ジャーナリストの立花隆さん、研究者の立花隆さんというイメージが強かったが、意外にも行動の人でもあった。なんと、「被爆国として原爆の実態について世界で訴えたいと願い、友人と二人で『原水爆禁止世界アッピール運動推進委員会』を結成」し、国際会議に参加を実現させ、平和行進に参加していたのだ。二人で初めたというのに驚いたが、行動力に頭が下がった。
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(「『立花隆:最後に語り伝えたいこと』、p31」より) |
立花が東京大学に入学したのは一九五九年。被爆国として原爆の実態について世界で訴えたいと願い、友人と二人で「原水爆禁止世界アッピール運動推進委員会」を結成する。広島で開かれていた原水禁世界大会に二人で出かけ、大会に参加していた世界の代表団に対し、広島、長崎の惨状を世界に訴えたい。ついては旅費などについて支援してもらいたい―-と要望してまわった。そんな彼だが、彼だからこそ、というべきかもしれないが「みんないろいろ考えて、いろんな挑戦をするでしょう。でも、大体失敗します。思ったことなんて決して実現しないと思った方がいい。それでも、想いが強ければ、トライすべきなんです」(上同、p32)と述べ、長い人生で学ぶべきこと」として、学ぶべきこと」として、1、有効性を求めすぎてはいけない。2、運動なんて99.9%は負け戦。3、あきらめずに負け続ける。4、継続こそ力。をあげていた。
この要望を受け、一九六〇年にCNDから連絡があり、「国際学生青年核軍縮会議」に参加してほしいという招待が舞い込むことになる。ロンドン到着後の費用などはCNDが工面してくれることになったものの、日本からロンドンに行くための資金がない。このため、立花はさまざまな団体に呼びかけ、資金援助を募る。この活動がマスコミに取り上げられたこともあって、立花らは国際会議への参加を実現することができた。立花らは現地で「オルダーマストン・マーチ」にも参加している。(『立花隆:最後に語り伝えたいこと:大江健三郎との対話と長崎大学の講演』、立花隆著、中央公論新社、p30)
確かに、多くの人々が「あきらめずに負け続け」てきたからこそ、核兵器禁止条約も成立したと言える。それでも、肝心の日本政府は、まだ批准していない。そんなとき、「批准するまであきらめなければいい」と思えるようになった。また、考えようによっては、反戦運動など、「99.9%は負け戦」であったことは間違いない。それでも、世界の反戦運動はトライし続けてきたし、これからもトライし続けられるに違いない。
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