驚いた。吉原あげて憲法発布のお祝いに参加したというのだ。憲法発布と言っても、学者などの一部の人々は歓迎したであろうことは想像できたが、国民レベルで歓迎したのかもしれない。「吉原の思い出噺」(『改造』、1950年3月号、p138)で、「二十三年の憲法発布のときのお祝いで、あのときばかりは、えらい騒ぎでしたよ」と、次のように述懐していたのである。
いま思い出しましても、御治世が、一時にぱーっとあかるくなるやうなよろこびがわいてきたのは、二十三年の憲法発布のときのお祝いで、あのときばかりは、えらい騒ぎでしたよ。二月十日には日比谷公園へ、十一日には上野へ山車の先々についてゆきましたが、その賑やかさ、物心ついてからあんなことは初めてでした。なにしろ、吉原あげての長い道中で、おそらくあんなことは、前にも後にもないことと思います。
このような事実を知ると、改憲論者が盛んに流布してきた「押しつけ論」が如何に現実にそぐわない論法であることがわかる。当時の華やかさがわかる後半部分も紹介しておく。
角海老の花菱太夫さん、品川楼の金爛大夫さんなどは、あの助六芝居に出てくる揚卷太夫そっくり、花魁髷に重々しいまでにでかでかと髪飾りをした厚化粧、金銀の繍のある大巾の帶を前にして、目のさめるやりなあで姿で、新造や太夫衆、やり手、若い衆や女中をぐるりに従えまして、山車に乗ってくり込む景色は、見上げるばかりのきらびゃかさで、ちょっとそばによれないような感じでした。萬華楼ではみんな假装で花魁は黒の揃いの洋服、鳥の毛の橫っちょについた帽子をかぶり、だらりとした長い裾をとり、靴をはいていました。鴇女が、まっくろく顔をぬって黒い洋服をきて、のこのことそのそばについて歩いていましたが、はきつけない靴で、足をいためた人が多勢出ました。
稻元楼のおかみさんは、柳橋の芸者衆からきた、それは粋な人でしたが、ここの抱えの花魁衆は、黒地に稲穂の裾模様の衿に白博多の帶、緋縮緬の長襦袢、素足に吾妻下駄、頭は引髷に笄、細いくづ引きを掛け、うしろに珊瑚樹の一本ざし。太夫衆はたしか五人位でしたが、それがぞろりとそろっての道中は、絵にあるやうな美しさで、そのほかでは、大文字楼、彦太楼などもなかなかきれいでした。
それだけに、廓の中のにぎやかさもまたたいしたもので、おすなおすなの混雑、品川楼などは田舎のお客が多かったので泊りきりで朝まで帰らないので、どの部屋も大満員、寝るところがなくて、お店の帳場から土間の方までお客を入れ、ゴザをしいた上に、六枚屏風をめぐらして寝んでもらったものでした。
お客もみんな假装で道中に加はりました。それがまた多勢いて、その中に、翁屋さんという絆纏をきて、柿色の三尺を横ちょにしめた尾崎徳太郎さんや石橋思案さんなどもまじっていました。尾崎さんは、若い頃から、そういう粋なことのすきな方でした。
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