2022年10月22日土曜日

フッサールへの興味

  フッサールという名前だけは聞いたことがある。その程度の理解だった。しかし、『歴史と哲学の対話』(西研・竹田青嗣・本郷和人著、講談社、2013年)の中でフッサールの言葉を見つけ、一気にフッサールへの興味が湧いてきた。次のような言葉である。

 僕らはたえず他者と言葉をかわし、ふるまいあいながら、この他者も自分も同じ世界を生きている、と確かめあって生きています。(中略)
 このように、ふるまいによって、さらに人間どうしの場合には言葉の交換によっても、「ほかの人と同じ世界に生きているという信憑」をたえず僕らは再生産しているわけです。この信憑を〈世界信憑〉とフッサールは呼んでいますが、この世界信憑が実証科学の一番根っこにある。(『歴史と哲学の対話』、p 22〜23)

 ここで語っているのは、実証科学の根底にある思想だが、実証科学のみならず、これから益々求められている”共生の哲学”にとっても欠かせない思想的な基盤になるのではないだろうか。
 さらに言えば、次のフッサール言葉は、「大抵の人はそんなことはなく生きてこれた」と言って、注目されないようだが、私から言わせると、今のウクライナの現実を考えると、まさにフッサールの予言通りに思えてくる。だからこそ、フッサールの言葉にもっと注目してみたいものである。
 今のところ、『厳密な学としての哲学』(エドモンド・フッサール著、岩波書店、1976年)や、『現象学と人間性の危機』(E.フッサ-ル・A.ティミエニエツカ著 、御茶の水書房、1983年)に目を通してみたい。

 フッサールは、これまでつくりあげてきた「共有された世界の信憑」が三〇秒後に全部崩れてしまう――すべての現象がバラバラになってしまう―ーということも「論理的には」考えられる、と言っていますが、幸いなことに(笑)大抵の人はそんなことはなく生きてこれたわけですね。(『歴史と哲学の対話』、p 22)

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