中国とアメリカを「未成熟で『粗野』な『覇権』」とか「成熟し経験済みの『覇権』」といった曖昧な言葉で比較しているのも問題だが、例え「成熟し経験済みの『覇権』」というものがあったとしても、所詮、覇権主義は覇権主義である。故に、覇権主義の仲間になるということは、自らも覇権主義国家になることを意味する。しかも、その傘下に入ることで、早い話が子分になること、下部になることでもある。それでいいのだろうか。
決していい選択ではない。国家間の真のあり方は「相互互恵」の関係であろう。日本国憲法の精神は、そういうものである。したがって、「文明の衝突」を避けられない現実として捉えるのではなく、国家の意思として、「相互互恵」を旗印にした<「文明の衝突」を避ける外交>を展開していくべきなのである。
とりわけ近年の中国が、経済の発展が減速し始める中で突出した軍事増強路線を続けており、共産党の独裁体制が続く限り、どうしても性急なナショナリズムやアジアの覇権に手を伸ばそうとする志向はなくならないことがはっきりしてきた。日本にとっては、同じ”覇権主義"であっても、このような未成熟で「粗野」な「覇権」よりも、アメリカの成熟し経験済みの「覇権」の方が、誰が見ても相対的には好ましいはずである。しかし、そのとき、「日本はアジアの友を見捨て、西欧の味方をするのか」という、元来誤ってはいるが、どうしても"直き心"あるいは「実直なる日本人」(司馬遼太郎氏の表現)の心の琴線に触れる問いかけが起るかもしれない。しかしこれに対しても、日本人が自信をもって返答でき、文明のアイデンティティと大きな国益が両立する「日本の選択」のあり方を示唆している点で、ハンチントンの示す道は、二十一世紀に入っても当面、日本人にとり大きな意義をもつものであることは間違いないであろう。『文明の衝突と21世紀の日本』、サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳、集英社新書、2000年、p205)
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