の本を探していたら、書棚にあった『壷井繁治詩集』(飯塚書店、1975年)が目に止まり、手に取ってペラペラと読んでみた。そして、好きだった「朝の歌」という詩に出会い、それとの関連で、カントが「これでよし」と言って、満足して死んでいった話を思い出した。カントのような死に方(生き方)をしたいと思うようになり、カントの哲学にも興味を抱き、自分なりに読んできたことも。

生まれ変わったような
朝をむかえたい
その日かぎり
死んでも惜しくないような

「初心に帰れ」と言われるが、この詩に出会い、初心を思い出すことができた。 と同時に、気に入った新しい詩を発見した。「水 <水は方円の器に従う>」である。

どんな器の中にでもおさまって
音さえ立てぬやつ。
溜桶や、下水の中で、
ボーフラを育てるやつ。
流れを止めれば腐り、
腐ることで微菌を育てるやつ。
コップ一杯ほどの
溜り水を眺めて、
平穏無事だと考えているやつに、
水よ、
洪水の日のあるのことを知らせてやれ。(p108)

この詩を読んで、原発事故のことを思った。水のように何がなく電気を使っているが、「事故の日があることを知らせてやれ」と、この詩は教えているような気がした。

 

2021年5月10日月曜日

いま、改憲は不要不急だ

 朝日新聞夕刊コラム「素粒子」(2021年5月7日)に、「いま、改憲は不要不急だ 」とあった。全くその通りで、今は、なんと言ってもコロナか対策であろう。そもそも、憲法という大切な法典の審議は、しっかりと時間をとって熟議を尽くさなければならない。現憲法も、押しつけ憲法などと言われることもあるが、 「新憲法法案は、衆議院、貴族院合わせて100日間審議し、圧倒的多数で可決、承認されて」(『幸せのための憲法レッスン 教えて中馬さん!』、金井奈津子著[中馬清福述]、かもがわ出版、2016年、p65〜66)いるように、熟議を尽くして成立している。改憲だって同じである。
 もう一つ問題点がある。改憲についての世論調査では、賛成反対が拮抗していると言われているが、政策の優先度を問うた朝日新聞(2017年5月16日)の世論調査では、改憲は5%でしかない。この世論調査を加味すれば、改憲に賛成は、多く見積もっても3%になる。このような状態では、やはり「いま、改憲は不要不急」なのである。 

「朝日新聞、2017年5月16日」より

2021年5月9日日曜日

人は十分な時間を持っている

 また、古代ローマの話である。セネカは、”学問への情熱に満ちて”、幸福に暮らしているマルケルスのことを描きながら、幸福論を展開している。セネカが考えているような幸福な生活を送るものにとっては、人は十分な時間を持っている、ということなのだろう。
 逆を言えば、時を浪費し、十分な幸福感を得られなければ、人生は、あっという間に終わってしまうように感じるものなのかもしれない。
 それにしても、セネカやマルケルスなどを生んだ古代ローマのストア主義(哲学)とは、どんなものなのだろうか。ちょっぴり新たな興味が湧いてきた。         

 ミュティレネ( 27 で亡命生活を送るマルケルス( 28 に会った。彼は、人間の身にはこれ以上は許されないだろうというくらい幸福に暮らしていて、そのときほど、学問への情熱に満ちていたときはなかった。それゆえ(とブルートゥスは付け加えています)、異郷の地に残される彼よりも、彼を残して帰国する自分のほうが、異郷の地に追放されるかのようであった(「母ヘルウィアへのなぐさめ」『人生の短さについて』、中澤務訳、光文社古典新訳文庫)

2021年5月8日土曜日

近代民主主義の基本的精神

 セネカの『人生の短さについて』に新訳が出て、そこには旧訳版にはなかった「母ヘルウィアへのなぐさめ」が収録されていた。そこに、「徳」という言葉が出てきて驚いた。「悪徳」に対する「徳」だから、わかりやすい。「徳」という概念は、東洋だけでなく、もっと普遍的な概念だったのだろうか。
 そう言えば、孫文がアジアの文化について、アジアの文化は古く、古代ギリシャにも影響を与えたというようなことが書いてあったのを思い出した。もしもそれが真実ならば、「徳」という概念が古代ギリシャにあっても不思議ではない。
 並行して読んだ本に、フランス革命で示された近代民主主義の基本的精神である「自由・平等・友愛」という言葉があった。ここのところを読んだとき、「自由・平等・徳」の方が良いのではないか、と思った。この辺のことは、もっと考えて見る必要がある。
 どうして、そんなにたくさんのものを追い求めるのか。われわれの祖先を見なさい。彼らの徳は、今もなお、われわれが悪徳に染まるのを食い止めてくれる。だが、彼らの生活は決して豊かではなかったのだ。(「母ヘルウィアへのなぐさめ」『人生の短さについて』、中澤務訳、光文社古典新訳文庫)

2021年5月7日金曜日

憲法の価値を生かす努力こそ

 読み忘れていた、202153日、憲法記念日の朝日新聞社説「コロナ下の記念日 憲法の価値 生かす努力こそ」を読んでみた。そして、憲法の普遍的な価値を生かす努力こそ、と次のように結論づけていた。

 首相はバイデン米大統領との会談や日米豪印4カ国の首脳協議などの外交舞台では、中国への対抗を念頭に、人権や法の支配といった普遍的価値と民主主義の共有を強調する。これらが日本社会に深く刻まれたのは、現行憲法によってであることを忘れてもらっては困る。
 憲法に忠実に従い、日々の政権運営に生かす。それこそが首相に課された責務である。

 しかし、「改憲、拮抗する世論」と結論づけていた世論調査の解説記事には、納得できないところがあった。2017年5月16日の朝日新聞で行った政策の優先度を問うた世論調査では、憲法改正の優先度が5と低水準であったが、こうした視点での調査が抜けている点だ。こうした視点を加えると、決して拮抗している、、二分しているとは言えないはずだからだ。この辺のことは、後でじっくり検討してみたい。



2021年5月6日木曜日

"知のシャワー"を浴びる

 長い書名の本『「5日間で「自分の考え」をつくる本 —— 「君はどう思う?」に、一瞬で答える力』(齋藤孝著、PHP研究所、2014年)の、「書店で"知のシャワー"を浴びよ」という項目を、「図書館で"知のシャワー"を浴びよ」と自分に置き換えて読んでみた。よく図書館に行くからだ。なお、書名だけは換えなかった。

 とにかく図書館に立ち寄る習慣をつけることだ。以前、私は『10分あれば書店に行きなさい』(メディアファクトリー新書)という本を上梓したが、これは本心であって比喩ではない。
 ほんの十分でも空き時間があれば図書館に飛び込み、雑誌を眺めたり、新刊をバラパラめくったりする。それだけでも、ずいぶん知的な刺激を受けられるはずだ。図書館に身を置くことは、いわば"知のシャワー"を浴びるようなものといえるだろう。
 そもそも「考える」とは、何かに刺激を受けることだ。世の中には「知的好奇心が旺盛」と称される人が少なからずいるが、それは「考える力が強い人」と同意である。逆に「知的好奇心が弱い」「何に対しても興味を持てない」という人がいたとしたら、知性としては危険水域だ。(p141)
 今日は久しぶりに、30分くらい車を走らせて図書館の分館に行ってきた。書棚も、本の並びも新鮮で、「こんな本もあった」という新鮮な本との出会いが結構あって、こういうのを"知のシャワー"を浴びるということなのかもしれない、と一人で納得すると同時に、また、近隣の図書館に行って、"知のシャワー"を浴びてこよう! と思った。名付けて「図書館ウオッチング」なんてどうだろう。
 

2021年5月5日水曜日

防衛産業の食い物にされてたまるか!

 この記事を読んだ時、「お前もか、ブルータス」と、心の中で叫んでいた。ボブ・ケリー市長に対してである。つい最近、運転開始から40年を超える老朽原発の再稼働を福井県知事が同意したばかりだが、この場合も、地元の経済効果優先に考えての判断であろう。経済優先という点で、両者には共通項がある。だからこそ、「お前もか、ブルータス」と思えてしまったのだ。
 防衛とか何とか理由は後付けで、本音のところでは、こうした防衛産業という経済の力が働いている。これも、考えようによっては常識的認識の部類に入る。辺野古の米軍基地問題も、根は同じだ。そこまで見ないといけない。防衛産業の食い物にされてたまるか!である。

朝日新聞、2021年5月5日

2021年5月4日火曜日

新訳「ラッセル=アインシュタイン宣言」

 友人からメールで、「ラッセル=アインシュタイン宣言」の新訳が発表されたことを知り、早速読んでみた。そして、今や、国防を云々する段階ではないことを教えられた。今までは、日本人という狭い範囲ではなく、世界という広い世界でものを考える必要があると思ってきた。しかし、これからは、「特定の国や大陸、信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、ヒトという種の一員」として語り、考えていくことが必要だ、という。新型核弾頭の出現によって、人類という種の存続が脅かされてきたからである。
 新型核弾頭の出現によって予想されている惨事は次の通り

最も権威ある人々は、水爆を使った戦争は人類を絶滅させてしまう可能性があるという点で一致しています。もし多数の水爆が使用されれば、全世界的な死が訪れるでしょう――瞬間的に死を迎えるのは少数に過ぎず、大多数の人々は、病いと肉体の崩壊という緩慢な拷問を経て、苦しみながら死んでいくことになります。

 このところを読んだ時、わが子や孫たちが、「病いと肉体の崩壊という緩慢な拷問を経て、苦しみながら死んでいく」ようになったら、耐えられない、と思ってしまった。宣言でも、「危険は自分自身と子どもたち、孫たちに迫っているのであり、おぼろげに捉えられた人類だけが危ないわけでないことに、人々が思い至ること」の重要性を語っている。
 ではどうすればいいのか
 それは、
 自分が好ましいと思う集団を軍事的勝利に導くためにいかなる手段をとるべきか、ということではありません。そのような手段はもはや存在しないからです。私たちが自らに問うべき問題は、すべての当事者に悲惨な結末をもたらすに違いない軍事的な争いを防ぐためにいかなる手段を講じることができるのか、ということです。

 そして、

誰にとっても――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人、ヨーロッパ人またはアメリカ人であろうと、あるいは白人であろうと黒人であろうと――なにがしかの満足をもたらすような形で東西間の諸問題を解決しようというなら、これらの問題を戦争によって解決してはならない、ということです。

 改めて、こうした科学者の声に耳を傾けようとしない政治家を選んではいけない、と思った。詳しくは、新和訳「ラッセル=アインシュタイン宣言」https://www.pugwashjapan.jp/renew-russell-einstein-manifesto-wg)で

2021年5月3日月曜日

「崇高な遺産」としての原爆ドーム

 雑誌『PHP』で、2020年の1年間「藤城清治の影で尋ねる日本」が連載された。その中の、7回が「長崎山王神社の一本足の鳥居と大クス」8回目が「広島の原爆ドーム」だった。原爆ドームのことを「未来の平和のために遺した崇高な遺産」と表現されていたのが印象的だった。

広島の原爆ドーム
 ぼくが米軍の本土上陸間近い、九十九里浜の海軍基地にいた時、原爆が投下された。
 戦争の苦しみや悲しみも、やがて風化し、戦争を体験した人も少なくなるなかで、
 ぼくも年を取る毎に、原爆ドームを光と影で描きたいと思うようになった。
 原爆の熱と爆風の洗礼 洗礼を受けた煉瓦や鉄骨は、悲しく美しい無限のメッセージを持つ。
 原爆ドームは二十万人の命を犠牲にして、未来の平和のために遺した崇高な遺産だ。(『PHP』、2020年8月号)

長崎山王神社の一本足の鳥居と大クス(長崎県)
  山王神社の二の鳥居は原爆で片足が飛び、1本足で立つ姿がけなげで美しい。
 鳥居は一九二四年の建立で、ぼくの生まれた年と同じだけに強く胸を打つ。
 樹齢五百年と言われるクスの木も爆風で吹き飛ばされたが、奇跡的に新しい芽が出て
 今では日本の大クスになり、 人々の心を奮い立たせ、長崎原爆の唯一の生き証人になる。(『PHP』、2020年7月号)

2021年5月2日日曜日

長寿の画家と三昧境地

 芸術家に長寿の人が多いと言われている。そのためか、『長寿と画家 巨匠たちが晩年に描いたものとは?』(河原啓子著フィルムアート社、2019年)といった本も出版されている。この本に、なぜ、芸術家に長寿の人が多いかが分かるような文章が書かれていた。

 亡骸のような老人が、絵を描き始めてしばらくすると、先程とはまるで違う、息を吹き返えしたかのように幸福そうな男に変貌する。

 私はたえず製作しているか、さもなければ、制作の準備をしている。

 ここから言えることは、大脳、特に創作を司る前頭葉を積極的に使用すること、しかも、その過程に没入するほどに我を忘れた状態になることが長寿に関係しているに違いない、ということだ。
 日本語には、「三昧」という素晴らしい言葉がある。「三昧の境地」ともいう。三昧の境地になるほど創作に打ち込めるようになることが長寿の一つの条件なのかもしれない。

2021年5月1日土曜日

戦死やあわれ/兵隊の死ぬるやあわれ

 朝日新聞コラム「「天声人語」(2021年4月24日)で、詩人竹内浩三のことを知った。「代表作『骨のうたう』では、前線で命を落とした自分が遺骨となって帰国する。〈帰っては きましたけれど 故国の人のよそよそしさや〉。予言めく一節そのままに詩人は終戦の年の4月、フィリピン・ルソン島で命を落とす。映画を撮る夢はかなわなかった」(「天声人語」)。
 「天声人語」では、詩の一部分の紹介だったので、青空文庫で紹介されていた詩の全部を読んでみた。「国のため/大君のため/死んでしまうや」といった表現は、ある程度予想できても、「白い箱にて/故国をながめる/音もなく/なにもない/骨」とか「オレは日本に帰ってきた/帰ってきた/オレの日本に帰ってきた/でもオレには日本が見えない」といった表現にはドキリとした。「白い箱にて故国をながめる」ことを想像していたなんて、あまりではないか!
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった
どうぞ、安らかにお眠りください。
二度と同じ過ちは繰り返しませんから!
と、こうした無数の骨に手を合わせたい。