さらに現実にある常備軍の存在ゆえの悲劇に言及して、「われわれ世界の諸国民は、めいめいが軍備で針ねずみになった状態を当然として、なかばあきらめながらくらしている」(注)と書き記しています。戦闘機の騒音に怯え、米兵による度重なる暴行事件に怯えて暮らしている沖縄の状態は、まさに「軍備で針ねずみになった状態」そのものです。これからも、あきらめて暮らしていかなければならないのでしょうか。
否です。声を上げ、1日も早く、常備軍のない日本を実現しなければなりません。そのためにも、憲法第九条の旗を高く掲げて、「軍備による平和と安全の保障をやめて、非武装的方法、非軍国主義的方法によって、平和と安全」(注)を実現していくことです。
(注)憲法第九条は平和の理念と戦争の手段とがどうしても両立しない現実認識から出発している。この現実認識は、すでにたとえば、第一次大戦からイギリスの外相エドワード・グレイが、第二次大戦から日本の外相幣原喜重郎が引きだした結論であった。彼らが指摘したのは、軍備は安全を保障するどころか、すこし時間のはばをながくとれば、軍拡競争そのものが各国に反射しあう不安と恐怖を通じて、戦争の原因そのものになるという、かなりたしかな法則であった。戦争準備である以上、それは自明の理であるかもしれない。実際、ノエルーベーカーも指摘しているとおり、現在でこそ、われわれ世界の諸国民は、めいめいが軍備で針ねずみになった状態を当然として、なかばあきらめながらくらしているが、このような針ねずみ的武装におちこんだのは、近々七十年来のみじかい歴史にすぎない。それ以前、われわれの祖父たちはもっとちがった空気と状態のもとでくらしていたのだった。この状態は、軍備が軍備をうんだおかげである。
憲法第九条の論理的意味は、軍備による平和と安全の保障をやめて、非武装的方法、非軍国主義的方法によって、平和と安全をはかれと命じているところにある。(久野収著「第九条と非武装防衛力の原理」『世界』、1964年6月、p130)
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