2024年3月31日日曜日

発心正しからざれば

 道元の言葉「発心正しからざれば万行むなしく施す」を知ったとき、これだ!と思いました。この言葉が政治の世界に求められている、と思いました。政治の世界を見ていて、心のない発言が目立っていたからです。
 そこで、道元の言葉を政治の世界に置き換えてみました。すると、「発心が国民に向かざれば万行むなしく施す」となります。そういえば、太平洋戦争において政治家や軍部が国民に向いていれば。そもそも戦争は追いなかったに違いありません。辺野古への新基地建設問題も、住民無視で強行されています。政治家の「発心が国民に向かっていない」ので、当然の結果なのです
 道元の言葉の解説に「はじめの第一歩の方向が正しくなければ、先へ進むほど真理から遠のいていくということです」(「全超寺法話H18」より)というのがありました。「はじめの第一歩の方向が」国民側か、米国や資本家側かで、全く逆になります。だからこそ、政治家のリトマス紙として、「はじめの第一歩の方向性」というものを顧慮して欲しいものです。

2024年3月30日土曜日

軍国主義の復活?

 雑誌『世界』(2024年4月)で、ルポ「軍事優先社会」の連載が始まりました。この連載で、ミサイル用の大型弾薬庫が増設されることを知りました。弾薬庫の説明会を開いても、「『防衛上の機密で答えられない』『十分な安全対策をとる』と繰り返すだけで、私たちの不安に応えようとは」(p169)しない現実を前にして、「冷然たる軍事の力学が有無をいわせず暮しの場に踏み込んできている」(p169)」と結論していたのが印象的でした。これでは、「軍事優先社会」などという生やさしい表現よりも、「軍国主義の復活」の方がよほど相応しいと思います。
 軍国主義の行く末がどうなるかは、先の大戦で骨の髄まで学んだはずです。にもかかわらず、軍国主義を直走っている感じです。原子力発電所の事故の怖さを骨の髄まで学んだはずなのに、原発再稼働に直走っている構図と全く同じです。いる構図と全く同じです。この構図のおかしさに、早く気づくべきです。
 いずれにしても、このままいけば、次に述べるように、日本は「アメリカの軍事戦略の捨て石とされてしまう」のです。これだけは、戦争だけは、絶対に避けなければなりません。憲法の精神を生かすことこそ平和への道なのです。
 抑止のためと軍拡に走れば、仮想敵国とされた側も対抗し軍拡を進める。軍拡競争が緊張と対立を煽り、抑止どころか戦争を誘発するリスクが高まる。「安全保障のジレンマ」という。このままでは日本はこのジレンマにおちいる。仮に台湾有事となれば日本も壊滅的な戦禍を被り、アメリカの軍事戦略の捨て石とされてしまう。それは絶対に避けなければならない。(『世界』、2024年4月、p176)

2024年3月29日金曜日

国連による世界市民教育

 世界市民について、さまざまな視点に立って書いてきました。その過程で、古代ギリシャから発展してきてカントがさらに発展させ、現代に至って国連に受け継がれてきてきています。国連といえば安保理と単純に考えてしまい、戦争を止められない国連というイメージが支配的でした。しかし、国連の、人権教育や、世界市民教育を行うなど優れた側面を知って、とても勇気付けられました。
 例えば、人権教育とともに国連の重要な教育事業の一つである世界市民教育ついて、次のように説明されています。

 世界市民教育は、世界市民としての資質と能力を育成しようとする教育である。世界市民としての資質と能力とは、民族・国家を乗り越える世界市民意識をもって、正義・平和・容と包容・安全・持続可能な開発が約束される世界をつくっていこうとするものである。世界市民教育は、究極的に、政治的には遼遠の夢である「世界共同体」の実現をめざして、今日の地球社会において現れている悪循環を断ち切ろうとする努力である。(許宗烈著「人権・人権教育と世界市民教育」『多文化共生社会に生きる』、李 修京編著、明石書店、2019年、p287)

 前に、「市民的美徳という価値」について書きましたが、世界市民意識というのも、市民的美徳の一つになります。しかし、その価値を認め承認する人は少数です。とはいえ、国連の教育事業で取り上げられるまで発展してきていました。このような国連の取り組みを応援し、発展させることは、まさに平和教育そのものです。このような平和教育というものが徹底していけば、平和を守るという口実での軍拡の愚かさに気づくようになります。そうなれば、日本国憲法の理想実現が早まるというものです。

2024年3月28日木曜日

美輪明宏さん”お勧めの宗教”

 美輪明宏さん”お勧めの宗教”を知りました。彼が信じるのは己の心の中にある「自分の内なる善きもの」という神様です。その神様を信じ「内なる善きものを育てる習慣」を身につけましょう、という宗教なんです。なんてわかりやすい宗教でしょう。
 それでは、美輪さんのお勧めを聞いてみましょう。

 私は、自分自身が「自分」を救う信仰のほうをお勧めします。そのためには、理性を持つことが大事。「悲しい」「悩み苦しんでいる」「憎らしい」「愚痴りたい」など、感情的に心が煮えたぎっているときは、理性でいったん鎮めて、どのようにすればよいか冷静に考えるのです。
 私は気性が激しいほうでしたから、若いころは、感情に任せて怒ったり人を憎んだりもしました。そして、そういう生き方は心身ともに負担が大きかったのも事実です。でも己を見つめ直し、自分の内なる善きものを育てる習慣を続けた結果。生きるのがだいぶ楽になりました。
 おかげでこの歳まで、この世を穏やかな気持ちで過ごさせていただいています。(美輪明宏著、「善なる自分を見つめ直して」『婦人公論』、2024年4月号、p1)

 どうですか。
 この宗教観に立つと、日本国憲法の見方もやさしくなるような気がします。人は生まれながらに基本的な人権を持っていると言っても、考えてみたら少し抽象的でわかりにくいかも知れません。それよりも、人は誰でも「心の中に”善きもの=良心=徳=仁”」を持っている、と考えた方がわかりやしいです。そう信じることができれば、人と人と、互いに尊重し合うこともできます。
 まずは、美輪宗教の実践を心掛けて、”自分の内なる善きものを育てる習慣”を身につけていきたいです。そうして心が楽になれば万々歳です。

2024年3月27日水曜日

自分と丁寧に向き合う

 著書『人生を豊かにしてくれる「お金」と「仕事」の育て方』(松浦弥太郎著、朝日新聞出版、2010年)に、生涯のお守りになるルールが七つ紹介されていました。飾らないこと、真似て学ぶこと、嘘をつかないこと、約束を守ること、自立すること、欲ばらないこと、心を込めることの七つです。この中に、これから気をつけていきたいと思ったルールが二つありました。欲ばらないこと、心を込めることの二つです。
 欲ばらないこととして、まず思いうかんだのが食べ物の欲ばりです。「栄養をとらなければならない」という先入感があるためか、途中で橋を置くことに低抗感があるのです。しかし、腹八分が良いと言われているし、松浦氏は「腹六分目が僕のべストです」と書いています。やはり欲ばらず、せめて腹八分で橋を置くようにしてみたいと思いました。
 最も”心したい”と思ったのが心を込めることです。
考えて見たら、こうして文字を手書きしていても”いいかげん”になってしまい、従って文字も乱れがちでした。そんなことだからかも知れません。
 そう言えば、心をこめることと”丁寧である”ことは同意語です。それで”丁寧”を調べていて「自分と丁寧に向き合う」という言葉を見つけました。そして、自分とも、妻とも、心を込めて、丁寧に向きあってこなかったのかもしれない、と痛恨の思いがしました。それに、人生そのものも、丁寧な人生と、そうでない、”がさつ”な人生というものがありそうです。できるなら丁寧に人生を完うしたい。そう思いました。

2024年3月26日火曜日

ロシアの軍国主義思想

 朝日新聞の国際面下方に小さな記事で、「ウクライナ全土でロシア軍による電力施設を標的にした攻撃が続いている」ことを伝えていました。しかも、「ゼレンスキー大統領は24日夜、過去1週間にロシア軍がミサイル約190発とドローン(無人航空機)140機、約700の誘導空中弾を発射したと公表した」というのです。
 これだけの報道では、どれだけの停電が発生しているか不明ですが、相当の停電が発生して多くの市民が困っているはずです。いくら戦争とは言え、一般市民を標的にした悪質な攻撃です。
 一方で、日本政府による戦闘機輸出解禁の合意がニュースになっています。ロシアの行為は許せないのなら、日本政府のこの行為も許せないはずです。ロシアがミサイル攻撃で被るであろう市民の被害をなんとも思っていないように、戦闘機による攻撃で被るであろう市民の被害をなんとも思っていないからです。
 そもそも、ロシアも日本政府も、紛争解決の手段として「武力による暴力」を用いようとしている点で、両者は同じなのです。だから、ロシアという国を批判するなら、軍国主義の思想そのものが批判されるべきだと思うのです。

2024年3月25日月曜日

世界市民の質を高める

 物事には原因と結果があります。歴史とて同じです。その社会の歴史を一つの運動と考えることもできます。では、その運動のエネルギーは、運動の原因はなんでしょうか。運動が複雑で、そう単純に表現することは難しいかも知れません。それを承知で言うと、

 国家原理と経済のシステムが一体となっているということです。このふたつが達動して、地球上にあるひとつのシステムを蔓延させている。そういう社会が、暗礁にのりあげているのが現代です。(『縄文聖地巡礼』、坂本龍一著、木楽舎、2010年、p9)

 このように「国家原理と経済のシステムが一体となっている」ところに、産軍複合体という軍事経済がガッチリと手を結んで社会を動かしているのではないでしょうか。そこにメスを入れないことには、戦争をなくすことはできません。
 では、どうすればメスを入れることができるのでしょうか。 やはり、「全世界の構成員(世界市民)の質を高めること」です。そうすれば、「社会が暗礁にのりあげている」ことを理解できるようになり、軍事力では平和を築くことができないことを理解できるようになり、日本国憲法のかけがえのない価値を理解できるようになるからです。

2024年3月24日日曜日

市民的美徳という価値

 新しい概念として、「市民的美徳という価値」というものを発見しました。発見というにふさわしい出会いでした。次の言葉の中で使われていたのです。市民的美徳という言葉は、「民主主義」、「社会参加」、「相互尊敬」といった言葉の上位概念ということがわかったのです。
「民主主義」、「社会参加」、「相互尊敬」そして「連帯」といった市民的美徳が、それぞれの社会の力となっているように、(『「成長の限界」に学ぶ A・ペッチェイ:21世紀への行動指針』、A・ペッチェイ著、2000年、p60)
 この「市民的美徳という価値」の中には、人権とか平和といった憲法的概念も含まれます。そして、「市民的美徳という価値」にとって「人類が唯一の頼りとすべきことは、全世界の構成員の質を高めることにあります。そうすることによって、(人類)自らが解き放った技術と言う虎を乗り越える方法を学べば、機械ではなくて、人間が明日の主役となることができるはずです(上同、p60)。資本(お金)に人間が従うのではなく、人間に資本(お金)が従うようになる、とも言えます。
 ここで、カントの啓蒙について、や、ニーチェの超人についての考察が力を発揮するような気がします。カントやニーチェも、結局は「全世界の構成員の質を高めること」を目指したと思ったです。

2024年3月23日土曜日

総合的な国防という視点

 現代社会において、国防といえば軍事力のみが重視されています。ウクライナ戦争を契機とした防衛費の増加のみが議論されているのもそのためです。そうした傾向に疑問を抱いていましたが、ようやく疑問が解けました。現代において「戦争は人間生活のあらゆる部門がこれに動員集中され、国民の世界観を土台として政治、経済、思想、文化および軍事のあらゆる活動が総合されるようになった」(『現代の戦争』 、高木惣吉著、岩波新書、1956年、p188)のです。
 だとすれば、国防も軍備だけでなく、「政治、経済、思想、文化」など総合的な対応を講じられるべきです。教育予算や文化予算も増額させ、抜本的な改革がなされるべきだったのです。そうして軍備費用の相対的比率を徐々に下げていくのです。そうして憲法の理想に近づいていければいい。ようやく光が見えてきました。
 そういえば、太平洋戦争時に、米国と日本では「経済的などの国力の差が歴然だった」にもかかわらす開戦に踏み切ったことが敗戦の大きな要因であったことは有名な話です。この度も、”総合的な国防という視点を忘れて”軍事費のみに目を奪われていては、真に国民を守り切ることはできないのです。
 戦争は主として武力が中心となり外交、経済、思想、文化などは補助手段として武力に奉仕し、これを援助するものと考えられた。(中略)それが第二次大戦となると初めから戦争は人間生活のあらゆる部門がこれに動員集中され、国民の世界観を土台として政治、経済、思想、文化および軍事のあらゆる活動が総合されるようになった。これを現代戦争とよぶようになったのである。(『現代の戦争』 、高木惣吉著、岩波新書、1956年、p188)

2024年3月22日金曜日

戦争による破局を防ごう

 人類にとって「戦争の惨禍は避けられないのか?」という問いは、多くの人が抱えている問いに違いありません。二十一世紀に入ってからもなお、地球上で戦禍が続いているからです。
 それでは、「戦争の惨禍は避けられないのか?」という問いに、どう答えたらいいのでしょうか。そのヒントになる言葉を見つけました。戦禍を繰り返すであろう原因について考察した次の言葉です。この言葉の逆を行けば、戦争の惨禍は避けることができる、戦争をなくすことができると思ったのです。
 指導者たちにとって「世界の将来も他国民の生活もかれらの関心に値せず、もっぱら心をうばわれるのが国境、民族、勢力のバランス、版図の拡大、仮想敵を弱めること、報復、戦勝国の負担を戦敗国にかたがわりすることいがいにない」(J・M・ケーンズ)とすれば、世界はなおいくたび戦争の災禍をくりかえしても足らないことであろう。(『現代の戦争』 、高木惣吉著、岩波新書、1956年、p202)
 この言葉と同じような言葉「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」を、マルクスは残しています。今注目の若手研究者の斎藤幸平さんは、この言葉を紹介した後、「いまや、『大洪水』という破局がすべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取りみが資本主義との対峙なしに実現されないことは明らかである」(『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』(斎藤幸平著、堀之内出版、2019年、p23)と書いています。そうなのです。戦争による破局も、資本主義という病と対峙しながら将来世代と他国の国民生活にも関心を寄せ(着眼大局)、その上で必要な対策を講じてこそ、(着手小局)防ぐことができるのです。「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」は、なんとしても防ぎたいものです。

2024年3月21日木曜日

ゲーテの憂い

 ゲーテの詩「憂い」をさっと読んだだけでは、その良さがわかりませんでした。なんとなく心の網にかかったので、書き写しながらじっくり読んでみました。そこで初めて、ゲーテの心の浮き沈みが描かれていることがわかり、心の葛藤を経ながらも、幸福を求め、気高く生きようとする強い意志を感じることができました。そして、その強い意志に、この詩のいちばんの魅力を感じました。あのゲーテも迷うんだ、という人間臭さも魅力です。迷ってもいいんだ、弱い面が前面に出ることがあってもいいんだ、と。

憂い
憂いよ、私の住む世界へ、
絶えず姿を変えて、もどって来るのをやめよ!
おゝ、私のなすまゝにまかせ、
私に幸福を与えよ!
私は逃げるべきか、幸福をつかむべきか。
今はもう疑いはたくさんだ。 憂いよ、
私を幸福にしてくれないのたら、
せめて私を賢くしてくれ!

 若松英輔著「言葉のちから:思索への道~ショーペンハウアーの読書論」(『朝日新聞』、2023年7月8日)に、「思索なき読書とは、情報や知識のための読書であり、虚栄のためのそれでもあるかもしれない。こうした『なぞる』読書をしているとき、・・・」とありましたが、詩をさっと読んだだけでは、それは「なぞる」読書でしかなかったのです。もともと詩は、「なぞって」おわりにしてはいけないのかも知れません。

2024年3月20日水曜日

戦争の申し子プーチン

 ウクライナ戦争のことになると、「どうして世界はプーチンの一方的な戦争行為を、ウクライナへの侵略戦争を阻止できないのか」という議論になります。そして、極論としてプーチンを暗殺説まで現れます。しかし、そうした意見に正面きっての意見することができずにいました。国連の安保理構成国にある拒否権が障害になっている、というのが精一杯だったのです。
 そんなとき、 『軍事基地 』(高木惣吉著、弘文堂、アテネ文庫、1951年)に出会い、「プーチンは、戦争の申し子に過ぎないのではないか」と思うようになりました。次の引用にあるように、「戦争の原因でもあり準備手段でもあり、また作戦の直接方法でもある基地」がある限り、第二、第三のプーチンが現れ、「無防備の都市も無辜の市民も一切合切なんの仮借も与えられず殺戮の対象」となる戦争を始めてしまうであろう、と思えたからです。だから、絶対平和主義の日本国憲法の先見性を再認識することができました。

 騎士軍の戦闘はいわば一騎打ちの総和であり、個人の勇気と武術とが決定的であって、全体の統一的な駆け引きはあまりみられなかった。・・・・三〇年戦争から戦争形態は一戦ごとに変わった。
(中略)
 第一次大戦の末期から第二次大戦になってさらに大々的に空陸の機械兵士による機動戦が復活し、しかも無防備の都市も無辜の市民も一切合切なんの仮借も与えられず殺戮の対象とされるようになったのである。(『軍事基地 』、高木惣吉著、弘文堂、アテネ文庫、1951年、p54~55)

 第一次大戦は市民階級滅亡の第一歩を踏み出したことになったが、第二次大戦は市民階級国家間の相互抹殺の戦いとも見ることができる。
 かく戦争の形式も手段も時代とともに移ってきわまるところがない。従って戦争の原因でもあり準備手段でもあり、また作戦の直接方法でもある基地の争奪、用法、性格というものもまた時代とにつれて変化することは当然で、・・・将来も引き続いて変遷を重ねるものと見なければならない。(上同、p56)

2024年3月19日火曜日

人間が犯す最大の愚行(凶行)

 市立美術館の常設展で、一冊の版画集ジャック・カロ作『戦争の惨禍』が目に止まりました。展示されていた版画が、「絞首刑」という殺した遺体を木に吊るした酷たらしいものだったからです。

ジャック・カロ作「絞首刑」

 早速、ジャック・カロについて調べました。そして、一連の戦争画が、「これはまさに画家として経済的に独立していたカロにしかなし得なかった、視覚表現史に特筆されるべき画期的な作品でした」(『ジャック・カロを知っていますか? バロックの時代に銅版画のあらゆる可能性を展開したジャック・カロとその作品をめぐる随想』、谷口江里也著、ジャック カロ絵、未知谷、2023年、p248)と評価されていることを知りました。
 また、戦争画の多くは戦勝画でした。「ところが『戦争の悲惨』(注)には、人間が犯す最大の愚行であり凶行である戦争がもたらすさまざまな悲惨と悪行が描かれていました」(上同、p249)。このようにジャック・カロは戦争画を通して戦争の本質を訴えて(伝えて)いますが、『ジャック・カロを知っていますか?』の著者谷口江里也さんは、言葉を通して見事に戦争の本質を伝え、訴えてくれていました。世界で戦禍が止まない現実を前にして、耳を傾けたい言葉です。
 注:美術館では『戦争の惨禍』とあって書名が違うのは単なる訳の違いかもしれません。
 
 そこに描かれているのは殺戮や掠奪などの非人間的かつ極限的な暴力であり醜悪な悪行です。そしてそれが戦争という現実だということが画面を通して痛々しく伝わってきます。勝利や勇気や栄光や正義などといった、しばしば戦争というものと共に用いられる言葉がもたらす勇ましい響のようなものは、そこには微塵もありません。(上同、p249〜250)

2024年3月18日月曜日

絵画における普遍性

 日曜美術館の「春 はじまりの旅 アート×坂本美雨」(2024年3月24日放送)で、坂本美雨さんがとても印象的な言葉は語っていました。
 そのうち一つは、彫刻家朝倉文夫の猫のスケッチを前にして語った言葉です。「スケッチが大好きで、いいなと思った瞬間の衝動だったり、まだ完成していないワクワク感というか迷いだったりがスケッチには現れるから、探っている最中って魅力的ですよね」と、だいたいそんな内容の話でした。

ベルト・モリゾの「ベランダにて」
 次は、ベルト・モリゾの「ベランダにて」を前にしての話です。「同じ頃の娘がいるので、母心がくすぐられます。(多分そんな表現)娘に会いたくなっちゃった。同じ時代にいるかどうかに関係ないです。そこから何を感じ、通じ合えるかで、100年、200年経っても通じ合える」という話を聞きながら、これこそ”芸術の普遍性”である、とアリストテレスの「芸術における普遍性」について、思い出していました。
 芸術は、アリストテレスによれば、・・・日常世界の内に雑多な形で生起している様々な偶然事や夾雑事等も含まれたその世界の「一切」をそのまま語ることなく、それらの偶然的なものや夾雑的なものを捨象することによって、日常世界の内奥の本質的な相を浮かび上がらせるのです。普遍性の次元に入り込むことによって、芸術は、世界の内在的な本質に達するのであり、その本質の次元における「偶然」的でない関係即ち必然的ないし蓋然的な関係――をもった一連の出来事を作品化するのです。芸術が、「現実を凌駕」するのは、まさしくこのようにしてなのです。(『西洋芸術の歴史と理論』、青山昌文著、放送大学教育振興会,、2016、p69、下線は引用者)
 ここでも「夾雑的なものを捨象」していますが、それは顔の表情とか服装など、多くの”夾雑的なものが捨象”され、少女の内奥にある”本質的な相”が浮かび上っています。

2024年3月17日日曜日

今後40年のグローバル予測

 未来予測に関心を持っていたので、『2052 今後40年のグローバル予測』(ヨルゲン ランダース著、野中香方子訳、日経BP社、2013年)を読んでみました。地球は人類を何人まで養うことができるのか?この先、食料とエネルギーは足りるのか? 再生可能エネルギーへの切り替えは成功するか? などが論じられていますが、私がもっとも知りたい防衛問題については、一言も言及されていませんでした。残念です。防衛問題なしの未来予測は、信憑性が下がります。
 しかし、原子力については、「原子力発電の終焉」という項目もあって評価できます。ただ、廃炉作業の困難さ、廃棄物処理の問題点なども言及してほしかったです。
 防衛問題について触れていないと書きましたが、「核戦争」についてだけ、次のような簡単な予測がありました。しかし、被害の程度はこんなものじゃない、人類の終焉をもたらすかもしれないほどになる、そんな予測を読んだ記憶を思い出しました。核戦争も被害予想について、もっと科学的な検討が必要ではないでしょうか。この点も、今後の課題です。すでに検討されている内容を探してみます。  

核戦争
 もしだれかが、何か厄介な問題を決着させようとして、巨大な核爆弾をいくつか落としたらどうなるだろう? あなたが思うほどひどい結果にはならないだろう。核戦争は瞬間的に耐え難い痛みと苦しみをもたらし、その放射能は非常に長い間、人々の生活に負荷をかける。
 しかし、世界人口と経済への直接的影響は、ごく限られたものとなる。もし爆弾が一億人を殺すとして(現実に起きたら、被害はその10分の1程度だと私は思うが)これは世界人口の1・4パーセントに相当し、すべての年齢層を同じ割合で殺すと仮定すると、世界のGDPへの影響の割合も同じである。爆弾は世界の経済成長を(成長率が年2パーセントだとして)8カ月後退させ、人口の増加を(成長率が年1・4パーセンだとして)12月後退させる。それは前項で議論した深刻な景気後退よりも、気候変動を止める効力は少ない。
 繰り返すが、核爆弾がもたらす苦しみは計り知れず、まったく無用なことである、そして何の罪もない人たちが、その災厄を背負わされるという理不尽は許しがたい。(p334)

2024年3月16日土曜日

世界市民を求めて

 かつてはの日本には、日本人という意識よりも、村人、あるいは藩の人という意識の方が主流でした。しかし、社会が発展するにつれて、日本人という括りの意識が定着してきました。そうして初めて、日本人同士で争うこともなくなってきました。
 同じように、世界市民という意識が広まれば、国と国の争いもなくなるに違いない、そう思い、世界市民について言及した本を調べてみたいと思っています。カントには『教育学』や『フリードレンダー人間学講義』といった著作もあることを知りました。そして一つの疑問が生じました。次の引用でカントは、「今世紀の中で人間性の完成の向上のために現れた・・・」と書いています。それでは、カントやニーチェが描いた「人間性の完成」とは、どのようなものだったのでしょう、という疑問です。「道元禅師の悟り」で書いた、禅でいうところの「真我」とは、どのように違うのだろう、という疑問です。これからの課題です。
 カントの『教育学』については、しばしばルソーの『エミール』からの影響が指摘されるが、パセドウからも、ルソーに勝るとも劣らないほどの影響を受けている。
 カントによるバゼドウ評価の最も詳細な記述は、『フリードレンダー人間学講義』に認めることができる。カントはそこで汎愛主義教育の長所をまとめあげ、バゼドウの試みと汎愛学舎は、「今世紀の中で人間性の完成の向上のために現れた最も偉大な現象である」(XXV722-723)と述べて激賞している。さらに、ここで挙げられた汎愛主義教育の長所と同じ主張は、カントの『教育学』でも論じられており、カントは自身の教育論にバゼドウの主張を引き継いでいる。(大森一三著「世界市民教育としての哲学」『哲学の変換と知の越境』、牧野 英二編、法政大学、出版局、2019年、p257)」

2024年3月15日金曜日

道元禅師の悟り

  数学者岡潔さんの随筆「憲法の前文を読んで」を読んでみました。すると、いきなり道元禅師の言葉から始まり、最後に、「各人が、真我が自分だと十分に自覚し、それに基づいて行為するならば、政治はいらない」(『岡潔集 第2巻』、岡潔、学習研究社、1969年、p177)と言いきっていて驚きました。
 では、道元禅師の言葉と、岡潔さんの解説を読んでみましょう。

 自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり。迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず、しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」(道元禅師『正法眼蔵』上、岩波文庫)
 真我が自分であって、自我は本能(無明)の描かせるまぼろしにすぎない。このまぼろしの乱舞する世を実在と執するのが迷いであって、これが迷いだとわかれば悟りである。この上の悟りもあるが、これで一応悟りといえるのである。
 欧米人は自我を自分だとしか思えないらしい。だからキリスト教はお前たちは罪人だ、と訓(おし)えたのである。このことは、文化の暗黒時代といわれるローマ時代にことにはなはだしい。(上同、p176−177)

 これを素直に読めば、近代思想の基礎とも言える”自我はまぼろし”にすぎない、のである、だから、「各人が、真我が自分だと十分に自覚し、それに基づいて行為する」ことが大切であり、そうなれば、政治はいらない、というのです。この思想は、考えようによっては、近代思想の否定を意味するように、私には思えます。その真偽は、「真我が自分だと十分に自覚」してみることでしか、確かめることができません。新たな課題が出てきてしまいました。

2024年3月14日木曜日

縄文時代の豊かさ

 縄文時代に関心を持つようになった経緯は「平和という『記憶の古層』」に書きましたが、調べるほどに縄文時代の豊かさに驚いています。

「『ときめく縄文図鑑』、p27」より

 一番驚いたのが、合掌土偶(『ときめく縄文図鑑』、譽田 亜紀子文、山と溪谷社、2016年、p27)の存在です。多分”祈り”を表現しているのでしょう。死者を埋葬する習慣があったことは知られていました。その際に合掌していたのです。自然発生的に合掌という行為を発見したのでしょう。それにしても、こんなに古くからあったとは、驚きと同時に、合掌を大切に、習慣にしたいと思いました。

土版、秋田県鹿角市・大湯環状列石 鹿角市教育委員会蔵 高さ6cm 

 次は、土版という「数の概念を持っていたと思われる」ものの存在です。穴の数が、1〜5まで揃っているのですから(偶然とは思えません)、足形や手形まであるのですから、5までの数があっても不思議ではないはずです。

 粘土を板状にして焼いたわずか6cm の土版です。前面と思われる面には、棒を突いて作った大きく空いた口と目が見て取れます。そして気になるのが、その下に点で施された模様。正中線に見える身体の中央を貫く5つの点。そして、その両脇には3つと4つの点があり、後ろの面には6つの点があります。口が1つの点、そして目が2つの点だとしたら、これは一体何を意味しているのでしょうか。
 縄文人は数の認識を持っていて、それをこの土版に記したという説もあります。いずれにしても、数で顔を表現するというお茶目さにきゅんとなります。 (『ときめく縄文図鑑』、p 77)

 最後は、やはり、「縄文時代の遺跡を観察してみると、紆余曲折はありながらも続いた1万年以上の長い時間のなかで、大規模な争いがあった痕跡は見つかっていません」(『ときめく縄文図鑑』、譽田 亜紀子文、山と溪谷社、2016年、p6)という事実です。こうした縄文時代の平和の遺伝子は、しっかりと日本人に引き継がれているに違いありません。

2024年3月13日水曜日

恐ろしい松川事件

 松川事件という冤罪事件があります。「戦後最大の冤罪事件、松川事件」や「仕組まれた冤罪事件」でも触れましたが、死刑の判決があってから、十四年の歳月を経て全員の無罪になった事件です。
 事件があったのが1949年8月17日で、1950年12月6日に行われた一審では、五人が死刑、二人が無期懲役など、十七人が有罪の判決でした。その日の法廷の様子は次のような”異様な雰囲気”だったようです。

 一二月六日、早朝から福島地裁は二〇〇人の武装警察隊で包囲されていた。判決公判(第九五回公判)は冒頭から大荒れであった。判決はまず、主文において各被告に対する量刑を宣告し、ただちに理由の朗読に移った。しかし、長尾裁判長は判決文を読んでいるはずなのに、それは検事論告とまったく同じもののようにきこえた。被告たちは、狐につままれたような顔になった。大塚弁護人は、被告が紙片に書いてまわしてきた質問にこたえて「検事論告を読みあげてから、それに対する判断に入るのだろう」と書いて返事したくらいだった。それでも、おかしい。⋯⋯
(中略)
 この日の判決は、判決言い渡しの朗読の途中で読み方がわからなくなって合議するというような前代未聞の状況の中で、下されたということが特筆される。そればかりか、弁護団は即日控訴し、判決謄本の請求を行ったが、二週間後に催促に行った時点でも判決原本を裁判官が書き続けていたという。五人の被告への死刑判決は、未完成の草稿で言い渡されたことになる。(『松川裁判から、いま何を学ぶか』、伊部正之著、岩波書店 、2009年、p80〜81)

 ところが、このように五人もの死刑判決を下した長尾裁判長でしたが、なんと長尾裁判長は、名古屋高裁に栄転はしたものの、「転任しても全く出勤せずに、神経衰弱が昂じて・・・神経精神科に入院するハメに」なってしまったというのです。伊部正之氏は「不明朗な判決や栄転が心の負担になったのか」と書いていますが、何よりも、冤罪で五人もの死刑判決下したこと自体が大きな心の負担だったに違いありません。このこと一つとっても、松川事件は恐ろしい事件です。

 ところで、すでに見たように、一審の裁判長は長尾信であった。長尾は裁判所の給仕から裁判官に任用された、いわばノン・キャリアの地方裁判官であった。にもかかわらず、一審で有罪判決を下した後、長尾は欠員のない名古屋高裁判事にすぐに栄転するという破格の処遇を受けた。しかし、長尾は不明朗な判決や栄転が心の負担になったのか、名古屋高裁に転任しても全く出勤せずに、神経衰弱が昂じて、四月一四日に名古屋大学医学部附属病院の神経精神科に入院するハメになった。(上同、p84)

2024年3月12日火曜日

平和という「記憶の古層」

 映画『この世の名残夜も名残 杉本博司が挑む「曾根崎心中」オリジナル』(NHKエンタープライズ、2012年)の中で、杉本博司が「記憶の古層」という言葉を使っていました。「私が写真という装置を使って示そうとしたものは、人間の記憶の古層」だというのです。しかもその古層は、縄文時代まで遡っていたのです。
 日本の縄文時代は新石器文化の中では極めて長く続いた、というところがクローズアップされて私の中に飛び込んできました。
 今までは、日本人の古層として徳川時代300年を考えて、そうした平和な時代の「記憶の古層」が働いて、戦後日本の平和が続いてきたと思ってきました。しかし、縄文時代の10000万年にもわたる平和が「記憶の古層」としてあるならば、そうした過去に思いを馳せて、その「記憶の古層」に自信を持つべきではないかと思います。
 例えば、縄文時代が長く続いた理由として、平和であったことを次のように語られていました。

 もう一つの条件は、大きな争いや戦争が無かったということでしょう。縄文時代の遺跡を調べても、戦争の跡はもちろん、武器と言われるようなものが出土したこともありません。出てくる武器らしいものは、畑を耕したであろう石斧、薪を割つた石製の手斧、それと、簡単な弓、石製の矢じりくらいのものです。それも極めて少数です。(『縄文時代驚異の科学』、P16−17)

 これだけでは、まだまだ資料が少ないかもしれません。しかし、豊かな自然に恵まれていたことは事実です。それゆえ、争う必要もなかったのかもしれません。

2024年3月11日月曜日

世界最高齢のサーファー

 AsahiWeekly(2023年4月9日)で、89歳で「世界最高齢のサーファー」認定を受けた佐野誠一さんのことを知りました。世界でも話題になってい流ようで、AP通信によると、「人生の前半は会社経営で忙しかった佐野誠一さん」は、「新しい人生を踏み出そうと80歳のときに富士山登頂を果たした。それには飽き足らず、ほぼ間髪入れずにサーフィンを始めた」と言います。
「今後もさまざまなことに挑戦する意欲を示し」、「(このような目標を持つことで、自分の体をより大切にすると思う。以前よりも自分のことを大切にしている)とチャレンジすることの大切さを伝えて」(p36)
ました。
「AsahiWeekly(2023年4月9日)」より
 ここで思い出したことがあります。広島で被爆し、医師から死の宣告を受けたのに、病院から抜け出し、偉業を成し遂げた小松茂美さんの逸話です。
 小松青年は、「死にたくない」と、一心に思いつづけた。そのとき、白血球が最低八百、最高二万であったが、彼は、勝手に退院してしまった。
 病みあがりの彼は、ある日、広島駅まえのヤミ市の古本屋で、池田亀鑑の『古典の批判的研究に関する研究』という本をみつけて、七円をだしてかった。給料四十六円のなかから、二十円をだして、藤原定家のうつした、『後撰和歌集』の写本を、かったこともある。焦土のなかで、もともと、歴史ずきだった彼の心がうごいていく。(『学者・研究者の道』、高瀬善夫著、ポプラ社、1979年、p38)
 その後、厳島神社の秘宝である『平家納経』に出会い、「三十年の歳月をかけて、八千まいにおよぶ、大作『平家納経の研究』を完成」させるという偉業を成し遂げるのです。大きな目標を持つことが健康を大切に維持増進させることにもなる、と教えてくれる良い例だと思います。
 また、英字新聞らしく、「"Aging is not lost youth but a new stage of opportunity and strength."(年を取ることは若さを失うことではなく、新しい段階の可能性や力をもたらす)」という名言の紹介もありました。「まさに佐野さんの生き方を表しているのかもしれません」と。

2024年3月10日日曜日

心が楽になりました

 心が軽くなる言葉に出会いました。実は、戸を閉めわすれたり、スイッチを切りわすれたりする度に、妻に注意されることに閉口していました。だから、そんな妻の態度を、心の中で責めていました。ストレスの一因にもなっていました。しかし、次の言葉に出会い、心が楽になったのです。

 相手が間違っているとき、相手を変えようとするから物ごとが間違ってくる。己を変えれば相手も変わる、これは信仰の方面と同じで、信仰とは同一の境地にあると思うのです。( 中山慶一著、『炉辺歓語』、河井寛次郎著、河井寛次郎記念館監修、東峰書房、1978年、p187)

 どう変えれば良いのか、もっと、妻の気持ちを思いやること、身の回りをもっとスッキリさせることなど、結構ありそうです。不思議なことに、「思いやる気持ちが足りなかったかもしれない」という反省する心まで生じてきました。
 なぜでしょうか。
 被害者という意識が働き、そんな妻を責める気持ちが全面に出てしまったのかもしれません。

2024年3月9日土曜日

生きること即活動すること

 著書『ゴヤの世界 』(神吉敬三著、講談社、1968年)の『ゴヤ―その人と芸術――』を読んでいたら、昨夜読んだ『徒然草』第三八段の解説を思い出しました。その部分は、「さしもの明晰な読書人たる兼好が、まるで鏡張りの球体に閉じこめられたような、精神の危機である。この究極の密室からどのように脱出し、さらなる荒野を駆け抜け、どこを目指すのか。徒然草を執筆するという行為は、兼好にとって精神の冒険にほかならない」(『徒然草』、島内裕子訳・著、ちくま学芸文庫、p89)というところです。 
 ゴヤやピカソにとっても、彼らの芸術活動そのものが、兼好にとっての「精神の冒険」のようなものだったに違いないと思えたのです。例えば、小屋の作品を三点紹介しましたが、これらの作品を違いを考えただけでも、冒険心なしでは、なしえないと思います。ピカソの場合、同じです。「ニヒリズムに塗り込められた<青の時代>の作品と健康的なく古典主義の時代〉の作品の余りの違い方にわれわれは目を見張り、・・・同一人物のものであることに少なからず戸惑う」ほどのことを成し遂げられたのも、冒険心があったからだと思うのです。なお、ゴヤとピカソについて紹介したい引用は次の通りです。
 われわれが彼の全貌を知ろうとする時、彼の全作品、少なくとも各時代の主要な作品のすべてを観ることを要求する画家があるとすれば、その双壁はゴヤとピカソであろう。
 この二人のスペイン人は、生きること即活動すること —— 自己の持つ天賦の才能を常に働かせること —— という生命観を本能的に備えそれを支え常に前進してゆくだけの強い意志を持っている点で、スペインに一世紀に一人ないし二人ずつの割合で生れ出る創造的な天才の典型的な例である。(『ゴヤの世界 』、p5)

 二人の制作ジャンルが多角的であることは言らに及ばず、対象を油絵だけにしばっても、その主題、技法、画面に投入された作者の感情の多様性には驚くべきものがある。例えばピカソの場合、そのほんの一例をとっても、ニヒリズムに塗り込められた<青の時代>の作品と健康的なく古典主義の時代〉の作品の余りの違い方にわれわれは目を見張り、彼の息子や娘を描いた画面に流れるこまやかな愛情と「ゲルニカ」や「殺戮」の画面に荒れ狂う怒りが、同一人物のものであることに少なからず戸惑うのである。同じことがゴヤについてもいえる。(『ゴヤの世界 』、p5〜6)



2024年3月8日金曜日

不安な心

 昔のノートを見ていて、1972年7月11日に胃潰瘍の診断が下されていました。そして「自分が病気になって、調子が悪い時は如何に心細く、悲しいか、痛いほど感じた」と書いていました。
 その後入院するのですが、そこでも、「なんで、こんなにも虚しい、切ない思いをしなければならないのか/隣で若い二人がささやき、向こうのベットでは、お母さんと子供が楽しそうに話している/みんな忙しいんだ、と自らを慰めても、私の気持ちはみんなを待っている/もしや、だれか来やしまいか/・・・・/結局、俺の存在は浮いた存在なのか/***の皆んなとしっかりと結ばれていないのか/・・・」と、不安な心の内を綴っていました。
 そんな中で、故郷を思い、「帰りたい」という詩を書いていました。


帰りたい
あの山のふところに帰りたい。
朝靄が立ち込め、
小鳥がさえずり、
木々の緑が青々とした、
あのふところに帰りたい。

知らない人同士の心をも、
あたたかく結びつけてしまう、
あのおふくろの味、
あの山に帰りたい。

2024年3月7日木曜日

芸術における普遍性

 アリストテレスの芸術論が、21世紀の現代社会にも通用する普遍性を持っていることを学びました。「芸術は、日常世界の単なる『現実を凌駕』して、その世界の内なる普遍的本質に達し、その本質を典型的なものとして物化する」と次のように解説されていたのです。

 芸術は、アリストテレスによれば、このようにして、日常世界の内に雑多な形で生起している様々な偶然事や夾雑事等も含まれたその世界の「一切」をそのまま語ることなく、それらの偶然的なものや夾雑的なものを捨象することによって、日常世界の内奥の本質的な相を浮かび上がらせるのです。普遍性の次元に入り込むことによって、芸術は、世界の内在的な本質に達するのであり、その本質の次元における「偶然」的でない関係即ち必然的ないし蓋然的な関係――をもった一連の出来事を作品化するのです。芸術が、「現実を凌駕」するのは、まさしくこのようにしてなのです。芸術は、日常世界の単なる「現実を凌駕」して、その世界の内なる普遍的本質に達し、その本質を典型的なものとして物化するのです。これがアリストテレスのいうミーメーシスです。ゼウクシスの場合でいうならば、ゼウクシスは、いかに美しい女性であっても、現実に生きて呼吸している一人の美女の「一切」をそのまま模写することをせずに、多くの美女からの選択合成を行うことによって、女性美の本質的な相に達し、その女性美の普遍的本質の典型を、一人の人間としては「実際にはありえない」美女像として物化したのです。アリストテレス美学理論において、ミーメーシスとは、このような普遍的本質のミーメーシスなのであり、このような典型のミーメーシスなのです。それは、単なるものの表面をそのままに模写するような平板な意味での写実では全くなく、世界の内在的な本質を典型的に物化することなのです。(『西洋芸術の歴史と理論』、青山昌文著、放送大学教育振興会,、2016、p69〜70、下線は引用者)

 それでは、「本質を典型的なものとして物化する」とは、どういうことでしょうか。
 その実例として放送授業で、ギリシャ国立博物館に展示されている作品「ポリュクセネーの墓碑」と、原田泰治さんの作品を紹介します。 
 作品「ポリュクセネーの墓碑」は、死者と一緒に生者も彫られている点で珍しいもので、死者の”最も典型的で本質的な子に対する愛情”という面が作品として物化され、表現されています。それゆえ、年月を超えて作品から伝わってくるものがあるのです。
 原田泰治さんの作品は、田舎の風景が多くて、人物の多くは小さく描かれています。しかも、目鼻などは描かれていません。それでも、海外で個展を開いたら、
 アメリカ人が「自分のふるさとにそっくりだ」って言うんですよね。かやぶきでしょこっちは、それから黒い髪の毛でしょ、目鼻はないでしょ。
 そうしたら、そうじゃないって、家は違ってもね「ここに描かれている人物は私だ」って言うんですよね。(「NHK映像ファイル あの人に会いたい アンコール 原田泰治(画家)」、2024年3月/2日放送)
 というのです。これこそ、原田さんの作品が”普遍性”を持っていることの証明です。原田さんお芸術作品も「本質が典型的なものとして物化」されていたのです。 


2024年3月6日水曜日

天皇の「元首化」案

 自民党の憲法改正目的は日本が戦争できる国にすること、そのため、自衛隊の存在を憲法で明記すること、つまり、憲法の条文と自衛隊の存在に齟齬がないようにすることだと言われています。しかし実際は、隠された改憲条項があったのです。新聞報道によると、
 天皇については「元首」としての位置づけを明確化。「皇位は世襲で男女を問わず皇統に属する者が継承する」として、女性天皇を容認した。「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌とすることも「総則」に盛り込む。(「集団的自衛権の行使明記 女性天皇認める 憲法改正自民素案」『朝日新聞』、2004年11月17日夕刊)
 どうでしょうか。
 こうして一度”角”を出してしまったのですが、まずいと思ったのでしょう。その後、”角”を隠してしまったようです。防衛論議(自衛隊)に目を奪われていますが、改憲の真の狙いが主権の剥奪という恐ろしい歴史の逆行であることが隠されているのです。改憲の本命、あるいは真意、全体像をつかむことの重要性を痛感します。
 しかし新聞報道では、天皇についての、「元首」としての位置づけを明確化する点については、次の通り、問題視されていませんでした。残念です。
 天皇に関する規定で盛り込んだ「女性天皇容認」に関しても、「簡単に決めて良い問題ではない。皇位継承順位の複雑化や結婚相手の地位の問題が出てくる」など異論が残っている。(「推進派主導のたたき台、論議活発化狙う 自民が改憲素案<解説>」『朝日新聞』、2004年11月17日夕刊)
 

2024年3月5日火曜日

アラブ人とユダヤ人

 NHK放送「映像の世紀バタフライエフェクト・イスラエル」(2024年3月4日放送)を見ました。憎しみの連鎖の止みようがない現実に気持ちが暗くなってしまいました。そんな中も救いがありました。ダビッド・ベングリオンの言葉です。「我々がここに来たのは、アラブ人を追い出すためではなく、他者を破壊することでもなく、荒れた場所を開発し、経済・生産・創造の新しい宝を作り出すためなのだ」と言って、初期はアラブ人とユダヤ人は共存していたのです。
 しかし、第一次時戦争の時のイギリスによる二枚舌外交(アラブ人とユダヤ人の敵同士の相手と同時に密約し、しかもその密約さえイギリスは守らなかったのです)その結果、共存関係が破られてしまいます。そうして現在も戦いが続いているのです。
 ダビッド・ベングリオンは、こうなることを見通していたかのような言葉を残していました。「私は、危険が続く限り、戦いを続けるしかない。しかし同時に、自らに問いかけなければならない。戦いの脅威に耐え続けることができるのか、その先に我々が生存していく道はあるのか、と」という言葉です。この言葉の通り、21世紀の今でも、戦いを続けています。しかし、ここが大切なところですが、戦いの「先に我々が生存していく道はあるのか、と」いう問いかけに対する答えを考えることです。
 私の答えは、一つきりありません。日本国憲法がさし示している道です。「武力を放棄し」と書いて、これは違う、と気づき、脳裏に”平和的生存権”が浮かびました。つまり、日本国憲法前文が示している全世界の国民の”平和的生存権”、すなわち「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」が先ずあって、その方法論として、「武力を放棄」がくるのです。この目的と手段という二段階理論こそが、「日本国憲法がさし示している」道なのです。

2024年3月4日月曜日

芸術は世界の力

 放送大学図書館の電子書籍(eブック)『芸術は世界の力である』(青山昌文著、左右社、2014)を見つけました。ちょっと読んでみたら、すごいことが書いてありました。「この本は、芸術に心から感動するための本となっているのです。(中略) 芸術は世界の成果であり、世界の力です。芸術に感動する事は、世界に感動することであり、世界の力によって遠くに運ばれていく至福の旅なのです」(「はじめに」より)だそうです。是非とも、「至福の旅」を味わってみたい、そう思いました。
 図書館の内容紹介には「世界の根源的なパワーを表現しつくした、古典芸術の傑作に深く酔いしれるためにはこうすれば良い! 感動と驚きと未知なる体験が待っている」とありました。これまで美術館で多くの作品を鑑賞してきましたが、「芸術の傑作に深く酔いしれる」体験はあっただろうか、と自信を失いかけています。というのも、今までの絵画鑑賞では、感動体験というよりも、学びに力点があったからでもあります。
 青山先生によると、「芸術というものは、世界の本質を表現したもの」です。なるほど、それゆえ、芸術作品は時代を超えて我々に訴えてくるものがあるわけです。文学作品もあなじです。文学作品の古典は、時代背景などの素養なしには理解も感動もできません。考えてみたら、美術作品も同じです。パッとみてわかるようなものではなかったのです。そういうわけで、青山先生の案内で「至福の旅」に出かけることにしました。
 さて、どんな旅になるのか、楽しみです。

2024年3月3日日曜日

理解するということ

  理解するということは、体験に根ざして初めて可能であるようです。ニーチェの指摘で、気付かされたことです。ニーチェは言います。

 私の『ツァラトゥストラ』の一語も理解できないと率直に訴えた(「訴えられた」のミス?)とき、私は彼に言った。それは当然だ、あの中の六つの句を理解したら、というのはつまり、体験(原文は傍点)したら、それは「近代」人が到達しえないような、もっと高い人間の段階に高めるだろう、と。(「この人を見よ」『世界文学体系・42』、ニーチェ著、筑摩書房、p378)

 ニーチェにとっての理解というのは、体験を通して体得することでした。私は、このところを読んだとき、数学書を学ぶときに自分で計算してみることが欠かせないことと、次の中側さんの言葉を思い出しました。

わが身に悲しみの用意ありて、人の悲しみを受くるなり。
 画も亦如斯
 一つの画が人に迫るのは、観者の用意に向かって画がはたらきかけるなり。観者の用意なくば神品も凡品の如し。(「神品も凡品」『中川一政全集』p211より)

 そういえば、同じ本でも、時が経って再読すると、新たな発見や気づきを得ることがあります。この理由も、新たな体験によって心もアップデートしているから、と考えれば納得がいきます。
 しかし、全てが体験なしに理解できないか、と問われれば、そうではないです。想像力によってカバーできる面もあるからです。 
 それと同時に、古典と言われているもの、あるいは、科学的な著作には、普遍性のある概念が含まれているからです。古代ギリシャの哲学が体験的には理解できない面があったとしても、現代社会の人にも理解できるとことがあるのも、普遍性があるためです。

2024年3月2日土曜日

文化国家日本を目指す

  戦後の日本を生きた実業家が、「本当の文化国家とはね」と、息子に向かって篤く語った言葉があります。次のように「生き生きと文化的に価値あるものを創造し続ける能力がある国だと思う」と結論するのですが、これこそ、日本が目指すべき道だと思いました。文化国家の逆は、文化的には何の価値もないものを生産し続ける軍事産業に力を入れている国だからです。

「謙一郎は文化国家って考えたことはあるか」
 總一郎の質問に謙一郎は困惑して、首を横に振った。
「今、チャイコフスキーの音楽が流れているけれど、こういう素晴らしい音楽を作った国は文化国家だ。でもそれだけじゃないとお父さんは思う。本当の文化国家とはね、与えられた条件、それは、自然や歴史なんだけど、そこから生き生きと文化的に価値あるものを創造し続ける能力がある国だと思うんだ」 (『天あり、命あり:百年先が見えた経営者大原總一郎伝』、江上剛著、PHP研究所、2016年、p166)

 どうでしょうか。
 日本は平和憲法を持った国として、文化国家を目指すべきですが、同時に、「『巨大な顕微鏡』ともいわれる次世代放射光施設ナノテラス(仙台市青葉区)の本格運用が4月に始まる」(朝日新聞、2024年3月1日)という記事が示すように、日本はすでに文化国家であることに自信を持つことも大切です。それらをさらに発展させつつ、世界の平和建設を目指すのです。そんな国を軍事的に攻撃したいと思う国があるでしょうか。

次世代放射光施設「ナノテラス」の全景。直線形の加速器(右手前)と

円形の加速器(中央)からなる=NanoTerasu広報チーム提供

2024年3月1日金曜日

常備軍は全廃すべきである

 日本国憲法前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と書かれています。ここの「恐怖」について哲学者の高橋哲哉さんは「恐れおののくこと」と言ったそうです。「人々が本当に恐れおののくこと、逃げ惑うことを意味するのだと。そして、それをやってはいけないと考えるのが日本国憲法なんだと」(『平和に生きる権利は国境を超える パレスチナとアフガニスタンにかかわって』、猫塚義夫著、あけび書房、2023年、p156)
 世界に目を向けると、今でも戦禍に恐れおののき、逃げ惑う人々が存在しています。存在しています。そんな状態の中で私たちにできることはなんでしょうか。同じ著書で共著者で憲法学者の清末愛砂によれば「①起きている人権侵害を黙認せず、恐怖や欠乏を生み出す構造を見据えながら、それらにさらされている人々に心を寄せること、そして②その構造に挑戦するための行動をできる限りすること」(上同、p64)だそうです。
 私は前に「戦争に至らなくても、常備軍の”存在そのもの”も人権を侵害すること、言い換えれば、人権の侵害なしに常備軍は存在し得ない」(「人権をあきらめない」より)と書きました。ということは、常備軍の”存在そのもの”も「恐怖や欠乏を生み出す構造」の一翼を担っていると言えるでしょう。だからこそ、カントが『永遠平和のために』の中で述べている「常備軍はいずれは全廃すべきである」の項は、ますます現実味を増していると思います。
 常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えておくことであり、ほかの国を絶えず戦争の脅威にさらしておく行為である。また常備軍は存在すると、どの国も自国の国を増強し、他国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争が生まれる。こうした軍拡費用のために、短期の戦争よりも、平和時の方が大きな負担を強いられるほどである。そしてこの負担を軽減するために、先制攻撃がしかけられる。こうして常備軍は戦争の原因となるのである。(「第一章 国家間に永遠平和をもたらすための六項目の予備条項の三項」『永遠平和のために 啓蒙とは何か』、カント著、中山元訳、光文社、2006年)