昔から、安らかな死を迎えるためにはどうすればいいか、そんな問いを抱いていました。何故か、死ぬのが怖かったからです。その問いの答えが(正解かどうかは別にして)、ようやくわかりました。それは、少しずつ、身の回りを軽くしていくことで、私たち自身「本来無一物」であること、「永遠に自分のものはない」ことを実感として体得していくことです。死を迎える準備というのは、自分を手放す準備だったのです。下記の言葉から学んだことです。
本来無一物
人はもともと何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいくという意味がある言葉。大切なものを失ってしまっても、それは本来の自分に戻っただけのこと。失う怖さにおびえることも、嘆く必要もないという禅の教えです。『ゆるミニマリストのものの減らし方心の満たし方』、mini著、主婦の友社編集、p4)
少しずつ、狭め、軽くしていく
人間が高齢になって死ぬのは、多分あらゆる関係を絶つということなのである。もちろん一度に絶つのではない。分を知って、少しずつ無理がない程度に、狭め、軽くして行く。身辺整理もその一つだろう。使ってもらえるものは一刻も早く人に上げ、自分が生きるのに基本的に必要なものだけを残す。
人とは別れて行き、植物ともサヨナラをする。それが老年の生き方だ。そうは言っても、まだ窓から木々の緑は眺められ、テレビで花も眺められる。
人とも物とも無理なく別れられるかどうかが知恵の証である。(『老いの冒険』、曽野綾子著、興陽館、2015年、p190)
永遠に自分のものはない
下記のわたしたちが持っているもの――命も、家族も、悲しみも、喜びも、物も、この世とのかかわりも、すべてがやがて時の流れのなかに消えていく。永遠に自分のものであるものなどないのです。爽やかな儚さです。
こういうふうにみんなが認識できれば、何かを得るための争いや犯罪は減るでしょう。得られない苦しみや、失ったときの悲しみも少しはなくなるでしょう。生に対する執着も弱くなって、死への恐怖も薄れるでしょう。
命を含むあらゆるものは、一時的に私たちに貸し出されたものです。わたしたち人間は小心だからこそ、あらゆるものを得た瞬間から、失うときの準備をしておいたほうがいい。弱い自分を救うためにも、わたしはそう思うことにしています。(上同、p191)
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