そして、この紹介文で、初めて「ブラトンの饗宴」という絵の存在を知ったし、この絵の雰囲気から滲み出てくる哲学のイメージを感じることができた。哲学は、一応名詞だが、「哲学する」という動詞に近いのではないか、と、そんな感想も抱くことができた。
ブラトンのこの書(『饗宴』のこと)は我々をある高きものへ引きつける強烈な魅力をもっている。道徳と芸術と宗教と哲学との中核を端的に掴んでみせている。文芸復興期の人々が聖書と共にブラトンを至宝と考えたのはあまりにも当然である。人間を永遠に悩ませ喜ばせる憧憬とか恋愛とかいう気分が秀抜無比な把握力によって解明されている。のみならず、その場面にも、その取扱い方にも、人間味が溢れている。(「書斎漫筆」『九鬼周造随筆集』、菅野昭正編、岩波書店 、1991年、p50)
私は力ールスルーエとベルリンとで見たフォイエルバッハの「ブラトンの饗宴」という、画因の同じな、二つの美しい絵を思い出さずにはいられない。夜は深更である。ソクラテスは燈火のかげに高選な横顔を見せて下を向きながら静かに語っている。弟子達は立ったり坐ったり寝ころんだりして聞いている。月桂冠を戴いた主は盃をって新来の客を迎えている。酔っぱらって半裸体になったアルが数人の美しい白拍子に取巻かれて戸口から入ってくる。子供が笛を吹いたり花を撒いたりしている。ソクラテスは愛と美と真と善とを語りながら酒盃を交わして夜を明かしたのである。あんな自由な気もちで何ものにも囚われず、絢爛にしかも重厚に、哲学することが今日は何故に跡を絶ったのか。たまたまそれをする者があれば何故世人は異端視するのであろうか。(同上、p50~51)

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