2022年11月7日月曜日

人生の幸福は美術品のようなもの

 ユニークな幸福論を、しかも簡潔な文章で展開された幸福論を見つけた。この「幸福の原則」という文章の要点は、”仲良し”である。仲間がいて仲良く生きる、これに尽きるような気がした。武者小路実篤の言葉に、同じような仲間を賛美したものがあったような気がしたので、今度探してみるが、国家間であれ、幸福の原則は同じだ。だからであろう。「幸福の原則」は、「幸福なる国家の創造」という章の中の一節だった。
幸福の原則
 万人が幸福を追求して、然もその実現に困難を感じ、それを求むるに失敗がちな訳は何であるかといへば、多くの人は幸福と云ふものを自己本位のものとのみ考へ、従って自分のためにのみそれを見出そうと焦って居る所にる。
 私は人生の幸福といふものは、丁度、美術品のようなものだと常に考へて居る。美術品が美しく人に愛好される訳は、その形成する種々な物体や色彩が各々其所を得て正しく配合され、調和されたところの微妙な表現と、其表現が人間の心に與へる快感と感化の力を持って居るからである。そして調子はづれした点があっては、美を欠いてしまふものである。人生の幸福も人間の社会生活に調和せぬ孤独の生活からは得らるものではない。
 幸福は人間が社会的動物である以上、人間相互間の正しい調和があって、初めて存在するもので、彼幸福の方便である所の富も、社会の人々が各々その職分を忠実に守り、協同一致して働き合ふ所から生じて来るものである。つまり幸福は相対的のものである。そしてこの相対関係が益々正しく調和して行くに連れて、その愉快の度も増すのである。
 卑近な例を舉げると、幸福はテニスをする愉快の如きもので、相手無くしては得られぬものである。テニスの競技から得られる最大なる愉快は、相手同志の腕前が可成り調和し且つ常に公正なる仕合、即ちフェアプレーをお互いがすることによって、初めて求められるものである。余り力に隔りがあったり、或はダーテイ・プレー(不正な仕合)をすると、その競技から、自他共に愉快を感ずる訳には行かない。(『武藤山治全集 6』、武藤山治著、新樹社、1965年、p126〜127、新漢字にしたりや改行を加えたりして読みやすくして紹介する)

0 件のコメント:

コメントを投稿