2024年8月31日土曜日

世界が平和になる仕組み

  カントの『永遠平和のために』を要約したものを読み、核心に触れたようで感動しました。その核心は二つあって、まず、理性に基づく契約社会について述べた部分です。これこそ、『永遠平和のために』を考えていく際の前提条件なのです。まず、この前提条件を了承して初めて、前に進むことができるということです。

 人間は理性をもつ。理性とは、さまざまな法則をたばねるような、すべてに当てはまる「原理」を導き出す能力のこと。つまり、理性をもつ人間は自分の利益を追求するという個人の法則にしたがって満足するのではなく、すべての人間がいつでも(原文は傍点)したがうべき原理を求める。こうして道徳が生まれる。みなに当てはまる原理にのっとって、人がおたがいに尊重し合う社会、これを実現するのが、法・政治である。みなを同じように平等にしばる法にしたがうことに、(強制ではなく)自分の意志で同意し、契約した者たちが、生命・財産をおたがいに守り合うのが、共和制国家だ。(『ドイツ文学の道しるべ ニーベルンゲンから多和田葉子まで』、畠山寛編著、ミネルヴァ書房、2021年、p 14)
 ここで、人間のもつ理性について確認できたところで、次に大切なことは、<実際にはまだ戦争が生じていなくとも、戦争のきっかけとなりうるものがこうしてあるかぎり、それは「休戦」という名の戦争状態にすぎない>という指摘であり、<逆に、戦争のきっかけさえない(原文は傍点)状態、これがカントの求める「永遠平和」なのだ>という指摘です。
 改めて発見できた重要な点こそが<戦争のきっかけとなりうるものがこうしてあるかぎり、それは「休戦」という名の戦争状態にすぎない>という指摘です。まさに、日本は平和のように見えても、戦争状態だったのです。
 

2024年8月30日金曜日

日本国憲法の真髄

 新聞連載小説、諸田玲子著「登山大名」(『日本経済新聞』)を読んでいますが、理想の国について、「領民が飢えぬ国」、「領民が豊かに暮らせる国」などと語っているところは、現在に通じるところがあって、共感を覚えました。
 特に、「領民が飢えぬためにはいかがする?」という問いに対し、「戦のない安寧な国をつくることか、と」と答えていますが、これなど、時代を超えた真理ではないでしょうか。そして、この真理を体現したものが日本国憲法の真髄なのです。日本国憲法九条を変えようとしている改憲は、日本国憲法を骨抜きにしてしまう暴挙なのです。
「ようよう来ることができた。余は岡を鎌倉にしてみせるぞ。そのためにも今以上に軍備を増強する。徳川に攻められても接ね返す力をつけねば」
 それが叶ったら、切支丹だろうがなんだろうが領民は好きに信仰すればよい。らんとすごした昂ぶりの余波もあってか、わたしは自信満々だったが、虎之助はいつものおっとりした口調に懐疑の響きをしのばせた。
「それより殿、領民が飢えぬ国をつくるほうが先にございましょう」
 むろん、そのとおりだ。領民が豊かに暮らせる国をつくる話は、藩主になる前から朋友の酒井忠清や池田光政と討議をかさねてきた。一国一城の主には最大の関心事である。
「領民が飢えぬためにはいかがする?」
「戦のない安寧な国をつくることか、と」
「豊かな実り、ふんだんな水⋯⋯」
「いや、災害がないことがいちばん。となれば治水にございましょう」
 憧憬の的である鎌倉はもろくもくずれさった。高山右近がつくろうとしていた神の国パライソも頓挫してしまった。祇園精舎の鐘の声のごとく、諸行は無常である。正直なところ、わたしには領民が飢えず、災害にみまわれず、外敵からも侵略されない国をつくるにはどうしたらよいか、いっかなわからない(諸田玲子著「登山大名」『日本経済新聞』、2024年8月30日)

2024年8月29日木曜日

理想の光は燦然と輝く

  アメリカ合衆国に独立宣言があるように、ベトナムにも独立宣言がありました。始めにアメリカ合衆国の”独立宣言”と、フランス革命の”人権および市民権宣言”を取り上げ、それらが「何人も否定できない真理である」ことを宣言しています。それは次のような内容でした。

全国の同胞のみなさん
 ”すべての人間は生まれながらにして平等である。造物主は彼らにだれにもおかされない権利を付与しており、そのなかには生命、自由と幸福を追求する権利がふくまれている”
 この不朽の言葉は、一七七六年のアメリカ合衆国の独立宣言のなかの言葉である。この語句をひろく考えると、全世界のすべての民族は生まれながらにして平等であり、いかなる民族も生きる権利、幸福の権利と自由の権利をもつことを意味している。
 一七九一年、フランス革命の人権および市民権宣言もつぎのようにのべている。
 ”人は生まれながらにして権利において自由、平等であり、かつつねに権利上の自由と平等を享受しなければならない”
 それは何人も否定できない真理である。(『わが民族は英雄』、ホー・チ・ミン著、加茂徳治他訳、新日本出版社、1976年、p27〜28)

 しかし、「八〇年以上にわたり、フランス植民地主義は、自由、平等、博愛の旗を利用してわが国を略奪し、わが同胞を抑圧してきた」ように、「彼らの行動は人道と正義にまったく相反するもの」でした。それゆえ独立宣言では、次々とフランス植民地主義の罪状を告発していきます。

 政治(原文は傍点)の分野ては、彼らはわがベトナム人民にいささかの民主的自由も絶対に与えなかった。
 彼らは野蛮な法律を施行した。彼らは中部、南部、北部にそれぞれ異なった三つの制度を制定し、われわれの国家統一をさまたげ、わが民族の団結をさまたげた。
 彼らは学校の数よりも多くの監獄を建てた。彼らは、わがベトナムの愛国者たちを情け容赦なく殺害した。彼らはわれわれの諸蜂起を血の海に沈めた。
 彼らは世論をしめつけ、愚民政策を実施した。
 彼らはわが子孫を衰退させるべく阿片、アルコールを使用した。
 経済(原文は傍点)の分野では、彼らはわが人民を骨の髄まで搾取し、人民を貧困におとし入れ、わがベトナムを荒廃させた。
 彼らは田地、鉱山、原料を強奪した。
 彼らは、銀行券の発行と輸出入質易を独占した。
 彼らは何百もの理不尽な税を設け、わが人民、とくに農民と商人を貧困の極におとし入れた。     
 彼らはわが民族資本家の台頭をさまたげた。彼らはきわめて残忍に搾取した。(上同、p28)

 ここで日本国憲法のことを考えました。
 このような、フランスの、フランス革命の”人権および市民権宣言”から逸脱した行為があったとしても、フランス革命の”人権および市民権宣言”の輝かしい存在は色やせていません。今も、燦然と光り輝いております。日本国憲法も同じです。どんなに現実政治が憲法から逸脱しようとも、理想の光は燦然と輝いているのです。輝かしい光は、決して消してはならないのです。理想の光は、歴史が示しているように、100年経っても、200年経っても、燦然と輝くものなのです。

2024年8月28日水曜日

「倚りかからず」への疑問

 茨木のり子詩には、天皇制を批判した詩「天皇発言への憤りを込めた作品」や「昭和天皇の[戦争責任]記者会見」)などがあって注目してきました。そんなこともあって、たまたま図書館で手にした『茨木のり子詩集』のなかに「倚りかからず」を見つけて読みました。
 はじめは、両手をあげて共感した詩でしたのに、本当にそれでいいのだろうか、と疑問が湧いてしまいました。時には”倚りかかってもいい”し、”倚りかかることも必要”ではないか、と思ったのです。
 具体的には、ある思想を主張する時、先人の文献からの引用は欠かせません。科学の進歩も、先人の業績の上に積み上げられたものです。そのような時、先人の思想や学問に倚りかかっているのではないか、と思ったのです。
 ここではっきりしてきた疑問点は、文献からの引用は”倚りかかっている”と言えるか、ということと、倚りかかりたくない”できあいの思想”と、引用などを通して”倚りかかりたい思想”があるのだろうか、ということです。
 果たして、この詩には、どんな思いが込められているのでしょうか。

倚りかからず

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだ
(『茨木のり子詩集』、谷川俊太郎選、岩波文庫、2014年、p244~245)

2024年8月27日火曜日

世界は、まだまだ野蛮状態

 平等化の過程が進化の過程でもある、そんな研究を知りました。「ゲラダヒヒなどの高度なサルになると、物を食べる順位さえはっきりしなくなるんです。状況に応じて順位が変わってくる。・・・どんどん平等化していくのが霊長類社会の進化の道筋」(霊長類学者・河合雅雄著『上手な老い方 藍の巻』、小学館、1997年、p194)だというのです。平気で差別をするような人は、それだけ野蛮な人ということになるます。
 それだけではありません。近代になって個を尊重するようになってきましたが、こうした流れも、進化の過程として考えることもできそうなのです。すなわち、「この国、社会に奉仕する時代から、ようやく個人を見つめ直す気運が出てきた。やっとサルからチンパンジーになろうとしている」(上同)のです。まさに、戦中の日本は、野蛮な社会であったのです。
 二十一世紀にもなって、いまだに戦争をしている国があるし、戦争の準備をしている国に限れば、ほとんどの国が該当します。その中でも米軍は最たるものです。世界は、まだまだ野蛮状態から脱していないということです。

2024年8月26日月曜日

アメリカの精神分析

 恐ろしいほど的確なアメリカに対する精神分析「アメリカを精神分析する」(『続ものぐさ精神分析』、岸田秀著、中公文庫、1982年)を読みました。まずは要所と思われる部分を読んでみましょう。

 その後のアメリカ人の、インディアンに対する扱い方は、まさにピルグリム・ファーザーズのやり口の強迫的反復であった。そして、平和を望む無抵抗なインディアンを一方的に虐殺した騎兵隊やその指揮官は、勲章を授けられたり、英雄に祭りあげられたりしている。経験の欺瞞に発した歴史は経験の欺瞞を繰り返すのである。
 アメリカの対外侵略の歴史もまたこの強迫的反復の歴史である。それは、外国の反民主的な独裁政権に反対して、アメリカの自由と民主主義を守るという形を取る。そして、つねに第一発は相手側から撃たせ、アメリカはそれに反撃するためやむを得ず立ちあがったということになっている。(上同、p49)

 その例として、第二次世界大戦において、日本に真珠湾攻撃させ、その反撃という形、つまり、<「真珠湾を忘れるな」をスローガンにして、天皇制独裁国家である日本に対して自由と民主主義を守るためにアメリカは戦ったのであった>(上同、p 51)と書かれていました。
 ベトナム戦争も、<アメリカは、トンキン湾でアメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受けたといういわゆるトンキン湾事件を作り上げ、その三間後に北ベトナムを爆撃した>(上同、p 51)というのです。

2024年8月25日日曜日

太平洋戦争の真相に迫る

 ショッキングな本に出会いました。『今の繁栄は戦没者の尊い犠牲の為か 誰も書かなかった太平洋戦争の真相』(中村治著、かまくら春秋社、2024年)です。
 この本は、いきなり特攻隊の解説から始まるのですが、著者の問い「日本は何の為に戦ったのでしょうか」は、深く考えもしなかった問いでした。しかし、日本を守るため、家族のため、という一般的な回答で、思考停止状態だったことに気付かされたのです。
 日本は終戦間近までは侵略されていませんでした。果たしてこの多くの戦没者は日本を守る為に犠牲になったと言えるのでしょうか。何の為に命を捧げたのでしょうか。何百万人という人達が何の為に犠牲になったのでしょうか。
 二〇二三年三月十五日の新聞に漫画家の故松本零士氏の言葉が紹介されました。「日本人は国や家族のために戦った」とあります。多くの日本人はきっとそう思い込んでいたのではないでしょうか。
 いったい遥か遠い太平洋のアッツ島やラバウル、ニューギニアなどの人達が日本を侵略したでしょうか。日本人は外国の侵略から国を守る為に戦ったのではありません。(p28〜29)
 では何の為に戦ったのでしょうか。
 「殆どの戦没者は外国から日本を守る為に死んだのではなく、上からの命令で日本から遙か遠い太平洋やアジアの国々を攻撃し、反撃されて亡くなった」(p8)というのです。
 改めて、旧日本軍の侵略軍としての実態が浮き彫りにされました。それに、戦艦大和が片道燃料だったことを初めて知りました。戦艦大和まで、特攻隊だったのです。何という日本軍だったのでしょう。その精神が自衛隊に引き継がれているのではないか、そんな疑惑まで生まれてしまいました。

2024年8月24日土曜日

整理に関する仮説実験

 整理術の本を読んでいたら、自分の時間が3割も増えた、と書いてありました。探し物の時間がなくなるから、だそうです。確かに、探し物の時間はバカにならないです。今日も、いざ、外出しようと思ったら鍵が見当たらず、鍵探しに時間が取られてしまいました。こんな具合ですから、整理された状態というのは魅力です。
 分かってはいるのに、机の上一つ片付けられずに、片付けようと思いつつ、他の用事を優先してしまう日が続いています。何とかしたい、そう毎日考えているのですが、前に進めないのです。
 そんな具合ですから、NHKのswitchインタビューという番組で、脳科学分野を中心に「人生で成功する秘訣」を研究する西剛志さんの書斎にあった”真っ白で何も置いていない机”が紹介されていました。そんな環境に憧れてしまいます。
 なぜ、机の上一つ片付けられないのでしょうか。意欲の重要性がわかり、片付け重要性もわかっていながら、実行に踏み切れない、前に進めないのはなぜでしょうか。綿密な計画がないから?優先順位を決めてことに当たらないから?行き当たりばったりの生活を続けているから?と思い当たることを書いてみました。まずは、一つ一つ仮説を検証してみることにしましょう。
 さて、その結果はどうなるでしょうか?

2024年8月23日金曜日

意欲プラス瞑想

 長命な芸術家が多い傾向にあることから、ことから、長寿に意志の力が欠かせないと、考えてきました。そうした仮説は、脳科学からも言えることがわかりました。その要約は次の通りです。

 山登りやスポーツを通じて得られる高次の満足感は、達成の過程に困難さが伴うほど大きくなる傾向があります。特に、病気からの回復や全快の過程も、同様に大きな満足をもたらします。
 これらの満足感は、「頭脳的」「身体鍛錬的」「健康回復的」という三つのカテゴリーに分けられ、いずれも満足度の差をつけにくいことが特徴です。さらに、満足を得るためには「攻める立場」と「守りの立場」があり、その中心には健康体が位置しています。 満足を追求する際には、意志の強さや忍耐心といった要素が不可欠であり、これは脳の「意欲」という働きによって支えられています。
 人類が他の動物と異なる点は、この意欲により目標を設定し、それを達成するために必要な努力を続ける能力にあります。具体的には、入試勉強やマラソン、慢性病における食事制限などが、意欲による成果の例として挙げられます。
 意欲の働きは、サルなどに比べて人類の脳で特に発達しており、この特性が人類を地球上の支配者へと導いた要因の一つと考えられます。運動能力や感覚機能においては他の動物に劣る部分も多いが、意欲の働きがそれを補っているのです。この意欲の働きにより、人類は地球上での第一人者となることができました。意欲の重要性が際立っています。(『脳と健康』、荒井良著、雷鳥社、1979年、p42~44からのAI要約を元に校正)

 確かに、意欲の重要性はわかりました。しかし、それだけでは、やはり心許ないです。闇雲に突き進めばいいというものではないからです。
 そこで登場するのが、瞑想です。そこで登場するのが、瞑想です。脳科学の専門用語でいうと、「デフォルトモードネットワーク」と言って、何もしていない時に活性化する脳のネットワーク状態で、その状態が続くと”情報が整理されて創造性が増す”(西剛志)と言われているようです。
 何事もバランスが重要なように、脳の使い方も、ON、OFFを上手に切り替えた方が良いのかもしれません。

2024年8月22日木曜日

F35総額2兆5千億円米国務省が承認

 見出しが「F35の日本売却、米国務省が承認 総額2兆5千億円」(朝日新聞、2020年7月11日)という、忘れていた記事が見つかりました。

 米国務省は9日、最新鋭ステルス戦闘機F35計105機の日本への売却を承認した。関連する機器と合わせた合計額は約231億1千万ドル(約2兆4700億円)となる。売却額は、サウジアラビアへのF15戦闘機84機など約294億3200万ドル(約3兆1500億円)に次ぐ、過去2番目の規模となる。
 売却するのは、通常離着陸機のF35A63機、短距離離陸・垂直着陸機のF35B42機と関連機器。日本政府は18年12月に、購入を決めていた42機に加えて105機を追加購入し、計147機体制とする方針を閣議で決めていた。(ワシントン)

 というものです。
 ここで疑問なのは、日本政府が要求していたのか、国会で議論されていたのか、ということ、そして、その後、実際に購入されたのか、その場合、いくらで購入されたのか、です。
 そして感じたのは、ニュースを知って終わりでなく、経過を追い続けることの重要性です。だからこそ、F35計105機の行方を追ってみようと思います。

2024年8月21日水曜日

核をめぐる二者択一

 核兵器禁止条約が国連で採決されたものの、日本など多くの大国が批准していません。そんな中でも、核兵器による危機は確実に迫ってきています。「意図的な行為よりも重大なミスや誤算が、核の大惨事の契機となりそうな時代に我々は生きている」(註1、下線は引用者)からです。
 もっと生々しい声を聞きましょう。「核兵器をめぐる物語は終わりを迎える。そして、どんな終わりになるかは、私たち次第である。核兵器の終わりか、それとも、私たちの終わりか?」(註2)それらの二者択一なのです。核兵器が、原子力発電所が存在している限り、第三の道はないのです。
 しかし、それにもかかわらず、被爆国でありながら日本は、米軍の核の傘によって守られていると信じられています。「だが、兵器や防衛システムに巨費を費やしたからといって、いかなる国の都市や市民であっても、完全に守れるなどと考えてはならない。原子爆弾の恐ろしい算術は、そうした安易な解決を許さないので」(註3)す。
 日本国憲法を持ち出すと、理想主義という批判がきます。現に脅威のある現実を見よ、と。しかし、敵による脅威よりも、現に存在している核による脅威の方がはるかに大きい現実を、核をめぐる二者択一の現実をこそ、よく見るべきなのです。

註1(核脅威イニシャティブ会長ジョアン・ロルフィング『核のボタン 新たな核開発競争とトルーマンからトランプまでの大統領権力』、ウィリアム・ペリー著、朝日新聞出版、2020年、p78)
註2(ベアトリス・フィン、2017年のノーベル平和賞受賞で、上同、p268)
註3(大統領アイゼンハワー、上同、p198)

2024年8月20日火曜日

ガザ地区等の正しい知識を学ぼう

 今も、イスラエルによるガザ地区への攻撃が止みません。「ガザの人々はイスラエル軍が造った壁で包囲され、自由に出入りもできません。瀕死の病人ですら、この包囲網から出られません。その上、爆弾を落とされ、子供たちは日々イスラエル軍が飛ばすドローンの騒音に怯えて暮らしています。どんな状態の日々なのか、どれほど悲惨なものなのかは私達には想像し難いものがあります」(NPO法人アースキャラバン主催の写真展の案内文より)。
 このような悲惨なガザ地区の現状を知って、武田砂鉄さんが紹介していた「正しい知識を学ぶほうが大事です」(註)という言葉を思い出しました。そして「知らなかった」では済まされない、と思いました。知らなかったでは済まされないことがまだまだある、とも。

(註)私は大学の授業で「差別/反差別」を話題にするとき『優しい気持ち』とか『寛容』とか、どうでもいいです」って言っています。「あなたの気持ちなんかどうでもいい。正しい知識を学ぶほうが大事です」と。(ハン・トンヒョン日本映画大学准教授清水晶子、飯野由里子との共著
『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(22.8)

「差別/反差別」が語られる時、「私はそういう気持ちで言ったわけではない」という言い訳が繰り返されているが、大切なのは「気持ち」ではなく「正しい知識」。「優しさ」が持ち出されると、感情をベースに話が進んでしまうが、それはもしかしたら、相手の心に踏み込むものかもしれない。そうではなく、必要なのは知識。感情の問題ではないものまで、芽生えた感情で語られてしまうと、それこそ差別があちこちに温存されてしまうのではないか。(武田砂鉄著『暮しの手帖』、2022年12月−2023年1月、p125)

2024年8月19日月曜日

平和を創る初めの一歩

 昨日「平和は創るもの」と書きました。
 それでは、そのためのはじめの一歩は何でしょうか。それは、平和実現への意志ではないでしょうか。そんなことを考えていたら、具体的な提案が詳しく紹介されていました。意志(情熱)と、理想と、計画が力を合わせていくわけですが、ここでの理想を日本国憲法の理想に置き換えれば、いかに日本国憲法を実現していけばいいか、ここに示されているのではないでしょうか。
 理性主義者のヘーゲルは、いかなる偉大なととも、ライデンシャフト、情熱なくして成されえなかったという。そして一つの歴史的理性が、ある英雄の中に具体化し、一つの情熱となって時代を動かすというのである。
 ほんとうに、偉大なことを成さしめるのは、かかる情熱である。必ずしも、偉大なことをなす場合とは限らない。何事をか、われわれが、成すには、何よりも必要なのは情熱である。
 強い情熱をもち、そして、その理想が、高い情熱に裏づけられていたら、いっそうすばらしい。そして、その情熱の中に、歴史的理性が、多く無意識に含まれていることすらあるのである。
 しかし、情熱だけで事はできない。情熱と共に必要なのは意志なのである。意志は、情熱を具体化し、そして、それを永続化せしめる。
 一つのことを成し遂げるには、やはり一つの計画が必要である。この計画を意志と理性の協力を得てつくるのである。計画が不十分であれば、事は必ず失敗する。できるだけ、計画は精密にする必要がある。
 歴史を見ると、権力の争いにおいて、できるだけ、精密な計画をしたほうが、勝っている。たとえば、藤原不比等が、日本をどのような国家にするかの点に、精密な計画をもち、彼はそれを着実に一つ一つ実現していった。
 それにたいし、それに反対するひとびとは、そういう計画を、少なくとも不比等のような巨大な、しかも精密な計画をもっていなかった。それでは、とうてい、勝負にはならない。巨大で、しかも精密な未来へのプランをもつこと、これが、行動の要である。(「学問のすすめ」、梅原猛著、佼成出版社、p257〜258)

2024年8月18日日曜日

平和は創り上げていくもの

 安全保障環境が悪くなってきたと言われます。だから、自衛隊を憲法に明記すべきだというのです。もう一つ、自衛権があるのだから、最小限の軍備は憲法上認められると言われます。
 そこで考えました。これらは、守りの姿勢です。しかも、守りの耐性が発動されたら、一気に平和は崩れてしまいます。そもそも、平和を守ろうとする手段が暴力的だというのがおかしいのです。だから、「平和は、それ自身にふさわしい手段である対話と理解、寛容と許し、自由と民主主義を通じてのみ手に入れることができるということを理解しなければなりません」(註)
 つまり、平和というものは、守るものではなく、平和的な手段で創り上げていくものだったのです。考えてみたら、ASEAN地域の平和も、そうして創られてきたものです。軍事力を用いては平和は創り上げることはできないのです。

(註)『平和をわが手に コスタリカ大統領のノーベル平和賞感動の伝記』、竹井博友著、竹井出版、p190

2024年8月17日土曜日

地域における共存実現の条件

 一九八七年九月二二日米州機構常設理事会でのコスタリカアリアス大統領の挨拶(注)から、とても大切なことを学ぶことができました。それは、一定の地域における共存実現の条件がはっきり見えてきたことです。この条件は、野党共闘実現の条件にもなりそうです。
 1、共有できる最も価値あるものを明確にすることです。ここでは、絶対自由主義の理想が共有したい最も価値のあるものになっていますが、絶対の戦争否定による永遠平和の理想というものも、最も価値のあるものに入れたいです。
 2、対話の道を開き、対話のルートを作っていくのです。
 3、恐るべき強さで、民衆から自由を奪う人達、人間から徳性を奪う人達に、刃向かっていくのです。そうすれば、たくさんの人達がついて行き、一国の国民全員がついて行き、人間の権威もついて行きます。

(注)アメリカ大陸の住民が、自分達の共通の理想を追求しようとする、ここ米州機構に来られたことを、私はうれしく思います。皆様の大部分は、今日、国民がその自由意思に基づいて選出した政府を代表しています。シモン・ボリバルから受け継いだ、絶対自由主義の理想は、私達が共有したい最も価値のあるものなのです。
(中略)
 中米の人々は、お互いに対話を交わしています。国々の大統領達が、大臣達が、技術者が会談しています。作家やジャーナリストや聖職者たちも話し合っています。中米には対話のルートがあります。そのルートに私達は助けを求めるのです。私達は、この熱帯地方で対話の道を開くのは、どんなに困難であるかを、誰よりもよく知っています。しかし、それを私達は行っているのです。
(中略)
 今日、中米が求めていることは、ホセ・マルティの言葉に反映されています。
「不当な法律に忍従し、彼を手ひどく扱う人達が、彼の生まれた国を踏みつけにするのを許す人は、誠実な人ではない。世の中には、ある一定量の光があるのと同じように、ある一定量の徳性があるのである。徳性をもってない人がたくさんいる所には、常に少数でもこれら全部の人の徳性に見合う徳性をもっている人がいる。これらの人達は、恐るべき強さで、民衆から自由を奪う人達、人間から徳性を奪う人達に、刃向かっていくのだ。これらの人達には、たくさんの人達がついて行き、一国の国民全員がついて行き、人間の権威もついて行くのだ
 和平協定は、中米の人々がこの歴史に示されたときに、選び取った権威と徳性の道なのです。私達は、自由と、民主主義と、発展という共通の目標を得たいのです
 私はアメリカの民主主義に、そしてこの地にある圧制と戦う人に、この中米和平(これはまたアメリカの平和でもあります)に共に働くよう呼びかけるのです。(『平和をわが手に大統領のノーベル平和賞感動の伝記』、竹井博友著、竹井出版、1988年、p162~172)

2024年8月16日金曜日

感情のもつれを解く

 図書館で『悪口ノートの魔法』という「何これ」と思って手にした本があります。悪口を書いて、心の移り変わりを記録していると、移り変わりを記録していると、単なる事実のネタと、ネタを元に生じたガセネタというものに分けられること。ガセネタを事実と思い込んで怒りの感情を露わにすることが多いことが書かれており、数学の世界と真逆ではないか、と、正直、驚きました。

(例)ガセネタについては、例文で説明します。よくある夫婦ケンカの例。<>がネタ、下線がガセネタですよ。 
<リビングで夫がテレビを見ながら、「お茶をくれ」と言ってきた。>
すると妻は、「夫は、私のことを家政婦だと思ってるのかしら」と夫に 腹を立て、<返事もせずにお茶を淹れ、ドンッと机に置きました。>すると<夫は、驚いた顔で「なにを怒ってるんだ?」と言ってきました。 
<妻は、「べつに怒ってないわよ!」と言い返した>ところ、<「怒っ てるじゃないか!」と夫は声を>荒げケンカになりました。 

 このケンカの発端は、妻がガセネタで自分を「家政婦」だと思い込んでいいることから始まっています。ネタをちゃんと見ていくと夫は、、ひと言も妻のことを「お前は俺の家政婦だ」なんて言葉にしていません。妻が勝手に「私は夫の家政婦だ」と感じて思い込 んでることがケンカの原因なのです。ちなみに、声を荒げたかどうか、ケンカかどうかも、事実との線引きが難しいのでガセネタにします。(『「悪口ノート」の魔法 ずるいくらいいいことが起こる』、石川清美著、青春出版社、2024、p144〜145)

2024年8月15日木曜日

政治の基本に立ち返ろう

 法治主義というものが政治の基本であることは理解していたつもりでした。しかし、ヒューマニズムとか、倫理という概念に惑わされ、法治主義というもの理解を曇らせてしまったようです。実は、東洋の思想家「韓非子の法思想」(注)というものを知って、「法治主義」というもの、「政治の基本」というものを真に理解できました。
 韓非のいうことが真ならば、真と認めるならば、今の政治というものは政治の基本から逸脱していることになります。事実、逸脱しているにも関わらず、その現実を真実と思い込んでいる、あるいは思い込まされているのです。
 今こそ、政治の基本に立ち返る必要がありそうです。いや、立ち返るべきなのです。


 (注)韓非にいわせれば、法律がしっかりと整えられ、それが確実に運用されるのが政治の基本なので、君主たるものに、仁とか愛などという要素は不要である。
(中略)
 韓非は、安っぽく愛とかとヒューマニズムとかをけっしてふりまわさないで、きわめて冷たい目で人間を見るのである。韓非の思想は、言わば人間不信の念が基本になっているのであるが、 あらゆる人間が悪者だというのでなく、置かれた環境によっては、人はどんな行動をとるかわからないことを忘れるなと、韓非は警告しているのである。(「韓非子の法思想」『法令ニュース』、官庁法令出版、1974-04、p63)

2024年8月14日水曜日

憲法に基づく安全保障を

 沖縄国際大学の建物に米軍の大型ヘリが衝突し、炎上してから、もう20年も経ってしまいました。その件で「天声人語」が論評していました。
 理解できないのは、米軍が大学構内や公道に黄色いテープを勝手にはり、事故現場を封鎖したことだ。現場検証を求める警察を閉め出し、政府高官の立ち入りも拒否した。まるで占領下での振る舞いである。日本の国家主権が侵害されている――。抗議の声が上がったのは当然だろう。だが、米軍は意に介さずだった。自らの特権を定める日米地位協定を盾に使い、日本政府もこれを擁護した。(「天声人語」、2024年8月13日
 と、理解できない現実を述べた後、日米関係の光と影に相当する二面性に言及し、20年前の米軍ヘリ墜落事件と「同じことはどこでも、起こりうる。日本のどこでも」と、締めくくっていました。この現実をもっと重視し、軍事力に頼らない安全保障。日本国憲法に基づく安全保障の実現を、本気になって目指さなければなりません。改めて、そう感じました。日米安保条約がある限り、米軍ヘリ墜落事件と「同じことは日本のどこでも起こりうる」からです。「天声人語」には、そこまで踏み込んでほしかったです
「日米関係には光と影があると。平和をともに守ろうという同盟の姿は、明るさをはらむ。一方、もう一つの顔は、支配と従属に類するような冷徹なものである。その何と暗く、不条理なことか。いまも、いびつな関係は続いている。沖縄に限った問題ではない。この国のあり方を、根底から問う話である。同じことはどこでも、起こりうる。日本のどこでも」(「天声人語」、2024年8月13日)

2024年8月13日火曜日

「人間の尊厳」の思想

 メモを読み直していて見つけた中島輝さんの言葉があります。
 失敗を糧にできる力を「レジリエンス」といいます。レジリエンスがあると自信を喪失しにくくなります。
 レジリエンスを高めるには自問自答が効果的です。今どんな状況で、何が問題かを確認することで、不安を解決する糸口が見つかります。自問自答の過程はメモに残しておくと振り返ることができてお勧めです。
 残念ながら、何からの引用かがわかりませんでした。それで、中島輝さんの本を探して読んでみることにしました。やはり、素敵な言葉がたくあんありました。
 その中の一つが、「いいことも悪いことも、すべてを丁寧に味わい尽くす。そこから幸せがはじまる」という言葉です。以下は解説です。この思想は、欠点を含めて、丸ごとその人を尊重するという「人間の尊厳」の思想に通じるものと感じました。
 いいことに気づくためには、ふだんから丁寧に楽しみながら生きる姿勢が必要です。
 わたしは、問題やトラブルまでも含めて、「すべてを味わっちゃえ!」といつも思っています。
 つまり、ネガティブなものごとも味わってしまうのです。実際にはあまりないですが、仮に誰かと喧嘩しても、丁寧に喧嘩をして、それを味わうというイメージです。
 ネガティブな出来事も誰かがなにかをやったから起きたわけで、わたしはすべてが大きな変化のプロセスの一環だととらえています。ネガティブな事象だけを取り出して否定するのは、原理的におかしいのです。
 だからこそ、最初に「すべてを楽しもう」と思うことがとても大切。
 個人の力ではいかんともしがたい災厄でも、大きな変化のプロセスの一環ととらえれば、そのなかの変えられる部分に気づけます。
 いいことも悪いことも、すべてを丁寧に味わい尽くす。そんな姿勢から、幸せがはじまっていきます。
 ネガティブなことの数でなく、幸せの数を数えて生きよう。(『あなたは、もう大丈夫。「幸せスイッチ」が入る77の言葉』、中島輝著、プレジデント社、2021p46~47)

2024年8月12日月曜日

自民党の戦前回帰への願望

 放送大学の学生は、大学の図書館を通じて朝日新聞を検索利用できます。今日は、「加藤周一憲法」で検索し、「自主憲法期成議員同盟が各地方議会に流した改憲決議例文」(1980年10月12日、天声人語)の存在を発見することができました。なんとその例文には、「(現憲法は) 個人の権利ばかりを強調するのあまり、社会や国家のことを考えない利己的な人間を輩出し」とあるようなのです。
 だから、「改憲論争の中心課題は第九条だけではない。国家に対する帰属感のうすい利己的な人間がふえたという認識に立ち、天皇に関する規定や国家への忠誠義務を明確にせよと主張する」。それゆえ、天声人語は、「ことさら憲法に国家への帰属を強くうたうことは、目的や是非を問わずに大勢に順応するという一億一心型の価値観を強めることになる」と、改憲勢力に警鐘を鳴らしていました。
 現在政府は、9条への自衛隊明記を、と訴えていますが、政府が求めている憲法改正の本命ともいうべき核心部分を、すなわち、「天皇に関する規定や国家への忠誠義務を明確にせよ」といった戦前回帰への願望を明確にしていく必要が急務のようです。天声人語に教えられたことです。

2024年8月11日日曜日

天皇制は解体されねばならない

 天皇を批判した茨木のり子さん詩「四海波静」については、「昭和天皇の[戦争責任]記者会見」や「天皇発言への憤りを込めた作品」で取り上げました。さらに、『思索の淵にて 詩と哲学のデュオ』(茨城のり子・長谷川宏著、2006年)でも取り上げられて、長谷川宏が天皇制について、なんと、「やはり天皇制は解体されねばならないだろう」(注)と論じていたのに驚きました。ここまでストレートに天皇制を論じた本は、読んだことがないからです。
 そういえば、「むのたけじ」さんや「大西巨人」も、天皇制に批判的でした。しかし、これだけストレートだったか定かではありません。そうそう、住井すゑさんも、ストレートに批判していたのを思い出しました。改めて、天皇制批判の論考を集めてみるのも大切なのかもしれません。

(注)天皇という存在は制度に鎧(よろわ)われたなんと悲しい存在だろうと思った。公的存在でしかなく、公式発言をもってしか人と対峙しえないとは、一個の人格としてあまりに貧しく、あまりに硬い。万世一系や国の象徴といった意味づけがそのような貧しさや硬さを強いているとすれば、やはり天皇制は解体されねばならないだろう。
 戦争責任にもっとも深くかかわった人物の一人が、三十年前に戦争責任の問題を「言葉のアヤ」だと一蹴したとき、群衆のあいだからは大きな笑い声も怒りの声も起こらなかった。いまも、群衆と天
皇との関係はさほど変わっているようには思えない。この一事をもってしても、戦後六十年、戦争責任問題はなお未決だといわねばならない。(長谷川宏著「公式発言」『思索の淵にて 詩と哲学のデュオ』、p179)

2024年8月10日土曜日

九条は存在感を増している

 九条の現在地は、どうなっているのでしょう。
 それは、「憲法違反だと言われる集団的自衛権の一部を解禁した先般の安保法制の成立ではあるが、ここにおいても損傷をこうむりながら憲法九条はギリギリ守られている。九条は存在感を増している」 (注)ということです。石川好著「戦後民主主義に不都合はありますか?」を読んで、痛感したことです。
 二十一世紀に入って、いまだに戦火が絶えません。政府は、だから、と言って「憲法に自衛隊明記」を実現したいのでしょう。しかし、真実は、そうではありません。だからこそ、「九条は存在感を増している」と言うのが真実なのです。「憲法に自衛隊明記」は、「戦前から戦中への道」に向かうための一里塚だからです。

 (注)では「戦後」民主主義とは何か。それは、憲法九条の不戦条項を守り抜くことである。憲法九条があっての「戦後憲法」である限り、この九条を守りきることが、戦後民主主義なのである。
 「戦後民主主義」や「戦後憲法」「戦後教育」等々に冠せられた「戦後」という言葉が嫌いなら、政府は正面から九条をすてる憲法改正案を国会に提出し、国民投票にかけるべきである。私見を述べれば、国民投票においては間違いなく否定されると思われる。なぜなら「戦後」という時代が継続されることにより、戦前と戦中が回避されるからである。憲法違反だと言われる集団的自衛権の一部を解禁した先般の安保法制の成立ではあるが、ここにおいても損傷をこうむりながら憲法九条はギリギリ守られている。九条は存在感を増しているのである。それを守っているのが、戦後民主主義になじんだ日本民衆の嫌戦意識なのではないのか。
 民主主義とは国民による抵抗権の別名である。「戦後」を冠した日本の民主主義とは傷だらけになりつつあるとはいえ敗戦の結果誕生した九条を守り抜く抵抗意識そのものだと思われる。
「戦後民主主義」「戦後憲法」で何か不都合なことでもありますか?と覚悟を決めれば良いのである。
 それがあの戦争を体験した日本人の生き方だと思われる。
 永続敗戦論ではなく継続戦後論を強化することで、くり返すが、戦前から戦中への道を回避できるからだ。(石川好著「戦後民主主義に不都合はありますか?」『私の「戦後民主主義」』岩波書店編集部編、岩波書店、2016年、p120~121)

2024年8月9日金曜日

”生ききる”こと

 野口晴哉『偶感集』に「全生」という詩があります。その詩を抜粋し、句点と読点を入れて編集し「生ききること」という詩にしました。この詩を読んで、前にわからなかったところがわかりました。
 実は前に、似たような内容の文章を読んでいたのですが、よく理解できなかったのです。それが、「大なるは大の役あれど、小なるは小なる役あって、その存在の意義を全うするものだ。象の百年生くるも全生なら、蝉の一夏の生涯も又全生なのだ。大と小と対立させてその価値に拘泥するのは、人間的な有限感覚に基いているに他ならぬ。人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ」(『碧巌ところどころ』、野口晴哉著、全生社、1981年、p3)です。「人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ」などと言われても、禅問答を聞いているようで、ついていけなかったのです。
 それが、「全生とは数学によって得るものに非ず、/その生を”生きること”に全生はある也」とか、「人間の全生時の長さに非ず、/その一日を”生ききる”ことに全生はある也」と言われ、初めて、「全生」なるものの価値を理解することができました。
 それから「力は使うことによって増す也」ということは、生理学を熟知しているからこそ体得した真理に違いないと思えたことでした。全てにおいて言えることで、人生を倍化させる秘法でもあると嬉しくなってしまいました。

”生ききる”こと

七十歳になったから全生したとか、
八十歳だから全生したとか、
四十歳で死んだから全生しなかったとか 、
天文学的執着によって全生を解す可からず。
全生とは数学によって得るものに非ず、
その生を”生きること”に全生はある也。

全生に生ききるとは、自ら生くる也。
他に依って生かされ、息している人は、
いつになっても全生しているに非ず。
蝶が一夏で死し、猫が二十年で死し、
松が千年で枯れても、
等しく全生したる也 。
人間の全生時の長さに非ず、
その一日を”生ききる”ことに全生はある也。

力は使うことによって増す也。
力を使うこと惜しむ人、全生の道を知らず、
十のこと為すに五の力にて為すより、
五十の力をもって為すこと、全生の道也
成否の問題に非ず、
ただより多くの力を費やして生くる可し。
費やして減ることなきを知る者、
いつも活き活き生くるを得、
斯くの如きを全生という也。
(「『偶感集』、野口晴哉著、全生社、1986年、p95〜97」より抜粋編集)

2024年8月8日木曜日

進歩が見える生活

 教育雑誌『たのしい授業』に、「やっぱり自分の進歩が見えるのはうれしいのです」(2011年10月号、p30)いう言葉を見つけました。小学校の先生の言葉ですが、学生でなくても、何歳になっても「自分の進歩が見えるのはうれしい」ものです。
 学生のころは、常に課題があり、やればやるほど進歩の跡が見えやすいものです。しかし、社会人となるとそうは行きません。仕事の忙しさにに埋没してしまうと進歩の跡などなかなか見えないし、仕事が終わると生活のマンネリ化になりやすいからです。
 マンネリ化というものは、意識した生活目標がなくなるとなりやすいものです。写真の撮り方を上手になろう、きれいな芸術性の写真を撮れるようになろう、あるいは、ピアノを弾けるようになろう、といった多くの課題を持っていれば、それらの進歩が見えるようになり、生活が楽しくなるというものです。何歳になっても、進歩が見える生活というものを目指していきたいです。

2024年8月7日水曜日

お尻の威力

 ノートは読み返してこそ、威力を発揮するらしいことは知っていました。このことは、アナログのノートにかぎらないようで、パソコン内のファイルにも当てはまるようです。なぜなら、「お尻に力を入れて立つ習慣を身につければ、特にスクワットをやらなくても、生涯、猫背にはならないらしい」ということが書かれたファイル「お尻の威力」を見つけることができたからです。

 もし、私たち人間が猫背と前のめり姿勢を止められたら、頸や腰の痛みを患う人の数は、10分の1以下に減るかもしれません。実は、私たちのお尻(大殿筋)には、猫背や前のめりになることを抑制してくれる、大切な機能が備わっているのです。
 さっそく、そのお尻の使い方を紹介しよう。
 やり方はシンプルで、お尻の割れ目を締めるように力を入れるだけで、骨盤が固定されて前のめりや猫背の姿勢を防止・改善できるのです。この抑制力は非常に強く、お尻を締めたままでは深くお辞儀できないほどなのです。
 そして魅力なのが、お尻に力を入れて立つ習慣を身につければ、特にスクワットをやらなくても、生涯、猫背にはならないらしい、ということです。なぜなら、お尻が人の直立二足歩行を支えているだけでなく、優れた猫背予防装置としても活躍しているからです。 お尻の形と張りと腰痛には関連性がある。
 慢性腰痛を患っている人や、シニアで猫背(前のめり)になっている人を真横から観察すると、大殿筋が萎縮し、お尻がぺたっとして小さくなっている、もしくは、左右のお尻のサイズが大きく異なっているそうです。何よりも、何歳になってもお尻を締めて立つように心掛けていると、大殿筋の厚みが増して前のめりと猫背の姿勢が改善されるというのですから、今度こそ、実践したいです。
 なお、「8秒お尻引き締めエクササイズ 骨盤整い便秘も解消 - 日本経済新聞」に、詳しく解説されていました。

2024年8月6日火曜日

財政再建の法則は?

 だいぶ前に、経理の理論を学び、日本の財政状況を点検してみたいと思ったことがあります。「貸借対照表などの財務諸表を使った経営分析の手法を使って、国家財政を分析したらどうなるか」、と言う問題意識です。
 前に書いたのが「財政再建の法則」ですが、そもそも、「財政再建の法則」なるものがあるのかどうかさえ、疑問です。しかし、数学のように法則が貫いているのであれば、社会変革の大きな武器になるはずです。新しい課題を見つけてしまいました。思い出したと言うのが正しいですが。
財政再建の法則
 相馬藩には、二宮尊徳の教えを実践して財政の再建を成し遂げた歴史がある。尊徳によると、財政再建の要は収入を調べて支出の限度を定めることにあるという。日本の財政で借金が増え続けているのは、税収が減っても収入に見合った支出にしなかったからに他ならない。
 今日本の政府は、消費税を上げて税収を増やそうとしている。財政規模のこと、つまり、支出のことには触れないで、消費税を上げなければ、国家財政は破綻するという理由からだ。果たして、このような財政処置は財政再建の法則に合致するのだろうか。そもそも、財政学で明らかにされた財政再建の法則なるものは存在しているのだろうか。
 と貸借対照表などの財務諸表が出てくる。これらを駆使すれば、会社の財政状況を明らかにすることができる。こうした考えを応用して、国や自治体の財政状況も明らかにすることができるのではないだろうか。こうした近代的な学問を持って二宮尊徳の教えを見直すことが出来れば、財政再建の法則を明らかにすることができるような気がする。
 いつかは経理を勉強したいが、その前に、相馬藩の歴史を調べてみたい。丁度、たのしい授業、92年6月号に「誰が相馬藩を救ったか」という記事があって<江戸時代末の相馬藩では,まさに絶望的といえる状態から藩の建て直しに成功しました。どんな人が,どのようにして「既成のワク」を打ち破ったのでしょうか>という内容が書かれている。まずは再読すること。
 更には、日本の財政状況の歴史を調べてみたい。先ずは資料、日本の財政状況の歴史を扱った著書を集めることである。経理の勉強にも興味が出てきた。ゆっくりやっていこう。2012年07月24日

2024年8月5日月曜日

前文の眼目、不戦の誓い

 書家の石川九楊さんの「日本国憲法」という小論に感動して「”米軍基地に領土を奪われている”日本」(2020年7月19日)と「今、中国とどう向き合うべきか」(2023年5月30日)を書いています。
 そしてまた、石川九楊さんの「日本国憲法」を再読し、新たな発見をすることができました。前文の眼目は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ことだというところです。だから「政府が戦争をひきおこし、惨禍を招いた、政府とはそういうものだというこの図星の一節が現政府には目際りで、抹消したくて仕方がないにちがいないと見当がつく」というのです。
 それだけではありません。「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定」したのも、「政府がまたまた戦争をひきおこさないように」するため、と言っているのです。そう考えると、九条も、基本的人権の保障も、前文の眼目である「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ことが目的ということができます。前文の眼目は不戦の誓いだったのです。

2024年8月4日日曜日

平和国家構想の提示を

 今、日本に必要なものは何でしょうか。個々の問題が山積みしていて、右往左往してしまい、力が分散してしまっているのではないでしょうか。そうならないため、日本国民の全部とまではいかなくても、国民の多くが「結束して推進することに生きがいを感じる理想」、平和国家構想の提示が、政党によって描かれることが必要です。そのことを都留重人さんに学びました。
 例えば、
 為政者が真剣に憲法第九条を理想としてえがくのであれば、そこに含まれた平和国家の構想を、みずから進んで提示すべきである。たとえ現実に邪魔されてその平和国家構想の実現が遠い将来のことであるとしても、人類の共通のねがいである恒久平和の一礎石となるような平和国家の構想は、それじたい、日本国民の全部が結束して推進することに生きがいを感じる理想であるにちがいなく、率先し結束してこの理想の実現にはげんでいる日本国民には、犯しがたい道徳的な力があるはずだと私は信じている。(都留重人著「憲法第九条と日本の安全保障」『世界』、1963年1月、p 20、下線は引用者)
 そして、「日本の中立化が成功するためには、当然のことながら、その構想を積極的にもった政党が政権につき、その構想と密接に関連した社会改造の仕事が意慾的に進められていて、国民の大部分がその政権を支持しているばあいである」と、政党が先頭になって「平和国家の構想を提示すべき」である、政党の重要性にまで言及しています。考えてみたら、議会制民主主義の国として、当然のことでした。
 日本の中立化が成功するためには、当然のことながら、その構想を積極的にもった政党が政権につき、その構想と密接に関連した社会改造の仕事が意慾的に進められていて、国民の大部分がその政権を支持しているばあいである。平和運動そのものは、常にあるところの永久運動であるかもしれないが、それが或る時点において権力闘争と結びつくことは避けられないのだ。笠信太郎氏は「いま武力らしい武力をもたない日本ですから、その日本を守るものは、要するに他国がこれを軽んじることのできないような精神の落着きといった大きな力ではないでしょうか」(『朝日ジャーナル』一九六二年五月六日号)と語ったが、この「精神の落着き」こそは、第九条の精神を中心に、自主的な平和的文化国家を建設するという理想を、国民が一致して自らのものとすることから生れるというべきではないだろうか。やりがいのある社会改造の建設的具体案をもたぬものや、社会改造によって自らの専有既得権益を失うものだけが、いたずらに武力による侵略をおそれるのだ、と私は思う。(上同、p23、下線は引用者)

2024年8月3日土曜日

修繕したまえ 平和を

 ズバリ「戦争」という名の詩を見つけました。 最後は「踊れ 労働界の若者よ/そしてもしきみが戦争を望まないなら/修理したまえ 平和を」で終わるのですが、平和を謳った「平和はとても美しくとても脆い/そしていつも脅かされている/いつも生き生きして いつも非難されている」ところで”平和”が”日本国憲法”に重なってしまい、日本国憲法のことを謳っていると錯覚してしまいました。
 つまり、「日本国憲法はとても美しくとても脆い/そしていつも脅かされている/いつも生き生きして いつも非難されている」でも、立派に通用するということです。そして、平和を守れということは、日本国憲法を守れと同義であることに気づきました。ですから、「修理したまえ 平和を」ということは、長く無視され、ズダズダにされかかっている日本国憲法です。そんな憲法を立派に修繕されてこそ、真の平和が実現するということだと思うのです。
 なお、「この詩が書かれた1953年は、インドシナ戦争(ヴェトミンによる仏領インドシナのフランスからの独立戦争。1954年フランスは敗北する)の最中であり、冷戦下、西ドイツ再軍備(1955年に実行)を含む軍国主義的な新体制を作って東側に対抗する新ヨーロッパ構想が進行していた。これらに反対して様々な都市でヴェトナムの平和を要求するデモ行進が組織された。南仏カーニュ・シュル・メールのデモに際してこの詩は書かれた』(『鳥への挨拶』、ジャック・プレヴェール著、ぴあ、2006年、p169)ものです。

戦争(後半部分)

踊れ踊れ 若者たちよ
踊れ踊れ 平和のために
踊れ踊れ 平和とともに
決して彼女を忘れることなく。

平和はとても美しくとても脆い
そしていつも脅かされている
いつも生き生きして いつも非難されている。
(·······)
踊れ カーニュ・シュル・メールの若者よ
踊れ すべての国々の若者よ
ひとりの例外もなく
屠所に運命づけられた若者よ
踊れ踊れ 平和とともに。
やつらは彼女を背中から撃つ
だが平和の腰はしゃんとする
きみが彼女を腕に抱いてやれば。
彼女はとても美しくとても壊れやすくとても脆い
彼女はしかもひどく年寄りで痛んでいて調子が狂っている。

踊れ 労働界の若者よ
そしてもしきみが戦争を望まないなら
修理(修繕)したまえ 平和を。(上同)

2024年8月2日金曜日

自分自身のために書く

 翻訳本は、複数の翻訳者のものを参照すべきです。そう思ったのは、『人間的なあまりに人間的な 下巻 』(新潮文庫、1958年)の阿部六郎訳にはなかった訳註が、『ニ-チェ全集 第7巻 人間的な、あまりに人間的な 下』(白水社、1980年)の浅井真男・手塚耕哉訳にはあったからです。例えば、
一六七 自分自身のために書く。(原文は傍点)—— 思慮ある著作家は自分自身の後世以外のどんな後世のためにも書きはしない、すなわち、自分の老年のために書くのであって、それはその年齢になってもなお自分というものを楽しむためである。(p103)

一六七の訳注、古典文献学者ヴァレンティン・ローゼの、『アリステレスの偽書』(一八六三年)における言葉「各人は自分のために書く」(sibi quisque scribit) による。ヴァレンティンのこの言葉をニーチェは一八六七年秋から六八年初めにかけて繰り返し論評し、引用している。p434 

四〇五 人間への祈り (原文は傍点)—— 「われわれの諸徳を赦したまえ」――人間にはこう祈るべきである。

四〇五の訳註 『マタイ福音書』六の一二「われらに負債ある者をわれらの赦したるごとく、われらの負債をも赦したまえ」をもじった。p440 
 訳註の「ヴァレンティンのこの言葉をニーチェは一八六七年秋から六八年初めにかけて繰り返し論評し、引用している」からニーチェの勉強ぶりがわかって、大いに勉強になりました。

2024年8月1日木曜日

戦争に巻きこまれない平和な国

  戦争に巻きこまれない平和な国とはどんな国だろうか、という問いを持ち、その答えを日本国憲法に求めた憲法解釈を読みました。

 ひとたび戦争が起これば、日々の無事平穏を望む日常感覚は戦争の非日常性についていけず、その野蛮さや粗暴さに心を痛めながら一日も早いその終結を祈るほかないが、戦争の起こる前や終わったあとならば、落ち着いた気分で、戦争に巻きこまれない平和な国とはどんな国だろうかと考えることができる。
 そう考えるとき、

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

と憲法前文で宣言し、
 それを受けて第九条で

 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 と規定する日本という国は、日々の生活の平穏無事を願う人びとの日常感覚に根ざした基本理念の上に立つ国といえる。一つの国が「恒久の平和を念願し、」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を「永久に放棄する」とし、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と宣言するのと、一個人が戦争で人を殺すのも、殺されるのもいやだ、戦争のない所で静かに暮らしたい、と思うこととのあいだには大きな隔たりがあるのはいうまでもないが、日本国憲法の前文と第九条は、国のありようを人びとの日常感覚に近づけることによって隔たりを埋めようとしている。そこが平和の表現としてすぐれている点だ。(『ことばをめぐる哲学の冒険』、毎日新聞社、2008年、p233〜234)

 ここに、戦争に巻きこまれない平和な国にする方法が示されています。要は、日本国憲法の前文を宣言し、その保障として、九条の精神を高らかに世界に向かって宣言するのです。戦力を持ち続ければ、遠からず、戦争に巻き込まれることは必至と言えるでしょう。そんなことはあってはならないのです。