2022年11月13日日曜日

”溺読”という精読

 速読に対し、精読という言葉がある。ところが、”溺読”という精読に勝る言葉を見つけた。「愛読書を持っていて、これを溺読するという事は、なかなか馬鹿にならないことで、広く浅く読書していられないものが深く狭い読書から得られる」(『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』、小林秀雄著、新潮社、2007年、p52〜53)というのだ。その実践例を土井善晴の読書に見ることができた。要は、自らの「血肉になる」ほどに読み込むこと、読んでは考え、考えては読むことである。
 前に、座右の書というものもあるが、「溺読できた」と言えるような本に出会いたいものである。そのためにも、書き込みを入れながらも、丁寧に読み込む読書というものも、続けていきたい。まず初めに何を選ぶか、だが・・・。

「目に留まった文章は、流すのではなく、必ずそのページに自らの気づきや疑問、
新たな着想などを書き込む。読み込みが深まっていくほどに、ベージは細かな
メモ書きでびっしりと埋め尽くされ、ぽろぽろの状態に。読書から得たものを
考え尽くすことが、『一汁一菜でよいという提案」に代表される、土井の料理
哲学をつくり出している」(『別冊太陽:土井善晴』より)。
『魯山人著 作集』を手に入れ、料理や美術、物の見方まで、魯山人に師事したと言えるほど、読み込んできました。後で読み返した時、『魯山人が自分と同じことを考えている!』と驚くことがあるのですが、よく考えたら 『かつてこの本を読み、自分の中に残ったものを、まるで自分自身が考え出したことのように感じてしまっているんだな』と我に返ります。それくらい、血肉になってしまっている(『別冊太陽:土井善晴』、平凡社、2022年、p124)


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