勝ち目がないとわかっても、戦争を続けたのは、「一蓮托生」といった無責任な感情が働いたのだろうか。それとも、どんなに負け込んでも勝ち目がないと思えずに、きっと勝つ、と信じ続けたのだろうか。原爆を落とされても、徹底抗戦を主張していた人たちがいたことを思うと、その心理は計り知れない。そこまで理解できないと、真の戦争の姿がわからないのかもしれない。
なにしろ、ミミコは小学校一年生から六年生まで一足の靴をがまんしてはいて通学したという有名なエピソードが残っています。
そのミミコが生まれた年の八月に、バクさん一家は東京吉祥寺の金子光晴の家に二ヵ月程同居しました。すでに日本は一九四三年二月にガダルカナル島撤退を開始し、敗戦過程に向かっていました。そして、一九四四年の六月に米軍はサイパン島へ上陸し、七月には日本軍の守備隊は玉砕しました。八月になると、各地で竹槍訓練が始まりました。十月になると米軍のB29による北九州への空襲が始まり、東京空襲の危機がひしひしと押し寄せてきたのです。
同年の十月十日に、米機動部隊は沖縄空襲を行ない、那覇の町は破壊されました。そのときに貘の生家も炎上してなくなりました。この「十・十空襲」と呼ばれた那覇空襲の知らせを聞いて、貘は「ナーファ。/ナーファがやられたんだとおもうと、めしもなかなか、のどから落ちなかった。」今「那覇人」)と書いています。(『僕は文明をかなしんだ:沖縄詩人山之口貘の世界』、高良勉著、弥生書房、1997年、p128)
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