蔵書に、遠山啓著『古典との再会』があることを思い出し、パラパラめくってみた。ゲーテの『ファウスト』に言及しているところで、『ファウスト』は「有名な本だけあって、ほかの多くの本に引用されている。その断片的な引用箇所を読んでいくとひじょうにすばらしい、こんな箇所があったのかと驚いて原本を読みな返してみる」(p 53)とあって、同じような読書体験をしているものだ、と、改めて、すぐれた本は「書物の断片だけ」でも価値があることを再認識できた。
古典は、つねに進歩的なものである。それは、つねに歴史の進歩的な局面に進歩の役割をはたしたものであるからである。だから、その古典を人類の進歩の他の局面で、形をかえて進歩の役割を演じさせることができる。そのために、古典を読むことの意味が生じる。このように、古典はつねにわれわれの進歩のための努力を鼓舞するように読むことのできるものである。古典は、だから、われわれの社会の進歩のための活動の精神的エネルギーになるだけでなく、われわれ個人の進歩の心の糧でもある。社会なり、その中に生きている個人なりを向上させてやまぬものが、古典である。古典は、つねに、激しく社会が進歩する時代に、その場面を表現して生まれてくるものであるからである。だから、古典を読むのは、 もう古びてしまって過去のよさや思い出を語るものとしてではなく、われわれの「明日」のためにするのである。われわれ今日や明日の生活の中に生きないものは、古典ではない。(「古典を読むべし」『読書は喜び』、向坂逸郎著、新潮社、1977年、p29〜30)
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