2022年3月29日火曜日

『資本論』再読への刺激

 昨日書いた「古典を読むべし」(『読書は喜び』、向坂逸郎著、新潮社、1977年)で、まず『資本論』の紹介があった。なんと、この本は、「ただの経済学の書であるだけでなく、人生の書である」という。これまで何度か『資本論』に挑戦して挫折してきたが、このような『資本論』の紹介は、初めてだ。続けていう。「人間の動く様が、資本主義というわれわれの生きている社会の中で示されている。人間の動く様という中には、自分自身も入っている。だから『資本論』は、われわれ自身の理論的自伝といっていいものである。そこには、深奥に達する人間洞察がふくまれている」(p30)このところを読んだだけで、向坂逸郎訳の『資本論』を読んでみたい、今持っている新訳『資本論』や、大内兵衛訳『資本論』の違いに注意しながら読んでみたい、と思うようになった。
 『資本論』は「人生の書」とあったが、このことに関し、詳しい説明があった。「『資本論』はむずかしい本であるに違いない。 しかし、資本主義とその歴史的発展の運動法則を明らかにする行間に、彼の痛烈な皮肉や比喩や罵倒がとめどなく出てくる。古今の哲学者、自然科学者を始め、ダンテ、セルバンテス、シェイクスピア、ゲーテ、ハイネ、バルザック、それにバイブル等々からの意味深い引用。そこで読者はいきぬきができ広い視野で、人生を考えることができる」(
『読書は喜び』、p 46)。こんな読み方もあるのか、と感心し、このことも、『資本論』再読への刺激になった。
 『資本論』再読への刺激と言えば、もう一つあった。『資本論』は、マルクスが、それこそ「心血を注いで書き上げたもの」ということだ。芸術作品も、心血を注いだ作品は「作品に作者の魂」がのり移っていると言われることがある。『資本論』も、芸術作品を鑑賞するような読み方があってもいい、と思う。『資本論』がどのように書かれたか、その一端を紹介すると、次のようだったという。やはり、何年かかっても、じっくり読んでみたい本である。

 彼が『資本論』を書くために読んだ本の数は大変なものである。また、彼がこのために費やした思索の時間はきわめて長い。彼は毎日八時間位大英博物館で費やした時代もある。彼の書斎のじゅうたんには、彼が考えながら歩くために、兎の路のように足あとがついてしまったといわれている。マルクスの女婿ラファルグのいう所によると、若い頃の彼は昼の他に夜を徹して仕事をすることもまれでなかった。・・・・・。(上同、p 37)

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