2020年10月31日土曜日

心を動かす言葉とは?

  朝日新聞に、(経済気象台)というコラム欄があったが、今迄このコラム記事は読んだことがなかった。今回は、「心を動かす言葉とは」(2020年10月30日)というコラムのタイトルに惹かれて読んだ。日本学術会議が推薦した会員6人の任命拒否の問題にも言及していたが、「知りたいのは首相の任命権の有無や学術会議のあり方ではなく、『なぜ任命しなかったのか』という一点に尽きる」と単純明快だった。続いて、「その理由をいわなければ説明にはならない。最小限の言葉だけで『言うことを聞け』というのでは、ロシアや中国の非民主主義の国と変わりはない」という。もっともな話だ。
 心を動かす言葉については、

 心を動かす言葉とは、言葉を発する側に具体的に「こうする」という意思表示があり、聞く側の心に「なるほど」と納得感が芽生えるかどうかが決め手になる。
 その点で、菅義偉首相の言葉の乏しさは悲しい。いやむしろ、恐ろしいほどだ。官房長官時代から「問題ない」の連発で、その中身について具体的な説明に乏しかった。

 心配なのは、言葉の乏しさが慢性化して、そうした状態に慣れてしまうことだ。そうならないためにも、「おかしい」ことは「おかしい」と言い続けることが大切なのかもしれない。

2020年10月30日金曜日

戦争=人間と人間の殺し合い

 最近「敵基地攻撃能力」云々、という議論がある。しかし、その議論には、攻撃される側の殺される人間のこと。本当に攻撃してしまったら、どのような惨事に発展してしまうか、などへの想像力が欠けている。そして、「敵基地攻撃能力」云々、という議論は、結局のところ、「人間と人間の殺し合い」についての議論でしかない。そう、『魔法のぶた』が教えてくれた。「”敵基地”を攻撃したら、どのような惨事に発展してしまうか」を是非議論していただきたいものである。

 戦争って、「ちいっともカッコようないんよ。人間と人間の殺し合いじゃけぇね。ピカは、戦争たぁ何の関係もない子どもらまで、殺してしもうたんじゃけぇ」(『魔法のぶた』、司修著、汐文社、p85)

2020年10月29日木曜日

つかの間の人民戦線時代

  放送大学2学期の面接授業で、「十九世紀の万国博覧会と美術史」の授業を受けることにした。その参考書として指定された本が『万国博覧会の二十世紀』(海野弘著、平凡社)だった。この本を読んで、「つかの間の人民戦線時代」に、「大衆にとっての生活が、ほんの少しよくなった。人民戦線がかもし出した雰囲気」(p 132)というのがあったことを知った。少し長く引用すると、

つかの間の人民戦線時代
 一九三七年のパリ博は、人民戦線というつかの間の左翼連合の中で開かれた博覧会である。一九三一年の植民地博が右寄りであったとすれば、こちらはやや左寄りであった。このパリ博は、人民戦線について触れずには語れない。
 分裂と対立をつづけていた左翼は、社会党と共産党を中心に諸派を統一して、人民戦線を結集した。しかしそれはあまりにも右翼勢力が強まり、フランスにもファシズム政権が成立しそうだったからであった。
 一九三三年、ヒトラーが政権を握った。フランスでは一九三四年、右翼と左翼の衝突が激発した。その危機に対して左翼が連合し、<人民戦線>を結成したのは一九三五年七月十四日であった。「ファシズムの政権に対抗し、自由を守る勢力」としてまとまることになった。
 一九三六年五月三日の選挙で人民戦線は勝利し、レオン・ブルムを首相とする人民戦線内関が出発する。しかし経済政策はうまくいかず、左翼諸派は再び分裂した。(p130)

「束の間の人民戦線時代、さらにひとつの功績が人間性の分野であった。大衆にとっての生活が、ほんの少しよくなった。人民戦線がかもし出した雰囲気のなかには、作家、哲学者、歴史家が、左翼政治家とともに、あとになって顧みて、一九三六年精神と呼んだなにものかがあった。貧乏人にとってはそれが解放感だった。彼らはこれでついに国民の生活に参与できると感じた。彼らはその願望を分かち持ち、そのいくつかを達成しようと努力する議会と政府の選出に力を貸したと感じていた。」(ウィリアム・L・シャイラー『フランス第三共和制の興亡1940 = フランス没落の探究』井上勇訳、東京創元社、一九七一)(p132)

 ここでいうところの「一九三六年精神」と似たところが、戦後の日本にもあった。戦後の回想記などに書かれたものを読むと、それがわかる。

2020年10月28日水曜日

何を「語ったか」でなく「してきたか」

  DVD『映像の世紀・8・恐怖の中の均衡』を観て、米軍が、度重なる核実験をしただけでなく、多くの兵士が核戦争を想定した実践演習を挙行していたことを知った。当然、多くの兵士が被爆し、その後遺症で苦しむことになった。こうした事実を知って、政党や米軍を観るときの視点として、「何を語ったか」でなく、「何をしてきたか」を重視する、次の丸山眞男の視点を思い出した。
 自国の兵士を被爆覚悟の演習を命令できる国、昨日書いた記事のように、輸出代金を受け取りながら、一向に納品しないで済ませてしまう国(納品されなくても、物を言えない国も国だが、・・)に、いつまでも従属していていいのだろうか。いいはずがない。明治の独立に対する気概は、どこに行ってしまったのだろう。

 しからば孫文主義の内からの理解とは何か。私はそれはなにより孫文自身の問題意識を把握することだと思う。孫文は何を語ったか若くは何を書いたかではなくして、彼が一生を通じて何を問題とし続けたかということである、彼が現実を如何に観たかということよりむしろ、彼は如何なる問題で以って現実に立ち向かったかという事である。ラインバージャーのいわゆる、「多くの点で矛盾だらけの癖に、全体としては恐ろしく首尾一貫している」という三民主義の秘密はこうした把握によって始めて開かれる。そのとき彼の個々の言説の「矛盾」はもはや矛盾ではなく統一的な展望の下に立ち、外面からは孫文の途方もない「空想」としか思われない事が実は彼にとって抜差ならぬ切実な課題であった所以が理解されるのである。(『丸山眞男(KAWADE道の手帖) 没後10年、民主主義の〈神話〉を超えて』、河出書房新社、p135、強調は引用者による)

2020年10月27日火曜日

野放図な防衛政策にメスを入れよう!

 図書館で『世界』11月号を読んできたが、とんでもないことが書かれていた。「米国政府に支払いを済ませてから一〇年近くも納品されていない防衛装備品さえある」と次のように書かれていたのだ。

 防衛装備は本来、防衛省側が調達を判断してきた。それが安倍政権になって防衛省の主導権が弱まり、まだ検討段階の装備品にいきなり予算が付き防衛省が仰天するケースもあるという。どう使うかさえ定まらないまま購入した高額な装備もある。米国政府に支払いを済ませてから一〇年近くも納品されていない防衛装備品さえあるのだ。そんな野放図な防衛政策の中で、イージスアショアに匹敵する不思議な事業が名護市辺野古の埋立事業だ。
 米海兵隊普天間飛行場が住宅地の真ん中にあり危険だから、辺野古崎を埋め立てて滑走路を造り、移転する。政府は「一日も早く普天間の危険性を取り除く」ためというが、完成までに最短で一二年もかかり、工費は約一兆円に膨らむ。二〇一九年二月の県民投票では反対が七二%だった。絶滅危惧種のジュゴンが棲み、海洋生物五八○○種余が生息する多様性豊かな自然を破壊する。辺野古はイージスアショアに勝るとも劣らない無理筋の事業だ。(屋良朝博著、「普天間問題の解決はすぐにも可能だ リアリズムにもとづく安全保障の選択」『世界2020.11』、P155)

 普天間飛行場では、いまだに「住宅地の真ん中で軍用機が昼夜問わずに飛ぶ不条理」(同上、p159)が存在しているのだ。普天間の不条理に耳を傾け、野放図な防衛政策にメスを入れよう!

2020年10月26日月曜日

どこまでも追求する仕事

「『武者小路実篤画文集・3』(福武書店、1985年)」より

 核兵器禁止条約の批准国・地域が、ついに発効に必要な50に達した。これというのも、核兵器禁止条約締結という目的をしっかりつかまえて、その方にじりじりと進んできたから成し遂げられた成果である。このことに関連する言葉として同書に「こつこつ」という文章があった。

 こつこつ仕事をする者に自分は感心する。
 セザンヌの若い時の作品のような丹念な、どこまでもどこまでも追求する仕事も、自分は実に好きだ。そういうセザンヌの傑作を見たいものと思う。今の自分はそのゆき方で押し切りたい。(『武者小路実篤画文集・3』、福武書店、1985年、p33)

 このような文章に出会うと、そういう観方もあるのか、とセザンヌの作品を手に取ってみたい、と思ってしまう。

2020年10月25日日曜日

抑止力が違法になる

  核兵器禁止条約の批准国・地域が、ついに発効に必要な50に達した。これで、日本の政策の一つである核抑止力も、違法になる。この核抑止力についての興味ある発言があった。「日本が変われば世界が変わる サーロー節子さんの憤り」というインタビュー記事(朝日新聞デジタル、2020年10月25日)の中にある次の言葉である。

 軍事的な用語として抑止力という言葉を使うけど、核抑止力は、何十万、何百万の人間の命を無差別に焼いたり殺したりしてもいいということを前提にしている。自分たちの身を守るため、相手を抑止するためより強力なものを持つ。互いにどんどん莫大(ばくだい)なカネを使って無駄遣いをしている。

 この考えに従えば、武力によって平和を守るというのも、何十万、何百万の人間の命を差し出すことが前提になっていることになる。このことが、どうして分からないのだろう。人間の「生命を差し出すこと」を前提としない安全保障が明確に示されないからだろうか。憲法9条こそ、「生命を差し出すこと」を前提としない安全保障である。だからこそ、日本国憲法を守って、その精神を実践していきたい。

2020年10月24日土曜日

核のボタンは押されていた

『核のボタン』(ウィリアム・ペリー、トム・コリーナ著、田井中雅人訳、朝日新聞出版)という本があり、「米大統領には核兵器使用にかかわる専権が与えられ、その決断を誰も止めることはできない」こと、そして、「コンピューターがハッキングされたら? 大統領がかんしゃく持ちで冷静さを欠いていたら? ピザの注文よりも簡単に、何百という核ミサイルが発射され、何百万、何千万の人々が命を落としうる」危険性が、今日の世界の現実であることを、9月16日のブログで書いたことがある。
 ところが、1986年、約40年も前に児童文学の世界で、「ノイローゼのボタン係と、気がくるったボタン係が核戦争を起こし、その後の世界を描いていた」(『魔法のぶた』、司修著、汐文社)のだ。同じく、放射線でゴーストターンも描かれていたが、残念ながら、こちらの予言は、原子力発電所の事故という形で実現してしまった。核のボタンだけは、押される前に何とかしなければならない
 幸いにも、核兵器の開発や保有、使用などを幅広く禁じる核兵器禁止条約の批准国・地域が49に達し、発効条件まであと1に迫った。カリブ海のジャマイカ、太平洋のナウルの両島国が23日に批准書を国連に寄託したからだ。この勢いをバネに、核廃絶に向けていきたいものである。

「『魔法のぶた』、司修著、汐文社」より

「『魔法のぶた』、司修著、汐文社」より

 

2020年10月23日金曜日

人類は進歩のうちに生きる

 放送大学の2学期の面接授業で、「十九世期の万国博覧会と美術史」を受講することにした。その関係で、万国博覧会に関する本を探して借りた本の一冊が、『絶景、パリ万国博覧会』だ。そこに、万国博覧会を謳った長編の詩「神殿」があった。
 サッと眺めて、人類という単語を見つけたので、そのあたりを丁寧に読んだ。そして、そこで人類の真実の姿を歌っているように、私には思えた。「人類は、輝かしい未来に向かって進歩のうちに生きるのだ
と。

人類はそこで
進歩のうちに生きる 
記念碑と過去の記憶と 
絵画と彫刻とドラマと 
音楽と言葉を介して 
それらはみな 
現在の幸福のために 
栄光ある過去を呼びさまし 
輝かしい未来を映しだす 

人類はかしこにあり 
男と女の心を介し 
老人の威厳に満ちた重々しさと 
子供らの優美な軽快さとを介して 
人類はかしこにあり 
敏捷に、あるいは物憂げに 
体を動かす男女の踊り子を介して 
 長編詩「神殿」(『絶景、パリ万国博覧会』、鹿島茂著、河出書房新社、p328〜329)から

2020年10月22日木曜日

ナチスの犠牲になったメスキータ


 アウシュヴィッツの強制収容所で亡くなったというメスキータの作品展に行ってきた。メスキータも、ゴッホのように、生涯を通じて自らの姿を数多く描いている。
 その中の一つが、『メメント・モリ(頭蓋骨と自画像)』である。メメント・モリは、ラテン語で「いつか必ず死が訪れることを自覚していきなさい」、「死を忘るなかれ」という意味の警句だというが、何ともリアルな表現である。
 ナチスの犠牲になったメスキータの作品と彼の数奇な運命を、多くの人に知ってもらいたいものである。

 1941年頃からドイツ軍占領と健康悪化のため家にこもってドローイングを描く日々を送っていましたが、1944年1月31日から2月1日にかけての深夜に一家でナチスに連れ去られ、強制収容所に送られてしまいます。そして、メスキータ夫婦は2月11日にアウシュヴィッツで、息子のヤープは3月30日にテレジェンシュタットで亡くなりました。

「だまし絵」で有名なマウリッツ・コルネリス・エッシャー(1898-1972)は、メスキータの教え子でした。・・・。メスキータがナチスによって連行された後、もぬけの殻になった師の自宅を訪れたエッシャーは、残された作品を救い出し美術館で保存してもらうよう尽力しました。ドイツ兵の靴跡のついた作品1枚を死ぬまで大切に保管していたというエピソードも残されています。戦後のエッシャーは、メスキータとの二人展を開催するなど師の顕彰に努めました。

2020年10月21日水曜日

夏目漱石の独立精神論に脱帽

 ホイットマンについては、何度か書いてきたが、新しい詩集(『ホイットマン詩集』、木島始訳編、思潮社、1994年)を借りてきたら、「文壇に於ける平等主義の代表者『ウオルト、ホイツトマン』Walt Whitmanの詩について(抄)」という夏目漱石の文もあった。読んでびっくりした。独立精神が、どれだけ重要なことかを、強く訴えていたのである。原文は、句読点などがなく、読みにくかったので、「改行」や句読点「””」、ボールド体強調を入れ、紹介する。               

 ホイットマンにしについて、いろいろ言われているが、「其”詩法に拘泥せざる所””劣情を写して平気なる所”が、即ち「ホイツトマン」の「ホイツトマン」たり共和国の詩人たり平等主義を代表する所なるべし
 元来”共和国の人民に何が尤も必要なる資格なりや”と問はば、独立の精神に外ならずと答ふるが適当なるべし。独立の精神なきときは、平等の、自由の、と噪ぎ立つるも、必竟机上の空論に流れて、之を政治上に運用せん事覚束なく、之を社会上に融通せん事益難からん」(上同、p80)。

 独立の精神なきときは、平等の、自由のと声だかに叫んでも、机上の空論に流れてしまい、政治上も、社会上も、役に立たん、というのだから手厳しい。漱石の思想をもっと調べてみたい、と思ってしまった。独立精神を骨抜きにされた日本の今の姿を、漱石なら、何というだろうか?

2020年10月20日火曜日

災(新型コロナ)転じて福となす

 朝日新聞(2020年10月15日)のインタビュー記事(「できない」が基軸の社会へ 出口康夫さんが語る未来)を読んで、新型コロナ後の社会を漠然としたものだが、明るいものとしてイメージすることができた。一つの大きな価値観の転換が迫られている、というのであれば、あるいは、大きな革命が進行しているのかもしれない、という淡い期待を抱いてしまった。
 何れにしても、インタビュー後半で言及されていた「知的な公共事業」という耳新しい概念に、強い共感を持った。そして、この作業と、「人間は『できない』ものと考える」価値の転換が車の両輪の如く進むことで、新型コロナ後の社会は、真に明るいものになるなるのではないか、と思うようになった。これこそ、”災転じて福となす”である。なお、以下はインタビュー記事から引用、ただし、強調は引用者による。

・・・・・・・・・・

 ――新型コロナのパンデミックは何を浮き彫りにしましたか。
一番重要なのは、自分や家族の健康ですら自分たちだけでは守りきれず、周りの人々、外の世界と切れ目なくつながっていることが誰の目にも明らかになったことです。自分の体の奥で起きることも、トランプ米大統領のふるまいと結びついている。グローバル化が身体の深部にまで刺さっているという実感をもたらしました」

 ――歴史上の衝撃的な出来事の中でも、コロナ禍は特別ですか。

 「そう思います。ほとんど瞬時に広がったパンデミックです。世界大戦ですら中立国やアフリカの奥地など実質的には無関係なところがありました。大災害でも被災地という言葉が示すように限局されていました。今回は逃げ場がない、真のグローバル災害です」

 「このまま明確な勝ち負けがないまま、ずるずるとニューノーマルになだれ込むかも知れません。その場合、社会にフラストレーションがたまり、弱者に八つ当たりする風潮が増幅されかねません」

 

――どうしましょう。

 「いずれにしても社会は変わらざるを得ません。例えば遠隔化。ある程度社会が回るとわかった以上、もはや元には戻れません」

 「とはいえ効率一辺倒でいいとは誰も思っていない。そうなると次はどんな社会をつくる『べきか』の問題です。座標軸を『立ち止まって、考える』ときだと思うのです」


 ――基本的な人間観を転換すべきだと主張されていますね。

 「近代社会は、人間を『できる』ことの束ととらえ、『できる』ことに人間の尊厳を見いだし、自分のことを自分で決めることが『できる』という自己決定を倫理や法の根本に置きました。しかし近代社会のいろいろな限界やあつれきが表面化した結果、哲学でも人間の弱さやもろさに注目する動きが出ています」

 「『できる』ことを人間の本質とすると、例えば障害者は本質の一部を欠いた存在となってしまいます。結果として、障害者と健常者との間に暗黙の上下関係が生じたり、極端な場合、障害者の存在意義すら否定する考えが出てくる一因にもなりえます」

 「一方、人間の『できる』ことは様々な機械で凌駕(りょうが)されてきました。タマネギの皮をむくように次々に置き換えても知性という芯は大丈夫と思っていたら、人工知能(AI)が登場しました。思考実験かも知れませんが、AIが人間の知性を超えるシンギュラリティーが起きると全て置き換え可能になります。人間のかけがえなさ、尊厳さえ見失われる『人間失業』が起きてしまいます」


 ――では、どんな人間観を

 「百八十度転換し、人間は『できない』ものと考えるところから出発しようと私は主張しています。人間は自分一人では指一本動かせません」


 ――どういうことでしょう?

 「3日間、体がマヒしていた人が突然指を動かせるようになったとしましょう。医学的に説明がついても、ずっと動かそうとしていた本人にとっては何も変わっていない。逆に言うと、私たちが意のままになると思っている身体が、次の瞬間には動かなくなるかも知れない。社会のインフラも同じで、私たちは様々なものに委ね、支えられた存在なのです。コロナ禍はそのことを実感させました

 「誰もが根源的な『できない』を抱えていて、支えられなければ一日たりとも生きていけない存在です。そこに、人間のかけがえのなさを見いだすべきなのです」


 ――人間の弱さに着目した福祉の取り組みなど補完的な動きはありましたが。

 「基軸と補完の関係を交代させるべきです。人の能力を伸ばしたり活用したりすることも重要ですが、それはあくまで『できない』を基軸にした社会を補完する役割に回すべきです。主客交代です」


 ――「できない」ことの多い子どもや高齢者、障害者に優しい社会になるといいですね。

 「根源的な『できない』は誰もが持っています。それをより多く持っている彼らは人間の『できない』を明らかにしている存在となります。人間は何事も一人ではできないという考えに立てば、例えば犯罪では犯人を支えてきた社会システムも責任の一端を負います。道徳的、法的な責任の考え方も大きく変わるはずです。一朝一夕には実現しないし、日本だけ変えてもしょうがない。それでも誰かが言い出してグローバル化自体のルールを変えていかなければなりません」

 「人間は集団で群れてきました。3密回避で物足りなさを感じるのは、3密的な濃厚接触で互いの体温を感じることで根源的な『できない』を認め合ってきたからではないでしょうか。社会の遠隔化の中でも、こうした体験を得る機会を保つ必要があります」


 ――とりわけ哲学の役割は?

 「人類は言葉を発明し、すべき事柄をその工程表とともに言語化し、集団で共有してきました。哲学の根はそこにあります。今、我々の社会は巨大になり、共有される概念もどんどん増え、抽象的になってきました。『人権』のような新しい概念や価値を生み出し、それを人々の間で定着させることで社会を変えていく。これこそが知的な公共事業としての哲学の営みです。それは哲学者だけでなくメディアや政治家、司法関係者など様々な人々によって担われるべき共同作業です」

 「人文学は、よりよき未来、あるべき社会に向けて、効率化の一元支配に反撃する最後のとりでです。日本学術会議の問題と絡めて人文学のあり方が改めて問われているいま、その意義を社会のみなさんに一層訴えていかなければならないと感じています」(聞き手・大牟田透)

2020年10月19日月曜日

憲法9条を世界に輸出しよう!

 一時、銃乱射事件が続き、日本の新聞でも何度も取り上げられたことがある。何故、そうした悲劇が続くのか!
 「これまで米国では何度も銃乱射事件が起きてきた。そのたびに銃規制が議論になるものの、豊富な資金力と共和党を中心に強い政治力を持つ規制に反対する団体、全米ライフル協会(NRA)の抵抗で進んでいない」(朝日新聞、2018年4月13日)
 つまり、市民の多くが銃を持っているから、悲劇が続く。銃の所持が許されていない日本の治安を考えれば、すぐわかることである。
 市民社会の「この事例」を国のレベルで考えると、世界から武器がなくなれば、つまり、憲法9条が世界に普及すれば、世界から戦争を一掃できる、ということになる。9条を世界遺産に、という声もあるが、9条を世界に輸出しよう、というのもいいかもしれない。スクラップによる銃乱射事件の悲劇に学んだことである。

容疑者は17歳生徒、10人死亡 米テキサスの高校銃撃
ニューヨーク=鵜飼啓2018年5月19日05時53分
 米テキサス州サンタフェの高校で18日朝(日本時間18日夜)に起きた銃乱射事件で、地元警察は逮捕した容疑者は17歳の白人男性生徒だと明らかにした。事件での犠牲者は10人に上り、ほかに10人がけがをした。校内や周辺から爆発物が見つかっており、計画的犯行だった可能性もある。
 現地は気温30度を超える暑さだが、容疑者はコートを着て、その下に銃を隠し持っていた。CNNテレビの取材に応じた容疑者を知っているという高校の生徒によると、容疑者は普段からコートを着ていたという。この学校には警官2人が常駐しており、事件発生後にこの警官らが対応。警官1人がけがをしたが、容疑者を取り押さえた。
 現場近くで会見した同州のアボット知事は、容疑者以外に現場で不審な行動をしていた1人に事情を聴いているほか、別の1人からも事情聴取しているとした。犯行に使われたのは容疑者の父親が所有する散弾銃と回転銃だった。容疑者の住居や車などを捜索しているが、爆発物が仕掛けられている可能性があり、慎重に調べを進めている。
 犯行の動機は不明で、アボット知事は「犯行の予兆はなかった」とした。一方、容疑者はコンピューター上に日記を残しており、犯行を起こして自殺すると書かれていたという。容疑者のフェイスブックページには「殺すために生まれた」との英語が印刷された黒いTシャツや、ナチスの象徴をあしらったアクセサリーを付けた服の写真が掲載されていた。生徒らによると「容疑者は静かで、あまり話をしなかった」という。(ニューヨーク=鵜飼啓)


逃走の容疑者を逮捕 米国4人死亡のレストラン銃撃事件
ニューヨーク=鵜飼啓2018年4月24日12時49分
 米南部テネシー州ナッシュビルのレストランで22日未明に男が銃を乱射し、4人が死亡した事件で、地元警察は23日午後、逃走していた容疑者の男(29)を森林で見つけ、逮捕した。男は昨年、ホワイトハウスの立ち入り禁止区域に侵入して逮捕されていた。当局が男の所有するライフルなど4丁を押収したが、その後父親に返却。父親は鍵付きの保管庫で管理するとの約束に反して男に銃を渡していたといい、罪に問われる可能性もあるという。(ニューヨーク=鵜飼啓)

2020年10月18日日曜日

君達、未来の人間よ

 実篤は、「人類の意志について」という文章を書いている。そこで、「人類の意思とは何か」と聞かれたら、「人類が完全に向かって成長する意思」だと答えるであろう。と書いている。人類とは、そういうもの、と思って詩「君達、未来の人間よ」を読むと、この詩の良さがわかる。しかし、放射性廃棄物などという物騒な種まで播いてしまい、未来の人間に申し訳ない。そういう視点が抜けているのが少し残念。とは言え、「君達を他人とは思ってゐない」という視点は忘れがちだが、重要だと思う。だからこそ、未来の人々に放射性廃棄物などの負の遺産を残す所業はやってはいけないのだ。

君達、未来の人間よ

未来の人間よ
君達こそ人間らしく生活してくれるだらう。
愚かなことをくり返さずに、
幸福に生活してくれるだらう。
すべての人がよろこべるやう
働いてくれるだらう。

未来の人間
我等のまいた種をかり入れる人間、
出来るだけよき種を
我等はまけるだけまきたく思ってゐる。
よろこびをもってとり入れてくれ。

未来の人間
君達を他人とは思ってゐない、
君達こそ
大きな仕事を
地上に完成してくれる人間だらう。
人間の栄光の為に働いてくれ。
人間らしくよろこんでくれ。
君達
未来の人間。
『勇気を燃やす言葉人間らしく生きるために』、武者小路実篤著、青春出版社1980年、p213~214

2020年10月17日土曜日

人類の中の「個」として人間を尊重する

 104歳の画家、篠田桃紅さんのインタビュー記事を読んでいたら、突然、平和と差別が密接に繋がっていることに気づかされ、なんとなく感じていただが、「人間の尊厳は、人類(国民はもちろんのこと)の中の「個」として尊重されるということが明確に意識された。国が違っても、人間として平等であり、従って、どのような国の国民であれ、「個」として尊重される。それゆえ、他国人間の尊厳を否定する戦争は、絶対悪なのだ、と。それは、人類の中の「個」として、人間の尊重というものを考えていきたい、ということである。その篠田さんの言葉が、

 あたくし自身もニューヨークに住むことになったんです。いろんな価値観が入り混じった国ですけど、人間性に訴えるものがあれば、それが普遍的になります。みんなに共通の感動を与えることができたら、人種差別もなくなって、世界が平和になるでしょう。そういうものを、作りたいと思うようになりました。(『芸術新調』、2018年3月、p29)

 「人間性に訴えるものがあれば、それが普遍的になります」ということで言えば、ベートーベンの「交響曲第9番」が有名だ。この曲ほど、世界の人々に聴かれている曲はないかもしれないと思われるほど普遍的ではないだろうか。生まれは違っても、同じものに感動する人間は、やはり、人間としての尊厳と平等を意識させてくれるに違いない。
 今はコロナ禍の最中だが、コロナ禍は「世界は一つ」を意識させてくれた。だあらこそ、これからは「戦争どころではない、という憲法9条の価値観」が見直されるような気がしてならない。

2020年10月16日金曜日

憲法9条という希望の力

「『名言に学ぶ生き方 西洋編』、荒井洌著、あすなろ書房、1989年、p64」より
 バートランド・ラッセルの名は、一九七〇年に九十八歳という高齢で亡くなるまで、日本の新聞紙上にもよく登場しました。核兵器の撤廃を世界の人々に訴え、平和のための活動を続けたからです。
 彼は二十世紀最大の哲学者といわれ、ノーベル文学賞も受けた、イギリスを代表する知識人でした。(中略)
 上記の文章の後に、彼は次のように続けています。

 「事実以外のなにものも考えないような種類の真実さなどというものは、人間の精神にとっては一つの牢獄にほかならない。」 

"夢"あるいは"希望"は、人が生きていく上での大きな力のように思えます。 (上同、p65)

 このラッセルの言葉に納得していただけるなら、現実的で無い、という理由で9条を改変しようとすることの愚も、納得していただけるのではないだろうか。9条によって紛争など起きなような外交に徹し、紛争が起きても粘って解決していく。こうした"希望"あるいは”理想”は、大きな力を発揮するであろうことは容易に想像がつくからだ。憲法9条は、"希望"であり”理想”であることを、改めて確認することができた。大切にしていきたい。

2020年10月15日木曜日

コミュニケーションこそ、民主社会成立の条件


「古田徹也著、2020年10月15日 朝日新聞」より

 朝日新聞(2020年10月15日)コラム「(古田徹也の言葉と生きる)空虚さ、慣れてはいけない」に感動した。今問題になっている「日本学術会議が推薦した新会員候補六名を、菅義偉首相が任命しなかった問題」の核心をわかりやすく説かれていたからだ。
 新会員候補六名を任命しなかった理由を尋ねられても、「総合的・俯瞰(ふかん)的活動を確保する観点から判断した」という訳のわからない言葉(煙幕の効果を狙っているのか!)を語るだけで、具体的なことは何も語らなかった。そのことに、苛立ちさえ感じていただけに、古田さんの言葉に勇気づけられた。本当に、その通りだ、と。
 考えてみれば、この、きちんと説明ぜず、煙幕のような言葉の羅列で済ませてきたのは、「モリ・カケ・サクラ」でも同じだった。だからこそ、「執拗(しつよう)に説明を求め続けてほしい。返答が説明になっていなければ、何度でも聞き返してほしい。そして私たちは、その種の応酬に飽きてはいけない説明が与えられないことに慣れてはいけない」「このコミュニケーションが保たれていることこそが、専制的ではない自由で民主的な社会が成立する基本的な条件のひとつだ」という古田さんの主張には強く共感する。今度こそ、という思いが強いからである。


2020年10月14日水曜日

学んだことは良く理解し消化すること!

「『名言に学ぶ生き方 西洋編』、荒井洌著、あすなろ書房、1989年、p22」より

「ミツバチはあちこちの花から花のみつを集め、そしてあのようなすばらしいものを作り出します。それと同じように、私たちはいろいろな所で、たくさんの人たちから、貴重な考え方や感じ方を教えてもらい、自分の所へ持ち帰ります。

 しかし、人から聞いた考え方や感じ方を、消化もせずに、そのまま使っているようでは本物ではありません。モンテーニュは、このことをミツバチのはちみつを作る仕事にたとえ、自分自身の力でよく理解し、消化することの大切さを強調しました。

 つまり、どんなに優れた権威のある考え方だと言われているものであっても、いった んは"疑い"を持つことの必要性を強調しました。よい意味での"疑い"の大切さです」(p23)。


 耳が痛い言葉だった。どれだけ理解し、消化してきたかが疑問だったからだ。広く学ぶことに力が削がれ、深く学ぶことを疎かにしてきたのでは無いか、と。関連する言葉として、ショウペンハウエル『読書について』から「反復は研究の母なり」(p40)「熟慮を重ねることによって飲み、読まれたものは、真に読者のものになる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである」(p41)とあった。心したいことである。(強調は引用者による)

2020年10月13日火曜日

”ありふれたこと(自由等)”の有り難さ

「『名言に学ぶ生き方 西洋編』(荒井洌著、あすなろ書房、1989年、p14)」より
 プルタルコスの『爽快な気分について』という題名がいい。岩波文庫の『似て非なる友について』で読める、というので、これも読んでみたい。この言葉と、解説を読んで、自由とか平和という”ありふれたこと”について考えてしまった。普段何気なく享受している自由とか平和は、”ありふれたことではなかった時代”があった、油断していると、”ありふれたことではなくなってしまう”こともあり得る、と・・・。だからこそ、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という憲法第12条があるのだ。以下、荒井洌さんの解説より。

 プルタルコス、英語ではプルターク。『プルターク英雄伝』の著作で有名な、ローマの 哲学者です。 ギリシャに生まれ、プラトンが作ったアテネの学園「アカデメイア」で学びました。・・・・

 ところで、みなさんは"ありふれたこと"をありがたく感じたことはありますか?  風邪をひいて動けない時、元気に遊んだり、勉強している友だちをとてもうらやましく思ったことはきっとあるはずです。毎日、元気に、太陽とおつきあいができるということは、実は最高にハッピーなことなのですね。

 プルタルコスの"ありふれたこと"についての文章を、もう少し読み進んでみることにしましょう。 


「なるほどこういうものがないからといって、そのために何かの値打ちがびた一文上がるわけではないし、また逆に、こういうものを手に入れたからといって、それが大変に値打ちがあるわけでもなければ、何か重大なものに触れるように、これがなくなっては大変と、わなわな震えたりびくびくしたりすべきものでもない。ところが人は、こんな ものには一文の価値もないとばかり、持っていれば無視したり軽じたりする。しかし我々は、こういうものを喜び、心底楽しむべきなのだ。」 (p15)

 

2020年10月12日月曜日

魂の健康を求めて!

 

『名言に学ぶ生き方 西洋編』(荒井洌著、あすなろ書房、1989年、p10)より

 エピクロスがすごい人だと知っていたが、女性や奴隷にさえ等しく門戸を開いていたことを知って、さらに、その思想に深く共鳴した。荒井さんの解説に、次のように書かれていたからだ。「メノイケウスへの書簡」は、『世界文学大系・63』(筑摩書房)で、読めるというので、手にとって読んでみたい。

 エピクロスは、紀元前三〇〇年の前後に、ギリシャに生きた哲学者です。
 彼はアテネに、「エピクロスの園」という学園を開きました。そこでは、女性も男性とどれい共に学び、さらには奴隷の身分である人にも門戸が開放されました。そして、そこに集まって来る人たちは、それぞれの分に応じた寄付を持ち寄り、友情にあふれた共同生活を送りながら、勉強に励んだということです。 (同上、p11)


 時間の大切さを説いたセネカの言葉も紹介されていたが、「われわれは、与えられた時間の「その多くを浪費している」という言葉には、耳が痛かった。与えられた時間を有効に使い切りたいものである。


「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。」

 

「髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではなく、長く有った(原文は傍点強調)にすぎない。」(「『人生の短さについて』、セネカ著」より))


2020年10月11日日曜日

未来の歴史を描いたホイットマン

 今日も、ホイットマンの詩を紹介する。そのために何度も読んだ。そして、「アメリカの歌がきこえる」で、やがて生まれ出るものの輪郭を描いている、と思った。様々な「人格」の歌い手が描かれている、と。「人格」の歌い手となり、やがて生まれ出るものの輪郭も描かれている。良い詩だと思ったら、何度か読んで味わうことも大切なのかもしれない。

歴史家に 

過ぎたことを祝福する君よ、
外面を、民族のうわっつらを、おもてにあらわれた生命を、探求してきた君よ、
人間を政治と集団と支配者と僧侶の産物として扱ってきた君よ、
わたし、アリゲニー山脈の住人は、人間を生まれながらのあるがままに扱い、
おもてにあらわれることのめったにない生命の脈拍を(人間がおのれにいだく偉大な誇りを)
  しっかととらえ
「人格」の歌い手となり、やがて生まれ出るものの輪郭を描きつつ、
未来の歴史を提示する。『ウォルト・ホイットマン』、アメリカ・古典文庫・5、亀井俊介他訳、研究社、1976年、p36

アメリカの歌がきこえる 

アメリカの歌がきこえる、さまざまな喜びの歌がきこえる、
職工の歌、ひとりひとりが職工らしく陽気に力強い歌をうたっている、
大工は板や梁をはかりながらうたい、
石工は仕事の準備や片づけをしながらうたい、
船頭は小舟の上で、水夫は汽船の甲板で、自分の世界の歌をうたい、
靴屋は仕事台にすわってうたい、帽子屋は立ったままうたっている、
木こりの歌、朝に、昼の休みに、日没に、野道をたどる農夫の歌、
母親や、仕事にはげむ若妻や、裁縫、洗濯にいそしむ娘の、心地よい歌の調べ、
それぞれの人が、自分の世界の歌、ほかの誰のものでもない歌をうたっている、
昼には昼の世界の歌 ―― 夜には親しくたくましい若者の群れが、
口を大きくあけ、力強く調べよい歌をうたっている。p37

2020年10月10日土曜日

人の「自我」をわたしはうたう

  武者小路実篤がホイットマンのことを評価していたのを知って、ホイットマンが書いたものを読んでみたいと思った。『民主主義展望』という著書もあり、その初めに、

「自然」が宇宙を通じて與えてくれる最大の教訓は、おそらく多樣と自由の教訓だろうが、それがまたこの「新世界」の政治と進步に現われている最大の教訓である。

 と書かれてあり、ますます、彼の業績に興味を抱くようになった。『民主主義展望』は、これからゆっくりと読んでいくとして、まず、一つの詩を紹介する。すでに、近代的な人間を謳っていたのだ。強調は私による。


人の「自我」をわたしはうたう 

人の「自我」をわたしはうたう、一個独立した人格を、
しかもさけぶ、「大衆とともに」「群衆の中で」という言葉を。

いのちのいとなみを、頭のてっぺんから足の先までわたしはうたう、
顔かたちや頭脳ばかりが詩神にふさわしいのではない、
完全な「人体」こそはるかにもっともふさわしい、
「女性」を「男性」とひとしくわたしはうたう

無限の情熟と脈拍と力にあふれた「生命」、
快活で、神聖な法のもと奔放不覊な行動むきにつくられた、
近代の人間」をわたしはうたう。(
『ウォルト・ホイットマン』、アメリカ・古典文庫・5、亀井俊介他訳、研究社、1976年、p35)

奔放不覊ほんぽうふき)何ものにも拘束されず、思いどおりに振る舞うこと。また、そのさま。

2020年10月9日金曜日

シャガールの苦悩

 すごい詩を読んだ。ゆっくりと読んでいるうちに、ところどころでため息が出た。 画家シャガールがアウシュビッツの悲劇を書いたものである。『戦争と美術』(司修著、岩波新書、1992年)で紹介されていたのだが、そこでは改行がなく読みずらかったので、私の判断で改行を入れて読みやすくして紹介する。
 シャガールは読み書きができない貧しいユダヤ人の家の出で、9人きょうだいの長兄として1887年にビテプスク近郊で生まれただ。そんな彼は、「ナチスのユダヤ人狩りに遇わずにすんだことで、シャガールは苦しんでいます。戦争と美術家の間で、これほどに反省と苦悩が表されることは、現代に至って初めて行われたものと思います」(p10〜11)と書かれていた。
 また、著者は、ヒロシマで生き残った人たちの苦悩にも思いを馳せ「広島で原爆にあって大火傷を負い、牧射能を受け、それでも生き延びられたかたの多くが、生き延びたことに苦しんでいるのを聞きました。あまりにも多くの死者を目にして助けることが出来なかったことへの反省をも含めた苦悩なのだろうと思います。あるいは僕など想像もできない地獄からの声が耳から離れないためかもしれません」(p11)と書いている。

(『戦争と美術』、p5」より)

シャガールの献辞 

わたしは彼ら全員を知っていたか?
わたしは彼らのアトリエにいたか?
わたしは彼らの芸術作品を近々と、あるいは離れて、見たか?

そして今、わたしはわたし自身を離れ、
わたし自身の実体を離れて、
彼らの知られざる墓へおもむく。

彼らはわたしを呼ぶ。彼らはわたしを、
自分たちの墓穴へ引きずり込む……
わたしは、無辜の罪を犯した者だ。

彼らはわたしに問う。「おまえはどこにいたのだ?」
……わたしは逃げていました……
彼らはあの死の浴室へ連れて行かれ
自分たちの汗を味わった。

彼らが不意に、まだ描かれていない自分たちの絵画の光を見たのは、
そのときだった。
彼らは達成されなかった歳月を数えた。

夢を、夢を満たすためにたくわえ、待ち望んでいた歳月を
……眠らなかった、眠たくなかった……
彼らは、自分たちの頭の奥にある、子供時代の跡を突き止めた。

そこでは、衛星を持つ月が、彼らに輝かしい未来を告げていた。
暗い部屋の中や、山々や谷間の草地の中での若い愛が、
かたちのいいあの果物が、
温かい乳が、咲き乱れる花々が
彼らにパラダイスを約束していた。

彼らの母親の両手と両眼は、
彼らとともにあの遠距離列車に乗っていた。
わたしには見える

今、彼らはぼろをまといて、裸足で、
沈黙の道を、足を引きずりながらのろのろと歩いているのだ。
イスラエルの兄弟たちの、ピサロの、そして
モデ″リアニの……わたしたちの兄弟たちは……ロープに導かれ、
デューラーの、クラナッハの、
そしてホルバインの息子たちに導かれた……
あの焼却炉の中の死へと導かれていった。 

どうすれば、わたしは涙を流すことができるだろう。
涙を流すには、どうすればいいのだ?
彼らが塩漬けにされてから、
長い年月が経った……わたしの目からこぼれた塩に……

彼らはあざけりとともに乾燥され、だからわたしは
最後の希望を捨てるべきなのだろう。
嘆き悲しむにはどうすればいいのだ?
わたしの屋根から、最後の屋根板がはがされている音が、
毎日、聞こえてくるのに。

かつてわたしが置き去りにされ、
いずれはそこによこたわって眠るための
ほんのささやかな土地を守るために、
戦うには疲労しすぎているときに。

わたしには、あの炎が見える。
立ちのぼって行くあの煙とあのガスが、
あの青い雲を黒雲に変えるのが見える。

わたしには、むしり取られたあの髪の毛と歯が見える。
あの髪の毛と歯は、わたしに向かって不穏な棺衣を投げかける。

わたしは、スリッパや、衣類や、灰やがらくたの山のまえの
この沙漠に立って、カーディシュの一節をつぶやいている。

そして、そんなふうに立っていると……
わたしの絵から、わたしに向かって下りて来るものがある。
片手に七弦の竪琴を持っているあの描かれたダビデだ。

わたしが嘆き悲しみ、
詩篇を唱えるために、彼は手を貸したいと思っている。

ダビデに続いて、わたしたちのモーゼが下りてきてこう言う。

誰も恐れるな、
新しい世界のために、わたしが新しい銘仮を彫り上げるまで、
おまえは静かによこたわっているべきだ、と。

最後の火花が消え、
最後の死体が消滅する。
新たなる大洪水を前に、それはじっと勤かなくなる。

わたしは起き上がり、きみに別れを告げる。
わたしはこの道をたどって新たなる神殿へおもむき、
きみの絵のために、
一本の蝋燭に火をともす。(英文からの邦訳、麻生九美)

2020年10月8日木曜日

暴力を暴力で返すことは、・・・

 繰り返すが、憲法第九条の「戦争の放棄」は、「人間の人間に対する最高理性の誓いであり、それは究極的に”国防”を否定するものである」(住井すゑ著、人文書院、1985年、p87~88)。これは、「非戦」の思想でもある。
 そこで、『非戦』(坂本龍一監修、幻冬社、2002年)からの言葉と詩を紹介する。

ゲルニカを忘れないで
 テロリズムの無差別殺人を憎むものが、空爆という先制攻撃をアフガニスタン国民に行うならば、無差別殺人という同じ罪を犯すことになる。世界はゲルニカの時代に逆流するのだろうか。ピカソの作品が訴えていたものが「非戦闘員の殺傷が不正であること」であったことを世界中が忘れようとしている。(加藤尚武、p59) 

武力で戦う「勇気」があるなら、言葉で闘う大きな「勇気」をもってみろ
 暴力を話し合いに優先させる姿勢において、米国政府と原理主義グループはよく似ている。ダーバンは、実は、英国で弁護士資格を取ったガンジーが人種差別反対運動を始めた所縁の上地でもある。彼の名を歴史に留めた「非暴力主義」をガンジーは最も「勇気」の必要な闘い方だと位置付けている。もし武力で戦い死ぬ勇気があるのならば、どんな困難な状況でも言葉という非暴力で闘う、もっと大きな「勇気」を示してほしい。(上村英明、p68) 

全地球的教訓
 文明とは、絶えず新たにしていくべきひとつの努力にほかならない。三〇〇〇年前であれ今日であれ、人間の社会集団どうしが平和を学ぶには、かならず正義の尊重という条件をクリアしなければならない。人の掟(法)は、猿や蜜蜂や小鳥たちのそれとは違う。それは自由と良心が不可欠な役割を果たし、価値観と信条が本質的意味をもつ掟である。

 危険にさらされた国の人びとに救いの手を差しのべないことは罪深い。しかしそれと同様、地上最大のパワーが内なる死の種を蒔き散らすことも罪深い。そのような倒錯した想像力が全世界を狂わせて、いまや現代版フランケンシュタインよろしく逆にアメリカを脅かす。想像と現実の境界線が破れた。ハリウッド得意の大破局映画がみごとに実演されてしまった。仮想の危険が現実のものとなり、かつてない規模でアメリカ経済を麻蝉させようとしている。(ファディ・ヌーン、ベイルート生まれ、p357 )

闇と光(Only Love and Light can) 

暴力の究極の弱点は
破壊しようとする当のものを生み出してしまう
悪循環でしかないことだ。

暴力によってウソつきを殺すことはできても
ウソを殺すことはできないし
真実を確立することもできない。

暴力によって憎しみを抱えた者を殺すことはできても
憎しみを殺すことはできない。
反対に、暴力は憎しみを増大させるだけだ。
そして、その連鎖に終わりはない……

暴力を暴力で返すことは、暴力を増殖し
星のない夜の闇をさらに深めてしまう。

闇に闇を追い払うことはできない。
それができるのは光のみ‐――
憎しみに憎しみを消し去ることはできない。
それができるのは愛のみ‐――
  (マーチン・ルーサー・キング、p120~121)

2020年10月7日水曜日

憲法第二章は”国防”を否定する

 再び、住井すゑさんに登場していただく。憲法9条に対する明快な新解釈に出会ったからだ。それは —— 憲法第二章「戦争の放棄」は、人間の人間に対する最高理性の誓いであり、それは究極的に”国防”を否定するものである(住井すゑ著、人文書院、1985年、p87~88) —— だ。敵を想定するから”国防”の必要を考えるわけだが、そのような考えについて、「人間不信もいい加減にしてくれ、と言いたくなる」と書いている。
 しかし、今や、「”国防”と言う概念そのものが意味をなさなくなってしまっていること」を人類共通の認識にしなければならない。このことは、「全体的破滅を避けるという目標は他のあらゆる目標に優位せねぱならぬ」というアインシュタインの原則を知ってから感じていたことだが、ハンナ・アーレントの『暴力について』を読んで、その思いをさらに強くした。

 二十世紀は、・・・暴力の世紀となった。けれども、現在の状況の中には、誰も予言しなかったが、少なくともそれに劣らず重要な要素がもう一つある。暴力の機器の技術的な発達が、今や、どんな政治的目標も、その破壊力には引き合わないし、武力紛争でそれらを実際に使用することも正当化できないところにまで達してしまったということがそれである。それゆえに大古から国際的な紛争における無慈悲な最終的裁決者であった戦争は、その効力の多くを失い、その魅惑のほとんどすべてを失った。『暴力について』(みすず書房、p97〜98)

 二一世紀になって、「暴力の機器の技術的な発達」、つまり、核兵器の発達、そして拡散が強まり、”国防”という概念そのものが意味をなさなくなってしまった。一度狙われたら、益々国防など不可能になってしまったからだ。、”国防”という言葉のトリックに騙されてはいけない。

2020年10月6日火曜日

民主主義の理念、平等原則に反する世襲制

 9月30日に「男系の男子之を継承す』は差別の根源」というというブログを書いた。そこで、「旧憲法を思うとき、真っ先に頭によみがえるのは『男系の男子之を継承す』の語句である。これには、私の感じとしては全く形容しがたいほどの差別 ―― 差別の根源とも言うべきもの(原文は傍点)が居座っている」(『いのちは育つ』(住井すゑ著、人文書院、1985年、p30~31)という文章を紹介した。だから、これは、旧憲法のことと思ってしまった。

 しかし、憲法第2条で、「【皇位の継承】皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と、皇室典範が立派に残っていた。確かに、新憲法になってからは、旧憲法のように、国民や議会の関与を許さない不可侵のものではなく、国民の代表でつくる国会により制定され得るものになったが、皇室典範第一条の「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」が条文として残されていたのである。

 それでは、憲法学者は、この辺のことをどう考えているのかを調べてみた。「憲法一四条の男女平等の原則の例外として許される」と次のように書かれていた。 

 世襲制は、本来、民主主義の理念及び平等原則に反するものであるが、日本国憲法は天皇制を存置するためには必要であると考えて、世襲制を規定したものであろう。そういう世襲制を憲法が認めている以上、女子の天皇即位を否定して男系男子主義を採用する(皇室典範一条)ことも、憲法一四条の男女平等の原則の例外として許されることになる(『憲法第三版』、芦部信喜著、岩波書店、p46)。

2020年10月5日月曜日

野党連立政権への道

 中村喜四郎 衆議院議員 直撃インタビュー記事(中村喜四郎氏「50議席差まで詰めれば次でひっくり返せる」http://c.bme.jp/68/314/3504/104084を読んで元気が出た。野党連立政権の誕生こそが日本を元気すると思ってきたからだ。

主なところを列記すると、

1、菅さんにも萩生田文科相にも知らせず、手続きも踏まずに一斉休校をやり、給付金も二階幹事長や公明党の山口代表に蒸し返されて一律10万円に変更し、補正予算案を組み替えた。求心力はどんどん落ちていった。二階さんひとりでできるわけもなく、公明党に菅さんの影響力が及んだんでしょう。そうして安倍さんは体調を崩し、投げ出す流れになっていくのをみんなよーく見ていた。
 次は菅さんと二階さんが決めるだろうという中で菅さんが手を挙げ、雪崩を打ったように後継が固まった。読み筋通りだったということですが、問題は1日でトップが決まるような国が民主主義国家と言えるのか。自民党は国政の停滞を招いてはいけないと言いますが、野党がコロナ対応の国会審議を求めても3カ月も開かない。コロナ禍と言いながら解散総選挙をチラつかせる。矛盾しています。

2、強権的な国になり、独裁国家に突き進む可能性が出てきています。自由民主党の伝統と思想とは相いれず、絶対やってはいけない禁じ手です。いずれ自浄能力を発揮して、対する動きが出てくると信じて見ていたけれど、1強体制は年々深刻化している。
 ですが、新党の戦い方は別に難しいことをやるわけではありません。野党がひとつになって戦えるか。野党がまとまれる環境をつくらなきゃいけない。トップ同士、あるいは幹事長、政調会長が交流し、ハーモナイズできる環境をつくる。そのためには、誰かが汗をかかなくてはならず、経験の長い人間がやるべきだと思った。
 人間関係も信頼関係もできたところで知事選をみんなで戦いました。新潟(18年)、埼玉と高知(19年)、東京(20年)で1勝3敗でした。いよいよ、国政選挙で一本にまとまれるかが試されています。その前段階になったのが先日の首班指名。共産党も国民民主党も加わり、(衆院で)134人がオール野党で立憲民主党の枝野代表に票を投じたのは大きな一歩でした。

、大切なのは「打倒自民党」という単純な理屈ではなく、「保革伯仲」「与野党伯仲」に向けてまとまること。自民党が目覚めて日本のためにしっかりやるのなら、政権交代しなくてもいい。野党はそういう考え方を持たなくちゃダメですよ。

、国民との距離を縮めれば、野党の未来は{野党連立政権へと}変えることができる。この7年8カ月、日本の政治は急速に変わり、諦めさせる政治が進んでいる。諦めさせる政治が自分たちを支えていると知っている自民党にはできない。だから、私たちはそこを突くんです。強調と{ }内は引用者による)

中村喜四郎 衆議院議員 直撃インタビュー

 合流協議の本格化から9カ月。立憲民主党や国民民主党などが新党を結成し、野党の大きな塊ができた。その勢力は衆参両院で150人。当選14回、「選挙の鬼」「無敗の男」と呼ばれ、野党共闘の旗を振るこの人も加わった。「一強多弱」と揶揄される政治構造の打破に動き出した矢先、安倍政権は総辞職。アベ政治の継承を掲げる菅政権が誕生した。早期の解散総選挙が取り沙汰される中、どんな戦略で巨大与党に挑むのか。

 

2020年10月4日日曜日

安倍政権が残したもの

 朝日新聞コラムに「(古田徹也の言葉と生きる)型崩れした見出しに危惧」(2020年10月1日)という記事が掲載された。
「藤井二冠を殺害予告疑いで追送検」という見出しが各種ニュースサイトに躍ったが、「藤井二冠を、殺害予告疑いで追送検」と読んでしまい、ぎょっとしたが、実際の記事の内容は、将棋の藤井聡太二冠に対して殺害予告をした人物が追送検された、というものだった。こうした「てにをは」の基本がなっていない「誤解を招くような見出し」が目立つ。これでは、「粗雑な言葉の流通により、粗雑な理解や思考が社会全体に蔓延(はびこ)るおそれが、十分に」あって心配だ。というような内容だった。
 形崩れした言葉も問題だが、国会を軽視し、言葉を軽視するのはもっと問題ではないかと思う。公文書に書かれた言葉を、廃棄とか黒塗りという形で抹殺してしまうからだ。朝日新聞GLOBE(2020年10月4日)に、「安倍政権が残したものとは」という見出し記事(三輪さち子著)があったが、「安倍政権が残した最たるもの」が、「国会を軽視」と「都合の悪い言葉の抹殺」ではないだろうか。GLOBEの記事でも、「都合が悪ければ公文書を出さなかったり、捨てたりする。先人が議論を積み重ねた憲法解釈をたやすく変える。自分に反対する国民の意見に耳を貸そうとしない」と書いている。
 安倍政権が残した負の遺産(モリ・カケ・サクラ)は、しっかりと引き継がれている。国民は決して忘れない。菅政権での解明が無理なら、野党連立政権の元で解明していただきたい。

2020年10月3日土曜日

平和をつくりあげる

平和 
ヤロスワフ・イバシュキェビッチ(ポーランド) 


地上の平和は
鳩のように舞いおりてくるのでもなく
季節のように
自然に訪れるのでもない
そして 光のように
ふり注ぐものでもない

地上の平和は
花束から 生れるのではなく 
稲光や
雲の上にあるのでもなく
青い虹から
流れてくるのでもない

地上の平和は
われわれの意志から
生れるのでなくてはならない

われわれの体から 血が噴き出すように
われわれの努力から
ゆっくりと
少しずつ
成長していくものだ


地上の平和は
われわれの 労働から
火のように燃える
そして手と手を
固く握り合うことから生れる
人々の
固い足踏みから
地上のすべての人々の
叫びから (「『名詩に学ぶ生き方(西洋編)』、荒井洌著、あすなろ書房」より、太字強調は引用者による

 この地上に戦争がなく、いつのときも平和であってほしい、とわたしたちは願っています。
 けれども平和は、その願いによって、むこうから自然のままにやってくるものではありません。うつくしい花束をもっているからといって、平和になるのでもありません。
 みんなで「戦争はしない。平和をつくりあげるのだ」と努力してこそ、世界は平和になっていくのです。それぞれにはたらき、手と手をにぎりあって心をかよわせ、戦いをおこすまいとかたく信じあってこそ、平和がうまれるのです。
  ―― 戦争はいけないと口でいいながらも、よほどしっかりと足をふみしめていないと、口実をもうけて戦争をはじめるのが人間です。武器で殺しあうのですから、どちらの人びとにとっても悲劇をもたらします。
 この詩では、平和をまつ(原文は傍点)のではなく、努力してつくりあげる(原文は傍点)のだといっています。あたりまえのことのようで、じつはなかなかむずかしいことなのです。(荒井氏による解説、太字強調は引用者による)

 ヤロスワフ・イバシュキェビッチ(一九二一年~)は、ポーランドの現代詩人、小説家、劇作家、評論家、翻訳家。ウクライナに生まれた。
 二十一歳でキエフの雑誌に詩を発表しはじめ、首都ワルシャワに出たのち詩集『八行詩』(一九一九)をあらわしたが、文学活動とともに政治に関心をもち国会議長書記となった。
 第二次世界大戦のドイツ軍占領下では地下組織の文化運動に加わり、戦後間もなく詩集「詩選集」(四六)や小説「尼僧ヨアンナ』(四六、のちに映画化)などを発表するとともに、ジャーナリストとして幅広く活躍した。五二年より国会議員となり、国際平和擁護運動を推進した。
 掲出詩の訳者・つかだみちこ(一九三二・昭和七年~ )は、東京生まれ。ポーランド文学者。 (掲出詩は、つかだみちこ/他訳『現代東欧詩集』土曜美術社、一九八九年刊より)

2020年10月2日金曜日

新しい時代状況に合わせた新しい価値観を!

 『危機と人類』の上下二冊を読んだ。と言っても、流し読みで、結論部分を読み取ったというだけだが、重要な示唆に富んだ視点を学ぶことができた。
 その要点は次の通り。

 世界史は、全体がグローバルな問題に直面している。しかし、識字率のかつてない向上、民主主義国の増大、地球規模の問題に対処する諸機関の発展など、確実に数々の困難を乗り越えて発展してきた。
 そういうわけで、これからも、歴史に学び、困難を乗り越えていくに違いない。その際大切なことは、「時代に合わなくなった価値観を捨て、意味のあるものだけを維持し、新しい時代状況に合わせて新しい価値観を取り入れること、つまり基本的価値観を選択的に再評価すること」(『危機と人類・下』、ジャレド・ダイアモンド著、日本経済新聞社、2019年、p145)だ。 

 日本において、どのような価値を捨て、どのような価値をより発展させていくべきなのか、これから考えていきたい。ただ、戦力を放棄して教育に力を入れてきたニカラグアの歴史には、学ぶところが多くあるのではないかと思っている。なお、以下の引用の強調は引用者による。

 世界史において今日ほど字の読める人が多い時代はない。私たちの世界史についての知識ははるかに増えているし、トウキュディデスよりもはるかに実例にもとづいた主張ができる。民主主義国は増えており、つまりいまだかつてないほど多くの人々が政治に参加できる
 無知な指導者が跋扈しているのも事実だが、国家指導者のなかには幅広く本を読む人もおり、彼らにとっては過去よりも今のほうが歴史から学びやすい時代である。各国の首脳陣をはじめ数多くの政治家に会ったとき、私の過去の著作に影響を受けたといわれるのはうれしい驚きだった。現在、世界全体がグローバルな問題に直面している。しかしこのI〇〇年、とくに過去数十年のあいだに、世界は地球規模の問題に対処する諸機関を発展させてきた
 以上のような理由から、私は悲観主義者の声に耳を傾けず、希望を捨てず、歴史について書きつづけている。そうすれば、望んだときに歴史から学ぶという選択肢を手にすることができるからだ。とくに、過去において危機はしばしば国家に困難を突きつけてきた。今でもそれは変わらない。しかし、現在の国家や世界は対応策を求めて暗闇を手探りする必要はない。過去にうまくいった変化、うまくいかなかった変化を知っておくことは、私たちの導き手になるからだ。(同上、p312~313)

 現実的にみて、日本が現在直面している問題は、一八五三年の唐突な鎖国政策の廃止や、一九四五年ハ月の敗戦による打撃に比べれば大したものではない。これらのトラウマから日本がみごとに回復したことを思えば、今日、もう一度日本が時代に合わなくなった価値観を捨て、意味のあるものだけを維持し、新しい時代状況に合わせて新しい価値観を取り入れること、つまり基本的価値観を選択的に再評価することは可能だという希望を私は持っている。(同上、、p144145

2020年10月1日木曜日

政権交代で核兵器禁止条約批准を!

 核兵器の開発、保有、使用を禁じる核兵器禁止条約を新たにマレーシアが批准し、発効までに必要な批准は、あと4か国となった。NHKサイトのニュースによれば、「批准にあたってマレーシアのヒシャムディン外相は『他の国も批准手続きを早めることを奨励する。核兵器の廃絶は国際社会の最重要課題であるべきだ』とするコメントを発表」したという。
 また、「しんぶん赤旗」のサイトニュースによれば、「フィリピンのドゥテルテ大統領も23日の国連総会演説で『核戦争がもたらす死を正当化できる理由は何もない』とのべ、『上院に条約批准を要請した』と明らかに」したという。 湯川さんたち科学者たちも、バグウォッシュ科学者会議において全体的な破滅を避けるという目標は他のあらゆる目標に優位せねばならぬ」というける原則を掲げたことがある。 今こそ、この目標を高く掲げるべきである。
 今度の総選挙における野党共闘の共同目標が論議されつつある。私は、詳しい個別政策とは別に、それらのエッセンスを三つか五つにまとめ、わかりやすくした方が良いと考えている。そしてその際、核兵器禁止条約の批准を第一に掲げ、目玉の政策にするのである。参考までに、私が考える第二以下は次の通り。
 第二は、コロナ対策、第三は、経済再建(新しい税制と軍事費の凍結)、第四、モリ・カケ・サクラを解明し、立憲主義を立て直す、第五、教育を見直し、学ぶ喜びをみんなに。