2021年12月3日金曜日

立花隆:最後に語り伝えたいこと・1

 図書館で、新刊書『立花隆:最後に語り伝えたいこと:大江健三郎との対話と長崎大学の講演』(立花隆著、中央公論新社、2021年)を借りてきた。そこに『アサヒグラフ』に受けた衝撃という項目があって、そこに、『アサヒグラフ』の「原爆被害の初公開」号(1952年8月6日)で立花さんをはじめとして多くの国民に原爆被害の実態が知らされたことを知った。『アサヒグラフ』に受けた衝撃を、「立花は後に、 無残に焼け焦げた少年の死体、顔に被爆した女性の写真、草木1本なくなった焼け野原の写真。あまりにも劇的な体験でした。当時僕は一二歳でした」(p21)と振り返っている。
 早速、『アサヒグラフ』のバックナンバーを検索し、1952年8月6日号に「無残に焼け焦げた少年の死体、顔に被爆した女性の写真」を見つけた。今までいろんな被曝写真を見てきたが、このような無残な、残酷な、形容しようもない写真は初めて見た。写真の添えられていた文章も、生々しいので紹介する。


 この特集を見て、思わず目を薮う人々は多いことであろう。
 しかし、目を薮うことによつて原子爆弾の威力は、いささかも減ずることはない。否、現在の原子爆弾は、広島、長崎の比でないというではないか。
 日本人は不幸にして世界史上、最初の原爆の犠牲者となつた。だが、果して何人の日本人が、その残虐の真実を知つているであろうか。大部分の日本人は抽象的な記述と巨大な茸型の雲の写真などによつてのみ、その残虐さの片鱗を知るだけであった。 これは偏えに占領期間中、あらゆる被害の残虐を伝える報道と写真が厳重に検関され、公表を禁じられていたからに他ならぬ 
 ここに、広島、長崎両市の写真を特集するのは単なる猟奇趣味の為ではない。一編集者の趣味や性向を、はるかに越えた冷厳な事実――即ち歴史が、それを命ずるのである。
 再軍備論の是非は、しばらく措くとしても、すくなくとも 将来の戦争を口にするほどの人は、この特集に見る無残な姿と同じい――いや、それ以上のものが、やがて、我々自身の上にも生起せぬとも限らぬ、その心構えだけは、忘れて貰いたくないのである。(「『アサヒグラフ』、1952年8月6日号」より、写真も)

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