2022年12月6日火曜日

政治世界像の再構成ということ

 政治というものは、政治家の仕事だという認識だった。だが、我々一般市民にとって”もっと身近な存在”だった。それだけでなく、私が日頃考えていたこと、政治に倫理を持ってこなければという思いが、「政治とはつねに倫理と結びついた形で展開するべし」と、政治学者の言葉として聞かれ、大いに励まされた。
 さらに、「生活の質がどうしても問題にならざるをえなくなって、はじめて政治として発動された人間のいとなみとしての政治」が問題になり、「統治のための権力が、人間のための権力として始原的に考え直されるようになったいま、権力による政治世界像が再構成されようとしている」という。”政治世界像の再構成”なんて考えたこともなかったが、社会科学の中に、身近な政治の世界像というものを、倫理と結びついた政治というものを構築したいものである。探したいと言った方が良いかもしれない。
 アメリカでの六〇年安保は、丸山先生が政治の選択として『政治の世界』のなかで〈戦争か革命か〉と提示した状況を私に考えさせるよすがになったが、私に〈選択〉をもっとも痛烈に突きつけたのは、大学紛争だったというべきである。もちろん、そこでの選択は、体制か反体制か、というものではなく、政治とはつねに倫理と結びついた形で展開するべし、というポイントにかかわる、というぎりぎりの思い方である。それこそ、生活としての政治につながってゆくことがらである。
 この生活としての政治を、私は政治を事件につなげる発想を拒否することで考えねばならなかった。民主主義とは、まさしく、日常的に行なわれる人間のもっともありのままの表現だとすれば、民主主義とは、〈民主主義を支える私情〉といったものに拠るほかはない。この私情は、必ずしも意識とか認識とか、あるいは組織によってかき立てられるものでなく、まったくの日常生活の平和な維持への感覚に支えられている。
 丸山先生の政治世界には、民主主義が抽象的政治理念としては世界中でゆるぎない正当性を認められるようになった時代において、民主主義の当の担い手である一般民衆が、政治的無関心と冷淡さを増してゆく状況を、いたましいバラドックス〉とみる姿勢が一貫している。しかし、このパラドックスは、安定を重大とした豊かな民主主義ではいかにしても解決できないたぐいのものであった。
 人間が人間であろうとしなければならなくなったのは、豊かさそのものが問い直されねばならない環境の変化をもって契機としている。それは生活の質がどうしても問題にならざるをえなくなって、はじめて政治として発動された人間のいとなみとしての政治である。統治のための権力が、人間のための権力として始原的に考え直されるようになったいま、権力による政治世界像が再構成されようとしているのである。それは、丸山先生が考えられた、もう一つの政治の世界だったのではないか。(『いのちの民主主義を求めて』、内山秀夫著、影書房、2015年、p13)

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