2024年10月31日木曜日

書物は無限の精神の鉱脈

 また、何と”うまい例え話だろう”と感心してしまった文章(注1)に出会いました。「一冊の書物は無限の精神の鉱脈」で、「読者は生命にも理解力にも限度のある鉱夫」に例えられるというのです。だから、前に「掘り出した鉱石と今日掘りあてた鉱石とが質も量も違うのは当然だ」となるのです。私も「パスカル遠望」の中に”精神の鉱脈”をの中に発見したことになります。
 はじめに” また”とかいたように、カントについて書かれた著書の中に”精神の鉱脈”をの中に発見していました。カントなどの「著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる」(注2)まったくそのとおりです。パスカルの『パンセ』は渡辺一夫や私にまで影響を及ぼし、カントの著作は、ショーペンハウアーや私にまで深く影響を及ぼしてきたのですから。

 (注1)ふとしたことでパスカルの『パンセ』を読み返してみましたが、昔読んだ本を読み返す場合にいつもそうであるように、今度も、昔はずいぶんよい加減な読方をしたものだなと、つくづく思いました。恐らく、一冊の書物は無限の精神の鉱脈にもたとえられましょうし、読者は生命にも理解力にも限度のある鉱夫と考えられるかもしれません。昨日僕が掘り出した鉱石と今日掘りあてた鉱石とが質も量も違うのは当然だとしますと、来年僕が再び読むかもしれない『パンセ』は、今年とはまた別な感銘を僕に与えるかもしれず、楽しいような恐ろしいような気もします。その上、僕の判る範囲は限られていると考えますと、ちょっと寂しくもなりますが、現在僕には、まだまだ判ってしかるべきものが残されていると思えば、楽しみにもなります。(「パスカル遠望」『渡辺一夫著作集 6 フランス文学雑考 上巻』、筑摩書房、1971年、p361) 

 (注2)偉大な精神の持主の著作の場合、その価値をすみずみまではっきりと説き明かすよりも、もろもろの欠点や誤謬を指摘することのほうがはるかにたやすい。なぜかといえば、それらの欠点はひとつひとつ限りのあるものであり、したがって完全に見渡しのきくものであるからである。これに対し、天才のもろもろの著作がもつこういう卓抜さというものは、究明することも、汲みつくすこともできない。それこそ、天才がおのれのもろもろの著作に刷りこむ印なのである。それゆえ事実またこれらの著作は、ひきつづいて何世紀にもわたり、師匠として老いることを知らないものとなるのである。真に偉大な精神の持主によって完成された傑作は、いつも人間の種族全体に深く徹底的な影響を与えるものになる。どんなにへだたった世紀であれ、土地であれ、それは光をもたらし、影響を及ぼすことができる。ただその度合いを測り知ることができないまでである。(「カント哲学の批判」『ショーペンハウアー全集 4』、茅野良男訳、白水社、1996年、p9)

2024年10月30日水曜日

アメリカを理解するために

 日本の要は、本来日本国憲法です。しかし現実は、日米安全保障条約が要になっています。何よりの証拠は、世界有数の自衛隊の存在と在日米軍の存在です。日本国憲法は、平和憲法といわれるごとく戦力によらないで平和国家を建設していくことになっています。そのような憲法を軽視し、あるいは無視しているのが日米安全保障条約なのです。
 ここで考えてほしいのが、アメリカを信用していいのか、ということです。そのためには、真実のアメリカというものを理解する必要があります。その材料は、戦後のアメリカ氏における戦争史で事足りますが、多民族を虫けらのように扱ってきた度重なる核実験の歴史(注1、注2)も、決して消えることのないアメリカの汚点です。
 さらには、「一人のジャーナリストが、ソヴィエトに予告なしに原子爆弾を投下するべきであると主張」(注3)したのを聞いたフォ-スタ-の生々しい体験も、考えてみれば恐ろしい話です。だからこそ、日米安全保障条約は破棄し、真の友好条約を結ぶべきです。この方向性こそ、日本国憲法を生かす道なのです。

 (注1)エニウェトク環礁でも、一九四八年から一九五八年までのあいだに四三回の核爆発実験がおこなわれ、三つの島が完全に消えてなくなった。エニウェトク島の住民一三六人も、一九四七年十二月から一九六九年までの二二年間、べつの島に移住させられていた。 『核兵器 その廃絶をめざして』、服部学著、東研出版、1982年
 ミクロネシアばかりでなく、ジョンストン島、クリスマス島、ムルロア環礁などの太平洋の島じまでも、イギリスやフランスもくわわって数多くの核爆発実験がおこなわれた。一九八二年のはじめには、ボリネシアのムルロア環礁が、たびたびのフランスの核爆発実験でひびがはいり、環礁にのこっていた放射能がまわりの海にもれだしたことが報じられた。(『核兵器 その廃絶をめざして』、服部学著、東研出版、1982年、p33)

 (注2)棄民の群島 : ミクロネシア被爆民の記録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 (注3)彼らにとっての外交問題とはロシアを意味するということである。中国もある程度含まれるが、ほとんどロシアである。ロシアが常に彼らの意識にのしかかっている。彼らは戦争を恐れ、自分たちの生活水準が低下するかもしれないことを恐れている。たぶん私のために開かれたある晩餐会での出来ごとを私は忘れないだろう。客のなかの一人のジャーナリストが、ソヴィエトに予告なしに原子爆弾を投下するべきであると主張し、一座の賛同を受けて「死んでしまえば仲間はいない」という言葉を不正確にもオリヴァー・クロムウェルの言葉だとして引用した。
 「うまい言葉だろ?。トム」
 彼はもう一人のジャーナリストに呼びかけた。「死んでしまえば仲間はいない」
 トムはそれがうまい言葉だと同意した。「死んでしまえば仲間はいない」彼らは晩餐会のあいだじゅう声を合わせ、あるいはかわるがわるその言葉を唱えていた。
 彼らは教養ある人間だったが、ことロシアとなると彼らの顔には血がのぼり、人間味が消えた。私の他には誰もそのような言動に愕然とした者はなかったようだった。誰も驚いたりしなかったし、主催者の女性はあとで、その晩餐会が大成功だったと喜んでいた。アメリカを理解しようと思うすべての人びとは、ロシアにかんするこの強迫観念を知らなければいけない。それがいくぶんかは、われわれにたいする関心の欠如の説明となる。(「アメリカ合衆国」『E.M.フォ-スタ-著作集 12』、みすず書房、1994年、p250~251、改行を加え読みやすく編集しました)

2024年10月29日火曜日

米軍基地と核兵器の貯蔵施設

 図書館に展示してあった本に気になる記述を見つけてきました。「『左記の核貯蔵地をいつでも使用できる状態に維持し』と書かれた基地は、次のとおり」(『沖縄返還の代償 核と基地』、「NHKスペシャル」取材班著、光文社、2012年、p174)として、嘉手納基地、辺野古基地、那覇空軍基地、那覇空軍施設などが挙げられていたのです。
 気になった、耳慣れない言葉「核貯蔵地」をネットで検索してみました。ほとんどが放射性物質廃棄物のサイトが示されて、「核貯蔵地」という言葉そのものが使われておりませんでした。AIによる概要によれば、

 核貯蔵地には、使用済み核燃料を一時的に保管する「中間貯蔵施設」と、使用済み核燃料を再処理した後に残る高レベル放射性廃棄物を地層に埋設する「地層処分場」があります。

 という具合で、核兵器の貯蔵地、ないし貯蔵施設に関することはシークレットになっているようです。しかし、考えてみれば米軍基地に核兵器の貯蔵施設があっても不思議ではありません。ない方がおかしいのかもしれません。もう少し調べてみる必要がありそうです。

2024年10月28日月曜日

人類、人(ヒト)という種の一員として

 いうまでもなく、核兵器は世界に対する最大の脅威です。核兵器は抑止力となって戦争を抑止しているなど、とんでもないことです。 改めて、ストックホルム・アピール(注1)とラッセル=アインシュタイン宣言(注2)に立ち帰ってみました。
 ストックホルム・アピールにおける「諸国民にたいする威嘛と大量殺りくの兵器である原子兵器の絶対禁止」は、核兵器禁止条約として実現していますが、日本政府は批准していません。また、「原子兵器を使用する政府は、人類に対して犯罪をおかすものであり、戦争犯罪人としてとりあつかわれるべき」という主張は、核兵器が存在する限り日々新しい主張として存在し続けます。
 ラッセル=アインシュタイン宣言は、「あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員」としての宣言であることの重みを噛み締める必要があります。そして、「核兵器が人類の存続をおびやかしている」現実の危機が増してきているのですから、「世界の諸政府があらゆる紛争問題解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する」という決議は、ますますその重みが増してきているのです。

 (注1)なんといっても、全世界的な原子兵器禁止運動を広げる発端となったのは、一九五〇年三月、平和擁護世界大会委員会第三回総会で提唱された署名運動であった。開催地にちなんで名づけられたストックホルム・アピールはつぎのようによびかけている。
・・・・・・・・・
ストックホルム・アピール
・わたくしたちは、諸国民にたいする威嘛と大量殺りくの兵器である原子兵器の絶対禁止を要求します。
・わたくしたちは、この禁止を保証するため厳重な国際管理の確立を要求します。
・わたくしたちは、どのような国にたいしてであろうと、最初に原子兵器を使用する政府は、人類に対して犯罪をおかすものであり、戦争犯罪人としてとりあつかわれるべきであると考えます。
・わたくしたちは、全世界のすべての善意の人びとにたいし、この訴えに著名されんことを訴えます。
一九五〇年三月一九日、ストックホルム
・・・・・・・・・
 やがてこの署名運動は全世界で七億の署名を集めることとなる。そしてこの署名に示された全世界の世論こそが、朝鮮戦争での原子兵器の使用を許さなかった大きな力であった。(『核兵器と核戦争 科学全書』、服部学著、大月書店、1982年、p202)

 (注2)湯川秀樹博士ら一一名の科学者の署名をそえて、一九五五年七月九日、ラッセル=アインシュタイン宣言がロンドンで発表されたのであった。宣言は長文のものであるが、
「あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員として」の立場に立って
「水素爆弾による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあること」を指摘し、世界の科学者と一般大衆に
「核兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて」「世界の諸政府があらゆる紛争問題解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する」という決議に署名することをよびかけたものであった。(上同、p204〜205)

2024年10月27日日曜日

最大の「日本の課題」は?

 今日において最大の「日本の課題」は何でしょうか。日本国憲法の平和主義に反して世界に肩を並べるほどのの軍事量を持ち、その上、さらなる大幅な防衛(軍事)予算を掲げていることです。にもかかわらず、衆議院選挙でももっぱら与党が過半数を維持できるかどうかが注目されているだけで、防衛予算が争点にされることなどなかったのです。
 ところがです。すでに1952年頃に、次のように日本いおける再軍備問題が、”最大の「日本の課題」”であると捉えられていたのです。

 今日において最大の「日本の課題」は、世界の平和のためにさきがけて戦争を放棄し、を全廃した日本が、ふたたび武器をとつて自国を防衛するという問題でありましよう。しかしてかくのごとき重大な国策の変更を、主権者国民の承認をえることなく、すでに国策の変更が決定したかのごとく再軍備していることであります。(「憲法の尊重と教育」『常識憲法学』、関口泰著、朝日新聞社、1952年、p8)

 この一文は、「日本いおける再軍備問題が、”最大の「日本の課題」”である」ことを示しているだけではありません。この頃から、主権者国民の承認をえることなく、重要な国策が変更されていたことを示しています。憲法軽視の姿勢が日本の政治の最大の問題なのかもしれません。

目的を実現していく意志力(26日分)

 大江健三郎さんが憲法を守る集会で、「想像力とは、人間の生きる力をビジョンとして表すものだと思います。この点で、憲法とは、武力亡き平和を実現しようという想像力を表現しています」(赤旗日曜版、2004年 10月 3日)と言っています。確かに日本国憲法の第9条は、未来社会のあるべき姿を想像力の力で描き出しています。そのビジョンが、今まで、われわれ日本人の生きる力になってきました。
 会社の組織にも、家族にも、想像力を駆使して作った、生きる力になるようなビジョンが必要です。人間一人ひとりのビジョンも必要です。こうしたビジョンは、馬の前にぶら下げられたニンジンのような働きをするのかも知れません。
 しかし、必要性は分かっても、すぐにビジョンを描けるとは限りません。走ったことがない人にマラソンが無理なのと同じことです。
 でも大丈夫です。走る練習を続ければマラソンだって走れるようになるように、毎日、小さなビジョンを描き続ければ、将来の大きなビジョンも描けるようになるものです。そういう意味からも、どんな些細なことも、To-Do メモとして、始めにビジョンとして紙なりパソコンに描いてから実現するようにすることが大切なのです。(2006年07月13日)
 そう言えば、フォイェルバッハ『キリスト教の本質』からの引用として紹介されていた「人間は目的なしでは無である」という言葉を思い出しました。それほど人間には目的が重要ということなのでしょう。しかし、目的を持っているだけでは不十分なのです。目的を実現していく意思の力、意志力も必要なのです。目的を書き、それを忘れないように読み返すことで、意志力が高められ、目的が実現されるのです。
 車はハンドルで目的に向かうことができますが、ガソリンが無ければ車は走りません。ガソリンに相当するのが意思力なのかもしれません。(2024年10月26日第二稿)

2024年10月25日金曜日

世界に誇れる平和憲法

 日本国憲法は、主権在民、基本的人権、平和主義という三つの原理の上に構築されています。その中で、主権在民と基本的人権はある意味で世界共通ですが、平和主義は世界に誇れる内容です。「憲法第九条を第1項、第2項を読むと、ここまで鮮明に戦争放棄を含めた平和理念を堂々とうたったものは、あまり例がない。世界の中でもユニークなもの」(「憲法9条と私 元内閣官房長官 武村正義さんに聞く」、赤旗日曜版、2004年12月19日)だからです。
 私は、このことを最近知りました。日本国憲法が平和憲法とも言われるのは、このような世界に誇れる憲法第九条を持っているからです。このようなことを考えると、改憲の動きが盛んになっている中、これを阻止し、世界に誇れる平和の理念を守ることは、日本だけでなく、世界の平和のためにも大切な課題であることが分かります。
 アインシュタインが平和主義者であり、日本びいきであることは知っていました。しかし、それが、どれほどのものかは知りませんでした。そのことを知ったのも最近です。アインシュタインは、次のような言葉を残していたのです。

 世界は進むだけ進んでその間、幾度も闘争が繰り返され、最後に闘争に疲れるときが来るだろう。その時、世界の人類は必ず真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならぬ時が来るに違いない。その世界の盟主は武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、且つ、尊い家柄でなければならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰り、それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならぬ。我等は神に感謝する。天が我等人類に日本という国を造っておいてくれたことを。『世界に誇る日本の道徳力』、石川佐智子著、コスモトゥーワン 、2006年、p22-23)
 このような文章を読むと、日本人としての誇りを感じてしまいます。と同時に、アインシュタインの期待に応えるためにも、平和憲法を守らなければと思います。

2024年10月24日木曜日

平和の創造を

 久しぶりに戦争映画を見ました。一人の部下を救出するために、ヘリコプターからの機銃操作で次々と敵兵を殺戮して行くシーンが印象的でした。あたかも虫けらを蹴散らすように敵兵が殺戮されて行くのです。殺戮された敵兵一人一人にも家族があり、その家族も敵兵の無事を願っていることを思いやる余裕など、みじんもないのです。
 このような戦争映画見たり、戦争もののゲームしたりすることは、多くの人間を殺戮する仮想体験をしていることになります。するとどうなるでしょうか。
 戦争で人間が殺されることに関して鈍感になってしまいます。それだけでなく、戦争そのものについて肯定的になってしまうに違いありません。戦争につきものの「人間が戦死すること」について鈍感になってしまうのですから当然です。
 どれだけの戦争映画や戦争もののゲームが出回っているかは知りません。しかし、相当出回っていることは確かです。それだけ、戦争そのものについて肯定的にとらえている人が多いと思われます。戦争したい勢力に対抗して平和を守っていくことが一筋縄で行かないわけです。
 このような状況では、いつまでも「平和を守る」というような受け身な姿勢では「戦争したい勢力」に太刀打ちできません。これからは積極的に平和を創造して行くことが必要だと思います。平和を願う人みんなが知恵を働かせ、平和を築いていくことが大切になっていると思うのです。
 その例として考えられるのは、戦争映画を見て批判的に評論すること、とか、反戦文学の創作などです。ユニークな反戦運動の創造も考えられます。また、『アサヒグラフ』(1958年8月6日号)に、「貴方の戦争防止策は?」というアンケート結果が掲載されていました。なかなか良い”問い”です。同じ
”問い”を発し続けることです。要は、知恵を集め、平和を創造していきたいものです。2005年05月29日(2024年10月24日第二稿)

2024年10月23日水曜日

差し迫った核戦争の危機

 今、憲法を変えようとする人たちの力が強くなってきています。最近の自衛隊の動きを見ても分かるように、自衛隊の存在そのものが、憲法の精神から大きく逸脱してしまっているからです。つまり、「自衛隊のイラク派遣」などの現実が憲法九条にそぐわないから、憲法を変える必要があるというのです。自民党議員に言わせると、「法解釈の変更による安全保障政策の整備は、もはや限界に達して」(自民党議員の外交・安全保障政策)いるので憲法改正が必要、となります。
 こうした主張は、「世界の紛争は武力によって解決しなければならない」という前提の元に成立する議論です。しかし、世界の紛争を話し合いによって平和的に解決する方法もあるのです。驚くことに、マッカーサ・ノート(46/2/3)にも「日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる」(『憲法講話』、長谷川正安著、法律文化社、p170)と書かれているのです。
 日本国憲法は、前文に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とあるように、崇高な理想そのものです。その気になれば、崇高な理想に従って国際紛争を解決することは可能なのです。
 そもそも、法律(法治主義)の存在そのものが、「武力による紛争の解決」に対峙する概念です。ことあるごとに武力を持ち出すのであれば、そこには法律などいらないのです。
 少なくとも現代の社会では、法律があり、法律の専門家もいますから、紛争は平和的に解決できます。日本の国内紛争に限っては、鉄砲を持ち出してやり合うようなことはないのです。同じように、国際紛争も、武力に頼らず、平和的に解決することは可能なのです。
 事実、特許紛争など、経済紛争は平和的に解決しています。さらには、政治的国際紛争を平和的に解決した実績もあります。1989年には、軍隊のない国として有名なコスタリカのアリアス大統領が、国際紛争を平和的に解決したということでノーベル平和賞を受賞しているのです。
 日本は被爆国です。当然、被爆国として、核戦争の危機を回避する先頭に立たなければなりません。しかし、国際紛争を武力によって解決しようとしている限り、それは無理です。核兵器が、強力な最終兵器として君臨してやまないからです。国際紛争の解決手段として武力を用いようとしている限り、核戦争の危機はなくならないのです。

「核戦争の危機など大げさな」と言う人もいるでしょう。しかし、ケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めことがあるマクナマラ氏も、「依然として大量の兵器が一触即発の警戒体制にある以上、冷戦の最悪期と同様、ちょっとした手違いや誤った判断で世界規模の大虐殺が起こりうる」と言っているのです、核戦争の危機などないどころか、核戦争が起きる「可能性は、子供がマッチと火種を一緒に手にしているのと同じくらい現実的で差し迫ったもの」(2005年06月20日、朝日新聞、カレン・ヴァン・ウォルフレン著「核の怪物 差し迫った脅威」)なのです。今こそ、崇高な理想に輝く日本国憲法を守り、核戦争の危機を回避する先頭に立ちたいものです。
 今年のノーベル平和賞受賞は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に決まりました。この事実は、日本に”核戦争の危機を回避する先頭に立ってほしい”と期待していることを示しているのではないでしょうか。 2005年06月24日(2024年10月23日第二稿)

2024年10月22日火曜日

なぜ人を殺してはいけないのか

 あるとき青年が、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発したことがあります。ところが、その問いに大人がきちんと答えられず、話題になったことがあるそうです。そのことを知って、「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」と考えこんでしまいました。確かに、当たり前な問いだけに難しい問題です。
 しかし、植物を例に考えるとよく分かります。つまり、その辺の雑草などは、刈り取られても踏みにじられていても、悲しむ人は誰もいません。それに対して、大切に育てた盆栽などは、変に切られたり、棄てられたりしたら大変です。盆栽を育てた人は、とても怒り、悲しむことでしょう。
 ほとんどの人間は盆栽と同じです。多くの人々に大切に育てられ大きくなるからです。従って、人が殺されれば、必ず悲しむ人が存在することになります。だから、人を殺してはいけないのです。しかし、よく考えると、人が殺されれても必ず悲しむ人が存在するわけではないことも事実です。身よりの無い一人暮らしの人などがよい例です。
 そうすると、もっと根源的な根拠が必要になってきます。
 そこで登場するのが、憲法の、基本的人権であり、「二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権です。「生活を営む権利」は「生きる権利」でもあるのです。この権利を認めることで、「何人も人の生きる権利を奪ってはならない」という言葉が導き出されます。
 つまり、何人にも、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するので、何人も、そんな人の生きる権利を奪ってはならない(人を殺してはいけない)のです。

2024年10月21日月曜日

今こそ軍事費を削り教育立国を

 著書『時代に生きる思想』(真下信一著、新日本出版社信一著、新日本出版社、1971年)に、マルクスの言葉「人間の最高の天分である理知と学問を軽蔑するならするがよい。そうすりゃ、悪魔に身をまかせたのも同然で、滅びていくに決まっている。——『ヘーゲル法哲学』助言——」が引用されていました。同じようなことを日本を例に言及していた論文があります。渡辺一夫氏の「進歩について」です。次のように言及されていました。
 「第二次大戦開始の時から、日本の周囲では、様々な事件が起り様々な努力が払われ、様々なことが考えられていたにも拘らず、我々は、それを知り理解し消化することを、或る時はやむを得ぬ管理方針により返る時は偏狭な圧迫によって禁ぜられてきたし、禁ぜられたままの井中蛙(傍点部分)的生活を常態と考えやすくなって」(注)いました。「特に戦前の日本においては、新知識を輸入することは国賊非国民となることであり」(注)ました。その結果日本は、滅びたも同然の敗戦を迎えてしまったわけです。
 だからこそ、「国民がどんな新しい知識でも平気で我物とすることを、国民全体が志し、国民全体がこれを望むならば、どんなに日本は生々とした国になるか判らぬし、それでこそ、日本固有の文化も新しい道に甦ることになるのであろう。高度の資本主義の上に立つアメリカの民主主義も進行中の共産主義の上に立つロシヤの民主主義も、皆、我々が平然として研究し論考すべき対象でなければならず、日本という国の実情に一番合致した方針を樹てるように考えるべきであると思う」(注)というのです。
 しかし現実は、軍事予算は大幅増としながら、教育予算は年々削られ、大学の授業料値上げが検討されているのです。このままでは、マルクスが指摘しているように「悪魔に身をまかせたのも同然で、滅びていくに決まって」います。大学の授業料値上げなど、もっての外です。今こそ軍事費を削り、教育立国を目指すべきです。

(注)「進歩について」『渡辺一夫著作集 10・偶感集 上巻 』、筑摩書房、1970年、p402~403)

2024年10月20日日曜日

生きる力を育てる

 力持ちとは、筋肉の力のことです。では、生きる力とは何の力でしょうか。私は、脳の力、特に、前頭葉の力(機能)が生きる力になっていると思っています。ちなみに、脳の力でも、旧皮質の力は生命力のことである。このように考えると、前頭葉を絶えず使って鍛えることが生きる力を育てることになります。
 作家の藤原審爾さんによると、「生きる力は毎日の生活のなかで育つ。たとえば、おいしい料理を作ること。苦労して生活をより快適にする工夫のなかから、それは生まれる」(1977年9月11日、赤旗日曜版)と書いています。また藤原審爾さんは、「快い芸術とのふれあいの積み重ね」も生きる力をつけるとも言っています。よく考えると、これらはすべて、前頭葉に関係するものばかりです。
 問題は、意識してこれらのことをやるかどうかです。何の気もなく生きていれば、ただ時間が過ぎていくだけであり、生きる力が育つことはありません。意識しておいしい料理を作ったり、生活を快適に工夫したりすることが必要なのです。野球を観戦するときだって、なんとなしに観戦するのではなく、なぜ投手が打たれているか考えたり、打者の心理を予想したり、と能動的に観戦すれば、前頭葉が働き生きる力を育てることになるのです。
 しかし、何事もバランスが大事であり、片一方に偏ってはいけなません。生きる力が大切と言っても、前頭葉を働かせるようなことばかりの生活も良くないような気がします。生きる力を育てることを忘れなければ、十分に頭を使ったら、のんびりと受動的に野球を観戦したり、ドラマを見たりするのも必要だと思います。これが、生活におけるO N ,OFFというものではないでしょうか。
 そういえば、O N ,OFFの生活の一例を思い出しました。それは、「私は七十五歳の現在も、どうやら毎日、原稿用紙に向っているし、その間は精神の戯れに喜びを覚え、仕事が終ると、教室から解放された中学生のように、やはり愉快な気分のなかで、好きな本をとりあげるのである」(「老年の生き方について」『人生を愛するには 仙渓草堂閑談』、中村真一郎著、文芸春秋、1995年、p51)というものです。一仕事を終えて、が”O N”で、ホッとして好き本をとりあげる、が”OFF”です。このような快適な生活を工夫することで、生きる力をが育てられるのだと思います。

2024年10月19日土曜日

死を忘れられる生き方

 どのように死を迎えたいか、ずっと関心を持ち続けてきました。そして、カントの「これでよし!」と満足して死を迎えたという話に憧れてきました。そんなこともあり、『私の大往生』(文春新書)に目を通しましたが、心惹かれる大往生は見当たりませんでした。
 しかし、見つけました。「死について哲学的考察などする余裕はない」と生きることに専心していた素敵な先輩がいたのです。

 近世後期の流行文筆家、頼山陽は死の床にあって、自分は残された著作の完成に専心しているので、、昂然と公言したそうだし、今世紀最大の小説『失われた時を求めて』の校正中に死を迎えたブルーストも、「自分にとって死はこの世から別の世に通過する一瞬に過ぎず、考察にあたいしない」と呟いて、脇目もふらずに原稿に書き込みをつづけていたという。(「老年の生き方について」『人生を愛するには 仙渓草堂閑談』、中村真一郎著、文芸春秋、1995年、p45)
 この二人の生き様を、死の迎え方をどう表現すべきかを考えてみました。そして、死に頓着しない、死を忘れられる生き方になりました。物事に熱中していると、食べるのも忘れることがあります。同じように、死が近づいてきていても、それに気づかないほど熱中できるものがあればいいのです。

2024年10月18日金曜日

夕べの死を間近にひかえて

 著書『読書のよろこび』(中村真一郎著、新潮社、1991年)を再読し、老齢を自覚した著者の”生きている数少ない愉しみのひとつ”を知りました。「夕べの死を間近にひかえて、老年の朝(あした)に新しい道を聞き知るのも、生きている数少ない愉しみのひとつと言うべきだろうか」(p99)というのです。
 その例として、「新しい翻訳や、それに附せられた注釈のたぐいは、旧来の私の知識からの類推を持ってしては、想像もつかないほど遠くまで進んでいる」(p98)ので、そうした新しいものに触れると「時々、今まで自分が何を読んでいたのか、と驚かされることになる」そうです。そうした新鮮な驚きが、著者にとっての愉しみのひとつなのでしょう。
 ここで大切なことは、驚きや感動を記録しておくことです。そうして、驚きや感動といった愉しみを一回きりのものに終わらせないことです。こうして書いていて気づいたことですが、驚きや感動を記録する過程は、驚きや感動をじっくりと味わえる過程でもあったのです。
 著者の「数少ない愉しみのひとつ」を知ったとき、咄嗟に思えたことは、「愉しむだけでもいいんだ(そこから新たに創造をしなくても)」ということでした。それで心が一瞬軽くなったのです。その辺の心の動きをどう考えたらいいのかは、今後の課題になりそうです。

2024年10月17日木曜日

生はいつでも未完成

 悟りというものは、宗教を通していられるもののようなニュアンスがあります。しかし、言葉の力のみで悟ることもできるという言葉を見つけました。「個人の生はいつでも未完成なのです。こんな当たりまえのことも、私には一つの悟り」(『カントの散歩』、玉井茂著、勁草書房、p69)だというのです。なるほどと思いました。なぜなら、自分のことを振り返ってみると、未完成のものばかりと言って良いくらいでした。それゆえ、そん状態に焦りのようなものを感じていました。しかし、どんなに成長できたとしても「生はいつでも未完成」であることが分かって、「それでいいんだ」と心が軽くなりました。これって、一種の悟りではないでしょうか。 
 また、玉井茂氏にとっては、スピノザの言葉「嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、ただ認識すべし」が、「今でも私にとっての悟りの境地であり、最高の心術と思って」(p69)いると書いています。この言葉は、前の言葉と対になっているように思えます。「生はいつでも未完成」であることを自覚して「焦りもせず、ただ認識すべし」とも言えるからです。
 そこで、二つの言葉を合体させて、新しい言葉を作ってみました。「嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、焦りもせず、ただ認識すべし。生はいつでも未完成だからです」あるいは、「生はいつでも未完成です。それゆえ、嘲笑せず悔悟せず憎悪せず、焦りもせず、ただ認識すべし」です。

2024年10月16日水曜日

時間感覚を伸ばす

 昨日、「ゆっくリズム」で豊かな人生を送ることで「時間感覚を伸ばす」ことができると書きました。ところが、『源氏物語』などの古典を読むことで、「一世紀に及ばない時間の感覚を想像力によって、人は過去に向かって延長することが可能」(注)だというのです。「つまり、大昔に書かれた小説や、近代の作家が遠い過去を再現してくれる作品を通して、私たちは自分の短い生命を内面的に延長できる」のです。
 このことに関して、「人間は考える葦である」と言ったパスカルが感動的な言葉を残しています。
 「私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。(『パンセ』、No.348)です。「考えることによって、私が宇宙をつつむ」とは、なんという壮大な言葉でしょう。これこそ、「時間感覚を伸ばす」究極の方法論です。「無限なる時間と空間を生きる」秘訣です。

 (注)私たちの人生は過ぎてしまえば、あっと思うほど短いものである。七十歳の老翁となった私などには、特にその感が深い。しかし、その一世紀に及ばない時間の感覚を想像力によって、人は過去に向かって延長することが可能である。
 たとえば『源氏物語』を読むことによって、私たちは藤原道長の頃の宮廷人の日常生活を、あたかも自分自身の過去の記憶であるかのように甦らすことができる。あるいはまた、ウォルター・ペイターの『快楽主義者マリウス』を飜すことで、ローマ末期を生き直すことができる。
 つまり、大昔に書かれた小説や、近代の作家が遠い過去を再現してくれる作品を通して、私たちは自分の短い生命を内面的に延長できるわけである。
 が、勿論、そうしたことを可能とするのは、フィクションには限らない。平安朝盛期を生きるためには、『源氏物語』の他に、その時代の支配者だった道長の日記『御堂関白記』や、挿話のスケッチ集である『枕草子』や回想記『かげろふの日記』などの事実を記したものが、大いに有意義である。(『読書のよろこび』、中村真一郎著、新潮社、1991年、p88〜89)

2024年10月15日火曜日

「ゆっくリズム」で豊かな人生

 だいぶ前に、「ゆっくリズム」(注)という文章を書いていました。そこで、“ユックリズム”をネット検索し、「“ユックリズムの精神”で生活する。そこに余裕のある人生、豊かな人生が生まれる」(「ストレスのない“ユックリズムの精神”で生きる ~スロー・ライフでこころ豊かな人生を~」、黒岩徹)という言葉を見つけました。ゆっくりと生活していると、”余裕のある人生”だけでなく、”豊かな人生”も待っているというのです。
 自分の文章の中にも、光るものを見つけることができました。「人生は短いのだ。それなのに、焦ってスピードを出せば、あっという間に人生が終わってしまう」ということです。前からの課題に、時間を長く感じる方法というのがありました。その答えは、ゆっくり生きることだったのです。しかも、ただゆっくり生きるにではなく、生活を味わうことが大切なようです。
 例えば、「ゆっくりと味わって食べる」と題して「目で見て、香りをかぎ、口に運び、ゆっくりかんで味わう。五感を研ぎ澄ませながら食べる朝食は、瞑想と同じ効果があります(マインドフル・イーティング)。また、口腔粘膜に食べ物が接触すると、それが脳に届いてオキシトシンが分泌。満腹感はもちろん、幸福感を感じやすくなり、自己肯定感を高めてくれます」(カーショップで読んだ雑誌)とありました。豊かな人生とは、食べ物をゆっくりと味わうように、生活も味わえる人生のことではないでしょうか。

(注)菜根譚に「自分を鍛えるときには、金を精錬するときのように、じっくり時間をかけなければならない。速成では、どうしても底が浅くなる」(『中国古典 一日一言』、守屋洋著、PHP研究所、p352)という意味の言葉がある。朝の連続テレビ小説『ゲゲゲ』でも、新人賞に応募しようとして焦っているアシスタントが、「焦らないで、じっくりと構えていかないと行き詰まるようになってしまうよ」と諭される場面があった。
 本を早く読みたい、本をできるだけ多く読みたい、ということは、すでに、そこには焦りが存在している。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という言葉もあるが、人生そのものも、焦りは禁物である。それでなくとも、人生は短いのだ。それなのに、焦ってスピードを出せば、あっという間に人生が終わってしまうではないか。
 短い人生を、できるだけ長く感じるためにも、人生はゆっくりと歩きたいものである。そのためには、常日頃から急ぐということをできるだけ少なくしたほうが良い。読書も、例外ではないのだ。ということは、ドライブも焦りは禁物なのかもしれない。ドライブは、どうしても急ぐ傾向がある。この癖もなくし、ゆっくり走る楽しみ、心に余裕を持って走る楽しみを身につける必要がありそうである。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」である。 2010年08月05日

2024年10月14日月曜日

自分を活かす人生

 最近、昔書いた文章を読み返しています。描いたものの、すっかり忘れてしまっていることに気づいたからです。「勉強の対象について」(注)も、すっかり忘れていました。しかし、「胃にしろ、体全体にしろ、その存在を忘れるほどに熱中するものがあり、そうした熱中時間が多くなるほど健康度は増進する」といった内容については、すっかりとその思想が身についていたことがわかりました。よく考えてみると、すかり忘れていたわけでなかったのです。

(注)『自分を活かす人生』(本田静六著、三笠書房)を当面の座右の書として、しばらく何度も読み直して見たい。最も学びたいことは、「仕事の面白さは努力の質と量に正比例する」(p54)という勉強に対する姿勢である。「努力は始めは多少苦しくとも、これを続ければ、必ずや面白く、道楽になる」というのである。
 このところを読んで、これからの人生、何を対象に努力したいだろう、と考えてしまった。そして、文章を書く努力をして見ようと思った。「文章もまた、少し辛抱して書き続けると、面白く道楽になる」(p55)というからだ。初めは医学関係の文章に集中して、それが一段落したら、思想関係に集中し、その頃は、数学などの自然科学系にも食指を伸ばして見たい。それはなぜか。
 体のことを忘れるほどに、体以外の分野に目を向けて勉強して見たいからである。胃などが正常であれば、普段は胃の存在など忘れているものである。しかし、胃の調子がおかしくなると、胃の存在が気になり始める。胃にしろ、体全体にしろ、その存在を忘れるほどに熱中するものがあり、そうした熱中時間が多くなるほど健康度は増進する、そう思うから、思想関係に、あるいは、数学など自然科学系にも関心を向けて、それらの勉強(努力)をして見たいのである。2009年08月14日

2024年10月13日日曜日

リーマン予想について

 だいぶ前に「リーマン予想について」(注)を書いていました。そのときの「単なる素数に関する難問が、原子論や宇宙論にも影響を与え、さらには、<「リーマン予想」自体に宇宙に潜む未知の法則が隠されているかもしれない>(明治大学教授、砂田利一)」という予想がみごに的中していました。「素数の規則性の発展史」(2022年7月16日)で解説されているように、素数の規則性に関するゼータ関数によって導き出された数式と、原子核のエネルギーに関する数式が見事に一致していたのです。全く凄いことです。

 (注)世界の数学者を悩ませ、魅了してきた「リーマン予想」という数学の難問があります。このような問題があることだけは知っていました。そして、多くの数学者を悩ませてきた難問だけあって、どんな問題なのかさえも、知ることはできないと思っていました。しかし、朝日新聞(2010年02月01付け)に、<未征服の最高峰「リーマン予想」裾野を歩いてみませんか>という見出しを見つけ、「新聞に数学の記事?」と思いましたが、見出しに魅かれて読んでしまいました。
 するとどうでしょう。よほど優れた解説文だったのでしょう。遥か昔に高校数学を学んだ程度の私にも分かったのです。それだけでなく、「リーマン予想」の裾野を歩かせていただいただけですが、新鮮な発見があって驚いています。その一つが、「リーマン予想に多くの数学者が挑む中で、すでに様々な発見が生まれている」ということです。
 さらに驚いたのは、単なる素数に関する難問が、原子論や宇宙論にも影響を与え、さらには、<「リーマン予想」自体に宇宙に潜む未知の法則が隠されているかもしれない>(明治大学教授、砂田利一)ということです。何か、広大な世界を散策した気分です。2010年02月01日月曜日

2024年10月12日土曜日

輝かしい70歳代

 前に、「輝かしい60歳代」という文章(注)を書いていました。今ではすでに70代に入っていますが「輝かしい70歳代」でも、立派に通用する内容です。特に後半部分については、「その気になったら、勉強できることは山ほどある」(NHKテレビドラマ『カーネーション』の主人公糸子のセリフ)という言葉で言い表すこともできます。幾つになっても、「その気になったら、勉強できることは山ほどある」のです。年齢に応じて、できることに違いはあっても、勉強できることは山ほどある」のですから、老いのマイナスイメージなど吹き飛ばしてしまいば良い、そう思います。

(注)とうとう60歳になった。還暦を迎え、新しい人生が始まったことになる。ある意味嬉しいことなのだ。そうだ、ピカピカの一年生のような、輝かしい人生のスタート地点に立ったのである。何といっても、50年の歳月をかけて積み上げたきたものがある。それを踏み台にして新しい人生を始めることができる。そう考えただけで、これから始まる人生の楽しみが増えてくる。
 やりたいことが山ほどある。やらなければならないことも山ほどある。これほど素晴らしいことがあるだろうか。人生において何が辛いかといったら、意味のないことを強制されることらしい。だからこそ、自分の意志で、やりたいこと、やらなければならないことをやれることが素晴らしいのである。
 一見すると、「やっていくのは辛いこと」に見える。確かに、追い込まれるように、強制されるような気持ちで「やらなければならないこと」をやるなら、それは辛いことになる。しかし、意識を切り替え、やらなければならないことも、自分の意志で自らの課題としてやることもできる。だからこそ、やらなければならないことでも、山ほどあるのは素晴らしいことと言えるのである。輝かしい60年代に乾杯。2008年03月19日

2024年10月11日金曜日

死の恐怖対策

 震災のあった頃、「死の恐怖対策」という文章(注)を書いていました。前頭葉を発達させる、鍛えることが長寿を支えているらしいことは感じていましたが、前頭葉を鍛えることは、同時に死の恐怖も和らげてくれそうです。

(注)3月の大震災後、都内の売り場からトイレットぺーバーが消える事件が起きた。東京に住む多くの人がトイレットぺーバーがなくなると信じ買いに走ったことが原因らしい。もっとも抽象度が低い大脳辺縁系あたりで発生した恐怖の情動がそうさせたもので、情動が優位になった時点では物事を冷静に判断できなくなるのである。
 ところで、死の恐怖も、抽象度が低い大脳辺縁系あたりで発生した情動であることに変りがない。ということは、同じような環境にありながら物事を冷静に判断できた人がいたように、抽象脳を鍛えることで、死を冷静に受け止められるようになるのではないだろうか。哲学者のカントや物理学者のアインシュタインが、その良い例である。
 たとえば、カントは「これでよし」と言って世を去ったというし、アインシュタインも、「自分の地上での仕事はおわった」と,まるで近づく自然現象でも待っているかのように,死をおそれず,静かに、感傷もなく,悔いもなく,この世を去っていったそうです。(『40代からの脳と体のバランス健康法』,久保田競著,築地書館,1994年,p176~177)どちらも、抽象脳の天才と言っても良いような人である。カントやアインシュタインに少しでも近づくことで、死の恐怖を乗り越えたいものである。2011年12月12日月曜日

2024年10月10日木曜日

時間と仕事のルーチン化

 人間の行動のほとんどは、無意識に行われています。三日坊主になりやすかったり、時間に流されやすかったりするのは、そのためです。だからこそ、やること、やりたいことを決めて行動するだけでなく、それらが無意識にできるように、ルーチン化することが大切です。
 例えば、朝起きたらすることを、起床時の体操、洗顔、新聞をさっと読む、散歩、などときめることが時間のルーチン化です。一郎選手がやっていたというバッターに立つ前にするルーチンは、イメージトレーニング、素振り、深呼吸などでした。料理の献立も一つのルーチン化です。このような、ルーチン化された行動が増えるほど、流されることのない密度の濃い人生を送ることができるようになります。
 千日回峰行を2度満行した稀代の行者酒井雄哉さんは、”健康の秘訣は?”と聞かれて、「朝早く起きて夕方早く寝て、よく食べてゆっくり寝る。毎日、ぐるぐるぐる、同じことを繰り返すことじゃないですか」(『幸せはすべて脳の中にある』、酒井雄哉著、朝日新聞出版、2010年、p13)と答えています。ここでいうところの繰り返しも、ルーチン化です。
 同じことの繰り返しでも、”日々新た”であること自覚することが大切のようです。「また新しい一日が来て、また新しい気持ちで歩いて、『今日も終わったなあ』と思う。また新しい一日が来る。〜〜」(上同、p16)と。

2024年10月9日水曜日

世界平和実現の使命

 著書『情報との出合い 語り下ろし』、縫田曄子著、ドメス出版、1999年縫田曄子さんは、留学中に会えたノーベル平和賞受賞者エミリー・パルチさんから、日本女子大学教授の上代たのさんを紹介されました。「エミリー・パルチさんは国際平和自由連盟の名誉会長で、上代たのさんは 日本の支部の代表をされていた」(『情報との出合い』、p65)のです。
 それでは、と、上代たのさんの著書を調べて、『上代たの文集』(上代たの文集編集委員会編、日本女子大学英文学科、1984年)を見つけることができました。ちょっと読んで、すっかり魅了されてしまいました。「百歳への希望」で紹介した「エドナ・ミレーの詩「新生」が素晴らしかっただけでなく、著書の<「期待される人間像」中間草案をよんで>という一文中で、「われわれは目前のナショナル・インタレストに眼を奪われて、世界平和実現への日本の役割ないし使命を忘れてはならない。日本が戦後とろうと決意した平和国家実現の姿勢は世界平和実現の使命達成という仕方で維持するのでない限り、この事案にもられているような現(うたが)実主義的平和論が国家主義と猜われるのもやむを得ないと思われる」(p44)とあったからです。
 この中の「世界平和実現への日本の役割ないし使命を忘れ」「日本が戦後とろうと決意した平和国家実現の姿勢は世界平和実現の使命達成という仕方で維持するのでない限り・・・・」ということは、あまり正面切って語られることはなかったように思えました。だから余計に、この言葉が心に染み入ったのかもしれません。
 改めて日本国憲法前文を読んでみました。
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
 とあります。これこそまさに「世界平和実現への日本の役割ないし使命」です。しかし現実は、そうした使命を忘れ、国防という一点、つまり、”中国や北朝鮮の脅威から日本を守る”という一点に集中してきました。それでは国防もままならないのです。今こそ、上代たのさんの声に耳を傾ける時なのかもしれません。

2024年10月8日火曜日

百歳への希望

 2009年に、「百歳への希望」(注)という文章を書いていました。多くの100歳を迎えた高齢者に共通するのは、幾つになっても人生を楽しんでいることです。それだけ脳が若いということであります。特に前頭葉が活発のようです。北斎など、著名な芸術家がそれを証明しています。
 最近見つけたエドナ・ミレーの詩「新生」を読むと、心の力強さ、魂の力、偉大さに驚きます。老いというモヤモヤも吹き飛ばしてくれそうな、この力強い魂の正体はなんでしょう。前頭葉の持つ力に違いありません。

世界も吾が心より宏くない
大空も魂より高くない
心は海をも陸をも意の如く押しやり
魂はみ空を真二つにさいて、
神のみかほを照らしだす
けれども、世界を意の如く出来ない心は
やがて世界におしつぶされる
低くいやしい魂には、
やがて大空さえ
おしかぶつてくるであらう。(「エドナ・ミレーの詩「新生」の最後の十二行」『上代たの文集』、上代たの文集編集委員会編、日本女子大学英文学科、1984年、p383〜384)

(注)「100歳超えても現役」(朝日新聞、2008年9月10日)という新聞の切り抜きがある。
 書道歴50年で月に4回の書道教室を開き、90歳で初めて海外旅行に行ったという100歳の菅谷藍さん。「定年後の暮らしに潤いを」と53歳の時に茶道を習い始め、弟子を持つまでになり、その上ノートに栽培記録を書きながらイチゴを育ている101歳の間宮廣さんが紹介されている。このような100歳老人に、できることならあやかりたい、そう思って、このような記事は必ず読むようにしている。だから、「100歳万歳」というテレビ番組もよく見るようにしている。
 また、「100歳老人」というファイルには、朝から晩まで新薬作りに励む佐藤茂蔵さんと、囲碁や菊作りと趣味豊かな川瀬直治郎さんなど数人の「100歳老人」が紹介されていた。皆、目標をもって生きているのが印象的だ。しかし今回は、「百歳への希望」をもてる発見があった。川瀬直治郎さんは、六十になるまではほんとうに体が弱く、医者にも「長生きできん」と言われていたという。それなのに、その後は医者にかかなくてもよくなったというのである。つまり、60歳まで病弱であっても、100歳まで生きられるという事実を発見できたのである。
 働き者、被爆にめげずという広島の西久保健次郎さんの存在にも勇気づけられたが、川瀬直治郎さんには、もう一つ、大切なことを教えられた。普通、医者に「長生きできん」と言われていたら、それがマイナス暗示となり、とても長生きできるとは思えない。しかし、マイナス暗示をはねのけて、長生きできるという事実である。その大きな要素は、20歳のころから囲碁を続けており、「相手がいないときは、ひとりで新聞の並べて楽しんでます」というくらいに毎日頭を使っていることではないだろうか。
 つまり、囲碁の楽しみが「マイナス暗示」を受け付けず、逆に、跳ね返してしまったとしか言えようがない。それだけ、日々、没入できる仕事や趣味を持つことが、とりわけ、100歳を目指すものにとっては、重要なことといえよう。2009年08月07日

2024年10月7日月曜日

マルクスの再評価を

 斎藤幸平さんの「資本主義批判に向かった理由」(注)を知って、勉強の対象を大きく変える必要があるのではないか、と思ってしまいました。「今の社会は、搾取や環境破壊を前提として成り立っているから」、「啓蒙だけではどうにもならないので」あり、それゆえ、「根底にある社会システムを変えなければならない」というのです。つまり、「格差だけでなく、環境危機に関しても、資本主義の枠組みでは解決できない」(『天才たちの未来予想図』、斎藤幸平他著、マガジンハウス、p80)のです。
 ということは、戦争そのものも、軍事産業が大きく関与していることを考えれば「資本主義の枠組みでは解決できない」ことになります。戦争反対という意識が先行しても、資本主義の枠組みを変革しない限り解決できないことになります。だからこそ、マルクスの再評価が必要なのであり、マルクスが明らかにした”この社会を根底から突き動かしている正体”を明らかにしていきたいと思ったのです。

 (注)世界一の経済大国として大きく発展しているアメリカに日本よりも貧しい人が大勢いるということは、もっと抜本的に社会の仕組みそのものを変えなければいけないのではないかと考えるに至ったのです。きっかけとなったのが、マルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』の一節です。
意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する
 この言葉に触れ、自分の考えが大きく変わりました。いくらみんなで「格差をなくそう」「環境を大切に」と啓蒙したところで、社会は変わらないというのです。なぜ変わらないかといえば、今の社会は、搾取や環境破壊を前提として成り立っているから。コンビニやファストフードのような低賃金・長時間労働かつ環境負荷の高いものが、金儲けのために溢れている以上、啓蒙だけではどうにもならないのです。だから、根底にある社会システムを変えなければならない。それが、資本主義批判に向かった理由です。(上同、p78〜79)

2024年10月6日日曜日

禅的な生き方

 前に見たテレビで、娘と夫を亡くして一人暮らしをしているおばあさんのことを放送していました。一時は何もする意欲を無くしたおばあさんですが、お地蔵さんの前掛けを作るようになってから元気を取り戻したました。以来毎日毎日お地蔵さんの前掛けを作る生活を続けたというのです。そんなおばあさんの生き方を知って、「お地蔵さんの前掛けを作りながら、毎日毎日亡くなった夫や娘さんと対話している」ように思えました。
 なぜ、このような人生に興味を覚えたのか、考えてみました。そして思ったのが、宗教的な無心な境地です。信じる心を持って、ただひたすら「お地蔵さんの前掛けを作る」という行為が禅の行そのものに思えたのです。ということは、私の心の中では、このような禅の行になるような生き方を求めているのかも知れません。
 そういえば、高校生のときに”作りに夢中”になったときがあり
ました。そのときも、考えてみれば禅の行のようなものでした。ただ、そのときは数日続いただけです。しかし、禅の行のような生き方となると、”夢中な行為”、あるいは、”無心な行為”を毎日続けることが必要です。
 そのためには、無心になれることを探すことです。しかし、すぐにでもできることは、どんなことにも一生懸命取り組むようにすることです。今まで嫌だなと思っていたようなことも、心を入れ替えて、一生懸命やってみるのです。そうすれば、すぐにでも「禅の行に似た生き方」ができそうです。さあ、明日から、いや、今から実践してみましょう。ひょっとしたら、これこそが”現在に生きる”ことなのかもしれません。

2024年10月5日土曜日

「国連憲章を守れ」こそ、戦争終結への道

 ウクライナから中東へと戦禍が拡大して、その勢いが止まりません。最近は、連日空爆のニュースが報じられているのが現状です。このような状態を座視するしかできないことにもどかしさを感じていました。
 そんな時、石破首相の所信表明で”戦争終結へのビジョンが示されていない”という日本共産党田村委員長の批判を知りました。「いま現実に起きているロシアによるウクライナ侵略や、イスラエルによるガザでのジェノサイド(集団殺害)をどうやって終わらせるのか」(注1)、そのビジョンが示されていないと発言していたのです。
 それでは、日本共産党は、どのような”戦争終結へのビジョン”を示しているのかを調べてみました。ありました。「軍事同盟・軍事ブロックでは平和はつくれない」ことを確認し、「憲法9条をもつ日本が、ASEAN(東南アジア諸国連合)と協力して、東アジアサミット(EAS)という地域のすべての国を包摂した平和の枠組みを発展させることにこそ、東アジアに平和をつくる道である」(注2)ことが日本共産党の”戦争終結へのビジョン”だったのです。
 国連でも、ロシアのウクライナ侵略開始1年にあたって開催された国連総会緊急特別会合(2023年2月23日)において、「国連憲章の原則に従ったウクライナの包括的、公正かつ永続的な和平」を求め、そのための「外交努力への支援の倍加」を国際社会に要請する決議案を、141か国の賛成多数で採択していました。

(注1)安全保障の問題では、石破首相が「ウクライナは明日の東アジア」などと脅しつけた一方で、「いま現実に起きているロシアによるウクライナ侵略や、イスラエルによるガザでのジェノサイド(集団殺害)をどうやって終わらせるのか、日本はどういう立場をとるのか、戦争の心配のない日本と東アジアをどうやってつくるのかというビジョンをまったく示していない」と批判しました。(「石破首相所信表明/自民党政治の劣化示す中身のなさ/田村委員長が批判」より)

(注2)軍事同盟・軍事ブロックでは平和はつくれない。これこそヨーロッパの教訓である。日本共産党が「外交ビジョン」で呼びかけてきたように、憲法9条をもつ日本が、ASEAN(東南アジア諸国連合)と協力して、東アジアサミット(EAS)という地域のすべての国を包摂した平和の枠組みを発展させることにこそ、東アジアに平和をつくる道であることを、強く訴えたい。(「『国連憲章を守れ』の一点での団結強化こそ戦争終結の道――軍事対軍事でなく、包摂的な平和の枠組みを」より)

2024年10月4日金曜日

死を選択する

 「賢人の考え必ずしも真にあらず」そう感じた言葉があります。「人間は、死を克服することができなかったので、自分を幸福にするために、それをあえて考えないようにくふうした・・・・」(パスカル)と「自由な人間は、何よりも死について考えることがない。彼の知恵は、死についての省察ではなく、生についての省察である」(スピノザ)です。
 ちょっと読むと、確かに、いつかはやってくる死です。それをあれこれ考え込んでもしようがない面もあります。しかし、死に様というものにいろいろあることを考えると、どのような死を選択すべきかを考えたくなるのも自然です。つまり、人間は、死を避けることはできないけれど、死を選択することはできるのです。もちろん、自分では選ぶことができない「不慮の死」というものもありますが。
 先ほどの言葉は、「考える」でなく「思い悩む」とか「気に病む」にすれば、いくらかは真実に近くなります。どちらも生産的な言葉でないからです。どちらにせよ、よりよい”死を選択できる”ためにも、死について「思い悩むのではなく考えること」は重要なことなのです。

2024年10月3日木曜日

一輪の花

 玄関に一輪のコスモスがあります。それだけで玄関に潤いが出たから不思議であす。そう言えば、朝日新聞(2009年09月09日)の『街のエジソンたち』という記事の中に「戦後も、野菜を買いにくる客は花を分けてほしがった。石炭重視のエネルギー政策の中で、炭鉱町の人々に花を飾る心の余裕があったのだろう」という文章がありました。一輪の花を飾れたということは、心に余裕ができたからに違いありません。
 花を飾る前には、気になっていた玄関のクモの巣を取り除き、玄関周りをきれいにしました。二日ほど玄関の掃き掃除もしました。風水によると、それだけ、玄関からの気の流れが良くなったことになります。そうした目に見えない気の流れが、心の余裕を生み出してくれているのかもしれません。
 物事が良い方向に動き始めると、相乗作用で好循環が進み、どんどん良い方向に物事が進んでいくようになる、そんな気がしてきました。「逆もまた真」です。悪循環の歯車に加速がつく前に良い方向に舵取りできて本当に良かったです。一輪の花を絶やさず、好循環の羽車を回し続けたいものです。
 次の日、一輪の花に仲間を加えてみました。コスモスに猫じゃらしと水草の花を添えてみたのです。その結果、玄関がいっそう華やいだ感じになり、それだけで嬉しくなってしまいました。記念に写真を撮ってしまったほどです。花でさえ、仲間がいるとこれだけ違うのです。人間も仲間が大切なわけです。

2024年10月2日水曜日

限りなき成長を目指して

 目標は大きい方がいい、しかも、到達できそうもない目標にするといいそうです。その例としてイチロー選手を上げていますが、「イチローは10割打つことを目標にしているから3割打者になってもモチベーションを保ち続けることができる」(生涯学習開発財団認定コーチ 大谷由里)と言うのです。
 そういえば、芸術家も科学者も、飽くなき探求心を持っている場合が多いものです。浮世絵画家の葛飾北斎もそうですが、宇野千代 さんが「人形師天狗屋久吉」に描いた人形師の天狗屋久吉も、死ぬまでより良い作品を追求したようです。科学者も同じです。そもそも、宇宙が無限であるように科学者の研究対象は無限です。そういう意味でも、科学の研究には終りがないのです。
 脳科学も日々進歩していますが、その脳科学は、脳には無限の可能性が秘められていることを明らかにしています。誰でも、人は死ぬまで成長することが可能なのです。ということは、芸術家や科学者だけでなく、誰でも飽くなき探求心を持って生きて行くことが可能なのです。しかし、それだけの目標がなければ、それも無理です。到達できそうもない目標が大切なゆえんです。

2024年10月1日火曜日

幸福感度を発達させる

  同じ出来事に遭遇しても、人によって捉え方はさまざまです。毎日目覚めること、三食食事が食べられることなど、何も感じない人がほとんでしょう。そうした何気ない日常のできごとにも、感謝を抱いたり、幸福感を感じたりする人もいるようです。ブックデザイナーの名久井直子さんもその一人で、彼女は、「日常の細部に喜ぶ」(『PHP』、2023年10月、p27)というエッセーで日常的なさまざまな楽しみを紹介しています。
 斉藤一人さんによると「どんな些細なことにも感謝できる人は幸せ。結局何があっても幸せと思う人を誰も不幸にすることは出来ない」そうです。同じようなことを宇野千代さんも言っていたことを思いだしました。ご飯を食べられて幸せ、朝目を覚まして幸せ、と日常の些細なことにも幸せを感じることができる才能について言及していたのです。確かに、同じご飯を食べても、当たり前に感じている人と、ご飯を食べられただけで幸せと感謝できる人とでは、どちらの人が幸せか、それは言わずと知れたことです。
 このように、些細なことに感謝できるようになることはできても、「何があっても幸せ」と思えるようになるのは難しいかもしれません。特に、大きな災難があったとき、大きな失敗をしたときは、誰でも落ち込むものだからです。エジソンは、実験室が丸焼けになってしまったとき、これで、また一から始められるというようなことを言って、平然としていたそうですが、よほどできた人でない限り、エジソンのようなわけには行かないからです。
 しかし、「何が幸いするか分からない」と言われることがあるように、一時的に落ち込むことがあっても、諦めない限り、災い転じて福(吉)にすることも可能です。考えようによては、前に進む過程そのものも、幸せそのものだからです。