2024年9月30日月曜日

”現在に生きる”実例

 著書『94歳セツの新聞ちぎり絵日記』(木村セツ著、里山社、2023年)の書評(注)に、「セツさんのように、大切な人や好きなことを自分の中に抱き続けていたい」とあり、そうした生き方に、老後の生き方の実例を見せてもらったような気になりました。
 老後の不安と言ったら、健康に関する不安と孤独感に対する不安が主要なものだと思います。ですから、セツさんのように心の中の住人と対話ができれば、孤独感を抱くようなこともなくなるのではないでしょうか。
 いや、そうとばかり言えません。好きなことをやり、その成果でもある”ちぎり絵”という作品があります。その過程そのものが”現在に生きる”ことになります。つまり、セツさんの”ちぎり絵制作の過程”は、仏教でいうところの”空の実践”そのものであり、それゆえ、救いにもなってきたに違いありません。
 
(注)セツさんの中には、亡き人たちも一緒に生きていて、いつも大切にされているのだ。当店ではこれまでセッさんの個展を4回開催したが「回を重ねるごとにクオリティーがあがっている」という声を聞く。ちぎり絵に添えられた文章にも、チャーミングなセツさんの人柄がにじみでている。
 セツさんのように、大切な人や好きなことを自分の中に抱き続けていたい。年を重ねるのは面白い。若い頃に戻りたいとも思わない。でも、やっぱり、祖母が心を寄せていた人の話を聞いてみたかった。(山陽堂書店、遠山秀子著『暮しの手帖』、2024年10−11月号、p151)

2024年9月29日日曜日

九条の旗を高く掲げて

 常備軍の存在が平和を脅かしていることは、カントをはじめ、さまざまな論客によって論じられてきました。このたびは、常備軍の存在が軍拡競争を生み、その「軍拡競争そのものが各国に反射しあう不安と恐怖を通じて、戦争の原因そのものになるという、かなりたしかな法則」(注)と言い切っています。
 さらに現実にある常備軍の存在ゆえの悲劇に言及して、「われわれ世界の諸国民は、めいめいが軍備で針ねずみになった状態を当然として、なかばあきらめながらくらしている」(注)と書き記しています。戦闘機の騒音に怯え、米兵による度重なる暴行事件に怯えて暮らしている沖縄の状態は、まさに「軍備で針ねずみになった状態」そのものです。これからも、あきらめて暮らしていかなければならないのでしょうか。
 否です。声を上げ、1日も早く、常備軍のない日本を実現しなければなりません。そのためにも、憲法第九条の旗を高く掲げて、「軍備による平和と安全の保障をやめて、非武装的方法、非軍国主義的方法によって、平和と安全」(注)を実現していくことです。

 (注)憲法第九条は平和の理念と戦争の手段とがどうしても両立しない現実認識から出発している。この現実認識は、すでにたとえば、第一次大戦からイギリスの外相エドワード・グレイが、第二次大戦から日本の外相幣原喜重郎が引きだした結論であった。彼らが指摘したのは、軍備は安全を保障するどころか、すこし時間のはばをながくとれば、軍拡競争そのものが各国に反射しあう不安と恐怖を通じて、戦争の原因そのものになるという、かなりたしかな法則であった。戦争準備である以上、それは自明の理であるかもしれない。実際、ノエルーベーカーも指摘しているとおり、現在でこそ、われわれ世界の諸国民は、めいめいが軍備で針ねずみになった状態を当然として、なかばあきらめながらくらしているが、このような針ねずみ的武装におちこんだのは、近々七十年来のみじかい歴史にすぎない。それ以前、われわれの祖父たちはもっとちがった空気と状態のもとでくらしていたのだった。この状態は、軍備が軍備をうんだおかげである。
 憲法第九条の論理的意味は、軍備による平和と安全の保障をやめて、非武装的方法、非軍国主義的方法によって、平和と安全をはかれと命じているところにある。(久野収著「第九条と非武装防衛力の原理」『世界』、1964年6月、p130)

2024年9月28日土曜日

いじればいじるほど増大する放射能

 雑誌『朝日ジャーナル』に、槌田敦著<現代文明の鬼っ子 —— 「核廃棄物」>という記事があり、その中で核物質は”いじればいじるほど”放射能が増大することが書かれていました。(注)
 政府と電力会社は、使用済み核燃料を再処理してブルトニウムを回収し、それを燃料にして発電しようとしています。その過程で、使用済み核燃料は一度液体にされることを初めて知りました。そうして、「死の灰汁」と呼ばれている高放射能の残液が残るようです。だから、核物質は”いじればいじるほど”放射能が増大するというのです。(注)
 しかし、再処理事業の概要によれば、放射性廃棄物の量を半分以下に減らすことができると宣伝されています。さて、実際は具体的にどうなっているのでしょうか。残念ながらネットでは「死の灰汁」で検索しても、ヒットしたのは一件だけでした。死語になっているのでしょうか。


 (注)ところで、海洋投棄が話題になっているのは、原子力発電所などの雑物の核廃物だけである。これに対し、原子力発電所から生ずる放射能の九九%以上は、使用済み核燃料の中に入っている。これを再処理して液体とし、ここからブルトニウムを回収すると、高放射能の残液が残る。これがいわゆる死の灰汁と呼ばれているものである。これは放射能が高い。全世界の海水で均一に希釈したとしても、許容濃度を超えてしまう。海水の量は、原子力発電の放射能にくらべ思ったほど大量ではないのである。これを海に棄てるなどということはとうてい考えられない。
 そこで、陸地処分ということになるが、液体では扱いが不便だし、危険が大きすぎるので、なんとかして固化したい。たとえば、ガラス状にすればよいと誰もが考えるだろう。事実、一九五九年、モナコで開かれた放射能処理国際会議で、すでにソ連代表団はガラス固化を提案している。
 一般にガラスは水に溶けにくい。したがって安全と短絡しがちである。しかし、放射能を大量に含んだガラスは、放射線と発熱効果でひび割れし、最終的には粉体の塊になる。これは事実上の表面積が大きいから放射能が水に溶けだすことを防げない。
 海洋投棄でなく陸地処分にしても、このようなガラス固化体の場合、水と隔された地層を探さなければならない。そのような場所は日本にはない。アメリカでも、水から完全に隔離された土地など存在しない。
(中略)
 結局、放射能はいじればいじるほど、放射能を増大させ、取り扱い困難になってしまうので、放射能消滅のアイデアは露と消えてしまった。
 ここで、原子力事故と他の巨大技術事故の違いは何かを考えてみたい。それは、放射能に対する恐怖である。ではなぜ人間は放射能に恐怖するのだろうか。放射能による被害は、ラジウム夜光塗料の職業病で顕在化した。そして広島・長崎での大量虐殺とその後の経過から、放射能の恐ろしさは世界中に伝えられた。さらにアメリカなどによる太平洋核実験で、日本の漁民が被曝死亡し、また、アメリカ政府の安全宣言にかかわらず実験城の島民は高線量披曝し、強制移住させられた。
 そのうえ、核兵器開発に参加した者が放射能症害で苦しんでいる事実や、ウラン鉱山労働者、特にインディアンが、肺癌などで廃人になっていく様子が世界に報道され、ソ連での原子力事故のうわさも耳にするようになった。(「いじればいじるほど増大する放射能」『朝日ジャーナル』、1980年10月31日、p12)

2024年9月27日金曜日

仏さまのようなお顔

 元厚生労働事務次官の村木厚子さんが、瀬戸内寂聴さんと酒天台宗の僧侶井雄哉(ゆうさい)さんのことを「仏さまのような、お顔のお二人」と語っていました。「仏さまみたいなお顔だなあと思ったのは、寂聴さんと酒井さんのお二人です。修行なのか、悟りなのか、お顔に出るんでしょうね。お顔を見ているだけで幸せになれます」(「村木厚子さんに聞く:2 仏さまのような、お顔のお二人」『朝日新聞』、2024年9月27日)と。
 私はこのことを知って、仏師の仕事や仏像崇拝のことがわかったような気になりました。仏像や仏画にも「みる人、拝む人たちを幸せにする力がある」のかもしれません。いや、あるような気がしてきたのです。
 もう一つ、気がついたことがあります。私も仏さまのような顔になりたい、と新たな目標ができました。外に向かっては「永遠平和」、そして、内に向かって「仏さま」、これが私の人生の二大目標になりました。

2024年9月26日木曜日

中国とは仲良くすればいい

 「中国とは2000年にわたる外交の歴史に基づいて仲良くすればいい」、「日本が米中対立の矢面に立つ必要はない」 (注)。そうです、そうです、よくぞ言ってくれました。ありがとう大前さん、という心境です。
 たまたま図書館で『PRESIDENT』のバックナンバーを調べていて、目次に「日米関係を見直す」という言葉を見つけました。そして、その本文の中に私が考えていた日本外交のあり方を発見することができました。その通りなのです。地球環境のこと一つとっても、国同士が争っている場合ではないのです。間違いなくやってくる地球環境の危機に対して、世界が力を合わせて対処していかなければならないのです。それゆえ日本は、憲法九条を高々と掲げ、平和外交に邁進すべきなのです。その道こそ、ウクライナやガザ地区、レバノンなどの和平への一番の近道ではないでしょうか。

 (注)ロシアのブーチン大統領は国際的に孤立して四面楚歌の状態だ。日本とロシアはいまだに平和条約を結んでいないが、今話を持ちかければロシアは高い確率で乗ってくるだろう。平和条約が締結できれば、ロシアの軍事的な脅威は減る。さらに、ロシアに急接近している北朝鮮も日本に手を出しにくくなるだろう。
 また、中国とは2000年にわたる外交の歴史に基づいて仲良くすればいい。アメリカの子分として、日本が米中対立の矢面に立つ必要はない。
 もちろんアメリカとも引き続き仲良くすればいい。しかしベッタリしすぎた結果、アメリカの敵まで自動的に日本の敵になる愚は避けたい。
 世界は着実に第3次世界大戦へと進みつつあるが、危機だからこそ、はじめて現実感を持って考えられるという面もある。新しい地政学の中で、どのように振る舞うべきか。日本の外交関係を見直す契機としてもらいたい。(大前研一著「第3次世界大戦の危機を前に日米関係を見直すべき理由」『PRESIDENT』、2024年3月29日、p93)

2024年9月25日水曜日

光をもたらし続けるカント

 今、ショーペンハウアーの名文に感嘆し、その余韻に浸っています。
 実は、ショーペンハウアーの三分冊もある『意志と表象としての世界』とは、どんなことが書かれているのだろう、と、目次だけでも手に取ってみました。さすがに、目次を見ただけで難しそうでしたが、三分冊目は、付録としての「カント哲学の批判」だけだったのです。それで、初めだけでも、と読み始めたわけです。
 まず、感嘆したところは、カント哲学について論述した次の三点です。

 1、天才のもろもろの著作がもつこういう卓抜さというものは、究明することも、汲みつくすこともできない。それこそ、天才がおのれのもろもろの著作に刷りこむ印なのである。(注1)
 2、これらの著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。(注1)
 3、真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる。(注1)

 続いて感嘆したのが「天才というものは与える力をもっているが、通常の人類というものは、これと同じだけの受け取る力すらもっていない」(注2)、です。それゆえ、「その認識はさらにまた、無数のまちがった解釈やひずんだ応用というもろもろの迂路をまずたどらねばならない」(『意志と表象としての世界 正編 3』、p10)のです。
 そうして、ついに「その源泉の内容を徐々に部分的に受けとり、しだいに同意の度合いを増してゆき、このようにして、あの偉大な精神の持主から発して人類に注ぎこむことになる恩恵の分け前にあそびずかるようになるの」(上同、p10〜11)です。
 そして、やがて、”時を介して”、カント哲学が現実的な力を発揮するようになると言います。つまり、やがて「カントの教説の力と重要さが全体として顕わとなるのも、まず時を介してのことであろう。それは、時代精神それ自身がいつかその教説の影響によっておもむろに形を改められ、最も重要な点でも最も内面的な点でも変化をこうむり、あの巨大な精神の力をいきいきと証するときのことなのである」と。

(注1)天才のもろもろの著作がもつこういう卓抜さというものは、究明することも、汲みつくすこともできない。それこそ、天才がおのれのもろもろの著作に刷りこむ印なのである。それゆえ事実またこれらの著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる。ただその度合いを測り知ることができないまでである。(『意志と表象としての世界 正編 3』、ショーペンハウアー著、茅野良男訳、白水社、1975年、p9)

(注2)一個の天才が一回きり(傍点部分)の盛りの時代に人生と世界からじかに汲みとり獲得し、獲得され準備されたものとして他の人びとにさしだした認識は、そういう事情にもかかわらず、すぐさま人類の所有物とはなりえない。天才というものは与える力をもっているが、通常の人類というものは、これと同じだけの受け取る力すらもっていないからである。(『意志と表象としての世界 正編 3』、ショーペンハウアー著、茅野良男訳、白水社、1975年、p10)

2024年9月24日火曜日

若い人たちへの助言

 それこそ、何十年ぶりに、それこそ何気なく書棚から取り出して再読していたら、昔気に入ってノートの扉に書き写していた言葉に出会いました。それは、「成功裡に実行できる一つの小さな企画は、実行できない数百の大きな企画よりも価値があります」という言葉でした。このような助言を身につければ、(残念ながら、忘れていたくらいで面目ない)これからでも、いろんなことが実現できそうに思ってしまいます。
 まずは一つの小さな企画から、どうぞ!!
 もしも皆さんが、やる意志をもっているならば、必らず何かの仕事を見つけだし、それを成功裡になしとげることができるものです。
 ほかの助言を一つのぺましょう。余りに大きすぎて、きこえはよいが実行不可能なプランを計画してはなりません。
 すべて物ごとは実際的でなければなりません。他人にやってもらおうと頼むことは、皆さんがやってもできることでなければなりません。何ごとにおいても、皆さんは小さなことからしだいに大きなことに、やさしいことからしだいに難しいことに、水準の低いことからしだいに高いことに、すすまなければなりません。成功裡に実行できる一つの小さな企画は、実行できない数百の大きな企画よりも価値があります。(「若い友だちへの助言」『解放の思想』、ホー・チ・ミン著、大和書房、1966年、p164)

2024年9月23日月曜日

”命あっての物種”故に正戦なし

 日本においては、空襲で逃げ惑うことは昔のことです。ドラマや映画の世界の話です。しかし、ウクライナやレバノン、イスラエル、ガザ地区などでは、二十一世紀の今日なのに、空爆やロケット砲弾による戦闘状態が止みません。私たちは、見守るしか、方法がないのでしょうか?どこに解決の糸口があるのでしょうか?
 心配なことは、戦闘が拡大して核弾頭に触手が伸びてしまうことです。そうなる前に、せめて休戦状態に、できれば終戦になってもらいたいものです。そのためにも、戦闘が長引いている原因を考えてみる必要があります。
 実は、戦争を忌み嫌い、早く平和になってほしいと思っている人ばかりではないのです。つまり、を終結させないように奔走する人たちが昔から存在していたのです。エラスムスによれば、

 現にごく最近も、敵に対してよりも友に対してより強い敵対感情をいだいているある種の人びとが、ありとあらゆる手段を余すところなく講じて、戦争を集結させないようにと奔走したことをわれわれは目前に見て参りました。(『平和の訴え』、エラスムス著、箕輪三郎訳、二宮敬訳註・解説、岩波文庫、1977年、p12)

 そうでなくても、武器の供給がなければ、戦争は続けられません。つまり、戦争当時国に武器を供給するルートの存在が、戦闘長期化の大きな原因なのです。多くの国がウクライナを支援し武器を供与していることも事実ですし、それが正義とさえ言われてきました。それでは、戦争の長期化は避けられません。
 それでは、侵略されたら、やられっぱなしでいいのかという理由で防戦、正戦を主張すれば、その結果戦争が始まってしまいます。確かに侵略は許せません。かといって防戦して命を盾にして良いものでしょうか。”命あっての物種”だからです。真の独立はゆっくり取り返せばいいのです。無血開城の理論というものがあるのかどうか知りませんが、日本史ににおける徳川幕府の
無血開城は快挙でした。世界は学ぶべきではないでしょうか。

2024年9月22日日曜日

人間は”ヒト”として皆兄弟

 ショーペンハウアーの言葉「普遍的なものに向かう精神の方向こそが、哲学や詩において、いや、一般に芸術や学問において真正なる業績を生む不可欠の条件なのである」(「哲学とその方法について」『ショーペンハウアー全集・12』、白水社、1996年、p12)を読んでいたら、前に読んでいた「汚染される郷土」という次の文章中にあった「国防のためには止むを得ない」も普遍的なものではないか、という思いが強くなりました。「国防のためには止むを得ない」という意味で繋がっている「米軍基地周辺における騒音被害や辺野古への新米軍基地建設問題」を想起したからです。こうして普遍的なものに向かってみると、軍事基地の本質的な側面が見えてきました。
 つまり、軍事基地というものは、戦時には暴力の本性が敵対国の人民に発揮される。しかし、平時には、その暴力性が国内の人民に発揮されるということです。国防のためという一言で、軍の暴力性が免罪されてしまうのです。それでも、常備軍の存在を許してしまっていいのでしょうか。同胞の泣き寝入りを黙り続けていいのでしょうか。やはり、常備軍廃止の方向に舵を切り替えるべきです。「人間は”ヒト”として皆兄弟」なのですから。
 さて、コロンビア川流域、つまりはその身体の静脈に流され、人新世の地理に織り込まれてきたのが、強い毒性をもつ化学物質や、放射性物質だ。上流で展開する農業や鉱業、とりわけ製紙工場などからはダイオキシンや水銀が、ハンフォード・サイトからは放射性物質までもが放流され、大気、土壌、地下水を汚染し、コロンビア川に流入した。とくに戦時中から冷戦期にかけては、国防のためには止むを得ないと情報制限がされ、杜撰な管理のもとに、凄まじい量の放射性物質が周辺地域に放たれた。(石山德子著「沈黙の廃墟 人新世に宿る植民地主義」『世界、2024年10月』p158)

2024年9月21日土曜日

米国内”沈黙に包まれる廃墟”

 雑誌『世界、2024年10月』の第二特集は「核危機の人新世」でした。その中の石山德子著「沈黙の廃墟 人新世に宿る植民地主義」を読んで、プルトニウム生産の現場に定められた軍事関係者以外の地域住民が強制退去させられていたことを知りました。そうして「強奪した土地につくられた、入植者のための教育施設、かつては、若人たちの元気な声がこだましていたはずの校舎は、いまや鉄条網に囲まれている」だけでなく、「沈黙に包まれる廃墟の四方に広がるのは、茫漠とした風景」だと次のように訴えています。
 入植者たち、いや、侵略者たちは、やがてこの地に定住した。先述の史跡ツアーの目玉であるハンフォード高校は、一九一六年に創設された。ちいさな農村で、同校は重要な役割を果たしていたというが、マンハッタン計画の始動とともに、廃校に追い込まれた。入植者国家であるアメリカが、この場所をプルトニウム生産の現場に定め、軍事関係者以外は、強制退去の対象としたからだ。
 強奪した土地につくられた、入植者のための教育施設、かつては、若人たちの元気な声がこだましていたはずの校舎は、いまや鉄条網に囲まれている。沈黙に包まれる廃墟の四方に広がるのは、茫漠とした風景だ。わたしが参加したツアーの当日は、近年多発している山火事の影響で、あたり一面に煙霧が立ち込めていた。
(中略)
 煙のなかで、静けさに包まれた砂漠に、ぽつりと佇む廃墟は、人新世の現れである。それは時空を超えて、長崎、そして広島の惨禍、さらには損壊した福島第一原子力発電所、それらをとりまく葛藤と、幾重もの抑圧的な実状につながっているようにみえた。(『世界、2024年10月』p155)
 この記事を読んで、国家の暴力性について考えさせられました。アメリカ軍が日本に対してとってきた態度も、差別意識だけでは説明できないのであって、そこには国家の暴力性が深く関与してきたということです。なぜなら、同胞のアメリカ国民に対しても、国家の暴力性が深く関与してきたからです。国家とは何なのか、新たな問いが誕生しました。暴力性がどのように解明されているのかを知りたいです。

2024年9月20日金曜日

隠蔽されてきた“第四の被曝”

 NHKスペシャル「封じられた“第四の被曝(ひばく)”-なぜ夫は死んだのか-」(2024年9月14日)で、日本人がアメリカの水爆実験「ポプラ」(1958年7月12日)のモルモットにされた可能性のある被ばく事件のことを知りました。映像に示されているように、水爆実験のあった2日後には危険区域の近くを航行し、隊員が測定した放射線量も急上昇しています。水爆実験の危険海域近くに行かされたわけですから、何も知らずに被曝したビキニ事件と質が違うと思います。


 1958年、海上保安庁の船「拓洋」と「さつま」の乗員113人が被ばくしていて、その1年後、乗員の永野博吉さんが急性骨髄性白血病で命を落としていたのです。妻の澄子さんは事件の実態を知らされず、したがって公務で被曝していたにも関わらず補償もなく、その後の人生を過ごしてきたのです。
 なお、以下は友人メール内容です。
 番組の紹介ありがとうございました。
 初め、“第四の被曝”とは、福島原発事故のことかと思ってしまいました。しかし、間違っていました。海上保安庁の船「拓洋」と「さつま」の乗員113人が被ばくしていたんですね。全く知りませんでした。
 「私たちの社会が、その存在すら忘却してきた被ばく事件」と番組紹介がありました。しかし、真実は知らされていなかっただけでした。知らなくて当然だったのです。
 一番驚いたことは、多くの核実験に日本も加担していたらしいということです。それも、水爆実験の影響が及ぶ海域に向かって放射線の測定器など積んで出かけて被曝したわけですから、水爆実験の影響を調べるモルモットにされた(このことは、番組を見ていた時は気づかず、今書いていて気づいたことです。)と言っても過言ではないと思います。
 被曝の実情を知ったアメリカは「核実験反対運動が発展、アメリカはそれを恐れた。被ばくの『許容線量基準』を設けることで核への抵抗感を薄めようとしてきた」のです。


 そうした動きに呼応したかのように、東京大学農学部放射線による海洋汚染を研究檜山義夫教授は、「許容線量という概念は、核実験のために作った」とアメリカに手紙を送っていました。さらに、「人類が核エネルギーを享受していくためには一定のリスクを受け入れる」と言った発言が残されていました。
 このような核をめぐる大きな流れを知って、日本における第五の被曝を体験したにもかかわらず、その大きな流れが奔流となって流れていることを痛感しました。それゆえ、自然エネルギーへの転換にブレーキがかけられているのではなか、と。
 それにしても、都合悪いことは隠蔽しまえということが綿々と続けられてきたことに呆れてしまいます。このような体質の官僚と政党を、どうしてこれまで日本人は許してしまったのでしょうか。

2024年9月19日木曜日

「今」を生きる

  人生「いかに生きるべきか」は、宗教家や思想家にとって避けては通れない課題ですが、「今」を生きる価値については、共通して重要視しているようです。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの場合も例外ではなく”「今」を生きる”ことの大切さを説き、それができれば「もっとも長い生、もっとも短い生も同じことだ。 今はすべての人に等しく、したがって失われるものも等しい」(注1)と述べています。「もっとも長い生、もっとも短い生も同じ」というところが素敵です。
 またアウレリウスは、「各人は東の間のこの今だけを生きている。それ以外はすでに生き終えてしまったか、不確かなものだ」(注2)と言っています。岸見一郎さんの解説によれば、

 過去は「すでに生き終えて」しまって、もはやどこにもありません。未来も、誰にもわからないという意味で「不確かなもの」です。明日のことでも、想像している通りになることは決してありません。人は「東の間のこの今一だけを生きているとアウレリウスはいいます。(注2)

 だから、「すべての行為を生の最後の行為のように行う」(注2)と良いようです。
 最後に、「今日、この時間を最大有意義にすごすことが、人生というもの」(注3)という宗教家の言にも耳を傾けてみましょう

(注1)『自省録 マルクス・アウレリウス NHK「100分de名著」』、岸見一郎著、NHK出版、2023年、p107
(注2)上同、p108
(注3)人生どう転んだって同じことです。金があろうとなかろうと、どれだけの違いがありましょう。今日を最高に有意義に楽しく暮らせばいいのです。過ぎ去った昨日までのことは一場の夢です。明日からの生活は幻のようなもので、台風が来るか、地震があるか、わかりはしません。過ぎた夢は今さらどうにもならず、一寸先はどうかわからぬ世の中です。
 としたら、今日、この時間を最大有意義にすごすことが、人生というものです。人間生きている限り問題はつぎからつぎと起こります。われわれは毎日いろいろ大小さまざまの事件の中で生きているのです。解決をいそぐこともなく、あせることもありません。気ままに暮らすことです。
 人間、死ねば、いやでも応でもすべてが解決するのです。
 しかし、私のいおうとすることは、せつな的デカダン的に暮らせばよいということではありません。間違わないでください。今日を有意義に送ろう、精いっぱい生きようということです。精いっぱい生きたら、自己のベストで今日を暮らしたら、あとはケセラセラだということなの です。(『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p202~203)

2024年9月18日水曜日

老いることの美しさ

 老いることには、どうしても負のイメージがつきまといます。心身的に弱ってくるところに、社会的な圧力も加わってくるからです。長老として大切にされた時期もあったようですが、社会のお荷物になっているかのような肩身の狭い心理状態が加わってくるのです。
 しかし、そうした負のイメージを覆すようなとらえかた(注)を見つけ、意を強くすることができました。心の美しさを磨くことで、老いの美しさを見出すことができるというのです。
 そう言えば、「春よし、夏よし、秋よし、冬なおよし」といった詩を思い出しました。この詩も、紹介されていたユゴーの言葉に通じるものだと思います。要は、心がけ次第で老いることをプラスイメージに変換できるということではないでしょうか。(現在に生きる、がキーワードのような気がしています)

(注)老について、ある本にこう書いてありました。
 —— 女あり、ふたり行く。若きはうるわし、老いたるはなおうるわし。
 これは年輪ということです。若い人が美しいことは感覚的にわかります。しかし年寄りにはもっと次元の高い美しさがあります。肉体は衰えても、心の美しさが、顔や表情、しぐさのはしばしにも現われるのです。男の場合でも、人生経験の積み重ねが現われます。
「人間四十を過ぎたら、顔に責任がある」という有名なことばも、同じ意味でしょう。すべて「現在」のもつ美しさです。 さいきん新聞で読んだのですが、フランスの文豪ビクトル・ユゴーも、老年を評価して次のように歌っているといいます。

 青年はうるわし
 されど老年は偉大なるかな
 青年の眼には炎がかがやく
 されど老人の眼には光ただよう(『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p195〜196)

2024年9月17日火曜日

子どもの発見

 昔の子どもは、労働力の対象であって、保護されるべき人間とみなされるようになって初めて、いわゆる子供が発見されたと言われてきたようです。この話を知ってからしばらく経って、<もし「人間」という概念でくくるなら、黒人も白人も障害者もすべて、人は平等に「人権」をもつ存在だということになります>(注)という言葉に出会いました。その時、黒人も、女性も、はじめは人間でなかったことに気づきました。黒人自身、女性自身が人間としての諸権利を獲得してきたのです。これらの歴史を振り返っただけでも、社会が進歩してきたという進歩史観の正しさを示しています。
 もう一つ気づいたことがあります。純粋に概念の歴史、一つのお概念が豊かになってきた歴史に絞ることで、社会の民主化の方向を明確に示すことができるのではないか、という仮説がひらめいたのです。これからの課題です。
 
(注)人間が豊かで複雑な言語をもっているのは、概念でくくることができるからだと言われます。子どもに教えられて、私は概念というものがなぜ人間にはあるのかと考えるようになりました。そういう能力を人間はなぜ先天的に与えられているのか⋯⋯。もし「人間」という概念でくくるなら、黒人も白人も障害者もすべて、人は平等に「人権」をもつ存在だということになりますね。その人権にとって平和ほど大事なものはないでしょう。それならば私たちは、戦争でなく平和を生きる人間としてつながり合うのが当たり前ですね。(暉峻淑子・経済学者著『100歳で夢を叶える』、木村美幸、晶文社、2023年、p199)

2024年9月16日月曜日

充実であり健全である“空”

 宗教とは、「人間とは何か?」「人生とは何か?」「どうしたら死の不安を克服できるのか?」この三つに要約されます。そして、「この三つの疑問に対し”空”という言葉」と答えたのが、お釈迦さまです。(注1)仏教の”空”を体得できれば、死の不安を克服できそうだというのが魅力です。その上“空”は、「充実であり健全である」というのです。ますます興味が増してきました。
 そして結論です。

 空の境地というのは、対象と一体になるということです。
 椿の花の絵を描くときは、"椿になれ"、船を描くときは"船と一体になれ"ということです。将棋では「王将」の坂田三吉がボカをやって銀を死なせたとき、思わず「銀が泣きよる」というせりふを吐いたのは、まさに将棋の駒と坂田三吉とは一体になっていたからです。また専門 棋士が駒や基石を並べないでも指せるのも一体となっているということでしょう。柔道の投げ、 剣道の打ち込みも、空の境地のときに成功します。
(中略)
 空というのは、むなしいとか、からっぽとかいうことではありません。反対に充実しており、健全だということです。胃や歯が痛いときは、われわれは胃や歯のことを意識します。痛くない時は、胃や歯の存在を忘れています。これが空です。決して存在しないのでなく、充実して存在しているのです。(注2)

 なんて分かりやすい解説でしょう。続けて、空を体得するには修行という段階、つまり、技から術の段階を経て、芸の境地にまで達することが必要だそうです。(では、私にとって、どんな芸の境地が待っているのでしょうか。これからの課題です。)
 そうして、

 これが芸の段階にまでいくと、若乃花(現二子山親力)と栃錦(現春日野親方)の相撲のように、勝つとか負けるとかにこだわらず、ただ無念無想、全力を尽くして戦うのみです。勝ち、負けはあくまでもその結果にすぎません。その過程、いわば相撲の醍醐味わっているところに、この両横綱の真髄があったと思います。(注3)

(注1)『般若心経を考える』、竹井博友著、地産出版、1976年、p26からの要約
(注2)上同、p72~73
(注3)上同、p74

2024年9月15日日曜日

読書から得られる宝庫

  人生いかに生きるべきか、について考えたばかりですが、「人生”いかに生きる”べきか」は、「人生”いかに学ぶ”べきか」を抜きにしては語れないことを、思想家「エラスムス」に教わりました。エラスムスには、「学習計画」という小論もあって、その中で記憶の重要性と、その方法について次のように述べています。

 記憶もないがしろにはできません。これは読書から得られる宝庫であります。もちろん暗唱句や図表によって記憶しておくという方法もありますが、最上の記憶はやはり理解・整理・注意力という三要素に依存するものです。実際、記憶の本質とは対象を根底から理解することなのです。そして整理とは、一度に消え去ってしまったことを、あたかも正当な権利を行使して亡命先から帰国するように、再び心に呼び戻すことができるということなのです。最後の注意力ですが、何も記憶に限らず、あらゆる分野において大切なことですね。覚えておきたい箇所があったら、注意深く繰り返して読み、その後もつねに自分から思い出しては暗唱し、忘れてしまうかも知れぬ細かい点を確認しておかねばなりません。(「学習計画」『人類の知的遺産 23 エラスムス』、二宮敬著、講談社、1984年、p205)

 これまでの読書の方法が間違っていたのではないか、そう反省してしまいました。「記憶の本質とは対象を根底から理解すること」だったのに、どうも、わかったつもりで、多くのことを脈略も乏しく記憶の底にしまい込んで、記憶の手入れ(整理)もせず、次々を新しいトピックに手をつけてきていたようです。これからでも遅くないので、記憶の手入れを怠らないようにしていきたいと思います。そうして、読書から得られる”真の宝庫”というものを手にしてみたいです。


2024年9月14日土曜日

人生いかに生きるべきか

  月並みで、今更、という感じもしますが、人生のラストスパートに際し、「人生いかに生きるべきか」その、なんとなくのアウトラインが見えてきました。下記のように「フランス文学者河盛好蔵さんのインタビュー記事」で語られたことですが、これからの指針としたい内容でした。蔵書の整理は是非とも実現したいし、井上靖さんの『孔子』も読んでみたいです。

―読み方についてはいかがでしょう?
「フランスの哲学者アランは、読書の名人といっていいと思いますが、彼はつまらない本を100冊読むよりは、すぐれた本を1000回読むほうが、はるかにためになると考えていました。彼がバルザックの『谷園の百合』と、スタンダールの『バルムの僧院』を毎年読み返したというのは有名な話です。アランはその度ごとに新しい美しさをそこから発見したといっています」
(中略)
―本との関わり方の理想とは、どういうものでしょう?
 「私の場合は、本当に気に入った本を100冊、せいぜい200冊だけを手元に置いて、心ゆくまで繰り返し読むこと。そして、その蔵書すら整理していって死の枕許には一冊もない、というのが理想です。現実にはとても不可能で、死の前日まで買い漁りそうです。
 私の至福の時とは、寝転びながら、好きな本を取っかえ引っかえ乱読することです。誰にとっても仕事上、必要に迫られて読まなくてはいけない本もありますがね、必要以外の本は読まないというのはつまらないですね。時には、読んでも読まなくてもいいような本を読むことも大事です。よく、くだらない本とか悪書とかいいますが、私はこの世にそんなものはないと思います。どんな本にも取り柄はある。要は読み方ですよ」
(中略)
―テーマはどうやって探せばいいのでしょう。
 「どんなことにも興味がないという人はいないでしょう。まず、初めは無理にでも自分が興味を惹かれるものとか、自分にとって一番大事なことを探し、それを掘り下げていくことです。日本語でも、政治でも、ソ連の社会主義の行く末についてでも、分野は何でもいいのです。それに関する本を読み、資料を集め、そのことについてはいつもビンとアンテナを張っておく。それを積み重ねていければ、たいしたものです。
 そのうち、"これについては誰に聞かれても、自分なりの考えをいうことがで切るぞ”という自信がついてきます。そうなると、生きることが楽しくなります。問題意識を持っているということは、人生いかに生きるべきか、ということをつかむことでもあります。これから激動の時代を生きていく日本人にとって、自分自身の独自の考えを持つことは、とても大事なことです。この間亡くなった井上靖さんも、これからの日本人はどういうふうに生きていったらいいか、死ぬまで考えていた人でしたね。それで井上さんは晩年に『孔子』を書かれたのだと思います」(『上手な老い方 藍の巻 サライ・インタビュー集』、サライ編集部編、小学館、1997年、p46〜51)

2024年9月13日金曜日

資本の力を侮ってはならない

 これまで、梅原猛氏の思想に共感してきました。しかし、「あれ、おかしいぞ!」というところが出てきてしまいました。資本主義だけでなく、マルクス主義にまで原因を求め、宗教的な解決策に救いをもてめていることについてです。
 例えば、「マルクス主義においては、そのユダヤ教的一神論の性格が過酷なまでに徹底されるのです。そこには信仰を共有する者への同志愛はありますが、信仰の異なる者、マルクス主義に反対する者にたいしては愛も寛容もなく、ただ憎悪のみがあるだけです」(「人類哲学の創造」『梅原猛著作集・17』、p173)と決めつけて、切り捨ててしまっています。しかし、一神教による対立があったにせよ、そうした宗教的な対立による力よりも、はるかに大きな資本の力(産軍複合体のような)を免罪しては、真の解決に至ることは。到底望めないと思うからです。
 また、仏教が目指す人間像について「人間を欲望のとらわれから解放し、そして、欲望を超えた自由人」(注1)を考えていますが、欲望を超えられない人も肯定されるのが真の寛容社会で、梅原猛氏の思想には、一神教を批判しながら、一神教に陥ってしまっているところがあるのではないか、そんな疑問を持ってしまったのです。資本論が明らかにした資本の力を侮ってはならない、そう痛感した次第です。
 さらに言えば、人間を欲望人と精神人に分け、「その欲望を空の思想によって反省させ、人間を欲望人としてではなく精神人として再生させ、人間に利他の徳を教える」 (注2)などいうことは、思い上がりも甚だしい、と思うのですが、どうでしょうか。

 (注1)大乗仏教は「空」をその思想の根底におきます。空の思想を説くのは般若経典ですが、その説くところは結局、人間を欲望の執着から解放することだと思います。有にわれず、無にもとらわれず、肯定にもとらわれず、否定にもとらわれないということは、人間を欲望のとらわれから解放し、そして、その欲望を超えた自由人として積極的に世間で活動させるという意味をもっているのです。(上同、p180) 
 (注2)現代文明は、まさに人間を宗教や道徳の束縛から解放し、人間の欲望を最大限に満足させようとするものでしょうが、その欲望を空の思想によって反省させ、人間を欲望人としてではなく精神人として再生させ、人間に利他の徳を教えることは、現代文明にとって真に重要なことであると思います。

2024年9月12日木曜日

21世紀哲学の原理

 21世紀哲学が求められている、と書いたことがあります。梅原猛氏の思想に共感してのことです。その21世紀哲学の原理と、具体的な方向性を語ったところを見つけました。
 21世紀哲学の原理は、一言で”循環の思想”というものです。
 すなわち、
 

 人間もものもすべて永劫に循環してまたかえってくるという、そういう思想が二十一世紀哲学の原理にならなくてはならないと思う。そのためにはまず、ソクラテスをどうみるか、キリスト教をどうみるか、デカルト、マルクスをどうみるか、あるいは釈迦をどうみるか、孔子をどうみるか、というような問いに答えていかなくてはならないと思います。そういう新しい二十一世紀の哲学をつくりたい。(「人類哲学の創造」『梅原猛著作集・17』、p46)
 そうして、「近代文明の危機を救う道」という小論にまとめています。まず、資本主義と、資本主義を批判して誕生したマルクス主義の両者を、近代主義としては同類と見做し、近代主義では「近代文明の危機」を救うことはできないと結論しています。その上で「この近代文明がもたらした環境破壊、精神の崩壊という危機から、人類はいかにして救われるか」という問いを立て、「進歩と欲望という友人を捨てて、共存と循環という新しい友人と親しくしなければならない。・・・・それをしないかぎり、人類の未来はありえないと私は思う」と、次のように答えています。
 私は、現代科学によってすでにこの問題の解決の方向を暗示する警示を与えられていると思う。それは、ワトソンらによるDNAの二重螺旋構造の発見である。それは相対性理論と量子力学とならんで現代科学の三天発見であるといわれるが、生きとし生けるものはDNAの配列によってその運命が決定されるという。どこかデモクリトスの原子論を思わせる理論であるが、ここで重要なものは植物であり、動物であり、アメーバであり、カビであり、すべて同質なものであることが示されたことである。
 まさに環境破壊の時代が始まるときに発見されたこの法則は、仏教の「山川草木悉皆成仏」という言葉にも通じ、いまさらながら人間の生命が自然から孤立したものでなく、人間は自然と共生しなければならないことを教える。そして生きとし生けるものは、すべて生死の循環を繰り返しているのである。生あるものは、個としては必ず死なねばならぬ。しかし、種としては循環を繰り返し、生きつづけるのである。
 この共存と循環の原理こそ、人類のもっとも古い文明の原理であるが、人類が農耕牧畜生活を始めるや、人類は、自分は神によって理性を授けられた特別なものと思いこみ、自然の支配征服を始めるのである。この自然支配は近代科学技術文明の発展によってますます倍加され、人類はそれにより。かつて思いもよらなかったような富を手に入れたが、それと同時に、人類の未来を脅かすような環境破壊という傷をも負ったのである。
 もう科学と技術は、長い間、彼らが親友としていた進歩と欲望という友人を捨てて、共存と循環という新しい友人と親しくしなければならない。そうすることによって、欲望を超えた人間の倫理性、宗教性が目覚めるのである。 古い友と別れるのは容易なことではないが、それをしないかぎり、人類の未来はありえないと私は思う。(上同、p243〜244)

2024年9月11日水曜日

アメリカ、この暴力的体質

  アメリカについての「この暴力的体質」は、著書『生活の世界歴史 9新大陸に生きる』(猿谷要、河出書房新社、1980年)の第一部「アメリカ的生活文化の形成」の章立て項目名の一つです。その初めに、「われわれはまた、今までずっと暴力的な国民でもあった」と、こんな言葉が添えられていました。

 われわれはとかく自分自身を、平和で寛容であり、穏やかな国民であって、人間の政府ではなくて法律の政府のもとでいつも暮してきたのだ、と考えたがる。そして事実、人間を尊重し法律を尊重することは、アメリカの伝統の一つの特徴となってきた。たいていのアメリカ人たちは、生涯の大部分を通じてこの尊重の念をもち続けるだろう。しかしこのことは、われわれの伝統の唯一の特徴では決してない。なぜなら、われわれはまた、今までずっと暴力的な国民でもあったからである。このもう一つの特徴があることを認めないとするとアメリカ国民をありのまま見ることにはならないのだ。 ――A・シュレジンジャー・ジュニア――(p211)

 そして、暴力的な国民でもあった例として、「銃砲殺人は日本の八〇倍」と題する一文が綴られています。暴力の対象が「平和愛好的でラディカル」な人々というのが驚きでした。そして、これこそ銃社会アメリカの一面であると思いました。

「ヒューストンは暴力都市である。アメリカの上位一二都市のなかで、殺人発生率がいちばん高い。ボストンに比べて四倍も多い。暴力の主要発生源は、キュー・クラックス・クランやミニットマンのような極右グループで、彼らは、平和愛好的でラディカルとみなしている連中を、片っ端から爆死させたり焼死させようとしている。ヒューストン大学でビジネスの講座を担当しているある教授は、自宅を焼き払われてしまったが、それというのもこの教授が、アメリカ市民の合法的権利の擁護を求めるアメリカ・シビル・リバティーズ・ユニオンに所属していたためである。
 ヒューストンでは、立派なみなりをした住民が、大きなリア・ウィンドーのついた小型トラックを運転しているのをみかけるのは、そう珍しいことではない。窓越しには、ライフルや、ショット・ガンや、カービンを架けたガン・ラックが見える。なかには、職業上の理由で、そのようなガンを積み込んだトラックを持っているものもいるが、一部の住民にとってはそれが一種の身分の誇示になっているといわれる。住民たちは、ヒューストンでは自動車事故で死ぬ人間よりも、銃弾に当たって死ぬ人間のほうが多いと平然と語っている」
 これは数多くの著作を発表している自称社会観察者バッカードの『見知らぬ人々の国』(風間禎三郎訳)のなかの一節である。原著が発表されたのは一九七二年のことだから、これは過去のことではなく、まぎれもない現在のアメリカの姿として描かれているのだ。(p215)

2024年9月10日火曜日

米軍基地(米軍)の撤去を

 今まで、沖縄の辺野古問題に意識が集中しがちでした。新基地が建設されるかどうかの問題だから当然だとしても、だからこそ、沖縄以外の横田基地の問題にも目を向ける心要があります。横田基地の実態を知って考えたことです。
 横田基地は、週囲の人口51万人、24万世帯の人口密集地に存在し、横田基地半経3Km以内に小・中・高と、33もの学校が点在しているというのです。しかも、米軍基地から半経3Km地点にオスプレイが墜落した事例も報告されています。(2015年 5月16日赤旗)このように首都東京にある横田基地は、現に今も危険な状態にあるのようです。
 人権侵害の実態は、沖縄の米軍基地だけでなく、本土でも同じように存在していて、さほど問題にもならなかったのです。週辺にはあったとしても、全国に広がるようなこともなかたのです。多分隠蔽されていたのでしょう。
 しかし、米軍基地は日本のどこにあろうとも似たようなものであることがわかります。今こそ、辺野古に米軍基地はをつくらせないためにも、米軍基地、というより米軍そのものの実態を明らかにして、”米軍基地撤去を”と、言い続けるべきです。
 その点、”米軍基地撤去を”と、言い続けている日本共産党の存在意義は大きいです。例えば、今年に入って米兵による性犯罪が続いていますが、「米兵による卑劣な性犯罪をなくすための実効ある抜本対策は、米軍基地の撤去、米軍の撤退しかない」(『しんぶん赤旗』、2024年9月10日)という日本共産党那覇市議会議員の発言が報じられています。

2024年9月9日月曜日

楽しみを摘み集めよう

  老いの渦中にある身故に、身に染みる言葉というものがあります。つい最近も、そんな言葉にであいました。「われわれは年齢が、われわれの手から次々と奪い去る生活の楽しみを、歯と爪でもって食いとめなければならない」(注1)です。この後で、『ローマ諷刺詩集』の著者ペルシウスの言葉を引用しています。

 楽しみを摘み集めよう。いま生きているときだけがわれわれのものだ。やがておまえは灰となり、死霊となって、人の語り草となる。(注1)

 この後文章は続き、最後に”真の幸福について”で、締めくくっています。以下の通りです。その中でも、セネカがルキリウスに語ったという「真の幸福はこれを理解すればするほどその楽しみも大きくなる —— それを満足して、生命や名声を延ばそうと望まなくなるように、守ってくれるであろう。」という言葉が身に沁みました。そして、歴史上でもいいので、常に、頭の中に思い浮かべられるような”人生の師匠”を持つべきなのかもしれません

 「常に、頭の中に、カトーや、フォキオンや、アリスティデスを思い浮かべ給え。彼らの前では馬鹿でさえ自分の過失を隠そうとする。そして彼らをきみたちのすべての意図の監督者とし給え。きみたちの意図が正道を踏みはずしたら、きみたちの彼らに対する畏敬の念が、それを元通りに軌道にのせてくれるだろう。彼らは、きみたちを、自分自身に満足し、自分以外から何物も借りず、自分の精神を満ち足りた明確な思想の中にしっかりと落ちつかせるように、守ってくれるであろう。そして、真の幸福を理解したあとでは —— 真の幸福はこれを理解すればするほどその楽しみも大きくなる —— それを満足して、生命や名声を延ばそうと望まなくなるように、守ってくれるであろう。」これこそ、本当の素朴な哲学の教えであって、前の2人(小プリニウスとキケロ)のような見せかけの口先だけの哲学の教えではない。(注2)
(注1)『エセー・2』、モンテーニュ著、岩波文庫、p65
(注2)『エセー・2』、モンテーニュ著、岩波文庫、p67〜68

2024年9月8日日曜日

辺野古米軍基地問題の本質

 辺野古の問題は多くの問題を含んでいます。そのすべてに言及していては、問題の本質を見失ってしまいかねません。「いろいろあるが、ことの本質は何なの?」という問題意識を持つことが大切です。
 普天間米軍基地は、世界で一番危険な基地と言われ、だから、その代替え基地として、辺野古の新基地建設が計画されてきました。しかし、たとえ辺野古に米軍基地が建設されたとしても、軍用機による、家族の団らんを引き裂く爆音、健康を蝕む爆音がなくなるわけでもないのです。何よりも、騒音被害一つとっても、それが何十年と続いてきたのです。ということは、米軍基地の存在そのものが、「法の下の平等」「基本的人権」「平和的生存権」を侵害し続けることに変わりがないのです。したがって、「米軍基地の存在は、人権や生存権を絶えず脅かし憲法の形骸化を促す」ということにこそ、辺野古米軍基地問題の本質があると言えましょう。
 もし、辺野古への米軍基地を許してしまったら、今までの憲法無視、憲法形骸化路線を認めてしまうことにもなってしまいます。辺野古の米軍基地は、強大で最新の基地を目指しているのですから、米軍基地ができてしまったら、憲法形骸化が一層進むであろうことは目に見えています。
 そう言えば、100年持つ辺野古基地建設という言葉を思い出しました。これから100年も、戦禍の不安に怯えて暮らさなくてはいけないのでしょうか。これから100年も、基地あるが故の人権侵害に苦しみ続けなくてはいっけないのでしょうか。とんでもありません。そんなに地球が持ちそうもありません。後10年で”米軍基地は日本には要りません”と言える政府を実現させましょう。

2024年9月7日土曜日

未来への贈り物『新訳註の新約聖書』

  キリスト教について、興味と同時に謎があります。興味と同時に謎があります。内村鑑三のような優れた人物を産み、キリスト教が日本に伝わってきた頃、多くの信者を虜にしてきたから興味が尽きないのですが、一方で、キリストの名で戦争を始めた歴史があるわけですが、そうした信じられない側面もある点が謎なのです。ですから、「信仰の源泉となる聖書に誤訳や訳者の意図で趣旨を曲げられた箇所がある」(注)という指摘には驚きました。しかも、「ギリシャ語原文の一語一句を可能な限り正確な日本語に訳し、詳細な註を付けた。全てを一人でなしとげ、完成まで13年かけて全7巻8冊となった」(注)というのですから、脱帽です。その努力の一端でも触れてみたいです。なんらかの新しい発見があるかもしれません。

 (注)田川建三訳註『新約聖書』(作品社)。かつて学生運動の嵐が吹き荒れた頃、不正義と闘う真摯な学生たちを見殺しにできなかった著者は結果的に大学を追われた。そんな著者の誠実さは生涯変わらない。信仰の源泉となる聖書に誤訳や訳者の意図で趣旨を曲げられた箇所があることを許せず、ギリシャ語原文の一語一句を可能な限り正確な日本語に訳し、詳細な註を付けた。全てを一人でなしとげ、完成まで13年かけて全7巻8冊となった大作は、信仰の支えとして、あるいは研究の起点として長く読み継がれるだろう、平成日本が残した未来への贈り物だ。(「武田徹氏による書評」『サンデー毎日』、2018年1月7・14日、p125)

2024年9月6日金曜日

倫理価値を否定する公文書改ざん

 最近の政治の世界に、道徳や良心、倫理といった概念は無縁だと思っていました。あまり論じられることがなかった(少なくとも私はそう感じていました)からです。原発再稼働の是非を論じた際も、倫理の専門家が入っていると聞いたことありませんでした。(ドイツでは専門家に混じって、倫理の専門家も意見を述べる機会を与えられていました。) 
 しかし、見つけました。モリ、カケ、サクラなどを起こしてしまった「原因の一つは、とりわけ官の世界では良心や道徳と呼ばれるような、自分自身の経験や思考を積み重ね錬磨した内心の価値基準を多くの個人が持とうとしないこと」(暉峻淑子著「官僚は『公共性の回路』取り戻せ」『朝日新聞』、2020年4月19日)と表現されていたのです。
 今、「良心や道徳」と呼ばれるような内心の価値基準について、適当な概念がどうなっているのかは知りません。仮に倫理価値としてみます。ネットで調べても、倫理的価値ネットで調べても、
倫理的価値はあっても、倫理価値という概念はありませんでした。だからこそ今必要なことは、倫理価値概念の確立であり、市民権の確立ではないでしょうか。その際には、良心や徳、仁といった概念も含まれた歴史的な発展の産物として位置付けることが大事です。歴史が発展するにつれて世界市民的な感情も芽生えてくるからです。
 暉峻淑子さんはまた、「公文書改ざんは、民主主義、法治主義の大前提を揺るがすものだから、国民全体の奉仕者である公務員が絶対にやってはいけないこと」と書いていますが、倫理価値概念の側面から言っても、「公文書改ざんは、国民全体の奉仕者である公務員が絶対にやってはいけないこと」なのです。

2024年9月5日木曜日

「批判を許す」民主主義

 最近、新しい思想家(ということだけ分かって、どのような人なのかは全然わかりません)を見出すことができました。民主主義の特徴を、「多様性を包容する」ことと、「批判を許す」ことと、次のように語っていたフォースターです。今の日本政治を考えたとき、特に「批判を許す」ことが重要です。文書の改ざんや隠蔽が横行しているからです。というのも、”批判を恐れず”、”批判を許す”民主政体ならば、文書の改ざんや隠蔽などあり得ないのです。
 民主主義のために、私は二度盃を乾す。一度はそれが多様性を包容するゆえに、今一度はそれが批判を許すがゆえに。ただし乾盃は二度で結構である。三度挙げる必要は少しもない。それは「わが恋人なる愛する共和国」のみが受くるに値いするものであるからである。(フォースター著「わが信条」『世界人生論全集 7』、筑摩書房、1963年、p53)
  フォースターについて調べていて、『E.M.フォースター著作集 全12卷』(みすず書房)があって、11卷が『民主主義に万歳二唱 1』(小野寺健・川本静子他訳)、12卷が『民主主義に万歳二唱 2』(小池滋・北條文緒他訳)であることがわかりました。どんな内容なのか、新たな興味が湧きました。読むのが楽しみです。

2024年9月4日水曜日

ニーチェ思想の核心

 ニーチェ思想は、「21世紀にいたるまで、『ツァラトゥストラ』はなおもアクチュアルなテクストとして読み継がれている」(注、p55) そうです。現代に求められている思想だからに違いありません。次に紹介するニーチェの思想の核心を知って、ますます、そう確信を深めたところです。
 すなわち、「ツァラトゥストラの教えの核心」は、「多様なものの生成を永遠に肯定することであり、多様性を生成する力を歓びとともに肯定することにほかならない」のです。その過程で、「否定から肯定へ、受動性から能動性へ、虚無への意志から力への意志への価値転換が遂行される」のです。そうして”ツァラトゥストラが説く「超人」”になることができると、「人間が不可避的に抱えもつニヒリズムを完全に克服し、ひたすら肯定性に貫かれた存在にほかならない」と言えるようになるのです。

 ツァラトゥストラの教えの核心をなす「永劫回帰」とはどのような思想なのか。端的に言えばそれは、否定的なもののすべてを退け、らゆるものが永遠に回帰することをみずから能動的に欲することで、万物を絶対的に肯定することである。ただし、それは<同一なもの>の悪無限的な反復ではけっしてない。ここで問題になっているのはむしろ、多様なものの生成を永遠に肯定することであり、多様性を生成する力を歓びとともに肯定することにほかならないからだ。このようにして「永劫回帰」の思想のなかで、否定から肯定へ、受動性から能動性へ、虚無への意志から力への意志への価値転換が遂行される。とは、人間が不可避的に抱えもつニヒリズムを完全に克服し、ひたすら肯定性に貫かれた存在にほかならない。(注、p55) 

(注)『ドイツ文学の道しるべ ニーベルンゲンから多和田葉子まで』、畠山寛編著、ミネルヴァ書房、2021年

2024年9月3日火曜日

豊かで広がりのある芸術鑑賞

 芸術鑑賞の方法について、美術史などの基礎知識”あるなし”で違いがあることは、なんとなくは理解していたつもりでした。しかし、基礎知識抜きに鑑賞する方法と基礎知識を前提に鑑賞する方法は、車の両輪のように、どちらも欠かせないことがわかってきました。高田幸徳さんに教わったことで、具体的には次の通りです。
 理屈はわかりました。あとは実際に”豊かで広がりのある鑑賞体験”を積み重ねていくだけです。

 絵画鑑賞は見る者がその背景にある歴史や文化、画家の人生や作品に込めた思いを理解しようとし、想像を膨らませることで、豊かで広がりのある体験になるのだと思います。
(中略)
 人間の脳は右脳が感性、左脳が論理を司っているとされます。作品そのものの迫力や美しさに感動するのは右脳ですが、作品にまつわる知識を理解するのは左脳です。左脳に知識を備えて改めて作品を目にすると、初見とはまた違った視点で作品を楽しめます。(高田幸徳著『プレジデント』、2024年9月13日、p101、下線は引用者)

2024年9月2日月曜日

スクワットの崑ちゃん

 運動が人間に欠かせないこと、運動を継続することで体調が維持されてり、体力が向上したりすることは、多くに人によって語られています。人間である前に動物であったこと、動物としての基礎の上に人間が存在していることを考えれば、当然のことです。
 その実例として励まされたのが、90歳になって元気になられた大村崑さんの人生です。夜中に何度も起きていたのに「ぐっすり眠れるように」なったようですが、「膀胱が歳をとったらゆるんでくるでしょ。若い筋肉に変わったら、夜中に起きなくなった。90歳で自分史上最高の体になってしまいました」(注、p85)というのです。そんな崑さんの病歴を知って驚きました。
 
 ちょっと前までは、いつも疲れていて、ヨタヨタ歩き、息切れ、動悸、眠りの浅い不健康な老人だったのです。それが86歳で奥さんに勧められて入ったジムに通うようになって、本当に「元気ハッラッ」になったんですね。
 僕はね、小学校2年生のときに左目が弱視になり、さらに左耳を育ての親に殴られて難聴になり、19歳で肺結核を発症し片肺切除、おまけに58歳で大腸がんを患って手術⋯⋯。ここ20年ほどで「老い」も加わって、不調続きの体になってしまっていたのですね。(注、p81)
 それなのに、
 僕は本当に健康になりました。やり始めた当初は3〜4回しかできなかったスクワットも、今では、40キロのバーベルを背負って10回スクワットを繰り返すのが1セットとして、基本的にこれを3セット行っています。今では「スクワットの崑ちゃん」って言われていますよ。
 とにかく「筋トレ」のおかげで、今は身も心も元気ハツラツです。僕は86歳から体の大改造をしたのですよ。僕が身をもって証明しているように、何歳からでも体は変えられるし、体が変われば気持ちまで明るくなるのです。(注、p84)
 食事にも注意なさっていて、「量が足りないときはパンを食べるけれど、炭水化物は摂りすぎないように注意しています。一日二食、寝る前の夕食で炭水化物は摂らない。腹八分が大事ですね」(注、p87)。後に続きたいものです。

(注)『100歳で夢を叶える』、木村美幸、晶文社、2023年

2024年9月1日日曜日

最高の善と最大の悪とは

 何事かを議論する際は、議論の前提を確認し、その前提を共通認識して初めて、議論が展開されるのですが、そうしたルールを無視した議論が横行していると危惧しています。その上、概念の統一的な理解という大切な議論の前提も、軽視されているのではないでしょうか。大切なことは、「キーワードの意味内容が同じでなければ議論にならない」から、「概念をお互いに共有して、そこから議論をする」(石川好著「発想の転換」『目からウロコ』、日本カメラ社、2005年、p109)ことなのです。
 似たようなことで必要なことは、物事を根本的なことから考えていくという哲学的思考ではないでしょうか。そう気付かされたのが次のキケロの文章です。人生の
終極目的など、人それそれではないか、そう思うかもしれません。しかし、永遠平和という考えもあり得ます。一度戦禍になれば、ほぼ全てを失ってしまうからです。いずれにせよ、議論の展開もそうですが、キケロがどのような結論を導き出したのかには興味があります。

 私が哲学について書きしるすことを精読することにしている人は、本書ほど読みごたえのあるものはないと判断するであろう。何故なら、哲学上のすべての問題ほど、とりわけ本書で追求される問題、すなわち終極目的とは何であり、りっぱな生活と正しい行動のすべての方針の基準となるべき最終のもの、究極のものは何であり、自然は欲求すべきもののうち何を最高のものとして求め、何を最大の悪として避けるか、というような問題ほど、この世で真剣に追求しなければならないものが何かあるだろうか。こうした事柄について大学者の間にはなはだしい意見の相違がある以上、人生のすべての務めの中で、何が最上の最も正しいものであるかを究明することが、誰もが認めてくれる私の品位にふさわしくない、と考える人があるだろうか。(キケロ著「最高の善と最大の悪について」『世界人生論全集 2』、筑摩書房、1963年、p9、太字強調は引用者)