2023年11月15日水曜日

精神の修練としての哲学

 最近、哲学への関心が高まってきました。『生き方としての哲学 J.カルリエ、A.I.デイヴィッドソンとの対話』(ピエール・アド 著、小黒和子訳、法政大学出版局、2021年)という本を見つけ、その中でプラトンの定句「哲学することは、死への修練である」を紹介していたからです。もともとやがて来るであろう死への不安に、どう備えていいものか頭の隅にあったからかもしれません。
 この本には「精神の修練としての哲学」という章もあって、修練について次のように語っています。

 個人的には私は精神の修練を、個人の変化、自己の変容を目指した意志的で個人的な行為であると、定義したいと思います。ジャン=ピエール・ヴェルナンとルイ・ジェルネはその例となりうる二つの手本を示しました。もうひとつの例は、これもまた古いものですが、人生の困難に備えるもので、ストア派にとっては貴重とされるものでした。病気、貧困、追放などの運命の転変に耐えるには、そうした機会がありうることを考えて準備しなければならない。覚悟していたものはより容易に耐えられるのです。(p151、強調は引用者)

 さらに、「修練とは実際には哲学全体であって、それは教育的言述であると同時に、われわれの行動の指針となる内面的理念でもあるのです」(p152)。だから、哲学全体が興味の対象になります。しかし、それではあまりにも対象が広すぎます。ゆえに、対象を絞って、『生き方としての哲学』、ショーペンハウエルやカントの哲学を学びの対象にしたいと考えてみました。

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