2022年6月30日木曜日

剣をとる者は/剣にて亡ぶ

 私は、非武装中立路線こそ正しい道だと思ってきた。そんな私も、ウクライナの現実を前にして、考えが変わってしまったことがある。小林節さんの次に紹介するような「独立主権国家として、『専守防衛』に徹し、その準備は常に怠らない。つまり、今回ウクライナが世界に示したような優れた自衛力を保持し続けることが望ましい」という論説を読んで、非武装中立は理想の姿として棚上げしてもいいのでないか。つまり、国際環境が安定するまでは「自衛権に徹する武力もやむなし」と、方針転換をしてしまったのである。
日本は、9条の下で今後も次の政策を堅持できるし、すべきであろう。
 ①他国にこちらから戦争を仕掛けないし、さらに、他国間の戦争には参加「できない」。しかし、②独立主権国家として、「専守防衛」に徹し、その準備は常に怠らない。つまり、今回ウクライナが世界に示したような優れた自衛力を保持し続けることが望ましい。
 これが、政治的にも憲法的にも正しい独立・自衛策のはずである。(小林節著『日刊ゲンダイ』、2022/03/04)
 しかし、連日のウクライナの惨状を見るにつけ、自らの方針転換に自信を無くし、方針転換の間違いに気がついた。自衛権に徹すると言っても、そうすれば、日本における惨状を防げるのか、日本における戦争を防げるのか、という疑問が消えなかったからだ。自衛権を行使した時点で、戦争を始めてしまうことになるのは、なんとしてもおかしい、と。
 逆に、自衛権に徹するという条件付とは言え、武力を肯定することになり、紹介写真にあるような、沖縄にある反戦平和資料館に掲げられた言葉「すべて剣をとる者は/剣にて亡ぶ(聖書)」「基地をもつ国は/基地で亡び/核を持つ国は/核で亡ぶ(歴史)」の真理性を疑う(否定する)ことになってしまう。
 やはり、日本国憲法が示した通り、「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを」(前文)を国家の最優先課題にすべきだし、その具体的な方策を国家を上げて取り組んでいくべきなのである。このような取り組みを何もしないで、「優れた自衛力を保持し続けることが望ましい」などということは、正しくなかったのだ。

2022年6月29日水曜日

奴らは私の誇りを奪った

 ビレ・アウグスト監督作品『レ・ミゼラブル』を観た。あらすじはネットに詳しいから省くが、ジャベール警部の意外な行動で、この作品は終わり、コゼットと恋人の将来について、あるいは、自由になってからのジャン・バルジャンについては、観客の想像に任されていた。だからからか、ジャベール警部の行動がクローズアップされ、どうしてあのような行動を、という疑問が、余韻となって残った。そして、原典で、その部分だけでも確かめてみたいと思った。
 原典で確かめてみたい、といえば、ジャン・バルジャンがコゼットに「自分の過去を告白する」場面も圧巻だった。特に、「パンを盗んだだけで19年もの収監生活を送り、そこで数々の恐ろしい体験をした。そうして、奴らは私の誇りを奪った。全てを奪った」というところが印象的だったが、文章ではどのように表現されているのか興味が湧いた。ぜひ読んでみたい。
 後になって『レ・ミゼラブル』のあらすじを確かめて驚いた。あらすじでは、コゼットは結婚し、ジャン・バルジャンは、天に召されるまで描かれていた。文学作品は文学作品で、映画は、文学作品と大意は変わらないとしても、独立した作品となって、映画独自の創造もあるのかもしれない。ミュージカル作品もあるようなので、観てみたい。

2022年6月28日火曜日

「色即是空」、「1=0」の世界

 「聖なる時間」というものを考えていたら、山間の爽やかな朝の空気に触れているときも、「聖なる時間」と言えるのではないか、と思えてきた。さらに想像が膨らんで、仏教の真髄は「1=0」と言った人のことを思い出した。
 般若心経の「色即是空」は有名だが、1は、般若心経の色の世界で、0は、「空の世界」のことだった。その程度の理解だったが、「聖なる時間」というものを考えている過程で、新たな解釈に気がついた。どういうことか。
 0という「空の世界」はまた、無限の世界を持つ、つまり、「永遠(悠久)の時間」を生きることができるような、そんな世界である。1という「色の世界」はまた、「有限の時間」を生きている、そんな世界である。
 従って、「色即是空」の世界、「1=0」の世界というものは、「有限の時間」を生きながら、同時に「無限の時間」、「永遠(悠久)の時間」を生きることができるようになった状態であろう。
 では、「色即是空」の世界、「1=0」の世界というものは、具体的にどんな心の状態を言うのだろうか。
 それは、現在の心の状態と比較すれば良い。現在は、具体的に先が見え、せいぜい長くて20年生きれればいい、などと考えてしまう。これでは、とても「永遠(悠久)の時間」を生きているとは言えない。だから、「色即是空」の世界、「1=0」の世界というものは、先のこと、死ぬ時のことなどあまり気にならない、いつ死んでもいい心の状態、死ぬことが気にならない状態ではないか。それが現在の結論である。
 しかし、まだ問題がある。どうすれば、「色即是空」の世界、「1=0」の世界に到達できるのだろうか、という問題だ。般若心経の教えを体得すればいいのだろうか。それ以外の、いわゆる「道」を極めるという、日本文化の教えを体得すればいいのだろうか。ゴッホや葛飾北斎といった芸術家の生き方にヒントがあるのだろうか。これから一生の課題になりそうだ。

2022年6月27日月曜日

「聖なる時間」と「永遠(悠久)の時間」

 気になっている文章がある。文中の「永遠の時間、悠久の時間」に関心を持ってるからだ。「近視眼的な合理主義化の風潮により、見栄や外聞にこだわって貴重なものが数多く失われていく」ものが沖縄にはあり、それは、「信仰心を成り立たせている聖なる時間」だと、次のように書かれている。
 本土とくに東京などにいては感じとしてつかめない南の国々との深いつながりを示しているように思われた。
 これも沖縄本島にいたときよりは先島諸島に行って沖縄全体をふりかえっていっそうはっきりそれと気がついたのだが、沖縄の自然と生活のなかに永遠の時間、悠久の時間のつよい支配があるのは、ほとんど至るところにオガンジュ(礼拝所)を見出し、聖なる時間、垂直の時間をよみがえらせる人々のあつい信仰心のゆえであろう。こういうあつい信仰心は、しばしば現実からの逃避や迷信とも結びつくから、とくに若い世代の人々にとってはみとめがたいにちがいない。けれども、近視眼的な合理主義化の風潮により、見栄や外聞にこだわって貴重なものが数多く失われていくなかで、そういう信仰心を成り立たせている聖なる時間が現代文明のなかで生きる者にとっても無用でないかどうか、問いなおす必要があるだろう。〈高度成長〉と〈日本列島改造〉によって本土が失ったものは、つまりはこの聖なる時間であるといってもいいし、またこの時間は、私たちの生が現代生活の惰性のなかで流されがちであるとき、自分をとりもどす有力な手がかりにもなるだろう。(『考える愉しみ』、中村雄二郎著、青土社、p74)
 この文章から、「聖なる時間」が「永遠の時間、悠久の時間」に通じる、と読み取れるのだが、信仰心がないので、「聖なる時間」とか「永遠の時間、悠久の時間」というものを関心があるにもかかわらず、理解できないのだ。
 しかし、信仰心がなくても、「画業を極める」などというとき、「聖なる時間」とか「永遠の時間、悠久の時間」というものに通じるのではないか、と思えるようになった。同時に、神の存在を認めなくても、大自然の大きな力のようなものを信仰し敬うことで、謙虚になれる、そのような意味での信仰心はあってもいいではないか、いや、そうした信仰心は人間には必要ではないか、と思うようになった。

2022年6月26日日曜日

米軍とロシア軍とは同類である

 雑誌『世界』(1966年9月号)のグラビアは「和平いつの日か ヴェトナム戦争の記録」だった。その中の一枚に添えられた言葉は、ちょっと言葉を入れ替えると、正に現代のこととなって甦ってくるのがわかる。「ヴェトナムに真の平和が訪れるのはいつの日か。いつ果てるともなくつづくこの流血を米政府はいかなる理由をもって、正当化できるのであろうか」という言葉を、「ウクライナに真の平和が訪れるのはいつの日か。いつ果てるともなくつづくこの流血をロシア政府はいかなる理由をもって、正当化できるのであろうか」と書き換えれば、ロシアの暴挙を批判する言葉になる。

 この事実は、何を意味するか。

 事もあろうに日本は、いかなる理由を持っても正当化できないヴェトナム戦争を続けた米軍と同盟を結んでいるのだ。ヴェトナム戦争を続けた米軍とは違う、というかも入れないが、決してそんなことはない。だからこそ、日本国憲法にも反する安保条約という軍事同盟は解消しなければいけない。

 紹介した写真には「写真上下 民家に火をつけていぶりだしでてくる住民を射殺する米兵」の写真と「”アメリカの戦争"の様相は、さらに濃くなった。米軍は公然と毒ガスを使用している」写真がある。これほどのことをやってのける米軍だったのだから、本質は、ロシア軍と同類であることに間違いない。ロシアや中国と米軍は、軍隊という本質に変わりはない、という認識に到達できなければ、決して地球上に平和はやってこないであろう。

(「『世界』、1966年9月号」
より)



 

2022年6月25日土曜日

『源氏物語』の新しい読み方

 今まで、「次から次に、恋して愛して・・・」という『源氏物語』について、あまりいい印象を持っていなかった。当時は一夫多妻だったことを知らず、なんという男だと思ってしまったのだ。しかし、当時の社会風習というものを知り、源氏に関わった女性の多くが出家していたことを知って、源氏物語の見方が変わってしまった。そして、女性の視点に立って源氏物語を読めば、何か、新しい発見、現代に通じる発見があるかもしれない。
 つまり、女性の立場に立てば、現代では想像もつかない苦しみがあったに違いない。「招婿婚で一夫多妻のときの妻は、非常に寂しい思いをするし、苦しい思いも」(『百歳いつまでも書いていたい 小説家・瀬戸内寂聴の生きかた』、瀬戸内寂聴著、NHK出版、2022年、p16)するという。『蜻蛉日記』は、「後世の人よ、わたしのこの結婚の苦しみを知ってほしい」という思いを込めて書かれた、と『百歳いつまでも書いていたい』に紹介されている。
 現代社会から、当時の女性の苦しみなど、わかるだろうか、という思いもあるが、そうした心の動きを想像することはできる。そのような過程を通して、当時の社会というものも想像することができるに違いない。つまり、文学を味わうことで、日本の歴史を生きた歴史として認識し直す頃ができるのではないだろうか。そんな読書を、一度してみたいものである。

2022年6月24日金曜日

食糧価格の高騰が止まらない危機

 ロシアによるウクライナ侵略の影響で食糧危機を招く心配があることは、「世界的食料不足を警告」でも、書いたが、『サンデー毎日』(2022年7月3日)の高村薫さんの「サンデー時評」でも「食糧危機こそ安全保障の課題 多国間協議を」と題して取り上げられていた。そしてそこに、「私たちは数カ月のうちに世界規模で広がる飢餓の光景を目の当たりにする可能性が高い」とか、「世界的な収穫量の減少と買い占めで食糧価格の高騰が止まらない危機は、日本も例外ではない」と、戦慄するようなことが書かれていた。
 折しも国 連世界食糧計画(WFP)は「第二次世界大戦以来、目にしたことのない」大惨事と警告しており、私たちは数カ月のうちに世界規模で広がる飢餓の光景を目の当たりにする可能性が高い。日米やIPEFがいま話し合うべきはこの問題のほかにはないはずだ。
 農地があっても肥料がなく、世界的な収穫量の減少と買い占めで食糧価格の高騰が止まらない危機は、日本も例外ではない。食糧の安定供給はまさしく安全保障の課題だが、これがすでに厳しくなっている以上、国民としては言葉が躍るばかりの「拡大抑止」より、米や大豆の増産と備蓄の話を聞きたいと思う。あるいは途上国支援や国際協調の話を聞きたいと思う。このままでは日本でも本格的な食糧不足に陥る可能性は十分にあり、そうなれば私たちは生存のためのまったく新しいフェーズに入ることになるが、必要なのは種々の新たな食糧生産やそれに関連した技術開発であって、軍拡競争でないことだけは確かである。(サンデー毎日』、2022年7月3日、p37)
  すでに参議院選挙は始まっている。しかし、防衛費云々が先走り、食糧危機に関する議論は聞かれない。さらに不安なことに、政府の支持は堅調で、極右政党とも言われている維新までもがもてはやされ、立憲民主を越えるかもしれないとさえ言われてきた。どんどん右傾化し、引き返せないほどの変革が起きてしまうのだろうか。
 だが、心配していても始まらない。信じることを、やれることをやるだけだが、それは、かき消されそうな(憲法が指し示す)正論を拾い上げ、記録し、発信していくことである。あとは、国民の心を信じるだけだ。

2022年6月23日木曜日

みんなが人間になれますように

 朝日新聞コラム「(隠岐さや香のまったりアカデミア)線引きなく人間になる日」(2022年6月23日)を読んで「第2次世界大戦末期の日本では、文科系の学生から戦地へと送り込まれ、理科系の学生は軍事研究に役立つとして温存された」ことを初めて知った。コラムでは、このような事実を踏まえ、「私の生きているうちに、みんなが人間になれますように。そして、人の生き方を分け隔てる言葉を聞かずに済む日がいつか来ますように」と次のように締めくくっていたのが印象的だった。このように、一人ひとりの尊厳を守り、差別や専制や隷従などを許さないといった、小さなことの積み重ねによって平和は築かれて行くのかもしれないと思ったからだ。
 「役に立つか」で命の選別をした時代の感性は恐らく今も消えていない。先日、大阪地裁で同性婚を認めない法律は合憲とみなす判決があった。被告側の国の主張はさながら、結婚は子どもをつくる異性カップルのためのもので同性カップルには認めなくてよいというものだった。これでは、生殖という「生産」的行為に役立つか否かという視点で人々を分け隔てる言い分が通ってしまう。
 国は、私たちに従順でよく殖える家畜のような生を期待しているのか。だとしたらこの言葉で締めくくろう。私の生きているうちに、みんなが人間になれますように。そして、人の生き方を分け隔てる言葉を聞かずに済む日がいつか来ますように。(科学史家)(朝日新聞、2022年6月23日)
 ここで思い出したことは、博物館には、”役に立つ”とは正反対の”三つの無”という理念が根付いている、と、「無目的・無制限・無計画」を紹介していた朝日新聞コラムがあった。「郡司芽久のキリン解体新書 無目的・無制限・無計画!」(2020年5月13日)だ。このコラムで、”役に立たない”からと基礎研究を軽視してきた風潮に対し、「研究だって同じだ。将来どんな研究が重要になるかを知ることはできない。誰にでも価値がわかる重要な研究ばかりになってしまえば、いつの間にか、未曾有の事態に立ち向かえる科学者が絶滅してしまうことになるかもしれない」と警鐘を鳴らしていたのだ。このような、無目的・無制限・無計画、そして役に立つかどうかも分からない研究でも大切にされる、そんな平和な社会を築いていきたいものである。

2022年6月22日水曜日

日本国憲法の正道の声を大きく!

 朝日新聞連載(復帰50年 沖縄戦)で、「ざわわ、歌われない日まで 平和への一歩に、父が作った歌を継ぐ」(2022年6月22日)と題して、ソプラノ歌手寺島夕紗子さんが語った言葉は、ロシアのウクライナ侵略を前にして、平和運動が苦境に立たされていることを示している。

〈ざわわ、ざわわ、ざわわ〉――。66回繰り返す。感情にとらわれすぎず、淡々と。それがこの歌をつくったひとの教え。その教えを心がけるほどに、静寂は深く、平和を思う心が、観客にも自分にも育まれてきたという確信があった。
 しかし、今、その自負が大きく揺らいでいる。がれきの中に立ち尽くす人。毛布にくるまる子ども。テレビから流れるウクライナの映像が脳裏から離れない。
 〈昔海のむこうから いくさがやってきた〉。歌詞を口にすると、今この瞬間に命を落としている人たちの姿が想像され、無力感にさいなまれる。(朝日新聞、2022年6月22日)

 寺島夕紗子さんが感じた無力感には、多くの人々が共感を抱くのではないだろうか。だがしかし、そうした無力感を乗り越えて更なる飛躍を目指す動きも起きている。朝日新聞夕刊記事「平和首長会議、加盟都市続々と 欧州急増、ウクライナ侵攻で危機感」(2022年6月21日)が、それである。この記事によると、「平和首長会議は1982年、当時の広島市長の呼びかけで発足した。コロナ禍もあり、昨年の加盟は85都市にとどまっていたのが、今年4~6月には12カ国110都市が一挙に加わった。総数は166カ国・地域8174都市になる」という。日本国内では、なんと、「5月1日付で青森県東通村が加わり、加盟都市数は1737で全国の自治体の99・8%になった」というから驚く。こうした動きに、とても勇気づけられた。やはり、力に頼らない日本国憲法の正道の声を大きくして行くべきなのだ。「平和首長会議」は、そう教えてくれている。誰もが戦争は避けたいのだ。
(「朝日新聞夕刊、2022621」より)

2022年6月21日火曜日

安全保障のコペルニクス的転換

 政治の最大の課題は、国民の命の保障であり、そのために戦争を防ぐこと、起こさないことだと、何かで読んだことを思い出した。そういえば、日本国憲法前文においても、その最初に「われらとわれらの子孫のために、・・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書かれている。
 今、まさに戦争が現実に起きているのだから、余計に政治の最大の課題が突きつけられていると言って良い。しかし、その方向は、残念ながら、ますます戦争の危険が増大する方向に向かっている。安保条約を前提にした軍事力を背景にしては、東アジアの平和共存などあり得ないからだ。そのことを60年も前に、すでに論述している文章を見つけた。

 今日の日本が単独で武力により隣邦を侵略するなどということを真面目に考えるはずは無い。米国と結ぶからこそ、中国にとっての脅威となるのである。「日本を攻撃すればアメリカが日本の後楯としてこれを黙視しないぞ」といって、「防衛のために虎の威を借りたつもりでいても、米国と軍事的に結びついているということ自体が、中国にとっては侵略の危険を感ぜしめるのである。だから、日ソ同盟条約を解消させるということにしても、中国との友好親善を深めるということにしても、日米間の安保条約を廃棄する方向へ一歩ずつ進むことを前提としなければならない。(『末川博随想全集・2』、栗田出版会、p 318

 しかし、残念なことでもあるが、安保条約の存在は、かつての天動説の如く信じられていると言って良い。しかし真実は、末川博士のいうように、「安保条約の存在」が平和を脅かしている、と私もそう思う。今こそ、安全保障のコペルニクス的な転換が必要なのである。

2022年6月20日月曜日

戦争状態を防ぐ具体策を

 19日日曜日のNHK政党討論で自民党の高市が「外交だけで戦争が解決していたら、ロシア・ウクライナ問題がとっくに解決している」と発言していたという。友人が、「これに、どう応えますか」と聞いてきた。私が非武装中立主義者と知っているからだ。
 正直な話、どう答えていいか分からなかった。後で考えて、高市も友人も、ロシア・ウクライナの問題と日本のこれからの問題を混同して考えているが、本来は分けて考えるべきだと思った。
 つまり、ロシア・ウクライナ問題は、外交で失敗したから、もしくわ初めから戦争の選択肢しかなかったから戦争になったのだが、私は後者だったと見る。日本の場合も、選択肢としては、日本国憲法に基づく外交路線と、武力による路線が考えられる。
 しかし現実は、日本国憲法に基づく外交路線は皆無に等しい。代わりに、初めから敵基地攻撃能力の保有といった対立の構図一点の方針が採られている。これでは戦争の危機が深まるばかりといえよう。
 日本国憲法前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、・・」とあるが「 永久の平和というのは一時の平和を破ったならば来ません。だから、われわれは、一時の平和を少しでも先へのばして行くより他はない。できるだけ戦争にならないような状態を作り上げて行かなくては」(『末川博随想全集・2』、栗田出版会、p 158)ならない。戦争状態を防ぐには、その具体策に知恵を絞るしかない。

2022年6月19日日曜日

101歳まで生きた生命力

 朝日新聞の「惜別の欄」は、普段はあまり読まない。しかし、「狹川宗玄さん 101歳まで生きた東大寺長老」(2022年6月18日夕刊)は、「101歳まで生きた」に釣られて読んだ。そして、生命力ってなんだろう、と考えさせられた。「101歳まで生きた」のだから、生前はさぞかし元気だったのであろう、と思ったが、そうではなかった。
 なんと、幼い頃は腸が弱く、40代で肝硬変を患い、60代で空腸がんの手術を受けていたのだ。にもかかわらず、それらを乗り越え、「101歳まで生きた」のだから、大したものである。なぜか?
 それは、狹川宗玄さんの長寿のひけつは「暴飲暴食をしない、十分な睡眠をとる、ストレスをためない、好奇心を持つ」の四つ。特に、「何でも知ってやろうという好奇心」がストレスという鬼を退散させるから大切ということだった。
 ここで思い出したのが、「戦争や病気や飢え・・・。何度も死にかけて」、心臓だけでも三回も手術をし、糖尿病で、「こんな調子で八四年間よく生きた」(『PHP』、2020年3月号、p 47)三木卓さんのことを思い出した。そんな彼が「老いてもなお好奇心が旺盛で、世の中を見ているのがおもしろくて仕方がない」(上同)と語っている。人間の好奇心こそ、生命力の根源かもしれない。

2022年6月18日土曜日

立花隆氏は優れた哲学者でもあった

 立花隆氏はジャーナリストと言われているが、「哲学までも」われわれに分かりやすく伝えてくれていることを知って、立花隆氏は優れた哲学者でもあったと、その多才ぶりに感嘆してしまった。『エーゲ 永遠回帰の海』(立花隆著、須田慎太郎写真、書籍情報社、2005年)を読んでいて、単なる旅行記だと思っていたのに、哲学の解説に関する記述を発見し、その内容がとても分かりやすかった。しかも、この短い文章の中で、古代の哲学者の業績が、現代にまで通用する内容を含んでることを伝えてくれている。
 立花隆氏は優れた哲学者でもあったと考えたのは私だけではなかった。梅原猛さんも、「ソクラテス的意味における哲学者」と『立花隆のすべて』(文芸春秋編、文芸春秋、1998年)に書いていた。もっと、立花隆氏による哲学解説を読んでみたいものである。
 ターレスの「万物のもとは水」というコメントの内容が高く評価されて、彼が哲学の始祖呼ばわりされたというよりも、ターレスのこのコメントによって、一つの独特なものの考え方の範型が示され、それに刺激され、それにならって、あるいはそれに反発したりして、ものごとをより深く考え、議論をたたかわす一群の人々が生み出されたこと、その全体が評価されて、ターレスが哲学の始祖呼ばわりされるようになったということだろうと思う。
 ここで大事なのは、哲学は、単独者の個人的な知的営為として成立するのではなく、複数者の交わす議論の中に成立するということである。
 つまり、哲学というのは、本質的にディアレクティケなのである。ディアレクティケというと日本ではすぐに弁証法と訳してしまうが、これは本来の意味に戻って、対話と訳したほうがいい。何人かの人間が議論をたたかわせるような仕方で対話すると、自然に話の内容は発展していくものである。これが弁証法なのである。要するにAとBがお互いの主張をぶつけ合わせると、両者の主張のいい所を合わせて、両者とも納得できる第三の主張しにいたるということである。
 ミレトスのターレスの場合、その教えが問答の形で残っているわけではないが、弟子たちがおり、スクール(学派)ができていた。弟子の代表格としては、たとえば、アナクシメネスがおり、「万物のもとは空気である」と主張した。彼は、空気が希薄化したり、濃厚化することで万物が生ずるのだとした。空気がフェルト状に緊密化するとまず雲ができあがり、さらに水ができる。そして空気がさらにいっそう緊密化すると大地ができ、さらに緊密化がすすむと石になるとした。「万物のもとが空気」などというと、ターレス以上にいいかげんなことを主張しているように聞こえるかもしれないが、実はこのように、「万物のもと」がどのようにすれば、実際に「現象界の万物」になっていくかを考え、それなりの説明を与えていたのである。
 ここで、「万物のもと(元文は傍点)は空気である」と訳した「もと(元文は傍点)」とは、ギリシア語で「アルケー」といい、「始原」「根源」と訳してもいいし、「原理」と訳してもいい言葉である。要するに、哲学は「万物の『アルケー』探し」、「第一原理の探求」からはじまったということである。
 それなりの説明を与えていたのはターレスの「万物のもとは水」にしても同じことで、ターレスのオリジナルの教えは、そのワン・センテンスで完結していたわけではない。
 オリジナルはもう少し内容があって、水がどのようにして万物になるかの説明があったとされている。ターレスの万物の始原に関するオリジナルな著作は残っていないが、古代においては、全二巻ないし全三巻の『元のもの(始原)について』という書があったとされる。それを引用して書いたガレノス(二世紀の人。ペルガモン生まれ。古代から中世にかけて医学の最高権威とされた)の一文によると、原著では、水だけを自然の基本要素とせず、他にも幾つかの基本要素があって、それが混合することで万物ができたとされていたという。(『エーゲ 永遠回帰の海』、p292〜293)

2022年6月17日金曜日

古代都市の帝国「ミレトス」

 古代ギリシャ文明が有名だが、その中でもミレトスが当時大きな力を有していたことまでは知らなかった。 立花隆氏によると、紀元前六世紀のころのミレトスは、古代世界における、「大英帝国や現代のアメリカ」と似たような存在だったと次のように述べている。

 この時代のミレトスは、通貨の力をかりて、あちこちに植民市をつくり、その母国として、通商関係の中心に立ち、さらに強大な海軍力をもって、一種の海上帝国を築いていったのである。
 当時のミレトスは、十九世紀から二〇世紀にかけてのイギリスが、七つの海に広がる植民地のネットワークと大海軍力の上に大帝国を築き、英ポンドを世界通貨として世界の富をかき集めたのと似たような存在、あるいは現代のアメリカが、ドルの力と軍事力で世界帝国を築いているのと似たような存在に、古代世界でなっていったのである。
 このようなミレトスの最盛期のころ、つまり、紀元前六世紀のころと今とでは、当時のミレトス周辺の海岸線は全くちがったものになっている。(『エーゲ 永遠回帰の海』、立花隆著、須田慎太郎写真、書籍情報社、2005年、p251)

 それゆえか、世界初が並んでいる。初めての哲学者がターレスで、その弟子アナクシマンドロスは、世界地図を初めて描いている。そして、ヘカタイオスが世界で初めて、現存する本格的な世界地図を描いた。さらにヒッポダモスは、世界最初の都市計画家として知られている。
 特筆に値すると思われることは、「このころ、世界ではじめて、本格的な貨幣経済に入った」(上同、p287)ことだろう。それで貨幣まで残っていたのだ。その意義を立花隆氏は次のように評価している。

 経済が物々交換経済から、貨幣経済になったということは、人類史の最も大きな曲がり角の一つを曲がったということである。それはインパクトの大きさにおいて、文字の使用開始と同じくらい大きなものを人類に与えたといって過言ではない。
 貨幣の導入によって、人類の経済活動は、一挙に何倍にもふくれあがった。貨幣が導入されると、実需以上に貨幣の蓄積という形の富の拡大を目ざす仮需(思惑商取引)が経済活動の新しい主役として登場してくる。それが経済活動を何倍にもふくれあがらせるのである。貨幣は経済活動にさまざまの便宜を与えるが、便宜以上にこの経済活動の拡大作用が大きな意味を持つ。
 それは経済世界全体を拡大活性化するが、なかでも貨幣発行を行なう経済主体(国家)に大きな発行益を与え、その国の経済活動を活発化する。それがミレトスに起きたことで、ミレトスの植民市が一挙に百をこすほどにふえていった最大の理由もそこにある。(上同、p287〜289)

 私は、ミレトスの存在に驚いたが、それ以上に、 立花隆氏が、紀元前六世紀のころのミレトスを「かつての大英帝国」や「現代のアメリカ」と並んで見せてくれたことで、古代から現在までの大きな歴史の存在と、その本質のようなものを、簡潔に認識することができたこと、その意義が大きかった。

            (「『エーゲ 永遠回帰の海』、283」より)


               (「『エーゲ 永遠回帰の海』、p 278」より)


          (「『エーゲ 永遠回帰の海』、p 288」より)


2022年6月16日木曜日

未知を明らかにするのは楽しい

 昨年、沖縄などに大量の軽石漂着をもたらした小笠原の海底火山「福徳岡ノ場」の大規模噴火があった。過去100年で国内最大規模となったこの噴火がどのようにして起きたのか。噴火の真相に迫るための研究の成果を、NHK放送、サイエンスZERO「軽石漂着の謎に迫れ 最新報告!海底火山“福徳岡ノ場”」で知った。この放送で語っていた研究者の言葉が素晴らしかったので、メモしておいた。
 それは、「わからないものが多いほど興奮する。未知を明らかにするのが、やっぱり楽しい」という言葉と、「石を見てきれいな鉱物が入っていると、そういう鉱物がどう入っているのか何が入っているのか、あるいは泡が入っているのか入っていないのかを丁寧に見ていくところが楽しみの一つで研究している」という言葉だ。この言葉を聞いて、社会科学の研究でも、あやかれないものだろうか、と閃いたことがある。
 まず感じたことは、わからないことが多いはずなのに、それはおかしい、という批判的な感想と、その通りといういう共感の感想を抱くことが多くて、わからないことそのものが明確になっていない、ということである。「無知の知」という言葉もあるが、これができていないということだろうか。どうすればいいのか、まだわからない。
 もう一点感じたことは論文の読み方に関するもので、論文一つを一つの石にたとえ、気になる論点があったら、「そういう論点がどう入っているのか、他にどんな論が入っているのか、あるいは論点以外の何かが入っているのか入っていないのかを丁寧に見ていく」ことができないだろうか、ということだった。

2022年6月15日水曜日

観念の持つ「世界変革力」

 立花隆氏が「観念の持つ『世界変革力』」(『エーゲ 永遠回帰の海』、立花隆著、須田慎太郎写真、書籍情報社、2005年、p251)について言及していた。「 20世紀前半のマルクス主義の成功それ自体が、ある意味ではそれを証明したといってもよい。マルクス主義のいう、歴史の必然による世界の共産主義化などというものは起こらなかったが、マルクス主義を信じた人々が世界の一定範囲を一定期間共産主義化することには確かに成功した」(上同)というのである。
 また、同じことだが、「『黙示録』の時代、 世界の終末は来なかったが、それを信じたキリスト教徒が世界を変えたように、観念は世界を動かすことができるのである」(上同、p254)と書いている。こうした事実は、理想を語り続けることの重要性を物語っている。例えば、フランス革命における理想という観念の力が、日本にも影響を与え、日本国憲法の誕生させたことは有名な話である。
 しかし、世界には、相反する観念の力が存在している。そうした力がプーチンに軍事行動を起こさせてしまった、と考えることができる。日本における軍事力倍増計画、憲法改正という観念も、理想という観念と相反する観念の力で侮れない。だからこそ、憲法の理想を語り続けることが、一層重要になってきているといって良いだろう。

2022年6月14日火曜日

鑑真和上こそ中日和平の架け橋

 新聞の報道を見ていると、中国や北朝鮮の動きを懸念する声が多くなってきている。それに対し、「中国の行動に懸念があるなら、中国と深い交流関係を築き、紛争を起こさないように信頼関係を築くしかありません」(「理想主義を通したい」より)という法政大学名誉教授・前総長田中優子さんの声を紹介したばかりだが、日曜美術館の「落慶 唐招提寺御影堂 ~鑑真和上と障壁画~」(2022年6月12日放送)を見て、「唐招提寺と鑑真和上こそ、中日和平の架け橋になるのではないか」と思った。

     鑑真和上坐像(国宝)

 唐招提寺の鑑真和上(688~763年)は、唐の揚州に生まれ、14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称された。
 天宝元年(742)、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなったが、天平勝宝5年(753)、6回目にして遂に日本の地を踏むことが叶った。
 以後、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされたという。

 
 今回の日曜美術館を見て初めて、「御影堂内を彩る東山魁夷渾身の障壁画空間が、鑑真和上が渡ってきた日本の海と、鑑真和上の故郷中国の風景に分かれて描かれている」ことを知った。そして、鑑真和上坐像(国宝)は、故郷中国の風景画に囲まれて安置されているのである。つまり、御影堂は、中国と日本が混然と一体をなしているのだ。このような優れた文化財が発するオーロラが数多に行き渡れば、必ずや平和な社会が実現するに違いない。

2022年6月13日月曜日

時間感覚を伸ばす方法

 時間感覚に関心を抱いているので、「このホームでは誰もが『月日がたつのが早すぎる。1年が短くなった』と言う。その通りだ。何もしていないんだもの」(朝日新聞、2022年6月5日)という90歳に方の投書記事が目に止まった。そこから「逆転の発想」(?)が生まれた。どういうことか。
 逆に、たくさんの「やりたいこと」や予定があれば、それだけ時間感覚が伸びるのではないか、という考えが生まれたのだ。
 例えば、はやぶさ2は、高速自転する小惑星「1998KY26」(直径は約30メートルで、直径約900メートルのリュウグウよりもはるかに小さい)に向かっていて、到着は31年の予定。さらに、「JAXAは、火星の衛星フォボスから砂を地球に持ち帰る「MMX計画」を進める。打ち上げは24年度で、29年度の帰還が目標。火星から飛んできた砂があると考えられており、砂の分析から生命の痕跡を探れるかもしれない」(朝日新聞、2022年6月10日)という。
 初め、これらの年度を知ったとき、この時まで「生きて見届けることができるか」みたいなマイナスイメージしか湧かなかった。しかし、こうしたことさえ予定に入れておけば、将来の楽しみとして、励みの材料になるのではないか、と思えるようになった。孫たちの成長ぶりも、普段は意識していないが、例えば23年は真一が一年生と予定に入れておくのだ。そうすると、これは未来年表になる。だが、それだけではない。なぜか。
 未来年表は未来からの発想だが、それだけではなく、現在から未来への計画も含まれるからだ。考えたのは、読書計画やアウトプットの計画、英語や数学といった学習計画、山歩きと行った運動計画を立てて、少しずつ積み上げていくのである。そうした実践をする過程で時間感覚が変わるかを見てみたい。

2022年6月12日日曜日

理想主義を通したい

 『赤旗』(2022年6月6日)に、「9条今こそ・大軍拡は学問の自由奪う」という、法政大学名誉教授・前総長田中優子さんの談話記事が載っていた。ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにして、台湾有事の心配され、それを口実に軍事力倍増も言われるようになっている。しかし、そうして中国と対峙しても、決して解決にはならない。田中さんの言葉を借りれば、「『カにはカで』という発想は、ロシアのプーチンと同じ価値観」だからだ。
 それではどうすればいいのか。田中さんが明快に答えている。「中国の行動に懸念があるなら、中国と深い交流関係を築き、紛争を起こさないように信頼関係を築く」しかかない、と。
 ここで、理想に対する態度について板倉聖宣さんの言葉を思い出す。「ぼくは、理想主義を通したい。勝つかどうかは永遠の課題にしたい」(『板倉聖宣の考え方』、仮説社、p175)というのだが、憲法も同じであり、現実を理由に理想を捨て去るのは正しくない。だからこそ、「本筋は憲法9条を生かした外交努力によって地域の安全をつくること」を続けていくしかないのだ。
 軍事研究では、研究者は政府、とりわけ軍事部門の厳しい管理下に置かれ、研究結果などは全て秘密にしなければなりません。政府の指示通りの研究しかできず、研究者として成長する機会を奪われます。
 人命を奪い、人権を抑圧する戦争を目的とした武器などの研究は、軍事を放棄した日本国憲法とは相いれません。学問の自由を侵害し、研究者の自律性・主体性を奪う軍事研究は大学ですべきではない。
 ソフトに見える岸田文雄首相ですが、日米首脳会談で軍事費の「相当な増額」を約束し、アメリカ追従の姿勢を示しました。
 その財源はどうするのか。国債発行による借金の上、本当にお金をかけるべき教育や福祉など喫緊の課題には一切手を付けないでしょう。私たち市民はだまされてはいけないし、きちんと怒らなければいけません。
 中国や北朝鮮の脅威をロ実に「カにはカで」という発想は、ロシアのプーチンと同じ価値観です。もし中国の行動に懸念があるなら、中国と深い交流関係を築き、紛争を起こさないように信頼関係を築くしかありません。本筋は憲法9条を生かした外交努力によって地域の安全をつくることです。(「『赤旗』、2022年6月6日」より) 

2022年6月11日土曜日

速読と精読とを併用するために

 人の一生は限られている。特に還暦がすぎてからは、よほどやりたいことを限定しないと、虻蜂とらずになってしまいかねない。読書の対象も同じこと。読みたいと思った本を何でも選んでいたら、本当に読みたい本が分からなくなってしまうか、本当に読みたい本を読めなくなってしまう。乱読が勧められることもある。しかし、乱読も、速読と精読とを併用すれば、適度な脳の刺激となって有用であると思うようになった。
 『遅読のすすめ』(山村修著、新潮社)によると、本を読む前に「その本をわれわれの知識の庫や悦楽の資産に加えるのが、絶対に必要なのかを自分に問うてみる。そしてまた、その 知識や悦楽の獲得をあきらめるということは何を意味するか、想像してみる。そのうえさらに、いかにそれが魅力に富む本であっても、その本のうちのごくわずかな部分しか、われわれにとって新しいところはないことを、よく考えてみる」(p25~6)ことが重要だという。
 そのために、「10分読書」といものを考えた。まず10分読書を通じて、それで済む本か、それとももっとじっくり読みたい本かを見定めるのだ。そうして借りた本をしっかり読んでいけばよい。そうすれば、図書館から借りてきた本を、読むに価する本かどうかをよく吟味することも出来るし、借りてから読まなくてはという焦りを感じることもない。
 平行して取り組んでいきたいのが、精読リストをつくり、時間をかけて読み続けることである。思い出すだけでも、途中で忘れてしまった本が何冊かある。資本論もその中のー冊だが、こんな時勢だからこそ、古典をじっくりと読んでいくことも必要なのかもしれない。
 なお、先に引用した箇所を多めに引用しておく。
 ミラーは(中略)読者に一つのテストを提案している。それは、読みたい本、あるいは読むべきだと思う本にぶつかったら、四日か五日、そのままに しておくことだ。そのあいだ、できるだけ熱をもって、その書名と著者の名とを、頭のなかでこねくりまわせとミラーはいう。そして、もしわれわれだったら、 どんなことを書くだろうかと考える。また、その本をわれわれの知識の庫や悦楽の資産に加えるのが、絶対に必要なのかを自分に問うてみる。そしてまた、その 知識や悦楽の獲得をあきらめるということは何を意味するか、想像してみる。そのうえさらに、いかにそれが魅力に富む本であっても、その本のうちのごくわずかな部分しか、われわれにとって新しいところはないことを、よく考えてみる。ゆっくり読むどころではない。本を読むときは、そのまえにこれだけのことを考えて疲労困憊してみる必要さえあるのだとミラーはいっている。(『遅読のすすめ』(山村修著、新潮社、p25~6)

2022年6月10日金曜日

量子は波として伝わり、粒として現象する

 放送大学の面接授業「ニンジンで学ぶ量子の世界」を受講した。最後に出された課題に対するレポートは、実験事実を踏まえながら、初めての人にもわかるように自分の言葉で説明せよ、だった。以下そのレポートである。

1、「量子は波として伝わり、粒として現象する」とは
 量子力学と言えば、アインシュタインによる相対性理論と並んで、現代物理学の双璧と言われるもので、数学を駆使しなければ到底理解できるものではないと思っていました。それだけに高等数学を用いなくても理解できるという「ニンジンで学ぶ量子力学の世界」の科目は魅力でした。
 実際に授業を受けて、「光は波動である」と同時に「光は粒子でもある」ことを実験的にも理論的にも明らかにしたものが量子力学というものである、と感動的に理解することができました。
 まず、光が波動であることは、オランダの物理学者ホイヘンスによって提唱されたものの、ニュートンによる粒子説などが唱えられ、はっきりしませんでした。しかし、その後英国のヤングによる干渉実験によって「光は波動である」ことが実証的に明らかにされました。その実験は、二つのスロットがある壁面に光を当てるもので、光を当てると波動の性質である「干渉縞」が出現することから、光が波動であることが確かめられたのです。
 その後、アインシュタインによって、光電効果の実験から「光はエネルギーを運ぶ粒子である」という光量子説が発表されました。この光量子説は、二つのスロットに光を当てる実験において、単一フォトン(極限まで絞った光)を一個一個、順番に当てていく実験によって確かめられました。
 その実験によると、10秒後には多数のスポットの光が、面状に不規則に粒状の光が現れました。しかし、10分後、1時間後、と時間が経つにつれて、つまり、「検出すると一つ一つの”粒”として振る舞う」のに、その数が増えると、たくさんの粒状の光が「干渉縞となって」はっきりと姿を表し、「光が”波”でもあること」がわかったのです。



 興味ある事実は、粒子として考えられてきた電子は、実は波動性を持って存在しているということです。このことは、光の干渉実験と同様に実験を、単一フォトンの代わりに電子を、一個一個順番に当てていく実験によって、電子の数が増えると「干渉縞となって」はっきりと姿を表し、電子の波動性が確かめられました。電子も、量子としての振る舞いをしていたのです。

2、感想と今後の希望
 講義では、紐による定常波の実験も行われ、紐の両端に合致した周波数の時にだけ定常波が現れること、さらに、定常波の周波数から、周波数がずれると波が減衰してしまうことを目の当たりにし、初めて定常波のイメージを理解することができました。
 そして、これが最も感動したことですが、学校で習った電子の軌道というものを、電子の量子としての振舞い、つまり電子の定常波という概念によって初めて、具体的なイメージとして理解することができました。
 ケルビン卿の問題を、実際の計算で求められたことも、大きな数の計算の仕方も、とても興味深く、楽しかったです。計算のイメージが、ずっと良いものに変わりました。
 今後の希望は、エントロピーというものが世界でどのように貫かれているのか、というような講義を聞きたいです。とても大切な概念(と私は考えているのですが)の割にはあまり語られていないのが不思議なのです。

2022年6月9日木曜日

産業界こそがワシントン

 今、戦争が行われており、ミサイル攻撃や銃撃戦が展開されている。そこにどんな大義があるにせよ、人の命が、人間としての尊厳が無視されていることに変わりはない。この大義というものが曲者だ。水戸黄門の印籠のような力を持って人々を惑わしてしまうからだ。
 しかし、大義の背後にもっと大きな力があれば、話は別だ。その大きな力こそ、「マルクスが資本論で明らかにした『商品の”物象化”』現象であり、資本主義社会に内在した商品(資本)の運動エネルギー」(「プーチンの背中を押した見えない力」より)である。この力がどれだけ大きいものかを示す言葉が、次に示されている「軍産協同」という「新しい権力融合」であろう。
 戦争の遺産で一番大切なものは、アイゼンハワーの離任のあいさつにあった警告のことばですよ。軍産協同です。過去は、産業界がワシントンへ代表を送りこんできた。でも今は彼らこそがワシントンなんです。私たちの想像をこえる軍備とともに、私たちは新しい権力融合にむかってます。それがアメリカの生活の変わらぬ特徴になったんです。(『よい戦争』、スタッズ・ターケル著、中山容訳、晶文社、1985年、p 357)
 ターケルが語っているのはアメリカのことだが、ロシアにしても、日本にしても、「新しい権力融合」というものが存在していることは間違いない。だからこそ、ロシアが軍事行動に出たのであり、日本では軍事力の倍増が叫ばれているのだ。こんな時だからこそ、戦後の初心に立ち返り、理想の光を灯し続けていかなければならない。

2022年6月8日水曜日

科学者京都会議が示した平和への道

 新聞を読んでいて、「悲劇アジアで起こさないために」という中国総局長林望という署名入り記事が目に止まった。最も関心のあることだったからだ。果たして、対立ではない「共存の思想」が語られるか、を注目したいところだが、あまり期待しないで読み進めてみたい。
 記事の冒頭から「戦争の帰結がどうあれ、この先に待つのが一層分断を深めた世界であることを私たちは覚悟しなければならない」と書き、対立の構図が一層深まるであろうことを予想している。そこで気になったことは、「ウクライナ危機が世界に教えたことの一つは、中国の米国への不信の抜き差しならない根深さだ」として、対立の構図を抜き差しならないものにしている原因に「中国の米国への不信」を挙げている点だ。だからであろう。「ウクライナの悲劇をアジアで繰り返さぬために米中と地域諸国に今こそ求められる」ことに関しては、「互いの意図を見定め、緊張をコントロールするための冷静で重層的な努力だ」と、抽象的で、なんとも歯切れが悪い。
 1966年に行われてた第三回科学者京都会議に参加した憲法学者が、会議の感想を次のように語っていた。
 一九六三年八月に成立した部分的核実験の停止条約がかえって、米ソ両国内における地下核実験を促進することになり、新しい小型の核兵器製造の競争を激烈ならしめて、通常兵器とあんまり違わないような核兵器で局地戦争が行われる危険が増大しているというようなことも教えてもらいました。しかも、そういうあぶない方向へ進むのを止める方法は、国家間の相互信頼関係を強めていく以外にはないというのです。つまり、お互いが相手を疑ってかかる限りは、いくら軍縮協定などができても駄目だから、とにかく相手国を信頼して、相手国が軍備を拡張しないであろうという方へ賭けていくことが、平和への道だということです。(『現代の対話』、末川博他著、雄渾社、1966年、p 186)
 この科学者が示してくれた「平和への道」は、日本国憲法が指し示している道でもある、と語っている。
 世界平和は相互信頼の上に築かれるという意味においては、日本国憲法の前文が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」上で平和国民たるべきことを誓うているのは、実に適切で大事なことであると言わねばなりません。すなわち、この規定は、現実の合理的政治性を持っているといってよいのであって、今度の科学者京都会議でもそのことを声明しているのです。(同上、p 186〜167)

 このように「平和への道」を考えていくと、 現実政治も、マスコミ論調も、「平和への道」から、どんどん離れていってしまうように思えてくる。「平和への道」は「国家間の相互信頼関係を強めていく以外にはない」とすれば、その道をいくしかない。

2022年6月7日火曜日

個人の自由を保障するのが憲法

 大正時代、立憲君主制の時代に、「個人の自由を保障するのが憲法」だと、憲法の本質を見事に喝破していた人物がいたのだ。なんとも心強いことだろう。世界に目を向ければロシア革命が起き、国内においては大正デモクラシーがあった頃の話である。
 ここで特筆するとすれば、大日本帝国憲法下にあってさえ、憲法を守りさえすれば、民主主義社会も実現すると言っている点だ。美濃部達吉の憲法観よりも、一歩進んでいる感がある。何よりも国家観が違う。美濃部達吉は国体を重んじていたと記憶しているが、鈴木天眼にはそうした思想は持っていないからだ。(なお、ここはあくまでもそんな感じがするという段階である)
 国家主義を否定した天眼は、個人と国家の関係をどのように考えていたのか。もちろん天眼が考える国家は、「国家のみ有って人民無き」国家ではなく、「自己存在を自覚せる人民」に支えられた国家でなくてはならない。それは夢想の中にのみ存在する理想の国家であろうか。いや、そんなことはない。それは、 ほかでもない、大日本帝国憲法が「かくあるべし」と日本国民に指し示している国家の姿だ。憲法を守りさえすれば、その国家はすぐにでも実現するのだ。憲法が守られず、骨抜きにされているが故に、当然あるべき国家が、あたかも夢想の世界の国家のように国民から遠ざけられてしまっているのだ

 その論理を天眼は次のようにまとめている(1914年5月2日)。先ず、「生命は無限目つ無量の寿にして初めて生命である」と書き起こし、何らかの制限を受けた生命というものは「生命本地ではない」と言う。「道義の生命も亦斯くの如し。人間本有の良心ー気魄―直観の霊知力を基礎として、外的事物に応接し、『我は之を是とす』『我は之を非とす』といふ其『我は』が原力的に発動無限なることを得て初めて道義の生命は不朽なり得るもので。『我は』の知行一致が則ち『個性』である」

 その個性と国家はいかなる関係か。「個性が国家といふ団体組織の内質に確認され、其存立

の自由を法治的に保障する所以のものが則ち憲法本質である」

  国家の中に於ける個性、則ち個人の自由を保障するのが憲法だ。国家は憲法に命じられて個人の自由を保障する義務がある。それが国家と個人の最も基本的な関係だ。(『東洋日の出新聞 鈴木天眼 アジア主義もう一つの軌跡』、高橋信雄著、長崎新聞社、2019年、p323、強調は引用者による)

2022年6月6日月曜日

言葉が変われば社会も変わる

 日本経済新聞を読んでいて、頭の中にあるモヤモヤした思いに関係する言葉を見つけた。「表す言葉が存在しないもののことは考えることができない」という言葉で、次のように書かれていた。
 簡略化された言語ニュースピークに「自由」や「民主主義」と言った言葉はない。表す言葉が存在しないもののことは考えることができないから。 逆に言えば、言葉が変われば社会や思想も変わるのだ。世界は過渡期で、いつだってもっと良くなる可能性を秘めている。 (声優池澤春菜著「言葉は巡る」、『日本経済新聞』、2022年6月6日)
 この言葉によって思い出されたのが、土中微生物を取り上げたNHK放送の「サイエンス・アイ」だった。その中の、土中の微生物はさまざまな分野で活用されてきているが、わかっている無生物はわずかで、ほとんどの微生物は「名前もない」ということを思い出したのである。「表す言葉が存在しないものは存在しない」ことと同じなのだ。
 また、池澤春菜さんは「言葉が変われば社会や思想も変わる」と書いているが、民主主義とか人権という言葉が変わらないから、あるいは、社会が混迷を深めているのかもしれない。つまり、「戦後民主主義」だとか「民主主義の危機」だとか民主主義についていろいろと語られているが、その実は、民主主義の実態が豊かになっているにもかかわらず、それに伴って言葉そのものも豊かになってこなかったから、社会が混迷を深めているのかもしれない。それは人権についても言えるだろうし、他の社会科学の言葉にも言えるであろうと考える。
 池澤春菜さんの言葉は、このように社会科学の言葉そのものの検討の必要性を明確にしてくれ、こうして文章化することで、頭の中にあったモヤモヤもだいぶスッキリしてきた。もっと言葉にこだわってみたいと思った。

2022年6月5日日曜日

戦争を防ぐ最良の方法

 かつて、ソ連を仮想敵国として対峙していた時期があった。しかし、ソ連が崩壊したこともあり、やがて、北朝鮮や中国が仮想敵国として対峙するようになった。軍事力の必要性を説得力をもって説明するためには、なんとしても、敵国が必要なのだ。しかし、敵国があり、たとえ、そのことによる脅威があったとしても、その対策は敵国を敵視することだけではない。「どうしたら"脅威"でなくなるかを考える」(『憲法第九条』小林直樹著、岩波新書、1982年、p 156)道もあったのだ。
 そもそも、同じ山に登るにしても幾通りの登山道があるように、どんな問題にも解決策を幾通りか考えるものである。一つの方法を持って、それを絶対視するようなことはない。その方法が唯一の解決策とは限らないからだ。防衛論にしても同じであり、軍事力を唯一の解決策と絶対視することは、絶対視した時点で間違いになる。
 それに、敵国があったとして、敵国が軍事的脅威を感じた時の攻撃対象は、当然軍事基地となるであろう。つまり、軍事基地が存在する限り、攻撃を受ける危険性を伴うということになる。そうでなければ、初めから民間施設が攻撃対象になる。今時、そんなことが許されるはずがない。やはり、戦争を「防ぐ最良の方法は、米軍基地や攻撃的兵器を廃棄することではないだろうか(上同、p 159)。以下に参考となった著書からの引用しておく。

 かりに、「広い意味での"脅威"であるにしても、どうしたら"脅威"でなくなるかを考えるのが筋道であって、それを初めから敵視するのは、大失敗のもとになろう。しかも、隣国を仮想敵国に見たてて、いたずらに国民の敵愾心をあおることは、何よりも日本の平和主義にも反する」(『憲法第九条』小林直樹著、岩波新書、1982年、p 156)。

 仮想敵国を作らず、どこの国とも親しくつきあうのが日本の平和主義のあり方だということは、六〇年代までは広く認められていた。ところが、七〇年代の中頃から、いわゆる”防衛対象国”はソ連にしぼられ、(中略)ソ連の「侵略」や攻撃が語られるようになった。(p157)

 ソ連が日本に軍事力を行使する危険があるとすれば、それはソ連にとって日本が明らかな敵性国として、現実の脅威になる場合である。すなわち、ソ連が日本にある敵性基地や軍事力を叩かなければ自国の安全が脅かされるという理由から、対米戦争のような大緊急時に日本の軍事要点を攻撃する可能性は、かなりありうるとみておくべきである。特に原潜基地・飛行場・ミサイル基地等は、場合によっては核攻撃の対象ともなろう。この意味での「侵略」の蓋然性は、まさに日本が日米安保等により、攻撃能力のある基地体制を有するが故であって、それを防ぐ最良の方法は、米 軍基地や攻撃的兵器を廃棄することではないだろうか。p 158~159)

2022年6月4日土曜日

「基地国家」から「平和国家」へ

 日本国憲法の本質を見事に表現した言葉に出会った。日本国憲法は、①国民主権、②基本的人権の尊重③平和主義の三つを基本原理としているが、「この3本柱は、私たちが個人の尊厳を守りながら自由に生きていくことを保障して」(松井久子・映画監督、『赤旗』、2022年6月3日)いる、という言葉だ。憲法は、国家権力に縛りをかけるものだ、ということもある。その場合もまた、日本国憲法の基本原理を国家権力に守らせ、「私たちが個人の尊厳を守りながら自由に生きることを保障して」いることになる。
 松井さんは、「日米安保条約のもと、沖縄に米軍基地を押しつけ、いまだに『基地国家』にしたまま」(上同)と言っているが、考えてみれば、米軍基地の「存在そのもの」が、日本国憲法の基本原理の一つである平和主義を侵食していることになる。だからこそ、基地周囲の人々の尊厳と自由が侵され、かつ、軍事費拡大に伴う社会保障費の減額が続き、個人の尊厳を圧迫し続けている。
 ロシアによるウクライナ侵略後、戦争の危険性が一気に高まってきていると言っても過言ではない。こんな時期だからこそ、原則に立ち返り、「基地国家」から「平和国家」への転換を図らなくてはいけない。その方向性も、松井さんが示してくれた。

「私たちは戦争はしません」と宣言していく平和外交こそが、よっぽど日本の存在価値を高めると思います。 日米同盟から手を引き、独立自尊の「平和国家」になれば、堂々と世界に平和を訴えていける。(上同)

 核兵器禁止条約に対しても、日本は背を向けている。 独立自尊の「平和国家」になって核兵器禁止条約を批准し、日本も率先して核兵器の禁止に向けた取り組みをしていけば、世界もだいぶ明るくなるのではないだろうか。

2022年6月3日金曜日

韓国語を学べる県立対馬高校

 朝日新聞夕刊(2022年6月2日)に「日韓の未来育む島 留学や就職夢見る日々」という韓国語を学べる県立対馬高校の紹介記事が載った。その記事を読み、韓国語も学べる公立高校があることを、初めて知った。早速ネットで調べてみたら、カリキュラムまで紹介されていた。
 文部科学省によると、英語以外の外国語科目の設置状況は、1999年は131校だったが、2018年5月時点では、韓国・朝鮮語の科目を設置している高校は全国に342校に増え、中国語に次いで多いという。全国の公立高校の数は3522校なので、約1割の高校で、韓国語も学んでいることになる。
 考えてみたら、相手国の語学を学ぶことは効果的な友好の証になるに違いない。語学を学ぶことは、その国を知る最も有効な手段になるからだ。さらに、相手国を知りたいという意欲は、友好の再一歩である。
 もし、もっと多くの高校で、あるいは中学でも韓国語や中国語を学ぼうということになったら、中国や韓国にとっても好印象になるはずである。そのためには、友好関係を築こうという意思が前提になる。この前提の上に、学校でも、もっと隣国の言葉を積極的に学ぶようにしていきたいものである。

2022年6月2日木曜日

物事に階層性を見出すということ

 自然界に階層性があるように、社会にも階層性があるのではないか、と「「人間優先の市場原理」に!」に、昨日書いた。このような文章を書いたからか、6月1日放送の連続テレビ小説「ちむどんどん(38)」の中に、これも階層性だろうか、と思えた会話があった。
 暢子は、新聞社の上司に次のように諭される。
 料理も新聞記事と同じ、一番食べてもらいたい人を思い浮かべて、その人のために料理を作るだろう。
 新聞も一番伝えたい誰かに向かって書く。
 今この記事を、この思いを誰に伝えたいか。
 それが一番大事。
 その頃沖縄では、歌子が歌手のオーディションを受けていた。しかし、上がってしまい、歌えなくなってしまう。
 幸福にも休憩をもらった歌子は、電話で暢子に相談する。そこで暢子は、先輩に諭された言葉で歌子を次のように励ます。
 歌も料理も同じ
 この料理を誰に食べてもらいたいのか。
 それが一番大事。
 歌も同じ。
 一番聞いてもらいたい人を思い浮かべて、その人のために歌うの。
 わかった?
 ここで、「料理をする」「記事を書く」「歌う」という三者には、「思いを伝える」という共通項があった。この場合、「思いを伝える」は、「料理をする」や「記事を書く」「歌う」の上位概念になる。ゆえに、ここには階層性があると考えていいのではないだろうか。このことから、物事に階層性が見えてくると、その物事を深く理解できるようになる、と言えそうである。

2022年6月1日水曜日

「人間優先の市場原理」に!

 新自由主義と言われるようになったが、早い話、「効率優先の市場原理」というものである。最近のことで言えば、コロナウイルスが真っ盛りの頃、保健所が大変だった。こんなところにも「効率優先の市場原理」というものが働いた結果、いつの間にか統合されたり廃止されたりして保健所が少なくなっていたからだ。
 効率優先と言えば聞えはいいが、人命軽視の側面が隠されているだけである。その点、同じ市場原理に基づく「ブラック企業」とか「死の商人」は分かりやすい。にもかかわらず、問題視されて解決する気配は全くない。逆に、ロシアによるウクライナ侵略に見られるように、市場原理の力が増大してきているといえよう。なぜか?
 一つ考えられることは、問題が多様化し、本質が見えにくくなってきていることである。それゆえ、個々の問題に振り回されることなく「本質を見極める目」を持たなくてはいけない。どういうことか。それは、多様な問題に共通する原因を明らかにすることである。その問題を解決すれば、多くの多様な問題も同時に解決されるような問題である。
 自然界には階層性というものがある。例えば、ヒト科の上位概念が哺乳類で、哺乳類の上位概念は動物である。社会にも同じような階層性が存在し、問題にも、上位のものと下位のものに分類されると思うのだ。より本質的なものほど上位の概念なる。問題をこのように捉えていかないと、頭は混乱するばかりで、問題は一向に解決されないことになる。
 最近になって、また資本論などの社会科学に関心を抱くようになったのも、「社会に貫いていると思われる法則的なもの」をしっかりと見極めたいという欲求からである。個々の問題を考えつつも、より本源的な問題も考えていきたい、ということだ。そして、
「効率優先の市場原理」でなく「人間優先の市場原理」というものを模索していきたい。