実践というと、物を作ったり、人に物を売ったりすることで肉体労働に対応すると思っていました。しかし、研究などの知的労働も、立派な実践であることを知りました。というのは、
われわれが純粋な理論(傍点部分)つまり抽象と考えることは、その表明の形式におけると同様にその目的性において実践(傍点部分)であるということだからです。プラトンが対話篇を書いたとき、アリストテレスが講義をしてその講義録を公けにしたとき、エピクロスが書簡をまとめその複雑で長い自然論を起草したとき —— 不運なことにそれはヘルクラネウムで発見された小片群の形で断片的にしか残っていないのですが —— これらいずれの場合も、哲学者が一つの学説を展開していることは確かです。(『生き方としての哲学 : J.カルリエ, A.I.デイヴィッドソンとの対話 』、ピエール・アド著、小黒和子訳、法政大学出版局,、2021年、p152)このことは何を意味するのでしょうか。
いくら読書などを通して材料を集めても、それだけでは実践にならない、というよりも、実践が完結しないことを意味します。読書とかスクラップなどは、実践の一過程でしかない、ということです。一つの学説なり論文の形に仕上げて初めて、実践と言えるのです。新しいものを創り出す、という意味を考えれば、一つの知的労働ということもできます。このような実践を知的実践と名づけてはどうでしょうか。
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