2022年3月28日月曜日

古典を読むべし

 向坂逸郎さんの「古典を読むべし」を読んで、思わず「素晴らしい!」という独り言を発してしまった。古典というものの評価の素晴らしさもさることながら、その「評価に貫かれている進歩史観」に心を打たれてしまった。ややもすると、進歩史観を疑問視する風潮も散見するが、人間の本質的な傾向として、進歩を欲し、進歩をめざすものである。怠惰が苦痛であること一つとっても、その証明と言えよう。人は、苦痛から何が何でも逃れようとする。だから、怠惰から脱出するには進歩の方へ前進するしかない。そうして人は、ジグザクの過程はあっても進歩し成長するものである。人間の集団である社会も同じである。古典には、そのための良きエネルギーが含まれているという。「古典を読むべし」である。
 蔵書に、遠山啓著『古典との再会』があることを思い出し、パラパラめくってみた。ゲーテの『ファウスト』に言及しているところで、『ファウスト』は「有名な本だけあって、ほかの多くの本に引用されている。その断片的な引用箇所を読んでいくとひじょうにすばらしい、こんな箇所があったのかと驚いて原本を読みな返してみる」(p 53)とあって、同じような読書体験をしているものだ、と、改めて、すぐれた本は「書物の断片だけ」でも価値があることを再認識できた。 

 古典は、つねに進歩的なものである。それは、つねに歴史の進歩的な局面に進歩の役割をはたしたものであるからである。だから、その古典を人類の進歩の他の局面で、形をかえて進歩の役割を演じさせることができる。そのために、古典を読むことの意味が生じる。このように、古典はつねにわれわれの進歩のための努力を鼓舞するように読むことのできるものである。古典は、だから、われわれの社会の進歩のための活動の精神的エネルギーになるだけでなく、われわれ個人の進歩の心の糧でもある。社会なり、その中に生きている個人なりを向上させてやまぬものが、古典である。古典は、つねに、激しく社会が進歩する時代に、その場面を表現して生まれてくるものであるからである。だから、古典を読むのは、 もう古びてしまって過去のよさや思い出を語るものとしてではなく、われわれの「明日」のためにするのである。われわれ今日や明日の生活の中に生きないものは、古典ではない。(「古典を読むべし」読書は喜び』、向坂逸郎著新潮社、1977年、p29〜30)

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